資料H(創価学会からの「『お尋ね』に対する回答」についての宗務院よりの指摘)


創価学会会長 秋谷栄之助殿

宗務院より平成2年12月16日付をもって送付いたしました「第35回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね」について、7日以内に文書による回答を求めましたところ、学会から12月23日付で送付された回答は、質問内容に一切答えないものであったばかりか、逆に捏造された事実無根の事項を含む九項目の「お伺い」なる文書をもって、御法主上人や宗門を非難攻撃するものでありました。

これは、宗務院に対して誠意が示されないばかりか、日蓮正宗の信徒として考えられない不遜な言論行為であります。まして法華講本部役員としてふさわしい姿であろうはずがありません。よって、12月26日付をもって、もはや回答を示す意志がないものと受けとめた旨、通知したのであります。今回の宗規改正の措置には、このような背景があったことは事実であります。

また、宗務院より提示した質問に誠意ある回答を示されなかった学会に対して、当方としては、このように非難攻撃を旨とした9項目の「お伺い」には、本来、答える必要はありませんが、その内容があまりにも信心を失ったものでありましたので、正信に目覚める一助として、12月29日付で回答を送付したのであります。

しかし、学会では、宗務院からの回答を待たずに、捏造を含む9項目の「お伺い」なる文書を、一方的に多くの会員に配布したのであります。また、機関紙等を通じて、あまりにも偏った報道をくり返しております。これは、明らかに御法主上人や宗門に対する悪意によってなされているものとしか捉えられないのであります。一方、学会より宗門の12月26日付の書面に対する12月28日付返書が到着いたしました。宗務院としては、12月30日付書面で、テープ引用に相違があれば、それを指摘せられたい旨、申し入れました。それに対して、学会より平成3年1月1日付をもって、ようやく当初の「『お尋ね』に対する回答」が送付されてきましたが、12月23日付文書に示された不誠実と同様、核心をぼかし、内容をすり替え、弁解にならない弁解に終始しています。また、当方のテープの反訳の相違を挙げておりますが、肝心の部分においては、相違のないことが確認されました。

そのうえで、宗務院としては、「お尋ね」に対する回答に、まったく反省や誠意のかけらもみられないことを強く指嫡するとともに、再度これに対して反省を促すべく、一又を纏めました。

この書面、及び12月29日付回答で指摘したことが、明確に認識できれば、おのずから学会の非が明らかになるものと思います。池田名誉会長、並びに学会首脳の誤った信仰の姿勢が、そのまま純真な信心に励む一般の会員にまで影響することを強く恐れるものであります。池田名誉会長、並びに学会首脳各位には、大聖人の仏法の基本、根幹がいずこにあるかをよく考えられ、自らの大慢の旗を倒して、本宗本来の正信に帰すべきであります。そして、ここで指摘したこと、及び12月23日付をもって詰問してきた捏造を含む無礼極まりない9項目の内容に対して、正直に反省し、御法主上人をはじめ奉り、宗門並びに一切の信徒に対して、懺悔の姿の徹底を強くもとめるものであります。

以上

平成3年1月12日 日蓮正宗総監藤本日潤



「『お尋ね』に対する回答』についての指摘

(1)について

@テープの再生・反訳の相違について

宗務院として、この回答を一読し、改めて池田名誉会長のスピーチを聞き直しましたところ、確かに当方のテープの反訳に、下記のとおり相違がありました。

(イ) 宗務院提出の「お尋ね」13頁の「工夫して折伏するのがないでしょう、ね。日蓮正宗で、いなかったんですよ。それを学会がやってるから、学会を絶対にすばらしい、ということであります。」は、「工夫して折伏する以外ないでしょう。ね、日淳上人が一番よく分かっていますよ。それを学会がやってるから、学会を絶対にすばらしい、ということであります。」でありました。

(ロ) 同じく16頁の「ただ……、真言亡国。禅天魔、法を下げるだけでしょう。」は、「ただ朝起きて、『真言亡国・禅天魔』(笑い)法を下げるだけでしょう。」でありました。

(ハ) 同じく2頁の「それがいけないって言うんですよ。折伏だけで、全部教条的にね、やれおかしいよって言うんだ。おかしいよ」と、15頁の「それがいけないと言うんですよ。折伏だけで、全部ね、教条的にね、やれっちゅうんです。おかしいじゃないか。そう書いてあるのに」とは、もともと同一箇所で、2頁の引用はミスプリントでした。

但し。(イ)、(ロ)の場合、故意によるものではなく、テープが聞き取りがたかったことによるものであります。ともかく相違していた点、及びそれに基づいてお尋ねした件に関してはお詫びし、撤回します。


A改鼠テープでないことが判明

もとより、宗務院には同日のスピーチについて、数箇所の会場で録音されたテープが寄せられており、当方の調査の上からも、12・16の「お尋ね」の元になったテープが改竄されたものでないことは判っておりました。しかし、この度の1・1の学会からの回答における指摘によって、このテープが改竄されたものでなかったことが、より一層はっきりと判明いたしました。

そこで、当方の反訳の相違は相違として認めた上で、とくに信仰の根幹に関する点について、再度、指摘をさせていただきます。


Bテープレコーダーの持込みを禁止する不合理

学会では、「テープの盗みどりという行為をご宗門はどうお考えになられるのでしょうか。盗みどりなどということは、道義的にもけっして許されるべきではなく、そうした行為を諌めるのが聖職者のあるべき姿ではないでしょうか」といっておりますが、宗門として不合理に思うのは、日蓮大聖人の仏法を基調として指導する名誉会長のスピーチを、テープにとることがいけないということ自体が理解に苦しみます。

純真な信徒の中には、会館に来れない家族や同志のために、名誉会長の指導を聞かせ、信心の糧にしようと思う入がいても当然のことではないでしょうか。それを禁止する方が不自然であります。そのために、入場に際しては、婦人のバッグを開けさせるような、人格を無視することまでして、テープレコーダーの持込みを禁止するのは、テープにとられては困ることを話しているからではありませんか。民主化とか、対話とかいいながら、その実は閉鎖的で陰湿な体質を端的に表わしていると思います。しかも「そうした行為を諌めるのが聖職者のあるべき姿」というのは、自らの不合理を省みず、他を言う無慚な言であります。学会が、やれ世界に開かれるの、民主化であるのというのなら、テープレコーダーの持込みなどの些細なことがらにとらわれず、正々堂々と会合を開き、スピーチすべきであります。


C「親鸞云々』について

「親鸞の件については、名誉会長が、いつ、どこで、誰に、どういう内容で言ったのか。この点について、総監より、是非とも責任ある回答をお示しいただきたい」とあります。この件に関して、学会は名誉会長を陥れようとする悪意であると決め付けておりますが、これは宗門の捏造ではありません。確かな筋から聞いたことではありますが、これを提出した人を証人にすることは現時点では困難であり、出処を明かせませんので、今回はこの件について「お尋ね」を撤回いたします。


D「推量・憶測』等について

ご承知のように、名誉会長のスピーチには主語や目的語がない場合がかなりあります。そのような中で、「と思う」「と思われる」「と解釈される」と表現するのは、主語や目的語がない以上、それに対して推量でしか言えない性格のものであるからです。とはいえ、11・16の会合に出席した会員から寄せられた証言や、また実際にテープを聞いた私どもとしても、素直に聞いてみて感じられることを述べたものであります。また、学会首脳へ「お尋ね」の形式で質問している以上、いまだ断定はできなかったから推量の形でしたためたのであります。もし、宗門や一般の会員に誤解を招きたくないのであるならば、今後は主語や目的語を明確にして公明正大にスピーチをすべきであります。



(2)1・1回答の問題点について

学会より送付された1・1の「『お尋ね』に対する回答」では、当方で認めた聞き違い事項を含め、いろいろ反論しておりましたが、その中で、核心の部分についてはまったく触れず、またごまかしているように思いますので、指摘いたします。これは池田名誉会長をはじめ、学会首脳の信仰の墓本姿勢にかかわるものですから、熟読の上、速やかに改心されるよう願います。


@「前文の部分」について

宗務院が問題としているのは、名誉会長のスピーチにおいて、本宗信仰上の不適切な発言を、多くの信徒が聞いているという影響の大きさを問題にしているのであります。もともと、名誉会長の実際の発言が、本宗の信仰において許されるか許されないかの判断は、創価学会側ではなく、つねに日蓮正宗側にあることは明らかであります。その正当な立場からみて、名誉会長の問題とすべき指導が、聖教新聞紙上では削られていたということを、ありのままに述べたまでであリます。それを新聞の整理・編集行為と混同すべきではありません。したがって、ここでの学会の回答における指摘は、問題のすり替えであると逆に指摘します。

なお、それでも執拗にそれをいうなら、スピーチの「会長を辞めさせられ」は、聖教新聞では「私も三代会長を勇退していた」と大きくすり替え、また日達上人の御指南を敷衍したはずの「猊下というものは云々」はまったく削除されております。もし、これが日達上人のお言葉を強調して敷衍したものであるとするならぱ、なぜ削ったのでしょうか。むしろ積極的に掲載すべきではありませんか。

このように、実際の問題発言が、聖教新聞紙上ですり替え、あるいは削除されているということ自体、やはり学会として、あるいは聖教新聞社として、故意に問題発言を覆い隠すために改作したものとしか、言いようがないことを指摘します。


A「御法主上人・宗門に関する件」について

1 「猊下というものは云々」について

「猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃいけない。権力じゃありません」という名誉会長の発言に対し、学会は「これは日達上人のメッセージを紹介したもので、傍線部分(上記の発言)はその日達上人のお言葉の趣旨を強調し、敷衍したにすぎないものであります。これが、日達上人の信徒を思われる大慈大悲のご境涯を賛嘆する意味で述べたものであることは明らかであり、それ以外のなにものでもあリません」といっております。

学会がいうように、この発言の前後には、確かに日達上人のお言葉が引かれております。しかし、それをもって、上記のように釈明するのは、苦しまぎれのごまかしであるとしか思われません。

スピーチのその部分の流れをもう一度振り返ってみますと、「(日達上人の)『私も人類の恒久平和の為に、そして世界の信徒の幸福の為』ですよ。猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません。『為に毎日毎夜、大御本尊に御祈念申し上げております』」という流れです。

もし、これが日達上人の御指南を信徒の立場から敷衍したものとするならば、例えば「猊下が、全信徒の幸福を考えておられることは、私どもにとってまことにありがたい極みであリます」というような、表現になるのではないでしようか。

ところが、それを多くの信徒の前で、力を込めて、「猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません」と発言したことは、到底日達上人の御指南を敷衍したものとはとれません。

大体、「○○というものは◎◎でなければいけない」との表現法は、言い換えると「◎◎であるべきだ」と、その有りようを論じ、規定するものであります。対象が人間であれば、そこに訓戒の意も加わり、一般的に上位の者が下位に対して用いる語法といえます。少なくとも、尊敬する人について用いる言葉遣いでないことは明らかであります。ゆえにこの発言は、信徒の立場で、仏法教導の師として仰ぐべき御法主上人に対し、こうあるべきだと有りようを語った、実に傲慢無礼な暴言であります。それも、何十万という大勢の信徒を対象に指導したスピーチでのことであり、決して許されるべき行為ではありません。

さらに、続いての「権力じゃありません」との言は、発言者自身が、猊下は権力を振りかざしていると認識していなければ、到底できない発言であります。すなわち、猊下の信徒に対する御指南を、権力によって信徒を抑えつけるものと決めつけ、それを非難したところに真意があるというべきであります。

そもそも本宗において、御法主上人が至尊の御方であることは、いまさら申すまでもありません。それは、大聖人以来の血脈法水を御相承され、御一身に所持遊ばされているからであります。このことは、御本仏大聖人が末法万年の法体護持、令法久住をはかられる上で、「血脈の次第日蓮日興」と、その方規を明確に定められたところに淵源が存するのであり、以来、嫡々師資相承して、御当代に至っているのであります。

したがって、時の御法主上人は、その権能の上から一宗を総理し、つねに令法久住、広宣流布への方途を指し示されるのであり、僧俗は挙ってその御指南を拝し、信行に遭進していくべきことは、理の当然であります。

このことから、名誉会長が「猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃいけない。権力じゃありません」と発言し、血脈付法の御法主上人を見下し、悪しき権力と決めつけたことは、本宗信徒として、絶対にあるまじき慢心による不遜な言動であり、強く指弾されるべきであります。


2 「御法主上人に対すろ誣告云々」について

当方からの「お尋ね」の(1)と(3)で指摘した「全然、またあの難しい教義を聞いたって解んないもの。誰も解んねえ。ドイツ語聞いているみたいでね。それで『俺偉いんだ。お前ども、信徒ども、信者、信者』そんなのはありませんよ。この時代に、ね。時代とともに歩まなきゃいけませんよ。」の発言に対する学会の「ご指摘の名誉会長の発言に主語がないことは自ら認めておられるとおりであり、これは猊下がそのようなことを言われたとか、猊下のことを指しているとかというものではなく、正信会等の、信徒を見下した僧侶の本質的傾向性を指摘したものであります。そして、この発言の真意は、あくまで布教にあたって、法を説く場合の時や機根等を勘案して賢明に行わなければ布教は進まないということを述べただけにすぎません。」「ご指摘の名誉会長の発言は、すでに擯斥されている正信会等の、信徒を見下し蔑視している僧侶の言動について述べたものであり、現宗門のご僧侶に宛て述べたものではございません。」と釈明しておりますが、これは主語がないことを利用して、その本意をごまかしたものであリます。

ここで、「俺偉いんだ。お前ども、信徒ども、信者、信者」と言う者がいるとすれば、それは僧侶であります。学会では、これを正信会の僧侶であると言い訳をしておりますが、正信会の徒輩はすでに8年以上前に擯斥された、本宗僧侶ではない者たちであります、ゆえに、そういう者に対して、「難しい教義を聞いたって解んない」とか、「俺偉いんだ。お前ども、信徒ども」というような発言が出てくる必然性がまったくないのであります。よって、名誉会長が11・16のスピーチにおいて、こうした発言をすることは、当然、現宗門僧侶に充てられたものとしかとれません。それは、宗務院へ送られてくる信徒の証言からも明らかであり、これを聞いた者は大概本宗僧侶のことであると受け止めております。

また、「全然、またあの難しい教義を聞いたって解んないもの。誰も解んねぇ。ドイツ語聞いているみたいでね」との発言は、僧侶の中でも、とくに総本山の二大法要等において甚深の御説法をされる御法主上人に充てられたものであることは明らかであります。

この二大法要における御法主上人の御説法は、本宗の甚深の法義を説かれるのでありますから、難解であることは当然でありますが、その時々の法門における筋道の深い意義が示されているのであります。信徒としては、この御説法を信心をもって拝聴し、つとめて学んでいくよう心掛けることが肝要であるにもかかわらず、このように批判するのは、名誉会長自身や学会首脳に、基本的な日蓮正宗の信仰心が欠けているためであり、大きな慢心がある証拠であります。

もしかりに、正宗僧侶の中に信徒を見下し、また僧侶としてあるまじき行為をしている者がいるとすれば、それこそ地方協議会や連絡会議などで取り上げるべきであって、信徒間の会合で発表すべきものではありません。そのようなことをすれば、信徒の間に僧侶不信、宗門不信の念が植えつけられ、溝を深めるだけだからであります。

なお、この発言が正信会を指したものであり、御法主上人や現宗門の僧侶を指したものでないとするならば、名誉会長や学会首脳が、今でも正信会の徒輩と直接的な接触をもち、その言を聞いているということなのでしょうか。そうとしかとれない弁解であると指摘しておきます。


3 ガーター勲章について

宗務院として、大村教学部長が創価学会に対して、平成元年10月号の『大白蓮華』の裏表紙の写真について注意したのは、「ガーター勲章」正式には「聖ジョージ十字章」の掲載を、「ただちに謗法に当たる」とか「いけない」と言ったのではありません。まして、掲載されてしまったものを、後から「やめてくれ」と言ったところで、どうにもなるものではありません。この件は、大勢の僧侶や信徒の中には、とくに心情的・感情的に鋭敏・潔癖な人も多くあり、『大白蓮華』という、いわぱ日蓮大聖人の法義を伝える教学理論誌の裏表紙に、「聖ジョージ十字章」が、大写しにされることによって、あたかもキリスト教を容認するように受け取られ、そうした人たちに無用の刺激を与える恐れがあるから、細心の配慮を尽くされるよう、申し入れたものであります。

この件については、昨年7月の連絡会議において、再度蒸し返して一方的に抗議してきたため、8月の連絡会議において、尾林海外部長からも重ねて説明し、学会側も諒承されたことであります。

にもかかわらず、1・1の回答のように、いつまでも同じことを蒸し返し、問題視してくるところに、学会の怨念を元とする執拗にして陰湿な体質を感じるのであります。

こうした体質が、世間からも嫌悪され、恐れられる一原因になっていることを自覚すべきであります。こうした体質を改め、正直に、潔い姿を示すことこそ日蓮正宗信徒としての正しいあり方ではないでしょうか。


4 「猊下というものは」との言い方について

この点については、この書のAの1で述べたとおりであります。


B「創価学会創立五十周年当時の回顧の件」について

1 「会長を辞めさせられ」「宗門から散々やられ」等について

『恩師の二十三回忌に思う』に関しては、一応「現在もいささかも変わるものではありません」としておりますが、上記で述べた事柄は、まさしくそれに違背しているものとしか言いようがありません。

また「ただ、10年前の一連の問題の中では、山崎正友、原島嵩、宗内一部僧侶(後の正信会僧侶)等による学会攻撃と名誉会長追い落としの策謀があったことはまぎれもない事実でございます。池田名誉会長は、その点から会長を辞めさせられたということを述べているのであり、後世への戒めとして、そのような反逆者・退転者の本質を厳しく弾呵しているのであります」と弁解をしておりますが、これは事実をすり替えたものであるとしか言いようがありません。

誰の策謀があろうとなかろうと、52年路線という学会の教義上の逸脱を主とする一連の問題は、『恩師の二十三回忌に思う』の中に「私が展開した昭和52年の一連の指導に、発端の因があったことは事実であります」とあるとおり、やはり当時会長であった池田氏の指導に原因があったことは否めません。とくに、昭和52年1月15日の第9回教学部大会における講演『仏教史観を語る』は、当時の学会問題を表面上に惹起させる大きな機縁となりました。これに対して、宗門は学会の誤りを糺したのであります。それが昭和53年の6・30において教義上の問題は一応是正され、11・7のいわゆるお詫び登山で学会執行部の責任として、また総講頭の責任として反省とお詫びをしたはずであります。しかし、この問題はそれで済むような簡単な問題ではなかったので、翌年4月24日、この一連の問題の中で会長を勇退し、同26日には一切の責任をとって、総講頭を辞任したはずであります。

山崎正友や正信会等の策謀は、宗門と学会とを切リ離そうとしたところにあるのであって、教義上の逸脱については、池田氏の指導に根本原因があったことは間違いのない事実であります。したがって、宗務院としては、この一連の問題の責任は、すべてその長たる池田氏にあったのであリ、そのために11・7で反省懺悔し、会長を退いたと認識しており、またこれは周知のことであります。それを他人へ責任転嫁して、「裏切られ、たたかれ、私は会長を辞めさせられ、ね。もう宗門から散々やられ、正信会から。馬鹿にされ……」というのは、自身の非を最初から認めないうわべだけの反省であったものか、あるいは今になって52年路線という、過去の過ちがなかったとしてすり替えようとするものか、この2つの何れかであります。

現在まで辿ってきた、宗門と学会との協調路線の原点が、昭和53年の6・30と11・7にあることは、お互いに認知するところであり、最近では昨年7月21日の御目通りの折に、御法主上人が池田名誉会長、及び秋谷会長に確認せられたところであります。しかし、上記の考え方は、何れも6・30、11・7に違背するものであります。名誉会長、及び学会首脳の考えが何れにあるにせよ、この2つの中に入るならば、それは日蓮正宗の仏法への違背であります。このことからも、名誉会長、及び学会首脳は即刻改心して、本宗本来の信徒の姿に戻るべきであります。


2 「正信会の取り扱いの件」について

正信会の取り扱いについて、宗務院としては、正信会の徒輩の血脈否定は、最大の謗法であると認識しております。この根本的誤りにおいて、彼らを擯斥に処したのでありまして、決して学会を非難したからというだけで擯斥したなどということではありません。上来述べてきたように、正信会の徒輩の多くは、当初学会の52年路線という教義上の逸脱を糺していこうとして立ち上がった、若手僧侶であったことは事実であります。その働きかけと日達上人の御指南によって、学会は自らの非を反省し、誤った路線を糺すことができ、そして宗門との協調路線を歩むことになったわけであります。したがって、正信会のことに言及する場合は、つねにこのことを念頭において発言するのでなければ、学会が最初から誤リや逸脱がなかったように糊塗することになり、歴史を歪曲する結果となるのであります。

本来、このようなことは、いまさら改めて指摘するまでもなく、一連の経過において、名誉会長自身が知悉していることであリます。それにもかかわらず、最近のスピーチでは、「僧という立場、衣の権威を利用して、健気に信・行・学にいそしむ仏子を謗法呼ばわりし、迫害した悪侶らがいた」「学会は一切に勝った」というように、短絡的な表現をするのは、明らかに正信会にこと寄せて、一つにはかつての自らの誤りを隠して正当化し、さらには現宗門僧侶に対するイメージダウンを図った策謀と思わざるをえないのであります。まして、正信会のあり方について、その結果のみをもって「学会とは関係のないことであると思います」との回答は、無責任にして、無慚極まりないものであると断じます。


C「僧侶軽視の発言に関する件」について

1 「信者・信者」の発言について

この点については、この書のAの2で述べたとおりであります。


2 「一応平等」等について

日有上人の『化儀抄』の「貴賤道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり、然れども竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」との仰せについて、当方の「お尋ね」では「御本尊を拝する姿においては、一応平等でありますが、そこには当然僧俗の区別があり、礼儀をわきまえなければなりません」と指摘したことに対して、学会は「僧と俗とは『一応平等』というような表現からは、本質的には、僧侶が上であり信徒は下であるという権威主義的な考え方が感じられてなりません。大聖人の仏法においては、信心の上では僧侶も信徒も全く平等なのではないでしょうか」、また「僧俗は本質的に平等であって、僧俗の差別によってきたるところは、『等閑の義をなほ不便に思ふは出家・悪く思ふは在家なり』というところにあると拝され、けっして身分関係の相違ということではないのではないでしょうか」と解釈しておりますが、これは明らかに曲解であります。

まず、『化儀抄』というもの自体が、一般信徒に示されたものではないということであります。つまリ、『化儀抄』は、第9世日有上人の日頃の御指南を、弟子の南条日住師が書き留められ、若くして御登座された第12世の日鎮上人へ、奉呈されたものであって、一般の僧俗が、自らの考えをもって軽率に判断すべきものではありません。

また、「信心のうえでは平等である」というのは、当然のことですが、この信心の意味するところを履き違えております。『化儀抄』でいう信心の意味するところは、妙法の御本尊に向かって本門の題目を唱えるところ、すなわち九界即仏界という本因妙成仏の義をいうのでありまして、そこには当然僧俗の差別はなく、平等であります。しかし、『化儀抄』の「然れども竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」との仰せは、明らかに平等の中にも上下の差別があることを示されたものであります。したがって、その外の一切の信仰活動上の化儀について、平等であるという御指南ではありません。

しかし、学会でいう信心の意味は、信心そのものというより、信仰活動の全体に渡っており、ただ役割分担の上のみに、僧俗の相違があるとするものであります。それは、学会のいう「僧侶と信徒との関係にあっては、まず何よりも、信心のうえでは僧俗平等であることが第一義であると思います。そのうえで僧侶と信徒との本分及び役割を活かした相互の尊重・和合があるのではないでしょうか」という主張から明らかであります。

ここに、大きな誤りがあります。日興上人の『遺誡置文』の中に、「若輩たりと雖も高位の檀那より末座に居るべからざること」とありますように、信心の化儀中においては、やはり能化所化の次第、僧俗の分位、初信後信の前後が存するのであります。また『弟子分帳』でも、弟子分・俗弟子分等の区別がなされているごとくであります。

僧侶は、総本山において修行し、血脈付法の御法主上人より免許を蒙った法衣を着ているのでありますから、大聖人の仏法の法位において、当然信徒より上席であります。これは権威主義などというものではなく、仏法に定められた規範として、仏法流通の上の、僧侶に備わる本来のあるべき姿であります。したがって、僧俗には大聖人の仏法に即した本来的な差別が存するのは当然であります。平等面のみを見て差別面を排するところには、九界即仏界も、差別即平等も一切なくなってしまいます。なお、学会の回答の中で引いている『阿仏房御書』の「日蓮が弟子檀那」との表現は、他の多くの御書でもみられる表現であります。しかし、あくまでも「弟子」の次に「檀那」であり、「檀那弟子」と示された御書がないことも知るべきであると、指摘いたします。

信徒としては、『新池御書』の「末代の衆生は法門を少分こころえ、僧をあなづり、法をいるかせにして悪道におつべしと説き給へり、法をこころえたる・しるしには僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし、今は仏ましまさず、解悟の智慧を仏と敬ふべし、いかでか徳分なからんや、後世を願わん者は名利名聞を捨てて、何に賎しき者なりとも、法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし」との御文を軽々に看過してはなりません。それを本質的に皆平等であるとし、対等意識をもって僧俗和合を進めるなどというのは、大きな慢心の表われであると同時に、和合僧団を破壊する五逆罪に相当するものであります。

さらに、このような主張の中には、三宝破壊の兆しがあると言わねばなりません。もともと仏法においては、三宝への絶対の信心が基本であります。かつて、52年路線を反省する学習教材として、昭和54年11月の『大白蓮華』には、三宝中の僧宝について、「正法を正しく継承伝持あそばされた血脈付法の日興上人を随一として、歴代の御法主上人、広くは、御法主上人の法類である御僧侶の方々が僧宝なのです。(中略)僧宝がいかに尊く大事な存在であるかを知り、尊敬と感謝と報恩の信心をもって御僧侶を敬い、僧俗和合の姿で広宣流布に邁進していくことが肝要です」と、正しい三宝の拝し方を、学会自らが示しているのであります。

したがって、この点を外して僧俗平等などというならば、それはまさしく当家の三宝を破る大謗法であります。また、この御法主上人に信伏随従する僧侶は、当然、法位において僧宝の一分に入るものでありますから、本質的に僧俗平等などと主張することは、信徒として仏法の位階をわきまえない大増上慢者と断ぜざるをえません。



D「宗門の布教と平和文化活動に関する件』について

1 「宗門僧侶が学会員の折伏を当たり前だと思っている』としていることについて

学会側としては、12・23付の書面で質問したものとしておりますから、それに対する宗門側の12・29の回答を再度熟読すべきであります。


2 僧侶が平和文化運動をいけないと言っているという点について

この点については、この書のAの3のとおリでありますから、よく読み返し、学会首脳の認識に誤りがあったことを反省すべきであります。



E「『真言亡国・禅天魔』の発言に関する件」について

1 学会の見解について

この書の(1)で示したとおり、反訳の相違は認めます。

しかし、折伏の方法論の一つとして、ただ朝超きて「真言亡国・禅天魔」と唱えることによって、折伏ができると信じている人がいるとでも思っているのでしょうか。それをあのような形で、大聖人の四箇の格言を引合いに出して、無慚な笑い話の材料にすること自体が、法を下げることであるというべきであります。

宗門のいわんとするところは、学会が四箇の格言を否定していないまでも、大聖人の伝統法義を教条主義的と決めつけて、文化・平和運動のみを強調することが、引いては大聖人の教義そのものを廃する危険性につながると指摘するものであります。

また、四箇の格言の意義は深いものがあり、700年を経た今日においても、これら権宗の思想的害毒が、社会に広く根強くはびこっていることに対し、破折、並びに教導していかなくてはならないのであり、軽々に教条的だなどと考えるべきではありません。


2 親鸞云々について

この書の(1)のCで述べたとおり、撤回いたします。



F「歓喜の歌」について

歓喜の歌をドイツ語で歌うことは、外道礼讃になると指摘したことに対して、これを狭量な解釈であると決めつけております。当方においても、「歓喜の歌」が、芸術として高い評価を得ていることは、充分承知しております。

しかし、この歌詩を自已のうちにある神々しい力を賛嘆したものと解釈して、外道とはまったく無関係であるというのは、明らかに間違っております。

この歌詩をどのように意義づけようと、原詩の表現は、ギリシャ神話の神々・エリュージオン(楽園)、旧約聖書の知天使ケルビム・創造主等々の語句を見ても、外道そのものといえます。

したがって、この歌がどんなに世界の名曲であっても、つねに四悉檀を心にかけ、中でもとりわけ第一義悉檀をもって、一切衆生を大聖人の仏法に導くという、尊い使命を持つ日蓮正宗の信徒が、それも外国文化の伝統ある国々においてならともかく、とくに日本国内において、その会合等でことさらに合唱団を組んで歌い上げるのは、明らかに世間への迎合というべきであります。正直に方便を捨てよとの大聖人の仏法における信徒として、まことにふさわしくない姿であります。


以上