拝啓早瀬日慈重役をはじめ尊能師の先生方からの回答を謹んで拝見致しました。ご宗門の高僧方のことですから・僧俗和合を願う私どもの心の一端を少しはご理解いただけるものと信じておりました。ところが、長年、仏飯をはんでこられた方とはおよそ信じられないような高圧的、権威的なご返事に、私どもはただただ驚き、呆れ、哀れむばかりであります。
あまつさえ、聞くところによれば、私どもの出した書面について、何を間違えたか、早瀬重役の子息・早瀬義寛庶務部長は「学会もとうとう泣きついてきたな」とうそぶいたり、また宗内で「こっちには金があるから、びくともしない。たいしたことないよ」などと、暴言を吐くに及んでは、まったく何をかいわんやであります。
何が泣きついてきたですか。笑止千万とはこのことです。書面を読んでいただければ、宗門は七百年来かつてなかった最大の謗法の濁流から今こそ目覚めてほしい、と諌言申し上げていることは、だれでも分かることではありませんか。さらに本山には金があるから云々などは、宗門僧侶の醜い本音が出たとしかいいようがありません。そこには、信徒の心を正当に理解せず、ただ金儲けの手段としてしか考えない、現宗門の憂うべき中枢僧侶の荒廃ぶりが表れています。
それはさておき、もとより私どもは凡夫で、欠点多き未熟な者ですが、曲がりなりにも日蓮正宗の信徒として、何百回となく総本山に参詣し、戒壇の大御本尊にお目通り申し上げ、御書を学び、折伏に励んできた者でございます。また猊下より長年、大講頭の任を受けてきた者もおりますが、これに対し「五十年もの長い間、一体、何を信仰してきたのか」との言われ方は、能化ともあられる方として、いかがなものでしょうか。
御聖訓に「日蓮が法門は古へこそ信じかたかりしが今は前前いひをきし事既にあひぬればよしなく謗ぜし人人も悔る心あるべし、設ひこれより後に信ずる男女ありとも各各にはかへ思ふべからず」と。この御金言を尊能師の先生方は、どのように拝されるのでしょうか。
また、書面に、私どもが「御法主上人に信伏随従することができず」と決めつけておられますが、私どもは日顕猊下がおしたためになった御本尊に向かって朝夕勤行しております。これこそ最高の信伏随従の姿ではないでしょうか。
口を開けば「信伏随従」と言われますが、「信伏随従」の根本は、あくまでも大御本尊にあるのではないでしょうか。御義口伝に「信きは無疑曰信なり伏とは法華に帰伏するなり随とは心を法華経に移すなり従とは身を此の経に移すなり」と。信伏随従する根本は大御本尊ではなく、ご法主であるとの、大聖人の御書がどこにあるのでしょうか。
さらに、私どもの書面について「不確かな伝聞どころか全く事実無根による、ありもしない種々の事柄を日顕上人の発言とし、これを元として悪辣に罵り」と述べておられますが、私どもが日顕上人のことで述べた種々の事柄のなかで、一体、何が「事実無根」であり、何が「ありもしない種々の事柄」なのでしょうか。これについて先生方は、ただ一方的に述べているだけで、何一つ明確に答えていないではありませんか。もし、かく言われるのであれば、具体的に挙げていただかなければ、ごまかしに過ぎません。私どもはこれまで、ご宗門のこと、なかんずく猊下のことについて、何の根拠もなく述べたことなど一度もございません。先生方の書面では、昨年12月の学会からの九項目の「お伺い」文書が虚偽・捏造だと言っていますが、これはすべて紛れもない事実であります。とくに、猊下が昨年7月21日のお目通りの折り、名誉会長を“懲罰にかける”と言ったこと、及び“総代にお講にいくな、と名誉会長が指示した”と言われたこと等々、すべて事実であります。
しかも猊下は、その際、連絡会議での会長の発言をとりあげ、名誉会長、会長に対して“きょう慢だ!きょう慢謗法だ!”と声を荒げて怒鳴られたのであります。これらについては私どもとしては、しかるべき公の場で審判していただいていっこうに差支えないことを申し添えておきます。
自分たちに都合の悪いことは、何の釈明もせず、十把ひとからげに「事実無根」「ありもしない種々の事柄」で、ゴリ押しされる宗門の体質は、何事も問答無用で従属させた封建時代ならともかく、この現代において、とうてい通用するものではありません。私どもが、前の書面で先生方に申し上げた事柄は、すべて真実であります、しかるが故に、もう一度、私どもはお尋ね致します。
宗門興隆の最大の功労者である池田名誉会長に対して、事前に何の相談もなく、宗規変更と称して、いきなり一片の通知書で総講頭の資格を喪失させたのは、何故でしょうか、その正当な理由が何一つないではありませんか。
また、正本堂の意義について、先生方の回答には「問題の本質をみようともせず、ただ池田名誉会長や学会の都合にあわせて、日顕上人を誹毀讒謗している」としか答えておられませんが、この問題の本質はだれが見ても明らかです。日顕猊下は、いわゆる“正本堂ご説法”で、一信徒たる池田名誉会長が宗義の根幹にかかわる正本堂の意義について、宗内で初めて発言したのは慢心であると決め付けられました。ところが、これが日顕猊下の完全な記憶違いによる事実誤認であったことは、猊下ご自身、後に「大日蓮」に訂正を申し出されて明らかになっており、このことは私どもの先の書面で申し述べた通りであります。
また、日顕猊下の“正本堂ご説法”の致命的な誤りは、日達上人の昭和47年4月の訓諭の「正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」の解釈の誤りです。これについては、学会側が3月30日、十箇の問題点、四十八項目のお伺いを提出しておりますが、未だに回答すらできないことに、すべて日顕猊下のご説法の誤りが明らかになっております。
そうした明白な事実にさえ目を覆う尊能師の先生方こそ「問題の本質をみようともせず、ただ猊下や宗門の都合にあわせて、名誉会長を誹毀讒謗している」と言わざるをえないのであります。
さらに、本年3月上旬、複数の正宗僧侶から「昨年の夏の時点で、『C作戦』を御存知だったのでしょうか」と尋ねられたところ、日顕猊下は「知っていたよ。『C作戦』はあの野郎の首をカットするという意味だよ」と話されたということが、新聞などに書かれておりました。事実でないとするならば、是非、某新聞に対して事実無根による名誉毀損等の法的な措置をとっていただき、真偽のほどを明らかにしていただきたい、とお願い致しました。しかし、この点についても、今回、何の回答もありませんでしたので、重ねて明確な態度をとられることをお願い致します。
さらに昨年末、猊下ご白身が、謗法のブラック・ジャーナリストと直接会って学会批判を依頼したり、今年初めには猊下の血脈を否定した張本人の犯罪者山崎正友に猊下自らが謝罪されたことは、事実無根なのでしょうか。もし事実とすれば、先生方はどのように考え、そしてどのように行動されたのでしょうか。謗法のブラック・ジャーナリストと直接合ったことは、猊下ご自身、公式の場で認めておられるわけですから、尊能師の先生方が「知らなかった」では済まされないと思いますが、いかが対処なされたのでしょうか。この点も、是非、明確にお教えいただきたいと希望いたします。
さて、このように具体的な事実関係には、まともに答えようともせず、ただ「ありもしない種々の事柄」と言葉を濁して言い逃れに終始しているのが、今回の書面の特徴ですが、そこでは、一応、五点にわたって反論とも弁明とも察しかねる回答がつけられていますので、次に、その誤りを指摘しておくことに致します。
第一に、尊能師の先生方は、昨年11月16日に行われた第三十五回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチをなんとか大問題にしようと、はかない努力をされています。そして名誉会長の「『猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません』との発言は、血脈付法の御法主上人を蔑如したもの」と決めつけておられます。しかし、冷静に判断して、この発言のどこが間違っており、何ゆえ、大騒ぎしなければならない問題なのでしょうか。全くこの通りではありませんか。猊下が信徒の幸福を考えるのは当然のことでしょう。それとも、猊下は信徒の幸福を考えなくてもよい、ただひれ伏せさせておけばよいとする、権威・権力そのものとでも言われるのでしょうか。
私どもからするならば、宗門の僧侶方が、名誉会長のこの部分の当然の発言を、ことさら感情的に受け止める感覚自体、すでに信徒の幸福や成仏を願われる、仏の慈悲の姿とはほど遠い権威体質になっていることを天下に示したものと言わざるをえません。誠に哀れな修羅の生命を悲しむのであります。
また、池田名誉会長のスピーチのテープをもとにした、宗門の「お尋ね」文書の中の質問を、学会からの指摘によって撤回した点について「本来ならば、反訳の相違によって質問を撤回する必要はなかったのですが、宗門側は、反訳の相遠の指摘を受けた上から、あえて撤回したのであります」と、何度読み返してみても意味不明の強弁を展開しています。学会の指摘によってテープの悪らつな改ざんが明らかとなり、宗門はやむをえず枢要な質問を撤回せざるをえなくなったことを、このように分かりづらい表現をまぷしてごまかそうと苦心されているのは、気の毒としか言いようがありません。もし撤回する必要のないものを撤回したと言われるならば、それこそ宗門首脳の無能ぶりを自ら認めたことになるのではないでしょうか。
宗門が質問を撤回したなかには、名誉会長が「四箇の格言」を否定しているとして「摂受を本とした言い方であり、大聖人の教判並びに権実相対等の法義に違背したもの」などと決めつけていた質問や、「親鸞云々」の質問で「大聖人の人格と教法を否定する重大な仏法違背」とか「池田教による大聖人観」「私的な法門」などと、名誉会長がさも勝手な法門をつくり、重大な教義違背をしたかのように論述していた箇所が含まれています。
その意味で、宗門の「お尋ね」文書は、名誉会長にいわれなき罪と汚名をかぶせようとした意図的な文書であったことは、この撤回を通し、より明らかになったのであります。
第二に、先生方は「唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体」であるから、「戒壇の大御本尊と唯授一人血脈付法の御法主上人」の「根本の二つ」に対する信心は「絶対」でなければならないと、驚ぐべき法主本尊不二論を述ぺています。先生方のこの言によりますと、御法主上人は戒壇の大御本尊と不二の尊体、すなわち同一の存在ということになりますが、何を根拠にこのように断定されるのでしょうか。法主大御本尊論、法主本仏論は一体、御書のどこに説かれているのでしょうか。宗旨の根幹にかかわる問題だけに、確たるお答えをお願いする次第であります。
私どもはこれまで、法即人の本尊は末法の御本仏・日蓮大聖人、人即法の本尊は本門戒壇の大御本尊であり、根本として尊崇すべき本尊はこの人法一箇の本尊以外にないと信解してまいりました。しかるに先生方は、絶対の信心を立てるべきもう一つの「根本」を立てておられます。私どもは、このように「二つ」の「根本」を立てるような教えを、これまでの日蓮正宗の歴史に見たことはありません。これまさに、宗旨の重大なる改変であり、新宗派の設立かと我が眼を疑うばかりであります。
日顕猊下は、法主本仏論の誤りについて次のように明確にご指南されています。
「歴代法主は僧宝以下の立場であって、それを軽々しく仏様だ、仏様だというような表現は、少し言い過ぎであると私は思っております。」(昭和58年3月31日、第4回非教師指導会)「僧宝以下の立場」にある歴代ご法主が、なぜ「戒壇の大御本尊と不二の尊体にまします」のか、凡愚な私どもにもよく理解できるようにご教示いただきたいものです。日達上人もこの点について誠に明快にご指南されています。
「我が宗の三宝は、御本尊が法宝、大聖人が仏宝、日興上人が僧宝と立てます。それに対して日目上人は座主である…日目上人の後は、みな筒の流れのように、それを受継いでいくにすぎない…だから代々の法主が日蓮大聖人ではない。大聖人そのものと間違って書かれてよく問題が起きますが、その点ははっきりしてもらいたい」(昭和52年5月26日、寺族同心会)要するに、代々の上人を日蓮大聖人と同一視することを厳に戒められているのであります。
しかるに、尊能師の先生方の文面からすると、猊下は仏宝ということになってしまいます。それでは本宗の三宝の立て方と明らかに違っており、それこそ三宝破壊になるではありませか。
先生方はさらに、この誤った法主本仏論を盾にとって「大聖人の仏智による御指南は、血脈付法の御法主上人によってなされるのであって、私どもは、そこに信伏随従するのみであります」とも述べられています。しかし、この主張は、歴史の事実に照らして明らかに誤っております。なぜならば、過去の何人かの法主が宗義に違背する指南をされているからであります。
例えば、尊能師の先生方ならば当然ご存じでしょうが、総本山第17世日精上人は、日興上人が厳に戒めた釈迦仏の造立という大謗法を犯しています。堀日亨上人は「日精に至りては江戸に地盤を居へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗して遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり」(富士宗学票集第9巻)と記されています。要するに京都・要法寺出身の日精上人が、要法寺流の邪義、謗法を日蓮正宗に持ち込んだのであります。そればかりか日精上人は、血脈付法を受けた翌年に、釈迦仏の造立を正当化する「随宜論」を著しました。この書は、その巻末に「右の一巻は予法詔寺建立の翌年仏像を造立す、茲に因って門徒の真俗疑難を致す故に蒙霧を散ぜんが為に廃忘を助けんが為に筆を染むる者なり」と述ぺられているように、釈迦仏造立を批判する門徒を説得するために書かれたものであります。
後に第31世日因上人は、この「随宜論」の巻末に「日因云、精師御所存ハ当家実義と大相違也」と筆を加えられ、日精上人の考えが大石寺の真実の教義と大きく違っており、邪義であることを明かされています。 先生方の言われるように、日精上人が「戒壇の大御本尊と不二の尊体にまします」ならば、何故、釈迦仏の造立という大謗法を犯した上に、それを正当化する「随宜論」を著したのでしょうか。また、この書も「大聖人の仏智による御指南」であり、たとえ宗義違背の謗法の指南でも「信伏随従」しなければならないとお考えなのでしょうか。
もう一つの例を挙げさせていただきます。
昭和20年6月17日、総本山大石寺において大火がありました。「日蓮正宗富士年表」には「大石寺大坊(対面所・大奥・書院・六壷)・客殿等500余坪焼失」と記されています。この大火によって、時の猊下であられた第62世日恭上人が痛ましくも客殿管長室で焼死なされています。
この日恭上人は昭和18年6月、牧口会長ら学会幹部に対して、ご宗門の渡辺慈海部長が「学会も一応、神札を受けるようにしてはどうか」と申し渡された際、その場に立ち会われていた時の猊下であられます。牧口会長はその際、「承服いたしかねます。神札は絶対に受けません」と厳然と拒否されたことは、先生方もご承知の通りであります。信徒が謗法厳誠を貫いている時に、一方で、先生方が「戒壇の大御本尊と不二の尊体」と主張されるお方が、何ゆえ、神札を容認するという大謗法を犯されたのでしょうか。是非、私どもにも納得のいくご説明をお願いする次第であります。
また「戒壇の大御本尊と不二の導体」と言われるのならば、猊下は現人神のようになってしまうではありませんか。さらに正宗の僧侶が、日顕猊下のことを陰で“ヒトラー”とか“瞬間湯沸かし器”とか悪口を言ったり、批判しているのをよく耳にしますが、こうした行為は仏法上、どうなるのでしょうか。
先生方の主張に対して、様々な疑問の一端を述ぺさせていただきました。それはひとえに、先生方が唯授一人の血脈を盾にとって、法主大御本尊論、法主本仏論という大暴論を展開されたからであります。それは唯授一人の血脈を尊崇するようでいて、実際はその意義を曲げ、危険な方向に変質させてしまうことになります。つまり、信仰抑圧の道具と化してしまう危険であります。それこそ唯授一人の血脈の尊厳を失わせる仏法破壊の所業となってしまうことは明らかであります。
第三に、下種三法をめぐる幾つかの論難について糺しておきたいと思います。まず、先生方は、池田名誉会長の指導の要約として「御本尊は宇宙に遍満する妙法をご図顕したものであるから、御本尊を拝めば大宇宙のリズムと自身のリズムが合致する」との言葉を挙げ、これを「外道の義」であり、また「(御本尊が)御本仏の已証であることを踏み外している」と非難し、それゆえに「仏宝と法宝とに迷っている」と決め付けております。
まず先生方が池田名誉会長の考え方として引用されている言葉が、何からの引用かはっきりとは分かりませんが、名誉会長がそうした趣旨の指導をしていることは事実であります。しかしそれは、あくまでも御本尊が「御本仏の已証」であることを大前提としての指導であり、「御本仏の已証であることを踏み外している」との批判は全く見当外れであります。例えば名誉会長は次のようにも述べております。
「大聖人は『日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながして・かきて候ぞ』と仰せになって、御自身の内証の御境界を一幅の御本尊にしたためられ、末法の一切衆生におのこしくださった。全宇宙を永遠に照らしゆく『大法』である人法一箇の『久遠の妙法』を、だれもが目の当たりに拝し、その無量の功徳に浴していけるようにしてくださったわけである」こうした趣旨の上から、名誉会長は場合に応じて“御本尊は宇宙と生命を貫く根源の妙法を御図顕されたもの”との説明をされているのであります。なお、多くの場合、“宇宙に遍満する妙法”というよりも“宇宙と生命を貫く根源の妙法”との表現であることを申し添えておきたいと思います。「根源」という言葉に、御本仏の究極の悟りという意が込められていることは言うまでもありません。
先生方は、何を根拠にして、このような説明を「外道の義」と決め付けられるのでしょうか。もし先生方の批判が正しいとすれば「御本仏の已証」を次のように説明している「日蓮正宗要義」の記述を、どのように考えていけばよいのでしょうか。
「一念三千とは本仏の悟りと活動に名づけるのである。久遠元初、未だ仏法や一切万物の名目も存在しない古の時点において、一人の聖人が顕われた。宇宙間の一切の現象と実在を直観によって通暁され、混沌より万象に至る事理を了解し、一切の分立と統合の原点となる不思議な法を覚知されたのである。それは存在の本質であり、しかも一切に通じ遍満する普遍的な法であり、大霊であった。つまり宇宙が混沌の時代においても、また天地開闢以来森羅の差別相にあっても一貫して存在する法理、即ちまたその間のあらゆる事象、あるいは星雲の凝縮と発熱の相より、十界十如三世間の歴々たるまでの、すべてを具える不思議の大生命体である。これを聖人は妙法蓮華経と名づけられた。この妙法はまた聖人の生命の当体であり一念であって、これが宇宙法界に遍満するところを一念三千と表現するのである。したがって一念は即三千であり、三千は即一念である。この如実の法に即する人格を本仏と呼び、人格に即する法を本法という。即ち一念三千とは本仏の悟られた宇宙法界の事理、即ち現象と実在のすべてを含む法理、及びそれによって行われる衆生救済の活動であるといえる」(日蓮正宗要義)久遠元初の仏が悟った妙法を“宇宙に遍満する普遍的な法”として説明しているこの記述は、「外道の義」を説いているのでしょうか。また、仏宝と法宝に迷った記述なのでしょうか。是非とも会通していただきたいものであります。
また、「宇宙のリズム」云云の説明は、御本尊の妙用に関する戸田第二代会長以来の伝統的な説明法であります。例えば戸田会長は次のように述べております。
「大御本尊様にむかって、この御本尊様と大聖人様と自分とが区別がないと信じて、そのありがたさを心にしみて感謝申しあげ、熱心に題目を唱えるとき、宇宙のリズムとわがリズムと調和して、宇宙の大生命が即わが生命とつらなり、偉大な生命力が涌現してくるのである」(戸田城聖全集第3巻)もとより「宇宙」という語を使った、以上のような説明は、御本仏の已証や御本尊の妙用に関する絶対的な説明ではありません。なぜなら御本仏の已証は言語道断・心行所滅だからであります。しかし、現代人を御本尊への信に導くための、あるいは一般の人々に対する啓蒙のための、一つの有効な説明として成り立つものであります。だからこそ「日蓮正宗要義」でも、こうした記述を採用されたのでありましょう。
右記のような説明法について、鬼の首でも取ったように「外道義」などと騒いでいるのは、退転者の石田某や福島某の、歪んだ薄っぺらな仏法規であります。能化の先生方もあるいは彼らの信心なき言説に惑わされているのでしょうか。どうか、信心なき者の言に紛動されぬよう、心からお願いする次第であります。
次に先生方は、学会が僧宝にも迷っていると述ぺていますが、これについても何の根拠もありません。
先生方は、日寛上人のご教示として、僧宝とは「唯授一人の血脈相承の当処」であると述べられておりますが、これは日寛上人の三宝抄における「僧宝とは久遠元初結要付嘱の所受の人なり」との仰せを指すのでしょうか。あるいはまた同抄の「金言とは金口相承即ち是れ僧宝なり」との仰せを指すのでしょうか。
しかし、これらはいずれも日興上人を指されての仰せであることは明らかであります。なぜならば、前者の「久遠元初結要付嘱」とは久遠元初自受用報身であられる日蓮大聖人からの付嘱であり、後者の「金口相承」もまた本因妙の教主であられる日蓮大聖人からの相承を意味するからであります。久遠元初の僧宝は、あくまでも日興上人お一人に限られるのではないでしょうか。この点について安易な一般化は決して許されるものではありません。なぜならば久遠元初の三宝は信の対境となるからであります。ゆえに信行論である当流行事抄の唱題篇では、仏宝・日蓮大聖人、法宝・戒壇の大御本尊、僧宝・日興上人を、信の対象としての久遠元初の三宝とされております。
「問う、末法は応に何なる法、何なる仏を信ずべきや。答う、文上脱益の三宝を執せず、須く文底下種の三宝を信ずべし…久遠元初の仏法僧、則ち末法に出現して吾等を利益したもう…久遠元初の仏宝、豈異人ならんや、即ち是れ蓮祖大聖人なり…久遠元初の法宝とは、即ち是れ本門の大本尊是れなり…久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり」この点については、先にも触れましたが、日達上人が昭和52年5月26日の寺族同心会において次のようにご指南されています。
「我が宗の三宝は、御本尊が法宝、大聖人が仏宝、日興上人が僧宝と立てます。それに対して日目上人は座主である。今言ったとおり、管領して、その大聖人の仏法を治めていく、よく受取って治めていく、すなわち管領という意味を持っていくのである。統べ治める、そして統治をしていく。その日目上人の後は、みな筒の流れのように、それを受継いでいくにすぎない。だから本宗の考えは、広宣流布の時は日目上人の再現、出現だという意味をとっております。すなわち日目上人が広宣流布の時の座主として再誕なされるとの指南であります。だから代々の法主が日蓮大聖人ではない。大聖人そのものと間違って書かれてよく問題が起きますが、その点ははっきりしてもらいたい。ただ三宝をお守りする座主、日目上人は永代の座主、広宣流布の時の座主、それを忘れてはいけないですね。だから客殿のあの座席、法主のあの座席は目師の座席なのです。真中に御本尊、向って左は大聖人、右は日興上人、目師がそれをお守りしていくと、その座が目師の座、今の管長の座は目師の座です…三宝はどこまでも、大聖人・日興上人・御本尊、これが本宗の三宝の立て方です」日蓮大聖人・戒壇の大御本尊・日興上人が三宝であるのに対して、日目上人はその三宝をお守りする永代の座主、さらに、それ以後の代々の上人はその日目上人の座を受け継いでいる立場と明確に立て分けられているのであります。
第四に、尊能師の先生方は、池田名誉会長が宗門興隆に大功労のあったことをなんとか帳消しにしようとして、七百年前身延の地を領していた波木井六郎実長を持ち出しております。そして「宗門に対して、多大な功績を挙げるならば、池田名誉会長よりも、七百年前の波木井入道のほうがはるかに上であります」などと、笑止千万、滑稽極まりない珍説を展開しています。一体、波木井は正本堂、大客殿をはじめ三百数十か寺の建立寄進をしたのでしょうか。また、全日本、全世界に、大聖人の仏法を布教したのでしょうか。これこそ、頭が錯乱しているとしか言いようがありません。
まともに相手にする気にもならない話ですが、池田名誉会長のことを“波木井と同じだ”と言うのならば、波木井は四箇の謗法を犯しましたが、名誉会長はいつ四箇の謗法を犯したというのですか。また、総本山をはじめ宗門僧侶は、その謗法の供養を受けた大謗法の僧ということになるではありませんか。もし、本当に波木井と言うのならば“謗法の山に住まず。として身延の山を下りられた日興上人のように、宗門・総本山は、この際、潔く学会、名誉会長から寄進されたご供養を、まず全て返すのが筋ではありませんか。
“学会は謗法だ”などと言いながら、これまで受けたご供養を返そうとしないのでは、謗法厳誠を貫いて波木井の身延を離れた日興上人のご精神に真っ向から反するのは言うまでもありません。この点につき、名誉会長を波木井とし、謗法と断じながら、正本堂をはじめ大客殿、その他、全国338か寺の寺院、さらに膨大な今日までの学会からのご供養を返さない理由を明確に示していただきたい、と問うものであります。
日顕猊下は、今年の「新年の辞」で次のように名誉会長のことを賛嘆されました。
「戸田先生の逝去後、間もなく、第三代会長の任に就かれた池田先生は、鉄桶の組織と当千の人材を見事に活用され、且つ、信心根本の巧みな指導をもって国内広布の大前進を図り、十倍ともいうべき多大の増加を来したことは、耳目に新しいところであります。特に、池田先生の指揮において大書すべきは、戦後の世界的な移動交流のなかで、各国に広まった信徒の方々を組織化した、世界広布への大前進が図られたことであります。今日、地球的規模による広布の着々たる進展がみられることは、選時抄の御金言のごとく、実に広布史上すばらしいことと思います。また、戸田先生のころより始まった総本山への諸供養や末寺寄進は、池田先生によって本格的に行われ、先師日達上人の数々の賞辞が残っております」このように最大に称賛しておきながら、その舌の根も乾かないうちに名誉会長のことを「波木井」呼ばわりするとは、何という矛盾でしょうか。言語道断も甚だしいと言わざるをえません。猊下が二枚舌なのか、それとも能化の先生方が天魔なのか、また猊下に師敵対しているのでしょうか。かつての正信会も「波木井」を使ったではありませんか。しかし、そういった連中は今、全部、破門ではないですか。「波木井」云々こそ、山崎正友の持論です。宗門は、いつから山崎の“弟子”になったのでしょうか。
ともあれ、私どもは、いずれ宗門は、都合が悪くなり、言うことがなくなってくると、「波木井」云々と言ってくるだろう、と見破っておりました。このような錯乱の姿自体、天魔の所為と言わざるをえません。
宗門は、自ら歯切れが悪くなると、必ず「波木井」を持ち出す、とある僧侶が以前から言っておりました。また、檀徒もそう言っておりましたが、まさにその通りになりました。
今回のことは、創価学会によって未曾有の発展をし、十分な財産を得たので、あとは学会を圧迫し、いじめ、切った方が得策だという陰湿極まりない策略だ、と言っている人もおりますが、現存の宗門を見ると、私どももそのように思わざるをえないのであります。なんとかうまく言い訳をしようとしていますが、聖職者として、まったく情けないことではありませんか。これでは日顕猊下をはじめ尊能師の先生方が“二枚舌の黒い心の僧侶”として、後世の人々から、いついつまでも弾劾されることは間違いありません。
第五に、今回の書面では「檀徒づくり」について「本宗の信心の上からいって当然」と、開き直りの一大暴論を述べておりますが、自分達で本尊流布も、布教もしないで、御本尊を持った人をかすめとれ、という御聖訓がどこにあるでしょうか。また代々のご法主のご指南があったでしょうか。これこそ、暴言、邪言、妄言であり、何たるあさましきことではありませんか。この檀徒づくりは、先月21日、総本山大石寺での全国教師指導会でも、総監から奨励の発表があり、今や宗内あげて狂奔しているものですが、あらゆる苦難を乗り越え、立派な信心をしてきた信徒を泥棒のようにかすめとろうというのは、仏法上、人道上、許されないことであり、これは宗門の信心の自滅となるものでしょう。
この点については、日顕猊下ご自身が、昭和55年8月に行われた教師講習会開講式で明快に破折されていることであります。
「お互いに日蓮正宗の信徒でありながら、ある団体に所属する者に対して、“そっちの団体での信心では功徳がない”とか“間違っているから罰が当たる”等と言って、信徒の取り合いをする−はっきり言えば“檀徒作り”という形ですが−これは、布教の邪道であると私は思います。日蓮正宗の御本尊を持っている人が、同じ御本尊を持っている人の悪口を言い、罵ることは、とんでもない誤りであります」−ここでは、檀徒づくりを「布教の邪道である」と明確に断じられ、厳しく禁じられているではありませんか。日達上人も「破和合僧とは正しい宗教を、即ち創価学会、正宗の信者の団体、こういう立派な修行の団体を破壊するもの、これは破和合僧といいます」と、明快にご指南をされています。それにもかかわらず、この五逆罪に相当する檀徒づくりに狂奔するならば、宗門はもはや、最も規範となるべき猊下が、ご白身の発言を否定して、布教の邪道に身を染めてしまったと言わざるをえません。その邪道に狂奔する宗門の行き着く先がどこにあるか、賢明なる諸先生方には、おのずと判断がつくことでしょう。
以上、尊能師の先生方の書面を一読して感ずるままを認めましたが、先生方が一日も早く、否、一刻も早く、謗法の酔いから目を覚まし、広宣流布の大願に立つ学会とともに、僧俗和合の大道を勇気をもって歩まれんことを心より念願する次第であります。 敬具
平成3年8月16日法道院 早瀬日慈重役
最高指導会議議長 和泉覚
参議会議長 辻武寿
参議会副議長 柏原ヤス
参議会副議長 白木義一郎
妙本寺 鎌倉日櫻尊能師
平安寺 椎名日澄尊能師
妙蓮寺 吉田日勇尊能師
寂日坊 瀬戸日謙尊能師
本行寺 高野日海尊能師
法霑寺 秋山日浄尊能師