資料G(宗務院よりの『お尋ね』に対する創価学会からの回答)
「お尋ね」に対する回答 宗務院よりの平成2年12月16日付書面をもって送付されました「第35回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね」につきましては、私どもと致しましては、あくまで話し合いでというお願いを申し上げてまいりましたが、その思いは今も変わるものではございませんので、私どもの真情を是非ご理解いただきたく、重ねて申し上げさせていただきます。(一)
この件につきましては、先に、総監が秋谷に文書を手渡そうとされた12月13日の宗務院・学会連絡会議の席上でも申し上げましたが、ご宗門と学会のこれまでの関係からすれば、何事もまず話し合いがあって然るべきであると思うのでございます。そのうえで、話し合っても埒があかないから文書でということはあったとしても、こうした僧俗間の問題について初めから文書でやりとりするというのでは、いかにもご宗門と学会の間が対話すらできない状態にあったようで、後世に禍根を残すことになると思うのでございます。
しかも、ことは連絡会議の席上でのことであり、直前までは、お互いに膝を交え、議題に沿って、二百か寺建立計画、寺院の入仏式・起工式、ロサンゼルス・妙法寺庫裡の新築、香港・インドなど世界広布の進展状況等、平常通りの打ち合わせ、報告をさせていただいていたわけですから、突然、文書を突きつけて一週間以内に文書で回答せよと迫るご宗門の態度には、どうしても納得できない思いを禁じえなかったのでございます。
総本山が疲弊の極にあった戦後の混乱期を含め、過去半世紀余、ご宗門と学会の間には、確かに摩擦もありました。しかし、それは、いつの時代でも胸襟を開いた双方の率直な話し合いで解決し、僧俗和合して日蓮正宗の今日の大興隆を築いてきたわけでございます。にもかかわらず、今回に限って、唐突に文書を突き付けられ、しかも一週問以内に回答せよと仰せられたのは、何か特別な意図でもあるのだろうかとの感を受け、まことに腑に落ちぬことでありました。
また、席上、総監より、手に入ったテープをもとに作成した文書である旨お話がございましたが、そのテープの出所を明かすことはできない、とも言われました。そこで秋谷が、「それが改竄されたテープであったり、不確かなものであった場合、それを根拠に公式文書とされたのであれば、総監の重大な責任問題ともなります。総監さんのためにそれを心配するのです。その点から文書でなく話し合いの方がいいのではないでしょうか」と申し上げたのであります。また、出所の不明なテープをもとにした問い糺しでは、到底、信頼関係にあるとはいえず、平成2年、開創700年の年頭にあたって「僧俗和合」の「訓諭」を発せられた日顕上人のご震襟を悩ましめることにもなりますので、まず出所を明らかにしていただきたいと、お願いしたわけでございます。
そして、秋谷より、学会として完全なテープは保管している旨をお答えし、これに対し、最後に総監より、「今日は文書は出しません。別のやり方を考えましょう。テープを学会のものと突き合わせたらよいと思います」とのお話がありましたので、私どもは、その日はそれで失礼させていただいたわけでございます。この間約30分にわたり、この件についての話し含いが行われたのであります。したがって、私どもは、当然、その後、ご宗門よりテープの真偽についてお話があるに違いない、と思っておりましたところ、12月17日、突如、「お尋ね」文書に接したのでございます。
いかなる理由があるとしても、なぜ話し合おうと書れないのか、私どもは、ご宗門の真意がどこにあるのか、非常に理解に苦しんだのであります。文書でいただいたお尋ねには、文書でご返答してもよいのですが、心からのご信頼をいただけぬままに文書でご返事申し上げれば、あるいは誤解のうえに誤解を重ねる結果となり、かえって問題を複雑化する恐れもあり、永い将来の僧俗和合のためにも決してプラスになるとは思われません。私どもは、あくまでも話し含いで解決することが正しい道であると信じ、あわせて私どもの胸にわだかまっている事柄も、真実の和合を築くためには、この際、お聞きいただいた方がよいと考え、12月23日付の総監宛の書面で、重ねてお話し合いをお願い申し上げ、また、お伺いをさせていただいたのでございます。
しかも、私どもは、それについては、文書でなければならないとか、期日を限るとかということではなく、いつでもご都合のよいときに連絡会議等で、お教えいただきたいとお願いしたのでございます。
さらに、12月28日付で私から総監宛に差し上げた書面でも、名誉会長の真情をご理解いただくために、スピーチのテープを再生し、互いに確認しながら、お話し合いをさせていただきたいことをご提案申し上げたのでございます。
私どものこのようなお願いに対し、ご宗門が、総監から秋谷宛の12月26日及び29日付書面において、あくまでも文書での回答をと言われるのは、なぜ、そうまで対話を拒絶されるのか、まことに訝しく思われてなりません。頑ななまでに対話を拒まれ、取り合おうとされない態度には、悲しみすら覚えるのでございます。
さて、一連の書面で、ご宗門からの「お尋ね」文書に返答がないとご立腹の件ですが、なぜ私どもが文書より話し含いをお願いしたかという件について、私どもの考えを、一歩立ち入って申し上げさせていただきます。
第一に、テープの「盗みどり」という卑劣な行為を憎むからでございます。学会の会合では、参加者はテープをとらないことになっております。それは、テープは不正確にしか聞こえない場合が多いし、また、その場の霧囲気も正確に伝わらないため、後でそれを聞く人が必ずといっていいほど誤解するおそれがあるからです。したがって、「お尋ね」文書の論拠となっているのが出所不明のテープであるということは、そのテープは盗みどりされたものということにほかならず、この、テーブの盗みどりという行為をご宗門はどうお考えになられるのでしょうか。盗みどりなどということは、道義的にもけっして許さるぺきではなく、そうした行為を諫めるのが聖職者のあるべき姿ではないでしょうか。仮にどこからか届けられたものだとしても、ご宗門と学会との関係にあっては、出所不明のテープが寄せられたがこれは本当かどうかと、まず真偽についてのお尋ねがあって然るべきではなかったかと、残念に思われてなりません。それをされないままに、いわば公式文書の論拠とすることは、世間では、到底通用しない非常識なことといわざるをえません。したがって、私どもとしましては、そうした文書に文書をもってお答えすること自体、テープの盗みどりという卑劣な行為を結果として容認することにもなりかねませんので、文書による回答を控えさせていただいたわけでございます
第二に、発言の不正確な引用及び切り文による誤解、曲解でございます。話し言葉による発言を引用した、こうした文書には常にありがちなことでありますが、今回も、名誉会長の発言として引用されているものが、大事な部分において実際の発言と違っており、それにより、発言の意味が全く違ったものになってしまっているのであります。
例えば、「お尋ね」文書では、「ただ…、真言亡国・禅天魔、法を下げるだけでしょう」と言ったとしておられますが、実際には、「どうしたら折伏ができるか」と前置きし、実践の上からの折伏の方法論を述べる中で、「ただ朝起きて『真言亡国・禅天魔」(笑)法を下げるだけでしょう」と述べているのであります。すなわち、時と場所と状況もわきまえず、ただ「真言亡国・禅天魔」というような言葉を繰り返しているだけでは、折伏はできるものではないし、それでは逆に、結果として「法を下げるだけでしょう」と、折伏の実践に即して論じたものであることは、明らかなところであります。
そのことは、この会合に参加してその場の雰囲気を肌で感じ取ってスピーチを聞いている者には明確なことであり、四箇の格言を否定した発言であるなどと理解した者は誰もおリません。
それを、「朝起きて」という、状況を説明する文言を省いて、切り文的な文章にしてしまっているのは、意図的なことなのでしょうか、それとも、他の理由によるものなのでしょうか。それによっては、テープが改竄されたものであるか否かを判断する重要な材料になりますので、是非とも明快なお答えをいただきたくお願い致します。
いずれにしても、この発言が、あくまでも折伏を本としたものであって、四箇の格言を否定したものでないことは、明らかであります。それを、摂受を本とした言い方であると断じているのは全くの間違いであり、それは、雰囲気の伝わらないテープをもとにし、しかも、発言を切り文的に取り上げて曲解したために生じたものではないかと思われます。
しかるに、「お尋ね」文書は、このような間違いをもって法義違背の発言とする根拠とされているわけでありますので、私どもとしては、これにつき、公式な場において誤りであることを認め、撤回していただきたいことを強く申し入れるものであります。
また、「お尋ね」文書の13頁の、「ゴ大統領は」云々のくだりには、「工夫して折伏するのがないでしょう、ね。日蓮正宗で、いなかったんですよ。それを学会がやってるから、学会を絶対にすばらしい」という記載がございます。これは、名誉会長のスピーチの引用なのでしょうか。もし引用であるとすれば、スピーチのどの部分を引用されたものなのでしょうか。それとも、出所不明のテープには、そのように録音されていたのでしょうか。明らかにしていただきたいのでございます。
これに該当するのではないかと思われる名誉会長の発言箇所としては、「工夫して折伏する以外ないでしょう。ね、日淳上人が一番よく分かっていますよ。それを学会がやってるから、学会は絶対にすばらしい」という部分があり、「お尋ね」文書の記載とはスピーチの内容が全く異なっているのであります。
このように「お尋ね」文書では、実際には発言されていない「折伏するのがないでしょう、ね。日蓮正宗で、いなかったんですよ」という言葉を勝手に作出し、これを、別の箇所の「七百年間折伏がそんなに出来なかったんですよ」という発言と並べることによって、池田名誉会長が、日蓮正宗が七百年間全く折伏をやってこなかった旨の発言をした、という根拠に用いているのであり、そこに意図的な策を感ぜざるをえません。
池田名誉会長が、日蓮正宗の折伏について言及したのは、唯一「そんなに出釆なかったんですよ」という部分だけであります。ご宗門では「そんなに」と「まったく」とが全く同一の意味であるとお考えなのでしょうか。この点も明らかにしてください。
学会は、過去の尾張法難をはじめとする数々の折伏・弘教による法難の歴史を否定したことなど一度もございません。それにもかかわらず、このような意図的とすら思える言葉のすりかえを根拠に、「僧俗の尊い弘教を冒濱するもの」とまで決めつけられることは、まことに心外でございます。
さらに、「お尋ね」文書の2頁に記載されている「それがいけないって言うんですよ。折伏だけで、全部教条的にね、やれおかしいよって言うんだ。おかしいよ」という部分と、同文書15頁に記載されている「世界の仏法流布という。…折伏だけで、全部ね、教条的にわ、やれっちゅうんです。おかしいじゃないか。そう書いてあるのに。」という部分とは、名誉会長のスピーチのどの部分の引用なのでしょうか。また、2頁と15頁の引用は、同じ部分の引用なのでしょうか、それとも違う部分の引用なのでしょうか。このとおり、出所不明のテープに録音されているのでしようか。
一見するかぎり同じ部分の引用であるように見受けられますが、そうであるならば、なぜ表現がこれほど異なっているのでしょうか、そのこと自体からも、この「お尋ね」文書の根拠とする「テープ」なるものの再生・反訳の不正確さ、杜撰さが明白です。
いずれにしろ、両箇所に該当すると思われる実際の発言とはかなり異なっております。
このように、いくつかの例をあげただけでも、「お尋ね」文書は、不正確きわまりない引用、もしくはすりかえとしか思えない引用にもとづいて作成されているものでありますから、このようなものを前提にして文書による回答をすることは適切ではないと申し上げているのでございます。
第三に、伝聞をもとに断定する恐ろしさでございます。「お尋ね」文書は、伝聞によれぱ、名誉会長が親鸞を賛嘆したとか、自分のスピーチを元にせよと言ったとし、「池田教」であるとか、「私的な法門」であると断定しております。では、親鸞の件については、名誉会長が、いつ、どこで、誰に、どういう内容で言ったのか。この点について、総監より、是非とも責任ある回答をお示しいただきたい。単なる伝聞を確かめもせずに公式文書にし、それを前提として「仏法違背である」などと信仰者にとって致命的といえる断定を下すのは、名誉会長を陥れようとする悪意以外の何物でもありません。いつ、どこで、誰に言ったのか、お示しいただけないのであれば、速やかにかつ公式に、この部分を明確に撤回し、取り消しをすべきであります。
第四に、推量、億測から結論を導く独断の弊でございます。これは、文書を拝した誰もが感じる点でありましょう。「と思う」「と思われる」「と解釈される」等というのは、あくまでも受け止め方であり、受け止め方というのは人によっておのずから違いがあるものであります。それは論理というより、多分に感情の次元の問題であり、そうした中での文書のやりとりでは、文面では十分には意が通じないだけに、いたずらに感情の行き違いが増幅されてしまうことを恐れるのでございます。これを埋めるのは、率直な話し合い以外にはないのではないでしょうか。
以上のような考え方にもとづき、今日まで学会としては、話し合いを根本に、文書での回答を控えさせていただいたわけであります。したがって、話し合いは今後も是非お願い申し上げるものですが、12月30日付書面で、「お尋ね」文書に示された引用文の不正確な点や意味を取り遠えた点を指摘せよ、との強いご指摘がございましたので、いままで申し上げたことを前提としたうえで、以下において、謹んでお尋ねの諸点につきお答えさせていただくものでございます。
(二) 一 前文の部分について
池田名誉会長のスピーチのテープによると、聖教新聞の内容と大幅に違っており、特に宗門に関することが故意に削られ改作されている、とのことでありますが、これは、全くの言いがかりであります。そもそもスピーチというものは話し言葉でありますから、重複したり、ユーモアを交えて多少本論から外れ、話の本筋と関係のないことに言及したり、そのままでは文章にならない言い回しがあったりするのは当然のことであります。また、会合の独特の雰囲気のなかでの発言や動作を交えての発言など、その場にいる者にしかわからないこともあります。これを記事にする段階で、スピーチの趣旨にてらして整理し、無関係の部分を削除したりなどするのは、これまた当然であり、編集の基本であります。
したがって、そのテープ再生のものと、新聞記事と異なる部分があるのは当たり前で、その場合でもスピーチの趣旨自体にはなんら変わりはなく、これを改作などというのはあたらないのであります。
二「御法主上人・宗門に関する件」について
1 「名誉会長は御法主上人に対して『権力』と決めつけておりますが、創価学会でいう『悪しき権威・権力と戦う』の『悪しき権威・権力」が、なぜ御法主上人に棚当するのか、お示しいただきたいと思います。との点について−これは、名誉会長のスピーチを誤解されたことにもとづくお尋ねであると思われますので、その点について申し上げます。
まず、11・16のスピーチにおいて、名誉会長は、「悪しき権威・権力」とか、「悪しき権威・権力と戦う」などとは、一言も述べておりません。該当部分の11・16のスピーチを正確に引用致しますと、「私(日達上人)も人類の恒久平和のために、そして世界の信徒の幸福のために、猊下というものは信徒の、幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません。毎日毎夜、大御本尊に御祈念申し上げております」という内容であります。
これは、日達上人のメッセージを紹介したもので、傍線の部分はその日達上人のお言葉の趣旨を強調し、敷衍したにすぎないものであります。これが、日達上人の信徒を思われる大慈悲のご境涯を賛嘆する意味で述べたものであることは明らかであり、それ以外の何ものでもございません。
また、11・16以外のスピーチの際に、名誉会長が「悪しき権威・権力」について述べたことはありますが、それは、民衆を庄迫してきた国家権力、社会的ないし宗教的権力や権威等を指しているのであり、具体的には、本来、民衆の幸福のために奉仕しなければならない政治家、聖職者、マスコミ、組織・団体のリーダー等のあるべき姿勢を、一貫して厳しく指摘しているのであります。そして、私たち学会幹部に対しても、大切な仏子である会員に奉仕すべきことを、厳しく指導しているのであります。
2 「これらは、明らかに御法主上人に対する誣告であると思いますが、御意見を聞かせていただきたいと思います」との点について−ご指摘の名誉会長の発言に主語がないことは自ら認めておられるとおりであり、これは猊下がそのようなことを言われたとか、猊下のことを指しているとかというものではなく、正信会等の、信徒を見下した僧侶の本質的傾向性を指摘したものであります。そして、この発言の真意は、あくまで布教にあたって、法を説く場合の時や機根等を勘案して賢明に行わなければ布教は進まないということを述べただけにすぎません。
それを、「明らかに御法主上人に対する言葉と受け止めるものと思います」とか、「日顕上人を指していると思われます」などという憶測にもとづいて、猊下に対する誣告と決めつけられることは、まことに心外なことでございます。
3 「御法主上人は、いつ、どこで、仏法を基調とする平和文化活動を否定し、謗法だなどと言われていますか」及び「多くの会員の前で、このようなことを公言している池田名誉会長の不遜な言動動に対して、どう責任を取られるのでしょうか」との点について−ご指摘の名誉会長の発言については、スピーチの中で、日顕猊下が学会の平和文化運動に対して深いご理解をいただいているお言葉を引用させていただいていることからも明らかをとおり、決して猊下のことを指しているものではありません。
ただ、「お尋ね」文書に、べートーベンの「歓喜の歌」の合唱についての誤った認識にもとづく指摘がなされていることに如実に示されているように、ご僧侶方のなかには、文化平和運動について誤解をされている方もおられるのではないかと感じられてならないのでございます。
一例をあげれば、宗内の教学の貢任者として要職にあられる大村教学部長は、平成元年10月号の大白蓮華の裏表紙にガーター勲章の写真が掲載されたことに関して、それに十字章があることをとらえて、「これは十字架であり、キリスト教の本尊というべきものである」として、掲載にクレームをつけられました。そして、その後の連絡会議の席上でも、「イギリスという国はキリスト教の国でしょう」と言われ、ガーター勲章の十字章がキリスト教の十字架であるという自らの考え方に固執しておられました。しかしながら、十字の形をしているからといって、それを直ちにキリスト教と同一視するのは全くの無認識であります。紋章学の世界的権威である、卜ーマス・ウッドゴック氏は、「宗教的意味は全くない」と明言しております。同勲章は、英国王室の伝統と格式を象徴するものであり、信仰の対象となるものでないことはいうまでもありません。こうした事実を認識せず、先のように言うのは、文化運動に対するあまりの無理解をさらけ出すものであり、日顕上人のご指南にも反するのではないかと恐れる次第でございます。
4 「『猊下というものは』などと、御法主上人を指導、もしくは批評するごとき言語表現が、公然となされておりますが、日蓮正宗の信仰をする者として、あまりにも謙虚さに欠けた慢心の言であると思いますが、創価学会としてこうした発言に対し、どのように申し開きをされますかとの点について−第一番目のお尋ねに関して申し上げましたとおりでございます。ご指摘の発言にある「猊下」が日顕猊下のことを指しているとか、まして、猊下を指導もしくは批評しようとするものであるなどということは、けっしてございません。また、「というものは」という表現につきましても、前後の文脈からお分かりいただけますように、日達上人のメッセージの趣旨を、話し言葉で強調し、敷桁したものに他ならないのであり、これをとらえて、「あまりにも謙虚さに欠けた慢心の言」とまで仰せになるのは、いかがなものかと思われます。
5 「『(今の)猊下はまったく学会を守ってくれない』と考えるのは、まったく過去に受けた恩義を省みない無慙な心であると思いますが、いかがでしょうか」との点について−これもまた、名誉会長のスピーチを誤解されたことにもとづくお尋ねであると思われますので、その点について申し上げます。まず、該当部分の11・16のスピーチを正確に引用致しますと、「あくまで御書です。御本尊です。根本は。これだけわかればいい。あと、ちゃんと日淳上人、堀猊下、全部日達上人、きちっと学会を守って下さる、ね、方軌はできあがってるんです。不思議なことです、御仏智というものは」という内容であります。「方軌はできあがってるんです」という言葉があることから明らかなように、名誉会長は、代々の猊下により、学会を守って下さる方軌ができあがっているということを言っているのであって、けっして現猊下が学会を守って下さらないということを言っているわけではないのです。
それにもかかわらず、実際のスピーチの断片をとらえ、意味を取り違えて、「無慙な心である」と決めつけるのは、余りに一方的であると言わざるをえません。
三「創価学会創立50周年当時の回顧の件」について
1 「『会長を辞めさせられ』『宗門から散々にやられ』と公言するのは、まったく自語相違であります」との点について−ご指摘の昭和53年11月7日の全国教師総会並創価学会代表幹部会における挨拶及び昭和55年4月2日の「恩師の二十三回忌に思う」の所感は、現存もいささかも変わるものではございません。
ただ、10年前の一連の問題の経過の中では、山崎正友、原島嵩、宗内一部僧侶(後の正信会僧侶)等による学会攻撃と名誉会長追い落としの策謀があったことはまぎれもない事実でございます。池田名誉会長は、その点から会長を辞めさせられたということを述べているのであり、また、後世への戒めとして、そのような反逆者・退転者の本質を厳しく弾呵しているのであります。
2 「正信会の名を借りて宗門を批判し、会貝に宗門不信を懐かせることを目的としているように思います、また、正信会に関することを述べる場合、学会の逸脱の問題から述べなければ、信徒に事実と反する誤認を懐かせ、宗門や寺院、僧侶等に対する不信を招く結果となる」との点について−正信会が、猊下の血脈を否定したことはまぎれもない事実でございます。血脈の否定こそは、日蓮正宗の根本教義の否定であり、究極の悪業ではないでしょうか。故にこれをいかに糾弾してもしすぎることはないものと考えます。その意味では、正信会の輩が血脈の否定にいかなる口実をかまえようとも、ことの本質は彼らの信心の根本の狂いにあるのであり、学会とは関係のないことであると思います。むしろ、ご宗門が正信会を破折し続けないとしたら、法主の血脈を根本とする日蓮正宗にとって、そのことこそ理に反することではないでしょうか。
いずれにせよ、「正信会の名を借りて宗門を批判し」などというのは、あまりにもうがった見方であり、池田名誉会長がそのような趣旨で話した事実は全くございません。
四「僧侶軽視の発言に関する件」について
1 「『正信会の僧侶』と言いつつも、明らかに現宗門の僧侶に宛てて非難しております」との点についてご指摘の名誉会長の発言は、すでに擯斥されている正信会等の、信徒を見下し蔑視している僧侶の言動について述べたものであり、現宗門のご僧侶に宛て述べたものではございません。「信者、信者」についても、言葉そのものに問題があるというのではなく、そこにこめられた正信会僧侶等の信徒蔑視の心根を指しているのであります。
なお、「奥さんをもらって云々」については、そのこと自体の善悪を論じているのではなく、在家と変わらない生活をしながら、我偉しとして信徒を見下すようなことがあってはならないのではないか、ということを述ぺたものにすぎません。
2 「あたかも僧俗がまったく対等の立場にあるように言うのは、信徒としての節度・礼節をわきまえず、僧俗の秩序を失うものである」との点について−私どもと致しましては、宗門外護という精神のうえから、ときに率直に言上させていただいたことはあっても、いままで信徒としての節度・礼節をわきまえず僧俗の秩序を失わしめたことは一度もしてないと確信しております。
ただ、このようなご指摘、また僧と俗とは「一応平等」というような表現からは、本質的には、僧侶が上であり信徒が下であるという権威主義的な考え方が感しられてなりません。大聖人の仏法においては、信心の上では僧侶も信徒も全く平等なのではないでしょうか。
御書には、「今日蓮が弟子檀那又又かくのごとし、(中略)若し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経ととなうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり」(阿仏房御書)とあります。また、大聖人は諸御書の中で、しばしば、日蓮が弟子檀那」と、出家・在家を並び称され同等に呼びかけられています。
このように、僧侶と信徒の関係にあっては、まずなによりも、信心の、うえでは僧俗平等であることが第一義であると思います。その上で僧侶と信徒の本分及び役割を生かした相互の尊重・和合があるのではないでしょうか。大聖人は、「よき師とよき檀那とよき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふぺき者なり」(法華初心成仏抄)と、僧俗和合の精神を示されております。
それにもかかわらず、「お尋ね」文書は、日有上人の『化儀抄』に基づき、「僧俗の立て分け」「僧俗の区別」「礼儀をわきまえなければなりません」等と、さかんに僧俗の差別を強調されておりますが、「お尋ね」文書に引用されている「貴賎道俗の差別なく信心の人は妙法蓮花経なる故に何レも同等なり、然レども竹に上下の節の有るがごとく、其ノ位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」の文の次下には、「信心の所は無作一仏、即身成仏なるが故に道俗何にも全く不同有るべからず、縦ひ人愚凝にして等閑有リとも我レは其ノ心中を不便に思ふべきか、之レに於イて在家出家の不同有るべし、等閑の義をなほ不便に思ふは出家・悪く思ふは在家なり、是レ則チ世間仏法のニツなり」(富士宗学要集第一巻)とございます。これによれば、僧俗は本質的に平等であって、僧俗の差別のよってきたるところは、「等閑の義をなほ不便に思ふは出家・悪く思ふは在家なり」というところにあると拝され、けっして身分関係の上下ということではないのではないでしようか。
五「宗門の布教と平和文化活動に関する件」について
1 「日蓮正宗では、700年間まったく折伏・布教ということをやってこなかった、あるいはまったく出来なかったと言われております」との点について−これについては、前記(一)に述べたとおりでございます。
2 「学会の大折伏に対して、宗門、あるいは僧侶が、それを軽んじたり、見下したり、また当たり前だなどと思っているように一言っております」との点について−「お尋ね」文書では、「学会員の折伏弘教の姿を尊しとこそすれ、当たり前と思って威張っている者などは、一人もおりません」とお述べになっておりますが、私どもには残念ながらそのようには感じられないご僧侶がおられることは事実であります。
この点について、学会員の折伏実践に対する宗門側のご理解を是非とも賜りたいことは、先に送付申し上げた12月23日付書面において、お伺いとして述べさせていただいたところでございます。
3 「誰が、どこで、平和文化運動をいけないと言っておりますか」との点について−これについては、前記「二、3」で述べたとおりでございます。
六 「『真言亡国・禅天魔』の発言に関する件」について−
1 「『真言亡国・禅天魔、法を下げるだけでしょう。』との発言は、摂折二門の上から明らかに摂受を本とした言い方であり、大聖人の教判並びに権実相対等の法義に違背したものである」との点について−この点については、(一)で詳しく触れ、その撤回をお願いしたとおりであり、名誉会長は、四箇の格言を少しも否定しておらず、ゆえに、それをもって、「大聖人の教判並びに権実相対等の法義に違背した」という断定は、全くの的外れなものと言わざるをえません。
なお、学会においては、教学の基本として、四箇の格言等の教判について、日常的に学習徹底しております、また、教学の基礎的理解を試す教学部の初級試験においてはしばしば四箇の格言を出題しており、最近では、平成2年12月2日に実施した初級試験でもやはり出題して、その理解の徹底に努めているのでございます。
2 「11・16以後の名誉会長の発言として、大聖人と親鸞のイメージを比較し、『親鸞は親しみやすく、大聖人は強いイメージがあり、これではこれからの折伏ができない』として、『親鸞のイメージのごとき親しみが、これからの折伏の条件』のように言われ、『大聖人の慈悲深い面をもっと表面に出したり、法門の中にもよいことがあるので、それを判りやすく説く私のスピーチを元にするよう』に、と言われたそうです」との点について−名誉会長は、最近確かに大聖人と親鸞について語ったことはありますが、その趣旨は「お尋ね」文書とは全く異なるものであり、そのことをきちんと確認されておれば、このような質問は絶対になかったであろうと思われます。前記(一)で述べたとおり、伝聞にもとづく推測の怖さがここにございます。まして、「私のスピーチを元にするよう」になどと述ぺたというのに至っては、全くの事実無根であります。
このような、未確認の伝聞を前提としたうえで推測を重ね、「大聖人の人格と教法を否定する重大な仏法違背である」とか、さらには、「池田教による大聖人観」「勝手に大聖人の法門を分断するのは、私的な法門」などと決めつけられるのは、池田名誉会長に対する悪意にみちた陥れといわざるをえません。この点については、強く抗議するとともに、その撤回を求めるものでございます。
七「『歓喜の歌』の合唱について」について
べ−トーベンの「歓喜の歌」のシラー作の原詩には「神々」とあり、「キリスト教の神を讃歎した内容」であるから、これをドイツ語で歌うことは、「外道礼讃」となり、「キリスト教を容認・礼讃することになる」と批判されております。以上しかしながら、「歓喜の歌」をドイツ語で歌ったからといって、それが直ちにキリスト教の「容認・礼讃」になるわけではありません。芸術は、その表現形式や言葉において、いずれもその時代の文化の制約を受けるものであります。シラーの原詩にしても、「神々の」という言葉を使っていますが、詩全体の調べとしては、唯一神教としてのキリスト教の神を礼賛しているものではなく、また、神々一般を礼賛するための歌でもないのであります。
むしろ、このような表現をとおして、自已のうちにある神々しい力を賛美しているのであり、それはすなわち、理性であり、内からの喜びであり、人間の自由であるということは、広く理解されているところであります。フランス革命の根源にある人間の自由の精神が、「歓喜の歌」によって発揚され、飛躍を遂げたものであるというロマン・ロランの評論に、そのような理解が集約されております。
このような普遍的なテーマを歌い上げているからこそ、この曲が、芸術作品として時代や国を超えて、広く、また永く人々に親しまれているのであります。それが、信仰の次元とは自ずと異なるものであることはいうまでもありません。
「お尋ね」文書の指摘は、「歓喜の歌」の原詩のもつ意味を短絡してとらえ、この歌の世界的な普遍性、文化性を無視して「外道礼讃」と決めつけておられますが、まことに頑な、かつ狭量な解釈ではないかと思われます。
平成3年1月1日 創価学会会長 秋谷栄之助
日蓮正宗総監 藤本日潤殿