平成17年 法華講夏期講習会

信仰実践演習 信心の歓喜(よろこび)

テキスト 25〜38ページ


篤姫の関する記述は第4節です。


はじめに

法華経『方便品』のなかに、「如来能種種分別。巧説諸法。言辞柔軟。悦可衆心。(如来は能く種々に分別し、巧みに諸法を説き、言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ)」と説かれている。これは、仏は優しく穏やかな言葉をもって、人々を悦ばせるという意味である。

末法御出現の御本仏日蓮大聖人は、御書のなかで、末法の衆生を済するために種々御教示されている。私たちがその御教示のままに実践していくならば、必ず大功徳に浴し、生命に歓喜が満ちて、人生を力強く歩むことができる。どんなに厳しい状況にあっても、御本尊に唱題するなかでそれをすべて喜びに変える、それが信仰の極意であり、「悦可衆心(えっかしゅうしん)」の人生である。

今、宗門は、平成21年の大佳節に向かって御命題成就のために力強く前進している。その達成を確実なものにするためにはどうすれば良いか。それは、地涌の流類(るるい)としての自覚と誇りと喜びを持って、それぞれの支部が本年掲げた折伏誓願目標を立派に完遂することである。


一、世法の喜び

法句譬喩経(法喩経)第二十四の『好喜品』には、次のようなことが説かれている。

印度のある国の大王が隣国の4人の王を招待して、一カ月にわたって連日晩餐会を開き、盛りだくさんの料理・酒・音楽・舞踊などをさまざまに振る舞ったのである。その後、それぞれの王に「あなた方の生きがいや喜びは何ですか」と尋ねた。

一人目の王は「とにかく遊ぶことです」といい、二人目の王は「美味しい御馳走を一杯食べて団らんの機会を持つことです」といい、三人目の王は「お金や財宝を集めて気ままに生きることです」といい、四人目の王は「愛欲の限りを尽くして楽しく生活することです」とそれぞれ答えたのである。

これら4人の王の答えを聞いた大王は、「私はあなた方にすべての願いを叶えてあげましたが、その結果、今どういう気持ちですか」と尋ねると4人の王は「もうすっかり疲れ果て、何も要りません。音楽も酒も飽きてしまいました」と答えた。つまり、そこにあったのは、憂い・苦悩・悲哀・倦怠感であった。

そこで大王は「あなた方が望んでいたものは、たしかに人生における楽しみみや喜びであるかもしれない。しかし、これらは一時的なもので、最終的にはいま味わっているように憂いや苦悩、倦怠感のなかに陥るものです」と諭された。つまり、人間が五欲(色・声・香・味・触)の趣くままに追い求める快楽や地位や名誉というものは、真の喜び、幸せにはつながらないということである。


二、信心の歓喜

総本山第26世日寛上人は、

此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用有り。故に暫(しばら)くも此本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざる無く、罪として滅せざる無く、福として来たらざる無く、理として顕れざる無きなり。(観心本尊抄文段上 御書文段189ページ)

と、素直な信心をもって唱題に励む人は祈りが叶い、福徳が積まれる等、大きな歓喜につながることを御指南されている。

ところが、いくら信心をしているといっても、その歓喜がだんだんと薄れてきたり、信心の取り違えによって、信心そのものが苦痛に感じられてくる場合もある。『法蓮抄』に、

今の法華経の文字は皆生身の仏なり。我等は肉眼なれば文字と見るなり。たとへば餓鬼は恒河(ごうが)を火と見る、人は水と見、天人は甘露と見る。水は一なれども果報に随て見るところ各別なり。(御書819ページ)
と説かれているように、同じものを見ても、境界の違いによって価値観に種々の違いが生じてくるのである。

『法華題目抄』に、

謗法と申すは違背の義なり。随喜と申すは随順の義なり。(御書221ページ)
と説かれている。仏に背いた謗法の心からは真の信仰の歓喜は生じない。仏の教えにしたがってこそ、信仰の歓喜が生ずるのである。ゆえに、御法主日顕上人猊下は、「お題目を唱える功徳によって、過去遠々劫の謗法罪障を消滅し、心と身体が本当に清浄になり、自然と喜びと安楽の境界になっていくのです」(大日蓮H8年1月号42ページ)とも、「『南無妙法蓮華経と唱ふるより外の遊楽なきなり』という大聖人様の御指南をかみしめていただいて、お題目を唱えることこそ一番の楽しみであり、喜びであるということを真に感じていただきたいと思うのです」(同)と御指南されている。

私たちは、題目を唱えられることが何よりもありがたく、一番の楽しみであり、喜びであると感じられるような信心を貫いていきたい。


三、仏天の加護

仏天の加護とは、仏の加護と諸天善神の加護のことである。ここ十年の間に、日本はもとより世界中でも大災害が頻発し、多くの方々が甚大な被害を受け、犠牲となっている。しかし、阪神淡路大震災・集集大地震(台湾中部で発生)・新潟中越大地震・スマトラ沖大地震に伴うインド洋の大津波などの災害においては、多くの法華講員が仏天の加護をいただいている。

日蓮大聖人は、

彼等よりもすくなくやみ、すくなく死に候は不思議にをぼへ候。人のすくなき故か。又御信心の強盛なるか。(治病大小権実違目 御書1237ページ)

と示され、仏天の加護が厳然とあることを仰せである。私たちはこの御教示を堅く信じ、より一層、広布への決意に立ち、喜びをもって唱題し、信行増進に励むべきである。正しい信仰者には、こうした災害時のみならず、さらには生活の全般にわたっても、仏天の加護があることを夢寐(むび)にも忘れてはならない。


四、所願成就の歓喜

正しい信行には、必ず所願が成就する一つの例を挙げよう。

いまから150年ほど前・徳川幕府の第13代将軍・家定の御台所で天璋院(てんしょういん)篤姫(あつひめ)という方がおられた。この方は、縁あって日蓮正宗の信徒となり時の御法主上人猊下の御教導のもと、素直に信仰に励まれていた。

当時・日本は「黒船の来航」や江戸を襲った「安政の大地震」など物情騒然としていたため、篤姫の結婚は、将軍の家定を支えていくという大きな役割を担っていた。しかし、一年後に家定は薨去(こうきょ)、さらにその直後にに篤姫の養父であり、大きな後ろ盾であった島津斉彬(なりあきら)も逝去した。また、これと前後して、大老井伊直弼による「安政の大獄」、井伊大老が暗殺された「桜田門外の変」へと、世相の不安はますます増大していった。

さらに、家定亡き後の「後継者の問題」等も含め、大いに心を痛められた篤姫は、世の中の平穏を願って、当時、常泉寺在住の第51世日英上人に御祈念を願い出られた。それを受けられた日英上人は、51日間、一日12時間の唱題行をもって御祈念された。

その結果、篤姫は自らの所願が成就されたことに大変満足し、その年の御会式に、常泉寺と日英上人に、報恩感謝の御供養をされている。これは、日英上人の『時々興記(こうき)留(とどめ)』という御説法の稿本に記されている()。所願を成就するためには、何よりも唱題が大事であることを、日英上人が御自らお示しになられたのである。

日蓮大聖人は『経王殿御返事』に、

あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。御書685〜6ページ)
と、所願成就には御本尊に真剣に唱題することが肝心であることを御教示されている。このように、所願が成就することによって、御本尊への確信と歓喜が生まれ、さらに前進することができる。御本尊にすべてをお任せし、一心不乱に唱題するならば、いかなる宿業も転換でき、願った折伏も必ず成就する。どんな困難があってもあきらめずに、唱題根本に信心を実践することが肝心である。


※前の大将軍温恭院様の御台様、当天璋院様御事。各々の兼ねて伺い及ばるる通り、其の実は薩州齊彬公の姫君にして、御幼名を篤姫君と称し奉る。此の御方不思議の御因縁にて当門流に御帰依遊ばされ、八ヶ年以来、江戸へ御下関の節、京都に於て近衛様の御養女と成らせられて、薩州芝の御館に着御之有り。而して、前の将軍様へ御婚姻相調はせられ、去る辰の年十一月、渋谷の御館より直ちに御台様にて御本丸へ御輿入れ相済み為され、四海波静かにて比翼連理の御契り浅からず、御威勢に在す処、如何の御因縁にや一昨年将軍様には御急病にて御他界遊ばさる。誠に御台様の御愁歎言語に尽くし奉り難く、若君様には御幼年に入り為され、彼れ是れ以て御尊労の中に、去年御炎上の後も何角と御心掛かりの御事共も在らせられ、之に依りて当春三月、厳しく御祈祷申し上ぐべき旨仰せを蒙る。三月十四日より閏三月及び四月五日に至り、都合五十一日、朝は暁七つより五つ時迄、昼は九つ時より夕七つ頃迄、夜は六つ時より四つ時迄、弥よ丹誠を抽し、必至の御祈念申し上げる処に、不思議の御利益を以て追々世上穏やかに相成り、御互いに有り難き事にあらずや。(Wikiより)



五、信心の醍醐味

日蓮大聖人は、

人身は得難く、天上の糸筋の海底の針に貫けるよりも希に、仏法は聞き難くして、一眼の亀の浮木に遇ふよりも難し。今既に得難き人界に生をうけ、値(あ)ひ難き仏教を見聞しつ、今生を黙止(もだし)て又何れの世にか生死を離れ菩提を証すべき。(聖愚問答抄下 御書402ページ)

と御教示されている。つまり、得難き人界に生を受け、値い難き仏法に値いながら、いたずらに日々を送ることほど愚かなことはない、との仰せである。

入信当初は、誰もが直面する悩みや苦しみを乗り越えるために真剣に祈り・唱題をする。その結果、願いが叶い、そこに自ら信心の歓喜と御本仏への報恩感謝の気持ちも涌いてくるのである。ところが、年数が経ってくると、ついつい初心を忘れてそこに安住してしまい、さらなる前進を怠りがちになるものである。日蓮大聖人は、

始めより終はりまで弥(いよいよ)信心をいたすべし。さなくして後悔やあらんずらん。譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり。それを十一日余り歩みを運びて、今一日に成りて歩みをさしをきては、何として都の月をば詠(なが)め侯べき。(新池御書 御書1457ページ)

と御教示である。

私たちが御本尊に巡り値えたのは、ひとえに過去世に積んだ善根によるものであること確信して、常に求道心を持ち続け、生涯にわたって怠りなく信心の歩みを運ぶことが肝要である。それによって、やがて人の幸せのために生きること、折伏を行ずることが人間としての本当の生きがいであり、真の幸せであり、最良の喜びであると感じられる境界へと高まっていくのであり、こうして、いよいよ本物の信心が磨かれていくのである。

南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり。(御義口伝下 御書1801ページ)

との御教示を、しっかりと肝に銘じ、信心の醍醐味を味わっていきたいものである。


六、忍難弘教の歓喜

@弘教の心得

日蓮大聖人は、正しい信心の実践によってその境界を高め、人生における真実の歓喜である一生成仏の大果報を得ると説かれている。

ところで日蓮大聖人は、

菩提心を発(お)こす人は多けれども、退せずして実の道に入る者は少なし。都て凡夫の菩提心は多く悪縁にたぼらかされ、事にふれて移りやすき物なり。(松野殿御返事 御書1048〜9ページ)

と、往々にして信心の持続が難しいのは、悪縁にたぶらかされ、事にふれて移りやすいためであると仰せられている。しかも、信心途上にはさまざまな障魔が現れることを日蓮大聖人は、

此の法門を申すには必ず魔出来すべし。(兄弟抄 御書986ページ)

あるいは、

難来たるを以て安楽と意得べきなり。(御義口伝上 御書1763ページ)

とも、

三障四魔と申す障りいできたれば、賢者はよろこび、愚者は退く。(兵衛志殿御返事 御書1184ページ)

とも御教示である。しかし、難が競い起こった時にこそ、過去世以来の罪障を消滅できる絶好の機会であると心得て、むしろ喜んでそれを乗り越えるべく、一層の唱題に励み、信心に打ち込むことが大切である。


A創価学会破折

折伏の実践には、必ず難があることは経文や御書にお示しのとおりである。特に創価学会員への折伏は、批難・中傷が激しいだけに、なかなか容易なことではない。しかし、この人たちに対しても、慈悲の心をもって、正法に帰依させるべく勇気ある折伏が必要なのである。

御法主日顕上人猊下は、

我々は今日、創価学会によって様々な困難を強いられておりますが、そういう彼等の狂った姿を我々が正しい信心をもって打ち破り、正しく善導していく時が今日であり、そういうところに一人ひとりが当たっておるということを、むしろ心から喜ぶべきと思うのであります。(大日蓮H5年5月号85ページ)

と御指南されている。創価学会の人を善導できるのは、世界広しといえども、私たち日蓮正宗の僧俗のみである。この使命と歓喜をもって、力強く実践すべきである。


おわりに

私たちは、宿縁深厚にして御本尊に巡り値うことができ、血脈付法の御法主日顕上人猊下の御指南のもと、僧俗一致して信行に励んでいるのである。これこそ本宗僧俗の最高の誉れであり、歓喜であり、誇りであると受けとめ、平成21年の正義顕揚750年に向かい、自行化他の信心に徹することこそ大切である。