C02:創価学会問題について(一)



 発刊に当たって

今回の宗門と創価学会の問題について、その経過と往復の文書につきましては、既に『大日蓮』号外において掲載いたしました。皆様には、これを熟読の上、その経過と真相を正しく御理解くださったものと確信いたします。宗務院といたしましては、このたび、さらにその間における創価学会員からの、いくつかの質問にお答えしながら、池田大作名誉会長ならびに学会首脳の慢心不遜の、実態と、「宗規」の一部改正の経過等につきまして、より明確にいたしておきたいと思い、一文を作成いたしました。

本宗僧侶および檀信徒各位には、聖教新聞における創価学会側の一方的、かつ謀略的な記事や言動に惑わされることなく、今回の一連の問題の根本原因が、池田名誉会長の昭和52年路線に対する無反省と、御法主日顕上人や宗門僧侶に対する蔑視と反発という、信徒の代表者としてあるまじき信仰姿勢にあるという事実を、深く認識していただきたいと存じます。そして、血脈付法の御法主上人のもとに、いよいよ一結して信伏随従し、さらなる正法の護持発展に努めるべく、互いに精進を誓い合いたいものであります。

平成3年2月7日 日蓮正宗宗務院




質問一 宗門はどうして広布の大功労者であり、日蓮正宗の大功労者である池田名誉会長を、非難するのですか。

たしかに池田名誉会長は創価学会第3代会長として、戸田第2代会長なきあとの創価学会を、日本ないし世界的に発展させていく最高指導者として、また日蓮正宗の大外護者として、総本山の諸堂の建立寄進や全国の末寺の建立御供養等、多大の貢献をされ、文字どおり世界広布の推進者でした。

しかし一方、正本堂の建設委員会が設置された昭和40年頃より、名誉会長は法華講総講頭の地位および正本堂の建立発願主の立場を、ことさらに顕揚し、800万ともいわれる信徒組織を背景に慢心が顕著となり、さらに正本堂建立以後、大聖人の教義の解釈においても、ともすると在家中心的な発想をもって展開し、学会独自の師弟論、僧宝論を立て、本宗の寺院や僧侶を軽祝する発言や記事が『聖教新聞』『大白蓮華』等の随所に見られるようになりました。

そうした流れのなかで顕れてきたのが、法主上人ならびに血脈の相伝の軽祝をはじめとする宗門別紙蔑視の指導であり、すなわち昭和52年1月15日の「仏教史観を語る」に代表される昭和52年路線の教義の逸脱でありました。

この池田名誉会長の指導の数々の誤りと教義逸脱の問題は、第66世日達上人の御教導と多くの活動家僧侶達の指弾等によって、名誉会長をはじめ学会首脳が深く反省懺悔するところとなり、昭和53年6月30日付聖教新聞の教義上の逸脱是正、さらに同年11月7日のお詫び登山を経て、翌昭和54年四月に池田氏は会長を勇退し、総講頭を辞任して、再び日達上人のもとに僧俗和合協調の絆(きずな)が回復されたのでした。

その後、学会は「教学の基本問題」について、特別学習会をもち、「僧俗和合の基本」を確認し、さらに名誉会長自身、昭和55年4月2日、「恩師の23回忌に思う」との所感を発表し、大御本尊に対し奉り、「僧侶、寺院の役割を軽視し、その結果、御宗門に対し、主害転倒の風潮を生んだことは、我が身の信心未熟ゆえの慢と、大御本尊に心より懺悔申し上げるものであります。」と、反省懺悔したのであります。

日顕上人は、この名誉会長の懺悔を心からの反省懺悔と信頼されました。そして、協調路線に反していつまでも学会の逸脱の非を追及し続ける正信会の僧侶を制止して名誉会長を守られました。すると、これらの僧侶達は、今度は逆に運動をとどめる日顕上人に反抗し、遂には血脈否定の大謗法を犯すに至り、擯斥(ひんせき)追放の処分を受けたのであります。このような状況にあっても日顕上人は一貫して学会を擁護され、昭和59年1月には名誉会長を法華講総講頭に再任までされたのです。

しかるに、その反省懺悔以来10年を経過し、平成2年に入って、名誉会長ならびに学会首脳は、昭和53年の「六・三〇」「一一・七」の確認と、昭和55年11月の学会創立50周年記念登山における日顕上人の正宗信徒の基本についての御指南を忘れたかの如く、再び法主上人の発言封じの驕慢をはじめとする僧侶軽視・蔑視の意識に立ち、平成2年7月の連絡会議(宗門と学会の協議会。宗門側からは総監はじめ宗務院各部長等、学会側からは会長以下の執行部代表が出席して、定期的に双方の懸案事項を協議し、連絡報告を行う機関)において、宗門に対する批判を加えてきたのであります

その後、名誉会長は平成2年7月21日のお目通りの時、連絡会議における法主の発言封じの驕慢性および会員の特別財務等について、日顕上人猊下の御慈悲の上からの御注意を受けました。しかし名誉会長は、この猊下の御心を素直に受けることができず、この御慈悲をかえって法主の「権威」「権力」をかさに着た高圧的な態度として反発し、今回の「一一・一六」の問題発言となって現れてきているのであります。

いかに宗門の功労者であり、また世界広布の指導者であったとしても、その信心の根本を忘れて高慢不遜となり、一宗を統率される御法主上人の御指南を謙虚にお受けすることかできないようでは、もはや「日蓮正宗法華講総講頭」としての資格はないと言うわざるをえません。世界中の信徒の代表ならば、代表者にふさわしい清純な信仰を貫くべきであり、全信徒の規範となる信心の姿に徹すべきであって、昭和55年4月2日の「恩師の23回忌に思う」で、示された尊い反省懺悔の誓いはどうなっているのか、と問うているのであります。そしてまた、大御本尊への懺悔と、宗門の外護に尽くすとの誓いを破ってはならないと訴えているのです。




質問二 宗門はどうして学会側が提案するように、話し合いに応じようとしないのですか。

今回の平成2年11月16日のスピーチは衛星放送を通じて、全国の主要会館に集まった数十万人といわれる会員が聴き、しかも極めて重大な法主軽視・宗門僧侶蔑視の発言内谷が含まれています。こうした名誉会長自身の日蓮正宗の三宝に対する基本的な信仰の姿勢にかかわる重大問題を、名誉会長不在の連絡会議の場で話し合っても、解決できるものではありません。7月17日の連絡会議においては、秋谷会長以下の学会首脳は「宗門に対して、日頃思っていることを言わせていただく」と、口々に宗門僧侶に対する批判を始め、あろうことか御法主上人の尊厳をおかす発言まで繰り返し、宗務院側の発言を制止して、「今日はこれで」と、さっさと席を立って帰ってしまう一方的な態度でした。

また、12月13日の連絡会議の席上では、宗務院よりの名誉会長の「一一・一六」のスピーチの録音テープにより「お尋ね」文書を作成したので、回答せられたいとして、文書を手渡そうとしたのですが、学会側は話し合いを主張して、「福島源次郎の改竄寅(かいざん)テープが出回っている」「宗門と学会を離反させようとする者に乗せられる」「いつ、どこで、誰が、どのように録音したものかを明かせない、出所不明のテープに基づく文書は受け取れない」等と反発し、受け取りを拒否しました。

当方は、それほど疑わしいのなら、学会にある保存テープと聴き比べてはどうかと提案しました。ところが驚いたことには、スピーチの折には記者が注意しながら筆記しているから、テープはとっていない、ビデオテープもないと嘘をついてまで言い逃れをしようとしましたが、最後はしぶしぶ録音テープの存在を認めました。このような学会首脳の言動は、およそ誠実な話し合いをしようとする人の態度ではありません

しかも、こと名誉会長のこととなると、宗務院の指摘はもちろん、たとえ御法主上人の御指南であっても、指一本ささせないという頑(かたく)なな体質を持ち、「名誉会長のスピーチを聞いて、何一つおかしいと思わなかった。」と抗弁する学会首脳との間で、この問題について、冷静な信心に基づく、誠実な話し合いのできる道理がありません。名誉会長の問題発言は事実なのですから、名誉会長自身の率直な反省と謝罪こそが先決であります。しかるに、今もって反省の一片すら見られず、かえって反抗的態度に終始していることは、まことに悲しむべきごとであります。




質問三 今回、どうして「宗規」の一部改正が行われ、総講頭の資格が喪失されたのですか

今回、日蓮正宗においては「宗規」の一部を改正して、法華講本部役員としての総講頭の任期を「5年」と定め、大講頭・指導教師(担当僧侶)・幹事・会計等の任期を「2年」より「3年」に延長いたしました。これは、日蓮正宗の「宗制」の第58条第5項に、「総講頭、大講頭及び幹事は、代表役員(御法主上人)が任命し、その任期は宗規による。」と謳(うた)われながら、「宗規」のなかに総講頭の任期の定めがなく、総講頭はひとたび任命されると、実質的に終身制のような形になっていました。しかし、終身制という明確な規定もありません。

また、「宗規」第158条の第2項には、「総講頭の退職した者を名誉総講頭と称する。」との、途中での退職を想定した規定があるという矛盾もあり、従来から、総講頭の任免と任期に関する「宗制宗規」の不備が指摘されていたのです。今回はその「宗制宗規」の不備を整合するために、総講頭の任期制を導入したのであります。また、「名誉総講頭」の制度を廃止したのは、総講頭自体、全国法華講を代表する一種の名誉職でもあり、さらにその上に、名誉総講頭を置くことは、屋上に屋(おく)を架することになりますので、これも廃止したのです。

また、「宗規」改正に当たって、附則において、「この宗規変更にともない、従前法華講本部役員の職にあった者は、その資格を失なう。」としたのは、新たな役員が任命されるまでの経過措置でありまして、懲罰的な意味は本来ありません。大石寺開創701年の新しい出発に当たり、決意も新たに折伏弘通に邁進していっていただきたいとの配慮なのであります。

法華講本部役員は本宗信徒の代表でありますから、その信心の姿勢においても、全信徒の模範とならなければなりません。すなわち、猊下の御指南、教導に対しては謙虚に従って宗門外護の誠を尽くし、もって猊下の御信頼に応えるべきであります。

したがって、この附則によって一時的に資格を喪失した方々は、信仰の原点に立ち還って各自の信仰を見つめ直し、反省懺悔するための機会が与えられたものとして、あくまでも信心をもって猊下の御配慮を拝すべきであります




質問四 「宗規」に新しく信徒の処罰条項が加えられたのはどうしてですか。民主主義に逆行するのではないですか。

「宗規」の第229条に、檀徒および信徒の懲戒の規定があり、従来も12項にわたる事由が掲げられていました。今回、新たに、「言論、文書等をもって、管長を批判し、または誹毀(ひき)、讒謗(ざんぼう)したとき。」の項目が加えられたのは、僧侶の懲戒規定には擯斥(ひんせき=除名)という処分が「宗規」第249条に規定され、その第3項に「管長に対する誹毀讒謗」の条項が明記されているにもかかわらず、信徒の懲戒規定には、「本宗僧侶並びに寺族に対し、横暴の文書、図画並びに言動を為し、或は侮辱したとき。」とあるのみで、管長に対する条項が明確に示されていなかったため、その不備を整合調整したに過ぎません。

これを、管長に対する言論封殺を狙ったものとか、民主主義の時代に逆行するものと大騒ぎする人こそ、正しい信心を失った人と言わざるをえません。本来、懲戒条項は信徒に非違を犯させないようにするためにあるのであって、処罰することを目的とするものではありません。もとより本宗は慈悲の精神を根本とする教団でありますから、信徒の皆さんは、信心の基本である本宗の三宝に帰依し、敬虔な姿勢で信行学に励んでいるならば、懲戒条項など気にする必要はないのであります。

しかし、団体の秩序を維持し、しかも円滑な運営を図っていくためには懲戒条項が必要となることも否定できません。そこで懲戒条項は、いずれの会社や法人の組織体にあっても、円滑な団体運営のために規定されているわけです。とりわけ、宗教団体においては、教義信仰を清純に保つために一定の懲戒条項は必要であります。

ちなみに、「創価学会会則」には、第67条に、「この会は、会員としてふさわしくない言動をした会員に対し、その情状に応じ、戒告、活動停止または除名の処分を行なうことができる。」と定められています




質問五 臨時宗会が平成2年の年末に開かれ、しかも総講頭や大講頭に何の相談や連絡もなく「宗規改正」が行われたのは、あまりにも意図的であり、一方的ではありませんか。

日蓮正宗の法人を代表して、その事務の一切を総理するのは代表役員たる管長であります。したがって、宗会の招集はもとより、「宗制宗規」の制定から、必要な改正、法人の運営に至る一切の事柄は、所定の手続きを経て行われるのでありますが、それをいちいち総講頭や大講頭に事前に相談したことはありませんし、そのような制度にもなっておりません。しかし、宗規の改正や宗務院の達示、辞令、承認事項はすべて、日蓮正宗の機関紙である『大日蓮』に「宗務院録事」として毎号、掲載・公示されております。

なお、平成2年の12月に宗会が招集され、「宗規」の一部政正が行われ、附則によって法華講本部役員全員の資格が喪失した経緯については(質問三)で既に説明したとおりであります。




質問六 宗門はどうして200箇寺建立の、残りの89箇寺の寄進を辞退したのですか。

大石寺開創700年を記念して、名誉会長が200箇寺建立寄進を発願し、これまでに111箇寺の完成を見たことは、広布と宗門発展のための尊い浄業として、御法主日顕上人が落慶のたびごとに称賛され、宗門人が等しく感謝しているところであり、赴任の住職も誠心誠意、僧俗の和合と広布の推進に尽力してきました。地価高騰が全国的に波及している今日、土地を選定購入し、地域住民の了解を得ながら、一箇寺、一箇寺を建立していくことが、どんなに大変なことかは私どもとて充分に承知しています。

しかしながら、平成2年11月14日の連絡会議において、信徒の多い東京区内における年間一箇寺の建立の予定が、最初の昭和59年の江戸川区・大護寺建立以後、6年にもわたって何の音沙汰もなく、また説明もなかったので、その進捗(しんちょく)の状況をと経過をお尋ねしたところ、当日の会議では、「候補地は何件もあがったが、周辺住民の反対等で、皆、話しがこわれてしまっている」とした上で、「200箇寺計画を抜本的に考え直したい」と言われました。更に、この件について12月23日付の九項目の「お何い」書では、「余りに一方的な詰問(きつもん)」「余りにも無慈悲、無慙な仕打ち」「200箇寺建立寄進はもともと契約のようなものではありません」等という反発が返ってきました。

名誉会長の「一一・一六」のスピーチのなかにも、宗門人は「苦労が分からない」「秋谷会長、森田理事長などがどれほど苦労しているか、ぜんぜん分かってやしない」という発言がありました。その底意には、「供養をしてやっているのだ」という、名誉会長ならびに学会首脳の慢心が、ありありとうかがえます。私達は、三宝への御供養は、「させていただく」「功徳を積ませていただく」という謙虚な心こそ信心の基本であると考えます。

大聖人は『窪尼御前御返事』に、「善根と申すは大なるによらず、又ちいさきにもよらず、国により人により時により、やうやうにかわりて候」(全集1485)と仰せであります。功徳善根は、供養する人の信心と人間性こそが最も大切であり、まことの志の上になされてこそ大善根となるものと信じます。したがって宗門としては、大石寺開創700年も終了したことでもあり、学会の言うように、もともと契約のようなものではありませんので寄進を辞退させていただきました。





質問七 宗務院の「お尋ね」文書のもとになった名誉会長の「一一・一六」のスビーチは盗みどりのテープであり、道義的に許されるべきものではないと思いますが、いかがですか。

最近の名誉会長のスピーチのなかに、御法主上人を軽視したり、宗門僧侶を蔑視した発言がたびたび繰り返されていることを憂(うれ)いた信徒が、必死の思いで録音して届けた心情を思うと、一概に責めることはできません。むしろ、テープの持ち込みを禁止しておいて、ほしいままに放言をする池田名誉会長の姿勢こそ、許されるべきことではありません。

口では民主主義、人間主義を唱えながら、本部幹部会というような、それこそ全会員に公開し、知らせ、徹底すべき講演の場において、テープの持ち込みを禁ずる行為自体が、仏法の道理や布教性に反していると恩いますが、いかがでしょうか。

学会の会合がテープの持ち込みを禁じなければならないほど閉鎖的で、秘密主義で、非民主的で、非人間的であるという実態を、むしろ学会員自らが恥じなければならないと思います。