追加資料 H6・8・21
第一回 講頭・副講頭指導会から 創価学会問題の総括 総監・藤本日潤


 今回、全国講頭・副講頭指導会の開催に当たり、創価学会問題について概括的に御報告申し上げることになりました。もちろん、皆さん既に御承知のこととは存じますが、おさらいのつもりでお聞き取りいただいて、さらに御理解を深め、今後の折伏・再折伏に少しでも役立たせていただければ、この上ない幸甚と存ずる次第であります。

 御案内のとおり、日蓮正宗という宗旨は宗祖日蓮大聖人が、7百年前、末法の御本仏として三大秘法の御本尊を御建立あそばされ、もって一切衆生救済の根本を確立せられ、御一期の御化導を全(まっと)うあそばされました。しかして、大聖人は御所持の仏法の一切を、本門戒壇の大御本尊と共に二祖日興上人に御付嘱あそばされたのであります。

 日興上人は第二代として身延に在住あそばされましたが、地頭波木井実長と民部日向との謗法により、意を決して身延を離山し、富士山を本門戒壇建立の地と定めて南条時光殿の外護を得て大石寺を建立せられたのであります。しかして日目上人を第三祖として唯授一人血脈相承あそばされて、未来広布への基礎を盤石に築き給うたのであります。そして、日目上人より日道上人へ、日道上人より日行上人へと順次に血脈相承して第67世日顕上人の現代に及んでいるのであります。

 大聖人が、

此の経は相伝に有らざれば知り難し。(平成新編御書92ページ)

と仰せられ、二祖日興上人が、

このほうもんは、しでしをたゞしてほとけになり候。しでしだにもちがい候へば、おなじほくゑをたもちまいらせて候へども、むげんぢごくにおち候也。(歴全1−183ページ)

とお示しのように、大聖人様の仏法は、宗旨の根本たる本門戒壇の大御本尊を信仰の主体とし、師弟相対、就中(なかんずく)唯授一人血脈相承を御所持の御法主上人の御指南を根幹として信行に励むところにこそ成仏得道の要因があるのであり、このところを外れては成仏はおろか、無間地獄に堕ちるのである、というのが大聖人ならびに二祖日興上人の御指南であり、これが、日蓮正宗における過去七百年にわたる伝統の信心であり、未来においても、いかに世の中が変わろうと、また、どこに何が起ころうと、永久に変わらないところの基本的な信心の要諦(ようてい)であります。

 創価学会においても、つい近年までは、この宗門の基本的な信心の在り方に従ってきたのであり、かつて正信会が宗門方針に背(そむ)き、ついには血脈否定にまで及んだ時、池田大作は、

正宗における根本は、唯授一人の血脈である。血脈相承の御法主上人に随順しゆくことこそ、正しい僧俗の在り方である。この一点を誤れば、すべての根本が狂ってくるのである。創価学会は、御歴代の御法主上人に随順してきたがゆえに、永遠に栄えゆくことは間違いないと確信する。(昭和57年1月25日付聖教新聞)

と言い、

日蓮宗身延派にあっても、南無妙法蓮華経の題目を唱えている。御書もある。経文も、法華経の方便品、寿量品等を読経している。また、もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認(したた)められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、我々と同じである。外見からみれば我々と同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水写瓶(しゃびょう)の『血脈』がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである。すなわち『信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり』なのである。(昭和61年5月13日付聖教新聞)

と言っていたのであります。それが今や池田創価学会は、その批判した正信会と全く同じことを言い、同じことをやっているのであります。

 創価学会は、初め初代会長牧口常三郎氏によって、昭和5年創価教育学会として創立せられ、戦後、昭和20年、のちの二代会長戸田城聖氏が、創価学会として再建、日蓮正宗信徒団体としての活動を開始いたしました。昭和26年5月、戸田氏が二代会長に就任して以来、急速に折伏が進み、その年の12月、創価学会は、宗教法人の設立を宗門に願い出ました。宗門の中には、創価学会が宗教法人となることについては、将来を危惧(きぐ)して反対する声もありましたが、結局、三つの条件を付して許すことになりました。

 すなわち、

以上の三条件遵守(じゅんしゅ)を約束して、法人設立を許したのであります。故に、はっきりしていることは、創価学会が宗教法人として存立するためには、あくまでもこの三条件の遵守が、その前提となっているということであります。しかるに今、創価学会は、いかにも、もともと日蓮正宗とは無関係に宗教法人となっていたかのような言い方をして、会員の目をごまかしているのであります。

 昭和42年、創価学会の発願によって建立の工を起こした正本堂は、昭和47年10月の落慶を目指して工事が進捗(しんちょく)しておりましたが、昭和45年ごろに至って、宗門内法華講の一講中である妙信講から、この正本堂の意義について糺(ただ)し訴える旨の文書が、宗門に提出されました。

 妙信講というのは、今、顕正会と名称を変えておりますが、初め東京妙光寺の法華講として発足し、次いで法道院へ移って活動しておりましたが、トラブルを起こして、本山の計らいによって墨田区妙縁寺へ移籍となり、浅井甚兵衛、昭衛親子が中心となって活動していたのでありますが、増上慢で他との協調性がなく、法華講連合会と屡々(るる)トラブルを起こしておりました。この妙信講からの正本堂の意義についてのクレームにより、正本堂が大聖人様御遺命の『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇であるか否かについて、宗門・創価学会と妙信講との間で、幾度となく激しい議論が行われ、また昭和47年4月、正本堂の意義についての訓諭が発布されるや、これについて異議を唱えて学会に公場対決を申し入れたり、宗門からの通告に対しては、ついに「流血の惨」云々という脅迫的文書をもって応じ、猊下に対しても同様の趣旨をもって文書を突き付けてきたのであります。

 ついには、はなはだもって恐懼(きょうく)の至りながら日達上人が、決死の覚悟で浅井親子と対面するという場面もあったのでありますが、昭和47年9月、正本堂落慶の直前にようやく決着がついて、47年10月12日、無事、落慶法要が執り行われたのであります。

 ところで妙信講は、この正本堂問題の時から「御遺命の戒壇は国立戒壇でなければならない」と主張しておりましたが、宗門は、国立戒壇という名称が、宗門古来からあったわけではなくて、明治以降に国柱会が用い始めたのを、そのまま宗門においても用いていたものであり、現在の政教分離の憲法にも合わないということから、昭和45年、宗門の公式決定として「今後は国立戒壇という名称を使用しない」ことを定め、宗内に公表いたしました。しかし、妙信講は、その後も、この公式決定に従わず、宗門の度重なる誡告にも従わなかったため、ついに昭和49年8月、妙信講を解散処分に付したのであります。妙信講は、この処分にも従わず、ために浅井親子等の中心者は信徒除名となり、これに連なる者も信徒の資格を喪失するに至りました。その後、妙信講問題は、妙縁寺を舞台とする裁判絡みとなりましたが、宗教教義にかかわる問題ということで判決を待たず、和解による終結を見て今日に及んでいる、という次第であります。

 創価学会は、昭和47年の正本堂落慶以後、もともとあった池田の増上慢がますます増大し、正本堂建立一周年法要の時には正本堂東廊下で日達上人を大衆の面前で罵倒(ばとう)するという無礼を犯し、昭和49年には、総本山の会計の調査に入ったり、また正本堂建立の賞与御本尊に、正本堂が御遺命の戒壇であることを証明する裏書きを日達上人に要求してくるなど、目に余る行為が重なり、これが昭和52年路線と言われる教義逸脱、謗法路線へとつながっていくのであります。

 あとで判ったことでありますが、この昭和49年ごろから、創価学会は、宗門支配か、またはそれがうまくいかなければ宗門から分離独立するという策謀をひそかに計画していたことが、いわゆる山崎・八尋報告書、北条報告書などの内部文書の暴露で明らかとなっているのであります。

 さて、昭和52年に至って池田自ら「仏教史観を語る」その他において、数々の教義逸脱の発言を行い、あるいは学会首脳をして逸脱せしめるなど、いわゆる52年路線といわれる重大な教義背反が行われました。

 例えば、「戸田会長の獄中の悟達が創価仏法の原点である」とか、「創価学会は、大聖人直結であり、血脈とか途中の人師論師は要らない」とか、あるいは『人間革命』は現代の御書である」とか、「寺院と会館は同じである」とか、「在家でも供養を受けられる」とか、「創価学会が僧宝である」などの指導や発言をして、教義の逸脱、血脈軽視、僧侶・寺院軽視を行い、また、学会に批判的な僧侶何名かを呼び出しては吊(つる)し上げを行うなどの不法行為にまで及んだのであります。このようなことがあって、日達上人はついに、法華講や僧侶の会合などにおいて、創価学会の僧宝論や師弟観の誤り、寺院軽視などについて破折する御説法をあそばされました。

 これに対して、その12月日向定善寺の法要の席で、池田は御寛恕願いの挨拶を行い、いったんは収束するかに見えたのでありますが、年が明けて昭和53年2月、本山において僧侶の時事懇談会が開かれ、日達上人が種々学会問題について御指南ののち、「学会と協調すべきか、手を切るべきかについて、宗内の意見を調査するように」との御指南があり、宗務院は、早速この調査に取りかかったのでありますが、このことを聞きつけた池田が急拠、日達上人にお目通りをして、「なんとか手を切るのだけはやめていただきたい」と懇願があり、日達上人は、学会が日蓮正宗信徒としての基本を徹底することを条件に、これを受け入れられました。

 そして、学会は二度と再び教義逸脱を犯さないことを約束した上で、「教学上の基本問題について」と題する逸脱是正の文書を発表いたしました。これが、いわゆる「六・三〇」と称されるものであります。学会はこの昭和53年6月30日の「教学上の基本問題」を会員に徹底することを約したのでありますが、実際は、徹底とは程遠い、ホンのお座なり程度の学習しか行わなかったことが、あとで判ってきております。

 学会は、このあとも、御本尊模刻問題が発覚して、日達上人が許可された一体を残して、勝手に模刻した他の七体を総本山に納めさせることで決着いたしました。

 また同年11月7日、学会は、総本山で代表幹部会を行い、その席で池田が52年路線の逸脱について謝罪を表明し、また辻副会長は、御本尊模刻についてもお詫びをいたしました。これがいわゆる「お詫び登山」と言われるものであります。しかし、こういう形だけの是正や謝罪だけでは納得できないということで、翌昭和54年3月に法華講連合会が池田大作の総講頭辞任を勧告いたしました。その結果、池田は、4月24日、まず創価学会の会長を辞任し、次いで4月26日、法華講総講頭を辞任いたしました。ここで、日達上人は、5月3日、創価大学体育館における、創価学会第40回本部総会に御臨席せられ、今後、創価学会が、日蓮正宗信徒団体としての基本を忠実に守り、宗門を外護することを前提として、僧俗和合協調路線を進めることを御指南あそばされ、ここに52年路線問題は収束せられたのであります。しかして、日達上人は一切を終結して同年7月22日安祥として御遷化あそばされたのであります。

 日達上人より血脈相承をお承けあそばされた日顕上人は、即日、御登座あそばされ、日達上人の敷かれた僧俗和合協調路線を、そのまま踏襲し、推進あそばされたのであります。そして、10月8日、院達をもって、この路線を確認し、僧侶は学会批判をしないこと、学会は二度と同じ過ちを繰り返さないため、六・三〇、十一・七を宗内に徹底すること、という僧俗の進むべき方途を指し示されたのであります。

 以後、宗門・創価学会は、和合協調を旨として推移いたしましたが、昭和55年4月、池由は「恩師の二十三回忌に思う」と題する所感を聖教新聞に発表し、52年逸脱路線がすべて自分の指導の誤りによるものであるとして反省懺悔をするなど、恭順の姿勢を示していたのであります。

 ところが一方、宗門内部においては、創価学会を批判する若手僧侶グループが、日達上人時代より、学会を脱会して寺院の檀徒となった信徒を糾合して、まず昭和53年8月に総本山において第一回檀徒大会を開催し、その後54年1月に第二回大会を行い、日顕上人の御代となってからも、54年8月、55年1月に、三回、四回と継続開催しておりましたが、総本山において教師指導会が開かれた昭和55年7月4日、活動家僧侶が集まって、同じ日に「正信会」という組織を結成し、正信覚醒運動と称して、学会批判を強める動きを見せていたのでありますが、この動きを盛り上げる第五回檀徒大会の計画を聞いた宗務院は、再三にわたって正信会に対し、院達を無視して学会批判をするような檀徒大会は中止するよう説得をしたのでありますが、正信会は、一切の誡告、警告をも無視して8月24日、東京武道館において檀徒大会を強行開催し、盛んに学会批判を行いました。

 宗門はやむをえず、この檀徒大会に出席した僧侶に対し、その大会へのかかわり方に応じて、数段階に分けての宗制宗規による処分を行いました。

 正信会はこの処分を不服として裁判を起こし、その過程で、55年12月、週刊誌に掲載された元学会の山崎正友弁護士の手記を取り上げて、日顕上人に対して血脈相承に疑問ありとして質問状を提出し、さらに、これについての回答がなかったから血脈相承がなかったものと断定し、法主・管長でない者が行った処分は無効であるとして、処分に従わず、かえって猊下に対し、管長の地位不存在の確認を求めるという裁判を起こしました。すなわち彼等はついに血脈否定という暴挙に出たのであります。

 宗門はこれらの経過を踏まえ、必要な手続きを経て最終的には全員擯斥処分に付しました。しかし、裁判はその後も継続しておりましたところ、管長裁判については、昨年9月、最高裁判所において彼等の請求が斥けられ、宗門が全面勝利の確定判決が出たほか、彼等が住職代表役員としてその地位確認を求める訴訟、宗門側から彼等が不法に占拠している寺院の明け渡しを求める訴訟につきましては、高裁・最高裁の段階で、宗教問題であるが故に裁判所の介入すべきところでないという理由のもとに、双方却下という判決が出つつあります。まだ全寺院が終わってはおりませんが、この趨勢(すうせい)は変わらないものと思われます。

 この正信会による不法占拠寺院は、法的には不法占拠者が死亡、その他の事由で欠けた時点で宗門に返還されることになっており、今後、そういう形でこの問題は徐々に解決されていくことになると思うのであります。

 さて、52年路線収束後の創価学会は、日達上人の協調路線を踏襲せられた日顕上人によって擁護せられる形で推移いたしましたが、それは全く池田創価学会の反省懺悔を心からのものと信頼されたからにほかならないのであります。信頼されたからこそ昭和59年1月2日、池田を再び総講頭に任じられたのであります。

 こうして平成2年、総本山開創七百年の年を迎えたのでありますが、この年の夏ごろから創価学会は、宗門攻撃を始めました。すなわち平成2年7月、宗門・学会との連絡会議の席上、先に猊下が池田に対して、登山者の丑寅勤行参加の件、立川寺院の建設の遅れの件などで尋ねられたことについて、「外国から疲れてお帰りになったばかりの先生に対して出す話ではない」(趣意)として、猊下のお言葉を批判し、その御発言を封じるという暴挙に出、また宗門僧侶に対する非難中傷を一方的に行い、宗門側の発言は一切聞かずに席を立つという無礼極まりない行動に出たのであります。

 また、このころから、池田の猊下誹謗、僧侶批判の発言が、あちらこちらから聞こえてきておりましたが、いずれも噂であり、証拠もないことであるからということで、様子をみる形で経過し、10月には総本山開創七百年の大法要も無事奉修せられました。

 ところが、12月になって、ある方面から、11月16日創価学会本部幹部会における池田の発言内容にひどいものがあるとして、そのテープが本山に寄せられてきました。その中で、「猊下というものは、信徒の幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません」という、猊下を軽視・蔑視し、批判する発言や、宗門・僧侶を喪視・批判する数々の発言がありましたので、その真意を糺すため同年12月、宗門より創価学会に対して、いわゆる『お尋ね』文書を差し出しました。ところがこれに対し、創価学会は、『お尋ね』に答えず、逆に『お伺い』なる文書をもって、九項目にわたる事実無根の捏造(ねつぞう)による猊下批判・宗門批判の形で応じてきたのであります。

 宗門は、池田創価学会には、もはや信心を本とした宗門に対する誠意ある対応は期待できないと判断し、12月27日、臨時宗会を開催して、宗規の一部を改正し、総講頭・大講頭の資格を失わしめる措置をとりました。

 すると創価学会は直ちに組織を使って、総本山をはじめ全国の寺院に、嫌がらせや脅迫まがいの電話をかけさせ、正月に入って末寺の新年勤行会を妨害するなど、組織的な嫌がらせ・妨害行為を開始したのであります。

 その後、これらの文書や、総講頭失格をめぐる文書のやりとりが続くなか、創価学会は1月4日から聖教新開や創価新報等で宗門批判キャンペーンを大々的に開始し、また僧侶を排除して盂蘭盆会や彼岸会などの法要を会館で独自に執行したり、僧侶なしの葬儀を行うなど、学会員を寺院・僧侶から離反させる活動を進めました。

 こういう状況を踏まえ、宗門は、創価学会が既に宗教法人取得時の三原則、

を踏みにじり、日蓮正宗信徒団体としての資格を喪失して三宝破壊の謗法団体と堕してしまったと判断せざるをえず、平成3年11月7日、創価学会に対して「解散勧告書」を送達いたしました。

 しかし創価学会は、かえってこれに反発して、猊下・宗門に対して誹謗中傷を重ねてまいりましたので、宗門はこれを放置するわけにはいかず、万やむをえず11月28日、創価学会に対して「破門通告書」を送達いたしました。学会では、この破門通告に対し、かえってうるさい宗門と無関係になり、自由になってセイセイしたような強がりを言っていたようでありますが、それにしては、その後も、以前にも増して執拗(しつよう)に猊下・宗門を誹謗攻撃し、また猊下の退座を要求する署名簿を集めたりしているのはなんでありましょうか。

 宗門は、この創価学会の破門によって、大謗法団体創価学会を宗門から永久追放に処したのであり、再び宗門と創価学会が、話し合ったり、和解して元どおりに復するということは絶対にありません。ただし個々の会員は、元々日蓮正宗信徒として、授戒をし、御本尊を下附した人々でありますから、最近発行の『ニセ本尊』を受けた者以外は信徒としての資格を認め、末寺の添書によって登山も許しているところであります。

 さて、池田は、その後も猊下を標的として、「極悪の法主」とか「大聖人利用の日顕宗の元祖」とか「堤婆達多の化身」などと、口を極めて誹謗悪口を繰り返し、また宗門のことを「日顕宗」とか「堤婆宗」とか言って中傷の限りを尽くしているのであります。宗門は、このような池田に対し、平成4年8月11日、所定の手続きを経て、信徒除名処分に付しました。

 一方、宗門内においても、平成4年1月、立川長栄寺工藤玄英、和歌山大照寺大橋正淳ら7人の僧侶が、「諌暁の書」なるものを猊下に提出して宗門を離脱するという暴挙に出、その後、昨年3月に至るまで、計17ヵ寺、43名の僧が宗門から離脱をいたしました。彼等が離脱に当たって表明する文書の中では、宗門改革がどうのこうのと、いかにももっともらしいことを並べ立てておりますが、実体は本宗の信仰を全く失った、僧侶の風上にも置けない輩ばかりであります。

 学会がこのような状況になって、身の置きどころがなくなってたまらずに出たというのが実体であろうと思います。宗門としてはむしろ、彼等が自ら出て行ってくれて、手間ひまかけずにお掃除ができたと喜んでいるくらいであります。ただし、出るならば自分自身だけでよいものを、お寺を道連れにし所属の信徒に大変な迷惑を及ぼしているということに対して、宗門は心を痛め、法的な手続きをもって奪還できるものは奪還すべく全力を挙げて取り組んでいるところであります。

 次に平成4年6月、アメリカのヒロエ・クロウなる者が起こした30年前のシアトルにおける御法主上人の破簾恥事件と称するものは、全く事実無根の捏造事件であり、今、アメリカと日本と両方で裁判が起こっておりますが、アメリカでクロウが起こしている裁判は、4つのうち2つは既に却下判決が出て、宗門側の勝利に帰しております。その判決の中で裁判官は、この裁判を起こしている本当の原告はクロウではなく、創価学会であると指摘し、その本質を見抜いて批判をしておりますが、日本における裁判にも大きく影響してくるものと考えております。

 また、写真偽造事件というのがありますが、これも創価学会が写真を偽造してまで御法主上人を陥れ、信徒の離反を画策したものであり、許すべからざる事件として、クロウ事件と共に宗門において法的手段をとって、池田および創価学会を追及しているところであります。

 さらにまた、嫌がらせを目的とした全国寺院の納骨堂、墓地の無許可経営を理由とする告発事件が70ヵ寺にも及んでおりますが、警察もよく実体を認識しており、これまでに処分未決定の数ヵ寺を除き、すべてが不起訴処分となっております。その他、遺骨の取り扱いに絡む事件や、埋葬に絡む事件なども訴訟沙汰となって継続しておりますが、いずれもその解決に向かって鋭意努力しているところであります。

 次に政治関係のほうを見るならば、本年に入って細川内閣の退陣、続く羽田内閣の崩壊によって、創価学会・公明党はようやく衰退の道をたどり始めたと見られますが、加えて最近「四月会」なるものが出来て、創価学会の社会的不正を暴き、また宗教法人としての適格性を問うなどの動きも活発となってきており、政治的・社会的にも創価学会・公明党の存在そのものに懸念を示す状況が現れてきつつあることは、まことに当然のことであるといえると思います。

 しかし、宗門としてはこうした政治や社会の情勢や動きはどうあれ、常に仏法の本義の上から折伏・再折伏に励むことこそ常道と心得、精進していかなければならないと思うのであります。

 去る7月24日、地涌六万名総登山による新たなる僧俗和合・広宣流布への大出陣式も大成功のうちに執り行われ、その中で御法主上人より新たな目標として、平成14年、宗旨建立七百五十年における法華講三十万総登山の御命題を賜りました。私共は踊躍歓喜、この新しい目標に向かってわき目もふらず僧俗一丸となってまっしぐらに前進してまいりたいと思いますが、いかがでしょうか。

 本日はこのあと、御法主上人猊下より甚深の御指南を賜りますので、どうかこの御指南を一人ひとりがしっかりと心肝に染めて、支部指導教師と心を一つにして支部の向上発展と地域広布に、いよいよ御精進いただきたいことを念願いたしまして私のお話とさせていただきます。ありがとうございました。