◎御法主日如上人猊下御言葉
本日は法華講連合会第48回総会が、ここ総本山において、御隠尊日顕上人の御臨席を賜り、このように開催され、まことにおめでとうございます。
まず初めに、今回の東日本大震災により被災された皆様、同じく災害に遭われた本宗信徒の皆様に、心よりお見舞いを申し上げます。この災禍によって、多数の方が尊い命を亡くされましたことに、悲しみの念を深くするとともに、犠牲となられた方々の御冥福を衷心よりお祈り申し上げます。被災者の皆様が、このたびの痛みを一日も早く癒(いや)され、再び未来へ向かって力強く立ち上がり、強盛なる信心をもってこのたびの大難を克服せられますように、心からお祈り申し上げます。
さて、本年「実践行動の年」は、来るべき平成27・33年の目標に向かって。2年目に当たる、まことに大事な年であります。すなわち、本年「実践行動の年」の意義をしっかりと心肝に染めて立ち上がり、総力を結集して折伏の実践行動を起こすべき重要な年であります。
昨年は、国内をはじめ海外におきましても折伏の気運が大いに高まり、まことに大きな成果を挙げることができました。これもひとえに、国内外の各支部の指導教師をはじめ御信徒一同が真剣に唱題を唱え、折伏に取り組み、異体同心の団結をもってあらゆる障魔を乗り越え、戦ってきた成果であり、皆様の御健闘を心からたたえるものであります。是非、本年「実践行動の年」は、全支部が僧俗一致・異体同心して戦い、必ず誓願を達成されますように、心から願うものであります。
法華経五百弟子授記品第八を拝しますと「貧人繋珠(びんにんけいじゅ)の譬え」が説かれています。これは法華七喩の一つで「衣裏珠(えりじゅ)の誓え」とも言われている誓えであります。その内容は、
ある男の人が親友の家を訪問して、たいそうごちそうになり、酒に酔って眠り込んでしまってのであります。この時、その親友は急に旅に出なければならなくなり、眠っている友人、その友人はたいへん貧乏していたので、友人の衣服の裏に無価の宝珠、値を計ることができないほど高価な宝珠を縫い込んで出て行ったのであります。酔いから覚めた友人は、そのことを知る由もなく、その家を立ち去ったのであります。その後、その友人は相変わらず貧乏暮らしをして、わずかばかりの衣食にもこと欠く有り様で、諸国を放浪していたのであります。しばらくして、たまたま親友と会うことになったのでありますが、その親友は友人の見すぼらしい姿を見て大いに驚き、衣服の裏に縫い込んだ宝珠のことを尋ねたところ、友人は驚いて自分の衣服の裏を調べて、初めて無価の宝珠が縫い付けられいることを知ったのであります。そして、自分の愚かさを恥じるとともに非常に歓喜し、そのあとは豊かな生活を送れるようになった。
と、こういう話であります。
この誓えで、酒に酔って眠ってしまって男とは声聞、親友とは仏様に譬えられ、今まで小乗の悟りを真の仏果であると思い込んで満足していた愚かな衆生が、仏様の真実の教えを知って、初めて成仏の大利益を得ることができたことを説かれているのであります。
この御文について『御講聞書』には、「此珠とは一乗無価(むげ)の宝珠なり、貧人とは下根の声聞なり、総じては一切衆生なり。所詮末法に入りて此珠とは南無妙法蓮華経なり。貧人とは日本国の一切衆生なり。此の題目を唱へ奉る者は心大歓喜せり」(御書1884ページ)と仰せであります。つまり、酒に酔って眠ってしまって男の人とは声聞を指しますが、総じては一切衆生を指し、衣服の裏に縫い付けた無価の宝珠とは南無妙法蓮華経、すなわち法華経文底独一本門の妙法蓮華経のことであります。
また『御義口伝』には、「酔とは不信なり、覚とは信なり。今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る時無明の酒醒(さ)めたり」(御書1747ページ)と仰せであります。酒に酔うとは、仏教の正邪を弁(わきま)えず、邪義邪宗を信じて不幸な生活から抜け出せないことであり、酔いから覚めるとは、邪義邪宗の謗法を捨てて正法に帰依し、目覚めることであります。思うに、今、世の中を見ると、謗法の酒に酔い、そこから抜け出すことができずにいる人が、いかに多いことか。我々は、このような人達に対して妙法を下種し、折伏を行じて、覚醒させていく大事な使命があることを忘れてはなりません。
また、この譬えはすべての衆生には本来的に仏性が具わっていること、すなわち一切衆生悉(しつ)有(う)仏性を明かし、衆生にはことごとく成仏の可能性があることを示されているのであります。しかし、肝心なことは、仏性を具ているというだけでは、直ちに成仏には至らないのであります。仏性が仏性としての用(はたら)きをするためには、正しい縁に触れなければ仏性は仏性としての用きをしないのであります。
故に『三世諸仏総勘文教相廃立』には、「縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値はざれば、悟らず知らず顕はれず。善知識の縁に値へば必ず顕はるゝが故に縁と云ふなり」(同1426ページ)と、仏性はあっても、善知識の縁に値わなければ「悟らず知らず顕はれず」と仰せであります。
その善知識とは、一般的には、教えを説いて仏道へと導いてくれる善い友人・指導者のことを指しますが、ここで善知識と仰せられいるのは、末法御出現の御本仏、主師親三徳兼備の宗祖日蓮大聖人様のことであります。つまり、御本仏大聖人様が末法に御出現あそばされて一切衆生の三因仏性を扣発(こうはつ)し、凡夫即極の成仏を現ぜしめるが故であります。したがってまた、今後に約して申せば、人法一箇の大御本尊を指すのであります。
一方、悪知識とは、甘言(かんげん)を用い、詐(いつわ)り媚び、言葉巧みに人の心に取り入って、善良な心を破る者のことであります。具体的には『御講聞書』には、「末法当今に於て悪知識と云ふは、法然・弘法・慈覚・智証等の権人謗法の人々なり。善知識と申すは日蓮等の類の事なり」(同1837ページ)と仰せのように、悪知識とは、法然、弘法、慈覚、智証等の謗法の者を指し、仏道修行を説いて人を悪に導く者のことであります。
しかし『種々御振舞御書』には、
釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ。今の世間を見るに、人をよくな(成)すものはかたうど(方人)よりも強敵(ごうてき)が人をばよくなしけるなり。眼前に見えたり。此の鎌倉の御一門の御繁昌は義盛と隠岐法皇(おきのほうおう)ましまさずんば、争(いか)でか日本の主となり給ふべき。されば此の人々は此の御一門の御ためには第一のかたうどなり。日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信(かげのぶ)、法師には良観(りょうかん)・道隆(どうりゅう)・道阿弥陀仏(どうあみだぶつ)、平左衛門尉・守殿(こうどの)ましまさずんば、争でか法華経の行者とはなるべきと悦ぶ。(同1063ページ)
と仰せられています。すなわち、仏弟子となりながら退転し、逆罪を犯して釈尊を迫害した、悪知識の最たる提婆達多こそ善知識であると仰せられ、また大聖人が仏に成るための第一の味方は、大聖人を小松原で襲い、弟子を殺害し、大聖人に傷を負わせた東条影信であり、あるいは大聖人を亡き者にしようと讒言(ざんげん)をした極楽寺良寛、道隆や道阿弥陀仏であり、また竜の口の法難・熱原法難の首謀者である平左衛門尉頼綱であると仰せであります。
まさしく「人をよくな(成)すものはかたうど(方人)よりも強敵(ごうてき)が人をばよくなしけるなり」と仰せのように、上辺だけの味方となる者よりも、妙法を貫く上の様々な妨害や難をなす者こそ、むしろ信心を奮い立たせ、それをバネとして己れの信心を擁立していくならば、それは善知識であると仰せられているのであります。故に、大聖人様は『種々御振舞御書』に、「相模守殿こそ善知識よ。平左衛門こそ提婆達多よ」(同ページ)と仰せられているのであります。困難にぶつかった時こそ、我々はこのことをしっかりと胸に刻み、ますます信心強盛に、いかなる難をも乗り越えていくことが肝要であります。
先程も申し上げましたが、人はすべて仏性を具ており、だれもが成仏の可能性を持っております。しかし、現実には謗法の悪縁によって仏性が冥伏(みょうふく)したままで、多くの人が不幸に陥っているのであります。こうした人達に対し、一日も早く、また一人でも多く、妙法を下種し、折伏して正法に帰依せしめ、真の幸せに導いていくことが、今、我々本宗僧俗がなすべき最も大事なことであります。特に、このたび東日本大震災を見る時、その感を深くするものがあります。
大聖人様は『当体義抄』に、「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦の三道、法身・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じて、三観(さんがん)・三諦(さんたい)即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土(じょうじゃっこうど)なり」(同694ページ)と仰せであります。
この御文のなかの「其の人の所住の処は常寂光土(じょうじゃっこうど)なり」との文について、日寛上人は『当体義抄文段』に、「『其の人』とは即ち是れ三道即三徳の妙人、是れ正報なり。『所住の処』等とは依報なり。中に於て『所住之処』の四字は依報の中の因なり。『常寂光土』の四字は依報の中の果なり。当に知るべし、依正不二なる故に」(御書文段 622ページ)と御指南あそばされております。
まさしく妙法信受の功徳は、煩惱・業・苦の三道を、法身・報身・解脱の三徳と転じ、正報たる己自身がまず浄化され、個から全体にその輪が広がることによって衆生世間を大きく変え、さらに依正不二の原理によって、その変化は依報たる国土世間にも及び、その人の所住の処を常寂光土と化していくのであります。
その常寂光土実現のための具体的実践法こそ、破邪顕正の折伏であります。故に大聖人様『立正安国論』に、「早く天下の静謐を思はゞ須(すべから)く国中の謗法を断つべし」(御書247ページ)と仰せであります。すなわち、天変地夭をはじめ戦争、飢餓(きが)、人心の攪乱(こうらん)等、世の中の不幸と混乱と苦惱の原因は、ひとえに謗法害毒にあり、その謗法を断たなければ真の平和も国土の安穏も訪れてこないのであります。
されば『立正安国論』には、「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ(やぶ)壊れんや。国に衰微(すいび)無く土に破壊(はえ)無くんば身は是(これ)安全にして、心は是禅定ならん。此の詞(ことば)此の言(こと)信ずべく崇(あが)むべし」(同250ページ)と仰せであります。
申すまでもなく「実乗の一善」とは、法華経本門寿量品文底独一本門の妙法蓮華経にして、三大秘法の随一、本門の本尊ことであります。すなわち「実乗の一善に帰せよ」とは、万民一同が謗法の念慮を断ち、三大秘法の大御本尊に帰依することが、国土を安ずる絶対不可欠な要件であることを示されているのであります。
されば、我ら一同、この御本仏の御金言を心から拝信し、今この時こそ、全員が立ち上がり、世の中の安泰と平和と仏国土の実現を願い、総力を結集して折伏を行じていかなければならないと思います。そのためには、まず、本年はすべての支部が必ず折伏誓願を達成することであります。どうぞ、皆様には、「大悪を(興)これば大善きたる」(同796ページ)との御金言を拝し、ますます強盛な信心に立ち、誓願達成へ向けて御精進くださるよう心から願い、本日の挨拶といたします。
■挨拶 法華講連合会委員長・柳沢喜惣次総講頭
仏祖三宝尊御照覧あそばされる総本山において、御法主日如上人猊下・御隠尊日顕上人猊下の御臨席を仰ぎ奉り、先の東日本大震災を乗り越えてここに開催される日蓮正宗法華講連合会第48回総会、各会場の全国の皆さん、おめでとうございます。
御法主上人猊下におかせられましては、御法務、殊のほか御繁多の中、御臨席賜り、ただ今は甚深の御指南を賜り、まことにありがとうございました。謹んで御礼申し上げます。また、御隠尊日顕上人猊下、総監・八木日照御尊能化、重役・藤本日潤御尊能化にも、御多忙の中を御出席を賜り、ありがとうございました。さらに宗務院・内事部ご出仕の諸役の御尊師方、指導教師の御尊能化・御尊師方にも、御出席をいただき、ありがとうございました。
はじめに、去る3月11日に起こりました東日本大震災において被災された皆様に、衷心よりお見舞いを申し上げます。
さて、この大震災については、未だ経験のない巨人地震と、青森から福島、茨城に至る長い海岸線が大きな津波に襲われたこと、そして福島第一原発の緊迫した状況もあって、全国民が何日もテレビに釘付けとなり、関係者は被災した家族や知人友人の安否情報を求め、無事を一心に祈りました。そして、今もって心の中で、「一体今回のことは、どう捉えたらよいのだろうか」と迷い、その答えを探しているのであります。
我々もまた同じように答えを待っているとしたならは、それは間違いであると私は申し上げたい。では、どう捉えたらよいのかと申しますと、「罰だ」「利益だ」と次元の低い価値観や、対岸の火事、他人事のような捉え方、これは大間違いです。
大聖人様は正嘉元年、鎌倉の寺社が残らず倒壊するほどの大地震、前後してうち続く国土の災難を御照覧あそばされ、「日本国に此をしれる者、但日蓮一人なり」(御書538ページ)と、いよいよ『立正安国論」として顕していかなければならない時の到来を観じられるのであります。そこで駿河の国、岩本の実相寺へ出向かれ、一切経をご覧あそばされます。
3年後の文応元年、大聖人様は、「世皆正に背き、人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」(同234ページ)と『立正安国論』をもって、天下に広くお示しくださいました。このような答えを、この時代の民衆一人ひとりの心に叩きつけられるお方は、他に一人もおりません。
今回の大震災の原因はこれだと言えるのは、我々一人ひとりなのであります。それを、マスコミの情報から得ようなどと考えるのは、まことに謗法っ気の充満した考え、未熟な信心であります。
また、『立正安国論』の御提出より9力年にわたり、残る二難、就中(なかんずく)、他国侵逼難の来ることを叫ばれたこと、文永元年の大明星をご覧になりいよいよ此の災いの根源を知ったこと、そして、「既に勘文之に叶ふ。之に準じて之を思ふに、未来も亦然るべきか、此の書は徴(しるし)有る文なり」(同420ページ)ということを『立正安国論奥書』に仰せであります。この「未来も亦然るべきか」との仰せは、広宣流布を現実の上に考えていない人々には、きちんと捉えることはできません。また、自分の信心が広宣流布に近づくことなど、覚束ないのであります。
当時の為政者にとっては、残る二難はたいへんな問題でありました。今、我々にとっての大きな問題は、世界中がこれだけ文化が進んできた原動力、そして生活レベルを維持するのに必要なのは電力であり、それを原子力に大さく頼っていたのが、危険性が明らかになり、頼れなくなってしまったことです。
謗法の価値観の中に生活の足場がありますと、周囲と一緒になって、ただ毎日が忙しく終わってしまうのでありますが、今回の大震災で道路や鉄道がストップし、節電のための計画停電によって、あるいは余震に怯え動き回るのを控えたことで、今まで疑いもなくやっていた行動や物を相当省いても支障がないことを、実感した人も多いのではないでしょうか。私は自分自身でも、過去の価値観を引きずっていたのが、これでけじめがついた感じをいたします。
生活の中から謗法っ気を排し信心即生活を実行するならば、謗法からはまことに付き合いの悪い人間となりますが、今、その価値観の大転換の時を迎えていると思うものであります。それを、何か自分の生活レベルが低くて、謗法のほうが生活レベルが高いように思っているならば、既に相当、信心が脱線しているのであります。そこに今回、「早く一人ひとりが目覚めなさい。日興上人様以来、代々、血脈嗣法の御法主上人猊下が、こちらに向かって行くのだとお示しくださっているぞ」と、大震災によって誡められたと観ずるものであります。
そこに思い起こさねばならないのは、一昨年、大聖人様『立正安国論』正義を顕揚あそばされてより750年を期して、正義の顕揚に挙(こぞ)って立ち上がることを日蓮正宗として宣言申し上げた立正安国論正義顕揚750年記念大法要と、あの7万5千名の大総会であります。今こそ法華講は、緩み切った信心と決別し、御法主日如上人猊下の御指南に一結して立ち上がる時であります。
被災地より参加された皆様も、そうでない方々も、お帰りになりましたならばこのことをよくお伝えいただき、指導教師の御尊師のもと、みんなで直ちに決意を行動に移していただきたいことを念願し、私の挨拶といたします。
※柳沢氏は4月15日付で総講頭を辞任した。(妙音編註)