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『法華講の今昔を聞く(中)』

慧燈第8号(昭和55年3月15日発行)84〜93頁

語り手・小田原教会主管 川島秀随
聞き手・箭内重勝


箭内 御尊師は、かつての歴史上の有名な人物と日蓮正宗との関わりについて、たいへんお詳しいとお聞きしております。どうかその辺のお話しも、お伺いしたいと思いますが。

川島御尊師 昔の話で皆が知らないことが沢山ありますので、私も機会があるごとに、話していかなくてはいけないと思っています。雑談的になりますが、こういう話があるですよ。

巣鴨駅の池袋寄りの陸橋を渡った右側あたりに、十文字高女(※1)という女学校があります。その近くに榊原幸助という人の家があるのですが、そこにお盆の時などお経をあげに行くと、いつも榊原家の系図を見せてくれるんですよ。先祖は榊原大内記(だいないき)といって、徳川家康と一緒に戦った人だそうです。徳川の四天王、つまり酒井・榊原・井伊・本多、その榊原の流れを汲んでいて、その系図を見ると、亡くなった人のところに上野の常在寺に葬ると記してあります。その次の人を見ると、小梅の常泉寺に葬る。またその次の人は上野の常在寺に葬ると記してあります。面白いのは、一代ごとに墓所を常在寺と常泉寺に変えていることですよ。

※1:現在の十文字中学・高等学校

その榊原の子孫に、榊原金太郎という人がいたのです。この人は、彰義隊(※2)の戦いで幕府軍側に負けちゃったんですね、その後、「忠臣は二君に仕えず」と言って幇間(酒宴の席の取り持もちをする職業のこと、太鼓持ち)になり、そちらの方で有名になっちゃったんですよ。

※2:旧幕臣等による尊王恭順有志組織。江戸市中取締の任を受け江戸の治安維持に活躍するも、上野戦争で新政府軍に敗れる。(Wikipediaより)

この榊原金太郎のことでこんなことがありました。私が昭和10年頃、常泉寺に在勤していました時、史談会といって歴史を調べて歩いている連中が5・6人きて、「このお寺ですか、有名な幇間のお墓があるのは」と言って、いろいろ調べていきましたよ。その幇間のお墓ですが、関東大震災の年までは吉原の花魁(おいらん)が、命日などは供養していたみたいですが、震災のために吉原が焼けてしまって、それっきり無縁墓みたいになってしまいましたね。それが、なんと榊原金太郎の墓だったわけですよ。

この榊原金太郎が北海道の五稜郭で共に戦った仲間に、大鳥圭介・榎本武揚という人がいました。後に官軍に下って、官軍の要職について偉くなった。そして吉原に遊びに来た時、大鼓持ちになって吉原にいた榊原金太郎が、この2人に向かって、「お前達はなんだ、自分の栄輝栄華の為に二君に仕えて。江戸っ子の恥だ!」と気風(きっぷ)の良い啖呵(たんか)を切ったといいます。実はこの榊原金太郎も本宗の信者だったんですね。このことは芸名・悟道軒円玉(どうごけんえんぎょく=本名・今村次郎)という落語家が噺の中で取り上げています。

もう一人、榊原の家来に尾崎富右衛門という人がいましたが、この人は足軽でした。その時の榊原の殿様というのが非常に遊び好きで、江戸詰めの時には毎晩のように吉原に通っていたそうです。国に帰ってもその味が忘れられないようで、屋敷の中に提灯をたらして、吉原の遊郭で遊んでいるような風にして暮らしていたそうです。ところが、このことが江戸表のほうに知れて問題になった。そこで榊原の重役、お偉いさんがあっまって、「榊原の家はこれでお取りつぶしになるかもしれん」と話していたところ、末座にいた尾崎富右衛門が発言して、「江戸表への説得の役は、自分にお任せ下さい、必ず榊原の家を安泰に守って見せます」と言ったそうです。重役さん達はこんな足軽風情になにができるかと不審がったが、お家の一大事ということで、その尾崎富右衛門を家老職にして江戸表へ行かせた。

富右衛門は、幕府に榊原の家の歴史、功績というものを滔々として話し、なんとか榊原の家はお取りつぶしを免れてお家の安泰を守ったわけです。このお手柄によって本当の家老職になったんですけれども、同僚から妬まれて讒言もされて、結局は浪人になっちゃうわけです。浪人になってからは目が悪くなってしまって、ある日、14・5歳になる息子に手を引かれて江戸の町を歩いていた時に、南部様(江戸初期に盛岡を中心として栄えた藩)の行列が通ったんです。南部様は龍の中から側近に向かって、「あの子供に手を引かれて歩いているのは、榊原のところにいた尾崎富右衛門ではないか」と言われた。それで神田は松住町の貧乏長屋で暮らしていた富右衛門の所へ、南部様が家来を行かせて家臣となるように説得したんですね。それで富右衛門は南部藩の侍になったわけです。先程話した富右衛門の手を引いていた息子というのが相馬大作(そうまだいさく=本名・下斗米秀之進)という人で、後に南部の藩士になった。

この相馬大作について有名な話があるんですよ。それは当時、南部藩と津軽藩は仲が悪かった。津軽はもともと南部の家来だったのですが、津軽藩のほうがどんどん抜きん出てきた。それで南部としては面白くない訳です。そんな時に江戸で大火があって、再建に木材が必要になった。それで徳川の将軍が南部には良い檜(ひのき)があるそうだから、献上するように南部に命ぜよと使いをやったんです。ところが南部公は気が小さい人で、運賃が大変だと慌ててしまって、自分の山には檜はございませんと言ってしまったんですよ。そしたら津軽の殿様は調子の良いことに、檜は私の山にありますと幕府に申し上げたんです。というわけで南部の檜は津軽に取られてしまった。それで南部の殿様はくやしがって、どうにかして仕返ししてやっつけようと思っていた。

相馬大作は南部の殿様に大恩があるので、津軽の殿様を暗殺する役目を買って出たんですよ。それはそれは、喉に漆をぬって声をからしたり、顔に焼印をつけて人相を変えたりで大変だったらしいですよ。相馬大作というのは学者だったので顔が知られていたから、姿を変えて本所の津軽屋敷に中間(召使い)に成りすまして働いていたんですが、ある日、津軽の殿様が馬で遠乗りの時に、大作が馬でお伴をしたんです。その時に隙を見て殺そうとしたんですが、失敗して逆に打ち首にされてしまったんです。その大作の首を、大作のおじさんに当たる妙縁寺の住職で日脱(にちだつ)という人がもらってきて、妙縁寺に首塚を作って大作を供養したんですよ。ほら、妙縁寺の門を入ったところに小さな首塚があるでしょう。あれが相馬大作の首塚ですよ。

※3 相馬大作事件(そうまだいさくじけん)とは文政4年(1821年)に参勤交代を終え、江戸から帰国の途についていた、弘前藩主の津軽寧親を狙った暗殺未遂事件。裏切った仲間の密告により、寧親の暗殺に失敗した下斗米秀之進(相馬大作の本名)は藩を出奔するが、後に幕府に捕らえられ、獄門の刑を受ける。当時の江戸市民はこの事件を赤穂浪士の再来と騒ぎ立てた。事件は講談や小説・映画・漫画の題材として採り上げられ、この事件は「みちのく忠臣蔵」などとも呼ばれるようになる。民衆は秀之進の暗殺は実は成功していて、津軽藩はそれを隠そうと、隠居ということにしたのではないかと噂した。妙縁寺には秀之進の首塚がある。また、谷中霊園には招魂碑がある。この招魂碑は歌舞伎の初代市川右團次が、相馬大作を演じて評判を取ったので1882年2月右団次によって建立された。(Wikipediaより)

大作には子供が一人いたんですが、先程の日脱師の勧めで得度して、本宗の僧侶になったんです。盛岡市に感恩寺という本宗の寺院がありますが、ここの開基が、今言った僧侶になった大作の息子(英穏院日淳贈上人)なんですよ。この感恩寺は南部の殿様が、大作は自分の為に命懸けで尽くしてくれたということで、大作の恩を感じて建てたですよ。それで感恩寺という名前になったんでしょう。

それから又、千住に清水三之助という元旗本の人がいましてね、その人は常泉寺の檀家ですから、よくお経参りに行ったもんですが、そこの家に普通よりちょっと大きめの過去帳がありました。その過去帳は先程話した大作の息子さんが書いたものだそうです。過去帳を見てみると8月23日と大作の命日が書いてあったと覚えていますよ。そこの清水さんが言うには、「大作の息子さんが書いた過去帳は、私どもと神田の新田純孝さんのところと2軒しかない」そうですよ。その新田純孝さんという人は常泉寺の総代を務めた方です。相馬大作に関してはだいたい今のような話です。


そうそう、俳優さんにも本宗でいろいろな人がいました。例えば、山中平九郎といって、徳川時代に市川団十郎と一緒に舞台に上がった人です。芝居の名人でした。その人のお墓は池袋の常在寺にあります。その平九郎の芸名は水木辰之助と言いました。この水木辰之助という芸名は、平九郎の踊りのお師匠さんの名前なんですよ。日舞の水木流元祖の人です。私が常泉寺にいた時に、常在寺に水木辰之助と山中平九郎の記念碑が建てられたんですよ。その除幕式には私も常在寺に手伝いに行きました。その時、粟島すみ子(※4)という松竹キネマの大女優さんが来てましたね。この日、池袋界隈は大変な人だかりでしたよ。

※4 1921年2月、松竹蒲田撮影所に入り、ヘンリー小谷監督の『虞美人草』に当時の人気俳優岩田祐吉の相手役としてデビューする。その後も次々と、野村芳亭、牛原虚彦、島津保次郎、小津安二郎、成瀬巳喜男など当時の有力な監督の作品に出演し、その群を抜いた美貌と舞踊で磨かれた立ち振る舞いで、日本を代表する映画女優となる。1935年、撮影所が大船に移るのを機に映画界を引退し、水木流舞踊の宗家として晩年まで活動を続ける。(Wikipediaより)

昔は本山のお虫払いの時に、御宝蔵から御戒壇様が長持に入ってお出ましになりますが、その長持の上に大きな打掛がかけてありまして、その打掛の裏に山中平九郎と大きな字で書いてありました。このように本宗には昔から立派な人が沢山いたんですよ。


本山に遠信坊があるでしょう。もとは裏門のところにあったんですが、この遠信坊の御本尊様を、当時弘道院の総代をしていた斎藤さんという方が本山より御下付頂いて、家に御安置してあったのを、私が弘道院に住職として来た時に、斉藤さんがその御本尊様を持って来られて、「この御本尊様を私ら在家に置いといたんではもったいないから、弘道院のほうでお預りして下さい」と言われました。で、その板御本尊は総本山第51世の日英上人が書写されたものでして、裏を返して見てみると、金文字で島津斉彬公のことが彫ってあったんですよ。

島津斉彬公というのは薩摩藩の11代目の殿様で、その斉彬公には篤姫(あつひめ)という養女がいたんですよ。篤姫というのは近衛家(藤原家の嫡流で代々朝廷の要職をつとめた家柄)の娘さんで、昔は近衛さんの娘はよく徳川家に嫁いだんですよ。その一番雄たるものは、6代将軍の徳川文昭院殿(家宝)の奥方になった天英院様ですね。

天英院様は当時の関白太政大臣の近衛基熙公の御息女なんですよ。それで常泉寺にね、この天英院の姪の墓があったんです。そのために天英院は始終、常泉寺へ代参をさせて、姪の供養をしておったそうです。そのことは『徳川実紀』っていう徳川家の日記みたいな書物に詳しく書いてあるんですよ。その『徳川実紀』にね、天英院様がお女中に菓子折とか、いろいろなものを持たせて代参させておったという記録がたくさん載っておるんですよ。このように天英院様は常泉寺に大変尽くされたんです。六代将軍家宜が亡くなって、7代将軍家継から8代将軍吉宗公になる時、天英院は非常に権力があったんですよ。

だって、公家さんから、つまり近衛さんから徳川家に嫁いできたのだから朝廷の威光というものがあるでしょう。そんなわけで天英院がほとんど大奥を、我が物同様にしておったんですよ。その当時の世論はいろいろあったけども、8代将軍に吉宗公を据えたのは、天英院様のそのような絶大な力添えがあったからなんですよ。

そういうことがあって京都(朝廷側)では、自分の娘を大名に嫁がせないでいたんですよ。ところが近衛さんのところから篤姫という人が嫁いだ。これは斉彬公が一応、養女ということで近衛さんからもらって、徳川13代将軍の家定公にお輿入れさせた、つまり家定公の嫁さんにしてしまったんですよ(※5)。斉彬公は当時、勤皇派で、その頃世間は勤皇か佐幕かでいろいろ論が沸騰して大変な騒ぎだった。そんな時に斉彬公は日本の一番突端の薩摩に居て勤皇派として頑張っておったんですね。ところが養女の篤姫はその時江戸城に居て、斉彬公としてみれば自分が色々やりにくいのは、篤姫が江戸城に居るからだというんで、姫の帰国を願って貰うために大石寺の日英上人にお願いしたんですよ。その時日英上人が書かれた御本尊が、先程話しました遠信坊の御本尊様なんです。篤姫を薩摩へ帰国させたいという願いのため、そして遠くに居て信ずるという意味で遠信坊としたわけですよ。まあ、今話したようなことがその板御本尊の裏に金文字で彫ってありました。その御本尊がしばらく弘道院にありましたが、その後新しく遠信坊が改築された時に本山に納めたんですよ。

※5 ここの話しは不正確。実際は、篤姫は島津の分家に生まれ、斉彬公の養女(本家の姫)となった後、さらに近衛忠熙の養女として、将軍・家定に嫁いだ。なお、忠熙の正室は斉彬の姉であり、斉彬とは親しい間柄だった。そもそも島津家は、近衛家の流れを汲む家柄でもある。

箭内 今の遠信坊の御本尊様ですか。

川島御尊師 今の遠信坊の御本尊様は違うと思いますよ。御宝蔵にあると思います。小さいものですよ。お厨子(ずし)に入ってましてね。

まあ何ですよ、今、伊達さんが入ったとか、島津さんがこうだとか言っていますけど、正宗とのつながりは昔から深かったんですよ。

また島津さんの話に戻りますがね、斉彬公のひいおじいさんが豪傑でして、島津重豪公と言いましたね。この人は子供が三十何人いたそうですよ。そのうち一人が南部様に養子に行ってるんですよ。何年か前でしたか、昨年亡くなった常在寺さん(第35代住職・佐藤日成御尊能師)が本山で我々のために、布教講演の時でしたか、南部の法難の話をして下さいましてね。その話によりますと、確か天保15年でしたかね、当時南部領であった八戸で法難がおきました。代官が富士派の信徒はけしからんということで、富士派の連中を処刑する段取りになっていたのを、処刑の日に江戸から南部の殿様が帰ってきて、「今日は何があるんだ」と家来に聞きただしたところ、かくかくしかじかで富士派の信徒を処刑するんだということを聞かれて、それはまずいということで中止させてしまったそうです。その南部の殿様というのが、先程話しました重豪公の子供で南部に養子に行った人なんです。その人の意見で富士派の信徒は助かったんですよ。そんなことを以前常在寺さんが話されました。

このように昔から目に見えない所で、信心の糸がつながっているんですよ。これは大変なことですよ。それを最近の人は本山の、大聖人からの血脈を云々する。とんでもないことですよ。自分達に血脈があるなんてのはとんでもないですよ、本当に。どっかの誰かがそんなとんでもないことを言っているでしょう……。

それからね、さっき話しました役者の山中平九郎のほかに、やはり歌舞伎の役者で中村仲蔵という人がいました(※6)。この人も名人と言われていましたよ。まだ中村仲蔵が名人と言われる以前のことですが、ある時「忠臣蔵」の芝居をやる時に、定九郎の役を言いつけられたんです。それまでの定九即の役柄といえば、ほら、よく大泥棒の石川五右衛門の格好があるでしょう、すごい頭しちゃってね、あれ百日ガツラと言うんですよ。定九郎もね、やっぱり百日ガツラかぶって、楼門(さんもん)五三の桐の場面で「春宵一刻、価千金、小せえ、小せえ!」とやりますでしょう、歌舞伎座なんかでね。

しかし中村仲蔵は、どうも今のような定九郎では俺はできないと言って常泉寺にお詣りに行き、どうか定九郎の姿を教えて下さいと祈念したんですね。とにかく三七・21日間お詣りしていたんです。そして21日満願の帰りに夕立ちになってしまって、業平橋あたりのそば屋へ入って雨やどりをしていたら、そこへ一人の浪人が赤鞘(あかさや)の刀を差して、破れた蛇の目傘を持って尻っぱしょりで入って来て、入って来るなり蛇の目傘の雨しずくを振り切るわけです。その格好が美事だったんでしょう。仲蔵はその姿を見て、「これだ!」ということでその姿を定九郎の役に取り入れて素晴らしい演技ができたそうですよ。中村仲蔵の墓は百科辞典を見ると、下谷の常在寺にあると書いてあるんですよ。ですから、創価学会さんのほうで山本○○がやっているとか、誰それが学会に入ってどうなったとか、そんなのは本当はなんでもない。昔から立派な役者さんや、芸人も入っていたですよ。

※6 浪人斉藤某の子として生まれる。はじめは舞踊関係で活動していいたが、寛保3年(1743年)役者に転向し二代目中村勝十郎門下で中村市十郎と名乗る。寛延3年(1750年)観客の富豪吉川家に気に入られ、一時役者を廃業。人形町で酒屋を営んだり志賀山流の稽古屋を開きその傍ら能楽や音曲などをマスターする。宝暦4年(1754年)舞台に復帰。はじめは4年のブランクに不振を極め自殺を考えるほど悩むが、その才能を4代目市川團十郎に認められてからは人気が上がり、明和3年(1766年)には「仮名手本忠臣蔵・五段目」の定九郎を現行の演出で演じ生涯の当たり役となる。天明5年(1785年)中村仲蔵と改名。門閥外から大看板となった立志伝中の人。立役・敵役・女形のほか舞踊を得意とした。著書に「秀鶴日記」「秀鶴随筆」、自伝「月雪花寝物語」などがある。(Wikipediaより)

それからね、噺家で昔私どもの知っている法華講の古い人といえば、山田法山という人がおりました。芝の桜田本郷町に私の知人で山田善之助という人がいましてね、そのお父さんが山田善兵衛といって総本山56世日応上人から号をいただいて山田法山というですよ。この山田法山という人は一生涯何回もお経本を作ったです。その当時の経本は和紙で作りまして、半紙ですね。ちゃんと表紙をつけて。皆んな大変喜んでました。

この山田法山の息子さん、先程話しました山田幸之助という人ね、この人は法山のところに養子に来たんですよ。本当は、日本橋に丁子屋という名前の小間物屋がありましてね、その丁子屋の主人は町田銀次郎といいます。その銀次郎さんの息子が法山のところに養子に行った善之助さんなんですよ。その銀次郎さんの長男も噺家になりましてね、芸名を談洲楼燕枝(えんし)といって、この人も名人でした。人情話のうまい人だったです。この燕枝の娘さんはあの前進座を創った歌舞伎役者の中村翫右衛門(かんえもん)のおかみさんなんですよ。翫右衛門の息子が、ほら、テレビでやってる「遠山の金さん」の中村梅之助です。前進座にはずいぶんと法華講の方がいたんです。(次号につづく※)

※手元に原稿がないので、残念ながら続きません。