御報恩御講参詣の意義について


 日蓮正宗に入信し法華講員になると、御僧侶をはじめ折伏の親や先輩、役員などから、「毎月の御講には必ず参詣するように」と厳しく言われますが、御講には何故参詣しなければならないのでしょうか。また、御講にはどんな意味があるのでしょうか。今回は「御講」参詣の意義について考えたいと思います。

 まず「講」とは、その宗の本尊や開祖をたたえて読経や祈念をし、更に法門や経論等を講説・論談して報恩に供える「法会(ほうえ)」を言います。

 私達が生まれ育ち、一生を過ごしていく上には、他から被(こうむ)る様々な計り知れない恩徳があります。宗祖日蓮大聖人は、『十法界明因果抄』の中で、「父母は養育の恩深し。一切衆生は互いに相助くる恩重し。国王は正法を以て世を治むれば自他安穏なり。此に依って善を修すれば恩重し。・・・師は亦邪道を閉じ正道に赴かしむる等の恩是深し。仏恩は言ふに反ばず。」(新編214ページ)と仰せの如く、この世に生を受けたことや育てられたこと、或いは衣食住などに例をとってみても分るように、決して自分一人の力で今日の自分がある訳ではなく、また自分一人で生きられるものでもありません。自分に縁する周りからの諸々の恩恵に浴して、自分が生かされ、生きていくことができるのです。

 仏法ではこのような周りから被る一切の恩恵・恩徳を、便宜上4つに分けています。4つの恩(四恩)とは、一に父母の恩、二に国主の恩(または師匠の恩)、三に一切衆生の恩、四に三宝の恩です。そして大聖人様は、『報恩抄』に、「夫(それ)老弧は塚をあとにせず、白亀は毛宝が恩をほうず。畜生すらかくのごとし、いわうや人倫をや。・・・いかにいわうや仏教をならはん者、父母・師匠・国恩をわするべしや。」(新編999ページ)と、また、『開目抄』上に、「聖賢の二類は孝の家よりいでたり。何(いか)に況(いわ)んや仏法を学せん人、知恩報恩なかるべしや。仏弟子は必ず四恩を知って知恩報恩をいたすべし。」(新編530ページ)と仰せのように、畜生でさえ恩を報ずるのであるから、人間においては尚更報ずべきであり、更に同じ人間でも、仏法を習い実践する大聖人様の仏弟子たる者は、尚一層これ等の恩徳を知り、恩に報いていける人になっていかなければならない、と教えられています。

 あらゆる恩徳の中で、最も重く最も大切なのが、仏・法・僧の三宝尊の御恩徳です。それは我々人間の生命の奥底(おうてい)に作用し、過去遠々劫からの諸々の罪障を消滅させ、全ての者を成仏に導く大慈悲の当体だからです。この三宝尊の御恩徳は、香城に骨を砕き雪嶺に身を投ずとも、報じ尽くすことのできないほど鴻大であり、無量無辺なのです。

 私達法華講員は、須らく本宗で立てる下種三宝尊の御恩徳を深く、そして重く認識していくことが大切です。大聖人様は『四恩抄』の中で、「末代の凡夫、三宝の恩を豪りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。」(新編268ページ)と誡められております。つまり、知らず知らずのうちに三宝尊の大恩を蒙り、御加護を賜りながら、その恩を忘れたり、認識することも報ずることも知らない信心では、いったいどうして仏道を成就していくことができるであろうかとの御言葉です。

 御講への参詣は下種三宝尊への報恩謝徳の実践であり、信心修行の根本であります。またそれは自らの信心の現れでもあります。御講に参詣することによって、大聖人様の御書に触れ、御法門を学んでより堅固な信心を確立していくことが大切なのです。毎月の御講には、一家の信心の充実、一家の広宣流布と法統相続をも考えて、家族揃って必ず参詣するようにいたしましょう。