所感恩師のニ十三回忌に思う(抜粋)

昭和55年4月2日(聖教新聞)


広宣流布は御仏意のしからしむるところであり、これらの発展も、ひとえに大御本尊の御威光、歴代御法主上人の御威徳によるところであることは申すまでもありません。とともに、具体的には、社会のなかで、幾百万の同志が恩師の示された折伏・弘教の原理を実践に移し、御宗門の温かな支援と協力を得て、今日まで走りつづけてきたたまものであると信ずるのであります。この間、総本山への忠誠を尽くきれた恩師の大精神を継承し、会員の皆さまとともに、大客殿、正本堂の建立寄進、その他、二百四十一か寺の末寺の建立御供養をさせていただきましたことは、身にあまる光栄であり、大御本尊に、そして御法主上人に感謝し奉るものであります。

しかしながら、創価学会が急速に拡大し、膨大化した結果、とくに近年、現実社会への対応に目を向けるあまり、信徒として、もっとも大切な御宗門との間に、さまざまな不協和を生じてしまったことは、まことに残念なことであります。この間の問題については、当時、その責任の立場にあった私として、懺悔すべきは懺悔し、真情は真情ととして述べさせていただきたいと思うのであります。そのことが、私どもを慈しみくださった代々の御法主上人への御報恩であり、第六十七世日顕上人猊下への変らぬ赤誠の御奉公を、お誓い申し上げることになると信ずるのであります。

近年の宗門との問題が昭和47年、正本堂建立以降の、学会の広布第二章の進み方の基調と、そのうえで、私が展開した昭和52年の一連の指導に、発端の因があったことは事実であります。(中略)そのなかには、たしかに創価学会中心主義的な独善性もあり「学会が主、宗門が従」というような状況もありました。その結果、宗門の一部御僧侶に、この方向が、学会が独立を企図しているのではないかとの疑念を生ぜしめ、また会内にいわゆる「北條文書」などのような感情的な議論のあったことはまことに申し訳なく思っております。

もとより日蓮正宗総本山を離れて、創価学会は、永久にありえないのであります。信仰の根本は、本門戒壇の大御本尊であり、創価学会は、それを民衆に知らしめる折伏の団体であるからであります。私自身、この信仰の根本を一度たりともはずしたことは断じててないことを、大御本尊に誓って申し上げるものであります。ただ、私が、恩師の「創価学会の歴史と確信」の理念、方向性を実践した延長とはいえ、その深き意志も解せず、僧侶・寺院の役割を軽視し、その結果、御宗門に対し、主客転倒の風潮を生んだことは、我が身の信心未熟ゆえの慢と、大御本尊に心より懺悔申し上げるものであります。

次に、学会の教学は、御書を根本に、日寛上人の文段を釈として、信心のうえから、また実践のうえからの研さんを重ねてきた伝統に貫かれおります。戸田先生も御書の拝読にあたって「いずれも信の一字をもって、一切をつらぬいていることを、知らなくてはならない。かつまた、民衆救済の大確信と、燃ゆるがごとき大聖人の情熱が、その根底をなしていることを、読みとらなくては、また無意味になることを知らなくてはならない」と信心の教学、実践の教学であるとの原理を残されております。そのうえで、この深遠な仏法哲理を、宗教に無知で無理解な現代人の心にいかに説いていくかの展開があったのであります。私自身も、この展開については、幾度となく御指南を仰ぎ、日達上人からも、学会の教学は「活釈」としてお認(みと)めいただいてきたのであります。

しかし、この難解な仏法をだれにでも分かりやすく説くために、いつのまにか、そのなかに安易な適用が行われたり、元意から遊離して勝手な展開が行われる等、いわゆる催尊入卑(さいそんにゅうひ)のそしりを免がれない恐れかあることは確かであります。この点、御書の拡大解釈や逸脱については、すでに「六・三〇」(教学上の基本問題について)に指摘されております。ここで反省し、確認された事項は、今後とも絶対に踏み違えてはならない重要な規範であります。したがって、この徹底を怠ってはならないし、また、正宗の正法正義を正しく学んでいくことは、世々末代にわたる肝要と深く自覚しなければなりません。とともに、広宣流布のいっそうの推進のために、この正宗の法義、伝統を正しく踏まえたうえで、生活に、社会に、世界にと、確信をもって、教学を展開しゆくことは、私ども創価学会の使命であることを銘記して、進んでまいりたいのであります。

なおここで、いわゆる『会長本仏論』について、重ねて申し上げておきたい。申すまでもなく、末法の御本仏は日蓮大聖人ただお一人であらせられ、また、代々の御法主上人は、唯授一人、その遺使還告(けんしげんごう)のお立場であらせられると拝し、尊崇申し上げるものであります。私どもは、瞬時たりとも、この原点を忘れては信心の筋道を逮えることになってしまいます。しからば、創価学会の会長とは何か。牧口常三郎先生、戸田城聖先生は、広宣流布の仏法実践の指導者なのであります。いかなる団体であり、いかなる国であり、一つの組織が存在すれば、そこには為のずと、指導者が必要になるものでありましょう。創価学会の代々の会長ならびに幹部は、その意味からも、いわゆる仏法実践展開の指導者であるとともに、文化、平和、社会へ仏法を展開しゆく指導者であるといえるのであります。いうまでもありませんが、指導者と仏とはべつであり、そこには、いささかたりとも混同があってはなりません。

このことについては、かつて私も「創価学会には、教祖も、唯一至上の絶対者などもいない。私も会員諸氏も、共に広宣流布をめざして進む同志である。(中略)すなわち日蓮正宗創価学会員にとって、唯一至上、絶対の尊崇は三大秘法の御本尊であり、他はすべて、創価学会会長といえども、平等に末法の衆生であり、凡夫である」と述べたとおりであり、同じことは、今までも数多くの会合で話してまいまりした。したがって、代々の会長を神格化などしてはなりません。とくに私は若くして第三代会長の任に就きましたが、私などを絶対視してはならないし、かりそめにも、主師親の三徳とか、本門弘通の大導師といった表現を用いることは誤りであり、絶対にあってはならないことです。私自身、罪業深き、過ち多き身であることをよく知っております。「大荘巖懺悔」とあるごとく、日々、大御本尊に対し奉り強き信を持ち、三業(さんごう)を三徳に転じゆく修行であり、人生であらねばならないと肝に命じ、深く謗法罪障消滅を御祈念し奉る日々であります。

また、今日の種々の問題も、私の指導性の不徳のいたすところであり、多くの会員信徒 に多大なご迷惑をおかけし、ご心労をわずらわしたことについても、御本尊に深くお詫びの合掌をさせていただいている日々でもあります。ともあれ、学会は絶対尊崇の本源たる本門下種人法一筒の御本尊、宗祖大聖人に対し奉る信仰を根本として、永遠に代々の御法主上人猊下を仏法の師と仰ぎ奉り、強き広宣流布の戦士たる誇りも高く、さらに、日蓮正宗の信徒として、いっそうの外護の任を全うしてまいる決意であります。