御法主日如上人猊下御言葉

平成20年元旦勤行の砌
平成20年1月1日 於 総本山客殿


 立宗756年の新春、あけましておめでとうございます。宗内僧俗の皆様には、すがすがしく「飛躍の年」の新年を迎え、決意も新たにいよいよの御奉公、御精進をお誓いのことと存じます。

 本年「飛躍の年」は、いよいよ「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」の大佳節まであと一年、御命題達成の鍵を握る、まことに大事な年であります。総仕上げとなる本年を勝利することは、御命題達成の絶対要件であります。眼前の目標を達成せずして、未来を望むことはできないからであります。

 よってこの一年、全国すべての講中は異体同心、一致団結して、持てる力をすべて出しきり、必勝を期して広布への闘いを展開していただきたいと思います。 具体的に言えば、本年度、それぞれの講中で立てた誓願、なかんずく折伏は必ず達成することであります。当然、折伏を行じていけば、様々な困難や障害が行く手を阻(はば)むことは必定であります。もちろん内外の魔も起きてきます。しかし、それを乗りきることが仏道修行の厳しさであるとともに、信心修行の尊さでもあります。厳しさの先には必ず、すばらしい結果が待っています。

 世間でも「艱難(かんなん)、汝(なんじ)を玉にす」と言いますが、人間は多くのつらいことを経験して、初めて立派な人物になれるのであります。仏道修行も同様であり、仏道修行の厳しさ、信心修行の尊さを知れば信心の厚みも増し、人間的にも大きくなり、現証として折伏にも大きな変化が表れてくるのであります。

 また「流るる水は腐らず」と言いますが、講中の全員が心を一つにして御本尊に真剣に祈り、確たる信念を持って行動を起こせば、必ず誓願は達成できます。ただし、いつも申し上げておりますように、動かなければ結果は出ません。そして、誓願はあくまでも達成するためにあることを知るべきであります。

 大聖人は『持妙法華問答抄』に、

受けがたき人身をうけ、値(あ)ひがたき仏法にあひて争(いか)でか虚しくて候べきぞ。同じく信を取るならば、又大小権実のある中に、諸仏出世の本意、衆生成仏の直道(じきどう)の一乗をこそ信ずべけれ。持つ処の御経の諸経に勝れてましませば、能(よ)く持つ人も亦(また)諸人にまされり。爰(ここ)を以て経に云はく「能く是の経を持つ者は一切衆生の中に於て亦為(こ)れ第一なり」と説き給へり。大聖の金言疑ひなし。(御書298ページ)
と仰せであります。

 この御文意は「受けがたき人身をうけ、値た難き仏法に値い奉った今、どうして虚しいことがあろうか。同じく信を取るのであるならば、諸仏出世の本意、衆生成仏の直道たる妙法をこそ信ずるべきである。信じ持ち奉るところの法が勝れていれば、持ち奉る者もまた諸人に越えて勝れているのである」と仰せられいるのであります。

 また、同じく『持妙法華問答抄』に、

されば持たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし。(御書298ページ)
とも仰せであります。すなわち、今、我らが持ち奉るところの妙法は、法華本門寿量品の肝心、文底秘沈の大法、独一本門の妙法にして、「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成り給へり」(御書1448ページ)と仰せられる如く、釈尊をはじめ三世十方の諸仏成道の根源の法であり、一切衆生成仏の直道であります。

 つまり、今、我らが持ち奉るところの妙法こそ、あらゆる人々、それがたとえ悪逆の提婆達多が如き人であったとしても、順逆二縁とも必ず救護(くご)し給うところの、一閻浮題第一の妙法であります。したがって、この最為第一の妙法を信受し奉る我らもまた、広大無辺なる妙法の功徳によって第一となれるのであります。

 妙法信受の功徳によって、我ら末法の荒凡夫もまた閻浮第一の人となることが必ずできるとの揺るぎない確信、この絶対の確信こそ大切であり、この確信があればこそ、あらゆる困難も障魔も乗りきることができるのであります。されば、一人ひとりが法華講員としての自覚と絶対の確信を持って、本年度を闘いきっていただきたいと思います。

 また、既に御承知のとおり、本年は2月3日の大阪・京セラドームにおける「西日本大会」を皮切りに、全国4カ所において「地涌倍増大結集推進決起大会」が執り行われます。これは、平成21年の御命題の達成を期して「プレ大会」として開催されるものであります。したがって、この決起大会の成否はまことに大事であります。我らはこの決起大会をなんとしてでも勝利して、来たるべき平成21年に大佳節へ向けて、法華講の総力を結集して勇猛果敢に大折伏戦を展開し、御命題の「地涌倍増」と「七万五千の大結集」、さらに「記念総登山」の達成を目指して邁進していきたいと思います。

 思うに今、我らは受け難き人界に生を受け、値い難き仏法に値い奉り、今また、値い難き『立正安国論』正義顕揚750年の大佳節に巡り値えることは、宿縁深厚のしからむところ、まさに一眼の亀の浮木(ふもく)に直えるが如き、まことにもって稀(まれ)なことであり、この稀なる機会をけっして無為に過ごすようなことがあってはなりません。この未曽有(みぞう)の絶好の機会を無為に過ごすことほど無慙なことはありません。

 「知恩報恩」という言葉がありますが、今、またとない絶好の機会に恵まれた我らは、まず仏祖三宝尊に対し奉り心から御報恩謝徳申し上げるとともに、法華講同士の方々、有縁の方々、また今日、己れをあらしめたすべての人に対し、心から報恩感謝しなければなりません。その報恩感謝の気持ちは、いかにして顕すのか。もし、その人がいまだ信心をしていないのであれば、今日から直ちに折伏するべきであります。心から相手の人の幸せを願う慈悲の心と感謝の気持ちを込めて折伏すべきであります。折伏をもって恩返しをすることが、真の恩返しであります。

 章安大師の言葉に、「慈無くして詐(いつわ)り親しむは即ち是(これ)彼が怨(あだ)なり」(御書600ページ)と、また、「彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」とあります。自分の周りにいる恩ある方々、有縁の方々に、一人でも多くの大聖人の仏法を下種結縁し、折伏を行じていくことが、人として、なんずく法華講員として最も大事であることを忘れてはなりません。

 どうぞ、皆様一人ひとりがこのことをしっかりと心に刻み、本年「飛躍の年」の年頭に立てた誓願は、講中が一丸となって必ず達成すること。「地涌倍増大結集推進決起大会」を完全勝利すること。このことが御命題達成の鍵を握るまことに大事な要件であることを確認し、いよいよ誓願達成へ向けて御精進くださることを心から願い、新年の挨拶といたします。




御法主日如上人猊下御言葉

唱題行(1月3日)の砌
平成20年1月3日 於 総本山客殿


 皆さん、新年おめでとうございます。 いよいよ、来るべき「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」の大佳節まであと一年となりましたが、本年「躍進の年」は、御命題達成の鍵を握る、まことに大事な年であります。御命題達成の成否は、本年「躍進の年」を勝利するか、しないかにかかっていると言っても、けっして過言ではありません。御命題を達成するためには、まず眼前の目標を達成することが肝要であるからであります。

 これは元旦にも申し上げたことでありますが、本年を勝利するためには、2つの要件があります。一つには、各講中ともに、本年度に立てた誓願は必ず達成すうることであります。特に、折伏は「地涌倍増」の御命題にお応えするためにも、講中の総力を結集して達成しなければなりません。二つには、全国4カ所で開催される「地涌倍増大結集推進決起大会」を完全勝利することであります。御承知のとおり、この大会は、御命題の達成を期して「プレ大会」として行われるものでありますが、僧俗が心を一つにして取り組み、その完全勝利の結果をもって、平成21年の大佳節へ向けて大折伏戦を展開し、もって御命題を達成するところに開催の意義が存するのであります。したがって、本年「躍進の年」は各講中ともに、この2つを目標に闘っていただきたいと思います。


 さて、大聖人様の仏法は、あらゆる人々をことごとく成仏せしめる偉大な仏法であります。『六難九易抄』には、

さて此の経の題目は習ひ読む事なくして大なる善根にて候。悪人も女人も畜生も地獄の衆生も十界ともに即身成仏と説かれて候は、水の底なる石に火のあるが如く、百千万年くらき所にも灯(ともしび)を入れぬればあか(明)くなる。世間のあだなるものすら尚加樣に不思議あり。何に況んや仏法の妙(たえ)なる御法(みのり)の御力をや。我等衆生の悪業・煩悩(ぼんのう)・生死果縛(しょうじかばく)の身が、正・了・縁の三仏性の因によりて即ち法・報・応の三身と顕はれん事疑ひなかるべし。『妙法の経力をもって即身に成仏す』と伝教大師も釈せられて候。心は法華経の力にては、くちなは(蛇)の竜女も即身成仏したりと申す事なり。御疑ひ候べからず。(御書1244ページ)
と仰せられております。

 この御文は、法華経の肝心たる妙法蓮華経の題目の広大無辺なる功徳について述べられ、たとえ妙法蓮華経について難解な法門などを習わなくとも、ただそれを信じて唱えただけで、いかなる悪人、女人、畜生等、あらゆる衆生がその身そのままで仏に成れる、即身成仏すると仰せられているのであります。それを「水の底の石」「闇に灯」の例を引いて説かれ、世間のことでさえ、石が火を含み、闇が明るくなる不思議を持っている。まして妙法の力においては、我ら衆生の悪業・煩悩・生死果縛の身が正了縁の三仏性の因によって、法報応の三身と転ずることができるのであると仰せられているのであります。

 「我等衆生の悪業・煩悩(ぼんのう)・生死果縛(しょうじかばく)の身」とは、凡夫が六道の生死を繰り返していく姿を示したもので、その次第は、まず貪瞋癡等の煩悩によって諸々の悪業を作り、この悪業が原因となって生死流転の苦しみを受け、さらに「輪廻三道」とも「三輪」とも言って、生死流転の苦しみがまた煩悩を生み、その煩悩が悪業を作り、悪業がまた苦しみを生むといったように、果てしなくこれを繰り返すのであります。しかし、その生死流転の身にも本来、仏と成るべき仏性、すなわち正因仏性と、その仏性を照らし顕す智慧、すなわち了因仏性と、了因を助縁として正因を開発していく善行、すなわち縁因仏性を具ており、これが妙法信受の不思議なる力用(りきゆう)によって、法報応の三身と転ずることができると仰せられているのであります。

 法報応の三身とは、仏様に具わる三身、すなわち法身如来、報身如来、応身如来のことであります。法身如来とは、真理、すなわち法の身体の意味で、永遠不変の真理の当体を指します。報身如来とは、仏と成るために無量無辺の修行を積み、その結果、報いとして得られた完全な功徳を具えた身体を指し、応身如来とは、様々な衆生の救済のために、それらに応じて現れる身体を指します。仏様は必ずこの三身を具えておりますが、またこの三身は仏のみに限らず、一切衆生にも本来的に具わっているのであります。

 故に、先程の『六難九易抄』には、「此の法華経には我等が身をば法身如来、我等が心をば報身如来、我等がふるまひをば応身如来と説かれて候へば、此の経の一句一偈を持ち信ずる人は皆此の功徳をそなへ候」(同1243ページ)と仰せあそばされているのであります。すなわち、我ら凡夫も妙法蓮華経を信受することによって、この法報応の三身を自分自身の一身に顕現することができるのであります。


 また、『当体義抄』には、

正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦の三道、法身・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じて、三観(さんがん)・三諦(さんたい)即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土(じょうじゃっこうど)なり。(同694ページ)
と仰せであります。ここで「煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦の三道」と仰せられているのは「悪業・煩悩(ぼんのう)・生死果縛(しょうじかばく)の身」と同じ意味であります。また「法身・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳」と仰せられているのは「法・報・応の三身」と同じことを言っているのであります。すなわち、その関係は、法身は法身、般若は報身、解脱が応身となります。要するに、生死流転を繰り返す、悪業・煩悩・生死果縛の身の我ら衆生も、本来的には、正了縁の三因仏性を内在しており、これを因として妙法の縁に触れ、法報応の三身と転ずることができるのであります。

 そこで問題となるのが、正しい縁に触れなければ仏性が仏性としての用(はたら)きを示さず、元の「悪業・煩悩・生死果縛の身」のままで終わってしまい、仏身を成ずることはできないということであります。故に『三世諸仏総勘文教相廃立』には、「縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値はざれば、悟らず知らず顕はれず。善知識の縁に値へば必ず顕はるゝが故に縁と云ふなり」(御書1426ページ)と仰せられているのであります。妙法蓮華経の縁に触れることがいかに大事なることか。

 そもそも迷悟は一体であり、悪業・煩悩・生死果縛の身み、法報応の三身も、その名は別ではありますが、体は別ではないのであります。ただし体は同じでありますが、触れ合う縁によって、善とも悪ともなるのであります。故に『当体義抄』には、「一妙真如の理なりと雖も、悪縁に遇へば迷ひと成り、善縁に遇(あ)へば悟りと成る」(同692ページ)と仰せられているのであります。ということは、いかなる荒凡夫であったとしても十界互具の当体なるが故に、妙法の縁に触れれば必ず転迷開悟し、成仏することができるということであります。


 今日の世の中は、末法濁悪の世相そのまま、至る所で悲惨な事件や事故が起き、多くの人々が苦しんでおります。しかし、こうした世の中の混乱と不幸は、結局は、人間が招いているのであります。したがって、これらを解決する道は、人々が世の中の道理に合った正しい見識を持ち、正しい行動をとることであります。その正しい見識と行動は、正しい教えによって初めて生まれるのであります。その正しい教えとは、もちろん末法一切衆生救済の御本仏・宗祖日蓮大聖人の仏法であります。

 大聖人様は『内房女房御返事』に、

妙法蓮華経の徳あらあら申し開くべし。毒薬変じて薬となる。妙法蓮華経の五字は悪変じて善となる。玉泉(ぎょくせん)と申す泉は石を玉となす。此の五字は凡夫を仏となす。(同1492ページ)
と仰せであります。

 皆様には、この御金言を心肝に染め、いよいよ自行化他の信心に励み、もって本年「躍進の年」の誓願を必ず達成するとともに「地涌倍増大結集推進決起大会」を完全勝利し、来たるべき平成21年の御命題達成へ向けて、異体同心、一致団結して御精進くださるよう心から念じ、本日の挨拶といたします。




御法主日如上人猊下御言葉

唱題行(1月4日)の砌
平成20年1月4日 於 総本山客殿


 立宗756年「躍進の年」、新年あけましておめでとうございます。いよいよ「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」の大佳節まであと一年、本年「躍進の年」は御命題達成の鍵を握る、まことに大事な年であります。本年「躍進の年」の勝利なくして、御命題を達成することはできません。まず眼目の目標を達成しなければ、御命題を達成することはできないからであります。

 これは元旦にも、また昨日も申し上げたことでありますが、本年「躍進の年」を勝利するには2つの要件があります。一つには、各講中ともに、本年度に立てた誓願は必ず達成することであります。特に「地涌倍増」御命題に応えるために、折伏については講中の総力を結集して取り組んでいかなかればなりません。そのためには、講中の人が志を一つにして、お互いに声を掛け合っていくことが肝要であります。お互いが声を掛け合うことによって、共通の意識と団結が生まれ、それが目標達成へ向けての力となるのであります。二つには、全国4カ所で開催される「地涌倍増大結集推進決起大会」を完全勝利することであります。御承知のとおり、この大会は、御命題の達成を期して「プレ大会」として行われるもので、僧俗が心を一つにして取り組み、その完全勝利の勢いをもって、平成21年の大佳節へ向けて大折伏戦を展開し、もって御命題達成するところに開催の意義が存するのであります。したがって、本年「躍進の年」は各講中ともに、この二つを目標に闘っていただきたいと思います。

 さて、大聖人様は『持妙法華問答抄』に、

一切衆生皆成仏道の教なれば、上根上機は観念観法も然るべし。下根下機は唯信心肝要なり。されば経には「浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は地獄・餓鬼・畜生に堕(お)ちずして十方の仏前に生ぜん」と説き給へり。いかにも信じて次の生の仏前を期(ご)すべきなり。譬へば高き岸の下に人ありて登る事あたはざらんに、又岸の上に人ありて縄をおろして此の縄にとりつかば、我(われ)岸の上に引き登(のぼ)さんと云はんに、引く人の力を疑ひ縄の弱からん事をあやぶみて、手を納めて是をとらざらんが如し。争(いか)でか岸の上に登る事をうべき。若し其の詞(ことば)に随ひて、手をのべ是をとらへば即ち登る事をうべし。「唯我(ただわれ)一人のみ能く救護(くご)を為す」の仏の御力を疑ひ「以信得入(いしんとくにゅう)」の法華経の教への縄をあやぶみて、「決定(けつじょう)無有疑」の妙法を唱へ奉らざらんは力及ばず。菩提の岸に登る事難かるべし。不信の者は堕在泥梨(だざいないり)の根元なり。されば経には「疑ひを生じて信ぜざらん者は則(すなわ)ち当に悪道に堕つべし」と説かれたり。(御書296ページ)
と仰せであります。

 機根、すなわち仏の教えを聞いて修行しうる能力・素質には上・中・下がありまして、「上根上機」とは法を聞いてすぐ理解できる者、つまり仏道修行の能力・素質が優れている者のことであります。この上根上機の者にとっての修行は「観念観法」すなわち仏の姿や真理を心に思い浮かべて念ずること、代表的なものには、天台一念三千・一心三観の修行などがありますが、こうした修行は上根上機の者にとっては可能であっても、「下根下機」すなわち仏道修行の能力・素質が乏しい者、つまり我ら末法本未有善の衆生にとっては到底、できることではありません。したがって、下根下機の末法の我ら衆生が成仏を遂げるためには、像法過時の修行である観念観法ではなく、ただ信心が肝要であると仰せられているのであります。

 而(しこう)して、その信心とは「浄心信教」すなわち清らかな心で仏を信じ敬い、疑いを起こさない信心こそ肝要であると仰せられ、例えば、高い岸の下に人がいて登ることができずにいるときに、岸の上の人が縄を降ろして救い上げようとしているのに、引く人の力を疑い、縄が弱いのでないかと危ぶんで手を差し出そうともしないのは、あたかも「唯我一人能為救護」、ただ我れ一人のみ能く衆生を救うことができると仰せられた仏のお力を疑い、「以信得入」、仏の教えを疑いなく信ずることによって必ず成仏することができるとの法華経の教えを危ぶみ、「決定無有疑」、法華経の肝心たる妙法を受持する者は、必ず成仏することは疑いないと説かれた仏の教えを疑い、妙法を唱えず、菩提の岸に登ることをしないようなものである。故に、法華経従涌出品には「疑いを生じて信じない者は、すなわち悪道に堕ちる」と説かれているのである。されば、仏を信じ、絶対の確信を持って、浄心の信敬することこそが肝要であると仰せられているのであります。つまり、浄心に信敬する者は、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちず、反対に不信は堕地獄の因と厳しく仰せられているのであります。

 故に『御講聞書』には、「所詮不信の心をば師となすべからず。信心の心を師匠とすべし。浄心信敬に法華経を修行し奉るべきなり」(御書1857ページ)と仰せであります。不信は謗法なるが故に、師とすべきではないのであります。また『御義口伝』には「浄心信敬」の浄について、「浄とは法華経の信心なり、不淨とは謗法なり云云」(御書1778ページ)と仰せであります。我らの信心においては、けっして不信・謗法があってはならないのであります。

 したがって、法華経の信心とは、現時に約せば、すなわち本門戒壇の大御本尊に 対し奉り絶対の信を取り、不信を払い、謗法の念慮(ねんりょ)を断ち、確信を持って「無疑曰信(むぎわっしん)」の信心を貫くことであります。この無疑曰信の信心こそ、毒を薬に変え、煩悩を菩提に転じ、不幸を幸にかえ、不可能を可能に換え、生死流転の身を三徳と転ずることができる、唯一最善の方途なのであります。

 要は、いかなることがあろうと浄心に信敬して、無疑曰信の信心を貫き通した者が仏祖三宝尊の御照覧を仰ぎ奉り、大御本尊の広大なる功徳によって、三世にわたる絶対の幸せを築くことができるのであります。そこに初めて「現世安穏後生善処」疑いなきものとなるのであります。

 どうぞ、皆様にはこのことをしっかりと肝に銘じ、本年「躍進の年」を迎え、一人ひとりが信心堅固に御命題達成を期して、本年度の誓願達成と「地涌倍増大結集推進決起大会」の完全勝利を目指し、御精進くださるよう心から念じ、本日の挨拶といたします。