第1節 バブルの発生とその背景
<プラザ合意>昭和60年頃から『バブル』と呼ばれている、異常な好景気が始まりました。丁度この昭和60年は有名な『プラザ合意』が行われた年でして、それまでアメリカ政府は『ドル』は強い方がいいと考えており、その政策もあって、ドルは日本円などに比べて非常に高い価値を保っておりました。ところが実際のアメリカ経済は相当悪化していましたので、そのドルの価値というのは『見栄っ張り』、つまり無理のし過ぎでした。
「このままではいかん」と思ったのがレーガン大統領で、彼は二期目の政権につくと、少しずつドルを切り下げていきました。この大きな転換点に当たりますのが『プラザ合意』で、「各国が協調してドルの価値を下げていこう」ということが、先進国の間で取り決めされました。
<円高と日本経済への影響>こうして『アメリカのお金』が段々安くなってゆき、相対的に『日本のお金』は高くなっていきました。するとアメリカ人から見ますと日に日に日本の品物の値段が上がってゆくことになります。私も昔缶ジュースが110円に値上がりしたときに、「高くなったなあ」と思いましたけれども、この場合はもっとひどくて円の値段というものは5年間で倍にもなってしまいました。
いまディスカントショップに行きますと、韓国や台湾の電化製品などが非常に安く売られていますが、丁度一昔前のアメリカでは日本製品がそういった感じだったそうです。しかも車だとかビデオカメラですとか、メイドインジャパンはすごく品質が良かった、しかも安い。それで日本はアメリカやヨーロッパにたくさんの製品を輸出して大儲けしておりました。
ところが『プラザ合意』の後は『円高』で、日本の製品は高くなってしまいました。物が良いですから、ある程度までは買ってもらえますが、もう飛ぶようには売れません。それ困ってしまったのが日本の産業界です。売れない品物ばかり作っても余ってしまいますので作れない。すると、やる仕事が無くなってきてしまう。これが『不況』です。もちろん原因は他にも幾つかありましたが、不況風が日本中を吹き抜けて行きました。
<大蔵省のインフレ政策>では『大蔵省』を中心とする政府の対応をみていきましょう。まず一般的に不況対策は、国内に『仕事』を増やさなくてはなりません。ですから政府のセオリーとしては、公共事業の予算を組んで政府は発注の仕事をたくさん作り出す事です。これが景気回復のための起爆剤となります。ところが日本政府には、それまでの放漫経営がたたって、景気対策に十分なお金がありませんでした。というよりも赤字借金がかさんで破産寸前でした。
では大蔵省は結局どうしたのか。当時の大蔵大臣は竹下登で、首相は中曽根安康でしたが、彼らが目を付けた方法とは銀行とか企業といった民間の活力を引き出して、政府はその後押しをしようということでした。具体的には利子率を目一杯引き下げるといった『金融緩和』や、『リゾート法』などに代表される『規制緩和』でした。
私は一連の問題を調べてみるまでは、バブルとは自然発生したものか、もしくは銀行や証券会社といったところで作り出されてたものかと思っておりましたが、実はバブルとは元々は景気対策のために、政府が『金融緩和』や『規制緩和』といった政策で作り出した一種の人工的なインフレで、その取り扱いをあやまって、気が付いたら手に負えなくなっていた、というのが大体の実状のようだと分かりました。
要するにバブルの発生には大蔵省が中心的な役割を果たしていたのですが、ではなぜそこまでして民間に『活』を入れようとしたかと申しますと、不景気で一番困っていたのは、実は当の大蔵省だったのです。それまでの借金体質がたたって、歳出が大幅に歳入を上回るのが恒例となり、待った無しで赤字が累積するなかで、大蔵省は『健全な財政』をモットーとしてはいたものの、折りからの不況で税収が目減りして、ニッチもサッチもいかなくなっていたのです。そこで大蔵省は『日銀』に圧力をかけて、その反対を押し切ってまで、インフレ政策を実行しました。
<株価高騰と大蔵省> 第2節 バブル景気とその崩壊
結果的に大蔵省はバブルのお陰でうるお潤ったのですが、株式市場を例にとって簡単に述べたい思います。背景は前で少し触れましたが、戦後最大といわれた『超低金利政策』です。低金利が続きますと、お金は利子の付かない預貯金から引き出されて、株や貴金属に投資されやすくなる傾向があります。また安くお金を借りられますから、設備投資などの企業の活動は活発になります。このような事が重なりまして、一般に金利が下がりますと株価は上昇致します。また実際にこのとき株価は上り続けておりました。
当時『財テク』という言葉が流行ったのを憶えていらっしゃる方も多いかと存じますが、別にテクニックなど無くても、買えば必ず儲かったのですから、プロもアマもみんな株に走ったわけです。結果、ますます株は値上がりしました。
こうした株ブームの陰で喜んでいたうちの一人が、やっぱり大蔵省でした。NTTやJRの株を売り出すタイミングを見計らっていたのです。現在NTT株は90万円前後で、この辺が適正価格だと言われておりますが、昭和62年11月にバブルを利用して大蔵省は225万円で売却し、10兆円の収入が国庫に入りました。
しかし後に大蔵省がNTT株売却の下ごしらえとして『株価介入』をしていたことが問題になって、日本の株式市場までもが大きく信用を失うこととなってしまいました。バブルの崩壊からすでに6年が経過しましたが、未だに取引量は十分の一に減ったまま回復しておりません。
<地価高騰と大蔵省>次に土地について触れておきます。やはりバブルによって土地価格が高騰し始め、不動産会社は次々に土地を転売して売却益を得ました。大蔵省には一回転売されるたびに税金が入ってきましたので、桁違いの増収となりました。昭和60年度の税収は34兆円でしたが、5年後の平成2年度には60兆円を超え、ほぼ2倍になりました。
以上株と土地を例にバブル景気を見てまいりましたが、ここまでは大蔵省の思惑通りに事は進んでいきました。つまりちょっと複雑になりますが、まずアメリカの圧力を利用しつつ金融を緩和する。準備が調ったところで円高を利用してインフレを発生させて、株と地価を高騰させる。バブル景気の沸き立つ中でNTT株(その他JRなど)をデビューさせる。一方では消費ブームで内需を拡大し、輸入を増やしてアメリカもなだめる。昭和63年消費税導入にも目途がつき、赤字国債ゼロも達成出来そうになってきました。
<総量規制>最後に残ったのは高騰し続ける土地の問題でした。企業が借りて行くお金がどんどん増えてゆきまして、銀行が段々処理しきれなくなってきたのです。そこで大蔵省はいよいよ地価を押さえるべき時がきたなと考えまして、平成元年12月に『土地基本法』を国会に通して成立させ、翌年の4月にはさっそく『土地基本法第二条』の「土地を投機目的で売買してはならない」というのを根拠として、銀行の貸し出しに制限を設けました。これが問題の『総量規制』です。要するにバブルの間はの金融政策に基づいて、銀行も垂れ流すようにお金を貸し出していたのですが、いよいよバブルの限界が見えてきたところで、大蔵省が通達を出して一気に金融の引き締めをはかったのです。
つまり大蔵省は『総量規制』でバブルにストップをかけたのですが、これはあまりに急ブレーキすぎました。つまり銀行の資金が止まってしまい、誰もお金が借りられなくなってしまいました。すると土地を持っている人がこれを売ろうとしても、買い手がいなくなってしまったのです。売れないから土地の値段は下がりはじめました。それでも売れない。売れないうちに借金の利子もかさんで来る。これが株暴落のきっかけとなったのです。高く買った土地を安く手放すしかなくなってしまいました。これが負債です。借り手がこの有り様なのですから銀行が借金を取りたてようと思っても、取りたてるものが有りません。じゃあ担保を没収するか、といっても担保も暴落してしまっていますから、それに見合うだけの価値がない。そういうわけで銀行は大量の『不良債権』を抱え込んでしまいました。
株価をご覧になればわかることと思いますが、大蔵省がブレーキ加減を誤ってしまったために、金融も証券も不動産も保険も皆ひっくり返ってしまいました。では肝心の財政再建はどうなったのかと申しますと、結局バブルの崩壊が平成不況を招こととなり、ますます悪化してしまいました。以上がバブルの本筋です。
<総量規制と住専> 住専問題
では最近(※この原稿が書かれたのはH8年末)話題の『住専』についてついてみていきましょう。住専はもともとは住宅ローンを専門に設立された一種のノンバンクで、バブル以前はサラリーマンを相手に旨味の無い仕事を真面目にこなしていました。しかしバブルが始まって住宅ローンに旨味が出て来ると、住専の母体である銀行がその仕事を持っていってしまった為に、住専の経営の実態は不動産業への融資に集中してゆきました。しかも住専は例の『総量規制』の枠外にあったために、大量の不良債権を出してしまいました。ここで『総量規制』について少し補足致しますと、『総量規制』というのは別に法律ではなくて単なる『大蔵省から銀行への通達』にすぎません。しかし実際には大蔵省の通達というのは、銀行にとって法律並みの効力を発揮するのですが、法律ではありませんから、大蔵省がそうと決めれば何のチェックも無く機能してしまいますので、住専を例外扱いすることも簡単な事でした。
要するに表ではお金をしばって地価を押さえておきながら、裏では一部の知っている人たちの利益を確保しておいたのです。いまでこそ問題になっていますので誰でも『住専』を知っていますが、当時はそんなところから資金が流れているなんて、不動産業者でさえもほとんど知らなかったのです。では住専の資金源はといいますと、当時土地の高騰で割とお金をもてあましていた、『農林系の金融機関』です。勿論大蔵省は『総量規制』が土地の暴落を招くなんて夢にも思っていませんでした。だからまだ「甘い汁がすえるうちはすっておこう」と考えたのです。当時の住専の経営陣をみればわかりますが、住専は大蔵官僚の格好の天下り先でしたから、大蔵省にとっても悪い話ではありませんでした。
<住専の破綻と大蔵省>ところが実際には暴落が起ってしまいしたため、一番あおりを食ったの言うまでもなく住専で、5社で13兆円などという超ギネスブック級の負債を抱えてしまいました。住専問題を分析してゆきいますと、一番表面的な原因は乱脈融資といった経営の問題です。もう一歩突っ込んでみると、一業種に融資が集中いること(ハイリスク)、しかもそれが景気の変動に弱い不動産業だったというのですから、そもそも住専という会社のあり方そのものが問題です。そしてプラスαとして大蔵省がこれをミスリードしたことが挙げられます。ですからやはり住専問題でも大蔵省の責任は重大です。
それで今回住専の処理で大蔵省が動き回ったわけです。本来破産の処理には『プロラタ方式』というものがあります。これに従えば、まず
第一段階として銀行は出資金を全て一旦あきらめる。
第二段階として回収できた分は出資した銀行が出資額に応じて公平に分ける。これでおしまいです。しかもこれは行政ではなくて、裁判所の管轄で行われるべきなのです。ところがそれでは大蔵省の面目が丸つぶれですし、特に農林系には負担をかけないという約束を93年の2月にしてしまいしたから、どう考えても大蔵省の部が悪いわけです。それで大蔵省が自腹を切って責任を取ることになりました。しかし大蔵省が自腹を切るといっても、『公的資金』とはすなわち国民の税金ですから、それで今回国民が皆怒ったわけです。それでも結局7000億円ばかり使われてしまいました。
しかもまだ未処理分も残っていますし、また今金利を上げますとあちこちで借金が膨らんで大変なことになりますから、しばらくはこのまま低金利が続くでしょう。これも国民にとっては隠れた負担になるわけです。
最後に総括致しますと、バブル崩壊によって我が国が失った資産価値は約1000兆円でした。これは他面バブルによってもたらされた見せかけの資産価値でもありましたが、一度に国富の15%が消失するという事態は、第二次世界大戦における日本の敗戦に相当するのです。大蔵省の一国の経済に混乱をもたらしたことの責任は重大です。
<財政と金融の一致> 第3章 大蔵省システムの問題と対策
学生部 澁谷憲悟
第1節 権力集中の構造
以上見てきました、『バブル問題』を材料に、大蔵省システムの問題点を指摘して、さらに大蔵省改革案も検証したいと思います。大蔵省を分割しようという話はあちこちにあるのですが、ではなぜ分割しなければならないかと申しますと、要するに大蔵省にはお金に関する権限が集中しすぎているからです。
具体的に先ほどの例から見てまいりますと、まず第一にプラザ合意後の『異常低金利政策』の推進が挙げられます。そもそも一国の金利の大元である『公定歩合』というものは、その国の『中央銀行』が決定することなのです。ところが日本の場合は中央銀行である『日本銀行』の上に大蔵省が存在するというシステムになっています。このため当時の日銀はインフレ政策に反対したのですが、結局日銀の主張は大蔵省に押し込められてしまいました。なぜならば、いざとなったら大蔵省は『日銀法第42条』で日銀総裁の首を切れるからです。ちなみに日銀法はつい最近改正されまして、私も『NHKスペシャル』の解説を聞きましたが、どの専門家も中途半端な改革だといっていました。
次に景気対策のところで、大蔵省の放漫経営がたたって国の財政は大赤字だったと述べましたが、なんでそんな借金操業が許されてしまったのかを調べてみますと、それは大蔵省が財政と金融のトップの両方を兼ねているからです。『国債』といいますのは、簡単に言ってしまえば国の借金証書ですから、誰かが買ってくれないと(市中消化)意味がありません。しかし、大蔵省には銀行の許認可を司る銀行局もありますで、いくらでも銀行に押し付けしまえたのです。
これと全く同じ理由で起きたのが、バブル崩壊のところでお話した『総量規制』の件です。バブル対策は国の財政の問題ですから、『総量規制』を政策立案したのは、当然財政担当の主計局です。しかし、すでに述べた通り銀行に対して通達を出して徹底したのは、金融担当の銀行局です。やはり財政と金融を一手に握っていることが、大蔵省に過剰な市場介入をさせてしまったことの原因です。
この他にも土地が転売されると大蔵省の収入になると御説明致しましたが、それは『国税庁』や『主税局』が大蔵省の機関だからです。またNTT株やJR株が不当に高い値段で販売されたと述べましたが、それは『証券局』や『証券取引委員会』も大蔵省にあるから出来たのです。余談になりますが、円レートに関与する『国際金融局』や『関税庁』、紙幣や国債を印刷する『印刷局』や『造幣(ぞうへい)局』も大蔵省の機関の一つです。
つまりアメリカ人に「大蔵省って何ですか?」と聞かれたら、「アメリカの『財務省と』と『議会予算局』と『預金・保険機構』と『証券取引委員会』と、各州の『銀行局』・『保険局』・『証券局』に、それから『連邦準備銀行』の一部と『内国歳入庁』を全部くっ付けたようなものなんです。」と答えるしかありません。
<非民主主義的構図>つけ加えますと、現在彼らは指導者としての地位を与えられてしまっておりますが、単に学校で成績が優秀だったというだけで、別に選挙で選ばれたわけではありません。私達には例え彼らが好ましくないと思えても入れ替えることは出来ないのです。
<国家の成立と中央集権体制> 第2節 歴史的背景
「なぜこういったシステムが出来あがってしまったのだろうか?」と、私達は民主主義の時代しか知りませんので不思議に思ってしまいますが、正確に申しますとまだ民主制が導入されていない明治の時代に大蔵省が出来上がって、今日に至るまで『官僚制』によって受け継がれてきたのです。
少し歴史を振り返りますと、明治の日本が『富国強兵』を目指した時代には、財政と金融を一体として、強力な権威を持たせた方が有用である、という判断がありました。新しい政府で国をまとめてゆくには、何よりもまずお金が必要でした。そこで明治2年には大蔵省が成立しました。
その大蔵省の最初で最大のピンチだったといわれているのが『西南戦争』です。もともと薩摩や長州の武士達が江戸幕府の支配体制に限界を感じて、その若い力がやがて明治維新を迎える際の原動力になったのですが、いざ明治の夜明けになってみたら、皮肉な事に自分達が失業になってしまいました。世の中が改まるといった時には、しばしばこういうことがあるのです。それで地方では不平武士の蜂起が相次いでいましたが、ついに明治10年九州で大反乱が起りました。これが『西南戦争』です。その首領は西郷隆盛でした。
明治政府は半年間を費やしてようやくこれを鎮圧しました。このときの戦費は4000万円を超えました。これは当時としては驚異的な額だったそうです。まさに明治政府の正統性と権威を懸けた戦争でありました。この西南戦争の後、全国の士族の反乱は次第に収まってゆきました。これを陰で支えていたのが大蔵省だったのです。
<敗戦と内務省の解体>一方明治政府の『表看板』的な存在だったのが『内務省』です。これは今の『自治省』に『厚生省』・『労働省』を兼ね、さらに警察と消防を加えたような組織でやはり強大なものでした。それでこの内務省と大蔵省の二大組織があたかも車の両輪となって、明治・大正・昭和前期という時代を乗り越えてきました。その中で皆さんご存知の通り軍部の台頭という不幸があり我が国は敗戦を迎えました。日本は連合軍の占領下に置かれ、GHQの司令によって内務省は解体され、一方で大蔵省はライバルを失いながらも戦後復興の舵取りをまかされることになりました。以上が歴史の大枠であります。
現在の大蔵省はかつての内務省のような、互いに牽制しあう相手を失って『官庁の中の官庁』として絶対的な権限を確立しております。そしてやがて数々の不利益をもたらす存在となってしまったことはすでに述べました。
以下では大蔵省のかつての貢献は十分に評価しつつも、歴史的な流れを考えあわせた上で、やはり大蔵省の分割は、変化する時代の要請であるものとして論じたいと思います。
<大蔵省三分割論(日経新聞社原案)−大蔵省の限界−> 第3節 大蔵省改革
大蔵省の分割については多くのアイディアがありまして、研究に当たって図書館や書店を覗いてみましたが、本も色々出版されているようです。今回はその中から日経新聞社などが論じるところの、三分割論が基本的で、かつ分かりやすいと思われましたので、これをご説明させていただきます。大蔵省のトップといえば勿論大蔵大臣ですが、実際に実務の上から全体を取り仕きっていますのは、通称『大蔵省トップ3』と呼ばれる、事務次官・国税庁長官・財務官の三人です。国税庁長官は税の徴収についての責任者、財務官は別名通貨マフィアとも呼ばれる金融政策のボス、そして事務次官は予算を司る財政のトップです。彼らは文字どおり、大蔵省のもつ主な三つの業務の顔でして、そのまま大蔵省の体質を表わしているともいえます。
大蔵省の改革案には二分割論から、中には五分割論までありますが、日本経済新聞社の三分割論は現在約10ほどある大蔵省の部局を、いま述べました三大業務にまとめて再編しようというものです。残念ながらこの記事は新しい行政機構を提案してはいるものの、具体的な説明がほとんどありませんので、解説には私の推測が入ってしまうことを先にお断りいたします。
>金融証券監視委員会<
図をご覧下さい。まず金融や証券及びそれらの監視を担う『金融証券監視委員会』のようなものを作のでしたら、まず日本の市場の国際的信用を取り戻す努力をして貰いたいと思います。こう述べますと何か『金融証券監視委員会』(仮称)に積極的な活動を期待しているように聞こえるかも知れませんが、国際化する経済の中で日本のマーケットが再び活気を取り戻すためには、むしろ行政は裏方にまわって、国際的に信用される市場のルール作りとその監視のみに活動を留め、現在の大蔵省のように必要以上に口や手で市場に介入したり、様々な規制を設けて市場を縛り付けてしまうのは是非止めて貰いたいと思います。
例えば、今日本の銀行が欧米の銀行(市場)からお金を借りようとすると、『ジャパンプレミアム』と呼ばれる通常より高い利子を払わないと貸してもらえないのです。ようするに日本の銀行とその背後にある日本の経済システムが欧米から信用されていないのです。去年(平成7年)ついに『兵庫銀行』と『木更津信用組合』が破綻して、ついに大蔵省を中心とする銀行システム(護送船団方式)に限界が見えて来ると日本を代表する銀行の一つである『住友銀行』でさえも、その活動に30ポイントという開発途上国並みのプレミアムが要求されるようになり、今年(平成8年)『大和銀行事件』で大蔵省の不祥事(大和銀行の巨額損失隠匿を黙認した)が発覚した後は更にその状況が悪化したようです。
現在のトーキョー市場はバブル崩壊以降の欧米資本離れが深刻な状況にあり、『金融空洞化現象』と呼ばれています。よって今大蔵省は一方では市場の推進者であり、また監視者でもあるという体制を改め、その役割を分担するべきです。
>予算省<次に『予算省』(仮称)に求められるのは、速やかな赤字財政の見直しです。現在の国の借金体質は、もはや利子払いだけで首が回らなくなっており、大幅な見直しが迫られていることから、思い切って組織を作り直すことのが大切です。日経新聞社案より一歩踏み込んだ形として、お金の入り口である『主税局』と、お金の出口である『主計局』を分離するという方法もあります。
今引退した官僚が、各業界のトップとして就任するケースが多く、日本経済に固定化をもたらし、汚職の温床として問題となっていますが、この『天下り』を、天下り先でもある『特殊法人』や出先機関を含めて改革するためにも、大蔵省の改革は必要です。
>歳入庁<歳入庁(仮称)については省略します。
<日本の未来像を求めて>以上大蔵省改革についてご説明してまいりましたが、私があえて大蔵省解体という言葉を使わなかったのは、私は単に大蔵省が悪いからつぶす、ということを言いたいからではなくて、むしろこれからより良い日本の体制を作ってゆこうではないか、という希望を語りたいがためです。
また私達がこのシンポジウムで皆さんに申し上げたいことは、決して欧米流の資本主義を日本に定着させるということではありません。確かに国際化した世界にあって他国に学ぶ事は重要です。でありますが、やはり自国の歴史や文化などを通して培われてきた日本、その国土のもつ因縁を無視した提言や政策では成功しないばかりか、かえって混乱を招いてしまうことでしょう。
私は現在のシステムの限界をお話するために大蔵省の問題点を指摘し、またその流れの上から大蔵省改革案も述べさせていただきました。しかし、これはまだ極めて狭い視点に立脚しております。つまり中央のシステムだけに注目するよりも、もっと広い視点から日本全体を眺めて見た方が、より具体的な日本の未来像を求める事が出きるものと思います。そしてそれこそが一人一人の生活者の視点により近い未来像なのです。
以上で第一部の発表を終わります。15分間の休憩を挟みまして第二部の発表を行います。御静聴ありがとうございました。