日精上人に対する創価学会の疑難を破す



 はじめに

創価学会は相変わらず、日精上人の御事について口汚い誹謗を繰り返しております。最近では、学会地区幹事を名乗る人物を表にしておりますが、実体が創価学会であることは当然であります。創価学会は、なんとか日精上人が謗法を犯していたことしとにして、御歴代上人全体の尊厳を貶め、大聖人様の血脈の仏法、なかんずく御当代日顕上人猊下の正義を破り奉らんとしているのです。しかし、日精上人は、日量上人が『続家中抄』の中で、

と仰せになるほどの、立派な御法主上人です。そこで日精上人は、学会の者どもが誹謗するようなお方ではないことを示して彼らの疑難を打ち破らんと思うものです。




 一、 創価学会の疑難

まず創価学会側の疑難を端的に述べたものとして、次の記述があります。

この頃の宗内で、造読思想を持っていたと思われる有力者は三人いた。法詔寺日感・敬台院・そして日精である。

これまでは、日精の仏像造立を中心に検証してきたが、日精の謗法は、それのみに止まらず、色袈裟の着用、一部頓写千部じゅの執行等も行い、日蓮大聖人・日興上人の正義を破壊し続けたのである。

このように、現在の創価学会では、当時の宗内僧俗の有力者が造読家であったとして、日精上人・法詔寺日感師・敬台院殿を挙げており、さらに日精上人の化儀が、すべて謗法であったかのように誹謗しています。


内容に入る前に、日精上人と敬台院について述べておきます。従来、敬台院は大石寺の純真な大信者で、それに対し、日精上人は要法寺流の間違った化儀を持ち込んだ方という認識が多少あったように思います。しかし、敬台院はもともとは要法寺の信徒でありました。これは決して敬台院を貶めるために述べるのではありません。事実を明らかにするためにも、当時の複雑な状態を知る必要があるからです。敬台院は徳川家康の長男・信康の娘と古河藩主・小笠原秀政との間に生まれた人で徳川家康の曾孫ですが、織田信長の曾孫にも当たります。家康の養女となって、慶長5年(1600)、9歳の時に蜂須賀至鎮(はちすか・よししげ)に嫁ぎました。その際、伏見城の家康のもとから、大坂玉造の阿波藩邸に入りました。『日宗年表』の元和5年の記事に、

とあります。蜂庵入道というのは敬台院の夫、蜂須賀至鎮の父、家政のことです。蜂須賀家は代々禅宗でしたが、大坂玉造に阿波藩邸があった関係からか要法寺に縁があり、この方が要法寺22代日恩の檀那となって「東山に隠居寮を建て之を寄す」ほどに帰依していました。このような環境でしたので、敬台院も要法寺の信仰をするようになったと思われ、敬台院の仏像への執着は、この頃の要法寺の化儀に主因がありそうです。


次に、日精上人と敬台院との御縁について拝考します。『続家中抄』に、

とあるように、日精上人の父上は日精上人が8歳の頃逝去されていますが、常在寺に縁の深い方でした。同じく『続家中抄』に、

とあるように、はじめは要法寺の日瑶の弟子でしたが、大石寺に来られてからは、日就上人に従って当家を学ばれました。義道の落居(当家の深義を得ること)あって、檀林に御修行で関東に下られましたが、夏間(げあい=檀林の休み)には日就上人が住職であった常在寺で御奉公されていたでしょう。敬台院は法詔寺が建立されるまで常在寺に参詣していたと思われますので、この頃、日精上人の御尊容に触れて、敬台院は日精上人に深く帰依するようになったのではないでしょうか。




 二、 読誦について

創価学会側は日精上人が法華経を全部読む一部読誦をしていたといいますが、日精上人の『日蓮聖人年譜』には、

と、日蓮門下各宗を破折あそばされる中で、はっきりと一部読誦を破折されておられます。この御文に日精上人の折伏精神が、また読誦に関する御見解が明らかではありませんか。

ついでに述べますと、『日蓮聖人年譜』は大聖人の400遠忌の御報恩のための御述作と思われます。若かりし頃、大石寺と要法寺との盟約のもとに、器量の人として大石寺の血脈伝持と宗勢復興の重責を担って、日精上人は要法寺から大石寺に来られました。この頃の大石寺は、法統を維持する僧侶が不足し、また経済的にも戦国時代の大混乱を経て厳しい状況にありました。大聖人の350遠忌の年、御当職は日就上人であり、日精上人は32歳でした。この年、大石寺は諸堂宇を焼失するなど、実に大変な状況でした。この翌年、日就上人から御相承を受けられて、総本山第17世の御法主上人となられました。以来、日精上人は400遠忌の2年後84歳で御遷化あそばされるまでの50余年の間御当職として、また御隠尊として、陰に陽に、疲弊していた大石寺復興に尽力されたのです。

日主上人以来の要法寺との通用は、御苦労の果てに、法統を維持する僧侶の育成、徳川幕府の宗教政策への対応、江戸での弘教・寺院の確立等、その目的を達せられ、要法寺との通用に区切りを付けられるかの如く、常在寺は後の24世日永上人(※非要山御出身)に付嘱されて御遷化されました。(後述しますが、日精上人はこの『日蓮聖人年譜』の中で、要法寺の造読思想の元凶である広蔵院日辰に対する破折をされており、まさに日精上人が御真意を留められた書と拝されます)。

次に、日精上人の御本尊(延寶9年5月)に、

という脇書のある御本尊があります。これは読誦に関する日精上人の実際の化儀が、どのようであったかを知る上で貴重な御本尊です。

つまりこの脇書によれば、信徒の濱田五郎左衛門が、『自我偈と唱題幾辺かをもって一部として、それを千部修行した褒美として授与された御本尊であることが判ります。一般に一部読誦といえば、法華経二十八品を全部読んで一部とします。しかし、日精上人の一部は、法華経二十八品を全部読んで一部とする一部読誦ではありません。後世、日寛上人は、「法華経一部八巻廿八品の文字は69384字なり。題目1万遍亦7万字なり。大旨文字数同なり」(父母報恩談義)と仰せのように、唱題一万遍を法華経一部とされました。これは首題1万遍は7万字であり、法華経二十八品の69384字に相当することから、唱題1万遍を一部とされたのです。この濱田氏の夫人と思われる方が生前中に唱題に励み、二千部を成就したということが、日俊上人の御登座直後の御消息に記されていますから、これらを合わせて拝察するに、あるいは日精上人も自我偈と一万遍であったと推測できます。

このように日精上人の千部修行とは、『自我偶』と題目をもって一部としての千部ということが御本尊の脇書によって確認されるのです。しかもこの濱田五郎左衛門という方は、要法寺日舍が『百六箇対見記』で、日精上人が造仏をしたと述べた久米原妙本寺の信徒です。その信徒に、褒美として授与した御本尊が、仏像ではなく大漫茶羅であるというところに、日精上人の御本尊の化儀が明白ではありませんか。そして、修行は一部二十八品読誦ではなく要品読誦と唱題であった、というのが真実なのです。なおまた、要法寺日舍の『当今現証録』という書があります。これは日精上人を軽侮した記述ではありますが、若き日の日精上人に関する唯一ともいえる記述ですので挙げておきます。

このように御自身の修行が『小読誦』というのですから、二十八品の『一部読誦』であるはずがありません。方便・寿量・題目でありましょう。創価学会は一部読誦千部などといって、いかにも日精上人の読誦に対する見解が誤っているかのようにいいますが、全く逆なのです。




 三、 造仏について

次に造仏については、日亨上人の『富士占盃手要集』に、次のようにあります。

この『随宜論』の記述によれば、仏像は法詔寺建立の翌年に造立されています。法詔寺は大伽藍(だいがらん)であり、建築日数は相当かかります。造仏が予定のことならば、落慶法要に間に合わないことはありません。否、一寺院本堂の中心である本尊なくして落慶法要が行われる道理がありません。にもかかわらず、後で翌年になって造仏が行われたのです。この事実が日精上人が造仏家ではないことのなによりの証拠です。なぜ最初から仏像を安置しなかったのでしょうか。日精上人が造像家であるならば最初から仏像が安置されるべきです。それが最初にはなかったということは、日精上人が造像に反対されたことを物語っているのです。

敬台院は最初から仏像を安置したかったことでしょう。しかし当初は日精上人に深く帰依していましたから、日精上人の仏像い制止の説得を不承不承でも容れて従ったため、大漫茶羅のみが安置されたのです。このように日精上人は敬台院を、要法寺の造読から大石寺の正義に引き入れるべく御化導されていたのです。しかし、敬台院の仏像に対する強い執着は改まらなかったようです。日精上人は敬台院の帰依の心の深いこと鑑みられて、しばらく摂受(しょうじゅ)の方便として仏像を許容されたのです。但し、大漫茶羅が安置されないというのではなく、また仏像が中心にあるのでもありません。あくまで中心は大漫茶羅御本尊であり、その左右に釈迦・多宝・四菩薩が置かれたのであろうと思われます。

これは日興上人が『五人所破抄』において、

と御指南されたことを受けて、その深意を拝された御化導と拝せられます。また、日寛上人も『末法相応抄』に、日興上人の四菩薩添加の方便について「強執の一機の為なり」(六巻抄 156ページ)と説明しておられます。

要法寺日辰の造読義は、それが宗祖大聖人の正意とするのですから、そのような誤解・邪義は徹底して破さねばなりません。しかし日興上人の四菩薩添加は『強執の機』に対する方便です。機の判定は、時の御法主上人の深意によるのであり、当時の要法寺僧や敬台院等の信徒には強執の機が多く、日精上人は『強執の一機』と判定され、善巧方便として許容されたのです。しかし、なんとしてでも日精上人を謗法にしなければならない創価学会側は、日因上人の日精上人に対する批判を引いて次のように述べています。

「日因上人が随宜論について述べた言葉を参考までに示しておこう。

  • 『精師御年譜中にも、亦日辰所立の三大秘法を述ば 依用し難きなり』
  • 『久遠元初自受用身即日蓮なる旨を許さず。恐らく教相判を存し、観心の旨叶わざる哉』

「宗門教学部の稚拙極まりない言い逃れに万が一にも翻弄されないためには、随宜論を読むことをお勧めする。一読さえすれば、31世日因上人が、随宜論について、

  • 『精師御所存は、当家実義と大相違なり。具に26代日寛上人、造仏読誦返答抄・末法相応抄に分明なり』
  • 『当家造仏を許さず、蓮祖開山已来、已に五百年なり。精師一人之を許す』
  • 『不造の現証文証之を会すに、恐らく曲会なるべし』
  • 『又精師、関東奥方の寺々に皆釈迦多宝四菩薩造立を許す。今漸く之在り。寺々皆之を取除くなり』
  • 『久遠元初自受用身即日蓮なる旨を許さず。恐らく教相判を存し、観心の旨叶わざる哉』

と厳しく破折をされている方が、日蓮正宗御用(誤用)教学部の愚か者共の戯言よりもはるかに正しいということも、よくよくこ理解いただけるであろう」

このように日因上人の文書を引いて、誹謗しているのですが、日因上人の文書には、

と、日東上人の意見も記されています。日因上人は日精上人の『随宜論』に批判的ですが、日東上人は『随宜論』は日精上人の本意ではなく、暫く日辰の義を述べられたのであると考えられていたことが拝されます。日因上人は、御自身とは見解の違う日東上人の御意見も正直に記されていますが、都合の悪い部分は知らぬ顔です。

さて、もちろん『随宜論』を積極的に肯定するのではありませんが、さらによく研究してみる必要があります。『大日蓮』平成10年4月号掲載の、法義研鑚委員会文書では、末尾に焦点を当てて『未来造像に寄せての現在制止』に本意があると拝考しましたが、これだけではなく、次の部分も<不可解>な記述なのです。


随宜論

次に感応・日月本迹の事。是れ亦釈迦と日蓮との相対に非ず、唯仏与仏の相対なり。下種仏とは挙ぐる所の自受用報身、脱仏とは二番已下今日の応身仏なり。是れ即ち本果の釈迦は本なり天月なり。二番已下の脱仏は迹なり池月なり、判文なり。爾らば釈迦と日蓮と相対の釈と見るは僻見なり。

次に、「久遠元初自受用身は即日蓮の事なり」とは、此一段甚だ以て不審なり。如何となれば、百六箇に云く、「今日蓮が修行は久遠名字の振舞に、芥爾計りも違わざるなり」文。

又云く、「三世常住の日蓮は名字の利生なり」文。御書に云く「日蓮は名字凡夫なり」文。又云く「理即には秀でて名字には及び及ばず」文。諸文悉く日蓮は名字即と判じて未だ凡人に仏名を付くること見ず。但し日蓮の本地は上行、上行の本地は仏なり。今難ずる所は此くの如き義に非ず。天台・妙楽・伝教・蓮祖の義に非らずんば会用し難し。若し亦た、若遇余仏の文を引て云く、天台大師此の文を釈して云く、四依也云云。是即ち名宇即の日蓮を仏と称する明文なりと云はば、亦た本文に違す。天台・章安・妙楽の四依を釈する時、或は十信初依、或は初住初初依、或は六根五品初依不同ありと雖も、名字即初依の未だ明文を見ず。

若し爾らば、本拠本説の如く得心して後、義を取るは常途と法式なり。若し爾らば、頗りて阿薫を捨て本文の如く之を論ずる時、文四に云く『便ち界外有余の国に生じ、余仏に値遇し此の経を得聞す○余仏とは四依なり』文。記の四末に云く『初文は有余土の仏を以て名づけて余仏と為す○須く四依に遇うと云うべきのみ』文。玄六に云く、『初依は余仏に名づく、無明未だ破らず、之を名づけて余と為す。能く如来秘密の蔵を知り、深く円理を覚る。之を名づけて仏と為す』文。籤六に云く『通じて五品及ぴ六根浄を取る故○内外の凡の位を名づけて凡師と為ることを証す』文。玄五に云く『五品六根を初依と為す』文。此の文実に五品に居す六根の人の衆生の依止と為す処を釈するなり。記の八、補注六等之を略す。此の本拠本説の如く心得畢んぬ。

扨て義を取る時、元祖日蓮聖人は上行菩薩の後身なり。此の故に内證を論ぜば自受用報身如来なり。又本門四依の内初依の導師なる故、又余仏なり。又下種の仏とも云う可き歟。

日因上人は、「久遠元初白受用身即日蓮なる旨を許さず、恐らく教相判を存し観心の旨叶わざる哉」と仰せですが、日精上人は傍線部分のようにも述べられており、ここでは日蓮大聖人の御内証を自受用報身如来とされています。したがって『随宜論』の真意(意図)は、慎重に拝考すべきと考えられるのです。次に、『日蓮聖人年譜』には、「下記資料」(富要五−117ページ)とあります。

日蓮聖人年譜(富士宗学要集5−117、38Kb)

『日蓮聖人年譜』のこの箇所については、日顕上人猊下が『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』の中で、次のように述べられています。


創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す

さて、その日精上人の『日蓮聖人年年譜』を見ると、日精上人は、要法寺の日辰が『観心本尊抄』や『本尊問答抄』等について釈した文を『日蓮聖人年譜』のなかに引いておるのです。しかも、その日辰の義を日精上人は批判して、日辰の義が間違いだということを言っておられるのであります。すなわち、『日蓮聖人年譜』のなかに、

「其の上、或抄に“本尊問答抄を引き、法華経を以て本尊と為す可し”と此の相違はいかんが心得可きや。答へて云はく、此の或る抄を見るに一偏にかける故に諸御書一貫せず」(宮要五−28ページ)
つまり、お答えとして『このある抄は偏った義において書いているから、この筋では大聖人の諸御書の意が一貫した正しいものとならない』という日精上人の破折お言葉があります。その『或る抄』というのは要法寺日辰の書であります。さらに続いて、

「其の上三箇の秘法の時は、唯二箇となるの失あり。今便に因みて、略して之を出さへ。其の中に……」(同頁)

と、日精上人が、日辰の義をちなみに略して引用しよう、と言われているのであります。そして、そのあと、『初には本尊に二あり』(同頁)とあるのは日辰の文であり、以下、ずっと日辰の義を挙げ、その最後の所で、日精上人はまたさらに、日辰の義をはっきり破しておられるのです。


しかるに、日寛上人の『雑雑集』の文では、日精上人が日辰に与同したような考え方として表現されていると、学会の者どもは勘ぐるのです。ですから、ここで学会が言う所は、初めから日精上人の説ではなく日辰の説であるにもかかわらず、日寛上人が日辰与同の説として指摘されたものと見間違いをし、さらに日精上人の悪口を言い、また、それに関する妙観講の解釈を間違いだとしています。

しかし、日寛上人の『雑雑集』の文について、彼等学会こそ、日本語の意味に反する僻解をしているのです。すなわち、日寛上人の『精師且く他解を述ぶ。是れ則ち日辰の意なり。故に本意に非ざるなり』云々の文について、『且(しばら)く』という意味を学会は全く無視しています。これは『一時的に』あるいは『かりそめに』という意であり、したがって、初めから『かりに述べている』のだから、この『故』という接続詞は、日精上人の本意ではないという意味に接続するのが当然です。学会はここでも、その解釈において『且く』の二字を無視して、切り文を犯しています。故に、この所は妙観講の『本音』の解釈をさらに一歩進めて、文字どおり『日精上人の本意ではない』と解すべきであります。

一連の前後の文に日精上人は日辰の邪義を明らかに破していることを、日寛上人も当然、御覧になっているのですから、このように解すべきが正当なのです。

この御指南に明らかなように、日精上人御自ら、『日蓮聖人年譜』で日辰を破折されている以上、造仏があったとしても、それが御本意でないことは明白です。つまり日辰の邪義は、文底下種三段に暗く、種脱を混乱するところに起因しています。日精上人が、日辰の『三大秘法義』(※或る抄)を批判されるということは、まさしく文底の実義に到達されておられるからこそ可能なのです。文上熟脱の本尊に拘泥するがごとき、日辰と大同小異の見解であったならば、日辰を批判することは絶対にできないのです。

次に日精上人が、日蓮本仏・大漫茶羅正意であられた証拠として、次の事実があります。まず常在寺の当時の御本尊は現存しており、宗祖大聖人文永11年(1274)御顕示の御本尊、通称「万年救護本尊」の写しの板御本尊です。この本堂の御本尊には、日精上人の御筆で、「延賢8年8月良辰、富士大石寺末流下谷常在寺」と記されています。この年は、大聖人四百御遠忌の前年ですから、本堂を新築あるいは修築されたことを契機に、御本尊を新たに謹刻造立されたものと考えられます。(この御本尊は昭和四十七年まで常在寺の本堂に御安置されていました)。また持仏堂安置の大聖人の御形木御本尊にも、日精上人の御筆で「武州江戸下谷常在院持仏堂之本尊也日精花押」と記されています。このように、常在寺では本堂、持仏堂ともに大聖人の大漫茶羅御本尊が安置されていたのです。

創価学会側は、

  • 日精自身の手による(※仏像の)撤廃の事実がなければ、なんの根拠も説得力も無いことになる。

  • 日精は一生涯造仏読誦の邪義を捨てることがなかった。
  • と、日精上人が一生涯、仏像を拝んでいたかのようにいいますが、実に無漸極まりない輩どもです。いかなる邪論も、真実の前には沈黙せざるを得ません。

    また、大石寺六壼の日興上人御書写の板御本尊は万治2年(1659)二十世日典上人の代に日精上人が造立されたものです。御影堂の宗祖大聖人の御影の背後には、日精上人が延宝七年(1679・二十一世日忍上人の代)に造立の大聖人の板御本尊が安置されています。客殿の宗祖大聖人、二祖日興上人の御影も万治2・3年(二十世日典上人の代)に日精上人が造立されました。総本山塔中了性坊の御影は、天和元年(1681・二十二世日俊上人の代)に日精上人が御開眼されています。牧口創価学会初代会長の家から、日精上人の御開眼の御影様が出てきたことが、昭和28年の『聖教新聞』に書いてあります。(仏像ではありません)

    さらに久成坊と寂日坊の本堂安置の板御本尊は日精上人筆の大漫茶羅を日寛上人が造立されているのです。日寛上人が日精上人の御本尊を拝したいから造立されたのです。いかに日寛上人が日精上人を尊敬・恋慕されていたかがよく判ります(※日寛上人は常在寺で日精上人の御説法を拝聴し出家を志されました)。他にもありますが、ともかく日精上人が日蓮本仏・大漫茶羅正意であられた現証であるとともに、日典・日忍・日俊・日寛上人等の御歴代上人方が日精上人を尊敬されておられたことが明白です。



     四、 法衣について

    『蜂須賀家臣・斎藤忠右衛門等状』には、

    とあり、敬台院が大石寺に、色袈裟などを供養しようとして「何色のものがどれくらい不足しているか」と聞いていたことがわかります。さらに日精上人が重物(色袈裟)を抜き取ったり売払しているとあります。

    ここから読み取れることは、日精上人は敬台院が供養した着物のうち、色袈裟等を着用せず、「紛失した」などと言い訳をしたらしきことです。そのことを「当主の様に重物ものの内盗み沽却する」と言っているのでしょう。日精上人は敬台院の資助を得て、大石寺と法詔寺の兼務住職をしているのですから、少々のものを抜き取ったり売却して敬台院の信用を失う道理がありません。これは日亨上人が、

    と仰せのように、色袈裟等を拒否したことによる「信仰上の衝突」です。

    日精上人が色袈裟を否定されておられたことは、『家中抄』の、

    との記述に明らかです。また日精上人造立の客殿の御影様(※大聖人像)のお姿が、薄墨の衣・白五条の袈裟をお召しであることからも、法衣に対する日精上人の御見解は明瞭です


    但し、日俊上人の書状の中に、

    「但し富士五箇寺は、開山已来法華一部の肝要方便品寿量品の二品を以って三時の勤行仏事作善等に執行致し来り候。御当地抔に於いて大名高家の下に相住み候寺は、大檀那の望に任せ或は一部頓写千部等も読み申す事に御座候条、先年隠居日精下谷常在寺に在住持の節、江戸末寺代として御公儀へ大石寺の法式書き上げ申す中に其子細御座侯事。

    一、素絹五条の外一切の袈裟謗法売僧と申し候事、此段猶以って証惑の至りに御座候。袈裟衣の儀は宗々に依り其品を相分け申す処に、一切の袈裟衣謗法売僧襁褓の義と申すべき道理御座無く候。但し、富士五箇寺の日興門徒に於ては薄墨色の衣、同じ五条袈裟或は白き五条古来よりの格式に御座候。若し貴人へ出仕の節は色袈裟も懸け申す儀、稀なる事に御座候事」(富要九−32ページ)

    とあるのは、大石寺・要法寺の通用の実体に臨み、その全体を総理する御法主として、要法寺関係の僧俗の多い江戸での摂受的側面における化儀を含む、大石寺と要法寺の全体的見解として述べられたものでありましょう。しかし、袈裟に関する日精上人の本意は、あくまで『家中抄』に述べられるところにあります。


    創価学会側は、

    「これまでは、日精の仏像造立を中心に検証してきたが、日精の謗法は、それのみに止まらず、色袈裟の着用、一部頓写千部読誦の執行も行い、日蓮大聖人日興上人の正義を破壊し続けたのである」

    と、日精上人が色袈裟を着用したかのようにいいますが、まったく逆なのです。

    この事件は袈裟だけではなく、敬台院からの御供養の中には、あるいは大石寺にふさわしくない『重物』、すなわち仏像が含まれていたのかもしれません。もし仮にそういうことがあったとすれば、日精上人は一命を懸けてでも阻止されたでありましよう。日精上人は、法詔寺は敬台院の寺である故に善巧・摂受の御化導をされましたが、総本山大石寺では敬台院の我見を許さなかったと考えられます。

    摂受はあくまで要法寺との関係の濃い部分や、要法寺系の檀那の影響力の強い寺院に限られるのであり、総本山等の富士五山では許さなかったのです。そういう点から、仮に常在寺に仏像があったことは、全く考えられないことではありません。しかしそれは、総本山を守るための措置であり、そのために敬台院相手に訴訟をも辞さなかったとしたならば、日精上人の御振る舞いを誰が責めることができましょう。その場合、いつまで常在寺に仏像があったかですが、前述の常在寺本堂の板御本尊の造立が、日蓮大聖人四百御遠忌の前年の「延賢八年八月」ですから、22世日俊上人の代に、日蓮大聖人四百御遠忌を期して、一切の方便摂受を打ち切り、大石寺本来の化儀に復されたと拝考されます。

    さらに、大石寺客殿に両尊の御影様が安置せられたことは、将来再び仏像に強執する信者が現れて、総本山に仏像を祭らせようなどという気を起こさないように、との願いも込められて、日蓮正宗で仏像といえば、御影様であることを周知徹底させるために造立されたのかもしれません。

    敬台院は前述のごとく徳川家康の曾孫であり、蜂須賀家は幕末まで存在した大藩です。敬台院の事件の詳細は記録することはもちろん、人前で語ることさえ憚(はばか)られるものであり、いつしか真実は埋もれてしまったと考えられるのです。




     五、 別体の血脈について

    日精上人が日蓮大聖人四百御遠忌の年に認められた、

    「當家相承之事、全於他家不知法門也。大聖人ヨリ相傳之分者日興一人也。依之于丈今相博不絶、然當時悪僧出來不残相承之由申云云。如斯悪侶未來者爾可出來故、如斯書置所也。今時平僧所化衆多、以書寫故如此書置所也。 延寶9年8月12日 日精花押」(歴代法主全書第2巻313ページ)
    との書状や『家中抄』には、血脈相承の大事と伝持の御法主上人の高徳が述べられています。要法寺との通用と高位の檀那敬台院という特殊な状況の中、唯授一人の御法主として、ひたすら令法久住・広宣流布を祈り、戒壇の大御本尊と血脈を守ってこられた日精上人の、血脈に対する甚深の御意が拝せられるではありませんか。

    しかるに創価学会側はそのような尊い御苦労を少しも偲(しの)び奉ることなく、自分たちの私利私欲、野望のために日精上人を悪口罵詈し、下種仏法を破壊しようとしています。このような創価学会の邪義邪念は断固として粉砕せねばならないのです。




     おわりに

    以上のように、日精上人の御本意は全く当家そのものであらせられます。したがって『随宜論』や、寿円日仁等の一部の記録にみられる造仏や読誦に関する引用や御見解はまったく本意ではなく、それ相応の理由が考えられるのです。

    日精上人当時の日本は、徳川時代の最初期であり、大坂夏の陣を経て、徳川政権がやっと安定化する兆しを見せはじめたばかりでした。信長の比叡山焼き打ちに見られるような武士たちの信仰心の荒廃は、すぐに修復されるものとも思えず、一種の悪国状態に近いものがありました。敬台院は、徳川家康の曾孫ですが、大藩とはいえ外様大名である蜂須賀家に嫁ぐという立場にありました。さらに元和6年(1620)には、不幸にも29歳にして、夫の至鎮を亡くしています。強大な権力を持つと同時に、微妙な心理状態の女性でありましたそのような敬台院(※対衆)の心理状態は、日精上人の御化導を拝する上で重要な意味を持っていると思われます。

    当然、造仏・読誦等は大聖人の化儀ではありません、要法寺日辰のようにそれが大聖人の御本意のごとくいうならば、徹底して破折せねばなりません。しかし、日精上人が、その深意の上から、門内をあるいは敬台院等を将護されるために、暫時の善巧方便としての御化導をされることは、法相の上からも穏当なことと拝されます。すなわち文底下種三段においては、文底体内の文上の法華経は流通の一分を成じます。その中に迹門(安楽行品)の摂受と本門(不軽品)の折伏があり、ともに三大秘法弘通の上の法相であり、段階的化導とししての摂受は当然必要だからです。つまり四悉檀(ししつだん)の法門のうち、世界悉檀・為人悉檀は摂受に相当します。対治悉檀とは折伏です。この摂折二門の善導によって、第一義悉檀、入理の益を得ることができるのです。この摂折二門は折伏に邁進する僧俗が常に心がけているところです。

    ただし、宗門全体的な化導としての摂受・折伏の取捨は、常に御法主上人の裁量によるのであり、一般の僧俗は、その根本的な御指南に信伏随従していかねばなりません。なぜならば、末法は基本的に折伏が表ですが、摂受すべき場合も一時的にあるからです。この時、一般僧俗においては、摂折の是非を巡って見解が分かれることがあり、未熟な部分的見解に陥ると、折伏正意を大義名分として、御法主上人に背反することになります。

    池田大作が正本堂の意義を曲げようとしたり、無許可で御本尊を模刻する等した際に、御法主上人が創価学会を善導されようとしたことに対して、顕正会や正信会が反抗して異説を唱えるまでに脱線したのは、この筋道を弁えなかったからです。日精上人の御化導は特殊といえますが、それだけに筆舌に尽くしがたい御苦労があったのです。私たちは、このような日精上人等御歴代上人の御恩徳を深く拝信することが大切です。

    さあ、平成十四年・宗旨建立七百五十年の30万総登山を名実ともに成就し奉るべく御報恩の信行に励んでいきましょう!


    ※学会側の文書を作成した人物の氏名については、本人の希望により削除しました。