資料Q(御能化から古参大幹部への返書(2))


拝復。貴殿らよりの、8月16日付の再度の抗議書面を拝見いたしました。信仰歴50年と自負する貴殿らのことですから、今回の書面が到着したときには、「君子豹変」の故事のごとく、正直に前非を悔い、反省改心して懺悔(さんげ)してきたものと思いました。ところが、その内容たるや、7月21日付の書面よりも、なお多くの捏造(ねつぞう)と事実歪曲を交えた、低俗にして稚拙なものでありました。私どもは、貴殿らのこうした蛙鳴蝉噪(あめいせんそう)の書面を見て、改めて50年もの長い間、一体、貴殿らは何を信仰してきたのかと呆(あき)れ果てるとともに、これほどまでに学会組織は腐りきってしまったのかと、哀憐(あいれん)の情を禁じえませんでした。

宗祖大聖人は、『立正安国論』に、

広く衆経を披(ひら)きたるに専ら謗法を重んず、悲いかな皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る、愚(おろか)なるかな各(おのおの)悪教の綱に懸(かか)って鎮(とこしなえ)に謗教の綱に纏(まつわ)る、此の蒙霧(もうむ)の迷(まよい)彼の盛焔(じょうえん)の底に沈む豈(あに)愁(うれ)えざらんや豈苦まざらんや。 (全集32頁)

と仰せであります。貴殿らが、もしこのまま執心(しゅうしん)を翻(ひるがえ)さず、また謗意を存して一生を終えるならば、必ず無間大坑(だいきょう)に堕ちることになりましょう。まさに『立正安国論』に仰せのとおりであります。


無漸な抗議書提出の真意は信徒懐柔の愚策

ところで、貴殿らは、果たして何のために、このような書面を書かれたのでしょうか。本当に、私どもへの抗議のために書かれたのでしょうか。私どもに出す書面にしては、多くの見え透(す)いた嘘と下劣な言葉をもって、ただ悪辣(あくらつ)に僧侶を見下し、罵(ののし)っているだけで、これといった内容も見当たりません。本当に貴殿らが書いたものであろうかと、その品性を疑うほど低次元なものであります。

とすると、このような書面を出される意図は、恐らく別にあるのでしょう。言わば、真実を知りつつある一般会員の目を逸(そ)らすための、権謀術数であります。すなわち、一般会員が大きな動揺を抱いているという現実問題に対する、貴殿らのまやかしです。まさに、愚策と言うべきであります。

その中で、貴殿らは、『兄弟抄』の御文を引いて、私どもに教訓しているつもりでしょうが、貴殿らこそ身に当てて、よくよく拝すべきであります。否、それ以上に、次下の、

始(はじめ)は信じてありしかども世間のをそろしさにすつる人人かずをしらず、其の中に返って本(もと)より謗ずる人人よりも強盛(ごうじょう)にそしる人人又あまたあり、在世にも善星比丘(ぜんしょうびく)等は始は信じてありしかども後にすつるのみならず返って仏をはう(謗)じ奉りしゆへに仏も叶(かな)い給ばず無間地獄にをちにき。 (同1088頁)

との御文を割目(かつもく)して見るべきであります。まさに、池田大作氏や貴殿ら創価学会首脳幹部の、現在の姿そのものではありませんか。貴殿らは、この御金言をどのように拝されるつもりなのでしょうか。



虚偽捏造によって宗門僧侶を誹謗すべからず

さて、貴殿らは、「早瀬重役の子息・早瀬義寛庶務部長は『学会もとうとう泣きついてきたな』とうそぷいたり、また宗内で『こっちには金があるから、びくともしない。たいしたことないよ』などと、暴言を吐く」などと称し、「何が泣きついてきたですか」などと、早速、居丈高(いたけだか)に嘘をついております。一体、早瀬庶務部長が、いつ、どこで、誰に向かって、「学会もとうとう泣きついてきたな」などと言ったのですか。しかも、貴殿らの中の、誰が、誰から、それを聞いたのですか。また、宗内の誰が、いつ、どこで、誰に向かって、「こっちには金があるから、びくともしない。たいしたことないよ」と言ったのですか。そして、貴殿らの中の、誰が、誰から、それを聞いたのですか。私どもも、種々聞いてみましたが、全くそのようなことはありません。貴殿らが、今回の書面のはじめに、ここまではっきりと言いきり、そして宗門を非難するのですからまずもって、誰人にも納得のいくように、このことを明らかにすべきであります。それができないのなら、これらは、貴殿らの虚偽捏造による讒言(ざんげん)であり、まさに誣告(ぶこく)であると断じます。



事実無根の御法主批判は為にする讒言

私どもが、「不確かな伝聞どころか全く事実無根による、ありもしない種々の事柄を日顕上人の発言とし、これを元として悪辣に罵り」と申したことについて、貴殿らは「私どもはこれまで、ご宗門のこと、なかんずく猊下のことについて、何の根拠もなく述べたことなど一度もございません」と居直っておりますが、貴殿らの言うことは、まさに不確かな伝聞どころか全く事実無根による、ありもしない種々の事柄ではありませんか。

貴殿らは、本年3月上旬、「『C作戦』はあの野郎の首をカットするという意味だよ」と、日顕上人が複数の僧侶に話された旨、新聞に書いであったとして、その真偽を問い、法的な措置をとるよう述べておりますが、何という破廉恥(はれんち)な行為でありましよう。

「新聞」というのは、恐らく『中外日報』のことでしょうが、私どもの回答としては、既に「不確かな伝聞どころか全く事実無根」という語をもって、貴殿らに表明したのであります。それ以外に、何が必要でしょう。そもそも、貴殿らは、宗門外護を旨とする信徒の立場ではありませんか。私どもの書面を見て、事実無根であることを知ったならば、貴殿らこそ某新聞に対して、しかるべき措置をとるべきでありましょう。それにもかかわらず、かえって根拠不明の謗法新聞の記事を根拠として、かくも御法主上人をあげつらい、卑劣にして姑息(こそく)な手段を弄(ろう)するとは、貴殿らの信仰そのものを疑うものであります。

貴殿らの言い分について、かりに与えて言ってみたところで、法的措置をとれなどということは、本来、宗務院に伺うべきであって、私どもに言うべき筋合いの事柄ではありません。幼児でもありますまいに、貴殿らは、そのようなことも知らないのでしょうか。愚痴蒙昧(ぐちもうまい)にもほどがあります。


また、「謗法のブラック・ジャーナリストと直接会って学会批判を依頼したり、今年初めには猊下の血脈を否定した張本人の犯罪者山崎正友に猊下自らが謝罪されたことは、事実無根なのでしょうか」と言い、「この点も、是非、明確に教えていただきたい」などとも述べておりますが、これも同様であります。

まず、御法主上人の御目通りについて申し上げれば、御法主上人が誰に御目通りを許されようと、何の不思議も疑念もありません。それよりも、このようなことを問題扱いする貴殿らのほうが、信徒として問題であります。貴殿らが、そんなに当日の御目通りの内容を知りたいというのなら、実際に御目通りをした高橋公純師や、某ジャーナリストの手記等を見ればよいのであります。貴殿らが、いたずらに御目通りに口を挾(はさ)むことなどは、御法主上人を冒涜(ぼうとく)することであり、誹謗罪を免れえないものであります。

また、許すべからざることは、「学会批判を依頼したり」と、断定していることです。御法主上人が、貴殿らの言うブラック・ジャーナリストに対して、どうして学会批判を依頼したと断定できるのでしょうか。貴殿らは、当日、某氏とともに御目通りをしたとでも言うのでしょうか。そのような好い加減な言行は、かえって貴殿らの罪障を深めるだけであります。

貴殿らは、そのようなことを言う以前に、もっと池田大作氏の行動に目を向けるべきであります。平和運動・文化運動などと称し、また民主化などと口ずさみながら、麻薬密売の大悪人といわれるパナマの某元将軍や、共産系独裁政治家のルーマニアの某元大統領等と会談し、親友と称して好い気になっていた池田大作氏に対して、貴殿らは、その後、どのように考え、どのように行動されたのでしょうか。反対に伺いたいものです。


「山崎正友」云々についても同様であります。そもそも、血脈を否定した者に対して、御法主上人が本当に謝罪されたとすれば、正信会の徒輩は、全員、とうに許されていなければなりません。しかし、現実は、どうでしょう。貴殿らは、このような簡単な道理も判らないのでしょうか。

そのほか、7月21日付書面で、貴殿らが御法主上人の発言として書き立てた事柄は、全て事実無根の讒言であるから、そのように申したのであります。それでも、執拗(しつよう)に本当であるというのであれば、それらの一々について、御法主上人が、いつ、どこで、誰に向かって発言され、それを誰が聞き、誰から貴殿らが聞いたことなのか、その根拠をはっきりと述べるべきであります。



九項目の「お伺い」の正当化は姑息な謀略行為

なかんずく、平成2年7月21日の池田・秋谷両氏の御目通りにおける「懲罰」云々と「総代」云々は捏造、「きょう慢謗法」云々は事実歪曲であり、まさに為にする讒謗(さんぽう)であります。しかも、「すべて紛れもない事実であります」と、まるで貴殿らが、当日の御目通りの場に居合わせたかのように断言するとは、あたかも「講釈師、見てきたような嘘を言い」とのことわざどおりではありませんか。貴殿らの書面では、常にこのような言い回しがなされているのです。

「きょう慢謗法」云々について申すならば、貴殿らは、池田・秋谷両氏が御法主上人より声を荒げて怒鳴(どな)られたなどと悪態をついておりますが、池田・秋谷両氏ならともかく、貴殿らに何が判るのでしょうか。

そもそも、このようなことは、一般的に考えてみれば、誰にでも判ることです。どこの世界に、何の過(とが)もない人に向かって、「きょう慢謗法だ!」などと言う人がおりましょうか。しかも、その発言者は、唯授一人血脈付法の御法主上人であります。かたや法華講総講頭であり、また大講頭であります。したがって、何らかの経緯(いきさつ)がなくして、軽々に仰せられる道理などあろうはずがありません。

先の宗務院の指摘を見れば明らかですが、その大前提として、昨年7月17日の連絡会議で、秋谷栄之助氏ら学会首脳幹部が、御法主上人の発言を封じ込めようとした経緯があったではありませんか。それから4日後の御目通りの折、そのことについて、御法主上人より、幾度も意を尽くして御注意がなされたのですが、池田・秋谷両氏が一向に理解しなかったので、「きょう慢謗法ですよ」とたしなめられたのではありませんか。そこのところを無視し、ただ「きょう慢だ!きょう慢謗法だ!」と声を荒げて怒鳴ったなどと、事実を歪曲して喧伝(けんでん)するとは、何という奸ねい邪智の姿でしょうか。


また、「懲罰」云々について申すならば、昨年8月20日の宗務院・学会の連絡会議において、秋谷会長が、「7月21日の御目通りの際に、猊下から懲罰にかけると言って怒鳴られた」と、非を鳴らしたことに始まるのです。私どもが聞くところによりますと、ところが、再び秋谷会長より藤本総監に電話があり、御目通りの帰途、池田大作氏は、自動車に同乗した秋谷会長・八尋副会長に、「宗門の懲罰委員会の構成はどうなっているか」と尋ねられたから、御法主上人は確かに「懲罰」云々と仰せになったと、再度言い返してきたというではありませんか。しかし、御法主上人は、絶対の確信の上から「懲罰云々などということは、絶対に言っていない」と仰せになったので、藤本総監より重ねて秋谷会長へ、電話で申し伝えたとのことです。その時、秋谷会長は、「あっ、そうですか。恐れ入ります。申し訳ありません。ありがとうございました」と応えられたので、宗務院としても、学会側がこの件についての誤解が解(と)け、納得したと思うのは当然でありましょう。

しかし、それから数箇月を経た、12月23日付の「お伺い」書で、「7月21日の御目通りの際に、御法主上人が懲罰云々といった」などと、またもや蒸し返してきたのです。このように、もともと具体的事実が存在しない事柄をもって、一度ならず二度までも疑難を呈し、その都度、決着した問題を、さらに蒸し返して御法主上人を陥れんとするところに、貴殿らと創価学会首脳幹部の陰湿にして姑息な体質を見るのであります。否、単に陰湿なだけでなく、私どもには、貴殿らというより創価学会が、御法主上人を陥れるために、わざわざ昨年の7月の時点で、御法主上人の「懲罰」云々との発言があったという既成事実をつくっておかなければならない、何か作為的なものを感じるのです。そうでなければ、いくら創価学会といえども、ここまで陰湿なことはしないでありましょう。


また、「総代」云々についても、池田大作氏または秋谷会長が、「お伺い」書で初めてつくりだした事項であり、事実と相反するものであります。12月29日付の宗務院からの書面を見れば簡単に判ることですが、貴殿らの読解力では、それすら理解できないのでしょうか。そうでなければ、御法主上人への悪印象を、全国の会員に潜在的に植えつけ、陥れようとする、貴殿らの姑息な奸計(かんけい)であると断ずるものであります。池田大作氏の指図であれば別でしょうが、もともと当日の御目通りに同座していない貴殿らのことですから、このようなことを知るはずがなく、また言う資格もありません。しかし、それでも池田大作氏や秋谷栄之助氏が事実と思っているならば、それは、宗務院からの回答で示しているとおり、当日の御目通りで、御法主上人より種々指摘され、混乱した池田大作氏や秋谷会長が、日頃の宗門誹謗の言動と相俟(あいま)って、そのように思い込んでしまったと見るべきでしょう。「総代」云々についても、実のところ・池田大作氏本人の発言があったからこそ、そのように思い込んでいるのではないでしょか。

なお、そのほかの「お伺い」書の事項についても、宗務院は厳しく糾弾しておりますから、今一度、よく読み返されることを申し置きます。貴殿らの書面では、単に「お伺い」書は真実であると言うだけで、何らその具体的根根拠を述ぺてはおりません。しかも、「しかるべき公の場で審判していただいて、一向に差し支えない」などと述べているのです。先にも申しましたが、このようなことは、本来、宗務院に対して述べるぺきであって、私どもに言うべき筋合いの事柄ではありません。どのようなつもりで、このような書面を私どもに出されたのか、基本のところで、貴殿らの認識は誤っているのです。このことは、かえって貴殿らの不見識を世間に曝(さら)すだけであります。



池田創価学会の支離滅裂な「信伏随従論」を暴く

次に、貴殿らが、日顕上人御書写の御本尊に向かって勤行していることを挙げて、「最高の信伏随従」であるなどと述べていることについてですが、まさに堅白同異の弁と言うべきであります。

それならば、本宗以外の各日蓮門下でも、皆、大聖人御図顕の御本尊を拝んでおりますが、貴殿らは、その人たちも大聖人に信伏随従していると思っているのでしょうか。そもそも、日顕上人の認(したた)められた御本尊を拝もうと拝むまいと、貴殿らが日顕上人を蔑如(べっしょ)していることは明らかです。それを、どうして信伏随従と言えましょうか。そのような精神で、日顕上人の認められた御本尊を拝んでいること自体が、狂った信仰姿勢の証明なのです。

かつて、正信会問題が惹起(じゃっき)したころ、日顕上人が、

法主の心に背いて唱える題目は、功徳がありません。これだけは、はっきりと申し上げておきます。ですから『法主にも誤りはあるんだ』などということを信者に言いふらす僧侶も、また、それを信じて平気で法主を誹謗するような信徒も同じく、そういう人の唱えるお題目には功徳はない。 (大日蓮414号16頁)

と仰せになったことを、貴殿らはもう忘れたのでしょうか。その当時、貴殿らは、なぜ異議を申し立てなかったのでしょうか。むしろ、貴殿らは、その当時、この御指南と同じことを述べていたではありませんか。

池田大作氏も、昭和56年3月、

現代においては、いかなる理由があれ、御本仏日蓮大聖人の『遣使還告』であられる血脈付法の御法主日顕上人猊下を非難することは、これらの徒(注・退転した徒輩)と同じであるといわなければならない。批判するものは、正法正義の日蓮正宗に対する異流であり、反逆者であるからである。

と述べているのです。しかし、この正論は、現在、創価学会の中で聞くことはありません。正信会の徒輩も、当初、貴殿らと同じように、日顕上人御書写の御本尊を拝んでいながら、日顕上人を誹謗したのです。つまり、現在、貴殿らの言っていることは、かつての正信会の言動そのものなのであります。今になって、自らの都合にあわないからといって、このように支離滅裂な自語相違の矛盾を述べることは、貴殿らがかつての信心を捨てた証拠であり、まさに退転者と言うべきであります。

唯授一人の血脈を無視し、日顕上人を愚弄(ぐろう)しながら、日顕上人御書写の御本尊を拝むことを挙げて、「最高の信伏随従」などと声高に述べる陳腐な論理は、池田教の中でしか通用しないことを知るべきです。まさに詭弁(きべん)も詭弁、愚の骨頂と断ずるものであります。



宗規の改正への干渉は越権行為

次に、池田大作氏の総講頭失格についてであります。本宗宗規の改正について、なぜ池田大作氏に相談をする必要がありましょうか。学会では、宗門を、権威だ、権力だと言いますが、むしろ池田大作氏に権威付けをしようと目論(もくろ)んでいるのは、学会ではありませんか。口を開けば、「宗門興隆の最大の功労者」などと言うのは、まさにその証左であります。

本宗法規の改正は、宗会という議決機関でなされるものであって、創価学会をはじめ、他の宗教法人から干渉されるべき筋合いのものではないことくらい、貴殿らとて判るはずであります。「法的措置」だの「公の場で審判」などと口ずさみ、自由・民主と唱えるわりに、貴殿ら学会は、分を超えて他の法人を威圧的に干渉し、我(が)を張っているのです。むしろ、貴殿らのことは、法人法規や民主等に愚昧(ぐまい)な斉東野人(さいとうやじん)と言うべきです。

なお、「宗門興隆の最大の功労者」ということについては、後にまた触れることにいたします。



学会の正本堂意義付けは無知蒙昧な執情

次に、正本堂の意義付けについて、「未だに回答すらできないことに、すべて日顕猊下のご説法の誤りが明らかになっております」と述ぺていることについて一言、申しておきます。

日顕上人は、本年2月27日付の「お伺い」書を見て、貴殿らの愚痴蒙昧な心根を哀憐せられ、正本堂の真の意義付けについて、その本義の上から、親しく貴殿らに御教示せられたのであります。本来ならば、この時点で、貴殿らは席を避け襟(えり)を正して、自らの誤りを悔い、懺悔すべきでありました。ところが、貴殿らは、御法主上人の御教示を曲解し、真意を拝するどころか、3月30日付文書をもって、かえって悪辣に疑難してきたのです。その文書には、どうにかして御法主上人を陥れたいという願望と、してやったりという傲慢(ごうまん)な意識が、如実に表われておりました。

このような貴殿らの稚拙な仏法観による誤った正本堂の意義付けに対して、もはや御法主上人御自ら御教示される必要もありますまい。ゆえに、時局協議会文書作成班が、本年5月1日付の『大日蓮』号外において、総論的に貴殿らの誤りを破折したのであります。

まさに日応上人仰せの「豕鹿(しろく)ヲ殺スニ何ソ牛刀ヲ用ヰ(もちい)ンヤ」であります。その文書も見ずに、「朱だに回答すらできないことに、すべて日顕猊下のご説法の誤りが明らかになっております」などと言うのは、無知蒙昧(もつまい)な執情(しゅうじょう)としか言いようがありません。

もともと、3月30日付文書でも、貴殿らのうちの3名までが署名の上、「この私どもの『お伺い』に対するご回答につきましては、時間の許す範囲で、いつでも結構でございます」と言っていたではないですか。それを、いまさら何を言うのでしょうか。自語相違とはこのことです。

なお貴殿らの十箇の問題点の一々についても、近々、時局協議会から破折文が出されるということですから、虚心坦懐にそれを読み、深く反省されるよう、申し述べておきます。



池田創価学会の傲慢体質は明白

さて、7月21日付の貴殿らの書面に対して、私どもは、貴殿らの基本的な誤りを、五箇に括って指摘し、破折いたしましたが、貴殿らは、今回の書面で、更に我見や妄見をもってそれらをすり替えて、漱石枕流(そうせきちんりゅう)の疑難をしております。あまりにも荒唐無稽(こうとうむけい)な内容に、私どもは呵々(かか)大笑してしまいましたが、今一度、慈悲の上から貴殿らの蒙(もう)を啓(ひら)くことにいたします。

第一に、貴殿らには、本宗の信徒としての心構えが、何らできていないということであります。特に、11・16における池田大作氏の「猊下というものは」云々という発言について、貴殿らは、「冷静に判断して、この発言のどこが間違っており、何ゆえ、大騒ぎしなければならない問題なのでしょうか。全くこの通りではありませんか」居直っておりますが、もはや開いた口が塞(ふさ)がらないとしか言いようがありません。

ただ学会側の本年1月1日付の回答をゴリ押しするだけで、それ以上の発展が何も見られません。その貴殿らの精神を言うならば、宗門側の『お尋ね』に対して・虚偽捏造をもととする九項目の悪辣(あくらつ)な『お伺い』を、その回答に代えてきた池田大作氏の、傲慢無礼な精神そのものであります。

そもそも、池田大作氏の、「猊下というものは」云々発言に対する、学会側の「日達上人のお言葉の趣旨を強調し敷衍(ふえん)したもの」との苦しい会通(えつう)は、明らかに誤りでありま。それは、本年1月12日付の宗務院からの指摘を読めば、すぐに理解できることです。


それよりも、宗務当局が、この発言について、なぜ厳しく糾弾をするのかということを果たして貴殿らは考えたことがあるのでしょうか。発言当時、総講頭の立場にあった池田大作氏に、日蓮正宗の信徒として、常に模範的な信仰姿勢が要求されるのは、むしろ当然のことです。池田大作氏の「猊下というものは」云々の発言が、それに反するから問題になったのではありませんか。池田大作氏に、五十二年路線の反省がなく、当初から基本的な信仰心が欠落していると判っていたならば、最初から、それに対する別の処置もあったはずです。

貴殿らをはじめ学会首脳幹部は、「猊下というものは」云々の発言を正当化するため、いたずらに言葉の解釈に執(とら)われるのです。一般の客観的事物を対象にして言えばそれは間違っていないかもしれません。しかし、主観的信仰的立場で見れば、やはりこの発言は不遜(ふそん)であり無礼であります。このことは、例えば総理大臣や会社社長といった客観的社会的立場の人と、もっとも崇高であるべき信仰の、そのまた命脈(めいみゃく)である血脈付法の御法主上人とを、貴殿らが同一次元で捉(とら)えている証拠であります。結局、貴殿らには、純粋的信仰の次元で、唯授一人血脈付法の御法主上人を拝する心がないのであり、本宗信仰の基本的な拝し方に誤りがあるのです。

池田大作氏の「猊下というものは」云々発言の対象は、唯授一人の血脈を承継あそばされる御法主上人にあらせられますが、その法体は、日蓮正宗の信仰の命脈であります。したがって、日蓮正宗の僧俗が、発言等において御法主上人に及ぷ場合、公私を問わず、そこには必ず深い信仰的尊崇の念と、その念から必然酌に起こる言葉の選択がなけれぱなりません。それが信徒であるならば、なおさらのことです。かりに客観論や一般論として述べる場合であれ、決して「猊下というものは」などと、尊崇すべき御法主上人を評述するようなことがあってはならないのです。まして、信徒間の会合ならば、言わずもがなのことでありましよう。

また、その他の点についても、貴殿らは、「何度読み返してみても意味不明の強弁を展開しています」などと言っておりますが、そのような言葉が出ることは、普通一般の読解力のなさというより、信仰における根本的な立脚点が誤っているからです。つまり、池田大作氏のような、「猊下というものは」などと平気で口にする似非(えせ)宗教家を師匠とするから、宗門側の言う意味や道理が判らないのです。否、むしろ判ろうはずがないと、申し述べておきます。


なお、貴殿らは、「学会の指摘によってテープの悪らつな改ざんが明らかとなり、宗門はやむをえず枢要な質問を撤回せざるをえなくなった」などと、まことに勝手なことを言っておりますが、これは、反訳(はんやく)の相違をもって改竄(かいざん)と言っているのでしょうか。それとも、テープそのものを宗門が改竄したと言うのでしょうか。

もし、前者であるならば、それは、貴殿らの認識不足、または読解力不足というものであります。なぜなら、宗門側に、ごく一部分の反訳の不手際こそあれ、反訳の改竄など決してなかったのであります。今一度、1月12日付の宗務院からの指摘文を読みなおすべきです。

また、後者であるとするならば、それは貴殿らによる事実の改竄であります。なぜなら、宗門には、会場の異なる複数のテープが、全国から届けられており、どれも同様の内答であります。もし、それでもテープが改竄されていると言うのなら、学会に保存されている録音用のマスターテープとビデオテープ、及びその反訳文を公表すればよいではないですか。それをせずに、このようなことを言うのは、真実に対する卑劣なすり替えというほかありません。



池田創価学会の本尊観はまさに外道義

第二、第三については、一括して貴殿らの誤りを指摘しておきましょう。従前より指摘してきた貴殿らの誤りは、全て、ここにその根本があります。それは、文底下種の三宝と唯授一人の血脈法水とに対する貴殿らの拝し方であります。

まず、仏宝と法宝、すなわち御本尊に対する拝し方であります。私どもが、池田大作氏の誤った本尊観を指摘したことについて、貴殿らは「名誉会長がそうした趣旨の指導をしていることは事実」と認められました。ところが、また貴殿らは、池田大作氏が、かつて「御自身の内証の御境界(きょうがい)を一幅の御本尊にしたためられ、末法の一切衆生におのこしくださった」と指導したこともあることを挙げて、御本仏の己証ということを踏み外しているとは言えないと、堅白同異の論を強弁しております。

しかし、一度や二度、このような指導があったからといって、それで池田大作氏の御本尊に対する捉(とら)え方や指導の全てが、「御本仏の已証」を大前提としていたことにはなりますまい。むしろ、池田大作氏は、御本尊に関するほとんどの指導において、御本仏の御内証を踏み外しているではありませんか。それは、言い換えれば、池田大作氏の言う「御自身の内証の御境界」、すなわち「御本仏の已証」の意味するところが、やはり宇宙根源の法、あるいはその運行の法則といった法中心でしかないのです。それは、池田大作氏の「宇宙根源の法をそのまま御図顕あそばされた大御本尊」(昭和56年5月)との発言からも明らかではありませんか。

このように、池田大作氏は、宇宙根源の法、あるいはその運行の法則をもって、寿量文底の妙法と捉え、その具現化したものが御本尊であると拝するのですから、いくら与えて述べてみても、池田大作氏の本尊観は、本宗の人法一箇という根本義を踏み外した邪義であり、奪って述べれば、宇宙に遍満する法理さえ理解しているかどうかも怪(あや)しい外道義でしかないのです。

貴殿らは、『日蓮正宗要義』を引用して、あたかも鬼の首でも取ったかのように得意満面に言い放っておりますが、それこそ笑止千万のことであります。貴殿らが引用した『日蓮正宗要義』の引用箇所は、久遠元初の能証所証の本理を述べられたところであって、もともと何もおかしいところはありません。おかしいのは、池田大作氏の似て非なる偏頗(へんぱ)な本尊義なのです。

御本尊は、所証の境(きょう)すなわち法と、能証の智すなわち人(にん)とが境智冥合された、人法一箇、本有無作(ほんぬむさ)の御当体であります。『日蓮正宗要義』の、

不思議な法を覚知されたのである。それは存在の本質であり、しかも一切に通じ遍満する普遍的な法であり、大霊であった。(同書81頁) 。

との文中、「不思議な法」とは所証の境すなわち法であり、「覚知」とは能証の智すなわち人(にん)であります。そして、以下の「それは存在の本質であり、しかも一切に通じ遍満する普遍的な法であり、大霊であった」が、能証所証の境智の説明であることは明白ではありませんか。したがって、『日蓮正宗要義』の「遍満する普遍的な法」との記述は、人法一箇の御本尊の「法」、すなわち久遠元初の所証の「境」について述べられたのであり、「大霊」とは能証の人格を示す語で、要するに御本尊そのものなのであります。

しかし、池田大作氏の「宇宙根源の法」との表現は、先に挙げた「宇宙根源の法をそのまま御図顕あそばされた大御本尊」との指導にも明らかなように、ただちに御本尊を説明したものであります。それは、貴殿らも認められたことです。したがって、「根源」の語が付こうと付くまいと、池田大作氏は、偏頗であいまいな理法信仰であることに変わりはありません。まさに「法」に執着した本尊観なのです。

お判りのことと思いますが、私どもは、池田大作氏の本尊観・妙法観が、仏宝と法宝に迷った、人法一箇ということを真に信解できていない、法中心の「外道の義」であることを指摘したのです。阿諛追従(あゆついしょう)して池田大作氏の正当化を図ってばかりいると、遂には仏法の本義を見失ってしまうことを、貴殿らに忠告いたしておきます。


また、貴殿らは「宇宙」なる語に、大変、固執しているようですが、私どもは、先に出した書面でも、「宇宙」という語を使用することが誤りだなどとは、一言も述べておりません。ただ、貴殿らもお判りのように、池田大作氏の捉え方が、本宗、否、仏教としての捉え方と、大きく異なっていることは否めません。

貴殿らは、指摘されたことに対して、私どもが、あたかも石田次男氏や福島源次郎氏の著書によって指摘したものと、短絡的に解しているようですが、それにしても、貴殿らは、石田氏や福島氏の教学を、何の理由も根拠も挙げず、どうして「歪んだ薄っぺらな仏法観」と評することができるのでしょう。

石田氏や福島氏は、数年前から、池田大作氏の教学の誤りを指摘し、著書等に述べております。その教学の正否は別として、池田大作氏及び学会は、今に至るまで、「退転者」などと一方的に謗(そし)るばかりで、何ら教学的な反論や破折をしていないではありませんか。そのような態度の池田大作氏や貴殿らが、ただ「歪んだ薄っぺらな仏法観」と評することは、大変な矛盾でありましょう。この際、池田大作氏並びに貴殿らは、まず、石田氏や福島氏の著作や諌言書などに対して、明確に反論し、池田大作氏の本尊観を擁護してごらんなさい。その上で、私どもが貴殿らに、正しい本尊義を示してさしあげましょう。



池田創価学会の僧宝観の蒙を啓く

さて、次に僧宝について申し述べましょう。貴殿らの僧宝観は、為にするのか、はたまた全く知らないのか、ともかく歪んだ薄っぺらな僧宝観であることに間違いはありません。貴殿らは、御先師方の都合の好い御指南のみを引いて、「僧宝は、あくまでも日興上人御一人である」としてしまいたいようですが、なぜ、そこまで依怙地(いこじ)になるのでしょうか。そもそも、学会では、いつから歴代の御法主上人が僧宝ではなくなったのでしょうか。それは、また、いかなる理由からでしょうか。

貴殿らは、当面の目的である一般会員の洗脳しか考えないから、このように無節操な法義の改変ができるのです。しかし、気付かないのは盲信状態の会員だけです。貴殿らの悪辣(あくらつ)な手練手管(てれんてくだ)に対して、世間の人々ですら、驚きを通り越し、冷ややかな目で見ております。恥を知りなざい。『大白蓮華』の昭和54年11月号、及び昭和58年10月号では、

正法を正しく継承伝持あそばされた血脈付法の日興上人を随一として、歴代の御法主上人、広くは、御法主上人の法類である御僧侶の方々が僧宝なのです。

と記述されておりますが、それは間違いだったのでしょうか。あまりにも見苦しい論述と言わざるをえません。また、日寛上人は、『三宝抄』において、

吾が日興上人嫡々(ちゃくちゃく)写瓶(しゃびょう)の御弟子なる事分明(ふんみょう)なり。故に末法下種の僧宝と仰ぐなり。爾来、日目・日道、代々威(ことごと)く是れ僧宝なり、及び門流の大衆亦(また)爾(しか)なり。 (歴代法主全書四−390頁)

と明確に御教示されておりますが、貴殿らは、この御指南をどのように拝するのでしょうか。日達上人も、昭和38年5月、

二祖日興上人より歴代を僧宝と立てておるのでありまして、古来より少しも変っておりません。 (大日蓮208号頁)

と御教示され、御当代日顕上人も、去る7月末の法華講連合会第28回総会において、詳しく御教示されております。貴殿らは、切り文にして、都合の好いことばかりを述べているのであります。もはや、五逆十悪の謗(そし)りを逃れることはできますまい。

そもそも、貴殿らは、僧宝の拝し方において、総別の立て分けがあることを知っているのでしょうか。確かに、別して言えば、大聖人より直授(じきじゅ)相承せられた日興上人を僧宝の随一と仰ぎたてまつるのであります。しかし、貴殿らも引用されているとおり、僧宝の本体は、「唯授一人の血脈相承の当処」でありますから、総じて言えば、唯授一入の血脈相承をもって、人法一箇の法体を継承せられた御歴代上人は、全て僧宝にましますのであります。しからば、時の御法主上人が、その時代における僧宝の中心となるのは、むしろ当然ではありませんか。

なお、上記の日寛上人の「及び門流の大衆亦爾なり」との仰せは、以上の総別の僧宝を合わせて別と立てた上で、御法主上人に随従する一般僧侶が、総じて本宗の僧宝に含まれることを御教示されたものであります。まさに、『大白蓮華』で記述されているのは、正しい僧宝観ではないですか。

さらに言えば、以上の総別の二義を、さらに別と立てたとき、日蓮正宗の信仰をする信徒にも、総の意義において、僧宝の意義は存するのであります。すなわち、『日蓮正宗要義』に、

広く論ずれば正法を受持信行し随力弘通の任に当たる本宗僧俗のすべてが、僧宝であるといえる。 (同書307頁)

と示されるところであります。私ども本宗の僧俗は、以上の総別の立て分けをもって、正しく僧宝を拝していかなければなりません。ただし、『曽谷殿御返事』に仰せのように、それぞれの総別の筋目を外してしまえば、必ずや無間地獄に堕することになるのです。特に、貴殿らは、心しなければなりません。



唯授一人の血脈の当処は戒壇の大御本尊と不二の尊体

また、私どもが、「唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にましますらであります」と述べたことに対し、「驚くべき法主本尊不二論を述べています。先生方のこの言によりますと、御法主上人は戒壇の大御本尊と不二の尊体、すなわち同一の存在ということになりますが、何を根拠にこのように断定されるのでしょうか。法主大御本尊論、法主本仏論は一体、御書のどこに説かれているのでしょうか」などと、またもや日顕上人や日達上人のお言葉の都合の好いところだけを引用して、疑難してこられました。

驚いたのは、むしろ私どものほうです。御法主上人が絶対であり、敵対することが謗法であることは、池田大作氏の、

いま、日蓮正宗御宗門においても、仏法の師であられる御法主上人猊下に師敵対する僧俗が出たことは、まことに悲しむべきである。これは恐ろしき謗法であり、真の日蓮大聖人の仏法を信解していない証左なのである。血脈付法の御法主上人を離れて、正宗の仏法はありえないのである。

との指導にも明らかではありませんか。このような池田大作氏の発言を証拠として挙げるならは、それは枚挙にいとまがないほどであります。特に、「恐ろしき謗法であり」との言は、

凡(およ)そ謗法とは謗仏・謗僧なり三宝一体なる故なり。 (全集142頁)

との『真言見聞」の御金言に基づくものでありますから、かつて池田大作氏が御法主上人を僧宝にましますと認識されていたことは、動かしようがない事実なのであります。貴殿らは、このような発言をどのように思うのか、ぜひ、教えていただきたいものであります。

さて、三宝一体とは、まさに本仏大聖人、戒壇の大御本尊、歴代の御法主上人が、その内証において、一体不二の尊体にましますということであります。外相(げそう)においては、確かに仏法僧は別体でありますから、日顕上人や日達上人の仰せのように、歴代の御法主上人が、ただちに御本仏大聖人ではありません。しかし、御所持あそばす唯授一人金口(こんく)相承の当処は、まさに人法一箇の御尊体なのであります。

したがって、日寛上人は、

若(も)し内体に約さば実に是れ体一なり。所謂(いわゆる)法宝の全体即ち是れ仏宝なり、故に一念三千即自受用身と云い、又十界具足を方(まさ)に名づけて円仏と云うなり。亦復(またまた)一器の水を一器に写すが故に師弟亦(また)体一なり一故に三宝一体なり。 (歴代法主全書四−292頁)

と、内証の上から、本宗の三宝は一体不二であることを仰せであります。したがって、『御本尊七箇之相承』の、

日蓮在御判と嫡嫡(ちゃくちゃく)代代と書くべしとの給う事如何(いかん)。師の曰(い)わく、深秘なり、代代の聖人悉(ことごと)く日蓮なりと申す意なり。 (日蓮正宗聖典379頁)

との御相伝は、まさに内証において、三宝が一体であるというところに約されたものと拝すべきであります。貴殿らは、私どもの指摘を「法主本仏論」と断定しておりますが、それは、貴殿らが、このような本宗相伝の深義を、信心をもって拝そうとしないからであります。

否、それだけではありません。貴殿らは、唯授一人血脈付法の御歴代上人に、宗義上の違背があったなどということを無理に仕立て、どうにかして日顕上人を陥れようと、狂言綺語(きご)を弄(ろう)しているのであります。そもそも、貴殿らは、唯授一人血脈付法の御歴代上人に、宗義上の違背があったなどと言うことが、何を意味するものか判っているのでしょうか。それは、まさに金口血脈の否定、あるいは断絶であります。血脈否定の論拠として、日精上人の「造仏問題」と、日恭上人の「神札間題」を取り上げておりますが、貴殿らは、もはや魑魅魍魎(ちみもうりょう)と化してしまったのでしょうか。


日精上人の「造仏問題」については、特に学会青年部を扇動して、盛んにあげつらっているようでありますが、これは五十二年路線の時に、既に学会で用意されていたといわれる血脈否定の論難の一部ではありませんか。当時、秘匿(ひとく)されていたようですが、内部文書の流出に伴って露見し、関係者を驚かせておりました。

久保川法章ら正信会の徒輩は、血脈否定の論拠として、これを悪用したのであります。しかるに、それから十年を経た今日、今度は、それを用意した本家、すなわち貴殿ら学会が、日顕上人陥れのために、いよいよその本性を剥(む)き出しにしてきたのであります。十年前、私どもがこの文書の存在を知った時、まさか学会がこのようなものを用意していたなどとは信じられませんでした。しかし、今回、貴殿らがこうして論難してきたことによって、それがまぎれもない事実であったことを、私どもは確認できました。

十年前、日精上人に対する疑難が久保川法章ら正信会の徒輩からなされたとき、水島公正師によって、明解な反駁書(はんばくしょ)が出されております。その当時、貴殿らは、それを知っていながら、何も異義を唱えなかったではありませんか。それにもかかわらず、十年を経て心を翻し、日精上人を難ずるとは、まさに退転者と言うべきであります。このような貴殿らの定見のなさは、門外漢からの俗難さえかわせないことを指摘いたしておきます。

貴殿らは、「先生方の言われるように、日精上人が『戒壇の大御本尊と不二の尊体にまします』ならば、何故、釈迦仏の造立(ぞうりゅう)という大謗法を犯した上に、それを正当化する『随宜論』を著したのでしょうか。また、この書も『大聖人の仏智による御指南』であり、たとえ宗義違背の謗法の指南でも『信伏随従』しなければならないとお考えなのでしょうか」と、日精上人を「大謗法」と罵(ののし)り、法主否定の論拠としていますが、まさに不知恩の極みと言わねばなりません。この論旨は、実に卑劣な悪智慧を働かせたもので、直接的には血脈を否定することはしないふりを装いながら、実質的には血脈相承を否定しようとするものであります。貴殿らは、いつから正信会の信徒になったのでしようか。

日精上人は、はじめ京・要法寺日揺の弟子となりましたが、後に大石寺に登り、総本山第16世の日就上人に従って宗義を学ばれ、寛永9年、日就上人より法を付嘱されて、総本山第17世の法灯を承継されました。第26世の日寛上人は、この日精上人の御説法を聞いて入信し、出家を志されたのであります。

日精上人は、一時期、確かに造像されたこともあったようですが、それは御登座以前のことであり、御登座以降における造像はありません。しかも、日精上人御自身、「当家甚深の相承の事。全く余仁は一言半句も申し聞く事之(こ)れ無し、唯(ただ)貫首一人の外は知る能(あた)わざるなり。仍(よっ)て染筆する者なり。・・・又本尊相伝、唯授一人の相承なるが故に代々一人の外は書写すること之れ無し。 (歴代法主全書二−314頁)

と仰せの上は、どうして疑うことができましょう。なお、時局協議会のほうから、貴殿ら学会による日精上人への疑難に対し、その破折の文書が出されるということなので、ここでは申しませんが、日精上人の造像を無理に喧伝(けんでん)した、要法寺寿円日仁の『百六対見記』の記述についても、また『随宣論』の末文の読み方についても、それぞれ問題があることだけ、ここで申し述べておきます。


次に、貴殿らは、「神札問題」により、総本山第62世日恭上人の御教導を大謗法と断じていますが、この問題については、既に時局協議会によって破折されております。それだけでなく、牧口会長が靖国神社に参拝していたことを、反対に指摘され、さらには、創価学会が神札を容認していたという「通諜」の写しまで紹介されたではありませんか。

しかも、それによって慌てた学会男子部が、「通諜」とは、戦後入信した法華講貝によって偽造された謀略文書であり、確実な証拠を入手しているなどと言っているのであります。しかし、それが貴殿らお得意の嘘であることは、いまだに証拠とやらが発表されていないことによって明らかです。学会にとって、証拠の発表ができないならば、ただちに日 恭上人に対したてまつり、懺悔謝罪すべきであり、また会員への誤った指導を訂正すべきであります。

ともかく、貴殿らは、御法主上人を陥れ、池田大作氏を正当化するためには手段を選ばず、常にこのような捏造(ねつぞう)をもって、仏法を欺(あざむ)いているのです。このようなことばかりして、貴殿らには、本当に恥じる心が起こらないのでしょうか。いやしくも門葉に隠れて、まさにその根を伐(き)らんとし、かつその流れを汲んで、まさにその源を塞(ふさ)がんとする、師子身中の虫と断ずるものであります。覆水盆に返らずとは、まさにこのことです。大乗波羅夷(はらい)罪の中に、談他過失戒あるいは自賛毀他戒、また毀謗三宝戒等が説かれておりますが、貴殿らは、まさにこれらの戒を破る大罪を犯しているのであります。この波羅夷は無余と訳しますから、貴殿ら50年の功徳は、既にその全てが消し飛んでなくなったことを申し添えておきます。



池田創価学会は波木井入道と同轍の反逆者

第四に、貴殿らは、私どもが、「宗門に対して、多大な功績を挙げるならば、池田名誉会長よりも、七百年前の波木井入道のほうがはるかに上であります」と述べたことに対して、異常なほどの反感を剥(む)き出していることであります。

そもそも、波木井入道が、御本仏大聖人の外護者であったことは、大聖人の晩年の御化導が、身延の地においてなされたということからも否定できますまい。深くは申しませんが、この身延期における御化導において、大聖人は、三秘総在の本門戒壇の大御本尊を御建立あそばされ、また『法華取要抄』をはじめ、三大秘法の深義に関する幾多の重要御書を著わされ、さらに『御義口伝』、御本尊相承等の重要な法門と法体の付嘱をもって、未来永劫にわたる妙法流布の礎(いしずえ)を築かれたのであります。その礎があったればこそ、大聖人御入滅後七百年を経た今日の宗門もあり、私どもも正法に浴することができるのであります。

この三大秘法の整足という一大事と、末法万年の広布の礎の確立という、御本仏大聖人の身延期御化導の根本的意義に対して、直接、外護の任に当たられたということから、波木井入道の功労、功績が甚大であったことを知ることができるのです。創価学会とて、この礎と宗門七百年の正しい伝統の上に、はじめてその存在意義をもつことができるのです。私どもはこの御本仏の御化導に約して、その功績の大なることを申し上げたのであります。

しかし、こうした大功労者であっても、大聖人御入滅の後、名利(みょうり)の欲望と、慢心と、教義の誤りにより、波木井入道は血脈付法の日興上人の御意(みこころ)に反して、四箇の謗法を犯し、謗法の逆徒と化してしまったのであります。ところが、それから七百年を経た今日、やはり宗門興隆の大功労者と言われる人物が、波木井入道と同じ轍(てつ)を踏もうとしているのであります。すなわち、池田大作氏であり、貴殿らであります。私どもは、それを黙視することができないのです。

池田大作氏をはじめ貴殿ら創価学会は、何かといえば、すぐ、寺院をこれだけ建立した、これだけ御供養した、これだけ折伏をしたなどと、自ら大功績者、大功労者を気取っておりますが、これを慢心と言わずして何と言えましょう。同じことが、11・16のスピーチの中にも見られましたが、そこには、絶えず見栄(みえ)と権力の誇示があり、露骨に名誉と見返りを望む池田大作氏の姿があったではありませんか。このような精神をきょう慢(きょうまん)と言うのであります。私どもは、こうした池田大作氏や貴殿らのきょう慢の精神を戒め、富士の清流へ帰るよう叱陀(しった)し弾呵(だんか)しているのです。池田大作氏には、確かに多大な功績があり、功労があります。それは、本宗僧俗の押し並(な)べて認めるところであります。しかし、それによって、きょう慢の心を起こしてしまっては、かえって三途(さんず)の業因(ごういん)を増すだけであります。私ども僧俗は、常に広布のお手伝いをさせていただく、あるいはお手伝いをさせていただいたという精神でなくてはなりません。池田大作氏や貴殿らは、反対に清浄な本宗の信心を失い、きょう慢の心を生じてしまったのであります。これだけ御供養したから、あるいはこれだけ貢献したから、自分には絶大な功徳があるなどと他に向かって誇示するのは、唯物論者のすることであって、決して本宗信徒のすることではありません。

その証拠に、貴殿らは、私どもが「宗門に対して、多大な功績を挙げるならば、池田名誉会長よりも、七百年前の波木井入道のほうがはるかに上であります」と申したことについて、何と、「一体、波木井は正本堂、大客殿をはじめ三百数十か寺の建立寄進をしたのでしょうか。また、全日本、全世界に、大聖人の仏法を布教したのでしょうか」などと、根本の法体あってのことを忘れて、事相の功績の多大なることばかりを誇示し、まるで幼児がダダをこねているかのように、我慢偏執(へんしゅう)の心を剥き出しにしているではありませんか。ここに、貴殿らの傲慢(ごうまん)にして諂曲(てんごく)した精神と、還同外見(げんどうげけん)の信仰姿勢を見るのであります。これでは、もはや仏教者とは言えますまい。

貴殿らは、波木井入道には四箇の謗法があるが、池田大作氏がいつ四箇の謗法を犯したか、などと強言しておりますが、今日、池田大作氏のきょう慢心をもととする三宝破壊、血脈否定につながる大謗法をはじめ、池田創価学会による本宗の化法や化儀の改変は、まさに猪突(ちょとつ)猛進の様相を呈しているではありませんか。十数年前において、既に御本尊模刻をはじめ、様々な謗法を犯してきたことを、貴殿らは、もう忘れてしまったのでしょうか。池田大作氏の犯した数々の謗法は、むしろ火を見るより明らかです。一体、貴殿らは、

懺悔(さんげ)すれども懺悔の後に重ねて此の罪を作れば後の懺悔には此の罪きえがたし。 (全集443頁、)

との御文を、どのように拝するつもりなのでしょうか。

貴殿らにとって、池田大作氏を波木井入道に擬(なぞら)えられることは、非常に苦痛のようですが、実際に同轍を踏んでいるのですから、仕方がありません。そのことを省みず、かつて正信会や山崎正友氏も、池田大作氏のことを波木井入道と見傲(みな)したことを挙げ、私どもに悪態をついて、果たして、何になるというのでしょう。それ自体、貴殿らの無慚無愧(むざんむき)の非宗教者的な体質を物語っているのです。そんなに池田大作氏のことを波木井と言われるのがいやならば、提婆達多がよろしいのでしょうか。それとも、第三の上慢にでも擬えてほしいのでしょうか。いずれにしろ、池田大作氏の現在の姿を見れば、仏法反逆の徒でしかないのであります。

このような貴殿らの誤った信仰姿勢を省みず、「学会からの御供養を返せ」など、もってのほかであります。それは、まさに、御本尊に御供養申し上げたものを、御本尊に向かって返せと言っているようなものであります。貴殿らの御供養は、御本尊の功徳のあらわれではありませんか。その功徳は、全て本宗所信の法体たる人法一箇の御本尊に帰するのであります。貴殿らは、その広大無辺の功徳聚(くどくじゅ)たる御本尊を、歴代の御法主上人に御書写していただき、各寺院からお貸し下げしていただいたことを、何と心得ているのでしょうか。まさに御本尊を冒涜(ぼうとく)し、仏法そのものを侮蔑(ぷべつ)する不知恩の輩であります。

なお、また御供養された方々の中に、以前より法華講に所属していた方や、諸般の事情によって学会を脱会された法華講員が、少なからずおられることも事実であります。その方々の御供養された分はどうするというのでしょうか。さらに言えば、貴殿ら創価学会では、脱会して法華講員になられた方々を反逆者扱いしておりますが、その方々が今まで納めてきた広布基金や特別財務の納金は、本人に返金しておるのでしょうか。貴殿らの論法では、それがなされていなければおかしいと思いますが、いかがですか。



法華講員・直属信徒として受け入れるのは当然の責務

第五に、貴殿らは、本宗各寺院において、学会の非に気が付いた会員を、積極的に法華講や直属信徒として受け入れていることに対して、「檀徒づくり」と評し、またそれを是(ぜ)としたことについて、「開き直りの一大暴論」などと言っております。はなはだしいのは、「御本尊を持った人をかすめとっている」という言葉に含まれる異常感覚であります。

何が「かすめとる」ですか。かすめとるも何も、本来、貴殿らを含め、学会員は、皆、学会員である前に、本宗の信徒であるはずです。だから、御本尊を持(たも)っているのでしょう。その御本尊をお貸し下げしたのは御法主上人であり、各寺院であります。その人たちを、寺院の直属信徒として受け入れていくことが、なぜ、かすめとることになるのでしょうか。学会の法人設立の三原則にも、「折伏した人は信徒として各寺院に所属させること」という条項があったではありませんか。貴殿らには、常識というものがあるのでしょうか。このことは、貴殿ら創価学会の存立墓盤にも関わる問題です。よくよく沈思黙考すべきであります。

また、その「かすめとる」という言葉には、貴殿らの、何か非常に深い不浄な心根(こころね)のあることが窺(うかが)われます。それは、池田大作氏や貴殿ら首脳幹部による、本宗の信徒、ことに創価学会員に対する私物化です。会員は、皆、学会の信徒であり、池田教の信徒であるという傲慢(ごうまん)な精神が、この「かすめとる」という一語にあらわれております。そこには、当然、「学会は主、宗門は従」、あるいは「全ての中心は池田大作氏であり、法主といえども池田大作氏に従わなければならない」という、本末転倒の考え方が土台となっているのであります。

ともあれ、本宗本来の信仰を正しく修行しようとする心ある一般会員が、池田大作氏や貴殿ら首脳幹部の傲慢な精神や三宝破壊の大罪に気付き、学会を脱会して寺院の法華講や直属信徒となっていっていることは、まぎれもない事実であります。この現実相に直面しても、貴殿らは、未だに何も反省をせず、ただ開き直って暴言を吐いているのであります。つまり、ただ修羅の感情を盛んに燃え上がらせるばかりで、何ら道理を見ようとしないのであります。しかし、もはやそのようなことをしているときではありません。一刻も早く、貴殿らの傲慢不遜(ふそん)な精神を反省し、懺悔して正信に帰すべきであります。



勇気をもって池田大作氏を諌めよ

以上、貴殿らの書面にあらわれた種々の謗法を、本宗の血脈仏法の上から指摘し、破折するとともに、再度、正信に目覚めるための一助として認(したた)めました。要は、貴殿ら自身が、蒙霧(もうむ)の迷いを晴らして、池田大作氏の説く似非(えせ)仏法の似非仏法たる所以(ゆえん)に早く気付き、勇気をもって池田大作氏を諌め、真の僧俗和合のために立ち上がられることであります。貴殿らが人生の師匠と仰ぐ池田大作氏は、もはや血脈正系の信心からはずれた、破仏法の姿を露呈しております。

悪法を以(もっ)て人を地獄にをとさん邪師をみながら責め顕はさずば返って仏法の中の怨(あだ)なるべし(全集1156頁) との御金言のごとく、池田大作氏の浅はかな仏法観を目の当たリにしているにもかかわらず、その邪謬(じゃびゅう)を糾(ただ)さなければ、貴殿らとて、仏法中怨(ちゅうおん)の謗(そし)りは免れないことを申しおいて、擱筆(かくひつ)いたします。

平成3年9月6日


法道院主管 早瀬日慈
妙本寺住職 鎌倉日櫻
平安寺住職 椎名日澄
妙蓮寺住職 吉田日勇
寂日坊住職 瀬戸日謙
本行寺住職 高野日海
法霑寺住職 秋山日浄

最高指導会議議長 和泉  覚殿
参議会議長    辻  武寿殿
参議会副議長   柏原 ヤス殿
参議会副議長   白木義一郎殿