資料S(創価学会解散勧告書)


創価学会は、本来唯授一人血脈付法の法主の指南、及ぴ教導のもと、日蓮正宗を外護し広宣流布へと挺身すべき本宗信徒の団体であります。ところが、最近創価学会は、自らの本分を忘れ、本宗信仰の命脈たる下種三宝義、並びに血脈相伝義をはじめとする本宗伝統の化法・化儀を、己義をもって改変し、他宗教さながらの様相を呈しております。日蓮正宗としては、これまで慈悲の立場から、種々の指導・善導に努め、教誠等をもつて反省懺悔を求めてきましたが、創価学会は全くこれを無し、かえってあらゆる手段をもって、法主・宗門に対して、誹謗・攻撃を加えつづけてきております。よって、もはやこれ以上、看過することはできず、ここに創価学会に対し、解散を勧告するものであります。

第一 日蓮正宗は、御本仏日蓮大聖人の文底下種仏法の根幹たる、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊と、それに基づく化法・化儀の一切を、大聖人以来唯授一人の血脈相承によって正しく相伝する、唯一の正統教団であります。したがって、本宗の僧俗は、必ず戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承を、信仰の根本としなければなりません。


(一) 

本宗信仰の根幹たる弘安2年10月12日御建立の本門戒壇の大御本尊は、まさに御本仏日蓮大聖人の已証を御図顕あそばされた人法一箇の御本尊にして、下種三宝の当体であります。本宗の三宝とは、第26世日寛上人が、

「当門流の三宝とは、寿量文底本因妙の仏法僧を以て末法今時の下種の三宝と為し上る也。前代未聞の大宝、末法適時の尊体也。(中略)仏宝とは文底本因妙の教主、久遠元初の自受用身也。法宝とは文底下種の事の一念三千の南無妙法蓮華経也。僧宝とは久遠元初の結要付属の所受の人也。久遠は今日、今日は久遠也」

と仰せのごとく、久遠即末法の本因下種の三宝であります。すなわち、仏宝とは、久遠元初の自受用身たる宗祖日蓮大聖人であり、法宝とは、文底下種の事の一念三千の南無妙法蓮華経たる本門戒壇の大御本尊であります。また、僧宝とは、久遠元初の結要付嘱の所受の人にして、日寛上人が、

「吾が日興上人、嫡々写瓶の御弟子なる事分明也。故に末法下種の僧宝と仰ぐ也。爾来、日目・日道代々成く是れ僧宝也、及び門流の大衆亦爾也云云」

と仰せのごとく、日興上人を随一として、唯授一人血脈付法の歴代上人の全てにわたるのであります。さらに、門流の大衆、すなわち法主に信伏随従する本宗の一般僧侶も、みな僧宝め一分に加えられるのであります。しかし、この義は、一般僧侶が法主に摂せられて、はしめて成立する義であります。本宗の三宝の勝劣次第について、日寛上人は、

「此れ須く分別すぺし、若し内体に約さば実に是れ体一なり。所謂法宝の全体即ち是れ仏宝なり、故に一念三干即自受用身と云い、又十界具足を方に名づけて円仏と云う也。亦復一器の水を一器に写す故に師弟亦体一なり。故に三宝一体也。若し外相に約さば任運勝劣あり。所謂、仏は法を以て師と為し、僧は仏を以て師と為す故也。故に法宝を以て中央に安置し、仏及び僧を以て左右に安置する也」

と、内体と外相の上から教示されております。すなわち、外相に約せば、法・仏・僧という勝劣次第がありますから、本尊奉安式においても、中央に法宝(大漫茶羅)、右に仏宝(大聖人御影)、左に僧宝(日興上人御影)を奉安するのであります。しかし、もし内体に約するならば、仏宝・法宝は、もとより久遠元初の能証所証の人法にして二而不二の尊体であり、この法体は、一器の水を一器にうつすごとく、歴代の僧宝へと血脈相伝されておりますから、三宝は即一体なのであります。以上の本宗本来の三宝義の上から、第九世日有上人は、

「手続の師匠の所は三世の諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故に師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此くの如く我れに信を取るべし」

と仰せであります。すなわち、唯授一人の血脈相承によって、自身の内証に、大聖人以来の下種三宝の法体がまします上から、自身に信を取るよう、教示されているのであります。このことは、また第三十一世日因上人が、信徒に宛てられた消息の中で。

「日興上人已下の代々も亦爾なり、内証に順ずる則んば仏宝也。外用に依れば則ち僧宝なり、故に末法下種の大導師日蓮聖人の尊仏に対すれば則ち外用を存し以て僧宝と為るのみ」

との仰せからも、明確に拝されるのであります。古来、合掌礼をもって法主に対するのは、まさにその内証に止住している仏宝・法宝の法体に約すからであります。したがって、本宗の僧俗にして、もし大聖人の法体を護持する法主に対して違背するならば、『身延山付嘱書』に、

「背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり」

と仰せのごとく、師敵対の大謗法となるのであります。謗法とは、まさに違背の義に約しますから、三宝破壊の大罪によって、必ず無間大坑に堕すのであります。したがって、本宗の僧俗である以上この三宝の次第を超え血脈相伝を無視した、大聖人直結・御本尊直結などという已義は、決して構えてはならないのであります。


(二)

次に、僧俗の次第について、宗祖大聖人は、『諸人御返事』において、

「所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合せ是非を決せしめば日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り、我が弟子等の出家は主上・上皇の師と為らん、在家は左右の臣下に列ならん」

と広布の相に約して仰せのごとく、僧侶と信徒は、仏法上師匠と弟子という筋目の上からの相違が存するのであります。故に、日興上人は、『遺誠置文』で、

「若輩為りと難も高位の檀那自り末座に居く可からざる事」

と、座配の次第に約して、明確に僧俗の相違を仰せであります。先に述べたごとく、法主に信伏随従する一般僧侶は、法主の血脈に摂せられて、僧宝の一分に加わりますから、本宗の信徒は、所属寺院の住職・主管を、血脈法水への手続の師匠と心得なければなりません。本宗の僧侶は、本宗の規定の化儀に則って修行し、法主より免許を被って、薄墨の素絹衣と白五条の袈裟を着しますが、この法衣は、まさに大聖人の下種仏法を表明するものであります。日寛上人は、法衣の功徳について、

「戯に衣を着る功徳尚爾なり何に汎んや真実に着せんをや」

と仰せですが、僧侶は、この本因下種の法衣を着するゆえに、身心ともに僧宝の一分に加わり、血脈法水への手続を務めるのであります。この意義の上から、日有上人は、

「私の檀那之事、其れも其筋目を違はば即身成仏と云ふ義は有るべからざるなり、其小筋を直すべし。血脈違は大不信謗法也、堕地獄なり」

と、僧俗師弟の筋目を糺すべきことを仰せられ、日因上人は、これを敷衍されて、

「私の檀郡の筋目之を糺すべき事、此れは師檀の因縁を示す。檀那は是れ俗の弟子なり、故に師弟血脈相続なくしては即身成仏に非ず。況や我が師匠に違背せるの檀那は必定堕獄なり。乖背は即不信謗法の故なり」

と、厳に信徒のあるべき心構えについて誠められております。すなわち、本宗の信徒は、もとより唯授一人血脈付法の法主を、現時における仏法の師匠とし、さらに法主より任命を受けた所属寺院の住職・主管を、血脈への手続の師匠とするのであります。その上で、下種三宝の当体たる本門の本尊を帰命の依止処として、師弟相対の信心化儀を修するとき、はじめて境智冥合して大聖人以来の血脈法水が自身に通い、真の即身成仏の大仏果を得ることができるのであります。反対に、この僧俗師弟議を蔑ろにすれば、下種三宝の血脈法水に対する師弟相対の信心が調わないどころか、師敵対の大謗法罪によって、必ず地獄に堕しますから、本宗信徒は、よくよく心しなければならないのであります。


(三)

本宗の化法・化儀は、右に述べるごとく、全て大聖人以来の法体血脈の相伝と、それに基づく山法山規によりますから、化法や化儀に関する一切の正否の裁定権は、『日蓮正宗宗規』に定めるごとく、当然法主一人に具わるところであります。本宗の法義は、日興上人が、『遺誠置文』に、

「当門流に於いては御書を心肝に染め極理を師伝して云々」

と教示のごとく、師伝によらなければ、到底その深旨の信解に至ることはできません。当然そこには、本尊法体に関する法義解釈から広範な御書の解釈、さらには法要化儀の意義付けに至るまでの一切を含むのであります。したがって、本宗の法義を研鑚する者は、必ず血脈付法の法主の説き示す伝統の法義解釈に従って信解すべきであり、社会に展開するからと称して、我見や已義を構えてはなりません。また、勤行式をはじめ、葬儀や法事等の典礼など、あらゆる本宗の法要儀式等の信心化儀においても、その心構えは同様であります。日有上人が、

「此の大石寺は高祖より以来、今に仏法の付嘱切れず、次第して候間、得給へる人抔は仏法・世間の御沙汰、高祖の御時に少しも遠はず候」

と仰せられ、また日寛上人が、

「但吾が富山のみ蓮祖所立の門流なり、故に開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し」

と仰せのごとく、本宗伝統の法要化儀の一切は、その大綱において、大聖人以来、いささかも変わるものではありません。本宗の化儀とは、まさに本因下種の仏法の深い意義を現実に表明し、体現するものであります。換言すれば、本因下種の仏法のあらゆる意義は、本宗伝統の法要儀式をはじめとする信心化儀によって、現実世界に顕現するのですから、古来化儀即法体と称するのであります。したがって、およそ本宗の信徒である以上、葬儀・法要をはじめとする一切の化儀は、必ず宗門の定めに従って執行されなければならないのであります。




第二 そもそも宗教法人創価学会は、本宗法規に定めるところの法華講支部ではありません。しかるにその創価学会に対し、宗門が現在まで本宗の信徒団体として認容してきた所以は、昭和二十六年創価学会の宗教法人設立申請時における、

@折伏した人は信徒として各寺院に所属させること。
A当山の教義を守ること。
B三宝(仏法僧)を守ること。

という、宗門に確約した三原則の遵守を条件とするものであります。ところが創価学会は、先に昭和五十二年路線でこの三原則を無祝し、本宗の伝統法義から大きく逸脱したのであります。具体的には、御本尊模刻という前代未聞の大謗法をはじめ、戸田会長の悟達を創価仏法の原点とする誤り、大聖人直結という血脈無視の誤り、小説『人間革命』を現代の御書とする誤り、会長への帰命や会長を主師親三徳・大導師・久遠の師とする誤り、寺院・僧侶軽視の誤り、謗法容認の誤り、在家が供養を受けられるとする誤り・学会こそ僧宝とする誤り、池田流師弟観の誤り等、数多くありました。これらは、要するに「北条文書」や、「山崎・八尋文書」などの学会機密文書に明らかなごとく、「学会は主・宗門は従」という視点から、宗門を創価学会の外郭団体とするか、もしくは日蓮正宗から独立しようという意図に基づくものでした。

しかし、この時は、先師日達上人の善導等によって反省懺悔を示し、さらに昭和54年4月、池田氏が、会長・総講頭を引責辞任するに及び、同年五月三目、創価学会が今後、信徒団体としての基本を、忠実に守ることを条件として、ようやく収束したのであります。その間昭和53年の、『六・三〇』では、法義上の逸脱が是正され、また通称『お詫び登山』といわれる昭和53年の『十一・七』では、当時の北条理事長が、

「宗門と学会との30年余りに及ぶ関係を顧みたうえで、創価学会は昭和27年の宗教法人設立時の『三原則』を遵守し、日蓮正宗の信徒団体としての性格を、いっそう明確にしてまいる方針であります。」

と述べ、また辻副会長は、「教学の基本について」と題して、

「この戒壇の大御本尊を厳護するためにこそ、日蓮正宗の厳粛なる化儀・伝統があるのであり、その点われわれ信徒は、よく認識していかねばなりません。」

と述べて、創価学会の昭和五十二年路線における数々の逸脱を深く反省し、法人設立時の三原則に立ち返り遵守することを、三宝の御宝前に誓ったのであります。さらに、池田氏も、翌昭和55年4月2日、「恩師の二十一二回忌に思う」と題する所感の中で、

「私が、恩師の『創価学会の歴史と確信』の理念、方向性を実践した延長とはいえ、その深き意志も解せず、僧侶・寺院の役割を軽視し、その結果、御宗門に対し主客転倒の風潮を生んだことは、我が身の信心未熟ゆえの慢と、大御本尊に心より懺悔申し上げるものであります。」

「御書の拡大解釈や逸脱については、すでに『六・三〇』(教学上の墓本問題について)に指摘されております。ここで反省し、確認された事項は、今後とも絶対に踏み違えてはならない重要な規範であります。」

と、昭和五十二年路線における創価学会の逸脱は、全て池田氏自身の慢心に基づくものとして懺悔し、また「六・三〇」は、創価学会として、万代にわたって、絶対に破るべからざる規範と明記したのであります。




第三 創価学会においては、昭和五十二年路線の厳しい反省の上から、昭和54年4月24日、三原則遵守の精神を踏まえて、あらためて『創価学会会則』が制定されました。すなわち、この三原則は、創価学会が日蓮正宗の信徒団体として存立する上で、恒久不変の条件なのであります。ところが、昭和五十二年路線の反省から十数年を経た現在、創価学会は、その逸脱是正の誓いを捨て、再び宗教法人設立時の三原則を、事実上において破棄したのであります。


(一)

三原則の最初は、「折伏した人は信徒として各寺院に所属させること」であります。

創価学会は、昭和五十二年路線で、「正宗の寺院は儀式の場であり、広宣流布の場ではない」といっていましたが、宗門では、この寺院観が、「折伏した人は信徒として各寺院に所属させる」との原則への違背という認識の上から、他の逸脱事項とともに問い糺したのであります。それに対して、創価学会としても、昭和五十三年の「六・三〇」において、

「正宗寺院においては、正法をもって授戒、葬式、法事、結婚式等の衆生済度のための大切な行事を行っています。寺院もまた、広宣流布のための活動の重要な拠点であることを認識すべきであります。学会のみが広宣流布の場として、寺院がそうでないかのような表現は、明らかに言い過ぎであります。」

と認識を改め、また『特別学習会テキスト』でも、

「五十二年当時を中心とする指導のなかに、宗門、寺院、僧侶に対して、従来の正宗と学会の関係からもはずれた行き過ぎた指導があったことは、まず第一に率直に反省すべき点であります。たとえば、極端に『寺へ行くな』とか『僧侶は折伏もしない。広宣流布しているのは学会だ』とか『寺院は単なる御授戒の場』とか、登山会を軽視する発言などがありました。また、在家仏教的な考え方から僧侶並びに寺院を軽視し(中略)結果として、あたかも日蓮正宗を無視するかのような発言があったことは、ことの経緯はともあれ、信徒として明らかな逸脱であり、今後こうした考え、指導上の誤りのないよう十分注意をしてまいります。」

と述べ、率直に反省したのであります。すなわち、本宗の寺院は、単なる形式的に儀式を執行する場ではありません。令法久住・広宣流布の意義に基づく儀式法要をはじめ、あらゆる信仰活動を遂行する、大法弘通の法城であります。しかるに、現在の創価学会は、昭和五十二年路線よりも、なお卑劣にして、大きく逸脱しております。昭和五十二年路線では、寺院は『単なる儀式の場』と断定するものでしたが、現在では、寺院が儀式の場であることすら破っているのであります。すなわち、本宗の僧侶が導師となって執行すべき儀式法要等の化儀を、完全に改変し、創価学会独自の、僧侶を不要とする冠婚葬祭等の化儀を勝手に執行しております。このことは、まさに本宗寺院から、信徒を隔離する行為ですから、これほどの原則への違背はありません。このように、宗門誹謗の団体と化した現在の創価学会をみれば、脱会した会員が法華講員・直属信徒となることは、本宗信仰のあり方の上から当然であります。ところが、創価学会では、自らに都合のよい日達上人等の指南のみを挙げ、悪辣に宗門を誹謗しております。特に秋谷会長の、

「宗門は天魔と化して、信者ドロボウに狂奔し、まことに嘆かわしい限りの実態であります。」(平成3年9月17日)

「宗門が今、画策している檀徒づくりは、名誉会長と私たち会員との師弟の絆を断ち切ろうとの陰謀である。破和合僧の行為を放置していたら、世界広布の将来はないし大聖人の御精神から大きく外れてしまう。我々は、今こそ学会正義の大確信をもち、勇気ある実践を展開しよう。」(平成3年9月28日)

等の発言や、本宗能化に対する創価学会古参幹部の、「信徒を泥棒のようにかすめとろうというのは、仏法上人道上、許されないことであり、これは宗門の信心の自滅となるものでしょう。」(平成3年8月16日付書面)との発言は、本宗信仰における僧俗師弟の筋道を全く無視し、信徒間に仏法の師弟を持ち込んだ謬見であり、信徒団体としての分域を越えた、本末転倒の邪見であります。あまつさえ、「信徒泥棒」との発言は、創価学会による本宗信徒の私物化であって、本宗の信徒団体たることを、自ら放棄する行為以外の何物でもありません。以上のように、現在の創価学会はあらゆる面で、「折伏した人は信徒として各寺院に所属させること」との原則遵守を破棄した背信集団であることを、深く認識すべきであります。


(二) 
次に、三原則の第二「当山の教義を守ること」について述ぺることにいたします。


 池田氏の本尊観・妙法観が、御本仏大聖人の已証から外れた法偏重の外道義であり、まさに本宗の根本義たる仏宝・法宝の意義内容を、我見をもって改変する大謗法の邪義であることは、本宗能化より学会古参幹部に対して出した、平成3年7月31日付書面、及び9月6日付書面で指摘しているところであります。また、宗祖大聖人の究極の重大事たる戒壇の義について、池田氏が浅見をもって聖意を汚す発言をいたしましたが、その誤りに対しても、書面等をもって既に糺しております。本来ならば池田氏並びに創価学会は、これらの指摘に対して、その誤りを率直に認め、公式に懺悔して改め、ただちに会内に徹底すべきであります。しかし創価学会には、現在に至るまで、一向にその兆しがありません。宗門としては、もはや創価学会には、池田氏の大謗法を自浄する能力が、全くないと受け止めるものであります。


 次に、本宗の僧俗の関係は、先に述べたごとく、師匠と弟子という筋目の上から、僧俗の相違が存するのであります。すなわち、本宗信徒は、血脈付法の法主に対しては当然のことながら、所属寺院の住職・主管を血脈への手続の師匠として、師弟相対の信心修行に励むとき、はじめて大聖人以来の血脈が通い、僧侶も信徒もともに御本尊の法体に冥合し、妙法当体蓮華の一仏となるのであります。このように、僧俗は、信心成就の当体当相においては、僧俗が一体平等となりますが、そこに至るまでの信心化儀という現実面では、必ず師弟の筋目の相違が存するのであります。創価学会でも、『特別学習会テキスト』において、

「私達は日蓮正宗の信徒であることの意識を明確にし、僧侶に対しても礼節を重んじ、信徒としての姿勢を正すなかに僧俗和合の道を進めてまいりたいと思います。」

と、僧俗の筋目を正しく述べております。ところが、創価学会から宗務院に宛てられた、平成三3年1月1日付書面以来、創価学会では、本宗本来の意義から外れた僧俗平等論なるものが、盛んに唱えられております。特に、『阿仏房御書』等の信心成就に約して示された御書や、日有上人の『化儀抄』第一条の本意を曲解して、

「僧侶と信徒との関係にあっては、まずなによりも、信心のうえでは僧俗平等であることが第一義であると思います。その上で僧侶と信徒の本分及び役割を生かした相互の尊重・和合があるのではないでしょうか。」(平成3年1月1日付「お尋ねに対する回答」)

「私たちは、これまで『信心の血脈」においては僧も俗も平等であるが、その上で僧俗のそれぞれ主たる役割の相違があるのみであると信じて、広宣流布に邁進してきました。」(平成3年1月9日付青年学術者会議有志「質問書」)

「法の上では、僧も俗もともに同じ人間であり、全く平等なのである。」(平成3年2月14日付『聖教新聞』・佐久間昇氏「化儀抄を拝して」)

「徹底した平等主義こそ仏法の本義」(平成3年10月16日付『創価新報』) 」

等と述べ、またこのような已義に基づく僧俗平等観の立場から秋谷氏は、

「宗門は大聖人の仏法を奉じているとはいえ、権威で民衆を見下し、屈服させるような姿であります。」(『大白蓮華』平成3年6月号・巻頭言)」

と、いかにも宗門が権威主義然として、信徒蔑視をしているかのように喧伝しております。さらにいえば、平成3年10月17日における池田氏の、

「信徒の側は、僧侶の権威にひれ伏した時に、本来の信仰心は失われ、僧に仕え、依存するのみの形式的な信仰となり、真の功徳はなくなる。御本仏・日蓮大聖人、すなわち大御本尊に信伏随従し、仕えることは正しいが、その根本からはずれて、僧侶に仕えることは、仏法の本義に背く誤りであることを知らなければならない。」

との発言は、まさに三宝破壊につながる僧侶蔑視発言というべきであります。これらは、明らかに仏法本来の僧俗師弟のあり方を破壊する邪見であり、教義違背行為以外の何ものでもありません。


 倉価学会では、昭和52年路線で反省したはずの本宗法義にない師弟論、すなわち信徒間における師弟不二論を、再び展開しているのであります。すなわち、小説『人間革命』第十巻では、大聖人の仏法が師弟不二の仏法であることは、一切法即仏法のゆえに、人生の師弟間にも昇華され、そこに、「信仰の血脈」が偉大な脈動となって迸るなどと展開しているのであります。そして、人生の師弟間に、師弟の道と師不二の道とを立て分け、池田氏が、唯一戸田城聖二代会長と師弟不二であったと宣伝しているのであります。

また、平成3年10月16日の池田氏のスピーチにおいても、

「私は『先生の行くところ、どこまでも行く。先生とともに生き、先生の目的のために死のう』と決めた。(中略)また打つ手、打つ手が、師のリズムに合致しゆく自身を確信した。私が言っていること、やっていることは、すべて先生の心を受けての言動のつもりである。師弟の心は、どこまでも『不二』でなければ、仏法の生命はない。」

と述べており、さらに平成2年7月3日付、『聖教新聞』の「春夏秋冬」では、

「九界の因と仏界の果との相即は法華の極説。さらに仏法では、弟子を因に、師匠を果に配する。因果一体は、師弟では師弟不二。人生の師弟にも深義が。『出獄と入獄の日に師弟あり』−果たる師匠の出獄した7月3日はまた、因たる弟子の入獄の日。」

と、戸田一代会長を仏に配し、池田氏と師弟因果の一体不二を述べているのであります。これらは、已義をもって、本宗における唯授一人の血脈、及び僧俗師弟における師弟相対の信心化儀を、信徒間の師弟へとすり替えた大変な邪義であり、まさに師敵対の大謗法であって、明らかに「当山の教義を守ること」との原則に違背するものであります。


 本宗の寺院は、『日蓮正宗教師必携』で、

「寺院・教会は仏祖三宝の所有であり、住職・主管または檀信徒のものではない。」

と定めるごとく、下種三宝の所有であり、また三宝の内体義によって、寺院は、当職の法主の所有に帰するのであります。また、『日蓮正宗宗規』第180条に、

「管長の任命した住職または主管及ぴそれらの代務者に対しては、いかなる者もこれを拒否することができない。」

と定めるごとく、時の法主より任命された住職主管に対しては、だれ人たりといえども、それを拒否することはできないのであります。ところが、池田氏は、平成3年8月18日のスピーチで、昭和7年8月の『佛眼寺問題について』という、日淳上人の登座24年以前における、

「若し一度何事かを差し挾んで三者(管長・住職・檀徒)の意志が分裂してその所有権を論ずる場合は寺院の本質により信仰の母体たる檀徒の所有に帰すべきもの」

等の発言を、切り文的に悪用して、

「寺院をどうするかについては、本山や住職の意向よりも、信仰の母体である信徒の意志を基準に決めるべきである。(中略)大多数の信徒こそ寺院の本来の『所有権』(持ち主、主人)であり、住職も本山も、信徒から寺院を預かっている『管理者にすぎない』…。」

と述べているのであります。しかし、日浮上人の発言は、当時、仙台市佛眼寺が、不正な裁判のもとに京都要法寺派へと籍を移され、要法寺派の僧侶が住職として着任し、本宗の佐藤覚仁師が強制退去を余儀なくされたという、特殊な状況の上でのものであります。池田氏は、このような特殊な状況を顧みず、ただちに現在に当て嵌め、本宗の寺院が信徒の所有であると述べたのであります。このことは、佛眼寺問題の特殊性はもとより、本宗の寺院所有のあり方と僧俗師弟の筋目を、明らかに無視した本末転倒の邪義と断ずるものであります。


 現在、創価学会では、『聖教新聞』『創価新報』等の機関紙において、虚偽や捏造、事実の歪曲等により、宗門僧侶に対して悪口中傷し、社会的信用を大きく失墜させております。これら多くの誹謗行為は、まさに『普賢菩薩勧発品』に説かれるところの、

「若し復是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん」

との御文に該当するものであります。あまつさえ法主に対するさまざまな非難中傷は、本宗の命脈である唯授一人の血脈の尊厳を侵すものであり、本宗信徒にとって、あるべからざる大謗法行為であります。


 本宗においては、師弟相対の信心化儀を基本とする化儀即法体の法門が、儀式法要を含む一切の化儀の要諦であります。また、その裁定権は、先に述べたごとく血脈付法の法主一人に具わるところですから、一般の僧俗が勝手に化儀を変更することは、決して許されません。まして本宗信徒であるならば、宗門の定める化儀に従うのが当然であります。この点、昭和五十二年路線の反省として、昭和53年の「一一・七」で、北条理事長が、

「今、このことを総括するに、問題を起こした背景に、宗門の伝統、法義解釈、化儀等に対する配慮の欠如があったことを率直に認めなければなりません。」

「寺院行事を尊重する意味から、(中略)春秋彼岸会、孟蘭盆会の学会としての開催は、学会本部ならびに各県中心会館では行う場合はありますが、地方では、いっさい行わないようにいたします。」

等と率直に反省し、寺院の儀式法要を重視していくことを述べたのであります。ところが現在、創価学会では、本宗の年中行事や冠婚葬祭などの儀式法要等の化儀を、已義を構えて独自に執行したり、不要として等閑にし、本宗伝統の化儀を破壊しているのであります。特に葬儀については、宗務院として、去る10月21日付で通告文を送付いたしましたが、創価学会より11月2日付をもって、本宗の信条に背反する、信徒としてあるまじ罵詈讒謗の通告をしてきました。このことは、創価学会がもはや本宗の血脈仏法に基づく伝統化儀に従えない体質に変質したことを証明するものであります。また、塔婆や戒名などは己義によって不要の化儀としています。これらは、全て本宗の伝統法義を蔑如するものであり「当山の教義を守ること」との原則を、明らかに破棄する行為であります。


 平成3年5月15日付『創価新報』の「宗門問題の本質はここだ!」という欄に、創価学会副学生部長の高岡輝信氏による、「冷酷」と題する一文が掲載されました。その内容たや、江戸時代に起きた堅樹派と称する異流義を取り上げて、これを正当化するという、ひどものであります。堅樹派は、完器講とも称しますが、その派祖である堅樹日好は、もと日朗門下の人で、第35世日穏上人の時に本宗に帰伏したものの、妙法の題目に四箇の格言を加えて唱える新義を提唱し、また戒壇の大御本尊と血脈付法の法主を否定するに至った邪師であます。

本宗非教師から、高岡氏の邪説に対する反ぱく文が出されましたが、高岡氏においても、また創価学会においても、未だに反省並びに訂正を表明しておりません。このことは、創価学会全体として、異流義たる堅樹派を容認している証左であり、まさに「当山の教義を守ること」の原則に遠背するものであります。




(三)

三原則の第三は、「三宝(仏法僧)を守ること」であります。

本宗の三宝は、先に述べたごとく、仏宝は宗祖日蓮大聖人、法宝は本門戒壇の大御本尊、僧宝は日興上人を随一とし歴代上人の全てにわたりますが、また内体・外相の上から、正しく拝さなければなりません。創価学会では、現在でも、仏宝・法宝の名目は、一往正しく拝しております。また僧も、かつては正しく拝しておりました。すなわち、池田氏は、昭和53年2月25日、

「ここで『僧宝』とは、今日においては日興上人よりの唯授一人の法脈を受けられた御主上人猊下であられる。また、御僧侶は全部猊下の弟子である。法類である。ゆえに、いかなる理由があるにせよ、我々は御僧侶を大切にしなければならない。」

と述べ、また昭和53年の「六・三〇」では、この発言を受けて、

「『僧宝』とは正宗においては第二祖日興上人のことであり、また第三代会長も発言しているごとく、唯授一人の血脈をうけられた御法主上人猊下であらせられます。」

と回答し、さらに『大白蓮華』の昭和54年11月号、及び昭和58年10月号では、

「正法を正しく継承伝持あそばされた血脈付法の日興上人を随一として、歴代の御法主上人、広くは、御法主上人の法類である御僧侶の方々が僧宝なのです。」

と述べているのであります。これらは、全て本宗伝統の僧宝義を述べたものであります。また、池田氏は、唯授一人の血脈付法の法主についても、

「本宗における厳粛なる法水瀉瓶唯授一人の血脈は、法灯連綿と、代々の御法主上人に受け継がれて、今日に至っております。あくまでも、御本仏は、日蓮大聖人様であらせられ、唯我与我の御法主上人のご内証を、大聖人と拝すべきなのであります。」(昭和54年5月3日)

「御法主上人猊下に随順しない人は、どのような理由があるにしても、もはや正宗の僧俗ではない。これほど根本的な誤りはないからである。」(昭和56年11月24日)

「日蓮正宗における根本は、唯授一人の血脈である。その血脈相承の御法主上人に随順しゆくことこそ、僧俗の正しいあり方である。」(昭和57年1月24日)

「日蓮大聖人の仏法の教義は、あくまでも御法主上人猊下の御指南こそ根本なのである。」(昭和57年4月17日)

「日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、代々の御法主上人が、唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた。」(昭和57年7月24日)

と、下種三宝の内体の上から、唯授一人の血脈を本宗信仰の根本とし、法主の指南に信伏随従すべきことを述べております。これらは、本宗伝統の血脈観であります。このことは、また秋谷会長も、平成2年12月23日付書面で、

「もとより日蓮正宗にあって、金口嫡々唯授一人の血脈相承が宗旨の根本であることは論を待ちません。(中略)私どもは、日蓮正宗にとって根本たる法主の血脈を、状況次第でいとも簡単に否定し、あまつさえ恐れ多くも猊下を裁判で訴えた正信会の行動は、信心の狂いの極みであり、悪鬼入其身の所業以外の何ものでもなく、人間としても最も糾弾されてしかるべきであると思っております。」

と述べているのであります。ところが、現在その池田氏が、本宗の僧宝について、

「私どもは、どこまでも大聖人とご一緒である。『僧宝』である日興上人の仰せ通り、御本尊と御書を根本に、大聖人直結の信心を貫いているのである。」(平成3年10月10日)

と述べ、秋谷会長も同様に、

「仏法の基本である『三宝』は、歴代上人が御指南されているように、『法宝』は御本尊、『仏宝』は日蓮大聖人、『僧宝』は日興上人であり、三宝が相即する御本尊を拝し奉るのが、私たちの信心である。」(平成3年9月29日)

「『僧宝』とは大聖人の正法を正しく継承された日興上人であられる。」(平成3年10月27日)

「これでは、法主が『僧宝』の日興上人を越えるばかりか、大聖人をも越えた存在になるではないか。こんな『僧宝』と『仏宝』の破壊はない。」(平成3年10月27日)

等と述べ、僧宝として日興上人一人を挙げ、日目上人以下の歴代上人は除外しているのであります。これらは、明らかに唯授一人の血脈を蔑ろにする師敵対の大謗法であるとともに、本宗伝統の三宝義を改変する邪義であり、従来創価学会で述べてきた僧宝観とも異なる、自語相違の謬見であります。まして池田氏の「大聖人直結」との発言は、本宗三宝の次第を超えた己義であり、まさに三宝破壊の大謗法であります。しかも秋谷会長は、以前述べていたことに反し、

「元来、日蓮正宗には大御本尊と並べた“法主根本主義”等は全くなかった。(中略)つまり人法一箇の御本尊を信仰し、大聖人に帰伏していくのが私どもの信心である。それを、法主への信伏随従にすりかえるのは、大聖人の御指南に反するものであり、三宝破壊の邪義であることは、だれがみても明らかである。」(平成3年9月29日)

「法主への“盲信”の強要は、時代錯誤もはなはだしく、世界が渇望する“民主の時代”には全く通用しない。宗門の体質は、もはや全世界に開かれた大聖人の仏法の精神から大きくかけ離れている。」(平成3年10月1日)

「大聖人以外の『人』を信心の根本とする行き方は、大聖人の仏法にはない。あくまでも人法一箇の本門戒壇の大御本尊が根本なのである。三大秘法の大御本尊に三宝もすぺて具足しているというのが根本の法理である。したがって、朝夕御本尊を拝する私どもは、常に深く三宝を敬っているのである。」(平成3年10月10日)

等と、法主への信伏随従が盲信であると決め付け、また本宗の唯授一人の血脈が民主主義の現代に通用しないと述べております。さらに、平成3年10月2日付『創価新報』では、「神話だった法主への信伏随従」との見出しを付けて、

「法主への信伏随従なるものが、所詮は、信徒に隷属を強いるために後世につくり上げられた『神話』にすぎないものであることがうかがい知れよう。」

というなどは、およそ本宗の信徒団体として考えられない言行であり、不変であるべき法義を、その時その時の、自分たちの都合に合わせて、くるくると変える己義であります。あまつさえ、宗門を「法主根本主義」「法主絶対主義」「法主本仏論」「御書よりも法主の指南が全て」などと決め付けて誹謗するなどは、下種三宝の内体・外相の意義、並びに唯授一人の法体血脈の深義をもって善導する宗門の言辞の真意が、創価学会に全く理解できていない証拠であると同時に、本宗信仰の根幹である下種三宝義を破壊し、唯授一人の法体血脈に背信する大謗法罪なのであります。したがって、これは三原則中の「仏法僧の三宝を守ること」、及び「当山の教義を守ること」との二原則を、完全に破棄するものであります。





第四 創価学会では、かつて言論出版妨害間題や選挙時の替え玉投票事件、また共産党宮本委員長宅電話盗聴事件『月刊ペン』事件等、反社会的な行動やスキャンダルなどで、社会から幾多の厳しい指弾を浴びましたが、近年に至っても、なお会員による身代金六億円を要求した本宗住職誘拐事件、会員である公明党議員たちによるリクルート事件や砂利運搬船汚職等の数々の贈収賄事件、一億七千万円入り金庫投棄事件ルノワールの絵画取引にかかる疑惑、墓地造成にかかる脱税事件や株売買にかかる損失補てん疑惑等、巨額の不正疑惑事件が頻発しております。

創価学会では、これらの疑惑事件等の発覚によって、本宗の信徒団体のあり方から著しくかけ離れた醜い姿を現わすとともに、このような金銭問題にまつわる創価学会の実態が、社会からその公益法人としての資質や責任を、厳しく問われる結果を招いております。同時にこれら創価学会が関与した諸事件は、そのたびごとに、本宗七百年の清浄な宗風に泥を塗り、また本宗の社会的信用に大きく傷を付け、正法の広布進展に著しい妨げとなっているのであります。




第五 以上、創価学会は現在、日蓮正宗の仏法の本義と、宗教法人設立時の三原則と、昭和五十二年路線への反省・誓約に、ことごとく違背しているのであります。あまつさえ、昨年11月16日の第三十五回本部幹部会における池田氏の、

「五十周年、敗北の最中だ。裏切られたたかれ、私は会長を辞めさせられ、ね。もう宗門から散々やられ、正信会から罵鹿にされ、そいでその上北条さんが『もう、お先まっ暗ですね。』『何を言うか、六十周年を見ろ。もう絢欄たる最高の実が、六十周年が来るから元気だせ。』会長だから、これがよ。私は名誉会長だ。『そうでしょうか。」馬鹿か−。」

との発言は、「恩師の二十三回忌に思う」等で見せた昭和五十二年路線への真摯な反省と、再び宗教法人設立時の三原則を遵守するとの堅い誓いが、まさに宗門を欺く偽りの言辞であったことを露呈しているのであります。

創価学会二代会長戸田城聖氏は、昭和31年8月10日の岡山市妙霑寺の落慶入仏式の折に、第六十五世日淳上人に対したてまつり、

「将来、もし学会が大きくなって、宗門に圧力をかけたり、あるいは内政千渉をするようなことがあったら、いつでも解散をお命じください。」

と申し上げた旨を聞き及んでいますが、現在の創価学会は、もはや日蓮正宗を外護する信徒団体とはいえません。信仰の根幹である日蓮正宗の三宝を破壊し、宗開両祖以来の伝統法義を改変するとともに、宗門に圧力をかけ内政に干渉し敵対攻撃するという、大誇法団体となり下がってしまったのであります。よって宗門としては、このように大謗法団体と化した創価学会に対し、日蓮正宗の信徒団体としての創価学会を自主的に解散するよう、ここに勧告するものであります。さらに、このような創価学会の指導を受け入れ、同調しているSGI組織の全てに対しても、併せて解散するよう勧告いたします。



平成3年11月7日


日蓮正宗管長 阿部日顕(印)
日蓮正宗総監 藤本日潤(印)


創価学会名誉会長・SGI会長   池田大作殿
創価学会会長・SGI理事長    秋谷栄之助殿
創価学会代表役員・創価学会理事長 森田一哉殿