鎌倉遠足のしおり

本行寺中高等部


 次のような予定で、中高等部の鎌倉見学会を企画いたしましたので、ふるってご参加下さい。

【目的】

 日蓮大聖人様ゆかりの地である古都鎌倉を訪ね、その足跡に破邪顕正のお振る舞いを拝し、信行の糧(かて)とする。

【日程】

 平成10年5月10日(日曜日)

【引率責任者】

 柳沢副講頭

【見学場所】

 松葉ヶ谷草庵跡、辻説法跡、四条金吾邸跡、龍口刑場跡、日蓮正宗護国寺など


<集合時間・場所>

 次の1、2から都合の良い方を一つ選んで、遅れないように集まって下さい。

  1. 本行寺本堂8:20集合(唱題)、8:45出発。(責任者:中高等部長)
  2. JR横須賀線鎌倉駅(駅ホームの逗子側先頭)に10:15集合、10:30出発。(責任者:澁谷男子担当)


<持ち物と注意事項>


 質問がありましたら、中高等部長までお問い合わせ下さい。



【鎌倉】

 鎌倉幕府の本拠地であり、当時の東日本の中心地であった。大聖人の時代には既に源氏の血筋が絶えていたため、執権職の北条氏がその実権を握っていた。日蓮大聖人は御年32歳の4月、房州清澄寺にて立宗宣言をなされた後、8月には首都鎌倉に入られ、御年53歳で身延に篭(こも)られるまで間、途中2度の配流の期間を挟んで、約15年間を鎌倉で過ごされた。「予に三度の高名あり」と仰せられた計3回の国家諌暁(かんぎょう)は、全て鎌倉を舞台としている。

【龍の口刑場への道程】

 龍の口の法難の際、大聖人は鎌倉から引き出された後、「ゆひの浜にうちいでて」(種々御振舞御書)とあるので、大海老付近(江の電由比ヶ浜駅南)付近から浜に出て、海岸沿いに西へ向われたと思われる。途中の丘陵地を越えるには、稲村ヶ崎経由と極楽寺坂の切り通し(江の電極楽寺駅東)の2経路が考えられるが、「御霊(御霊神社)の前に至り」(同御書)とあるので、後者が有力な説となっている。その後は今の湘南道路を七里ヶ浜沿いに行けば、江の電の腰越駅付近を通って龍の口に至る。

【江の電】

 当初鎌倉から龍の口までの約6kmを歩いてみる計画もあったが、種々の都合(?)から江の電で行くこととなったしかし、沿線はほぼ大聖人が刑場に向われた足跡と一致するので、そのつもりで車窓の景色を眺めて欲しい。途中・大聖人は極楽寺坂の切り通しを通る前に、御供の熊王丸(くまおうまる)に四条金吾を呼びに行かせている。これは江の電長谷駅近辺でのことである。

【龍の口の処刑場】(見学場所@)

 現在の藤沢市には龍の口の地名は残っていないが、その由来となったと思われる龍口山が付近にある。「江の島の方より月の如く、光りたる物鞠(まり)のようにて、辰巳(南東)の方より戌亥(北西)の方へ、光渡る」を、流星とおぼしき強発光体が江の島から刑場に向って飛来したと考えると、現在の刑場跡(龍口寺)は江の島から見てほぼ北北東に当たり不適切である。なお『吾妻鏡』(あづまかがみ)などの歴史書にみられる処刑記録からは、特定の刑場施設があったというよりは、近辺の海辺一帯で斬首が行われていたようである。今回片瀬海岸(見学場所A)で昼食時間にするので、末尾の地図を参考に、江の島との位置関係を確認してほしい

【発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)】

 大聖人は佐渡以前においては釈尊の御弟子として法華経を弘められていたが、龍の口の首の座においてこの仮の御姿(迹)を発(はら)われて、末法の御本仏としての本地を顕(あらわ)された。まさに御首に刀が振り下ろされんとするその瞬間、不思議な光物が現れて、武士は目が眩(くら)み畏(おそ)れをなして逃げ惑ったが、このような不思議な現象こそ、日蓮大聖人が宇宙法界を御所有あそばされる久遠元初自受用報身如来の再誕であることの証(あかし)である。四条金吾殿御返事には「娑婆世界には日本国、日本国には相模の国、相模の国の中には片瀬、片瀬の中には竜口に日蓮が命を留め置く事は、法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか」と、国土に約してその御境地を明かされている。

【四条金吾】(見学場所B)

 元々禅宗の信者であったが、松葉が谷の草庵を訪れた際に大聖人の御説法を拝聴し、禅天魔の道理を知って帰依した。医薬などの知識にも通じた文武両道の士であり、北条氏(名越家)の江間光時(大尼の息子)に仕えた。龍の口の法難の際、使者からの知らせを聞いた金吾は、履き物もとらずに裸足で大聖人の元に駆けつけ、馬の轡(くつわ)に取りすがって刑場にお供した。子丑の刻、いよいよ首切り役人の太刀が振り上げられ、まさに金吾も共に切腹し果てようとしたその時、まばゆいばかりの大光明が当り一帯を包み大聖人の処刑は中止されたのである。この不可思議な現象を目の当たりにした金吾の感動が、並々のものでなかったことは想像に難くない。この因縁により後に金吾は、人本尊開顕の書である『開目抄』を賜った。今回は四条金吾邸跡と伝えられる収玄庵(寺)を訪ねる。

【宿屋入道光則】(見学場所C)

 北条幕府の重臣で、『北条九代記』『吾妻鏡』などの歴史書にもその名が見られる、北条幕府の重臣。ことに北条時頼には信任篤(あつ)く、その臨終に立ち会った二近臣のうちの一人である。大聖人は『立正安国論』(第一国諌)を時頼に呈出するにあたり、もっとも確実なルートとしてこの宿屋左衛門を選ばれた。後に大聖人に帰依し、その邸宅を光則寺とした。

【大国阿閣梨日朗】

 六老僧の一人。最初の弟子である日昭の甥に当たり、大聖人の鎌倉弘教の比較的早い段階で入門した。鎌倉を本拠地として弘教に勤め、伊豆配流の際も鎌倉に在って大聖人の留守を守った。また龍の口法難に当たっては土牢に捕らえられて、宿屋左衛門の監視下に置かれた。大聖人からは『土牢御書』で法華身読(ほっけしんどく)を誉められるが、大聖人の滅後は日興上入に背いて釈迦立像を奪って下山し、墓所輪番(りんばん)制も放棄した。その後、身延離山した日興上人を訪ねて懺悔(ざんげ)している。

【下馬】(見学場所D)

 鎌倉のメインストリートである若宮大路は、幕府の守護神として武家に崇められた鶴ヶ丘八幡宮の参道である。故に当時武士もここで馬を下りて、徒歩にて神宮に参詣したので下馬という。龍の口の法難の時、大聖人はここから八幡大菩薩に対して、諸天善神として法華守護の誓約を果たすべきではないかと諌暁している。

【松葉ヶ谷】(見学場所E)

 平家物語に登場する弓の名手・那須与一宗高が住み、的番を置いていたので的番ヶ谷といい、のち松葉ヶ谷と呼び改められた。名越北条家がこの辺一帯に住んでいたが、光時は執権時頼に対する謀叛(むほん)の疑いで江間に流されており(以後名越家からは執権・連署などの要職に一人も就いていない)、当時は朝時の未亡入である大尼(領家の尼)がかろうじて家を守っていたようである。大聖人はこの大尼を「日蓮が父母等に恩をかほらせたる人」と記しており、東条景信の訴訟から護るなど報恩を尽くされている。このような因縁から大聖人は松葉ヶ谷に草庵を構えられた。現在の妙法寺近辺に当たる。なお、隣の安国論寺も草庵跡を主張しているが、実際15年問で伊豆前後などの時期により数箇所を移転した可能性はある。

 下馬から妙法寺へ片道15分ほど歩く(国道134号線)が、当時日蓮大聖人が鎌倉繁華街へ向って日々往復された道と考えられる。

【松葉が谷の法難】

 『立正安国論』呈出(ていしゅっ)の40日後、幕府の権力者極楽寺重時および結託した律僧・極楽寺良観、禅僧・道隆等の扇動によって暴徒と化した念仏信徒が松葉ヶ谷の御草庵を襲撃した。しかし、「聖人は横死せず」の言葉のごとく大聖人は難を逃れられた。裏山から尾根伝いに逗子方面へ抜けられたと考えわれる。なお龍の口の法難の際の、第二国諌の舞台もこの松葉ヶ谷の草庵である。

【平左衛門尉頼綱】

 8代執権北条時宗が34歳で早世すると貞時が14歳で9代執権につき、外祖父の安達泰盛が権勢を強めつつあった。これを機と見た頼綱は霜月騒動で安達氏を滅ぼした。これによって北条氏の執事である頼綱が、政治の実権を握ることとなった。つまり既に将軍の実権は全くなく、その権力を奪った執権の権力もその家宰に奪われるありさまで、ここに幕府衰退の様相は明らかであった。こうした中で執権・貞時は連署・宣時の意見を入れて、ついに平左衛門尉頼綱親子を経師ヶ谷に滅ぼして政治を回復した。

 平左衛門は龍口法難を直接指揮して大聖人を捕らえ、あるいは熱原の農民信徒を拷問にかけて射殺す(熱原法難)など横暴の限りを尽くした。

【第二国諌】

 平左衛門尉頼綱は大聖人逮捕のため、数百人の武装兵士を引き連れ草庵に押し寄せた。僧侶一人を捕らえる余りに異常な騒動であったが、頼綱にはもとより大聖人を亡き者にせんとの企みがあり、これものちのち死刑を正当化するための手だてであった。兵士達は草庵に着くや押し入って経巻を踏みにじるなど、暴虐の限りをつくした。その時大聖人は、居並ぶ朗徒を前に侍大将・頼綱に向って「あらおもしろや、平左衛門尉が物に狂うを見よ。とのばら但今日本国の柱を倒す」と大音声(おんじょう)を発して、叱りつけたのである。これを日蓮大聖人第二の国諌という。

【辻説法跡】(見学場所F)

 鎌倉に入られてしばらくは弟子も信徒もなく、大聖人は布教にあたって街の辻々に立っては『念仏無間・禅天魔…』と破邪顕正の獅子吼をあげられ、集まる人々に説法をされたという。鎌倉には大聖人が辻説法をしたと伝承される地点が多々あるが、中でも小町が有名である。幕府の要人の屋敷にも近く、また付近にはしばしば市場が立った。また近くに大学三郎邸跡の妙本寺がある(今回は通過)。大学は源氏の重臣比企氏の末裔である。比企家は北条氏独裁を狙う政子の陰謀で滅ぼされた。

【大町交差点から辻説法跡】

 妙法寺から5分ほど引き返して、北に向う道が小町通りである。大聖人が辻説法された通りの一つであるとともに、龍の口法難の際ここを往復されている。第二国諌は申の刻(午後4時)であり、酉の刻(午後6時)には判決が言い渡されているので、往路は夕暮れ時の午後5時頃、市中を引き回されて政所に向われた。当夜は北条宣時(佐渡領主)邸に預けられたが、夜半には頸(くび)を切るため再び引き出され深夜12時頃(夜中なのは謀殺のため)、密かに小町通りを南下した。

【若宮幕府跡】(見学場所G)

 北条氏が約80年にわたって政治を行ったところ。今は碑があるのみ。第三国諌などの舞台。辻説法跡からは徒歩で7〜8分。

【日蓮正宗護国寺】(見学場所H)

 神奈川布教区の日蓮正宗寺院。御住職は土居崎慈成御尊師。境内には発迹顕本の碑文がある。


<推薦図書>

 @ 日蓮大聖人正伝(大石寺1981年)
 A 鎌倉と日蓮大聖人(鎌倉史跡研究会1976年)


<地図>