血脈については、法体の血脈と信心の血脈等がある。御書に「生死一大事血脈抄」がある。その冒頭に「夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり」と仰せである。これは別しては日蓮大聖人の御内証そのものであられる南無妙法蓮華経の法体が生死一大事血脈の究極であるとの意味である。この別しての法体の血脈相承は「身延相承書」に「血脈の次第日蓮日興」と仰せのごとく、二祖日興上人にすべて受け継がれ、以後、血脈付法唯授一人の御法主上人が伝持あそばされるところである。同抄に「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事血脈とは云うなり」の御文は「別して」の法体の血脈を大前提としての「総じて」の信心の血脈を仰せなのである。故に代々の御法主上人猊下の御内証によってお認めの御本尊を受持していくことが正しい信心の在り方であり、総じての生死一大事の信心の血脈となる。
故に、別しての法体の血脈相承と、総じての生死一大事の信心の血脈とは、その意味に違いがあることを確認しておきたい。
これに関連して、以下の各項目についても法義を誤らぬよう確認しておきたい。
我ら末弟は「日興遺誠置文」の「富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事」と仰せのごとく、御本仏日蓮大聖人の御弘通のままにということを強調する意味であった。その日蓮大聖人の仏法の正統の流れは第二組日興上人、第三祖日目上人、そして第六十六世の現御法主日達上人猊下の御内証に流れていることは、いうまでもない。
したがって、こうした唯授一人の血脈に触れずに論ずるような表現は決して使わないようにしたい。
もちろん、根本は御本尊であり、日蓮大聖人の大慈悲である。かつまた、700年間、正宗の正しき法義、化儀があったからであり、それが見事に開花したのである。戸田前会長が戦後いちはやく総本山に御奉公をしたことをもってしても、他意がないことは明らかであることを確認しておきたい。
日常の自行において、また化他行において、すべて日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、日蓮大聖人の魂をとどめられた御本尊を信心の根本対境とし、日蓮大聖人の仏法の広宣流布を実践の大目的としてきたのが、学会精神の骨髄である。
故に、学会には本来、会長本私論などということは絶対にない。
歴代会長を折伏仏教、広宣流布の指導者として尊敬し、またさまざまの指導をうけ、心からの信頼を寄せていることは、会員の自然の心情である。そのことを宣揚するあまり、あたかも大聖人と等しいがごとく受け止められる過大な言葉や表現を用いることは、厳重に慎しまなければならない。
ただし、不本意ながら、文は意を尽くさずで、要旨としてまとめたとき、文脈上、上行菩薩の再誕即御内証は久遠元初自受用報身如来の再誕・末法の御本仏日蓮大聖人に通じるかのような文体となってしまった場合もあった。したがって、今後こうした言葉づかいに十分注意していきたい。
また、我々が地涌の菩薩というのは、御書の「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや(中略)末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」との御文等によったのであり、この表現自体は許されると考えられる。
しかし、それは総じての立場であり、別しての日蓮大聖人に対するときは、地涌の菩薩の眷族というべきである。
したがって、信心修行に関する指導のなかで、あえて凡夫の我が身にふ師親三徳が具わることを強調する必要はない。我々凡夫が仏知見を開いたとしても、そのところに主師親が具わるということは行き過ぎである。
なお十数年前に、ある教学部講師が、筆記試験に際し、主師親三徳を現代生活のうえから説明するにあたって、会長と結びつけた表現のものがあったが、これら行き過ぎについて、今後十分注意したい。
こうした内容表現は、今後絶対に使用してはならない。「潮流」についても同じ考えである。
今日、これだけの在家集団ができあがったことは、仏法史上、画期的なことである。しかしこのことを強調したことが、出家仏教に対して在家仏教を立てるというような印象を与え、結果的に正宗の伝統及び御僧侶、寺院の軽視につながる論拠を与えたことはまことに遺憾である。そうした考えはもとよりない。
この講演の文中「葬式だけを行い我が身の研鑽もしない…」とあるのは、日蓮正宗僧侶を目して述べたものではなく、日蓮正宗以外の一般仏教界の多くの姿を語ったものである。したがって「既成の寺院の姿は、修行者の集まる場所でなく、道場でもない」というのも、正宗の寺院を言ったものではないことをご了承願いたい。しかし、そういう印象を与えたとすれば、まことに遺憾である。
正宗寺院においては、正法をもって授戒、葬式、法事、結婚式等の衆生済度のための大切な行事を行なっている。寺院もまた、広宣流布のための活動の重要な拠点であることを認識したい。学会のみが広宣流布の場として、寺院がそうでないかのような表現は明らかに言い過ぎである。
また広義においても、学会を「僧宝」という言い方はしてはならない。
また、仏法の展開に際しては、さまざまな現代の哲学、科学上の成果を踏まえなければならない。そのためには、多少の試行錯誤もあることは、当然、覚悟しなければならない。むしろ現代人にわかりやすいように、外護の責任のうえから、ある意味のクッションを置いた形が、後々のために望ましいと考えた。しかし「創価仏法」という表現自体は避けるようにしたい。