総本山登山の意義について


 はじめに

日蓮正宗総本山大石寺は、宗祖日蓮大聖人の出世の本懐、一切衆生の成仏の根源である本門戒壇の大御本尊のおわします、一閻浮提第一の霊場である。

私達は、この総本山大石寺に参詣することを「登山」と言いならわして、自身の成仏、家族の幸せ、社会の福祉、世界平和、広宣流布大願成就を御祈念してきたのである。



 一、 総本山大石寺は信仰の根本霊場

言うまでもなく、日蓮大聖人の仏法の基本は、本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目の三大秘法にある。私達の幸せも、世界平和も、すべてこの三大秘法を受持信行するところに成就するのである。三大秘法の根本は、本門の本尊、すなわち総本山の正本堂(※当時)に御安置されている弘安2年10月12日御顕示の、本門戒壇の大御本尊である。この大御本尊の御内拝を御法主上人にお許しいただいて、人御本尊にお目通りできることは、真に三大秘法を受持することに当たるのであって、今生(こんじょう)で人間と生まれた最高の幸せ、未来世にわたる大功徳の源となるのである。また、この大御本尊は、宗祖日蓮大聖人が『経王殿御返事』に、「日蓮がたましひ(魂)を、すみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ」(全集1124ページ)と仰せのように、日蓮大聖人の御命であり、御一身である。したがって、私達が、大石寺に登山して、御開扉を受けることは、日蓮大聖人にお目通り申し上げることである。

日蓮大聖人は『南条殿御返事』に、「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。されば日蓮が胸の間は、諸仏入定(にゅうじよう)の処なり。舌の上は転法輸の所、喉(のんど)は誕生の処、口中は正覚の砌なるべし。かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき。法妙なるが故に人(にん)貴し、人貴きが故に所(ところ)尊しと申すは是なり…中略…此の砌に望まん輩は無始の罪障忽(たちまち)に消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん」(同1578ページ)また、『御講聞書』に、「本有(ほんぬ)の霊山とは此の裟婆世界なり。中にも日本国なり。法華経の本国土妙・裟婆世界なり。本門寿量品の未曾有の大曼荼羅建立の在所なり」(同811ページ)等と仰せである。すなわち、多宝富士大日蓮華山大石寺は、現に日蓮大聖人のまします霊山浄土であり、私達の生命のふるさとなのである。「霊山に近づく烏は金色(こんじき)となる」と言われるように、総本山大石寺に参詣して、御法主上人のお許しのもとに、本門戒壇の大御本尊の御開扉をいただき、心から罪障消滅・信心倍増・一切無障礙の御祈念をするならば、総本山第26世日寛上人が『観心本尊抄文段』に、「この本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠(じんのん)の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」(文段集443ページ)と仰せのように、私達の過去世から現在に至る無量の罪業も、一切、皆、消滅し、現在・未来の所願ないし広宣流布の大願も成就するのである。



 二、 大石寺の事跡に学ぶ

その昔、日蓮大聖人の御在世に、佐渡在住の阿仏房は、当時、日蓮大聖人のお住まいになっておられた身延山まで、90歳という老体を顧みず、数度にわたって参詣をしたのである。また、日妙聖人は、女性の身でありながら、危険な道中をしのび、渇仰(かつごう)の思いをいだいて、佐渡におられた日蓮大聖人にお目通りを願ったのである。現在と異なり、交通機関は全くなく、一歩一歩、足を運び、山河を越えての登山であった。距離・時代を越えて、総本山大石寺への登山の基本精神は、これらの人々の「一心欲見仏不自惜身命」の信心行体に存する。この阿仏房や日妙聖人の登山の精神が、後世の檀越(だんのつ)に大きな影響を与えたことは言うまでもない。

総本山塔中・観行坊の能勢順道師が、先年、編纂出版された『諸記録』に、盛岡の感恩寺信徒であった阿部重吉氏の、安政2年の登山道中日記が収録されている。それには、「御大坊様江(へ)罷(まか)り上り御宝蔵外廻りくさ取りいたし、それより奥にわ(庭)くさ取、御きゃく(客)殿の前廻りはきそうじ」(同書5−252ページ)とある。往昔の人々は、年に数回の登山参詣など、なかなかできなかった。そのため、ひとたび登山参詣すると、数日、あるいは十数日、逗留(とうりゅう)滞在したのである。そして、阿部重吉氏のように、総本山の清掃、給仕等の奉仕を、進んで行ったのである。

また、徳川時代は、新寺建立の禁止や宗教論争が固く禁じられるとともに、檀家制度が導入されたので、信教の自由は、事実上、全くなかったのである。しかも、為政者の偏見によリ、本宗は御禁制の宗教のように扱われ、弾圧が加えられてきたのである。加賀・前田藩の金沢信徒も、そうした圧政のなかで、大聖人の仏法を学び、弘め、求道心を燃やしてきたのである。しかし、地元には寺院がなかったために、総本山への道中手形を出してもらえず、総本山への登山参詣は、全くおぼつかない状況であった。しかし、志のある者達は結束し、禁を犯して登山を決行したのである。喉(のど)の渇きは露を啜(すす)って癒し、夜は枯れ木を枕に枯れ葉に埋もれ、幾山河を越えて、総本山を目指したのである。大石寺の三門が見えたとき、皆、肩を抱き含い、涙を流して喜んだとのことである。

あるいは、前田家の参勤交代の途中、東海道の吉原宿に宿泊の折に、「抜け詣り」と称し、皆の寝静まった頃を見計らって夜陰に紛れて宿を抜け出し、大石寺へ向かって走り、早朝まで御宝蔵の前で唱題し、同輩の起き出す前には吉原宿に帰ったと伝えられている。さらに、陸奥の仙台法難によって、流島されていた覚林日如師は、仙台の信徒に宛てて「一、未登山輩は老少によらず随分取立候て、年々に御登山の願望成就はたさせ申すべき事。登山の面々より其の方の功徳広大に候」(富要9−334ページ)、「一、御本山え差上げ候風波の渡り幾日がかりもさ候へば、彼此物入り島へ渡り候金銭を以て、少しも余慶に役立たす候事。何人登山とても島へは渡海は無用に候。只、書通を以て申し入らるべく候」(同 335ページ)と教えているのである。この書状の意味について、日亨上人は、「登山せざる者を勧めて登山せしめよ、其の功徳は登山者に勝る。島に渡りて予(※日如師、流罪)を見舞ふ金銭を以て御登山の費用に補へ等の訓辞あり。誠に有難き志かな」(同 339ページ)と、覚林日如師の登山についての指導を讃えられている。

また、東京・妙光寺檀家の話に「米一升の請書(うけしょ)」というのがある。これは女の身として子供をおぶり、箱根の関所を越えて、一升の米を、正月の元旦、総本山へ御供養したというものである。第52世日霑上人は、この奇特な婦人に「米一升の請書」をお認(したた)めになられ、その信心にお応えになられたとのことである。宗門七百年の歴史には、数々のエピソードがある。現代に生きる私達は、ともかくも、こうした先人の、営々と積み重ねた登山の実践と求道心があったればこそ、今日の登山参詣があるということを、決して忘れてはならない。



 三、 創価学会で説いてきた登山の意義

先日まで創価学会で運営してきた登山会も、その精神は、本来、これら過去の人々の行動を受け継いできたところにあったと言える。したがって、創価学会では、総本山への登山について、「あたかも、大聖人様ご在世当時の阿仏房の精神をもって、登山の精神とすべきである。七百年以前に、佐渡ケ島より荒波を渡り、さらに野を越え山を越えて、身延の沢に再三、大聖人様をお訪ねし、心からお仕え申しあげた阿仏房の精神こそ、たとえ時代は隔つとも、わが学会の登山精神でなければならないと思う。」(大白蓮華・昭和38年10月号の巻頭言)、また、「われわれが登山して、大御本尊を拝することは、そのまま日蓮大聖人様にお目通りすることであり、偉大なる功徳を享受できることは言うまでもないのである。…中略…絶対の大御本尊にお目にかかる登山会であれば、学会の登山会こそ、行事の中の最大の行事として、他の一切の行事に優先して行なわれているのである。」(同)と指導していたのである。これらの指導内容から見れば、従来、創価学会で運営してきた総本山への登山会にも、まことに大きな意義があり、これによって信徒各位が積んできた功徳も、限りないものがある。

創価学会が、総本山への登山会とともに発展してきたことは、万人の認めるところである。折伏によって、入信はしたものの、世間からの「創価学会は新興宗教である」との非難に、いささか気後れしていた新入信者が、大石寺の三門の前に立ったとき、「ああ、これは新興宗教ではない、七百年の由緒正しい伝統ある宗教だ」と確信したことは、創価学会の会員自身が、皆、実感したことではないだろうか。また、御内拝を許されて御開扉を受け、大御本尊にお目通りした途端、なぜか涙がとまらなくなった、この瞬間、この宗教は絶対だという確信が湧いたという体験の実例も、数限りないのである。

さらにまた、池田名誉会長は、昭和45年9月30日に開かれた、第一回登山責任者総会の際、「次に、登山会の意義について申し上げたい。私どもにとって、信仰の根本の対象は、いうまでもなく本門戒壇の大御本尊である。その大御本尊にお目通りすることが、登山会の最も大事な目的であり、意義である。」(池田会長全集4、講演巻頭言編210)と前置きしたあと、「一つは、私ども一人一人の無始以来の深重の罪障を消滅し、現世安穏、後生善処の幸福をお願いすることにある。…中略…第二には、久遠元初の生命の故郷(ふるさと)に帰る。生命を本源的に洗い清めて新たなる生命力をいただくのである。…中略…第三は、私ども同志が等しく日蓮大聖人の門下であり、地涌の菩薩であるとの自覚をもち、そのうえに立った真の団結を築くことである。…中略…第四は、末法広宣流布への戦いの決意を、大御本尊にお誓い申し上げるのである。…中略…第五は、全人類の幸福と平和を祈願し、また、その理想に向かって前進を誓い合うのである。」(同)と、その意義を挙げていた。また、第二代会長・戸田城聖氏は、もっと端的に、「なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。」(戸田城聖先生講演集上112ページ)、と表現していたのである。このように、日蓮正宗の信徒として、総本山大石寺に登山参詣することは、信心修行の上で、まことに重要なことである。



 四、 登山会に対する創価学会員の現在の意識

しかるに、最近、創価学会員のなかに、総本山に参詣し大御本尊の御開扉を受けることが、日蓮大聖人の仏法にとって、たいして必要なことではない、というような意見を、公然と唱える人が出てきた。日蓮正宗の信仰者とは思えない、驚くべき事態である。もし、大事な総本山への登山参詣を、景勝地への物見遊山(ものみゆさん)と同価値のように大勢の前で言いふらし、また「一生に『一度だけ行けば』それでよい」などと発言する者がいるとすれば、その人は、今まで着々と積み重ねてきた日蓮正宗の仏法修行の功徳を、いっぺんに失ってしまうであろう。

先々に挙げた古人の登山参詣はもちろん、近世江戸期でさえも、確かな交通機関はなく、現在とは比較にならないほど道中の危険も多かったので、旅行に出るときには水盃を交わすような状態であった。また、信仰の自由もなかったと言ってよく、信仰に反対する国家権力、主君、親族等の目を逃れて、登山参詣したことも数々あった。したがって、一生のなかで、何度も大御本尊にお目通リすることは、ほとんど不可能であった。そこで、「最低でも一生に一度は総本山に登山し、御法主上人にお目通り申し上げ、大御本尊の御内拝を許していただきたい」というのが、日蓮正宗信徒の願いとなっていたのである。

これに対し、現在は、総本山に参詣をしたいと思えば、毎月一回の参詣でさえ、可能な状況である。人によっては、健康、勤務、経済状態等によって、一年に一度の参詣すらままならない人もおられるであろうが、総じて今は、自由な登山参詣ができる時代である。それにもかかわらず、『四条金吾殿御返事』の、「是(これ)より後はおぼろげならずば御渡りあるべからず。大事の御事候はば、御使にて承わり候べし」(全集1185ページ)、の御文を引いて、日蓮大聖人は余程のことがなければ、参詣する必要はないと仰せであるなどと、平気で言う者がいる。

この時の四条金吾殿は、謗法者である同輩の怨嫉を一身に受け、常に命をつけねらわれる状況にあったのである。つまり、殺人者に待ち伏せされる恐れが充分にあったのである。世界の歴史上、最も安全であると思われる現在の日本社会とは、全くその状況が異なるのは、誰にでも想像がつくことであろう。このような時代と状況の相違を覆い隠し、直ちに現在に引き当てて総本山への登山参詣をやめさせようとする人は、日蓮大聖人の仏法を信仰する者ではなく、まさに純真な人々の信仰を阻害する魔であり、成仏の敵である。



 五、 添書登山(非学会主催の登山)は果たして危険か

今日でも、気象や交通など、様々な状況によって、旅行中に大きな危険があると予想されれば、登山に無理をすべきでないことは言うまでもない。現に、創価学会の運営していた登山会中には、台風等の気象状態が悪いと予想されれば、神経質と思えるほど、すぐに登山を中止させていたのである。むろん、これについては非難されるべきではない。当然のことであるし、無事故につながることは有り難いことであったと考えるものである。

だからといって、今後、創価学会が登山の運営に携わらないことを嫉み、「大事故がある」とか「非常に危険なことがある」などと言って人々をおどし、添書登山によって大御本尊にお目通りしたいと願う本宗信徒の尊い信心を妨害することは、信仰上、大きな欺誑罪(ぎおうざい)をつくることになる、全国各地への旅行、さらにブームであると言われる海外旅行の危険に比較すれば、総本山に登山するのに、どれほどの危険が予想されると言うのであろうか。創価学会は、団体登山のことばかりを挙げて自賛しているが、ここ数年、純粋な団体登山の人数は段々に減少させ、個人・フリーの登山に移行させてきたことは周知の事実である。ことに今年(平成3年)4月から6月までは、創価学会が運営していたにも関わらず、団体登山の割合が、極めて低くなっていたのである。これは、別に大石寺内事部なり日蓮正宗宗務院の要望で、団体登山の人数を減らしたわけではない。信徒各位の希望だとする創価学会側の強い要請で、個人・フリー登山へ重点が移されてきたのである。

個人・フリーの登山と、今後の添書登山とを比較して、どの辺が特に危険になるのであろうか。変化など、あろうはずがないではないか。団体登山に関しても、従来、地方からバスを仕立てて、総本山に参詣していた人々は相当数に上がる。これらに比べて、個人の添書登山の危険度が、とみに高くなるわけではないのである。もし、異なっている点があるとすれば、総本山内に「創価班」がいなくなったことだけであろう。御存じないだろうが、創価班が、夏の暑さにつけ冬の寒さにつけ、寝食を忘れて任務を遂行している姿を見て、陰ながらではあるが、「御苦労さま」と頭を下げなかった僧侶・寺族はいなかった。しかるに、今年の御霊宝虫払の大法要中、創価班の某責任者の非常識極まりない行動やその後の『創価新報』における事実を曲げた大ウソの発言には、「これでも日蓮正宗の信徒か」「こんな考えの人間が総本山内を徘徊していたのか」とがっかりもし背筋に寒気が走ったのである。もちろん、このような人物は、池田思想に染まった、ごく一部の不心得者ではあろう。しかし、「城者として城を破るが如し」とも言うべき人達ならば、総本山内にいないほうが安心であり、また安全である。

このような総本山大石寺で、一体、何が危険なのだろうか。「事故があったら補償で大変だ」などと、余計な心配までしてくれているようであるが、大石寺内事部では、懸命に登山の信徒方の安全を考え、配慮の限りを尽くしている。しかし、また個人登山において、自己の安全は自分で守るのが原則でもあろう。心配をするくらいであれば、会員各位にどうすれば安全に登山ができるのか、心を込めて教えればよいのである。そうすれば、またそれが信心の功徳になるのである。自已の安全を守りながら、「祈リとして叶わざることなき」本門戒壇の大御本尊にお目通りをして過去一切の罪障消滅を願い、無上の大功徳を積むように勧めれば、登山する人も、また勧めた人も、ともに一生成仏の本懐を成就し、金剛不壊の幸せを得ることができるのである。

なお、学会では、第65世日淳上人のお言葉に「病気のときは」云々と仰せであると称して、「当然、無理をして登山する必要はありません」と言っているようである。従来、創価学会の団体登山で、病気のときは登山を避けさせていたのは、信徒各位がよく御存じのことである。同様に、今回の添書登山でも、内事部として「病気」のときは登山を避けるように指導している。だからといって、登山をさせないようにするための口実として、日淳上人のお言葉を利用するのは正しいことではない。創価学会の発展の大恩人である日淳上人も、さぞお怒りのことであろう。

これまで、創価学会員から、「組織でなかなか登山を許してもらえない」「幹部の言うことを聞く者だけが登山できる」「一年に一度も順番が回ってこない」「老人・子供は登山できない」などの不満が多くあったことは事実である。反対に、欠席者の代わりに急遽(きゅうきょ)登山した話や、地方によっては団体登山の人数を達成するのに苦労しているとの話を聞いたこともあるが、どちらかといえば、登山参詣ができないという不満のほうが多く聞こえてきたのである。しかし、このたびの改正の添書登山は、創価学会運営の登山会に比べて、希望する日時(現在のところ)に参詣できること、家族登山に制限がないことなど、多くのメリツトがあり、楽しくも厳粛な御開扉が受けられるのである。



 六、 総本山の観光化が学会登山会の発端?

本来、総本山の登山は第9世日有上人が『化儀抄』に、「末寺の坊主の状なからん者、在家・出家共に本寺に於いて許容なきなり」(日蓮正宗聖典985ページ)と仰せのように、末寺住職の、『状(添書)』を持参しなければ、仏法の筋目上、許されないのが原則である。ただ、第二次大戦後の国土荒廃のなかで、戸田城聖氏は日蓮正宗の仏法広布のため、創価学会復興に命を賭けて立ち上がった。その信心の姿を鑑(かんが)み、特に創価学会に限って、無添書のままの登山が許可されたのである。それが、本年6月までの創価学会の登山会である。

しかし、創価学会では、終戦後、大石寺の経済が逼迫(ひっぱく)していた当時、大石寺が観光寺院化しようと計画していたのを救ってやったと強調している。ここに言う「総本山を中心とする富士北部観光懇談会」は、昭和25年11月23日に開催されたものである。会議の中心者である日淳上人(当時、日蓮正宗総監)は、「近来観光に付いて社会では色々と施設や計画が進められてゐるが、当本山として、今迄そうゆう事には無関心の如くに見られてゐた。今後は清浄なるこのお山をけがすことなく世道人心に益したい」(大日蓮58号)と挨拶されている。この日淳上人の「清浄なるこのお山をけがすことなく」との仰せが、当日の会議の基調であることを忘れてはならない。

また、そのあと、当時の富士宮市長である小室氏は、「当山は正法護持と云ふ事で、今日まで伝統を維持して来た事に敬意を表する。然(しか)し総本山も時代に即応すべきであると思ふが、今度積極的に観光に活動しはじめた事は有難い。山門、五重塔、三十五日堂(御経蔵)等国宝的な建築があるので是非人心教化のためにも開放して頂きたい〈※三十五日堂は正しくは十二角堂〉」(同)と述べている。さらに、富士宮新聞記者団の要望としては、「一、建物その物が国宝的に準ずる。一、要所々々には立札を立て説明を付けてもらいたい。一、観光道路を大々的に改修する、とくに黒門までの道路を早急に改修し大石寺は総門からと考へるべきだ。一、三門から入って塔中手前までの間を庭園化する必要がある。一、桜は全国的と云はれ自然のまま保存されたい。一、三門附近で観光客案内所をおく必要がある。一、五重の塔があることは知られてゐない。自動車の車窓より見える様に研究されたい。遠くから見るところに価値があると思われる。一、観光客に対しての宿泊の設備を考へられたい。一、山門から本堂に至る参道は恐らく日本一を誇り得ると思ふ、この点十分に保護し古色をこわさぬ様にお願ひしたい。」(同)等の意見や、そのほか、春は桜だが秋は紅葉がよいではないか、年二回ぐらい、青年大衆を対象としたスクェアダンスなどもよいではないか、等の意見が出されたという。

これらの発言者は、必ずしも日蓮正宗の信仰を理解しているとは言えない。したがってこれらの意見も、あくまで「要望」であって、すべてを受け入れるべき性格のものでもないことは、容易に理解できるであろう。しかしまた、同日の会議で話し含われた「未来像」は、多分に現在の大石寺の状態そのものであることに気付かなければならない。学会では、この「観光化」計画に難癖をつけているが、創価学会登山によって大石寺に起こった変化は、まさにここで言う「観光化」と何ら変わらないのである。もし、現状と違うものといえば「宿泊施設」の要望だけである。創価学会で言う観光寺院の「宿泊施設」ならば、当時でも、宿坊は大石寺内にたくさんあった(各地の法華講の参詣には使用していた)のであるから、要望によって、新たに「造る」必要はなかった。しかし、もしこの「宿泊施設」を現在に当てはめるとすれば、それは大石寺境内の外にある「ホテル」「民宿」等である。そうと考えなければ、この要望には意味がないからである。

さらに、この会議が行われた昭和25五年11月から、創価学会の第一回月例登山会が開始された昭和27年10月(聖教新聞社・昭和51年刊『創価学会年表』に依る)までは、約2年という歳月がかかっている。この会議と月例登山会とが関連あるとするには、あまりに日時が経ちすぎていると言わなければならない。彼等が強調するように、「大石寺の貧乏を救ってやった」というなら、信心強盛な戸田城聖氏が、なぜ2カ年もの間、大石寺を放っておいたのであろうか。また、なぜその2カ年の間、大石寺は維持できたのであろうか。大石寺の経済的理由で「観光化」が図られたとすれば、なぜ2カ年の間に「観光化」してしまわなかったのであろうか。しかも、この会議で大石寺に要求されたことは、相当額の資金を要するものである。大石寺が「貧乏で食うに困る」寺院だったなら、到底、できかねる事業である。これらの一々が、皆、矛盾しているではないか。「観光懇談会」の名称によって、直ちに奈良・京都などの邪宗の観光寺院を思い起こすのは、大きな間違いである。大石寺周辺の上野地区の人々ならば、「観光客」によって多少の利益はあると言えよう。しかし、大石寺には、邪宗の観光寺院のように観光客が来ても、メリット(※入館料・賽銭箱など)となるようなことは何もないのである。

つまり、昭和25年11月の会議で議論された「観光論議」は、創価学会で悪宣伝するような「観光地化」などというようなものではない。むしろ、堤在の創価学会の大好きな、「社会に開かれた大石寺になってほしい」という話し合いだったと言わねばならないのである。再度、日淳上人の「清浄なるこのお山をけがすことなく」とのお言葉を、よく噛みしめるべきであろう。



 七、 現在の学会に登山運営を任せられないのは自明の理

むろん、戸田会長の登山会推進によって、信徒の登山者数は急激に増加した。それに対応して総本山内の諸設備も更新・新設され、大石寺の面目も一新されたのは事実である。したがって、その信心の功績には、深く感銘するものである。しかしまた、先にも述べたとおり、創価学会の発展の原点は、総本山大石寺へ参詣し、戒壇の大御本尊の御開扉を受けたところにあるのであって、他にはない。現在の創価学会の大発展は、まさに大石寺への登山参詣にあると言って過言ではない。

本門戒壇の大御本尊は、日蓮大聖人の御本懐であると同時に、本門弘通の大導師・第二祖日興上人が「身に宛て給わる」御本尊である。さらに、この御本尊は、第三祖日目上人に「相伝」され、代々嫡々(ちゃくちゃく)して、現第67世御法主日顕上人の護持あそばされるところなのである。命をかけて、この大御本尊をお護りされた御歴代上人の御恩徳を感じないでは、本宗の信心はできようはずがない。いかに多数の人を会員にしたとしても、大御本尊を離れては、日蓮大聖人の仏法の功徳はないのである。同時に、日蓮大聖人より代々の御法主上人へ伝えられている血脈相伝を離れて、正しい信仰はあリえないのである。創価学会は、この大御本尊の御威光と、御法主上人の御指南のもとに発展したのである。そして、戦後、「貧乏人と病人の集まり」と悪口を言われた創価学会員が、現在のように、豊かで健康な人々の集まりになったのである。結核と貧窮に悩んでいた池田名誉会長をはじめ、草創期からの最高幹部諸氏の、現在の境遇は何によって得られたのだろうか。創価学会最高幹部諸氏は、御本尊の前に端座し、心静かにお題目をしっかり唱えてみられるとよい。自已の過去、現在を鑑みるとよい。血脈付法の歴代御法主上人への誹謗悪口は、成仏の善因となるか、堕獄の悪因となるか。顕正会(妙信講)や正信会が血脈を否定したのと、今、自身が行っている「指導」と、どこが違うというのか。総本山への参詣を止めることは、果たして成仏のためになるかどうか。将来の創価学会の隆盛の因となるか、滅亡の因となるか。牧口二戸田両会長の意思に適(かな)うかどうか。御本尊の讃文(さんもん)である「頭破作七分」とは一体、何を意味するか。

これでも、総本山に弓を引く心が静まらなければ、その人は既に日蓮大聖人の弟子檀那ではない。外道の弟子である。お題目を唱えても、詮(せん)ないことである。血脈を否定しながら、御本尊を受持しているのは、正信会の輩(やから)と何ら変わるものではない。私達一股僧俗にとって、「血脈法氷」というものは、御法主上人の「御指南」を通じてはじめて信受することができるのである。御法主上人の御指南を素直に拝受してこそ、私達の色心に、日蓮大聖人以来の「血脈法水」が流入するのである。池田氏をはじめとする創価学会幹部のように、御法主上人の「御指南」に対して否定・反発するところには、決して「血脈法水」は流れないことを確認しなければならない。このような幹部が、日蓮正宗信徒であり、創価学会員である純真な人々を「指導」することは、まことに恐ろしいことである。現に、一般会員の多くは、その実状を知らされずに、ただ宗門批判をせよとの命令のもとに、わけも判らず御法主上人の悪口を言い、僧侶の非難に終始し、日蓮正宗の化儀・化法に背いて罪障を積んでいるのが、その現状ではないか。創価学会幹部に、大切な総本山への登山会の運営を任せられないのは、もはや自明の理であろう。

ある意味では、やむをえないことであり、ある意味では「時」でもある。現在は、地方寺院の添書を持って総本山に登山するという、日蓮正宗本来の姿をもって登山参詣し、大功徳を積まなければならない時である。創価学会の功績のみを強調して、「登山会のお陰で大万寺が潤った」などと言うのは、本来、邪宗の人達の感覚である。本来ならば、信徒会貝各々に広大な功徳を与えてくださり、創価学会を発展させてくださった大御本尊に感謝申し上げ、御内拝をお許しくださった御法主上人に御礼申し上げなければならないはずである。



 八、 添書登山方式による登山信徒名簿記入の理由

創価学会では、今回の改正は登山会による檀徒づくりの一環であると言っているようである。また、創価学会員は、全員日蓮正宗の信徒であるから、登山信徒名簿に記入する必要はないと言っているとも言われる。考えてみれば、もともと寺院の所属信徒であれば、寺院から正しい信仰について、あるいは信仰の在り方について教えられるのは当然である。住職が、所属信徒に対して、血脈付法の御法主上人の御指南や宗務院の方針、また総本山の指示を伝達するのは、ごく当たり前のことで、むしろ住職の義務である。名簿の提出を義務付けようがどうしようが、学会組織から、あれこれ言われる問題ではない。所属信徒に対する住職の教導を妨害すれば、現在、創価学会が信徒団体を名乗っているとはいえ、謗法に当たるのである。

それはさておき、新登山方式で、改めて登山信徒名簿に記入して寺院に提出することには、

等の理由によるのである。しかも、登山を希望する場合、一回、登山信徒名簿を提出すれば、記載事項に変更のない限り、再提出をする必要はないから、さして難しい手続きが必要ということもない。もっとも、創価学会組織が、快く名簿を提出すれば、すべて簡単に事は解決するのである。しかし、創価学会の大幹部のなかに、日蓮正宗の信徒を「我が物」と思う「信徒泥棒」の根性が存するようであるから、おそらく名簿は提出されないであろう。(※事実提出されずに終わった)



  九、 添書登山を妨げようとする真意をあばく

以上のように、創価学会が、今回の添書登山について非難することには、何の根拠もないのである。敢えてその根拠をさがせば、

等々、現在の創価学会幹部が最も恐れているところの、一般会員に真実を知られてしまうことであろう。つまり、御法門・御法主上人・宗門・僧侶について、学会で流している「噂」が、皆、嘘であることを知られると困るので、会員の総本山登山を妨げようとしていると推測されるのである。

もっとも、去る7月1日の新聞紙上では、創価学会広報室の某氏が、「登山も会員の白主的な判断に任せてあり、ブレーキをかけたことなどない」(7月1日付『司朝日新聞』の第二社会面)というコメントをしていた。このように、『創価新報』等の記事や、学会内部に流されている情報にかかわらず、創価学会本部の方針としては、信徒の登山を止めてはいないということであろう。それならば、学会所属の信徒各位は、総本山への登山・御開扉を、遠慮なく寺院に願い出られるとよいのである。もし、地方幹部等で、登山についてあれこれ言う者がいたならば、その人は学会本部の方針に逆らう者であるから、無視してよいのである。それ以上、登山しないよう、無理に強要する人があれば、信教の自由をうたった憲法に違反するのであり、間違いなく人権侵害に当たるのである。


 おわりに

創価学会組織に流されている「噂」に惑わされないように、疑問があれば地元寺院なり総本山の「登山事務所」なりに、信徒各位が自分で、電話等によって確認をされるとよい。悠々とした参詣ができるように、大石寺内事部が取り計らっているので何も心配することはない。『四条金吾殿御返事』の、「今此の所も此くの如し。仏菩薩の住み給う功徳聚の砌なり。多くの月日を送り読じゅし奉る所の法華経の功徳は、虚空にも余りぬべし。然るを毎年度度の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一生に消滅すべきか。弥(いよいよ)はげむべし、はげむべし」(全集1194ページ)との御文をよくよく肝に銘じ、総本山への登山参詣を信心生活の重点目標に置き、機会あるごとに参詣できるよう心掛けていきたいものである。

なお、先に『大白蓮華』昭和38年10月号に掲載された、池田会長(当時)の執筆による「巻頭言」の一部を引用したが、この「登山会について」と題しての巻頭言は、本宗僧俗の総本山登山の心構えとして、常に忘れてはならない根本精神を、まことに解りやすく、明快に述べられたものである。ここに、最近における池田名誉会長の指導といかに相違するかを指摘するためと、正信の信徒の心得のために、全文を紹介して擱筆する。


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(巻頭言)
登山会について

創価学会会長 池田大作


10月12日は、大御本尊御出現の日である。この大御本尊は、末法の御本仏であらせられる日蓮大聖人様が大慈悲をおこされ、全世界の一切衆生に腸わった御本尊であるがゆえに、一閻浮提総与の大御本尊と申しあげ、また、大聖人様の出世の御本懐として、万人から仰がれる大御本尊であらせられる。われわれが登山して、大御本尊を拝することは、そのまま日蓮大聖人様にお目通りすることであり、偉大なる功徳を享受できることは言うまでもないのである。

この大御本尊の功徳については、日蓮大聖人様御(おん)みずから「此の砌に望まん輩(やから)は無始の罪障忽(たちまち)に消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん」と仰せられ、また、富士大石寺26世日寛上人は、次のように讃嘆(さんたん)せられている。「此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠(じんのん)の妙用(みょうゆう)あり、故に暫(しばら)くも此の本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち、祈りとして叶(かな)わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来(きた)らざるなく、理として顕れざる無きなり」と。このように、われら凡愚のいかなる願いも叶え、いかなる重罪も消滅してくださるお方が、人法一箇の大御本尊であらせられるのである。かかる絶対の大御本尊にお目にかかる登山会であれば、学会の登山会こそ、行事の中の最大の行事として、他の一切の行事に優先して行なわれているのである。

やがて時至って、広宣流布の暁(あかつき)には、大聖人様御遺命(ゆいめい)のごとく、本門の戒壇堂に御安置申しあげて、日本国中はもちろん、全世界より渇仰(かつごう)される大御本尊であらせられることを思えば、われら学会員が、未だ時至らざるうちに、とくに御法主猊下のお許しを得て、この大御本尊に御内拝できうることは、無上の福運であり、まことに有難き極みである。


したがって、登山会に当たっては、学会員は特に次の三点に留意すべきであろう。その第一は、病人や、著しい老衰のために他に迷惑を及ぼす恐れのある人は、登山会を差し控えるべきである。登山会が団体行動であることを考えるならば、これは社会人として当然のことであろう。第二には、病気や事故その他で、登山が不可能な人のためには、家族や、もっとも近い親せき等の近親者が代わって登山をして、お願いすることによって、本人が直接登山したと同様の功徳が得られることを、確信すべきである。第三には、登山会は各自の生活の現状、いろいろな活動や功徳の結果を、直接大御本尊に御報告申しあげるとともに、あわせて将来のために、もろもろのお願いを申しあげるのが、その目的であると知るべきである。したがって、病人や極端な老人等を無理に登山させるようなことは、決してあってはならないのである。登山会は、日蓮大聖人様のまします霊鷲山への参詣であり、さらに日興上人・日目上人等、三世諸仏の住処であり、われらが真如の都である、久遠元初の故郷へ還(かえ)ることなのである。

このように、学会の登山会は、極めてその意義が深いのであるから、軽々しく考えてはならない。あたかも大聖人様ご在世当時の阿仏房の精神をもって、登山の精神とすべきである。七百年以前に、佐渡ケ島より荒波を渡り、さらに野を越え山を越えて、身延の沢に再三、大聖人様をお訪ねし、心からお仕え申しあげた阿仏房の精神こそ、たとえ時代は隔(へだ)つとも、わが学会の登山精神でなければならないと思う。


次に私は、常に登山会の陣頭に立って、万全の輸送を果たしている輸送班の、涙ぐましい活躍に対して、心の底から深謝するものである。御本仏日蓮大聖人様の子どもを、その仏前にお目通りさせる輸送班の役目は、誠に重大であり、絶対の功徳に満ち溢れることは必然である。かつては私も、輸送班の第一線に立って、苦楽を共にしたものであり、また立宗七百年祭には、不眠不休でその任務を全うした、喜びの経験をも有するものである。

学会の月例登山会は、昭和27年10月から開始され、今年で満11年目を迎えたわけである。10月は大御本尊御出現の月であり、また、大聖人様御入滅も10月である。この意義深い10月に当たって、ここに改めて、登山会の精神に深く憶(おも)いをいたし、来(きた)るべき三百万総登山、ならびに将来「不開門(あかずのもん)」の開くその日まで、絶対無事故で登山会を完遂するため、ここに指針を示すものである。

以上