資料N(創価学会古参大幹部からの書面(1))


盛夏の候、早瀬重役をはじめ尊能師の諸先生方におかれましては、益々ご壮健のこととお慶び申し上げます。


私ども牧口門下は、戦前の牧口常三郎初代会長の時代から、微力ながら、歴代会長のもと、その指導どおり、宗門、総本山を外護し、宗祖日蓮大聖人の御遺命たる広宣流布を目指し、尽力してきたものでございます。御書に「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」と-。

私ども一人一人にとって、歴代会長のもと広宣流布一筋に生きてこられた、この50年の人生は、まさに無上の誉れであり、かつ喜びでございます。

その間、ご宗門においては、いたらぬ私どもを温かく慈悲で包んでくださいました。特に戦後においては、堀日亨御隠尊猊下をはじめ、日昇、日淳、日達上人と歴代ご先師上人が、学会をことのほかご理解、ご包容くださり、700年来、未曾有の大聖人の仏法の大興隆を見ることができ、長年、信心してきた者として、これ以上の喜びはなく、私どもは、その御恩を決して忘れることはありません。ところが、作年末から、突風のごとく、宗門と学会の問に起きた嵐は、学会草創期以来、この半世紀にわたり、僧俗和合して広宣流布に邁進し、日蓮正宗を愛してきた私どもにとりまして、まったく信じられない出来事の連続で、毎日、悪夢を見る思いであります。

こんなことは、戦前、戦後、多事多難な局面を幾つも経てきた宗門、学会の歴史の中でも、一度もない異常な暗黒の事態と言わざるをえません。

申すまでもなく、今日まで、総本山に一番ご奉公し、一番猊下をお護りしてきたのは、他ならぬ池田名誉会長であります。そのことは、能化の先生方が一番よく知っておられることと思います。それを事前に何の相談もなく、宗規変更と称し、いきなり一片の通知書で総講頭を解任されたのです。

しかも、名誉会長が慶讃委員長を務めた大石寺開創七百年慶祝行事の直後の、昨年末のことであり、その性急ななされ方は、どのように考えてみても不可解極まりない処置であります。

そもそも、名誉総講頭であった池田名誉会長を、再び総講頭に任命されたのは、日顕猊下ご自身でありました。名誉会長は、総講頭就任について、一度は固辞致しましたが、猊下からの重ねてのご要請を受け、昭和59年1月に、これをお受けしたものであります。この間の経緯は、先生方も十分ご承知のことと存じます。

従って、その総講頭に関して、何か変更するということであれば、事前に名誉会長とよく話し合いをしてからというのが、当然の道理ではないでしょうか。それをまったく無視し、一片の通知で総講頭を解任するなどということは、とても常識人のすることではなく、もし、これを当然のことと考えるのであれば、それは最早、悪しき権力者の所業と言わざるをえません。今日の異常な宗門の闇をつくった原因は、歴代ご先師が最も嫌われた聖職者の権力体質、権威主義にあると言わねばなりません。

しかもその理由も、根拠らしきものが何一つないではありませんか。当初、宗門があげていた昨年11月16日に行われた第三十五回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチも、後で宗門自身が「お尋ね」文書のもとになったテープ反訳の誤りを認め、「お尋ね」文書の枢要な質問自体を撤回せざるをえなくなったことに明らかなように、その根拠がまったくなく、単なる言いがかりに過ぎなかったことは周知の通りであります。

先生方には、いま一度「お尋ね」文書を、宗門で撤回した部分と対比させながら読み返していただきたいと思います。そうすれば、質問のいい加減さと杜撰さ、甚だしい誤解と曲解、更には明らかなテープの改ざん事実に、今更ながら呆れられることでしょう。

更に、この「お尋ね」文書は、宗門の最大の功労者である名誉会長や創価学会を、まるで三流週刊誌のような、悪意に満ちた下品な表現によって誹謗中傷しているものであり、宗門の公式文書とは到底思えないものであります。

この文書自体、私どもにすれば、許すべからざるものでありますが、加えて、その後の経過は、学会側の指摘どおり、その誹謗中傷の根拠が次々と崩れ、撤回せざるをえなかったのであります。従って、普通であれぱ、まず、宗務当局が、池田名誉会長らを誹謗中傷したことについて、経過説明も含め心より謝罪して、初めて双方の信頼関係の回復がなされるものであり、それは宗教人以前の人間社会での常識であります。

しかるに、宗門からは誠意ある何らの陳謝もなされないどころか、更に日顕猊下は、正本堂に関し、名誉会長のことを慢心とされ、それが今回の問題の根本の因であると言われたのであります。

一信徒たる池田名誉会長が宗義の根幹にかかわる正本堂の意義について、宗内で初めて発言したのは慢心であると決めつけられた、この“岬正本堂ご説法”も、日顕猊下の完全な記憶違いによる事実誤認であったことは、猊下ご自身、後に「大日蓮」に訂正を申し出されて明らかになっております。

“正本堂の意義を名誉会長が歪曲した”と猊下は申されようとしたのでしょうか、このような宗義のことは本来、当時のご法主のご指南、権限のもとでのことではないでしょうか。

時のご法主日達上人が、池田名誉会長に対して「慢心だ」とする発言は一切ございませんし、まして正本堂建立寄進のことについては、その信心を最大に称賛されることはあっても、慢心などと言われたことなど一度もありません。それを20年以上も経って、今のご法主が「慢心」と言うのは、日達上人の発言を否定し、かえって侮辱することにも通じましよう。

先師・日達上人は、宗門興隆の大功労者である名誉会長に対し、「あなたのその死身弘法の決意、学会の猛折伏の精神は崇高であり、感激です。ありがとうございます」と、もったいなくもあらゆる機会で仰せくださり、名誉会長の信心を最大に称資されていたことは、宗内ご僧侶各位、すべてご承知のことでございます。

日顕猊下は、その先師も言われてないことを今頃になって言い出され、最大に称賛してしかるべきはずの名誉会長を「慢心だ」と決めつけられるとは、どう考えても、おかしなことで納得のいくものではございません。

先師のおっしゃったことを継ぐのが猊下のお立ち場であり、日蓮正宗の伝統ではないでしょうか。まして先師が最高に権威ある訓諭で「後代の誠証となす」といってご教示されたことまで否定するのでは、先師に対する冒涜と言わざるをえません。また、このように自分一人の判断だけでものを言うのでは、“已義を構えている”と言われてもやむをえないのではないでしょうか。

更に日顕猊下は、正本堂の意義に関して名誉会長の慢心云々が通用しなくなると、今度は昭和39年ごろから学会が広宣流布を達成しようと意気込んでいたことをとらえ、そこに慢心がある、と誠に信じられないようなことを言われ始めたのであります。これは広宣流布達成への決意を門下が起こすこと自体を否定するものであり、これでは猊下ご自身が、宗祖日蓮大聖人の仏法を否定されたとしか言いようがありません。

それこそ、「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随カ弘通を致す可き事」との日興上人の御遺誠に、時のご法主が公然と背かれたものとして、私どもは現宗門の思念から憂えるものであります。

このように何の根拠もないのに、口を開けば、慢心だ、三宝破壊だ、五逆罪だと、学会や名誉会長を悪人に仕立て、懺悔、謝罪を云々するのは、異常としか書いようがありません。

その極みは、名誉会長に対し、各布教区が「謝罪要求書」なるものを送りつけたことであります。しかも各寺院が、それを大書して張り出し、名誉会長の名誉と人権をあからさまに侵害する暴挙に走ったことは、許し難い悪行であります。一体、昨年来の問題の経過から、名誉会長、学会にいかなる非があったというのでしょうか。何一つないではありませんか。謝罪すぺきはすべて宗門側にあったことは、誰が見ても明らかであります。

三宝破壊云々と言われますが、学会のどの点が三宝破壌に当たるのか、これも具体的には何もないのであります。もし、あると言われるのならば、一体、学会が、いつ、どこで、末法下種三宝を破壊したというのでありましょうか。明確に示していただきたい。

学会における未法下種三宝への信心は不動であります。そうでなければ折伏をはじめとする正法流布の活動を、これほど強く、かつ不断に推進できるものではありません。

加えて、私どもの愚眼から見ても、宗門の三宝破壊云々の非難には、明らかな誤りがあります。最近の宗門の論法を要約すれば、。“僧宝である僧侶を謗ずることは、三宝一体であるがゆえに、三宝破壊に通ずる”というものでしかありません。

しかし、ここには二つの誤りがあります。一つは、私どもは正法伝持のために立派な働きをされているご僧侶を決して誹謗した覚えはなく、ただそうでない仏道から外れ、堕落し、傲慢になっている悪侶の誤りを、誤りと申し上げているだけであります。

もう一点は、「三宝一体」という言葉の使い方の問題であります。三宝一体とは、本来、一仏に三宝の徳が具されていることを意味します。したがって、大聖人の御一身、もしくは御本尊に三宝の徳を具足あそばされていると拝するのが、正宗における三宝一体の正しい意義であると信ずるものであります。

この意義から、日達上人の次のご指南は、私どもが心から納得して拝するところであります。

「人法一箇の御本尊を中心とするのが本来の本宗の行き方でございます。御本尊において三宝相即であります。各自みなさま方の仏壇に御本尊を安置して朝夕に信心を励む。それで三宝を敬っておる充分の姿でございます」

このご指南に示されているが如き、末法下種三宝を尊崇する姿は、今や世界中に広がっております。それは、会長就任後、ただちに世界広布に立ち上がり、今なお世界中の人々が安心して信行を貫けるように奮闘している池田名誉会長の卓抜したりーダーシップによるところが大きいのであります。それに対し、現猊下ご自身も厳しく弾呵されていた檀徒づくり等に見られる宗門の動きこそ、こうした世界広布の進展を、真っ向から阻み、破壊するものであり、それこそ五逆罪の破和合僧に当たると、大聖人のお叱りを恐れるものであります。

このように、ことの経過をみると、そもそも今回のことは、宗門側に、当初から学会を切ろうという黒い意図があり、理由をあとから強引にこじつけたものであることは明らかであります。

昨年夏ごろ、宗門内において企図された「C作戦」なるものは、それを何よりも物語っております。ところで、この「C作戦」について、猊下ご自身が本年三月上句に、複数の正宗僧侶から「昨年の夏の時点で、『C作戦』を御存知だったのでしょうか」と尋ねられたところ、「知っていたよ。『C作戦』はあの野郎の首をカットするという意味だよ」と話されたということが、新聞等に書かれておりました。

もし、これが事実とするならば、これがご法主の口にする言葉でしょうか。私ども信徒にとって余りにも恥ずかしく、情けない話ではありませんか。ご宗門に一番ご奉公し、今日の総本山の大興隆を築いてきた名誉会長のことを「あの野郎」と蔑み、その首を「CUT(カット一」することが「C作戦」の「C」の意味だということを、ご法主自ら述べていたということであれば、このような恐ろしい冷酷無比な法主がいること自体、日蓮正宗にとって遺憾の極みではないでしょうか。

ご宗門にとって大切にすべき信徒の代表に、そのような暴言を用い、策略を弄して、陥れようとすること自体、最早その人格を疑わざるをえず、私どもはいかなることがあっても、この言を許すことはできません。その意味で、もし新聞に出ていた言が事実でないとするならば、この点に関しては、是非、某新聞に事実無根による名誉毀損等の法的な措置をとっていただき、真偽を明らかにしていただきたい。また、よもやそのようなことはないと思いますが、もしこれが事実であるとすれば、日顕猊下ご自身が、このことをまず謝罪されるのが道理ではないかと申し上げるものであります。

更に猊下は、今回のことを“5年前から、準備していた”と話しておられたことも耳にしております。また、別の機会には、10年前から、いつでも学会は切れると考えていたとも漏れ聞いております。そうであれば、今回のことは、猊下により周到に計画が進められたものと考えざるをえません。

すると、これまで猊下が学会や名誉会長の功績を称えてこられたのは、すべて人を欺く虚言だったということになるのでしょうか。それでは、信徒を言葉巧みに安心させ御供養を取るだけとってあとは切り捨てようとする、詐欺にも等しい卑しい行為と言わざるをえません。

私どもは戦前からご宗門にお仕えして、愚鈍の身ながらも、真の外護がどういうものか、少しは理解しているつもりでございます。信伏随従の名のもとに、ご宗門から言われることに何でもただ盲従し、無批判に受け入れることが、少しも外護にならないことを体験的に知っております。

もし学会が、ご宗門の言うことにただ盲従していただけの存在であれば、戦前の神札問題でも、ご宗門と共に謗法まみれになっていたでありましょう。しかしそれでは、あの時点で、日蓮正宗僧俗ともに大聖人の仏法と信心は断絶し、戦後の学会の大発展、ご宗門の大興隆もなかったのであります。学会は、ご宗門からの申し入れを拒み、神札を拒否し、自ら殉難の道を歩むことを通し、大聖人以来の正しい信心を死守し、もってご宗門を外護申し上げたことは、諸先生方が一番よくご存じのはずであります。

それはともあれ、ご宗門とは牧口先生以来、長いお付き合いになりますが、以前はもっともっと率直に意見を交わしあったではありませんか。私どもが存じ上げているご宗門には、自由にものを言える雰囲気がありました。厳粛ななかにも自由闊達な宗風があったことを懐かしく思い出します。

その良き宗風が、最近は、全くなくなってしまい、宗門は、頑なに私どもとの対話を拒否し続けております。否、それどころか、昨年末の宗規変更で、信徒が「言論、文書等をもって、管長を批判」すれば処分するとの条項を加えられました。これでは、信徒は怖くて何もものも言えず、まるで中世暗黒時代の隷属を強いるものではありませんか。時代逆行も甚だしい非民主的な宗門の体質に、多くの識者も改めて驚いたことは、周知の通りであります。

更に最近では、あろうことか、登山会のことで秋谷会長が、猊下との話し合いを求めたところ、それに対し「猊下への『お目通り』の儀は適わない身」と断じてくる有様であります。

それにしても“お目通り適わない身”云々とは、いかなる時代感覚なのでしょうか。この言葉ほど端的に、現宗門中枢の信徒蔑視、権威主義体質を表しているものもありません。

宗門が、私どもとの対話を恐れ避けるために、「お目通り」を一方的に拒否しておきながら、学会首脳を「『お目通り』の儀は適わない」罪人扱いにしようという、この前時代的感覚、これはもう呆れると言うほかありません。そこには“僧が上で信徒が下”という抜き難い封建時代の身分感覚による差別意識が余りにも露骨であり、信徒を心から大切にされた大聖人の御精神とは、似ても似つかぬ専制君主的体質が如実に表れています。このような時代錯誤も甚だしい意識で信徒を見下している限り、宗門は、永遠に時代から取り残されることは言うまでもありません。

かつての宗門には、このような狭量さはなかったではありませんか。戦時中の難局の時も、日淳上人は、牧口先生らと何度も対話を重ねられましたし、戦後も、日亨上人はじめご先師上人方と忌憚ない話し合いをして今日まで進んできたのが、宗門と学会の関係でありました。それがあったからこそ、ここまで民衆に仏法が弘まり、広布の道は開かれたと信ずるのであります。

牧口先生も一身をかけて外護の赤誠を尽くされましたが、申し上げるべきことは歯に衣を着せずにおっしゃいました。

戸田先生は、もっと厳しく言われました。「折伏もしないで折伏する信者にケチをつける坊主は糞坊主だ」「御僧侶を坊主と言った覚えなく、坊主を僧侶と呼んだおぼえは無い」「御僧侶を尊び、悪侶はいましめ、悪坊主を破り」と、広宣流布を忘れた僧侶には本当に厳しく申されました。それは愛宗護法の発露からでした。

池田名誉会長は、こうした牧口・戸田の両先生に比べれば、ご宗門への意見はむしろ抑えに抑えてこられました。名誉会長が、最も純粋にご宗門を外護し、猊下をお護りしてきたことは、三代の会長に仕えてきた私ども牧口門下が、一番よく知っているところであります。その池田名誉会長の純粋にして強靱な信心があったが故に、あの壮大な正本堂の建立も、壮麗なる大客殿の落慶も、また。338力寺の正宗寺院の寄進もなしとげることができたのであります。特にこの10年間は、正信会の徒輩が日顕猊下の血脈相承を否定するなか、日顕猊下をお護りすることに徹し、少欲知足を旨とする正宗僧侶にあるまじき行状を見聞きしても、胸に秘めて何も言わずにきたのであります。恐らく僧侶自身が広布の使命に目覚めることを期待されたのでしょう。もちろん、私どももそれを期待致しました。しかし、その望みは叶えられるどころか、無残にも打ち砕かれ、宗内には金儲け主義、華美軟風の風潮が強まり、それに増長する僧侶が増え、信徒蔑視の姿勢は日ごとにより露になってきたのであります。

ことここに至って、昨年7月の宗務院・学会連絡会議の席上、学会首脳から、大聖人の仏法の御精神の上からも、広宣流布を推進する責任感の上からも、目に余る宗門の権威体質と僧侶の堕落の姿に対して何点かの要望を申し上げたのであります。今にして思えば、奇しくも、宗内の奥深くで恐るべき「C作戦」が企図されようとしていた時でありました。

それに対し、昨年7月21日、総本山大石寺大坊で行われた日顕猊下と池田名誉会長、秋谷会長とのお目通りの際、先の連絡会議での会長らの発言に対して、猊下は大声をあげて「法主の発言を封じた。きょう慢だ!きょう慢謗法だ!」と怒鳴られ、叱責されました。

しかし、秋谷会長らの発言は、もったいなくも猊下の発言を封ずるようなものでは毛頭ありません。ご宗門外護の赤誠から、宗内僧侶に申し上げるぺきことを申し上げたまでであります。本来ならば、信心の上から褒められるべきことでこそあれ、それを大声でご法主が叱責されるとは、遺憾というほかありません。もとより私どもの要望が正当なものであったことは、ご宗門自身、それを受けて、その後、宗内に21項目にわたる「末寺僧侶・寺族の綱紀・自粛に関する規準」の通達を出されたことにあらわれていたではありませんか。

ともあれ池田名誉会長は、宗門興隆の大功労者です。これは誰もが認める事実でありましょう。名誉会長がもしご宗門が言われるように慢心で傲慢不遜の人格であれば、世界に大聖人の仏法をここまで弘めることは到底できるものではありません。

百六箇抄に「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」とございます。もとより、どんなに法が偉大でも、それを説く「人」の人格に共鳴しなければ、法は弘まりません。今日、世界115カ国に大聖人の仏法が弘まったということは、世界の人々が名誉会長の深い信心と人間性に心から共鳴した結果にほかなりません。

日蓮正宗は、この七百年の宗史に輝く偉大な信徒、まさに正宗が誇りとすぺき信心の人を切ろうとしたのであります。この狂乱、顛倒の事実は、永遠に正宗の汚点となって残ることでありましょう。

信徒から御供養を取るだけ取った上で、今度は掌を返したように、その信徒に誹謗の限りを尽くし悪口罵詈する聖職者など、世界中どこを探してもありません。否、それぱかりか、このようなことを繰り返していては、宗門は他宗教からも物笑いのタネになり、法を下げるも甚だしい大謗法になってしまいます。

本来、仏子である信徒が、たとえ何を言おうとも、かわいい信徒の我がままとして大慈悲をもって包み込んでくださるのが、聖職者ではないのでしょうか、それを反対に悪の讒言を信じて、根拠のない誹謗中傷によって、真面目な信徒を苦しめるのでは、あまりのことと言わざるをえません。

それでいて、僧侶自身は折伏に汗を流すのでもなく、賛沢な暮らしをしたり、宗内で禁じられているゴルフにうつつを抜かし、カラオケに興じているのでは、何をか言わんやです。最近では信者宅の盗聴事件に深く関与していた宗務支院長がいるとも聞き及び、この宗風の荒廃・退廃ぶりに、宗開両祖のお嘆き、お怒りはいかばかりかと、ただただ恐れるものであります。

御聖訓に「受けがたき人身を得て適ま出家せる者も・仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり、法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一もむし・法師と云う名字をぬすめる盗人なり、恥づべし恐るべし」と。

現在、ご宗門によって進められている信徒いじめは、仏法の上からも、また人道の上からも、決して許されるものではありません。長年、仏飯をはんでこられた高僧の方々のことですから、この道理はよくお分かりいただけるものと確信しております。

ましてご宗門が、信心の退転者、学会に反逆した者と組んで、学会の組織崩しに利用し合うなどは論外であります。特に猊下ご自身が、謗法のブラック・ジャーナリストと直接会って、学会批判を依頼したり、また、あろうことか、猊下の血脈を否定した張本人の犯罪者・山崎正友に、猊下自らが謝罪したなどと聞くに及んでは、耳を覆いたくなるもので、最早、「末法極まれり」と言わざるをえない暗濾たる気持ちになってしまいます。

日蓮正宗は、今こそ眼を覚ましていただきたい。僧侶は檀徒づくりを止めるべきであります。また法華講も、折伏というなら、外に向かってすべきであります。学会員を狙い撃ちにして脱会勧誘を進めていくなどということは、余りにも情けないと思われませんか。それは日達上人仰せの破和合僧以外の何ものでもなく、大聖人の御遺命である広宣流布の流れを止める魔の所為であります。これほどの悪逆はありませんし、堕地獄間違いないものであります。広宣流布の流れを止める罪がいかに重いかは、諸先生方には、言うまでもないことでしょう。ともかく現在の宗門は、七百年の歴史のなかでも、ひときわ異常そのものです。なぜ、このような事態になったのか、最後に、つらつらその真因と思われるところを率直に申し述ぺ、ご宗門の覚醒の一助とさせていただきます。

まず一つは、日顕猊下が、本来会うべき人に会わず、相談すべき人に相談せず、会うべきでない者に会い、相談すべきでない者に相談している、ということであります。

猊下が信徒の教化育成をはかり、広宣流布を考える場合、まず直接会って相談しなければならない人は、池田名誉会長以外におりません。何度も繰り返しますが、池田名誉会長は宗門興隆の大功労者、大檀那であり、大聖人の御遺命達成、宗門の発展を最も願っている正宗の誇る大信者であります。

日顕猊下は、まず池田名誉会長と親しく懇談し、宗内のこと、世間のこと等々あらゆることについて意見を聞き、そして、誤りなきをはかって一宗を教導すべきてあります。 しかるに日顕猊下は、池田名誉会長と会おうとしないばかりか、逆に切ろうと策し、本来、ご法主が会ってはならない人物らと会い、相談すべきでない人物らと相談されております。宗内にあって、現在、猊下の側近であるとして、本山を牛耳っているのは、猊下に聞こえのよいことのみを報告する阿課追従の輩であると、宗内僧侶の間で公然とささやかれておることはご存じでありましょう。それらの者は、宗門の過去の労苦はまったく知らず、本当の意味での宗門人ではなく、信心の何たるかも知らない僧であります。

また、ブラック・ジャーナリストをはじめ、山崎正友、福島源次郎、龍年光、藤原一派らの反学会・退転者グループであります。私どもは長年、信心をしてきて、彼らの信心も人格もよく分かっております。彼らは信心のひとかけらもなく、宗門と学会の離間をはかり、宗内を混乱に陥れることによってのみしか、自らの生活の糧を得る方法のない者達ばかりであります。

現在の猊下は、このような悪知識の者達に十重、二十重に囲まれております。そのような状態では、結局、大局観を見失い、誤りに誤りを重ねるのが当然でありましょう。

二つには、日顕猊下および宗門首脳が信心、大局観に立たず、感情的、場当り的処置に終始しているということであります。

一般論として言えば、ご法主は、一宗を教導する方で、宗内僧俗の尊崇の対象であり、私どもは、信伏随従しております。

しかし、そのご法主が、宗内大衆の納得と同意を得られない行動をとり続けられた場合、一時的にはご法主の指南として従う形となったとしても、必ずや無理が生じ、宗内が混乱することは必然であります。従って、ご法主は、常に人一倍、宗内各層の意見も徴しながら、誤りなきを期し、そして道理にかない、宗内大衆が心から納得できるご指南をなされなければならないものであると、伺っております。

しかるに、現今の日顕猊下や宗門首脳は、前にも述べましたように、総講頭解任といい、正本堂ご説法といい、また、強引な登山会変更の問題等々、その為すことすぺては余りにも性急、迂闊であり、まさに枝葉末節にこだわって大局を見失った行動に及んでいるとしか言えないのであります。

三つには、宗内の良識ある僧侶方が、今回まったく沈黙していることであります。その理由は申すまでもないことでありましょう。ともあれ、宗門内に自由闊達に論議する風はなく、恐怖政治がまかり通っている状態にあることは、極めて遺憾と言わざるをえません。先に申し上げた名誉会長への「謝罪要求書」も、納得しない僧侶を上からの力で署名させようとしたもので、かつての暗い“踏み絵"以外の何ものでもありません。

早瀬重役をはじめ能化の諸先生方、この事態をこのまま放置しておいてよいのでしょうか。今のままの状態が続けば、一体どのようなことになるのか。宗門は、やがては、顕正会、正信会等の根本的な信心が分からず我見を押し通そうとする徒輩や、また反創価学会を標傍する種々雑多なグループ、更にはブラック・ジャーナリストらの魑魅魍魎が、我が物顔で跳梁跋扈するところとなり、本山は彼らの食い物にされてしまうことでありましょう。

更に、本山を観光地化しようとする動きも当然想定されます。これでは、私どもが破折してきた邪宗寺院と同じ魔の住処となってしまいます。もしそういうことになれば、本山は自ら七百年来の清流を断ち、謗法の濁流に飲み尽くされるばかりでありましょう。

能化の諸先生方におかれましては、現在と将来のご宗門を憂える思いは、私ども以上であると拝察致します。現状の暗黒を打開できるのは、諸先生方をおいて外にはないと考えております。どうか今こそ、先生方が勇気を奮い起こして立ち上がり、猊下に進言なされ、まずすべてを昨年12月27日以前の状態に戻し、そこから混迷せる今回の問題に終止符を打ち、宗門の未来に希望の光を点じゆく一石を投ぜられんことを、切に祈るものであります。

日顕猊下をはじめ尊能師の皆様の、いよいよのご健勝を心からお祈り申し上げます。

平成3年7月21日

 最高指導会議議長  和泉覚
 参議会議長     辻武寿
 参議会副議長    柏原ヤス
 参議会副議長    白木義一郎

重役早瀬日慈殿

(注 同じ書面が、能化各位に送付された。)