虚構を崩壊させる公式記録 「軍務で警察を休職中」は明らか

 

宗門弁護団 H・ジェイ・カルマン弁護士

 

略歴:1975年カナダ・モントリオールのマギル大学を首席で卒業(心理学専攻)、その後、アメリカ・ウィスコンシン大学において実験心理学で博士号取得。1991年スタンフォード大学において法学博士号を取得。ロサンゼルスにおいて弁護士活動をはじめた後は、契約法、知的所有権法ならびに取引関係訴訟などを幅広く手がけている。弁護士として活動する以前は、ニューヨーク州立大学で心理学の助教授を務め、人問の記憶力と認識能力について多数の学術論文を執筆しており、目撃証人の証言に関する裁判上の鑑定にも携わった経験を有する。

 


公式記録を前にスプリンクル自身は沈黙

秋元渉外部長 このたび、カルマンさんにはお忙しいところ、インタビューの時間をお取り頂きありがとうございます。

 

カルマン弁護士 いえ、どういたしまして。

 

秋元 カルマンさんには、1993年以来、カリフォルニアでのクロウ訴訟をはじめ、宗門のために弁護活動を引き受けて頂いていますが、紙上でのインタビューに応じて頂いたのはこれが初めてです。今回、インタビューに応じて頂いた理由からお伺いします。

 

カルマン 私は、東京地裁に係属中のクロウ事件に関する証拠をアメリカで収集する活動に、ずっと携わってきました。宗門側は東京地裁への証拠提出をほぼ完了しましたが、裁判所の判決が出るまでには、まだしばらくかかりそうです。そこで、当方の集めた証拠がどういうものなのかを、今、公表した方がよいと思ったのです。私は、進行中の裁判について意見を述べることは余りしないのですが、本件の場合は少し異常な状況にあります。というのは創価学会とその一部の弁護士が、当方が東京地裁に提出した証拠の持つ意味を歪めて一般に伝えているからです。それで、相手側が歪曲した報道を流している最中に、こちらが沈黙を保っていては、宗門への誠実さを欠くことになると思ったのです。それで今回、インタビューに応じることにしました。

 

秋元 なるほど。それでは、あなたが調査員の方々とともに集めた証拠について、ご説明いただけますか。

 

カルマン すでによくご存知のことと思いますが、1963年3月20日早朝、シアトルの7番街とパイク通りの角で日顕上人が複数の売春婦と接触した、というのがヒロエ・クロウの主張でした。もともと、この話は多分に怪しいものでした。ところが1995年初めに、ロナルド・スプリンクルという元シアトル警察官が、自分は1963年3月に日顕上人が複数の売春婦と口論している現場に出くわした、と言い出したのです。

  

秋元 そのようなスプリンクルの話しを初めて聞いた時には、どのように感じましたか。

 

カルマン 最初にスプリンクルのことを知った時には不安になりました。しかし彼の話の内容を聞いてみると、信憑性が高いとはとても思えませんでした。私は弁護士になる前に、心理学の助教授をしており、人間の記憶と認識を専門にしていました。記憶と認識について、裁判所で専門家として証言したこともあります。スプリンクルの話はほとんど、人間の記憶についての常識とかけ離れたものでした。たとえば彼は、日顕上人がコートの左のポケットに手を入れて、電話番号を書いた紙切れを出し、その番号の市外局番がシアトル東部のものだったことを覚えていると言いました。こんな瑣末(さなつ)な、ことを30数年も後まで覚えているというのが、まず記憶というものの常識を外れています。

 

カルマン しかし初めのうちは、いったい警官であったスプリンクルのような人物が、どうしてこんな話をでっち上げるのか分かりませんでした。その後、彼自身が、創価学会側から本件に関する「コンサルタント兼調査員」という名目で、月4000ドル(40数万円)の支払いを受けていたことを認めたことで、なるほどと思いました。彼が東京地裁で証言をした時期には約8万ドル(1000万円弱)もの大金が支払済みであった勘定になります。

 


シアトル警察「職務歴記録」に6ヵ月間の『軍務休職』明記

その他市役所・空軍関係等、全ての公式記録も一致

カルマン そうこううするうち、ごく最近になって、実は、スプリンクルは事件があったという1963年3月には、軍務休職中でシアトル警察にはいなかったことが判明したのです。彼の話はまったくのでっち上げだったのです。

 

秋元 スプリンクルが軍務休職だったとは、どういうことですか。

 

カルマン スプリンクルは、1962年10月30日から1963年5月6日まで、軍務休職のためにシアトル警察を離れています。警察を休職して、アメリカ空軍での現役任務に就いていたのです。この間、彼はシアトル警察から給料を受け取っていませんし、警察の年金計算上の日数においても欠勤扱いになっています。またこの問、拳銃、バッジ、手錠などをすべて警察に返納しています。軍務から復帰する時点で、拳銃、バッジ、手錠、さらに身分証明書まで、新しく交付されているのです。

秋元 どういう証拠があったのですか。

 

カルマン 今述べた事実を立証する文書が、シアトル警察人事部、シアトル警察年金局、シアトル警察資財室に保管されており、またアメリカ空軍関係の記録からも裏付けられました。そしてこれらの記録を見た多数のシアトル警察の現職高官や元高官が、スプリンクルは1963年3月当時にはシアトル警察の現役警察官であり得たはずはなく、スプリンクルは警察官として行動する権限を持っていなかったと証言しています。

  

秋元 警察の人事部の記録について、もう少し詳しくお願いします。

 

カルマン 私と私の依頼した調査員達は、本年6月初めに、スプリンクルの人事記録がまだシアトル警察に残っていることを知りました。それまでは、退職後7年で人事記録は廃棄される定めになっていると聞かされていたのですが、実際にはスプリンクルの記録は廃棄されずに残っていたのです。そこで、私達は正式の申請手続をとって、スプリンクルの人事記録のコピーを入手しました。これには、スプリンクルが1962年10月末から1963年5月初めまで軍務休職で警察を離れていたことなどが記載されていました。いわゆるクロウ事件は1963年3月にあったとされているので、この新証拠は、事件現場に警察官として立ち会ったというスプリンクルの証言をまっこうから否定することになります。

 

カルマン スプリンクルの人事記録のうち特に意味の大きい文書は「職務歴記録」と呼ばれるものです。この文書はスプリンクルが警察に入った1961年から病気で退職する1977年まで、警察官としての階級・配属先などをずっと記録したものです。スプリンクルの「職務歴記録」には、彼が1962年10月30日に6カ月間の軍務休職を認められ、1963年5月6日に休職から戻ったことが明記してありました。スプリンクルの「職務歴記録」はさらに、1962年4月2日からの彼の配属先が屋外射撃練習場であったことも明記しています。そこからパトロール任務に配属されたのは、6カ月の軍務休職から戻った後なのです。ですから、スプリンクルが1963年3月当時に軍務休職中であったか否かは別にしても、そもそも当時彼はパトロール任務に配属されてはいなかったのですから、夜間パトロール中に七番街とパイク通りの角で事件に出くわすことなどあり得ないのです。

 


続々と出てきた「スプリンクル不在」の公文書

秋元 スプリンクルの人事記録には、ほかにどういう書類がありましたか。

 

カルマン たとえばシアトル市人事局発行の「軍務に関する覚書」が綴られていました。これもスプリンクルが、問題の時期に、アメリカ空軍に現役勤務するため休職中であったことを証明する文書です。ほかに軍からの命令書なども中に綴られており、いずれも彼がこの時期にシアトル警察を離れていたことを示していました。

 

秋元 人事記録の内容は正確なものといえますか。

 

カルマン シアトル警察の記録作成業務に詳しい人たちが多数、人事部では正確な記録を作っていると自信をもって語ってくれました。とにかく人事記録は、昇進などあらゆる人事の基礎になるものですから。しかし、それだけではありません。シアトル警察人事部自身が作成した記録のほかに、シアトル警察とは別の組織であるシアトル市人事局発行の記録も残っており、またシアトル警察年金局、これも警察とは別に運営されていますが、こうしたところにもスプリンクルに関する記録がありましたが、いずれの記録もすべて内容は一致していました。

 

秋元 シアトル警察年金局では、どういうものが見つかりましたか。

 

カルマン スプリンクルの「勤務日数カード」というのが出てきました。これは各警察官について、退職後に給付する年金額を計算する基礎資料となる文書です。退職した警察官への年金算定の基礎になりますから、当然正確なものであるはずです。「勤務日数カード」には、警察官の各年ことの勤務日数、給与額、掛金払込額のほか、軍務休職を取ったことがあるか、あればそれはいつか、なども記載してあります。

 

秋元 スプリンクルの「勤務日数カード」には、どう書いてあったのですか。

 

カルマン 職務歴記録と同じく、1962年10月30日に無給の軍務休職に入り、1963年5月6日に警察に戻った、とありました。この間、彼は警察から給料をもらっていませんし、年金計算も参入されておらず、掛金払い込みもしていません。

 

秋元 この記録は正確なものでしょうか。

 

カルマン 年金用の「勤務日数カード」の記載内容は、職務歴記録などの他の文書と一致しています。いろいろな役所ないし部署の記録の内容が一致しているということは、どの記録も間違いなく記入され保管されてきたということです。もし記録の仕方が雑であれば、このようにすべてが一致するということはあり得ず、間違いや不一致が出てくるはずでしょうもうひとつ、当方の調査員はスプリンクルの「勤務日数カード」に実際に手書きで記入していた人物をつきとめ、記載内容が正確であることを確かめてもらいました。この人は「勤務日数カード」の記載が自分の筆跡であることを認め、記載内容についても説明してくれました。この人の宣誓供述書も、すでに東京地裁に提出しています。

 

秋元 軍の記録も見つけた、というお話でしたが。

 

カルマン そうです。スプリンクルが1962年10月末から1963年4月末まで、空軍で現役任務に就いていたことを示すアメリカ政府の軍関係の公式文書を2通入手しました。ここに示された軍務期間は、シアトル市人事局の「軍務に関する覚書」の記載内容と完全に一致しています。これによれば軍務は4月26日に終わっていますが、スプリンクルが軍務休職を終えて警察に戻ったのは5月6日です。この差異は、軍務が終わった日から警察に復職する日までの間、しばらく休みを取ったものと思われます。

 


拳銃・バッジ・手錠の貸与記録も全て一致

秋元 たしか、警察の資財室でも記録が見つかったとおっしゃいましたね。まず、資財室というのは、どういうものなのでしょう。

 

カルマン シアトル警察資財室は、警察官に装備や備品を貸与する部署です。たとえば、警察官は拳銃、バッジ、手錠などいろいろな警察用品を貸与されます。資材室では、備品の貸与と返納の日付を一つひとつ記録しているのです。私は調査員たちとともに、まる一日かけて資材室の記録をすべて調べました。創価学会側の調査員たちも前に同じようなことをしたようです。資材室を調べるうちに、拳銃、バッジ、手錠の貸与について古い記録が見つかりました。スプリンクルの拳銃、バッジ、手錠が1962年10月末にされたことが、カードに記録してあったのです。その後、彼が軍務休職の期間中に、拳銃、バッジ、手錠を貸与された形跡はありませんでした。そして警察に復職する直前の1963年5月初めに、再びスプリンクルは拳銃、手錠、バッジ、身分証明書、警棒、その他さまざまな警察用品を貸与されていました。こうした記録文書もすべて東京地裁に提出済みです。

秋元 資財室の記録で、スプリンクルが軍務休職を6カ月間取っていたことは、ますます裏付けられるわけですね。

 

カルマン 資財室の記録が示しているのは、彼が1962年10月末ごろに警察官としての装備品を返納し、1963年5月初めに新しく貸与されたということだけです。しかしこの記録を人事部、年金局、軍関係などの記録と合わせて考えれば、彼が問題の期間に軍務休職中であったという点ですべてが一致しています。軍務休職中だったことを示す人事記録と年金記録、そして空軍で現役任務に就いていたことを示す軍関係記録とシアトル市人事局の記録を見れば、彼は6カ月の軍務休職に入って、当時の警察マニュアルの定めるとおり警察装備品一式を返納した、というのが動かしがたい結論です。これらの証拠を検討すれば、東京地裁にも、スプリンクルの証言がまったくの虚構であることは明らかとなるでしよう。


アメリカの裁判所、最終判断を日本に委ねる

秋元 しかし、アメリカの裁判所では、虚偽を述べたスプリンクルに対する制裁の申立が、最近却下されたようですが。

 

カルマン ええ、正直申し上げて、残念な決定でした。スプリンクルが1963年3月当時には軍務休職中であったと判明したため、私はとりあえず、一部入手済みであった証拠をワシントン州の裁判所に提出して、スプリンクルに金銭賠償させるよう求めました。これに対して、スプリンクルと創価学会の弁護士達は、それぞれ答弁書を提出し、スプリンクルの信用性の有無はクロウ事件を審理している日本の裁判所に判断を任せるべきだ、と主張しました。ワシントン州の裁判所はこれを認めて、スプリンクルの証言の真偽については、ワシントン州ではなく日本の裁判所に委ねるべきであるとして、私達の申立を却下したのです。同裁判所はまた、提出された記録だけでは、スプリンクルの証言の真偽を明確かつ確信するに足る程度に立証するに至っていないと述べています。私は、この判断には同意できません。

 

カルマン ワシントン州の裁判所に提出した記録類は、一部だけですが、それだけでもスプリンクルが嘘をついたと認定するに十分なものだったはずです。しかし、もともとワシントン州の裁判所は本件には余り関わり合いになりたくなかったようです。現に、同裁判所はスプリンクルその他の証人から直接証言を聞こうとはせず、スプリンクルのそれまでの証言と多数の記録文書との食い違いについて、スプリンクル本人から説明を求めようともしませんでした。要するに同裁判所は、当方が当初提出した証拠書類だけでは不十分としながらも、それ以上に証拠調べをするなど、事実調べに深く立ち入ることを避け、スプリンクルの証言の真偽については、最終判断を東京地裁に委ねようとしたものと解されます。また、ワシントン州の裁判所に出した証拠は、東京地裁に提出した証拠の、一部だった点も言っておかねばなりません。私達は、ワシントン州の裁判所も自分のところの訴訟とは関係のない申立にそんなに時間を取られたくないだろうと考え、余り多くの負担をかけないように、膨大な記録の全部を出すことはしなかったからです。たとえは、スプリンクルの軍関係の記録は提出していません。

 

カルマン これとは対照的に、東京地裁の方には軍関係の記録やその他多数の記録をすべて提出してあります。たとえは、ワシントン州の裁判所の決定のすぐ翌日、シアトル警察の非常に高い地位の現職高官が警察を代表して、宣言書を作成してくれましたが、その中で、1963年3月当時スプリンクルが軍務休職中であり、シアトル警察官として行動する権限がなかった旨を明確に証言してくれています。この宣言書は近く東京地裁に提出される予定です。残念ながら、これはワシントン州での申立には間に合わず、ワシントン州の裁判所はこれを見てはいません。またこれ以外にも、過去にシアトル警察の副署長を務めた多数の人々の宣誓供述書も得られましたが、いずれも先にあげた記録類を見て、スプリンクルは軍務休職中で、いわゆるクロウ事件に警官として関与できたはずがないと一致して述べています。これらもワシントン州の裁判所には出ていませんが、東京地裁には提出済みです。

 

秋元 その元副署長の方々について、もう少し詳しくお話しください。

 

カルマン ええ、たとえば最近退職したある元副署長は、シアトル警察で事務総長と呼ばれる地位にあった人で、事務総長というのは署長に次ぐ2番目に偉い人ということになりますが、この人の宣誓供述書をちょっと引用しますと、「1963年3月当時、ロナルド・スプリンクルはアメリカ空軍に勤務するための軍務休職でシアトル警察を離れており、同月のいかなる事件にもシアトル警察官として関与できたはずがない」ことは、多くの記録により明確に立証されている、と述べています。ほかにも何人かの元副署長が、同じ趣旨の宣誓証言をしてくれました。これも全部東京地裁に提出してあります。ワシントン州の裁判所とは違い、こうした証拠を全て提出してある東京地裁の場合は、スプリンクルの証言がまったくの虚偽であるという結論を下すのは容易であると確信しています。

 

秋元 先ほど、シアトルで新しい調査員を雇った、とおっしゃいましたが彼らの意見はどうですか。

 

カルマン なによりも調査員たちの功績は絶大です。彼らの努力なしでは、スプリンクルについての真相は分からないままだったでしょう。また、多くの証拠にはお構いなしに、学会側がスプリンクルの話に固執することに対して、調査員の間に憤りの感情があることも付け加えておきます。最近の学会側の新聞紙上では、スプリンクルは軍務休職を取ったことは事実であるが、1963年3月当時、警察官として勤務に服していたと主張しているようです。軍務休職が早期に終わったのか、軍務休職中にも関わらず、何らかの事情で警察官として勤務していたのか、いずれともはっきりしていません。9月28日の東京地裁の口頭弁論で、宗門側弁護士が、「スプリンクルは早期除隊になったというのか、それとも軍務に就いていながら警察でも勤務したというのか、そのどちらか」と質問したのに対し、「次回に答える」といって、即答を拒否しました。真実を述べているなら、即答するに何も難しいことはないはずです。

 

カルマン しかし、早期除隊などといえば、スプリンクルに関するあらゆる文書記録にまっこうから矛盾してしまいます。軍と警察の兼務はどうでしようか。おもしろいことに、学会側の調査員たちは、スプリンクルが軍と警察の職務を同時にこなすことが可能だったかどうか、元警官たちに聞きまわっていることです。彼らが多数の良識ある人々から得た答えは「不可能」というものでした。学会は、どういう筋書きでいったらいいか分からなくて、現在、いろいろな筋書きを「テストしている」ように思えます。

 

カルマン この点について特におかしいのは、ロナルド・スプリンクルが最近学会側調査員の一人と昼食を共にしたことです。無給軍務休職でシアトル警察を離れていながら、どうすれはいわゆるクロウ事件に関与できたのか、スプリンクルが学会に説明できたとすれば、学会は東京地裁で説明できていたはずでしょう。しかし学会側は今日まで、各種記録とスプリンクルの証言の矛盾についていかなる説明もできていません。スプリンクルは今日まで、クロウ事件についての証言と軍務休職の事実との明らかな矛盾を説明する宣誓供述書を一通も東京地裁に提出していません。学会がスプリンクルと接触を続けていることは明らかですが、軍務休職についてスプリンクルから返ってくる答えは完全な沈黙だけです。これだけで全てを物語っています。

 


その他の警察官証言はスプリンクルと一蓮托生

秋元 ところで、スプリンクルの話を裏付ける証言をしている警官もいます。こちらはどうなのでしょう。

 

カルマン あの警官たちはみな、要するにスプリンクルと一蓮托生です。たとえばメイリーという警官は、シアトル事件の当夜スプリンクルのパートナーであったと証言しています。もちろん、スプリンクルは当時警察にいなかったのですから、真実であるはずがありません。ほかにもメイリーの証言には怪しい点がいろいろありますが、時間の関係で詳細はまた別の機会にお話しましよう。

 

秋元 本日のインタビューを終える前に、最後にお聞きしたい点があります、スプリンクルやクロウなど、本訴訟での学会側の主な証人はだいたい、1963年当時シアトルの七番街とパイク通りの交差点周辺が売春の中心地であったと証言しています。あなたと調査員の方々はこの問題も追求して、違う結論に達したそうですね。

 

カルマン その通りです。本件についての調査の中で、シアトル警察が毎月、風紀犯罪逮捕報告書というものを出していたことが判明しましたこれは、売春関連の逮捕などを、逮捕場所も含めてリストにしたものですが、このうち、1962年から1968年までの報告書の大部分が見つかりましたそこで、売春関連逮捕がどの地域に多かったかを年ごとに分けて分析して見ました。スプリンクルはシアトル・警察の統計をもとにして、七番街とパイク通りの周辺が売春の中心地だったと言っていましたが、その統計では、売春が多発していたのはシアトル市内のどの地域かを正確に把握する情報は得られません。私たちが分析したのは、逮捕場所を特定した記録でした。結果は驚くべきものでした。

 

カルマン 七番街とパイク通りの交差点周辺での売春関連逮捕は、1962年にはゼロ、1963の十カ月分の報告書(残念ながら、2カ月分が欠けていました)で、わずか1件、1964年も1件しかなかったのです。対照的に、たとえば国際地区と呼ばれる場所など、シアトル市内のほかの地域では、同じ時期にも多数の逮捕がありました。この逮捕の統計によると、パイク通り周辺での逮捕が増えてくるのは1960年代後半のことなのです。当時の新聞記事や警察内部の連絡文書も、七番街とパイク通り周辺に売春が増えたのは1960年代後半になってからであることを裏づけています、学会側は、1960年代後半と1960年代前半を混同したか、あるいは、1963年当時のパイク通り周辺が後の時代のパイク通り周辺と同じであったかのように、わざと事実を歪めたものと思われます。。

 

秋元 言い換えますと、あなたは調査員とともに1960年代シアトルの売春状況を調べたその結果は、1963年当時に七番街とパイク通りの周辺が売春の巣窟だったという学会の主張は誤りである、ということですね。

カルマン その通りです。

 

秋元 インタビューを終える前に、最後に何かおっしゃりたいことがおありですか。

 

カルマン 本件に関して仕事をする機会が得られたことをうれしく思っております。私達が収集した証拠は十分に説得力のあるものですから、宗門は東京地裁において必ず正当な勝訴判決を得られるものと確信しています。

 

秋元 カルマンさん、本日は長時問にわたりいろいろご説明いただきありがとうこざいました。今後ともよろしくお願いいたします。

 

カルマン はい、今後とも精一杯努力する所存です、本日、秋元御尊師には、私達が東京地裁に提出した証拠について熱心にお聞き下さり、ありがとうございました。