資料E(創価学会からの『お伺い』書に対する宗務院の返書)


創価学会会長 秋谷栄之助殿

第35回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ねの文書に対して、7日以内に文書による回答を求めましたところ、あくまでも話合いでという一方的な返答で、回答を示されないばかりでなく、かえって「お伺い」なる文書をもって、9項目の詰間状が提出されてまいりました。

当方からの文書に誠意ある回答が寄せられない今、これに答える必要はありませんが、あまりにも信心のない、哀れな姿を黙視することが出来ず、正信に目覚める一助になればと認(したた)めました。よくよく熟読玩味下さい。

以上

平成2年12月29日
日蓮正宗総監 藤本日潤



[1]本年7月21日の池田・秋谷両氏の御目通りの件−御法主上人の発言封じについて−

(イ) (イ)の件は、御法主上人のお言葉のすり替えと軽蔑の言が目立ちます。

まず、御法主上人が「丑寅勤行の参加人員が少ない」と言われたように書いていますが、これはお言葉のすり替えです。長い間、学会では登山宿泊者の4分の1しか出席させなかったことが判り、かつ、せっかく登山したのに丑寅勤行に出られないという一部信徒の声も耳に入り、また登山センターの中心者に話しても、一向に埒が明きませんので、「画一的に4分の1にしないで、出たい人は出させてあげたらどうですか。そのかわり出たくない人が多いなら、出なくても、また少なくてもよいのです」という趣旨を述べられたので、参加者が少ないという苦情を申されたのではありません。一人一人の信心を大切にされる御法主上人のお心に対し、本年7月17日の連絡会議に出席した学会首脳の各氏が、軽はずみな批判をしたことは、御法主上人を蔑(ないがし)ろにしているものと思います。

すなわち、当日の席上、まず八尋氏は「ヨーロッパの微妙なことをお話して理解してもらい、それが終わって立川。そういう中で、ふさわしい話ではないと思った。猊下と名誉会長の話の中で出てくる話ではないな。むしろ連絡会議でやるべき話しではないか。ふさわしくない話だと思った」と批判しています。次に、山崎氏は「今のような話は、連絡会議でやってもらいたい」と述べ、次に秋谷氏が「丑寅勤行の話は、連絡会議で言っておけよと言っていただきたい。名誉会長を煩わせたくない」と言い、野崎氏は「名誉会長が、猊下に呼ばれて言われたという形になる。権威を押しつけられるような印象で、よくないと思う」と、わけの判らない形式論を述べて、御法主上人が権威を押しつけるものと謗り、また森田氏は「猊下と名誉会長の話はもっと高次元の話をしてもらいたい」と、御法主上人のお話を侮辱しております。

御法主上人が、たまに名誉会長の訪問を受けて、「ご苦労様でした」と種々ねぎらわれた後、名誉会長の話を長時間聞かれ、その後、立川寺院の建立が遅れていることや、丑寅勤行に関することをそれぞれ申されたことが、なぜそのような批判とか憤慨に当たるのでしょうか。丑寅勤行に出たい人が出られないのは可哀想だという御法主上人の御慈悲のお言葉を、低次元とする批評こそ無漸極まりないものと信じます。また、そのことを、怨念をもって後々まで問題にするのでは、本当に恐ろしく、呆れ果てて言葉もありません。さらに、それほど名誉会長がお疲れならば、ゆっくり疲れを癒した後に御目通りをされるのが、むしろ礼儀ではないでしょうか。御法主上人は、いついかなるときでも、早急においで下さいなどとは、一言も仰せられたことはないはずであります。

しかるに、前記の各氏の一連の発言は、明らかに御法主上人のお言葉に対する干渉であり、言い掛かりをつけるものであります。これはまさに御法主上人に対する軽蔑以外の何ものでもありません。軽蔑の言には、すなわちその心に驕慢があるからであります。これは誰が見ても明らかな道理であると思います。したがって、御法主上人はこの報告を聞かれて、7月21日の御目通りの際に、池田・秋谷両氏に対して「そういう言は、法主の発言を封ずることになる」と、何度も意を尽くしてお話をされたのですが、一向に理解しないという経過の上で、「驕慢謗法ですよ」と仰せられたのであります。まことに理路整然としていると確信しております。

とくに、野崎氏の「権威云々」とか「よくない」などの発言は、どこに信仰心があるのかを疑うものであります。逆に、御法主上人が自らの分を弁えずに、権威ある名誉会長を呼びつけたというような印象を懐くとするのは、本宗の信仰から見て本末転倒であると指摘します。一宗を統率される御法主上人が、必要と思われたことを、誰人に対して述べられても、それに信伏随従するのが信徒の立場であり、仮にも文句や言掛りをつける筋合いはありません。しかも、7月21日の御目通りの席上、御法主上人からの御注意に対して、最終的に名誉会長は、「(今後、御法主上人の御発言の)封じ込めみたいな言い方に対しては、注意します」と述べた由、伺っております。それにもかかわらず、今回、このように蒸し返してきたことを考えるとき、「注意します」という反省の意が、まったく失われております。このことは、信徒として、いかに誠意なく、不正直であるかが明白であります。

なお、私藤本が、連絡会議の席上で「そうですね」と同意したと言われますが、御法主上人の御発言を封じたかたちで、連絡会議で取り上げるようなことに、同意したことなどは絶対にありません。もし、そのように思われたとしたら、それは長い対話の流れの中で、それ以外の事柄に頷いたのを、学会首脳の各氏が間違って取ったのであります。要するに、御法主上人のお言葉を問題として批判された諸氏は、その心底に無信心より起こる軽蔑と見下しがあることは明白で、これはまさしく驕慢に当たるものであります。大聖人の「信心するは随喜なり」「随喜と申すは随順の義なり」、また「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし」との御金言を深く体すべきであります。


(ロ) 次に、「右の発言は、連絡会議という場で、信徒のお願いを申し上げたものです」「信徒がそういう場で猊下のことに関して、一切発言してはいけない、何らお願いもしてはならないということなのでしょうか」とあります。が、御法主上人の御発言を封じるような言動がいけないと言っているのであります。もし名誉会長や秋谷氏が、信徒として、御法主上人にお願いがあるならば、御目通りの手続きを経て、直接猊下に申し上げるべきで、従来もそれを拒まれたことなどは一度もありません。その筋を違えて、連絡会議という事務上のレベルの場において、御法主上人のお言葉を批判することは、信徒としてあるまじきことであります。しかも、これに関する諸氏の発言は、お願いというより、むしろ御法主上人に対する軽蔑、見下しの批判であったと断言いたします。

(ハ) 7月17日の連絡会議の席上での学会首脳の各氏の発言が、「驕慢謗法であるなら、ただ黙って聞いておられた僧侶方に、何ら間題はないのでしょうか」とのお伺いですが、当日の会議は、学会側が「今日は話を聞いて頂く」というものすごい剣幕で、一方的に宗門に対する種々の問題をまくし立てたのであります。不審な点を聞こうにも、当方の言葉を差し挾ませないばかりか、一人の話が終わらぬうちに、次の者が宗門や僧侶を批判するという有様で、言いたい放題言い終わるや否や、当方の返答など一切聞かず、「今日はこれで」と座を立ったのであります。このように、当方の発言を封ずる状態にしたのは、学会側ではありませんか。常識的に考えて、あのような状況下では、まともな返事ができるわけがありません。したがって、この批難は、質問としてまったく当を得ておりません。反対に、連絡会議という宗務院と学会における、実務上の最も重要な場において、あのような状況を作り出した学会首脳の、驕慢の姿を指摘するものであります。


(ニ) (ニ)の伺いは、まさしく御法主上人に対する、侮辱と反抗の言辞と受け取ります。

従来述べてきたように、御法主上人の「驕慢謗法」とのお言葉には、整然たる理由があり、その事実を述べられたのであります。日蓮大聖人以来の御法体を厳護継承せられ、この世でただ御一人、本門戒壇の大御本尊の御内証を御書写遊ばされる御法主上人に対して、「どうか私ども信者を小馬鹿にしたり、蔑んだりするお言葉を使わないでいただきたい」との不遜この上ない言葉を、牧口・戸田両歴代会長が聞かれたら、何と悲しまれることでありましょう。こうした暴言を、何の憚(はばか)りもなく吐けるのは、無道心の現学会首脳の体質の現われでありますから、この御法主上人への暴言は、そのまま学会首脳へお返しいたします。



[2]本年7月21日の池田・秋谷両氏の御目通りの件−事実無根の発言について−

猊下のお言葉として「『学会の記念行事があるので御講に行かなくてよいと、あんた自身が地域の総代に言ったじゃないか!』と頭から決めつけて詰問されました」と言っていますが、これも実際とはまったく相違した、事実無根の誤りであります。

御法主上人は、一般の学会員の中で、そういう指導があることについて注意されたのであります。

御法主上人は、「あんまり寺へ行くな」とか、「これからは好い加減にしろ」とか、「いつといつはいかないようにしろ」などの幹部指導がなされているという報告が耳に入ってきているという意味のことは述べられましたが、名誉会長に「御講に行かなくてよいと、あんた(名誉会長)自身が地域の総代に言ったじゃないか」などとは、決して言っておらず、恐らく御法主上人に対して、当日の池田・秋谷両氏の混乱した感情による聞き違いか、あるいは両氏によるまったくの捏造であります。

したがって、そちらの(イ)、(ロ)、(ニ)の詰問のすべては、まったく事実に反した大変な見当違いであります。反対に、このような誣言によって御法主上人を攻撃せんとすること自体が、わざと御法主上人のイメージダウンを狙う卑劣にして悪練な策謀であり、宗門を外護する純真な信徒としては、絶対にあるまじきことであると指摘します。


[3]昭和61年7月の宗務院・学会連絡会議における大村教学部長の発言の件

今回、「大村教学部長は、退転者・福島源次郎が書いた学会批判を使い、またこれに同調して、学会批判を、直接秋谷にされました。福島源次郎は、法主の血脈を否定した日蓮正宗にとって許すべからざる大謗法の退転者であります。かかる謗法の徒の言動を根拠とするのみならず、同調されたのは、なにか特別な関係か、それとも他の理由があってのことでしょうか」と言っておりますが、まず大村教学部長は、福島源次郎氏とは何の関わりもありません。まして、特別の関係などがあろうはずはありません。

また、「連絡会議における」と言っておりますが、これも明らかな思い違いであり、正しくは連絡会議の場ではなく、その終了後の別室における席上であります。大村教学部長は、福島源次郎氏の言葉のみによったのではなく、一般の人々の間でも噂になっていることでもありますので、あえてその噂を否定するつもりで、「財務をノルマのようにしてはいませんね」と伺っただけのことであります。この質問は、そうしたことで、むしろ学会内における異体同心の絆がこわれてはいけないと案じたからであります。そのどこが、学会批判になるのでしょうか。

なお、本年7月の連絡会議で、秋谷会長は「福島は下劣な人間である」と言われましたが、今回は「福島源次郎は法主の血脈を否定した日蓮正宗にとって許すべからざる大謗法の退転者」と言っております。福島源次郎氏が、現在創価学会に所属していないとしても、法主の血脈を否定したなどということは、まったく聞いたことがありません。しからば、日蓮正宗の信仰をしている者について、「大謗法の退転者」と頭から決めつけるのは、むしろ「法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり、仏を毀りては罪を得るなり」との御文に違背する謗法行為であることを指摘します。


[4]本年7月2日の宣徳寺本堂・庫裏増改築落慶法要における高野法雄師の祝辞の件

本年7月2日の宣徳寺本堂・庫裏増改築落慶法要における高野法雄師の祝辞は、確かに慎重を欠くものであり、軽率な発言でありました。このような発言に対し、宗務院として、当人に厳重に注意いたしました。

また、宣徳寺の事業については、宗務院の承認を得た上で、所定の手続きを経て宗教法人宣徳寺の事業として遂行されたものであります。

なお、金銭貸借の問題については、住職個人間のものではなく、法人間の貸借ではありますが、確かに手統き上の瑕疵もあり、この点については、今後、宗務院として厳正に指導いたします。


[5]本年7月21日の池田・秋谷両氏の御目通りの件−懲罰云々について−

7月21日の御目通りに際して、御法主上人が「名誉会長に『あんたにもいっておきたいことがある。懲罰にかけるから』と激しい口調で、早口で興奮して語られました」と書いてありますが、創価学会の首脳である者が、これほど卑劣で邪悪な言掛りをつけることに対し、本当に恐ろしい気がいたします。これは(2)の(ロ)よりも、なお悪辣、無慚な捏造であります。

御法主上人は、当日の御目通りの時はもとより、過去十数年の御目通りにおいても、名誉会長に「懲罰云々」などの言は、まったく述べたことはないと断言されております。当日は御法主上人お一人に対し、池田・秋谷両氏が御目通りしたわけで、2人が口裏を合わせれば、どのような卑劣なでっち上げも可能であります。しかし、御法主上人のご記憶は明晰であり、そのような御発言は断じてありうるはずはありません。それを「名誉会長も明確に聞いており、(中略)車中、同乗した秋谷・八尋に『宗門の懲罰委員会の構成はどうなっているか』とすぐ聞いていることからも明らかであります」と、さも車中における名誉会長の発言が、明白な依拠であるように言っておりますが、これは当日の御目通りで、御法主上人より種々指摘され、混乱した名誉会長が、日頃の宗門誹謗の言動と相侯って、「懲罰云云」と言われたように思い込み、車中におけるこの発言につながったのでありましょう。そうでないとすれば、わざと御法主上人のイメージダウンを図るために、あえて万々承知の上で「懲罰云々」をしつこく述べているとも取れます。いずれにせよ「懲罰云々」のことは、当日、御法主上人はまったく述べておられません。したがって、この件について、宗務当局が重ねて明確にする必要はないと同時に、かえって学会首脳が御法主上人を讒謗するものであると申しておきます。


[6]本年11月20日の名誉会長など5人の学会幹部の御目通りの件−正信会に対する考え方について−

本年11月20日の名誉会長など5人の学会幹部の御目通りに際し、御法主上人が「正信会が血脈を否定してまで法主を批判した原因は、学会にある」という趣旨のお話は「どう拝してよいか、思案に苦しんでおります」「何よりも彼ら正信会に、この日蓮正宗の根本の信心がなかったことに最大の原因があり、学会とは関係ない問題であると私どもはうけとめています」と言っておりますが、ここに現創価学会のまことに無慚無愧な体質が現われていると指摘します。

日達上人の御在職中、いわゆる創価学会の52年路線における教義の逸脱がありましたが、それらは昭和53年の6・30、11・7によって是正され、翌54年5月3日の本部総会の席上、日達上人は創価学会が今後日蓮正宗の信徒団体として、6・30、11・7で示された基本を忠実に守るという前提のもとに、僧俗和合の協調路線を進めていく旨御指南され、学会問題の一切を収束されたのであります。その後、日達上人の御遷化にともなって御登座された日顕上人は、御登座以来、一つには日達上人の宗門対学会の紛争の収束を尊重され、二つには牧口・戸田両会長以来の、正法正義の堅持と弘通という学会の伝統を信頼されて、日達上人が最終的に敷かれた協調路線を受け継がれ、訓諭や院達などで宗内僧俗を訓戒され、もって名誉会長や創価学会の組織を守られたのであります。

しかし、これを不服とした正信会の者達が、宗門の制止にもかかわらず、第5回檀徒大会を行って名誉会長や創価学会に攻撃を行なったので、宗門の統制の上からも、止むを得ず参加者に処分を加えたのであります。ところが、正信会の徒輩は、この状況より名誉会長と創価学会を守る御法主上人に対して、反抗の火の手を挙げたのが実状であります。それが、次第にエスカレートした結果、日顕上人への血脈を否定する暴挙に出たため、遂に擯斥処分に付されたのであります。

したがって、これらの経緯からすれば、正信会の徒輩の信心の誤りは当然ながら、その不祥事件の元をただせば、学会の教義上の逸脱という、大きな問題があり、そこに根本原因があったことは事実であります。正信会としても、当初は学会の逸脱についての日達上人の御意を体して、その誤りを糾すべく立ち上がった経緯があったのであります。それゆえに、名誉会長自身が、昭和55年4月2日、聖教新聞紙上に掲載された「恩師の二十三回忌に思う」との所感の中で、「私が展開した昭和52年の一連の指導に発端の因があったことは事実であります」と言われ、また数年前、名誉会長が東京の大石寺出張所において、御法主上人に御目通りした折、宗門の擯斥処分等について、「私の不徳です。深く反省しています」と述べられた旨伺っております。これこそ創価学会の首脳として、今後の僧俗一致のための、基本的にして忘れてならぬ反省であります。

これらの経緯を踏まえた場含、創価学会の首脳に、仮にも良心があるならば、正信会の間題が「学会とは関係のない問題であると私どもは受け止めています」などとは、決して言えることではありません。このようなことを、創価学会の公式見解として平気で言えるところに、52年路線における6・30、11・7への反省が、まったくなされていないことを指摘するものであります。また、名誉会長自身、現在はまったくそのような念を抛棄してそれらに触れず、反省もなく宗門を云々し、また、正信会のことを取り上げていることは、一連の経緯を無視し、自らの悪しき過去を、わざと隠蔽(いんぺい)せんとするものであると、指摘するものであります。

2月20日の御目通りでの御法主上人のお言葉は、現在の名誉会長や創価学会の体制に対して、このような一連の流れの上から、公正なる道理としてなされたものであると承っております。

なお、「私どもの承知している宗門裁判の行く末にも多大な影響があるものと憂慮するものであります」とは、まさに宗門に対する脅しとも受け取られ、日蓮正宗の信徒団体としての公式発言であるとは思えません。もともと「さきのような正信会に対するお話」というものが、創価学会首脳部の、6・30、11・7への無反省からくる曲解した表現でありますから、宗務院としては、逆に創価学会首脳に対して、正直にして純粋なる信仰心に立ち返ることを、あえて要請いたします。


[7]本年11月20日の名誉会長など5人の学会幹部の御目通りの件−学会の折伏について−

11月20日の御目通りの際、御法主上人より「最近、聖教新聞紙上に他宗の謗法義に対する批判が少なくなった」と言われたことを、学会は折伏をしなくなったと捉えているようですが、これは、信仰心を失って、御法主上人の御真意を捩じ曲げてしか捉えられなくなった証拠であることを、はじめに指摘いたします。

猊下は、末端の方々が苦労をして折伏をされていることは充分ご承知であります。そのために信徒各位が常に息災であるようにと、毎日御祈念をされているのであります。

日蓮正宗には、大聖人の仏法を広宣流布せしめ、一切の民衆に真の幸福をもたらすべき重大な使命があり、またその唯一の宗団であることは、御開山日興上人の「未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて随力弘通を致すべき事」との御遺誡にも明らかであります。したがって、信徒各位がそれに向かって自行化他の信心を倍増せしめ、「いかなる大善を作り法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも責めざれば得道ありがたし」と仰せのように、真の功徳を信徒一同に得させてあげたいとの仏法の道理に照らしてのお言葉であることは、申すまでもありません。

日蓮正宗の信徒であるならば、かかる御法主上人の御指南は、自分達に功徳をいただく道をお示し下さったと、寧(むし)ろ拝跪合掌すべきであります。それを御法主上人に対して、「最近の折伏に破折がなくをったということも理解に苦しむお言葉であります」と批難し、聖教新聞紙上の「折伏」の語句を数えて数字を出すなどの大人げない所業や言動は、もはや日蓮正宗の信仰者の姿とは思えません。冷静に御法主上人の御慈悲を汲み取っていただきたいものであります。


[8]本年7月21日の池国・秋谷両氏の御目通りの件−週刊誌に関して−

週刊誌に学会の記事がいろいろ出ているようですが、宗門と週刊誌の記事とは何ら関係ありません。あえて申し上げますが、この度の伺書の(1)の項において、「大声をあげて、立ち上がらんばかりの剣幕で『法主の発言を封じた。きょう慢だ、きょう慢謗法だ』と怒鳴られ、叱責されました。」と、第三者が聞くと、いかにも御法主上人が暴虐な態度をとったように、誇張した書き方をしております。このことについて、御法主上人は、断じてそのようなことはなかったと仰せであります。

また、「驕慢だ」と言い捨てるような言い方をしたように書いておりますが、猊下は常に「です」という丁寧な言葉を使われております。これでは、いかにも猊下の言葉使いが荒いと言わんばかりであります。これらは少しでも御法主上人のイメージを悪くさせようとする底意以外の何ものでもありません。

こうした曲言をしながら、ただ名誉会長の事に関してのみ、当方に週刊誌の記事が間違いであることを表明してもらいたいと要求するのは、御法主上人軽視も甚だしいもので、宗門外護の団体としてはまったく逆の行為であります。

また、週刊誌に掲載される事柄についても、「これまで名誉会長も学会もいつものように歯牙にもかけない態度できましたし、馬鹿馬鹿しくて相手にもしてきませんでした。今後とも、眼中に置かぬ態度に変わりありません」といい、連絡会議等においても当方に対し、「週刊誌の記事など真に受けて学会のことを云々しないで下さい」といいながら、ここに来て「宗務院から是非とも事実を明らかにして下さい」とは、明らかに矛盾であり、その甚だしさに呆れるばかりであります。誤解を解きたいというのであれば、「歯牙にもかけぬ」等と言わずに、学会首脳として、まず御法主上人に関する種々の捏造造記事を斬り、しかる後に、名誉会長についても弁明しては如何ですか。それが外護の立場というものであります。


[9]本年11月14日の宗務院・学会連絡会議の件−二百箇寺に関して−

本年11月14日の東京常泉寺における連絡会議の折、藤本総監より学会寄進の二百箇寺計画の件につき、とくに東京における進捗状況が遅いということで、「『江戸川の大護寺以来、都内二十三区に一か寺もできていない。理由は何か』と厳しい問責がありました」と、いかにも宗務院が権威を振りかざしているような言い方をしておりますが、事実を歪曲しております。このことは、11月度の連絡会議の際、当初の計画として東京二十三区内に11箇寺の寺院を建立される予定で、初年度には順調に江戸川の大護寺が建立されました。ところが、2年目以降、毎年1箇寺ずつの建立寄進の予定になっているにもかかわらず、6箇年が過ぎても何の進展も連絡もありませんので、都内の状況はどのようになっているのですかと伺ったのであります。それに対して、種々問題があるとのことでしたので、それについて教えて下さいと、お願いしたのであります。そのように聞くことのどこが悪いのでしょうか。それを「大変高飛車な言い方で、しかも追及するような口調で切り出された」「まるで被告席に居て尋問をうけているような硬い、厳しい雰囲気でした」との言い方は、まさに悪辣な虚偽のでっち上げであり、明らかに宗門に対する悪意の現われとしか言えません。

学会が主張するように、こうした寺院建立の問題こそ事務的レベルの問題で、連絡会議で充分検討すべきことなのではないでしょうか。それをちょっと伺っただけで、このような被害者意識を露呈して反論をされるのでは、宗務院として何も言えません。宗門の僧侶においては、誰一人として、学会の寺院建立の浄業を尊いと思わない者はおりませんし、とくに落慶入仏法要では、御法主上人より長い間にわたって、その都度、真心の賛辞を賜っていることは周知のとおりでありますなそれにもかかわらず、このような悪口の限りを尽くす学会首脳の体質に対して、本当に悲しく淋しい思いがいたします。

よって今後、宗門としては真の御供養の精神に基づいて寺院を建立していくつもりであります。本年末をもって、総本山開創700年も終了いたしますので、これを機会に、これまで記念事業として行われてきた二百箇寺建立寄進は学会が言われるように、「もともと契約のようなものではありません」ので、三重県白山町の仏徳寺を最後として、平成3年以降、残りの89箇寺については、寄進を辞退いたしたいと存じます。よろしく御了承下さい。

以上