「開宣大法要」への邪難を粉砕



■ 総論 ■ (=大白法597号より)
 一、御法主上人猊下の御説法の要旨
 二、離脱僧らは不信の妄者集団
 三、血脈断絶の極悪誹謗を破す
 四、「三月」と「四月」に明確な文証

■ 悪書「日顕の『立宗二回説』の邪義を破す」を粉砕す ■ (=大白法598号より)
 五、悪辣極まる離脱僧らの宗史歪曲(わいきょく)の妄言を破す
 六、「クロウ事件」創価学会大敗北を嗤(わら)う
 七、名誉欲の亡者は池田大作
 八、宗史に厳たる「三月」宗旨建立会
 九、民衆救済の使命は日蓮正宗僧俗のみ
 十、卑劣な離脱僧らに鉄槌を下す

■ 『創価新報』掲載の離脱僧の駄文を重ねて粉砕す ■ (=大白法599号より)
 十一、離脱僧らの悪書の論拠は総崩れ


■ 総論 ■


 はじめに

宗旨建立750年の大佳節を寿ぐ「開宣大法要」が、去る3月28日、好天に恵まれた桜花爛漫の総本山大石寺において盛大に奉修された。御法主日顕上人猊下は、同法要において『清澄寺大衆中』を拝読され、約1時間20分にわたり甚深の御説法をあそばされた。

宗旨建立750年の大佳節に当たり、血脈御所持の御法主上人がその御仏智により、宗旨建立に関する深義を御指南あそばされることは不思議と拝するほかはない。まさに時に応じて下種仏法の大事を開陳(かいちん)あそばされる御姿を、あらためて目の当たりに拝し、その明快な御指南に、聴聞の僧俗一同等しく大歓喜したのである。

しかるに今般、このような「開宣大法要」の盛儀を怨嫉(おんしつ)した、邪教池田創価学会の走狗(そうく)、自称「日蓮正宗改革同盟・青年僧侶改革同盟・憂宗護法同盟」を名乗る離脱僧らより、一通は「日顕の『立宗二回説』の邪義を破す」、他の一通は「糺問の書」などと題する笑止千万な誹謗書が送られてきた。

二書の内容は、退転者の悪臭芬々(ふんぷん)たる低劣なものではあるが、御本仏日蓮大聖人宗旨御建立の正義宣揚のため、このような邪難には断固鉄槌が下されねばならない。よって今回、日蓮正宗青年僧侶邪義破折班により、これら不遜(ふそん)極まる二悪書に徹底的な破折がなされ、御法主日顕上人猊下に対して、謂れなき誹謗と中傷をおこなった離脱僧らに対し、非道を深く懺悔(ざんげ)し、直ちに陳謝すべきことが通告された。



 一、御法主上人猊下の御説法の要旨

「開宣大法要」における御説法において、御法主上人猊下は、「三月二十八日に開宣の義において大法要を執行することは、宗史の上の重大な見解による」と仰せられ、宗祖日蓮大聖人の建長5年の宗旨建立が3月と4月にわたって拝せられること、3月と4月の開説に具(そな)わる甚深の意義について、御書、及び日興上人御述作の『安国論問答』、第4世日道上人の『御伝土代』、さらに第31世日因上人の『三四会合抄』等をもって論証あそばされた。次に御説法の要旨を掲載する。


<3月・4月の文証>

建長5年の宗旨建立の日付について、大聖人の御書中には「三月二十八日」と「四月二十八日」の両方の御指南が存在し、その上から古来、宗旨建立は3月28日、あるいは4月28日、あるいは3月28日と4月28日の両日、との見解が存在した。

宗旨建立に関して、その具体的な状況及び意義を文言として示された御書には、「三月二十八日」とお示しの『清澄寺大衆中』と、「四月二十八日」とお示しの『聖人御難事』が挙げられる。

『清澄寺大衆中』は御真蹟は現存しないが、かつて明治8年の身延の大火で焼失するまでは存在した。古来、当御書については偽作の論議もなく、大聖人の真書であることは確実であり、最も古い刊行本である「録内(ろくない)御書」の当該御文には「三月二十八日」と記述されている。

この「三月二十八日」の記述を裏付けるものとして、大石寺に所蔵される日興上人御真筆の『安国論問答』が挙げられる。この中には、大聖人の初転法輪の記述として、日興上人により、「建長五年三月廿八日安房国東条郡清澄寺道善房持仏堂南面シテ浄円房並大衆中ニシテ始此法門仰出タリ」(歴代法主全書1−10ページ)と示されている。

この部分は『清澄寺大衆中』の当該の御文と比べると、「少々」の二文字のみが抜けるほかは、語彙(ごい)の順序まで全く同一である。このことはすなわち、日興上人が『清澄寺大衆中』を直接拝され、その部分を書き留められていたか、あるいはその箇所を明確に記憶されていたことにほかならない。つまり『清澄寺大衆中』の御真蹟には、大聖人が「三月二十八日」とお書きになっていたことが確定できるのである。

次に、『聖人御難事』は現在、中山法華経寺に御真蹟が残っている。これには、「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に、安房国長狭郡(ながさのこおり)の内(乃至)此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじめて云々」(御書1396ページ)とあり、大聖人は「四月二十八日」とお書きになっている。

以上のように、御書中には宗旨建立として、「三月二十八日」と「四月二十八日」の両様の記述が存するのである。


<他派が4月に統一した経緯>

ところが明治13年12月、他門において発刊された『高祖遺文録』において、『清澄寺大衆中』と『大白牛車書』にもともと「三月」と記述されていたものを「四月」に改変し、それ以降に刊行された他門の御書は、全てがこれに倣(なら)って、両御書に記載される「三月」の記述を「四月」に変えてしまったのである。

何故、そのように改変したかを考察すると、これらの御書の編纂(へんさん)者に、大聖人の宗旨建立は4月のみという思い込みがあったからである。

すなわち、江戸時代の安国院日講の『録内啓蒙』等の憶説の影響も受け、また、『清澄寺大衆中』の「三月」と、『聖人御難事』の「四月」とは、月は3月・4月と違っても、日は同じ28日であり、従って、これら両書の示す事柄は同じものであると推測し、同じ事柄が2回もあるわけがない、よって「三月」は誤記であり、宗旨建立は「四月」のみであろうと推測したのである。

また、宗旨建立の場所についても、『清澄寺大衆中』における「道善房の持仏堂の南面」と、『聖人御難事』の「諸仏坊の持仏堂の南面」との記述が似ているところから、単純に諸仏坊の住職が道善房にちがいないと考えたのである。

さらに、『清澄寺大衆中』は明治8年の身延の大火で御真蹟が焼失して現存しないのに対し、『聖人御難事』は御真蹟が現存しており、尚かつ、宗旨建立を「四月」と記述している『諌暁八幡抄』も御真蹟が現存することから、『清澄寺大衆中』の「三月」の記述は、同抄の御真筆を写録するとき、「四月」を「三月」と写し間違えたのであろうと推断したのである。

以上のことから、他門では大聖人の宗旨建立は「四月二十八日」のみであると結論し、御書の「三月」の記述を、全て「四月」に改変したものと考えられる。


<大石寺独自の流れ>

これに対し、日蓮正宗においては、『清澄寺大衆中』『大白牛車書』の二御書に明確に「三月二十八日」とあり、日興上人御筆記の『御義口伝』『安国論問答』、さらには門下における最古の伝記である第4世日道上人の『御伝土代』にも「三月二十八日」と記されていることから、「三月」と「四月」の両様の御書のうち、その初めをとって「三月」宗旨建立とされてきたことが判るのである。

また、第31世日因上人は、この「三月」と「四月」について、『三四会合抄』を著述され、「三月」は内証(ないしょう)における宗旨建立、「四月」は外用(げゆう)の上からの宗旨建立とし、二度にわたり説法があったと会通(えつう)されている。

さらに年中行事ということから見れば、江戸時代第25世日宥上人の時代の記録には、3月28日に宗旨建立会が行われていた記述が見られ、さらに第33世日元上人御筆の『年中行事』には、「三月」と「四月」の二回にわたり、宗旨建立会が行われていたことが記されている。


<「開宣大法要」は大石寺の流れに則る>

しかして、ではなぜ大聖人が、両月とも28日を選ばれたのかという上から、28日という日の意義を深く鑑(かんが)みれば、「三月」と「四月」の行蹟を見たとき、2回にわたって宗旨建立の御説法があった理由が明らかに拝せられる。

まず、28日の意義については『開目抄』の、「これを一言も申し出だすならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし。いわずば慈悲なきににたり」(同538ページ)との御文のごとく、大聖人が熟慮に熟慮を重ねられ、大難を御覚悟の上で、決然と断行されたのが宗旨建立の大宣示であられることから、簡単な思いつきによって28日を選ばれたとは考えられず、深い因縁のもとに、この日が選ばれたものであると拝される。

つまり『破良観等御書』には、「幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩(だいこくうぞうぼさつ)の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給へ。十二のとしより此の願を立つ」(同1077ページ)と12歳より虚空蔵菩薩の御宝前に願を立てたことが述べられ、また『清澄寺大衆中』には、「生身(しょうじん)の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便(ふびん)とや思(おぼ)し召(め)しけん、明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候ひし故に、一切経を見候ひしかば、八宗並びに一切経の勝劣粗(ほぼ)是を知りぬ」(同946ページ)と虚空蔵菩薩から明星のごとくなる大智慧の宝珠を受け取られたことが示されるからである。しかしこれらには、28日という日について、直接には触れられていない。

ところで、大聖人の御入滅後、約220年頃の伝記である『註画讃』には、「十月八日より虚空蔵に祈ること三七日宝珠を受く」との趣旨の記述があるが、大聖人は弘安5年の『八日講御書』において、「今に至るまで二千二百三十余年が間、吉事には八日をつかひ給ひ候なり」(同1586ページ)と仰せられていることから、この伝記のような考え方もあり得るといえる。しかして、『清澄寺大衆中』の御文全体を直接に徹して拝するとき、その理由が明らかに拝される。

すなわち、『清澄寺大衆中』には、虚空蔵菩薩より大智慧を給わったこと、そののち一切経の勝劣を見るに、八宗並びに一切経の勝劣を知られたと述べられていること、さらに続いて、「虚空蔵菩薩の御恩をほう(報)ぜんがために、建長五年三月二十八日」(同946ページ)に宗旨を建立されたことなどが述べられているのである。

これらの仰せから、大聖人が虚空蔵菩薩より智慧の宝珠を受けられたその日こそ、まさに28日であり、この日を特に記念せられ、宗旨建立の日に当てられたことが、当該の御文に顕然と拝される。

また宗旨建立に関する「三月」と「四月」の御指南を比較すると、「三月」の御書には、虚空蔵菩薩から智慧の宝珠を得て仏法の正意に達したことより、虚空蔵菩薩等への報恩、及び内証宣示という一面が拝され、それに対し「四月」の御書には、衆生を広く化導し、妙法を弘通するという一面が拝せられる。

すなわち、「三月」と「四月」をお示しの御書の文言に、極めて対照的にその相違が顕れており、これは宗旨建立が2回にわたって行われたことを証すものである。


<九項目の論証>

次に

第一、報恩の御表現の有無
第二、宗旨建立の両行儀の事蹟
第三、説法の場所の異り
第四、対告衆の異り
第五、父母の制止の時期の考察
第六、28日の説法の深義
第七、内証に具わる題目と一期弘通の題目の両義
第八、『安国論問答』の文の明証
第九、『御伝土代』の文の明証

以上9項目の論証により、3月は法界に対する内証の題目の開宣であるのに対し、4月は外用弘通の題目の開示であり、また3月は顕正に即する破邪の説法を面とされるのに対し、4月は破邪に即する顕正の説法が面となる。また3月は別して少機のために大法を示し、4月は万機のために題目を弘通せられる等の区別が明白である。

このように、大聖人が3月においても、深い報恩の意義を込めて説法を行われた上から、3月と4月の両度にわたる仏恩報謝の大法要を執り行うことはまことに適切である。



 二、  離脱僧らは不信の妄者集団

総じて彼ら離脱僧の主張は、何が何でも御法主日顕上人に難癖をつけたいとの思いから、悪口三昧をすることに終始している。そして、その彼らの論旨は、基本の一線において、救いがたい欠陥があることを露呈しているのだ。それは何か。すなわち大聖人、日興上人以来の血脈相伝の仏法への純粋な信仰・信解を欠いていることである。言うなれば、彼らは屁理屈をならべて、誹謗中傷することはできても、その当所に自ずから正しい信仰の立脚点に背反していることを忘れているのである。

御法主上人の「開宣大法要」における御説法、その内容とする「三月」「四月」両度の宗旨建立の意趣も、これ悉く日蓮大聖人と日興上人の仏法相伝に対する絶対の信仰を基とされているのである。彼らには残念ながらこの信仰のカケラも存在しないから、御法主上人の御指南を、曲げに曲げて悪口雑言に終始しているのである。


離脱僧らに正しい信仰が微塵もないことは、日亨上人も正文書とされ、御真筆と認定されている日興上人の『安国論問答』についての、的はずれの難癖のつけように明らかである。

日興上人の御正筆まぎれもない『安国論問答』に、『清澄寺大衆中』の文と、その順序まで同じ宗旨建立の文が存することは、日興上人が『清澄寺大衆中』の文を御覧にならずに書き入れられるはずはあり得ず、当該御文が『清澄寺大衆中』に依(よ)られていることは明らかである。

その『安国論問答』に「三月」とあり、また日興上人御筆記の『御義口伝』にも「三月」、さらに日道上人の『御伝土代』にも「三月」とあるお示しを拝するとき、信仰の上からこれを素直に拝し奉ることこそ純粋な信仰のあり方である。

これらのお示しは、『清澄寺大衆中』の宗旨建立の日付が、まさしく、「三月二十八日」であったことを証明するものである。


御法主上人はその上から、3月28日に、故郷の清澄寺で宗旨を建立あそばされた大聖人の深い報恩の御心を拝され、まず「三月」に仏恩報謝の法要を奉修あそばされたのである。しかも「四月」の宗旨建立を否定して、「三月」に「開宣大法要」を修されたのではなく、「四月」には、さらに「特別大法要」として念入りに奉修あそばされている。このことからも御法主日顕上人が、宗旨建立750年の大佳節に当たり、仏恩報謝の真心によって、「開宣大法要」を奉修あそばされたことは明らかである。

日興上人御正筆の『安国論問答』の「三月」、日道上人御著述『御伝土代』の「三月」を、正しく信の一念をもって拝するとき、「三月」の宗旨建立の深い意義を我らも拝感するものである。

彼ら離脱僧は、唯我与我の僧宝にまします日興上人に対し奉る信に欠けるため、まるで見当違いな誹謗をもって、宗旨建立「三月」の記述のある日興上人の御筆記までも疑問視するに至っている。その愚痴狐狼(ぐちころう)のごとき心底、不信心の雑言はまことに哀(あわ)れというほかはない。

また御歴代上人におかれては、宗旨建立を「四月」とお示しの方もおられるが、そのお示しは、決して「三月」を否定あそばされたものでないことは言うまでもない。

それは時を鑑みられての任運の御指南であるが、今、宗旨建立750年の大佳節を迎える時を感じられ、御法主日顕上人が、「三月」の宗旨建立に関する最も根本のお示しとしての、大聖人の御書、及び日興上人、日道上人の御教示のところへ立ち戻られ、「三月」を、また「四月」を共に御報恩申し上げることこそ、まことに有り難き御仏智を拝されての大報恩行と拝するものである。

このような甚深の御指南は、信心のカケラもない彼らには到底及びもつかぬところなのであろう。彼ら離脱僧の3同盟は、まさしく、いたずらな悪口雑言をまき散らし、三途の因を作る妄者集団と言うべきである。



 三、 血脈断絶の極悪誹謗を破す

まず『日顕の「立宗二回説」の邪義を破す』(以下『二回説への邪難』と呼ぶ)は、とてもかつて僧籍にあった者の書き物とは思えぬ低劣な悪口の羅列に終始しており、特に許しがたいのは、血脈相伝の仏法を承継あそばされる御法主日顕上人猊下に対する悪質極まる誹謗である。すなわち離脱僧らは、その邪難中の至るところで、御法主上人猊下を「血脈詐称(さしょう)」の「偽(にせ)法主」と誹謗しているのである。

このような所業は大聖人の仏法の根幹を否定する大罪であり、彼ら離脱僧は仏法破壊の逆賊(ぎゃくぞく)というほかはない。彼らの極悪の誹謗に断固鉄槌を加える所以である。


<離脱僧らの邪難には重大な欠陥>

周知のとおり、御法主日顕上人は、御登座以来明確に御先師日達上人より付嘱を受けられたと仰せられ、今や23年もの間、正統血脈の上に本宗を董(とう)しておられる。それにも関わらず、日顕上人を「詐称法主」呼ばわりした離脱僧らの言には、重大な欠陥が存するのである。それは彼らが己の主張の根拠をまったく示していないことである。


彼らが御法主日顕上人を「詐称法主」だとしたことは、取りも直さず、「日顕上人は日達上人より相承を受けていない」と断定したことにほかならない。そのような重大な事柄を一言でも口にした以上、離脱僧らには相応の重大な責任が生じたことは当然である。すなわち、離脱僧らには、このような主張の根拠を明示する責任があるのであり、その責任の上から、次の2つの何れかを是認しなければならない。

一つは、日顕上人が御相承を受けていないと主張する根拠が、日達上人が他のどなたかに御相承をなさっていたからという場合である。それなら、そう主張する彼ら自身が、責任をもって、その方の名前を明示すべきである。

二つには、そうではない場合、すなわち、離脱僧らが日達上人は、日顕上人にも、また他のどなたにも御相承されていないと主張する場合である。

この場合には、離脱僧らの主張は、20年の長きにわたって宗門を董され、大法を常に心におかけあそばされた日達上人が、後継の方を決定せずに御遷化(せんげ)なされたということになるのであり、それは日蓮正宗の御法主として絶対になさらねばならぬこと、すなわち宗祖以来の血脈相承の大事をおろそかにした無責任な御法主であると、日達上人を誹謗することになるのである。日達上人に対し奉るこれ以上の冒涜があり得るだろうか。

さらにはそれのみに止まらず、宗祖大聖人、日興上人以来正系宗門700年の血脈相承が、日達上人の代において断絶したとの主張ともなるのである。これは日達上人を限りなく誹謗することであると共に、血脈否定の大謗法であることは言うまでもない。

離脱僧らが、どこまでも御法主日顕上人を「血脈詐称」というのなら、日達上人からの御相承の有無について、彼らの見解がどちらなのかをはっきりすべきである。それを曖昧模糊として論じもせず、単に日顕上人を「血脈詐称」ということは、全く道理を無視した誹謗中傷であり、彼らの誹謗の目的が、日蓮大聖人の血脈相伝の仏法に敵対し、破壊するところにあることを自ら証明するものと呵責(かしゃく)しておく。


<卑怯な遁辞(とんじ)は許されない>

また、もし彼ら離脱僧のような捏造者の常として、以上の二つの問いに対する答えを限定されるのを嫌い、「日達上人がどなたに御相承されたかは判らないが、御相承はあったと思う。しかしそれに答える必要はない」というような訳の判らぬ遁辞を構えても、離脱僧らが日顕上人を「詐称法主」と断定する限り、すなわち日顕上人に御相承はなかったという限り、その言い訳は通らない。

すなわち、「御相承はあったと思うが、どなたへ御相承されたか判らない」と言うなら、日達上人から日顕上人への御相承があったかどうかも、彼ら離脱僧には、同様に「判らない」はずではないか。従って、日顕上人への血脈相承の有無が判らないのに、日顕上人が血脈を「詐称した」、つまり「御相承がなかった」と断定するのは矛盾(むじゅん)も甚(はなは)だしい。いわゆる認識がない(判らない)のに評価する(詐称法主)という自己矛盾を露呈するものである。

たびたび述べるとおり、日顕上人は御登座以来、日達上人より御相承を受けられたことを明言あそばされ、宗内は、各御尊能化をはじめ、僧俗一同がこの御指南を拝受し、信伏随従奉っているのである。尊厳なる血脈相承は唯授一人の秘儀であり、一般が容喙(ようかい)すべきことではない。昭和54年に御法主日顕上人が血脈を承継あそばされたのちの、厳然たる一宗教導のお姿を拝し、御指南に信伏随従すべきが当然なのである。

要するにこの場合、離脱僧らの「血脈詐称」の言は、信根を失った反逆者どもの口からでまかせの悪口誹謗に過ぎないことになる。


<離脱僧らは血脈否定の根拠を示せ>

さらにその上、もし「答える必要はない」という無責任な言い逃れをするとすれば、それは、人を非難しておいて、その理由をヌケヌケと頬被(ほっかむ)りする卑怯卑劣極まるものである。

かつては平憎に過ぎない離脱僧らなどが、血脈相承に言及すること自体、本来僭越(せんえつ)極まりない越権行為であり、許されざる謗法行為である。しかし、離脱僧らが繰り返し、日顕上人を「詐称法主」と呼び、「御相承がなかった」と断定した以上は、日達上人より血脈を継承あそばされた方への御相承に関して、「答える必要がない」ということは成立しない。

そもそも御相承とは、授者と受者の相関関係にあると拝する。すなわち、日達上人が御法主の御責任において、御相承に関して、必ずどなたかに譲らなければならないことが宗是(しゅうぜ)と承る以上、日達上人を外しておいて、日顕上人のみを「血脈詐称」と誹謗することは、まったく理に合わない。なぜなら御相承をどなたに、どのような形で譲るかを決められるのは御先師日達上人の権限であられ、日顕上人にはその時点では一切、責任はあられないからである。

従って、もし離脱僧らが「答える必要がない」と言うならば、それはある者を「盗人だ」と謗っておきながら、その者から「いつどこで何をしたから盗人なのか」と反詰(はんきつ)されたとき、「答える必要がない」と言うのと同じことになり、それは、自らの「血脈詐称」の言を、「まったく根拠のない、単なる悪口雑言」にすぎないと言うに等しいものと断ずる。


<道理に背(そむ)く離脱僧らの己義我見>

次にもし離脱僧らが、日顕上人が血脈を詐称されたという理由として、「日達上人が造られた建物を破壊したからだ」とか、「広宣流布の団体創価学会を破門したからだ」とか、クロウ事件などの事実無根の誹謗をその理由に持ち出すとすれば、それらは問題の本質がまったく別である。

よく筋道を考えてみよ。建物が建て替えられたのは、それぞれそれなりの理由があったからである。日顕上人が日達上人に対する個人的感情でなされたものではない。またそれらは日達上人が造られたというより、仏法の大反逆者池田大作が寄進したものであり、特に正本堂の解体は池田大作の仏法違背による意義の喪失が原因であり、万代にわたる正法厳護と広宣流布のためであった。

仏法の絶対性による令法久住の精神より拝すれば、血脈相伝の御歴代上人はすべて一体の境地にあらせられる。既に遷化あそばされた御歴代上人、そして日達上人のお心と、大法の興隆を念ぜられて進ませ給う御当代日顕上人のお心は、令法久住の上において一体であり、いささかの齟齬(そご)もおわしまさないのである。故に建物が仏法の意義の上から変更されたことによって、日顕上人の血脈が喪失したなどということはあり得ない。よって、このような主張をするとすれば、それは問題の本質をスリ替えて、誹謗の根拠とするものである。

さらに、創価学会を破門したことを理由とする邪難も同様である。日達上人の御代における反省懺悔を無残にも反故にし、三宝破壊の謗法路線をもって、宗門に公然と反旗を翻したのは池田大作と創価学会である。自ら破門される原因を作っておきながら、日顕上人を逆恨みするとすれば筋違いも甚だしいと言うべきである。大謗法を犯した創価学会を破門したことによって、下種仏法の血脈が無くなるなどということもあり得ない。

また創価学会は、クロウ事件などの事実無根の報道により、長年にわたって御法主日顕上人を散々に誹謗中傷してきたが、そのような、下劣極まる事実無根の報道が「血脈詐称」の根拠になり得るはずもないことは当然である。

ともあれ、先には御法主日顕上人を法主として尊重しながら、昨今はほしいままに「血脈詐称」の「偽法主」と呼んでいることは、池田創価学会や離脱僧らが、変節極まりない己義我見で尊い血脈の存否を専断したことに他ならず、その言は正に真実に背くものである。もしそれでも日顕上人猊下を「血脈詐称」の「偽法主」と言い張るなら、以上の諸々の指摘に対して、誤魔化すことなく堂々と反論してみよ。

それもできずに、ほしいままに日顕上人を詐称法主と呼ぶことは、仏法の道理に背く、独断と偏見の大謗法である。血脈不断に心を砕かれた日達上人をはじめ、御歴代上人、さらには宗開両祖のお怒りは明白であり、彼ら離脱僧は三途の因をいよいよ増加することになろう。



 四、 「三月」と「四月」に明確な文証

次に、『糺問の書』(以下『糺問の邪難』と呼ぶ)では、謗法の五老僧の末流である、日蓮宗の僧侶たちの文献を金科玉条のごとくに有り難がって依拠としており、その邪宗僧侶に諂った彼らと同轍の欺瞞(ぎまん)と偏見による論旨は、まるで日蓮宗得度志願者の作文と見紛(みまご)う代物である。


<離脱僧らの論は身延と同轍>

この『糺問の邪難』における離脱僧らの論法は、現存する御真蹟のみを絶対視するものであり、御真蹟のない御書を軽視、乃至否定するという偏見に陥っている。

もし彼らの論法で言うならば、明治8年に身延山の失火で御真蹟を焼失した『開目抄』の価値まで貶(おとし)めることとなる。言いたい放題の彼ら離脱僧でも、さすがに『開目抄』は御真蹟がないから信憑性に欠けるとは言えまい。たとえ御真蹟は滅失しても、大聖人の真書であるならば、その御書には大聖人の尊い御意志と法義が永遠に具わるのであり、まさに仏の金言として尊ばれねばならない。当然のこととして、『開目抄』と共に、同じ火災で御真蹟を焼失した『清澄寺大衆中』についてもまた同様である。

彼ら離脱僧が御真蹟のある御書のみを絶対視する論法は、かつて身延日蓮宗等の邪宗不相伝家が、日蓮正宗の相伝書や自分たちに都合の悪い御書を否定するときに使った常套手段である。このような邪難を恐れもなく行うこと自体、彼らが最早、身延と同じ穴の狢(むじな)たる謗法者となった証拠である。

宗旨建立に関しては、「三月二十八日」、及び「春(※旧暦3月は春)」と示される御書と、「四月二十八日」、及び「夏(※旧暦4月は夏)」とされる御書とがあるが、御法主上人が3月28日の宗旨建立についての論拠とされた御書の『清澄寺大衆中』『大白牛車書』『御義口伝』『破良観等御書』のうち、特に3月28日に宗旨を建立あそばされた詳細な記述の存するのは『清澄寺大衆中』である。故に彼らは邪難の中心に『清澄寺大衆中』の否定を据(す)え、邪宗不相伝家の論法に頼ったのである。


<邪難の根拠は稚拙(ちせつ)な素人だまし>

また日興上人御直筆の『安国論問答』の記述中には、『清澄寺大衆中』の宗旨建立に関する御文が正確に引用されているが、その中には明瞭に「三月二十八日」と記されている。しかるに離脱僧らは、『安国論問答』末に日興上人の署名、花押等が欠けていることをもって、致命的な欠陥と述べ、さらに、「堀上人は同書内(興師詳伝413ページ)に、民部阿闍梨日向の金綱集内の全き類文が混入していると指摘している」として、『安国論問答』が如何にも日興上人の御筆ではないように邪難している。

しかしこれは素人だましの稚拙(ちせつ)な論である。なぜならば、第一に『安国論問答』は日亨上人が『日興上人詳伝』の論証資料中の「正文書」として挙げられており、「現存大石寺の興師正本」と明確に日興上人の真筆であることを断定されているからである。

第二に、ここに引用する日亨上人の記述の意味は、日向筆の金綱集と同じ内容が『安国論問答』に存することは、日興上人も日向も、共に「大聖人の御抄録のなかより転写したもの」ということであって、逆に『安国論問答』が日興上人の御直筆であることを証明されている内容だからである。

従って、『安国論問答』は日興上人の御正筆であることは疑いなく、その中の宗旨建立に関する「三月二十八日」等の記述は、日興上人が『清澄寺大衆中』を御覧あそばされた上での正確な御筆記であることは明白である。よって、『清澄寺大衆中』のかつて存した御真蹟が「三月二十八日」であったことも疑いを挿む余地はないのである。

また、日亨上人は『日興上人詳伝』において、『安国論問答』中の「聖人之を注し坐す」との記述により、『安国論問答』の全ての内容を池上本門寺における大聖人の最後の御講義の筆記そのままとすることには考証の余地を残すとされているのに対し、彼らはこの記述がまるで『安国論問答』の日興上人御直筆たるを疑わしめるものであるかのごとき誣言(ぶげん)を吐いている。

このようなことは『日興上人詳伝』を読めば誰でもわかることであるにもかかわらず、日亨上人の文意を曲解してまで日興上人の御直筆であることを疑わせようとするところに、彼らの狡猾(こうかつ)にして邪悪な意図が明々白々である。

さらに、日道上人の御正筆であり、日蓮門下最古の史伝書としての権威を誇る『御伝土代』にも、『清澄寺大衆中』と同じく、「建長五年みつのとうし三月廿八日」と記されている。

このように、「開宣大法要」における御法主上人の御説法の論拠は微動だにしないのである。


<両月の奉修と隠顕の二義>

御法主上人猊下は御説法の結論として、3月・4月の宗旨建立の意義について、「すなわち三月は法界に対する内証の題目の開宣で、四月は外用弘通の題目の開示であり、三月は顕正に即する破邪の説法を面とされるのに対し、四月は破邪に即する顕正の説法が面となり、また三月は別して少機のために大法を示し、四月は万機のために題目を弘通せられる等の区別が拝されます。特に『清澄寺大衆中』の文が三月二十八日と確定するところ、三月にも説法を行われた上から三月と四月の両度にわたる仏恩報謝の大法要を執り行うことは、まことに適切であると信ずるものであります」と述べられており、3月・4月それぞれに甚深の意義が拝せられるのである。ここより立ち返って拝考すれば、古来、宗旨建立の御報恩法要が、3月に行われたり、4月に行われたり、両月に行われたり、様々であった史実の、その理由が自ずから明らかである。

それはその時々の御法主上人が血脈相伝の御内証から時機を冥鑑(みょうかん)あそばされて、3月・4月両義において、時機相応の意義を面として、宗旨建立法要を奉修されたと拝すべきである。すなわち3月奉修には「法界に対する内証の題目の開宣・顕正に即する破邪・別して少機のために大法を示す」等の意義が面となり、4月奉修には「外用弘通の題目の開示・破邪に即する顕正・万機のために題目を弘通」等の意義が面となり、両月奉修には両義の顕彰が拝せられる。

またこれらの意義にはさらに隠顕の二義が拝せられるのである。つまり、総本山第31世日因上人が、「但し、四月二十八日の外用方便の題目の中には、御内証真実の本門の題目を含在する也」と仰せのように、3月のみ、あるいは4月にのみ奉修された場合でも、顕れた一義に隠れた一義を合わせ含むのであり、隠顕の二義をもって、宗旨建立の意義が具備されているのである。

このように、大聖人には3月28日にも宗旨建立並びに説法の御振る舞いがあられたと拝する上から、御法主上人が御報恩のため、3月28日に「開宣大法要」を奉修あそばされたことについての甚深の意義は明白なのであり、離脱僧らの邪難は史実を歪曲する怨嫉の悪口に過ぎないと断定する。よって御法主日顕上人猊下に対し、謂れなき誹謗と中傷を行った離脱僧らに、直ちに陳謝すべきことを通告する。

我らは宗祖日蓮大聖人の正法正義を護り抜く、日蓮正宗僧俗の尊い地涌の闘いを後世への亀鏡とするため、続いて離脱僧らの悪書を徹底して破折するものである。



※  ※  ※  ※  ※

■ 悪書「日顕の『立宗二回説』の邪義を破す」を粉砕す ■



 五、 悪辣極まる離脱僧らの宗史歪曲(わいきょく)の妄言を破す

<「開宣大法要」は大報恩行>

今般、血脈詐称の偽法主・阿部日顕が、自らの増上慢、保身、名聞名利、そして先師への嫉妬の念やみ難く、まったく突然に従来の化儀を改変し、三月二八日にも立宗七五〇年の慶讃法要を行うという奇行に及んだ。

※以下、離脱僧の主張を枠で囲って引用する。

過去の歴史を顧みれば、本宗より異流義と化した輩(やから)が必ず構える疑難が、日蓮正宗の血脈相承の否定である。御法主日顕上人が、第66世日達上人から金口嫡々(こんくちゃくちゃく)の血脈相承を受けられたことは厳然たる事実であり、総論に述べたとおりである。

かの自称「正信会」騒動の時、池田大作や創価学会、そして未だ宗門に籍を置いた離脱僧らが、あれほど御法主日顕上人への信伏随従を声高に主張したのは、いったい何だったのか。離脱僧らのこのような不信の疑難こそ、彼らが邪教池田創価学会に毒され、異流儀と化した証拠である。

御法主上人が宗旨建立750年の大慶事に当たり、仏恩報謝のため、宗史上の重大な意義を拝されて、4月28日の他に3月28日にも大法要を行われたことは、「化儀改変」というより「化儀整足」と拝信すべきである。信心を失った離脱僧らには、この大報恩行が奇行に見えるらしい。何とも哀れな話である。


<離脱僧らの言は宗史歪曲の不知恩な誣言(ふげん)>

宗門において、僧俗挙げた全山的行事として宗旨建立法要が行われるようになったのは、昭和二七年の「宗旨建立七〇〇年慶讃大法要」からである。宗門の歴史において広宣流布のための宗旨建立法要を本格的に行うようになったのは戦後からであり、歴史的にも、ごく一部の例外を除けば、長らく四月二八日に法要を行ってきたのである。

「宗門において云々」は、御開山日興上人以来、広宣流布の時節を待ち望まれつつ、孜々営々と令法久住(りょうぼうくじゅう)に勤しまれ、宗旨建立会を厳修された歴代の御法主上人に対し、はなはだ無礼な一言である。

宗旨建立法要は日興上人以来の長い宗史上、3月、あるいは4月に行われた時も、また両月にわたって行われた時もあった。御開山日興上人の御筆記、第4世日道上人の史伝書にも「三月二十八日」宗旨建立とあり、さらに第25世日宥上人の時代にも、3月28日に宗旨建立会を行っていた記録がある。また、第33世日元上人御筆の『年中行事』には、3月と4月の両月に宗旨建立会が行われていた記述がある。

これらの記録は、宗門上古(じょうこ)においては、主として3月28日に宗旨建立会が行われていたことを明確に示すものであり、よって「ごく一部の例外」などの指摘は当を得ず、さらには「広宣流布のための宗旨建立法要は戦後から」などは、創価学会に阿諛(あゆ)した追従の弁と呵責しておく。宗門におけるあらゆる儀式法要は、日興上人以来、広宣流布を祈念して行われてきたことは当然であり、離脱僧らの主張は、史実を糊塗(こと)する不知恩な誣言と言うほかはない。


<無知を露呈する離脱僧らの妄言>

 不相伝の偽法主・日顕は、立宗の日を「三月」と「四月」に分け、見栄と慳貪の大法要を二回も行わんとしている。宗旨建立の法要を二回も行うなど、宗門七〇〇年余の歴史にあって前代未聞の珍事である。日顕自身、一度も「三月」に法要などしていない。にもかかわらず、それに対しては何ら釈明も謝罪もしていない。

宗門の宗旨建立会が3月と4月の両月に行われたのは、前項に述べたごとく厳然たる史実である。「宗門七〇〇年余の歴史にあって前代未聞の珍事」とは、離脱僧らの無知を露呈する妄言か、欺瞞(ぎまん)の誣告である。御法主上人は血脈相伝のお立場より、大聖人の「三月二十八日」宗旨建立の御指南を真摯に拝され、宗旨建立750年の大佳節の時に当たり、深くその意義をも顕彰すべきであると覚悟され、「開宣大法要」奉修の意義を御指南されたのである。

大聖人の御事蹟を深く拝され、宗旨建立750年の大佳節を真心から御報恩奉ることを、いったい誰に向かって、何のために釈明や謝罪をする理由や必要があろうか。彼らの悪口を事とする悩乱ぶりには呆れ果てるばかりである。


<離脱僧らの狂態こそ先師違背(いはい)の反逆行為>

これは一老耄(ろうもう)の狂態であるにとどまらず、民衆救済、閻浮広布を願われた宗開両祖、先師方への重大な冒涜であり反逆である。宗門の儀式や年中行事は「広布のため」という熱誠を込めて行われるべきであり、日顕の言うごとき「儀式のための儀式」など許されない。

「開宣大法要」奉修の意義については、御法主上人猊下の御説法のとおりである。「一老耄の狂態」の言辞は、そのまま「退転僧共の狂態」と離脱僧らにお返しする。

日興上人以来の宗門行事の各法要は、御本仏日蓮大聖人に御報恩謝徳申し上げることが第一義であり、そこに表裏一体の意義をなすものが、広宣流布大願成就の熱誠である。宗門の儀式行事はすべて広布のために熱誠を込めて行われていることは当然である。宗開両祖、先師方の御心に違背し反逆しているのは彼ら離脱僧自身なのである。

正統宗門は法華講30万総登山の達成を目標に、広布実現へ着実に前進しているのであり、邪教創価学会に魂を売って宗門より離脱した彼らに宗門の儀式を云々する資格はなく、また云々される筋合いも全くない。

また離脱僧らは、御法主上人が「開宣大法要」を指して、「儀式のための儀式」という発言をなされたごとく述べているが、「文証を出せ、文証を出せ」という創価学会流の常套(じょうとう)語にならえば、御法主上人の御指南のどこにそのような発言があるのか。はっきりした文証を出すべし。いい加減な誹謗は通用しないと言っておく。


<御金言軽視、我見に固執(こしゅう)する創価学会>

日亨上人が、学会版「御書全集」の編纂に際して、四月二八日を宗旨建立日として統一され、戦後の歴代法主がこの日を中心に御報恩の法要を営んできたのも、ひとえに「広布を願う信心」に適っているからである。

離脱僧らは、第59世日亨上人が、御書の3月の記述を4月に改変したように誣言しているが、「御書全集」では、『破良観等御書』の「建長五年の春の比(ころ)より」の記述は、そのまま「春の比」となっている。このことからも、日亨上人が「御書全集」において、『清澄寺大衆中』『大白牛車書』『御義口伝』の「三月」の記述を「四月」とされたのは、意識的に改変されたものではなく、先行の『高祖遺文録』『縮冊御遺文』等の諸御書の「四月」を踏襲されたものであることが明らかである。

ところで創価学会が昭和53年に発行した富士宗学要集第5巻には、要法寺日辰の『祖師伝』が収録されているが、この『祖師伝』の日辰の原本には、宗旨建立は「建長五年癸丑三月廿八日」と記述されているのである。

ところがこの学会版の宗学要集では、なんと「建長五年癸丑四月廿八日」と改変されているのだ。そして驚いたことに、昭和31年発行の旧版の宗学要集には、原本どおり、「建長五年癸丑三月廿八日」と記載されているのである。

昭和53年3月の発行年次から見て、「三月」の記述を勝手に「四月」に変えたのは、日亨上人ではなく、明らかに創価学会の仕業である。このように大聖人の「三月」の御金言を無視し、頑固な我見で「四月」のみに固執し、古来の史伝書の内容までも勝手に改竄(かいざん)するという奸悪の所業が許されないことは言うまでもない。

また離脱僧らは、戦後の御歴代上人が「四月」に御報恩の法要を営んできたのは、「広布を願う信心」に適っているからというが、もとより御法主日顕上人は一期の御弘通における「四月」の宗旨建立の意義は重々御指南あそばされている。その上で、御金言のままに「三月」と「四月」の深義に則り、宗旨建立750年を真心から御報恩謝徳申し上げると仰せられているのである。

そもそも「広布を願う信心」に適っているのは、この御法主日顕上人の御指南のもと、本門戒壇の大御本尊を深く信じ奉り、真の広宣流布の礎(いしずえ)としての法華講30万総登山を達成して、宗旨建立750年を御報恩申し上げるため、懸命に折伏を行じている日蓮正宗法華講以外には存在しない。それに対し、「腹黒い野心と詐術の欺瞞」で天下を誑惑しているのは、三宝不信の咎(とが)により、罰の現証が明白な創価学会と彼ら離脱僧であると断ずる。



 六、 「クロウ事件」創価学会大敗北を嗤(わら)う

「開宣大法要」において、「『立宗七五〇年』を奉修するにあたり、三月二八日の意義をも検証(※ママ)すべきであると思った」などと述べているが、これは道理に合わない。「立宗七五〇年」への各種報恩事業の準備は何年も前から計画されてきた。もし、三月二八日の「開宣大法要」を思いついたのならば、もっと以前から「三月二八日」の意義を説明すべきである。ところがこの説を唐突に言い出したのは、「開宣大法要」のわずか二ヶ月程前である。

彼らは「開宣大法要」における御法主上人猊下の御指南を、「『立宗七五〇年』を奉修するにあたり、三月二八日の意義をも検証(※ママ)すべきであると思った」と引用しているが、これは悪意の改竄である。

御法主上人猊下は、「開宣大法要」において、「四月二十八日はもちろんのことながら、三月二十八日の意義をも顕彰すべきであると信ずるに至ったのであります」(大白法595−2)と仰せられたのである。

御法主上人には、その甚深の御内証より、宗旨建立750年の大佳節に当たり、広宣流布のため、3月28日の意義を「顕彰」すべきであるとの御仏智を拝されたのであり、「検証」などという次元の話ではない。

また、その御指南がいつなされようと、それは一宗を教導あそばす御法主上人の権能であり、本宗の清浄な信仰を失った「愚痴の者共」が口を挿むべきことではない。身の程を知れと言っておく。


<一審判決無効化に同意したのは創価学会>

「シアトル裁判」が敗訴必至とあって、宗門内の動揺を抑えるために、「目くらまし」として打ち上げた花火が「立宗二回説」に他ならない。「立宗二回説」を正式に発表したのは、本年二月八日の「緊急指導会」の場だった。なぜ裁判関係の話を申し訳程度にとどめ、「三月二八日」の説明に終始したのか。この疑問に答えないかぎり、「立宗二回説」を持ち出した第一の動機は、シアトル裁判敗北への宗内の批判をそらすためであった、と断定する以外にない。

今回の「クロウ事件」の和解が、宗門「大勝利」と認定されていることは、宗内周知の事実である。故に今さら、日顕上人猊下が「宗内の批判をそらす」必要など全くない。宗門が敗北と言うなら、なぜ創価学会は、民事訴訟法262条により、確実に一審判決(※東京地裁下田裁判長の下した学会勝訴の不当判決)が無効となるにも拘(かかわ)らず、それを承知の上で和解に同意したのか。和解は創価学会の同意がなければ成立しないのである。

しかも、その和解では、言論、表現の自由が憲法で保証されている日本において、今後一切、クロウ事件に関して意見の表明や論評をしないことを誓約し、それに加え宗門側が事件の存在を単純に否定することも了承したのである。これは誰の目から見ても、これまでの創価学会の報道が信用できないことを示す合意内容であり、したがって創価学会大敗北の屈辱的な和解であったことが明白である。

何よりも、その大敗北の事態を誤魔化すために、「クロウ事件」終結後の発表に際し、和解条項に違反してまで、目くらましの妄言を吐いた創価学会が、その後の『聖教新聞』や『創価新報』においては、あれほど繰り返してきた「クロウ事件」報道の掲載を一切中止したことが、このような和解の実情と創価学会の動揺ぶりを如実に物語っている。

2月8日に開催された緊急指導会の主たる目的は、今回の和解は、邪教創価学会との仏法上の和解ではなく、裁判上の和解であることに関しての説明にあった。指導会は、秋元渉外部長の挨拶、宗門弁護団による裁判経過と和解内容の詳細な説明、質疑応答と進められ、勝訴判決以上の大勝利である今回の和解の趣旨と意義を、僧俗一同が十分に了解した後、御法主上人が登壇され、全体を総括する御指南をあそばされた。

御法主上人におかれては、このような僧俗一同の了解を承けられ、「開宣大法要」についての甚深の御指南をもって、全国より参集の僧俗代表を激励あそばされたのである。御法主上人猊下からこのように仏法上の御指南を賜ること自体、創価学会などの謗法団体との裁判沙汰の終結により、宗門が本来あるべき姿に恢復(かいふく)したことの証左である。したがって、離脱僧らの「開宣大法要」に対する、「シアトル裁判敗北への宗内の批判をそらすため」などの言は全く当たらない。彼らの言は、謗法にまみれた者の哀れな下司(げす)の勘繰(かんぐ)りと言っておく。



 七、 名誉欲の亡者は池田大作

前法主の日達上人は、まったく猊座を譲(ゆず)る気などなかった。最高裁の寺院明渡し裁判においても、「血脈相承を受けた」という客観的な証拠を何一つ出せなかった。明らかに日顕は偽法主であり、宗内の疑惑は、常に消えることがなかった。とくに日達上人に対しては、自分に相承を譲らなかった恨みから、徹底して上人の事績を破壊する暴挙に出た。正本堂、大客殿、六壷、大化城等々、近代建築は無残に破壊され、邪宗寺院と見まがうがごとき木造建物で、いまや本山は埋め尽くされようとしている。また必要もなく大学もどきの宗門の大学科をつくって「創立者」気取りを演じたり、日達上人の戒壇論を否定して己義を唱えたりと、自分の名を後世に残したいばかりに、あさましい限りの横暴を働き続けている。

「自分の名を後世に残したい」のは池田大作である。池田の異常な自己顕示欲は世間周知の事実である。2代戸田会長が生前に自分の名前を付けて「戸田会館」などと呼ばせたことがあったか。しかるに大作は、「池田文化会館」等々、池田の名をいくつもの会館に付け、自らを誇示している。この異常な自己顕示欲は、度外れた勲章漁(あさ)りにも顕れており、とにかく自分の名を後世に残したいばかりの、あさましい名誉欲の亡者世界一は確実に池田大作である。御法主上人がいつどこで宗内の建物に自らのお名前を冠したか。諂曲(てんごく)の離脱僧らには土台無理な話だが、欲望の権化池田大作をこそ挙処(こしょ)し呵責すべきである。

また離脱僧らはここでも「日達上人は猊座を譲る気などなかった」「明らかに偽法主」などと、日顕上人偽法主論を振り回している。先に述べたとおり、では日達上人はどなたに血脈相承なされたと言うのか、誤魔化すことなく堂々と回答してみよ。

次に最高裁判決に言及しているが、これは本宗の甚深の血脈相承は宗教上の事項であり、世法の次元における裁判になじまないと判断されたものであり、現実の教団運営を規定する宗教法人法の判断に迷った不当判決である。そのような世法の判決などにより、下種仏法血脈の尊厳が左右されると思うのが、離脱僧らの世間かぶれのあさましさである。


<堂宇建て替えは深い仏法の因縁>

さらに、離脱僧らは総本山の諸堂建て替えが、御法主日顕上人の名誉欲による横暴のごとくに難じている。当然ながら、すべては誹謗のための難癖にすぎない。

まず正本堂は、謗法と化した創価学会が、御法主上人をはじめ宗門に対しあらん限りの誹謗中傷をしている現状を鑑みるとき、広宣流布の進展により建立せられたところの当初の意義は全く喪失したと言わざるを得ない。

つまり、正本堂解体の意味は、池田大作らの邪心・悪心の象徴と化した建造物を解体することにある。そしてそれは同時に、三大秘法の大事たる戒壇義についての池田らの己義妄執(こぎもうしゅう)をも解体するものである。

よって正本堂の解体は、「暴挙」どころか、宗祖日蓮大聖人も必ずや御嘉納(かのう)あそばされるところの、三大秘法の正義恢復(かいふく)の快挙であり、大法興隆を念ぜられた御歴代上人、わけても創価学会の謗法路線を厳しく指弾あそばされた御先師日達上人には、この快挙を必ずやお慶びあられると拝する。

また、客殿の建て替えは、阪神大震災が機縁となった耐震上の問題からであり、重量1万トンを越えた巨大なコンクリートの大屋根は、大地震に際し、建物を押しつぶす危険があることを否定できないとの専門家の判断により、参詣御信徒の安全を考え、至急建て替えたものである。

ただし、その阪神大震災が創価学会の大謗法と深い因縁があることは、かつて宗門より創価学会に対して破折の鉄槌が加えられたとおりである。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」の譬えもあるが、池田創価学会とその一味は、いつまでもこの厳たる現証を忘れず深く怖畏懺悔(ふいさんげ)すべきである。

次に六壼の建て替えと大化城解体による大客殿前広場の整備は、共に大石寺開創700年を慶祝する記念事業である。その六壼の新築落慶法要には池田大作も参加して慶祝の辞を述べ、また老朽化した大化城を解体し、整備した大客殿前の広場において、創価学会は開創700年慶祝の大々的な文化祭を行った。どちらも創価学会が慶祝した事柄を、今になって正反対に誹謗の種としている。これこそ変節極まりない創価学会一味の体質を示すものと言えよう。

彼らはこれら新築の諸堂を、「邪宗寺院と見まがう」と揶揄中傷(やゆちゅうしょう)するが、謗法に毒された離脱僧らと違い、清浄な日蓮正宗僧俗で、荘厳な総本山の建物を邪宗寺院と見まがう者は皆無である。

さらに、宗門の富士学林大学科は、他宗の大学と異なり、未来の竜象が、邪宗教学の影響を受ける恐れなく、安心して正統教学が学べるところに最大の利点がある。これこそ宗門長年の夢であり、それを御法主上人が実現あそばされたのである。離脱僧らの「必要もなく」などは事実無視の誣言にすぎない。この宗門の大学科、法教院の入仏式には、秋谷栄之助らも出席し、真顔で祝辞を述べているのである。

また御法主上人が「日達上人の戒壇論を否定して己義を唱え」たというが、それは創価学会一味が日達上人の御指南を我田引水し、曲解しているにすぎない。むしろ日達上人の慈悲の御指南に背き、広宣流布の進展を破壊した責任は、一にかかって池田創価学会にあるのである。

ともあれ、日蓮正宗は僧俗一致歓喜に溢(あふ)れ、新客殿において、宗旨建立750年を慶祝し奉る法華講30万総登山大法要を奉修し、秋には本門戒壇の大御本尊御安置の奉安堂落慶を迎え、勇気凛々と未来広布への大前進を開始することを告げておく。


<離脱僧らには創価学会の毒気(どっけ)が深入>

「立宗七五〇年」にあたって教学上の新見解なるものを発表し、「御書全集」が宗門の伝統を無視している、などと声高に中傷しているが、大学匠の日亨上人を超え、宗史に名をとどめたいという醜い欲望がそこに見えている。じつに日顕の「立宗二回説」は、「中興の祖」になって周囲を見返したい、という悪説なのである。正宗僧侶を名乗りながら、「立宗二回説」のごとき伝統破壊の狂行に一人も異を唱えないとは、まことに宗門も地に堕ちたものと嘆息にたえない。

離脱僧らの言う「教学上の新見解」とはいったい誰の言葉か、勝手に言葉を捏造(ねつぞう)して揶揄・誹謗するのは創価学会のやり方だが、彼らにも遂に創価学会の毒気が骨の髄まで深入したと見える。

御法主上人は「開宣大法要」において、日亨上人が宗門の伝統を無視しているなどとは一言も仰せられていない。すでに述べたごとく、明治の「高祖遺文(いぶん)録」以来、他門の御書がみな「三月」を「四月」に改変したこと、「御書全集」もその流れの中で「四月」を踏襲していることを事実に即して仰せられたにすぎない。

今回の3月28日の「開宣大法要」における、宗旨建立が「三月」と「四月」の2回にわたり行われたとの御説法について、宗内に一人も異を唱える者がいないということは、取りも直さず、宗内僧俗が御法主上人の御指南が正当であると信伏随従し奉っている証左であり、3月28日と4月28日の2回にわたり、深く仏恩報謝が行われることは、これにすぎる報恩行はないのである。

したがって、日顕上人に対する「『立宗二回説』のごとき伝統破壊の狂行」などという離脱僧らの誹謗は全く当たらない。それ以外の悪口雑言はことごとく真実を歪曲した憎悪の産物であり、反論にも値しないものである。



 八、 宗史に厳たる「三月」宗旨建立会

宗門関係の諸資料をみると、立宗の日については建長五年三月二八日と、同年四月二八日という、両方が過去において存在していたことは事実である。そうした事実を踏まえた上で歴代の法主は四月二八日をもって立宗の日としてきた。

離脱僧らは、見出しで「近代の宗門法主」と断っておきながら、本文では「歴代の法主」と、まるで御歴代上人が、すべて4月28日を宗旨建立の日とされているかのように話をスリ替えている。実に卑怯なやり方である。

第2祖日興上人の『安国論問答』や、第4世日道上人が『御伝土代』に、宗旨建立の日を「建長五年三月二十八日」とされていることは前述のとおりである。また江戸時代の金沢信徒、福原昭房(式治)の記録には、宗旨建立会に関して3月28日のみが記録され、4月28日の文字はない。

さらに離脱僧らも認めているように、第31世日因上人は、『三四会合抄』に3月宗旨建立の御書を挙げられ、実際3月28日に宗旨建立会を行われている。

次に第33世日元上人御筆の『年中行事』には、3月28日と4月28日の2回にわたり宗旨建立の御報恩御講が行われた記録が残っている。

よって、過去における総本山の宗旨建立会は、3月28日を主として奉修されていたことは明白であり、かかる御開山以来の伝統の深義を見直すべきであるとの御法主日顕上人の御指南なのである。厳然たる事例を含む「諸資料」の意義には触れず、御歴代上人がすべて4月28日説であったかのごとく主張するのは大なる欺瞞であり、狡猾な論法と言うほかはない。


<「一八世・日精」とは何たる大謗法か、離脱僧共>

徳川時代の宗門では、日顕が何かとかばおうとする一八世・日精が『日蓮聖人年譜』の中で、三月と四月の両説をふまえたうえで四月説を採用している。

離脱僧らはここで日精上人の歴代数を18世としている。日精上人を第17世とすることは、昭和43年3月5日に日達上人が決定あそばされたことであり、同年5月3日に、その考証内容及び理由が宗内に発表された。このことは離脱僧らも十分承知しているはずである。にもかかわらず、日達上人の御意を無視して18世とし、しかも日精上人の御事を創価学会に同じて「日精」と呼び捨てにして恬然(てんぜん)として恥じない、これが仮にも僧侶であった者の言か、誠に悩乱の一言に尽きる。

離脱僧らは、日達上人の御前で日精上人を「十八世日精」と呼べるのか。彼らの「日達上人」への尊信の言は単なるポーズにすぎず、誰の目にも面従腹背(めんじゅうふくはい)が明らかである。

御当代日顕上人の御事を、徹頭徹尾「日顕」と呼び捨てにし、「偽法主」と嘲(あざけ)る大罪が、血脈不断のゆえに、日達上人をも誹謗することであることはすでに述べた。

所詮、どのような詭弁(きべん)を弄(ろう)そうとも、御当代法主上人に背くことは、すべての御歴代上人に背くことであり、結局は宗開両祖に背くこととなる。要するに離脱僧らは、宗祖日蓮大聖人に背く大謗法者なのである。

なぜなら日精上人著の『日蓮聖人年譜』には、「(建長)五癸丑、宗旨建立四月廿八日朝日ニ向ヒ合掌シテ始テ題目十遍計リ唱下フ、之ニ就テ違文有リ。清澄寺大衆中御書云ク、(中略)虚空蔵菩薩ノ御恩ヲ報ゼンガ為ニ建長五年三月廿八日安房國東條ノ郡清澄寺道善之房持仏堂云々」(歴全2−13ページ)と、宗旨建立を一往4月と掲げられた後、直ちに「之ニ就テ違文有リ」とされて『清澄寺大衆中』の当該御文を全文挙げられているのである。このことは、日精上人が、「四月」だけではなく、別に「三月」にも宗旨建立のあったことを御教示されたものと言うべきである。


<御歴代上人は3月28日宗旨建立を否定せず>

近代の宗門法主はすべて四月二八日のみをもって立宗の日としてきた。『立宗七〇〇年』を記念して出版された『日蓮正宗聖典』をひもとくならば、戦後の先師方が皆「建長五年四月二八日」をもって宗旨建立の日と考えていたことが、はっきりとうかがえる。

@六四世・日昇上人
「日蓮大聖人が建長五年四月二十八日始めて題目を唱え出ださせ給いて、云々」(『同聖典』3ページ)

A六五世・日淳上人
「十方法界に響けよとばかり題目を唱え出されたのである。時は建長五年四月二十八日であった。」(『同聖典』2ページ)

B六六世・日達上人
「本聖典は昭和二十七年四月二十八日の立宗七百年を記念して、云々」(『同聖典』1ページ)

五九世・堀日亨上人も「四月二八日」を立宗の日とされていたことは、同上人が編纂された『御書全集』中の宗旨建立に関する記載が「四月二八日」で統一されていることを見れば、明らかである。

離脱僧らは、近代の宗門が立宗会を4月28日に行ってきたことをもって、今般、3月28日に行った「開宣大法要」を否定しようとしているのだが、それは全く否定の理由にならない。

まず、日達上人御監修の『昭和新定日蓮大聖人御書』では、『清澄寺大衆中』『大白牛車書』『御義口伝』の文中における宗旨建立日を「三月二十八日」とされている。故に日達上人が4月に宗旨建立会を奉修されたからといって、3月の意義を無視されているわけではないのである。

「三月二十八日」宗旨建立についての当家の定義は、『富士年表』を見れば一目瞭然だが、「宗旨建立の内証を宣示」とされており、これは昭和39年、御先師日達上人の命により発刊された初版の時からの記載である。

他門の年表には、3月28日の項目は一切書かれておらず、当家のみが古来、3月28日という日を大事にしてきた。それは御開山日興上人以来の伝承だからである。その伝承につき、今回、宗旨建立750年の時に当たり、御法主上人は特にその根本からの甚深なる意義をお示しになられ、「開宣大法要」として奉修されたのである。

今まで同様、4月28日を中心として法要を奉修し、と共に3月28日にも甚深の意義に則り、御報恩の法要を奉修申し上げることは、仏恩報謝の上からも重大な意義のあることである。血脈相伝から離れ、信心のカケラもなくなった離脱僧らには、日顕上人の甚深の御心地は全く領解できないのであろう。

ともあれ、離脱僧らのごとき退転の門外漢が、仏法の深義と尊厳なる法要につき、とやかく言うのは、おこがましいの一言に尽きる。


ところで、聖教新聞社から昭和47年に出版された『日蓮大聖人の生涯』中の年表には、「(建長5年)3・28安房清澄寺に宗旨建立の内証を宣示」(同30ページ)と記載されている。

また日蓮正宗栄光会編になる『日蓮大聖人伝』には、立宗宣言について、「実はその一か月前の三月二十八日に、宗旨建立の内証を宣示されているのである。(中略)三月二十八日、はじめてただ一人南無妙法蓮華経と唱え、宗旨建立の内証を宣示なされたのである」(聖教文庫版43ページ)との記述がある。この書は、やはり御先師日達上人の代である昭和45年に、学会関連の出版社である和光社から発刊され、昭和46年には聖教文庫としても発行されている。

ちなみにこの栄光会には、自称「日蓮正宗改革同盟」に所属する離脱僧の渡辺慈済も加わっていたはずである。慈済、申し開きをせよ。このように創価学会も「三月二十八日内証宣示の唱題」を認めていたのである。離脱僧らの短見嗤(わら)うべし。


<離脱僧らの誣言は反逆者の常の姿>

「立宗七〇〇年」当時の法主・日昇上人をはじめ、宗門の中枢にあった日淳上人、日達上人等はいずれも「過失」を犯したことになり、三月に法要を行わなかった「遺漏(いろう)」ということになる。何たる非礼、何たる不知恩だろうか。「相承箱」すら手元にないと言われる血脈詐称の日顕には、三上人からの「師資相伝」が何もない。だから平気で、先師方の行跡を踏みにじることができるのである。日顕自身、教学部長時代、詐称法主時代を通じて、本年までは四月二八日のみに宗旨建立法要を営んできたのである。それを遺漏がある、などと批判することは、天に唾(つば)する狂態であろう。

御法主上人が「遺漏」と仰せになられたのは、本年の唱題行中に、3月28日宗旨建立の大事の御仏智を拝受され、宗旨建立750年という特別な時に当たって、3月28日に法要を奉修することが、いささかの遺漏をも残さないこととなるとの意であり、御当代のお立場として万全な仏恩報謝を心掛ける意味で仰せられたのである。日昇上人・日淳上人・日達上人に「過失」や「遺漏」があったなどとはどこにも仰せになっていない。普通の読解力があれば理解できそうなものであるが、これも例の誣告と言うべきである。

また「相承箱」「血脈詐称」などと血脈相伝のことを云々しているが、御相承を受けていない者に血脈相承のことを論ずる資格などない。身の程を弁えよ。

日顕上人の御代替法要には揃って参列し、正信会問題の時には、声高に唯授一人血脈相承の大事を訴え、長年御法主上人と仰いでお仕えしたにもかかわらず、都合が悪くなると平気で血脈相承を否定し出すのは、まさに天に唾する狂態である。離脱僧らは、万事に変節はなはだしい創価学会と共に、反逆者の常の姿であると断じておく。


<袈裟・衣を着す資格のない離脱僧>

法を説く者として、「信徒を悩ませる説法をしてはならない」という初歩的な心得すら守れない日顕には、もはや袈裟衣を着す資格すらない。

日蓮正宗信徒が、御法主上人の御説法を聞いて悩んでいるかのような言であるが、悩んでいるのは彼ら離脱僧だけである。日蓮正宗の僧俗には、御法主上人の御説法を聞いて悩んでいる者など一人もいない。また「袈裟衣を着す資格」のないのは、宗門に反逆し離脱し還俗した離脱僧らの方である。未練がましく袈裟・衣など着さず、今すぐ法衣を脱ぎ創価学会員となればよいではないか。


<宗内書籍に「遺漏(いろう)」は、スリ替えの難癖>

『日蓮正宗の行事』には、「宗旨建立法要とは、(中略)立宗を宣言あそばされた建長五年四月二十八日を記念して云々」と明記されている。その内容に重大な遺漏があるなら、責任者の日顕が読者に詫び、不明を恥じて身を隠すべきではないか。平成一〇年に発行した『法華講員の心得』でも、立宗会は四月二八日とされ、三月二八日の意義など説かれていない。

さらに三月二八日に「開宣大法要」なるものを奉修した以上、本年一月一日に出された『日蓮正宗入門』の中ではどう書かれているのか、説明する義務がある。「そして四月二八日、蓮長は(中略)宗旨を建立されました。」(『日蓮正宗入門』83ページ)「三月二八日」の意義など、一言も述べられていない。日顕は、以前の自分の言動に責任をとるべきだったのである。

自分たちに都合のよい文献を血眼になって漁(あさ)りまくる離脱僧らの姿は、あさましい限りである。

宗旨建立3月28日の伝承を大事にしてきたのは当家のみである。その上から、今回3月28日の宗旨建立の本義を「開宣大法要」の御説法にてお示しになられた中で、「宗旨建立七百五十年を奉修するに当たり、四月二十八日はもちろんのことながら、三月二十八日の意義をも顕彰すべきであると信ずるに至った」(大白法595−2)と仰せであり、「顕彰すべきであると信ずるに至った」その時とは、本年1月28日である。それ以前の出版物に「三月二十八日宗旨建立」の記事がないのは当然である。

離脱僧らは宗内書籍の中で、「四月二十八日」の記載しかないものを挙げ、3月28日の記載がないことが「遺漏」と、御法主上人が述べたように誹謗しているが、先にも述べたごとく、宗内書籍に「遺漏」と仰せられたのではない。スリ替えの難癖に終始する離脱僧らの言は卑劣そのものである。

4月11日の全国宗務支院長会議の砌、御法主上人猊下は、「宗旨建立の主意・主体は、『聖人御難事』の御文を中心として拝するときに、四月二十八日に当たると思います」(大日蓮675−91ページ)と仰せになられている。『日蓮正宗の行事』などの行事関係の書に、これまで行われていない行事の説明がないのは当然である。

平成14年1月28日以前に出版された宗内の書物で、専門的な『富士年表』『日蓮正宗要義』『日蓮大聖人正伝』には、「内証の宣示」として3月28日宗旨建立の意義も明記されており、信徒向けに書かれた『日蓮正宗の行事』『法華講員の心得』『日蓮正宗入門』には4月28日のみを記載しているのであり、離脱僧らの誹謗は全く当たらない。


<名聞名利と慢心は池田創価学会>

シアトル裁判の敗北に慌てた日顕が、バカげた思いつきから「三月二八日」の話題作りを考え、そのうちに持病の名聞名利の心がふくらんで先師否定の慢心説法まで行うに至った。これが事の真相であろう。

「シアトル裁判の敗北」などと言っているが、何度でも言う。この裁判は創価学会が屈辱的な和解に応じて、宗門側が勝訴以上の大勝利で終わったものである。

よって「敗北に慌ててバカげた」誹謗中傷をしているのは、離脱僧らの方である。「持病の名聞名利」とは、勲章漁りに血道をあげる池田大作のことであり、「先師否定の慢心」も、戸田城聖氏の宗門外護の赤誠を蔑(ないがし)ろにし、創価学会の規則と会則から「日蓮正宗」と「本門戒壇の大御本尊」を削除した池田創価学会と、配下の離脱僧らのことであると言っておく。


<離脱僧らの言は揚(あ)げ足とりの揣摩憶測>

『日蓮正宗入門』が出版された、一ヶ月後、監修者の日顕が宗旨建立という重大事項の解釈を変更し、同書の記述内容を否定したのだから、総監の藤本ら「記念出版委員会」の連中は面目丸つぶれである。

『日蓮正宗入門』につき、御法主上人が「同書の記述内容を否定」したなどと言っているが、御法主上人猊下はどこにも『同入門』の記述内容を否定などされていない。

むしろ「宗旨建立の主意・主体は、『聖人御難事』の御文を中心として拝するときに、四月二十八日に当たる」との御指南は、『同入門』の宗旨建立についての「四月二十八日」の記述を積極的に肯定するものである。よって「記念出版委員会」の面目がつぶれることなどあり得るはずもなく、一同、「三月二十八日宗旨建立」の深義を深く拝受できたのである。離脱僧らの言は揚げ足とりの揣摩憶測にすぎない。


<諸天も寿(ことほ)いだ開宣大法要の盛儀>

「開宣大法要」に、二〇〇名ほどの末寺僧侶が欠席し、参加した者が「テェックされるから渋々登山した」と言っているのも無理からぬことである。日顕の「立宗二回説」は無用な混乱を引き起こしただけで終わった。

「チェックされるから渋々登山した」と言っているが、デタラメもいい加減にせよ。「開宣大法要」は当初、代表僧侶(慶祝記念局委員)76名のみで行われる予定であったが、自由希望出仕も許可されたため、480名もの僧侶が参集し、盛大に「開宣大法要」が奉修されたのである。

しかも諸天の加護により、前後の3月27日と29日は大雨であったが、「開宣大法要」当日の28日だけは好天であった。また総本山の桜も当日に合わせたかのように、例年になく早期に満開となり、全国の信徒代表、また遠くは世界各国より、「開宣大法要」に馳せ参じた多数の海外信徒も大いに喜んだのである。法界全体がこの大法要を寿ぐ現証と言うほかはない。このように「開宣大法要」が大成功裡に行われたことを妬んだ、離脱僧らの不条理な言いがかりは「笑止の極み」であり、「無用な混乱を引き起こし」ているのは離脱僧らの方である。



 九、 民衆救済の使命は日蓮正宗僧俗のみ

「立宗二回説」は宗史をもてあそぶ戯論にすぎず、一閻浮提広布、民衆救済の念が見当たらない。「開宣大法要」の中で、「宗旨建立の説法が三月と四月の二回の二八日にわたって存していたと拝し奉る」と述べているが、仮にそうだとしても、二回に分けて法要を修する意味がどこにあるのか。

宗旨建立法要とは、御本仏の大慈大悲に対して御報恩謝徳申し上げる儀式である。ゆえに『日蓮正宗の行事』では「大聖人の立宗宣言は信と謗、善と悪の一切に対して行われたのであって(中略)一切民衆と宇宙法界に妙法を下種されたところに立宗宣言の究極の意義がある」「宗旨建立法要は、このような宗祖大聖人の大慈悲に対し奉りご報恩申し上げる儀式であって、(中略)いよいよ信心を強盛に死身弘法の決意を新たにすべきであります」(同書43ページ)と、宗旨建立法要の意義が大聖人の民衆救済の大慈悲に対する御報恩にあることを明記している。

また平成一〇年に宗務院が発行した『法華講員の心得』でも、「立宗会は、すべての人々を救う唯一の正法が建立された日を祝い、日蓮大聖人にご報恩謝徳申し上げる法要です」(97ページ)とあり、民衆救済に力点を置く説明がなされている。

「仮にそうだとしても」とは、尊い御本仏の御事蹟に対して、何たる言い草か。不信心の離脱僧らには、御法主上人の深い御内証よりの御説法が宗史をもてあそぶ戯論に見えるようであり、2回にわたって御報恩の法要を奉修することが「民衆救済の念」を忘れた行為に映るらしい。

本宗における宗旨建立法要は、大聖人の大慈大悲に対して御報恩謝徳申し上げる儀式であり、それと共に令法久住広宣流布と民衆救済を御本仏日蓮大聖人にお誓い申し上げる重大な儀式なのである。

日蓮正宗の僧俗は、今般の御説法によって、大聖人が3月28日と4月28日の二度にわたり、甚深の意義の上から宗旨建立をあそばされたことを領解し、大恩まします御本仏日蓮大聖人に対し奉り一層の御報恩の念を懐いた。

その上から、本年の宗旨建立750年の大佳節に当たり、「三月」と「四月」のそれぞれに大法要を厳粛盛大に奉修申し上げるとともに、僧俗一致して折伏に励み、法華講30万総登山をもって御報恩謝徳し奉るべく懸命に精進しているのである。

離脱僧らは「民衆救済」を声高に叫んでいるが、真の民衆救済とは人類が煩悩・業・苦の三道を法身・般若・解脱の三徳と開くところの、即身成仏の功徳を得せしめる以外にはない。そして、即身成仏とは『生死一大事血脈抄』に説かれる「生死一大事の血脈」にその肝要がある。

即ちそれは、唯授一人の「法体の血脈」を根本に、僧俗異体同心に南無妙法蓮華経と唱える「信心の血脈」によって叶うことは、離脱僧らには全く判るまい。僧俗一致して真実の「民衆救済」に励んでいるのは、邪教創価学会ではなく、日蓮正宗のみであると明確に断じておく。


<3・4月の明快な御指南への愚劣な邪難>

日顕は「開宣大法要」で三一世・日因法主の「三四会合抄」を出し、「三月二八日」の題目が「内証開顕」、「四月二八日」の題目が「外用流通」と言っているが、同抄で「但し、四月二八日の外用方便の題目の中には、御内証真実の本門の題目を含在する也」(同・中巻39丁)と述べている箇所は無視している。

大聖人の宗旨建立は民衆救済のためにあったのだから、「外用」の中に「内証」を摂するとする見解は、広宣流布への信心に基づくものと言える。因師が宗門に前例のない三月二八日の立宗会を強行した背景には、立宗三月説も存在することをあえて宗内に教えたい、という思いがあったとも推察されよう。

歴代先師の多くが、大聖人が「外用」の題目を唱えられた「四月二八日」をもって宗旨建立法要を行ってきたことは、御本仏の民衆救済の大慈悲に対し奉る御報恩としては、理に適っている。日淳上人は、大聖人の宗旨建立を建長五年四月二八日と明示され、「この日このことこそ実に重大なる御意義を有するのであってこれによって衆生成仏の道が開かれ云々」(『日淳上人全集』155ページ)と述べている。

ここで離脱僧らは、御法主上人が御説法において「内証開顕」と「外用流通」と述べておられるとしているが、御法主上人は今回の御説法において、そのような成語は一度も用いられていない。御説法の内容を云々する前に、正確に拝すべきであると言っておく。

また離脱僧らは日因上人を「日因法主」と呼び、「日淳上人」の呼称と差別している。御歴代上人に対し、気ままに呼称を差別して憚(はばか)らない離脱僧らの所業は、自らの邪心を師とするものであり、根本的に狂っていると指摘しておく。

だから日因上人が3月28日に宗旨建立会を奉修あそばされたお心を、「立宗三月説も存在することをあえて宗内に教えたいという同師の思い」程度の浅薄な理解しかできないのである。

次に離脱僧らは日因上人の『三四会合抄』の御文を引いて「四月」説を強調し、日顕上人を誹謗しているが、「開宣大法要」における御法主日顕上人の御説法をよく拝した上で述べているのか。もしそうなら救いようのない程頭が悪いとしか言えない。

御説法では、3月と4月における内証宣示と化他弘通の両義は、久遠元初の妙法蓮華経を御所持あそばされる御内証があって、はじめて化他弘通も叶う。しかし、末法一切衆生救済のための、三大秘法開顕に至る一期の御化導の開始という上からは、4月がその始まりであり、故に4月28日を宗旨建立の主体と拝すべきであると御指南なされているのである。

4月の宗旨建立における外用の題目には、内証の妙法が具(そな)わることは当然であり、御法主日顕上人がその意義を無視したかのような離脱僧らの言は、悪意に満ちた見当違いの邪難であると言っておく。


<野干(やかん)の離脱僧らが師子王を吠(ほ)えるは大罪>

日顕は、「まさしく大聖人様が虚空蔵菩薩より帰依の宝珠を受けられたこの日こそ宗旨建立」の二八日だった、などと妄想を逞しくしているが、大聖人が虚空蔵菩薩に向かって「日本第一の智者となし給へ」と祈願されたのは、広宣流布による民衆救済のためである。

大聖人は「日蓮生れし時より・いまに一日片時も・こころやすき事はなし、此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり」(御書1558ページ)と仰せである。広布妨害を生業とするに至った日顕には、宗祖・歴代法主の広宣流布・民衆救済という根本精神がまったく分かっていない。

ここでも離脱僧らは、御法主上人への悪口罵詈に終始し、大聖人の宗旨建立と虚空蔵菩薩との重大な関係については全く無視している。

御法主上人が「開宣大法要」の御説法中に挙げられたごとく、大聖人は諸御書に3月に清澄寺で宗旨を建立あそばされたのは、虚空蔵菩薩の御恩を深く報ずるためであることを御指南なされている。この大聖人のお心を拝するとき、『撰時抄』『教機時国抄』など、特に「時」について重視あそばされた大聖人が、宗旨建立という重大な時を定められるのに、気まぐれでお決めになられるはずがない。

故に、虚空蔵菩薩より大智慧を賜ったその日こそが宗旨建立の日、すなわち28日であり、その上から3月と4月の2回にわたる宗旨建立の意義が明らかに拝せられるとの御指南こそは、まさに御仏智を拝されたものと、僧俗一同、目から鱗(うろこ)が落ちる思いで、深く信解し奉ったのである。

三宝不信の大謗法団体・創価学会を破門駈遣あそばされ、真の僧俗一致による広宣流布への道を切り開かれた御法主日顕上人こそは、宗祖大聖人・御開山日興上人以来の御歴代上人の広宣流布・民衆救済という崇高な精神を受け継がれたお方であり、離脱僧らの御法主上人への誹謗は、野干(やかん)が師子王を吠える大罪であると断ずる。


<離脱僧らの誹謗こそ魔性の仕業>

立宗七〇〇年の時の宗門は、やはり四月に大法要を行ったために虫払い法要を恒例通り執行できなかったが、後に、同年八月二四日に繰り下げて虫払い法要を厳修している。今回、日顕は前もって虫払いを済ませたと言っているが、同法要には、大聖人の御真筆等を目の当たりにした僧俗門下が「正法護持」と「妙法広布」を誓うという意義が込められているはずである(『日蓮正宗の行事』38ページ)。

伝統の虫払い法要を中止して三月二八日に法要を強行したことは、御書を伝持しようとの御書根本の精神がまったくない証左である。本山所蔵の「諌暁八幡抄」に、「日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月二八日より・・・」(御書585ページ)とお認めあることを拝信できず、この御書を宗門僧俗に拝観させまいとした日顕−詐称法主ならでは、の魔性の仕業と言えよう。

本年は、「開宣大法要」と「特別大法要」の諸準備のために、恒例の「御霊宝虫払大法会」は休止し、御真筆御本尊等の重宝のお風入れは、前もって2月13日に執り行われた。昭和37・38年にも、大客殿建設のために虫払会が休止された事例もあり、常識人であれば大法要を前にして臨時の措置を行うことは、至極当然のこととして理解できるのである。

ましてや通常の年の「虫払会」においては、時間の関係と法要が儀式として奉修されるため、重宝の御修復のために十分に調査を行うべき余裕がないが、本年はかえってそれを十分に行うことができたのである。

しかるに、かかる至当な措置に対して、「こっそり済ませた」と揶揄し、剰(あまっさ)え、『諌暁八幡抄』を宗門僧俗に拝観させまいとした、などという邪推極まる謗言をもって、御法主日顕上人を口汚く詈(ののし)る離脱僧らの所業こそ、まさに魔性の仕業と言えよう。総本山大石寺に格護する御霊宝拝観の資格を自ら放棄して、仏法破壊に狂奔する離脱僧らが、「虫払会」の休止についてとやかく言う筋合いではない。



 十、 卑劣な離脱僧らに鉄槌を下す

日顕が「思いつき」で宗旨建立の大事を曲解しようとしていることは、許しがたい愚行である。二月八日の「緊急指導会」の席上、日顕は、三月二八日に「開宣大法要」を行うと発表。そして「三月にも四月にも宗旨建立の意義をもってのお振る舞いがあらせられた」と何の文証も挙げずに言い出し、「唱題行中に心のなかに浮かんできたのです。そして『今日は何日だったかな』と思った時に、『あ、今日は二八日だ』という一つの不思議を感じさせていただいた」と述べたのである。

日顕が勤行中に居眠りする常習犯であることは、誰でも知っているが、その時の寝ぼけ話をもとに「三月二八日に『開宣大法要』を行う」と言い出したのだから、呆れてものも言えない。

言うまでもなく、大聖人は「利根と通力とにはよるべからず」(御書16ページ)と仰せになり、経文によらず、怪しげな霊感などに頼ることを厳に誡められた。また夢をもとに天台宗の教えを曲げた慈覚に対し大聖人は、「夢を本にはすべからず」(御書282ページ)と呵責されている。唱題中の寝ぼけた「夢」をもとにして「立宗二回説」なる妄説を唱え出した日顕が、大聖人から「平成の慈覚」と厳しく弾呵されることは間違いない。

さらに言えば、日顕は、「僭聖増上慢」として、大衆から敬われたい一心から、「六通の羅漢」であるかのごとく振舞っている、とも言えよう。日顕は、他の誰にも聞こえない大聖人の「御指南」が聞こえた、などと言い、自分を特別な存在に祭り上げようとしているのであり、新興宗教の教祖よろしく、霊感を売り物にする日顕−平成の「僭聖増上慢」「慈覚」の正体は、ますます明瞭となった。

今回の日顕のごとき霊感的な教義改変を漫然と見過ごすならば、歴代先師が身命を賭して守り伝えてきた正法正義は、やがて灰燼に帰することになろう。日顕の霊感狂いは、危険極まりない思想である。宗祖大聖人が「通力」や「夢」をもとにした経文解釈を徹底的に破折されたその深意を拝し、宗開両祖の正義を守り抜くためにも、我々は今後、日顕の霊感説法を断固破折し抜く決意である。

以上、日顕は、シアトル裁判敗北の目くらましと、名聞名利の心とから、何の意味もなく「立宗二回説」を唱え出した。この妄説には「民衆救済」の観点がまったく欠落している。ゆえに「開宣大法要」なるものは「儀式のための儀式」となり、宗内僧侶が二〇〇名ほど欠席するという大失態を演じた。寝ぼけ詐称法主の日顕こそ平成の僭聖増上慢であり、大石寺門流を邪宗化させた宗門の慈覚に他ならないのである。

我々日蓮正宗改革同盟・青年僧侶改革同盟は、富士門流の正統としての立場から、まことに笑うべき稚説といえども、今回の日顕の妄説邪義をここに粉砕し、もって石山の正義を称揚せんとする次第である。

この段は離脱僧らの邪難の最終部分であるが、最後まで低劣愚劣な悪口中傷の羅列にすぎない。

まず、「シアトル隠し」などの言は前に論破したように、「クロウ事件」は宗門側の大勝利であり、日顕上人が隠される必要などは全くない。よって本年2月8日に堂々と、裁判終結に当たっての指導会が開かれたのである。

また離脱僧らは御法主上人猊下に対して、「日顕が勤行中に居眠りする常習犯である」などと揶揄している。しかし宗内の僧俗は御法主上人の勤行、唱題行における凛然たるお姿を長年拝しており、離脱僧らのそのような大嘘は、宗内の僧俗に全く通じない。「蛇の道は蛇が知る」というが、信心の全くない彼ら離脱僧のことであるから、自分ら仲間の姿そのものを、このような謗言に仕立てたものと返しておく。このように離脱僧らは、奸計・邪智であらゆる誹謗を作り上げるのであり、その心情の卑劣さは世に並ぶものもあるまい。

さらに離脱僧らは、日顕上人の小事ではあっても不思議を感ぜられたあらゆる御発言の言葉尻をとらえて罵(ののし)っているが、このような見当違いな迷見・邪見によって、目先のことすら正しく見ずに正師を怨嫉する汚れ切った心底では、日顕上人の高邁な御心を理解できるわけがない。

どんな小さな日常の事にも奥深い不思議が潜んでいる。万物の不思議さを開いていくことこそ妙法の用(はたら)きではないか。日顕上人はあらゆる機会に、種々の趣意について、宗門に広く御言葉を述べられている。その中で、ある時には、目先だけの認識以上のものが、不思議の内容として存在することを、聴衆に知らせようとするお心から、些少(さしょう)なことの中にも妙法の不思議が存していることを示されているのだ。それを摧尊入卑して、いかがわしい邪宗の霊感教化に擬するなど、まさに貪りと瞋りと愚癡に終始する離脱僧ら「怪狢動迷(かいかくどうめい)」の愚心躍如と言うべきである。

次に夢の話をもって慈覚に擬(なぞら)えているのも、例にならぬ例をとっての誹謗の繰り返しにすぎない。大聖人の「夢を本とすべからず」との『撰時抄』の御指南は、慈覚の日輪を射る夢を吉夢にあらずと批判され、真言への傾倒を破折されたものであり、大聖人は決して夢そのものの仏法上の意義を否定などされてはいない。

すなわち摩耶夫人が日種太子(釈尊)を産まれる前に見た日を孕(はら)む夢、後漢の明帝の金人の夢、遺竜(いりゅう)の見た父・烏竜(おりゅう)の夢、阿闍世王(あじゃせおう)の夢による改心、『開目抄』の夢中の羅刹による懺悔発心の御指南等、枚挙に暇がなく、特に『産湯相承事』には、御両親の霊夢を御指南あそばされるところである。

離脱僧らの主張に従えば、これらの貴重な御指南も誤りということになるがどうか。我々の生命は意識・無意識を問わず一念三千の当体であり、夢もまた法界の一分であることが、不信心にして生命の不思議を感得できぬ離脱僧らには全く理解できないと見える。

さらにまた、夢の話と3月の大法要奉修の理由を一緒にしているのは、誣言もはなはだしい。夢に関する件は、小事ではあっても、日顕上人が不思議の一分として、元旦に夢をごらんになられた折の御心中を述べられたのであり、3月宗旨建立に関する件は、元日の夢の話とは全く関係がない、全然、別の日である1月28日の唱題行中の話ではないか。

すなわち御法主上人は、古来、宗門に3月28日宗旨建立の文献や、3月の行事のあったことは無論御承知あそばされていたが、何故3月と4月の宗旨建立が共に28日と伝えられているかについてお考えになられていたと拝する。

それが、1月の唱題行中、28日という日こそ『清澄寺大衆中』の御文よりして、虚空蔵菩薩への祈念と深い関係があると心感あそばされたのであり、その日が唱題行も終わりに近い28日だったということである。そしてその28日という日におけることとして不思議の感を述べられたまでである。離脱僧らが誣言するごとき夢の話とは全く関係がないのである。

また離脱僧らは、3月の「開宣大法要」はこのことからの思いつきだとして軽蔑嘲笑(けいべつちょうしょう)するが、日顕上人は23年にわたって宗門を統率し給い、このたび宗旨建立750年の慶事に当たって仏恩報謝の大浄行をあそばすべき責任者としての御境界であらせられる。

御法主日顕上人猊下は従来の宗門史上の3月・4月に長く思いを秘められつつ、本年の唱題行に深い御仏智を拝し給うたのであり、血脈に背き誹謗怨嫉を事とする、自称「日蓮正宗改革同盟・青年僧侶改革同盟」を名乗る離脱僧らの心地とは天地雲泥であると鉄槌を下し、その悪書「日顕の『立宗二回説』の邪義を破す」の粉砕を了える。



※  ※  ※  ※  ※

■ 『創価新報』掲載の離脱僧の駄文を重ねて粉砕す ■



 十一、離脱僧らの悪書の論拠は総崩れ

<離脱僧らに「糺問(きゅうもん)」の資格なし>

三月二十八日の「開宣大法要」に於ける貴殿の説法に触れ、宗内より種々の疑念が生じ、我々同盟員としても黙視すること能わず、貴殿に糾問の書を提示する。貴殿が宗旨建立三月四月説を持ち出した意図につき、シアトル裁判敗北のめくらまし、或いは、若手の教学陣に乗せられ、共謀し、等々、種々の憶測が宗内に起こっております。

自称「憂宗護法同盟」を名乗る離脱僧らは、「開宣大法要」での御法主上人猊下の御説法に関し難癖(なんくせ)をつけているが、彼らは「宗内」の者ではない。よって「糺問の書」などという愚書を提示する権利も資格もない。

無論、宗内に疑念など全く無い。彼らの「種々の憶測が宗内に起こって居り」の言自体が、勝手な「憶測」にすぎない。

また「宗旨建立三月四月説を持ち出した意図」とは、馬鹿げた話である。今回のクロウ事件裁判の和解は、宗門側の勝訴判決以上の大勝利、学会側の大敗北が明白であり、「裁判のめくらまし」で隠蔽する必要などないからである。

さらに「若手の教学陣に乗せられ、共謀し云々」とは、血脈承継の御立場から、宗内を教導あそばされる御法主上人の甚深の御境界に対し、「燕雀安(えんじゃくいずく)んぞ」の箴言そのものの痴言である。

ゴーストライターに『人問革命』と題する原稿を執筆させる池田のような人間を信奉しているために、そのような歪(ゆが)んだ発想しかできないのであろう。笑止の極みである。


このような法話を、為し得ることこそ大問題であり、日興上人・寛師等の先師の名誉の為にも、看過し得るものではない。

血脈承継の御法主上人が下種仏法の大事を開陳あそばされたのである。門外漢が「大問題」などと言える筋合いはない。

また、さんざん「大聖人直結」を振り回し、血脈法水を軽んずる輩が、どうして血脈付法の御歴代上人を引き合いに出し、その名誉などと云々することができるのか。矛盾の最たるものと呵(か)すものである。


<3月口伝(くでん)説は離脱僧らの呆れた詭弁>

宗旨建立四月説に加え、三月説が存したという事実は動かし難く、こう言った現象が由来する淵源として、二つの点が考えられる。

一つは眞蹟、録内、録外を問わず、宗祖の遺文に、三月・四月の両説があったことに由来する場合、もう一つは、宗祖自身の口述(口伝)が伝承され、後にそれ等が記録されたものに由来する場合である。

ここで離脱僧らは、宗旨建立3月・4月説を拝考する上で重要な、「眞蹟(しんせき)、録内(ろくない)、録外(ろくげ)を問わず、宗祖の遺文に、3月・4月の両説があったことに由来する場合」を自ら挙げておきながら、以後これについての正当な論及はない。「三月」説はあたかも口伝のみの伝承であるかのごとく曲論しているのである。

因師が「三四会合抄」で、「六老僧等の直聞の方々は多く三月二八日を取る也」(中巻37丁)と言っているのは、宗祖の口述(口伝)の伝承に由来する例を示したと拝し得る。「高祖年譜攷異」(安永8年・1779年著)にも、宗祖の遺文と、口述(口伝)を合体させてはいるものの、口伝が三月開宗説の由来になった旨を次の如く述べている。「霊記、國字傳、紀年、付属書註釈、皆、三月開宗ト曰フハ、是レ清澄寺大衆三十三−十九、大白牛車外五−四十、南部外二十五−三十三、宗要、妙経口傳上二十二ノ五書ニ依ル也。」と。

離脱僧らは、3月宗旨建立の根拠は口伝にあると印象づけるために、日因上人著『三四会合抄』中の「六老僧等の直聞の方々は多く三月二十八日を取る也」(正しくは上巻36六丁である)の文を引いている。

しかし、この文は、「御義口伝、安国論等の御講義を大聖人から直接賜った六老僧等の直弟子方は、宗旨建立を三月二十八日と認識していた」との意味である。

むしろ、大聖人の御講義における「三月二十八日」の御指南を証明する内容であるにも拘らず、それを口伝として軽視せんとする手口には呆れる。

また、『三四会合抄』の上巻には厳然と、「三月二十八日の真文を引く」(同5丁)として、『清澄寺大衆中』『大白牛車書』等の御書を文証として挙げられているのである。都合の悪いことは頬被(ほおかむ)りして無視する、彼らの欺瞞性(ぎまんせい)が明らかである。


次に離脱僧らは、『年譜攷異(こうい)』を引き、3月宗旨建立が主として口伝に由来するように論じている。しかし、正当に当該の文を解読すれば、彼らの会通(えつう)の誤りは明白である。

すなわちこの文の意味は、「霊記、國字傳、紀年、付属書註釈等が宗旨建立三月説の根拠としているのは、『清澄寺大衆中』『大白牛車書』等の『御書』と、『本門宗要抄』、及び『御義口伝』である」という指摘なのである。

偽書の『本門宗要抄』は除くとしても、『清澄寺大衆中』等の歴とした御書を明記した『年譜攷異』の記述に対し、離脱僧らの「口伝が三月開宗説の由来になった」などという解釈はどこから出て来るのか。驚くべき詭弁と言うほかない。


<身延派同轍(どうてつ)の悪意の文献批判>

宗祖の御遺文を依拠として三月四月両説を論断する場合、遺文の眞偽問題、眞蹟現存と曾存の問題、後世の転写による録内、録外に数種の異本がある等の問題が伏在している。

遺文に依る三月四月説の限界性を宗祖の口述(口伝)が補え得るかと問えば、一概に言い切れぬ。口述・口伝が伝承される過程で文献化され、相伝書として固定化されてしまうが、その扱いは真偽という一点に於いて、遺文の真偽判定以上に複雑な問題が介在してくる。

「御義口伝」及び興師自筆と伝えられる「安国論問答」も、堀上人が指摘する如く、真偽という点で考証の余地が残されている。

彼ら離脱僧は、あたかも学術的論証でも試みているような書きぶりだが、御書の真偽判定という大事に臨んでは、血脈相伝を根本とした信心と深い教義的素養が必須である。不相伝の輩が文献学的研究の美名のもとに恣(ほしいまま)に御書の真偽を専断することは、自門流にとって都合の悪い御書を偽書と貶(おとし)める弊害が避けられない。

その顕著な例が身延派の宗学者浅井要麟らの研究である。彼らは、不相伝の僻見(びゃっけん)により、宗祖本仏義を指し示す御書につき、ことごとく疑難し、偽書、乃至傍系思想と貶した。

離脱僧らが「遺文に依る三月四月説の限界性」などと言うのもこれと同轍である。大聖人の真書として全く問題のない御書を、宗旨建立について「三月」と記述される故に、ことさら信憑性に欠けるように貶めるものであり、御開山上人の「御抄何れも偽書に擬(ぎ)し」との御遺誡そのものの、悪意の文献批判である。

また、相伝書に対しても疑義を呈(てい)しているが、これまた身延派等の偽の相伝書と本宗の真実の相伝書を混淆(こんこう)し、学術研究の美名のもとに否定せんとする邪念が明白である。

さらにまた、『御義口伝』、及び『安国論問答』に対し、日亨上人が疑義を呈されているように述べているが、このような疑難は離脱僧ら得意の捏造(ねつぞう)、スリ替え以外の何物でもない。


<大聖人の真撰(しんせん)を軽んずる離脱僧>

宗祖御遺文に就き、四月説は、眞蹟が現存して居り何ら問題はない。三月説に就いては、依拠となる眞蹟が曾存であったとしても、現存する眞蹟は皆無という欠点がつきまとい、三月説の論断には疑念が残る。

因師以降、三月四月の両説の論断は見られず、近年、日淳猊下の論断があるのみである。その講説に接した小川慈大師は、「堀米猊下は虚空蔵菩薩縁日を重視して、三月説正意歟(か)との取意であった。但し、その何れかを論断し難い。」(小川慈大遺稿集本)と述べている。

貴殿は、三月説を主張しているが、「依拠の眞蹟皆無」という決定的な問題から逃れることはできない。

貴殿は、法話の中で、三月説の衣文として、「清澄寺大衆中」「大白牛車書」「御義口伝」「破良観御書」の四書を挙げて居る。この中、御義口伝は、宗祖、御口述の興師筆受であり、「破良観御書」は、眞蹟不存の身延録外であるから論外としても、眞蹟曾存の「清澄寺大衆中」「大白牛車」の二書、及び「御義口伝」を加えた三書に就いて、貴殿は、明治以降の発行の他門の御書、更に自門発行の「御書全集」等は、古来の所伝の「三月二十八日」を「四月」に改変したと、改変の根拠には触れず、但だ漠然と述べている。

先にも述べたが、御書を拝する上で重要なことは、御真蹟の有無ではない。御真蹟が存在せずとも、当該御書が大聖人の真撰であれば、その内容には御本仏日蓮大聖人の御心が篭もっているのであり、仏の金言として深く拝信すべきは『開目抄』の例に明白である。

『開目抄』と同時に焼失した『清澄寺大衆中』について御真蹟が存在しないことを奇貨として疑義を呈し、その尊い御金言を否定するのは不相伝家の手口そのままである。

また『破良観等御書』は、延山録外ではあるが、内容的に何ら疑わしいところがなく、大聖人真撰の御書としてすべての御書に収録されている。それを御真蹟の不存在を理由に論外として斥(しりぞ)けるとは、これまた呆れ果てた心根である。

『御書全集』で6ページ(4,400字余)程の『破良観等御書』を、学会版の講義では、実に120べージ以上にもわたって入念に記述している。その重要な御書に対し、離脱僧ら創価学会一味は、今回、自分たちの都合によって論外と斥けたのである。「御書根本」が聞いて呆れる不敬(ふけい)ぶりではないか。

今さら言うまでもないが、「三月」宗旨建立の依文となる『清澄寺大衆中』『大白牛車書』『破良観等御書』の三書が大聖人の真撰であることは揺るぎなく、日興上人筆受『御義口伝』もこれに準ずるものであり、これらの御書を御真蹟の存する4月説の御書と同等に扱うべきことは当然である。このように御真蹟の有無は、「欠点」とか「決定的な問題」などとは全く無関係なのである。


また離脱僧らは、ここでも御法主上人が「三月説を主張」と言っているが、何度も言うとおり御説法の要旨は、大聖人には3月と4月の二度にわたって宗旨建立の御振る舞いがあられたことを御指南なされているのである。

さらに第65世日淳上人の御指南は、宗旨建立について3月か4月かのいずれかに断定されていないだけのことであって、3月説を肯定的に述べられており、また御真蹟の有無によりその断定を避けられたものでもない。

次にまた、御法主日顕上人猊下が他門の御書や『御書全集』が「三月」を「四月」に改変したことを、根拠には触れずに漠然と述べたと難癖をつけているが、日蓮正宗機関誌『大日蓮』の5月号に掲載されている御説法中、53べージ以下をよく読むべし。そこには、他門が、「三月」宗旨建立と記載の御書を、「四月」に改変した理由が明確に述べられている。

他者の説を批判する前に、まずその説をよく読むべきことは小学生でも知っている常識である。彼らはただ悪口を言いたいだけで、御法主上人の御説法をまともに読んでもいないから、かかる恥知らずな言いがかりが平然とできるのだ。まさに離脱僧らは、小学生以下の低レベルの徒と断ずるものである。


<杜撰(ずさん)な『年譜攷異(ねんぷこうい)』だけが離脱僧の根拠>

他門の明治以降、発行の御書すべてが、三月を四月に改変するに、何の根拠もなく、為されるはずはない。小林是恭師は、「開宗の月について」と題する論考で、宗祖全遺文中、三月四月の箇処を精査し、「旧内外本では三月説と四月説は均等。大本で清澄、大白の二書共に四月と記したことから四月説が圧倒的となった」と述べている。而して、その根拠に就いて「年譜攷異が、清澄書等の正本の文字が古字の二二とあるを三と見誤ったとの意にしたがって大本が凡て四とした結果の如だ」と論断している。

離脱僧らはここで、明治以降の他門の御書、また『御書全集』が、「三月」と伝承される御書を「四月」と改変したことについて、小林是恭の説を用いて得々と述べているが、小林説は、杜撰(ずさん)な考証で極めて信憑性の乏しい『年譜攷異』の記述の影響を紹介したものにすぎない。

これを有り難がって鵜呑(うの)みにする離脱僧らの知的レベルが知れよう。また正系門家に違背する輩は必ず不相伝家の邪見迷見を拠り所とするものであり、これ以降の論旨にそれが顕著である。


「高祖年譜」、「同攷異」は、信を置くに値する。その考証の精確さに於いて、宗祖門家全般のみに止まらず、門家外の一般史家に於いても、その権威は圧倒的なものがあり、高い評価を得ている(辻善之助著「日本仏教史」)。

離脱僧らの詐術(さじゅつ)の巧みさには呆れ果てる。辻氏が『日本仏教史』の当該箇所において『年譜攷異』について述べているのは、単に「考証の参考とすべきものがある」との言葉にすぎない。

それを「その考証の精確さに於いて」とか「その権威は圧倒的なものがあり、高い評価を得ている」などと勝手にいい加減な文章を作り、まるで辻氏がそのような高い評価をしているかのごとく欺(あざむ)いている。不正直そのものの離脱僧らの言はますます信用を無くすであろう。『年譜攷異』が、「信を置くに値する」かどうかは次項以下で論証しよう。


「年譜攷異」の「清澄寺大衆中」の三月四月の考証の箇処を煩を厭わず引文してみる。

「論者ノ曰ク、四月正説ナリ、故ニ松野書外十二−三十四、建長五年夏初ト曰ヒ、又松野書三十四−四十三、建長五年ノ夏ノ頃ト曰フ、乃チ下山書二十六−十二、文永十一年夏頃(六月)ト曰ヒ、一谷書三十五−三十一、文永九年ノ夏頃(四月)ト曰フニ同ジク、即チ其ノ時ヲ指ス、然ルニ、清澄書等ニ、三月ト曰フハ蓋シ、親書四ノ字古字ノ二二ト作レル有ッテ寫シ誤カ、又曰ク、三月正説、故ニ清澄記ニ、三月ト曰ヒ、松野書夏ノ初ト曰フハ、三月閏月有ルヲ以テ也。記健鈔讃鈔(略)今謂ク、初説ヲ是ト為ス。先哲親リ親書ノ遺文ヲ閲シ、四月ト曰フ(扶老十一、三十六、愚案記三)何ノ疑カ之レ有ラン、(略)古暦ヲ按スルニ、建長五年ニ閏月無シ、故ニ閏三月ト曰ハ誤ナリ。清澄記、三月ト作レルハ、蓋シ、印本清澄大衆書ヲ襲スルノ誤也。」(日蓮上人伝記集、年譜攷異P28・29)と。

ここに明らかな様に、後世編集の異本には執われず、眞蹟があるものはどこ迄も眞蹟に依拠するという「攷異」の厳格な考証態度が伺える。その上で、身延の碩学、「録内扶老」の日好、「見聞愚案記」の日重等が、「清澄寺大衆中」の眞蹟を閲した事実を指摘した上で「清澄寺大衆中」の四月説を断定しているのである。

『年譜攷異』の著者である日諦は、立宗が4月のみであると思い込み、その編纂に当たっているのである。「親書四ノ字古字ノ二二ト作レル有ッテ寫シ誤カ」とは、その日諦の無責任極まる憶測によることが明白である。

すなわち、『年譜攷異』で4月説の強力な根拠として挙げているのが、「先哲親リ親書ノ遺文ヲ閲シ、四月ト曰フ(扶老十一、三十六、愚案記三)何ノ疑カ之レ有ラン」との部分である。しかるに、『扶老』及び『愚案記』の当該箇所を精査すると、『清澄寺大衆中』の「三月」について、日諦が、「親書四ノ字古字ノ二二ト作レル有ッテ」などと推測しているようなことを裏付ける記述は全く存在しない。

すなわち『録内扶老』には、「三十三巻清澄寺書ノミ三ノ字ニ作ル故ニ三ノ字誤ナルベシ」(本満寺版録内扶老636ページ)とあり、録内御書の『清澄寺大衆中』における宗旨建立の記述が、3月であることを明確に述べている。

この「清澄寺書ノミ三ノ字ニ作ル」とは、録内御書中、他の御書はすべて4月と記されているが、『清澄寺大衆中』だけは3月と記しているとの意味である。よって『録内扶老』の著者・禅智日好は、精密な考察もなく、単に多数決的判断によって4月が多いから正しく、3月は誤りであると結論づけているにすぎない。日好が御真蹟を拝した記録も存在しないのである。

また一如院日重著『見聞愚案記』3巻の、宗旨建立に関する記述は次のとおりである。

「御宗旨建立ノ月日一両所ノ御自筆ニ四月廿八日ト御遊ス 又建長五年夏比ヨリモト御遊タル事モアリ 注画讃云(中略)建長五年癸丑三(或作四)月廿二日ノ夜ヨリ室内ニ入リ出玉ハズ廿八日ニ朝日ニ向ヒ掌ヲ合セ十遍バカリ始テ自ラ南無○経ノ七字ヲ唱へ玉フ文 注ノ或作四正義ト見タリ」(見聞愚案記3巻62丁)

このように『愚案記』では、まず「四月」宗旨建立が御書によるとし、さらに『註画讃』の宗旨建立の記述を引用し、「注ノ或作四正義ト見タリ」と述べ、これを4月正義説の根拠としているにすぎない。

すなわち日重は、3月説の根拠としての『清澄寺大衆中』の御真蹟を拝した上で、自説を述べているわけではなく、あろうことか離脱僧らが、「史界に於いて事実に潤飾多し」、「史的資料としての価値は疑問視されている代物」と酷評する『註画讃』の、「或作四」の記述をそのまま依用しているのである。

よって、『年譜攷異』の、『清澄寺大衆中』の印本に3月とあるのは、旧字の四、すなわち「二二」の写し間違いかなどとの日諦の指摘は、日好・日重の両書には何の関係もなく、全く日諦自身の勝手な憶測であることが明白である。

以上、日諦の『年譜攷異』が、「先哲親リ親書ノ遺文ヲ閲シ」と賛嘆するその先哲の書には、そのような事実は全く存在せず、日好・日重とも、御真蹟によらず、独断と偏見により、あるいは『註画讃』などを根拠として浅薄な結論を出しているにすぎないことが証明された。

要するに、離脱僧らが「考証の精確さ」を讃える『年譜攷異』とはその程度の杜撰極まりない書なのである。

彼らは「眞蹟があるものはどこ迄も眞蹟に依拠(いきょ)するという『攷異』の厳格な考証態度」とか、「身延の碩学、日好、日重等が、『清澄寺大衆中』の眞蹟を閲した事実を指摘した上で『清澄寺大衆中』の四月説を断定している」などと、噴飯ものの侫言(ねいげん)を得々と述べているが、破折班の精細な検証により、離脱僧らの虚言は木っ端微塵に吹き飛んだのである。素人だましの付け焼き刃教学を振り回すのもいい加減にすべきである。


辻善之助氏も、立宗の三月、四月説に言及し、「三月といふ説は、四の字の異體二二の誤寫より訛つたのであらう」と「攷異」と粗同様の結論に達し、三月説を斥けている。同時に、「高祖年譜」、「同攷異」に触れ、「考異には考證の参考とすべきものがある」と高く評価している。これ等の意を受け、日蓮教学研究所発刊の「日蓮教団全史上」の中では、「清澄寺大衆中」を眞蹟曾存とし、四月説の御遺文中に分類し組み入れ、その四月説を断定している。

辻氏の記述は『年譜攷異』の請(う)け売りにすぎないと指摘しておく。

同氏は「日蓮に関する資料の主なるもの左の如し」(日本仏教史3-1ページ)として、『元祖化導記』『註画讃』『蓮公薩垂略伝』『蓮公行状年譜』『本化別頭高祖伝』『本化別頭仏祖統紀』『本化高祖年譜攷異』を挙げている。この中から立宗3月説・4月説の会通について、門外者の辻氏が精査を省略して、『年譜攷異』の説を穏当であると採用しているにすぎない。しかし『年譜攷異』の説は、先にも述べたごとく、あくまでも日諦の単なる憶測であり、信憑性は全くない代物なのである。

伝記というものは年代が近ければ近い程資料として重要視されるべきであり、大聖人滅後50年に第4世日道上人により著された『御伝土代』と、また他門の伝記中で最も古い日朝の『元祖化導記』を度外視し、はるかに時代が下った、しかも信憑性の全くない資料に依拠する離脱僧らの姿勢は論外である。さらに、およそ『年譜攷異』あたりを根拠とする『日蓮教団全史』の分類も、杜撰極まるものと断じておく。


<離脱僧らの邪難は根底から崩壊>

眞蹟を所蔵していた当事者の身延側が、清澄寺大衆中の四月説を断定している以上、貴殿がどの様な屁理屈を述べようと、その主張する三月説は根底から、問い直さざるを得まい。「清澄寺大衆中」の三月説は、あらゆる宗旨建立三月説の主軸となる論点であり、その主軸が崩れれば、あらゆる宗旨建立説は遂に戯論に堕す。宗祖遺文に依拠して、三月説を立論する際には、この「高祖年譜」、「同攷異」の文献考証を反駁せぬ限り、世に認められるはずもなく、と同時に、宗祖遺文に依る宗旨建立三月説の限界も自ら此の辺に存するのである。

離脱僧らは「眞蹟を所蔵していた当事者の身延側が、清澄寺大衆中の四月説を断定している以上」などと大見えを切っているが、離脱僧らの大いなる誤魔化しは、当事者の身延側きっての学者であり、『清澄寺大衆中』の御真蹟を最も拝せる立場にあった行学院日朝の『元祖化導記』をわざと素通りしていることである。

行学院日朝は38年もの長きにわたって身延山の住職だったのである。あの浅井要麟が編纂した「昭和新修」別巻には、日朝の「録内写本目録」が収録されているが、その中には『清澄寺大衆中』も存しているのだ。

すなわち、日朝は事あるごとに『清澄寺大衆中』の御真蹟も拝し、写本まで残しているのである。その行学院日朝が立宗についてどのように記述しているかといえば、

「九、御弘通発心ノ事(中略)建長五年癸丑三月二十八日」(日蓮上人伝記集16ページ) 「十、弘通初ノ事 建長五年三月二十八日(中略)或御書曰、四月二十八日」(同17ページ)

と二箇所にわたり、明確に日朝の意見として3月28日と断定し、その上で別義としてある御書の4月説を紹介しているのである。日朝の立宗3月28日説の根拠となるもの、これこそ自山に存し、38年もの間、事あるごとに目の当たりに拝した『清澄寺大衆中』の御真蹟に依拠していること明白である。

このように、目の当たりに『清澄寺大衆中』を拝した日朝が、歴然と立宗3月説を述べているのである。門下最古の録内御書の目録は第6世日時上人のものであるが、録内の写本御書そのものは日朝本が最古に属すとされている。すなわち、日朝は『聖人御難事』の記述が4月となっていたことも知っていたのは当然である。しかるに、「弘通初ノ事建長五年三月二十八日」と記しているのは、自山に存する『清澄寺大衆中』の御真蹟に記される「三月二十八日」こそ、大聖人の正意であると誇示するものでなくして何であろう。

さらに、『録内扶老』を著した日好、『見聞愚案記』を著した日重、両者ともに身延に晋山しておらず(日重は加歴)、先にも述べたように、『録内扶老』『見聞愚案記』ともに宗旨建立を「四月正意」としているのは、『清澄寺大衆中』の御真蹟を披見(ひけん)していないことを証するものである。またこの両書を根拠に、「三の字は古字の二二の誤写か」と、4月説を主張した『年譜攷異』の誤りも明らかなのである。

このように離脱僧らが頼りとする身延側の資料をもってしても、宗旨建立3月説の主軸である『清澄寺大衆中』の宗旨建立の記述は「三月」であったことが明白であり、『年譜攷異』の憶説はもとより、不相伝家の謬説(びゅうせつ)を金科玉条とする離脱僧らの邪難は、根底より崩壊したのである。


貴殿が「清澄寺大衆中」の三月説を固執するのであれば、明治八年に焼失した「清澄寺大衆中」の眞蹟を「感得」したと強盛に言い募る以外に方策は無い。貴殿の今回の法話は、一度宗外に晒し、その真価を問われれば、立論の根底から揺らぎ、一笑に付されることは明白である。

先に破折したごとく、『年譜攷異』の杜撰な考証の記述と、また離脱僧らが知らぬふりを決め込んだ『元祖化導記』の記述によって、離脱僧らがどのような屈理屈を並べようと、その主張する「三月説否定の邪難」は、根底から崩れ去ったと言わざるを得まい。離脱僧らの主張こそ、内外より一笑に付されること請け合いである。


<御説法の論拠は他門の伝記にあらず>

次に問い糺したいのは、宗旨建立日に関する貴殿の論断である。我々も、宗内も、法話に接し、その立論の根拠が、「蓮公薩垂略伝」(祖滅285年)・「註画讃」(祖滅223年)「元祖化導記(祖滅197年)」と知り、開いた口が塞がらぬ。貴殿が、宗旨建立という宗祖にとって重大な事跡を「28日」に敢えて撰定された意義を立論するに際し、祖滅197年以降に成立した他門の伝記に依拠するとなれば、石山の唯授一人の相伝とは一体何なのかと真剣に問わざるを得まい。所詮、石山の相伝などとは、あの程度と、失笑の的となるのは明らかだ。

御法主日顕上人の血脈相伝を誹謗して、「他門の伝記に依拠するとなれば」などと言っているが、何度も述べたとおり、御法主上人の御説法には明白にその根拠が『清澄寺大衆中』であることが挙げられている。

すなわち、『註画讃』等は28日に関しての参考までに挙げられたものであり、それは御説法中の、「『註画讃』でこれをまとめたものとすれば、その根拠は必ずしも明確とはいえず、これによって虚空蔵の奇瑞が二十八日とは確定はできません」と、はっきり他門の史伝書には依拠できないとの仰せに明白である。

お門違いな誹謗中傷には呆れ返る。しかるに、かく言う離脱僧らこそ、不正確で誤謬(ごびゅう)だらけの他門の伝記を頼みとして、邪難の論拠としているではないか。とんだお笑いぐさという外はない。

宗祖の伝記は、自門他門を問わず、成立の新古に拘わらず、内容が真実か否かによって、取捨される可きであろう。

離脱僧らは知識人ぶって、宗祖の伝記は、「成立の新古に拘わらず、内容が真実か否かによって、取捨される可き」などと述べている。もしそう主張するなら、離脱僧らが引いた『年譜攷異』等の他門の文献は、先に指摘したとおり真実に反しているのであるから、進んで自らの論を捨てるべきなのである。

一般的に、伝記類は古いものほど史的価値があるというのが文献学の常識である。史的資料としても第一級の価値を有する、御開山日興上人の『御義口伝』や、日道上人の『御伝土代』、また、日朝の『元祖化導記』など、離脱僧らにとって都合の悪い文献の史的価値を、窃(ひそ)かに堕とそうとする悪意がまる見えの文言である。


貴殿が依拠した「蓮公薩垂略伝」「註画讃」の二書は、共に史界に於いて事実に潤飾多しと酷評され、史的資料としての価値は疑問視されている代物である。

御法主上人猊下は、『註画讃』及び『蓮公薩垂略伝』などを、全く立論の依拠とはされていない。ただ単なる参考として紹介されているのみではないか、「貴殿が依拠した」などの虚言をもって誣(し)うるのも、いい加減にすべきである。


他門に於いては、宗祖伝記中で最古と言われる「元祖化導記」にしても、史的価値を一往評価されていると雖も、「延應元年己亥十月八日、聖寿十八歳出家説」を採用し、更に「建長五年閏三月説」を主張する等、後世の史的考証からも明らかな事実誤認が指摘されている。「略伝」や「註画讃」を依拠とし、宗祖がその奇瑞の感得を得た日が「28日」であったなどと推断するなどは、まともな神経を有する者なら為し得ぬ業である。

「まともな神経を有する者なら為し得ぬ業」とは、まさに離脱僧らのことと返しておく。

何度も述べるが、御法主上人猊下が、『蓮公薩垂略伝』や『註画讃』などを依拠とされていないことは御説法に明らかである。まともな神経の持ち主ならば、それこそこんな読み誤りはできるはずもなく、卑劣極まる故意の策謀である。

御法主上人には、大聖人が宗旨建立を28日に定められた理由につき、『開目抄』『破良観等御書』、さらには『清澄寺大衆中』の御指南を紙背に徹して拝された上で、甚深の御指南をあそばされたことはすでに述べた。

なお、『元祖化導記』は聖滅197年に身延の日朝が著した宗祖伝で、他門の伝記中では最古とされるが、当門流の日道上人が聖滅52年に著された『御伝土代』より百数十年も下った時代のものである。

よってその内容に一長一短があることは否めないが、宗旨建立について3月としている記述に関しては、身延の歴代として『清澄寺大衆中』の御真蹟を拝し得る立場にいたのであるから、まさに順当なものと言わねばならない。

なお、離脱僧らが事実誤認と批判する『元祖化導記』中の、「十月八日出家説」や、「建長五年閨三月説」などは、日朝が「或記云」、「或義云」と他説を“紹介”しているにすぎないことを教えておく。


宗祖が虚空蔵より感得の奇瑞を得た日が、「28日」であったと論断する論拠として、貴殿は「蓮公薩垂略伝」中の年譜にあるとして左の文を引用している。「延応元年 師得度十八才●十月八日(乃至)智を虚空蔵に祈ること三七日、夢に六十余の耆宿、右手に明らかなる星の如き宝珠をフげ吾に授く」と。が右引く文は、「註画讃」の文である。宗祖自筆の授決圓多羅義集唐決上巻に依り、その奥書中、「是聖房生年十七才」との文から、宗祖十八歳出家説は完膚なく斥けられている。十月八日虚空蔵に立願を始め、十月二十八日明星の如き宝珠を感得したとの「註画讃」の説などは、木っ端微塵に吹き飛んでしまう。

離脱僧らの悪辣さには呆れ果てる。これまで何度も述べたごとく、御法主上人猊下は御説法において、他門の伝記類などは依拠とされていない。ここでその悪辣さを打ち破るために、お言葉を摘示する。

御法主上人は、「正文書たる先程拝読した『清澄寺大衆中』の御文を直接に徹して拝するとき、大聖人様がなぜ二十八日をもって宗旨建立の日と定められたかの理由を、まさにお示しになっていると拝感するものであります」(大白法595号)と仰せられ、次に『註画讃』『蓮公薩垂略伝』については、「その根拠は必ずしも明確とは言えず、これによって虚空蔵の奇瑞が二十八日とは確定はできませんが、かかる発想の意味はありうると思います」(同)と仰せである。

以上のお言葉のごとく、御法主上人は、大聖人が28日を宗旨建立の日とされた理由につき、『清澄寺大衆中』を根拠として御指南されているのである。他門の伝記類を挙げられたのは、単に紹介されているにすぎない。故に、離脱僧らが他門の伝記類の文献批判をどれほど行っても的外れで、御説法には全く疵(きず)はつかないのである。

また離脱僧らは、当初の御法主上人猊下の御説法に、『蓮公薩垂略伝』を引かれたことにつき、差し出がましく『註画讃』の文である、原典に当たっていないなどと批判しているが、御法主上人には、28日についての参考文献として、『蓮公薩垂略伝』の『付録年譜』の原典を繙(ひもと)かれ、その記述どおりに御説法に引文されたものである。そして、同様の趣旨の内容が、数十年先行する『註画讃』にもあることを発見され、正確を期して、追加訂正を御自らなされたまでである。その何れもが、原典にあたられたがゆえのお示しではないか。

彼ら離脱僧は「狂った神経」を持っているものだから、なんとか御説法の誹謗中傷に結び付けようと、必死に駄文を書き綴っているのである。


「高祖年譜」・「攷異」がこの新発見を待たずに、古来より十六歳・十八歳の二説ある出家説の内十八歳を斥け、十六歳を論断している点、その史的考証の精確さに驚きを禁じ得ぬ。

離脱僧らが「史的考証の精確さに驚きを禁じ得ぬ」と讃歎する『年譜攷異』は、彼らの杜撰な頭では誠にすばらしい書に見えるらしい。事実は先に述べたごとく、不正確な部分が多く存在し、特に御書の系年は間違いだらけである。このような書を師範として得々としていることこそ、離脱僧らの教学が付け焼き刃だと証明するものである。


山川氏は、虚空蔵への立願開始時を十二歳、明星寶珠の感得の奇瑞を十六歳願満の時と領会し得るとした上で「彼の十六歳又は十八歳の立願、三七・二十一日の断食といふが如きは、その後世の造作たるを知り得べきである」と論断している。

離脱僧らは「溺れるものは藁をもつかむ」とばかり、御法主上人の御説法に反論できそうな材料を探した挙げ句、ここでは山川智応の説を挙げているが、御法主上人は御説法において、どこにも「十六歳又は十八歳の立願」とか、「二十一日の断食」などとは仰せられていないし、また伝記そのものも単に参考までに引かれたにすぎない。したがって山川説が御説法を否定する論拠にならないのみならず、全く関係がないことである。

貴殿の「二十八日の深義」を拝聴して、宗内からは酷評が後を断たぬ。伝記三書も原文に當たることもなく、引用も支離滅裂で、嘘を並べ立てる貴殿の所業は、講釈師も顔負けである。以上、貴殿の法話の基本的な問題点を指摘し了えた。

欺瞞と低レベルな内容に終始した自らの愚難をも省みず、「貴殿の法話の基本的な問題点を指摘し了えた」とは、まさに増上慢・僭越の極みである。

御法主上人の御説法中の「二十八日」に関する根拠は、離脱僧らが誣言(ふげん)する枝葉末節の伝記等にあるのではない。何度も述べたとおり、参考のために、当初、『蓮公薩垂略伝』の『付録年譜』の原典から、その記述どおりに御説法に引文され、のちに『註画讃』の追加訂正を仰せられたまでである。したがって御説法の根拠は、あくまでも『清澄寺大衆中』の御文なのである。

すなわち今年1月の唱題行最終日のお言葉に、「私は、この本年の唱題行において数々の、実に有り難く不思議な体験をさせていただきました。そのなかで特に、一月二十八日の唱題行において不思議な心感を得たのであります」(大日蓮673号)と仰せのように、1月28日に御法主上人猊下が感得せられた覚悟が、「開宣大法要」の御説法のもととなり、大聖人様が宗旨建立の日を何故に28日とお決めになったのか、28日が、大聖人様にある特別な理由がおありだったのではないかと感ぜられ、改めて『清澄寺大衆中』の御文を拝されて、確証を深められたのである。

このように『清澄寺大衆中』を中心とする御書を文証とされ、血脈相伝の上から御考察あそばされたことが明らかである。他門の伝記類などは全く立論の文証とはされていない。いい加減な批判の前に御説法をよくよく拝読すべしと離脱僧らを呵すものである。


<四箇の邪難はいずれも怨嫉の誣言>

以下、疑念の残る諸点に就き、貴殿の真意を糾問したい。
一、「虚空蔵菩薩を刻んだ不思議法師という名も不思議だ」と貴殿は云うが、ならば、伝教大師最澄も、弘法大師空海も道元や法然の名も皆不思議ではないか。不思議と感ずる貴殿の真意は奈辺にあるか問い糾したい。

離脱僧ら不信心の者どもには、虚空蔵菩薩が「大聖人の久遠元初の仏法の開顕証悟の誘引」となった大切な役目を果たされたことなど理解できないと見える。この虚空蔵菩薩を彫んだ方が「不思議法師」と呼ばれていたのであり、「我が一念の心不思議なる処を妙とは云ふなり」(御書47ページ)との御金言からも、御法主上人は、この名前に不思議な因縁が感ぜられると仰せられているのである。

それを不思議法師が不思議ならば、伝教大師も弘法大師も、道元や法然までも不思議ではないかと難ずること自体、離脱僧らの言は全く意味不明であり、悩乱極まる不適切な引例である。御法主上人のお言葉を、ことさらに曲解しようとする妄言と言わざるを得ない。


一、「虚空蔵という名称は、地・水・火・風・空の五大を表す」と貴殿は前代未聞の珍説を述べているが、仏典に於ける虚空蔵と五大の法義上の定義は、各々、独自の系譜を有している。虚空蔵即五大とは、仏典上如何なる文拠に依るか、その文証を提示されたし。若し文証無ければ貴殿の我見・主観に過ぎず、邪見に堕す。この点貴殿の真意を問い糾したい。

当該部分の御説法において、御法主上人には「虚空蔵」の名称について述べられているのである。よって、「虚空蔵という名称は地水火風空の五大をおのずから表しております。すなわち虚空全体のなかに地水火風の四つが蔵されており、不動のなかに動を蔵するその活動こそ、法界と一切の生命の実相であります」(大白法595号)と仰せである。

離脱僧らの邪難のごとき「虚空蔵菩薩が即五大」などとは述べられてはいない。「即」と「表」とははっきり概念が違うのだ。この場合、能表は虚空蔵、所表は地水火風空と解釈するのに法義上の定義とか独自の系譜などを引っ張り出す必要性は全然ないのである。

『御義口伝』における「其祖転輪聖王」の経文について、「祖とは法界の異名なり、此は方便品の相性体の三如是を祖と云ふなり。此の三如是より外に転輪聖王之無きなり」(御書1746ページ)との御指南が拝される。

離脱僧らの固定観念なら、「三如是と転輪聖王の仏典における法義上の定義は、各々独自の系譜を有す、いかなる文拠によるか、文証を提示せよ、文証無ければ邪見に堕す」と、宗祖大聖人に詰問することになる。

また「得大勢菩薩」について、「御義口伝に云はく、得とは応身なり、大とは法身なり、勢とは報身なり」(御書1777ページ)との御文について、「菩薩と仏とは法義上の定義は独自の系譜あり、いかにして得大勢菩薩が仏の三身であるか、文証を提示せよ」と宗祖大聖人に訴えることができるのか。

疑いもなく相性体の三如是は妙法の深意より転輪聖王を表しており、得大勢の三字も三身を表しているのだ。この場合も虚空中に一切が蔵されることは、あたかも空大に四大が蔵され、また生ずることを表するに当たるのである。

はたまた、離脱僧らは虚空すなわち空大より他の四大が生ずることも理解できないのであろうか。日寛上人の『撰時抄文段』に、「四大菩薩は即ち是れ地水火風の四大なり。所住の処は即ち空大なり云云」(御書文段339ページ)とある御指南をよくよく拝すべきである。

御法主上人は、この久遠元初文底下種の仏法の本源における御本仏日蓮大聖人の悟りに約され、御書に則り御指南あそばされているのである。その久遠本源の妙法蓮華経の体内における、垂迹のあらゆる仏・菩薩、法理・法相については、当然その根本より自由自在な活釈ができるのである。御法主上人の御指南はその上からのお示しであり、離脱僧らの低下な思い違いとは、はるかにかけ離れているのである。


一、貴殿は、「道善房の持仏堂」と「諸仏坊の持仏堂」を、別々の場所、二つの異なる坊跡と論断している。が道善房と諸仏坊は、同一の場所にある同一の坊跡であることは、全遺文を勘案し、宗祖全門家を通じての不動の定説である。因師も、道善房は、能住の「名乗」、諸仏坊は所住の「坊跡」と、明確に指摘している(「会合抄」上巻)。敢えて別の場所、別の坊跡と論断する貴殿の根拠を問い糾したい。

ここで離脱僧らは、御法主日顕上人が「開宣大法要」の御説法の中で、「道善房の持仏堂」と「諸仏坊の持仏堂」を別々の場所、二つの異なる坊跡と論断しているというが、御法主上人は、「何故大聖人様が二つの名称を示されたかについて、それが同一のものであると断定すべき積極的な理由は何も見当たらず、単なる推測に過ぎません」(大白法595号)と断られた上で、

「この坊が同一の場所とすれば、大聖人様が三月の時は虚空蔵菩薩および道善房へ報恩の趣意より、『道善の房』と特にその名を挙げられ、四月は弘通の上からその坊名を用いて諸仏坊とされたとの会通ができます。

また別の坊であったとしても当時、清澄寺に相当数の坊があったことは(中略)明らかであり、特に三月の念仏無間の説法に驚き怒った師・道善房は自坊より退出を命じ、大聖人様のさらなる四月二十八日の説法の御意志に対し、自坊の持仏堂の使用を許さなかった故に、別の場所たる諸仏坊の持仏堂で行われたことも考えられます。

『王舎城事』の、『師にて候ひし人かんだう(勘当)せしかども』(同976ページ)の御文の『勘当』が三月二十八日だったとすれば、この解釈こそ相当するものであります」(同)

と、3月と4月の説法が同一の場所であった場合と、別の場所であった場合の二通りの可能性を指摘されているのであり、決して論断されたわけではない。

その上で御法主上人は、「四月説では両持仏堂を同所と断定しなければならないが、その理由が明確でないのに対し、三・四月にわたる説法とすれば、以上のように明白に会通ができます。この点からも二回にわたると解釈することが妥当と思われます」(同)と述べられて、3月と4月にわたる説法とすれば、「道善房の持仏堂」と「諸仏坊の持仏堂」を別々の場所として明白に会通ができることからも、宗旨建立は2回にわたると解釈することが妥当であると御指南であり、実に理路整然とされている。

それに比べて離脱僧らの論は、「はじめに否定ありき」で、何が何でも3月宗旨建立を否定せねばならないという至上命題があるために、「道善房と諸仏坊は(乃至)同一の場所にある同一の坊跡であることは、全遺文を勘案し、宗祖全門下を通じての不動の定説である」などと大見えを切るはめになるのである。

離脱僧らは「全遺文を勘案し」というが、全遺文を勘案せずとも、すでに『王舎城事』一書だけでも破綻(はたん)が明らかである。すなわち御法主日顕上人は『王舎城事』の、「師にて候ひし人かんだう(勘当)せしかども」(同976ページ)の御文の「かんだう(勘当)」が3月28日だった可能性を述べられているではないか。これは道理の上から穏当な御見解であり、少なくとも、その可能性を否定することはできないからである。

まして「宗祖全門下」などというが、それはこの場合、日顕上人御統率の日蓮正宗以外の全門下との意味となる。つまり、日蓮正宗を除いた五老僧以来の謗法の身延日蓮宗等をこそ、宗祖の門下として認めたということである。五老僧を義絶なされた日興上人のお嘆きはいかばかりか。創価学会の迷義による離脱僧共の謗法与同もここに極まれりである。

仮に、どれほど多数の者が認める定説であったとしても、誤りはどこまでも誤りである。彼ら離脱僧には、正統門家の誇りなど微塵(みじん)も残らず消え失(う)せ、性根から腐臭を放っていることに驚きを禁じ得ない。


一、興師自筆として貴殿が引用せる「安国論問答」は、著述年月日と、筆述者の名及び花押が欠落して居る。更に、堀上人は同書内に、民部阿闍梨日向の金綱集内の全き類文が混入していると、指摘している。その上で「この書をもって池上本門寺における大聖人の安国論の御講の筆記とすることは大いに当を失しておる」と論断して居る。貴殿が石山の正義を思うなら、同書を公開し、古筆考証を経た上で、真筆であるとの確証を得るべきである。

離脱僧らは、最後まで『安国論問答』が日興上人の御正筆であることに疑義を挿(さしはさ)むが、かかる邪難はすでに破折し尽くした。

その結論を再度いえば、大石寺に蔵される『安国論問答』の表紙には、離脱僧らが認めるところの不世出の碩徳であられる日亨上人が「開山上人安国論問答」と自らの筆でお書き添えになられ、日興上人の御正筆であるとお認めになっているのだ。

よって日興上人御正筆は揺るぎない。「古筆考証」を持ち出すのは、不相伝家の常套手段である。以上四点の邪難は、どれも御法主上人猊下の御説法を怨嫉し、無理やりに問題点と称したにすぎない誣言である。


<離脱僧らは懺悔し、袈裟・衣を三宝尊にお返しせよ>

最後に付言すれば、宗旨建立の三月四月の両義を開示した貴殿の真の狙いは、「御書全集」の抹殺にあることは明確である。この五十年間に涌現した、宗創一体となっての流布の歴史の抹殺こそ貴殿の真の狙いと、断ぜざるを得ぬ。

離脱僧らは、御法主上人の3月と4月に関する御説法を捉えて、『御書全集』の抹殺などというが、それは被害妄想の邪推である。

現に昭和41年に日達上人の監修で発行された『昭和新定御書』では、3月宗旨建立と伝承される御書については、3月と記してある。これは『御書全集』の抹殺でもなければ否定でもない。現に両御書は、長年にわたって宗門において使用されてきたのである。

現在、宗門では日常的に『平成新編御書』を拝読しているが、これは創価学会の邪義を糺(ただ)していく中に、宗門が宗教法人創価学会が発行する『御書全集』を使用できなくなり、3月・4月の記述とは関係なく、編纂発行された御書であることは誰の目にも明らかである。

したがって御法主上人に『御書全集』を抹殺するなどのお考えのないことは当然で、ただ宗旨建立の3月を4月への改変について、他門の御書をも含めて事実を述べられたにすぎない。事実を述べることによって『御書全集』が抹殺されるなどと考えるのは、離脱僧ら創価学会一味だけである。

また、「宗創一体」などと言っているが、どこが一体であったと言えるのか。邪悪な正体を隠し、宗門を隠れ蓑として、その庇護のもとに邪悪の芽を膨らませていったのは池田大作率いる創価学会であり、昭和52年の教義逸脱の折は何とか糊塗したものの、窃かに時期を窺い、時至って平成2年に再び邪義を構えて宗門に敵対したのは創価学会にほかならないのである。

「宗創一体となっての流布の歴史」の抹殺とは、よくもぬけぬけと言えたものである。ここまでして、創価学会に媚を売らなければならない離脱僧らの姿は誠に哀れである。創価学会の謗法を厳しく指弾なされた日達上人もさぞ悲しまれていることであろう。


達師による大客殿・正本堂の威業は、五十年に亘る宗創一体の広布の流れの一面が、歴史の事相に顕れた結晶に他ならぬ。「事相」の顕現は、宗祖御遺文全篇の編纂刊行に、その淵源を有する。その美挙が、昭和二十七年刊行願主となった戸田城聖第二代会長、不世出の碩徳堀上人、二人の和合に依ったことは、御書全集の「発刊の辞」及び「序」に明らかである。この「理」の完美の上に、第三代会長の広布への熱誠に依り、「事」の上の流布の一大潮流が、世界を覆いつつある現実は萬人の認める処である。

離脱僧らにして言い得る欺瞞の言い分である。日達上人を立てるように繕いの言葉をいくら述べても、日達上人が、今日の創価学会をお許しになる筈がないことは明確である。すなわち日達上人は、「日蓮正宗の教義が、一閻浮提に敷衍していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります」(大日蓮342号)と厳然と御指南なされているからである。

離脱僧らは、「流布の一大潮流」というが、この日達上人の御指南からも、創価学会による広布はまさにまやかしの広布であることが明らかである。広宣流布、広宣流布と言うが、御戒壇様を離れながら、いったい何を広宣流布するというのか。

また「事相」をいうなら、日蓮正宗より破門となり、大謗法団体となり下がった創価学会と、会員の様々な不幸の現証こそが「事」の姿であり、その「理」たる信心と思想の濁りを厳然と証明するものである。

さらに、日蓮正宗が『御書全集』を使用できないような状況になったのも、一にかかって、無残にも、日達上人の御遺言ともいえる御指南に背いた創価学会の反逆によるのであり、一切の責任は池田大作と創価学会にあることを、胸に手を当てて思い起こすべきである。

しかるに日蓮正宗僧俗は、創価学会の悪意に満ちた誹謗中傷を歯牙にもかけず、凛然と大法を護持あそばされる御法主日顕上人猊下のもと、僧俗一致して着々と広布への大前進を図っている。そして、興学に心を砕かれた日亨上人をはじめ、御歴代上人にも必ずやお喜びいただける、ほぼ完壁ともいうべき御書を刊行することができた。

すなわち、先には法華講信徒一般の研鑚のために『平成新編日蓮大聖人御書』を発刊し、さらに宗旨建立750年を慶祝し奉り、専門的研鑚に資するために『平成校定日蓮大聖人御書』(第1巻)を、仏祖三宝の御宝前にお供えし奉ることができたのである。こうして一切衆生救済のための礎を築きゆく、日蓮正宗僧俗の歩みこそ、真の広宣流布を実現する唯一の方途であると告げておく。


貴殿は、先師日達上人の偉業、大客殿・正本堂を破壊尽くした。それに止まらず貴殿は、立宗750年の佳節を機に遂に、その事相の淵源、「御書全集」の抹削(ママ)・破壊に魔手を延ばしたと断ぜざるを得ぬ。が我々はこの佳節に現じた大悪は未来の大善の招来する瑞相と拝したい。

平成10年の新客殿建立は、創価学会の『ニセ本尊』配布により、それに呼応するかのごとく起こった阪神・淡路大震災が機縁となっていることは周知の事実である。また正本堂解体も、池田大作はじめ創価学会の謗法を、特に平成2年総本山開創700年に至って御仏智の御計らいにより、具体的にその邪爪を現した同年11月16日以来の彼らの大謗法を一掃するためであったことは、宗内の等しく認めるところである。

御法主上人猊下は、「大聖人様の御指南によるところの本門戒壇建立という重大事について、凡夫の簡単な見解のみをもってこれを断ずるということは、まことに大きな誤りでありました。その池田大作の謗法が元となって造られたのがあの正本堂でありました。したがって正本堂が存在するということは、謗法・邪宗の創価学会の精神がいつまでも総本山に存在するということでありまして、これは我々日蓮正宗の正しい僧侶と信徒がこれから真の広宣流布を行いつつ、即身成仏の大功徳を受けていく上において、大きな障害となるのであります」(大日蓮655号)と、明確に池田大作と創価学会の謗法について仰せられている。

今日、総本山にその雄大な姿を現した奉安堂こそ、御戒壇様を荘厳せんとする宗内僧俗の信心の赤誠であり、破邪顕正の願業の顕れである。すなわち正本堂は、大聖人の仏法を唯一信受し奉る日蓮正宗の僧俗の総意をもって解体・撤去されたものであることを、離脱僧らは銘記すべきである。

なお、離脱僧らの「『御書全集』の抹削(ママ)・破壊にその魔手を延ばした」との言は、先にも述べたように、全くいわれなき言いがかりであり、被害妄想の最たるものと断じておく。また大悪大善を言うのなら、阪神大震災までも引き起こした創価学会の大謗法の大悪は、日蓮正宗法華講により真の広宣流布の礎が築かれる大善となることを、現実の事相の上から信解すべきなのである。


同盟の総意を以て我々は貴殿に念告したい。
宗祖の残された大御本尊を「一閻浮提総与」という、御本仏の元意に約して仰ぎ奉る、この現実の上で如如実実と躍動する信行の上に始めて開展する宗祖三大秘法の根源は、金剛不壊であり、貴殿如き悩乱の法主が千人萬人惹起しようとも、微動だにするものではないと。

離脱僧らの最後の言は、誠に支離滅裂な「三大秘法の根源論」というべきものであり、奇怪極まる代物である。その論たるや、本門戒壇の大御本尊に背き、御法主日顕上人猊下に対する誹謗の大罪に起因する「若悩乱者頭破七分」の姿そのものに成り果てていると言うほかない。

以上、離脱僧らの論はその理屈のことごとくが邪義である。虚心坦懐(きょしんたんかい)に、創価学会に身を置く自らの非を猛省せよ。日興上人は『遺誡置文』に、「一、謗法の供養を請(う)くべからざる事」(御書1885ページ)と厳しく戒められている。離脱僧らは、いやしくも一度は出家した身である。大謗法者である池田大作に施(ほどこ)しを哀願することを恥じねばならない。もし一分の善心あるならば、深く懺悔し、直ちに袈裟・衣と道号を下種三宝尊にお返しして、一から出直すべきである。


以上


※『蓮公薩垂略伝』の「垂」は、正しくは「土偏に垂」の字です。
※『年譜攷異』からの引用中の「二二」は、正しくは上下に二を二つ重ねた字です。

※この原稿は修得院支部の川人さんの御協力により掲載いたしました。