お蔵     オフタイム

ふちがみとふなとカルテットライブ報告

1999年9月20日更新

1999年9月18日、アムネスティの会議終了後、吉祥寺へ向かった。

吉祥寺は何年ぶりだろう。学生の頃2度ほど行った記憶があるだけだ。中央線に乗り景色を眺めていた。初めての景色、しかし東京はどこへ行っても同じように見える。電車の中で地図を出し今日行くライブハウス「マンダラ2」の場所を確認。10数分で吉祥寺に着いた。駅を出てから地図を頼りに予約をしたホテルをい探した。すぐに見つかりチェックインをしマンダラ2に向かった。

こちらも迷うことなく見つかり、階段を降りていった。入場料2,500円+ドリンク代を払い中へ入った。広くはないが、前にPAやマイク、ピアノ、そしてベースが置いてあった。心地良い空間だ。すぐに8月13日名古屋で知り合った、自称「大熊亘フリーク」のMさんを見つけた。一緒に友人が二人。一人はMさんと一緒にNGOの活動をしているという。掲示板で知り合いのSさんを探した。すぐに目印のカエル模様のTシャツが見つかり挨拶。それからしばらくMさん達とソウルフラワーのこと、大熊さんのこと、8月13日夏祭りの主催者Oさんのこと、NGOのことなどを話しながら時間を過ごした。

しばらくすると一番後ろの席に大熊さんと連れ合いのみわさんが来た。早速「名古屋からわざわざ来ました」と挨拶。もちろん「東京に用事があったので」と付け加えたが。しばらくするとSさんのところに矢野さんの姿が。そうあの名古屋「カルヴァドス」で李政美さんのライブのときにギターを演奏していた矢野さんだ。遠くで目が合って会釈をすると矢野さんも気づいた様子。しかし「誰だったかな。」といった表情だ。初めて行ったライブハウスでも知り合いに会えるとそれだけでその空間が自分のものになっていく。一人だと何回か行ったライブハウスでもすごく居心地が悪いものだ。演奏を期待しながらもMさんたちと開始時間まで話は尽きなかった。

大熊さんとみわさんが、録音機のようなものをセットしていた。最近のはMDレコーダーだろうか。ほどなく演奏が始まった。

ふちがみとふなとのライブは実は今回が初めて。どんな音楽かは知らなかった。8月6日に名古屋シュークラブでライブをした。そのときに友人に誘われていたのだが家の用事があり行けなかった。今回ちょうど東京行のときにこのライブがあることを知り、行くと決めていた。大阪の音楽や演劇の仕掛け人「ぶうち古谷」さんもおすすめのバンドだ。

一曲目、初めてのバンドはどうしても演奏が良いかどうか最初は構えてしまう。しかしその構えが取れるのにものの1分も掛からなかった。演奏も歌もすごく心地良く、歌も十分にうまかった。すぐに音楽を楽しむ事に気持ちを切り替えた。

ふちがみじゅんこさんは、予想を裏切って(といっても漠然とした勝手な想像だが、もう少しシャンソン歌手のようにしっとり歌うといったイメージを持っていた)すごくパワフルで、本人曰く「ねじってねじってねじ伏せるような歌」というように勢いで歌うタイプと言っていたが、そのような面とは相反してすごく繊細さも持ち合わせていた。

絵画にたとえるとゴッホのようなイメージだ。つまり一見するとゴッホの絵は力強く豪快に描いてあるように見える。が良く見ると実に繊細なタッチで描かれている。細やかな気持ちが込められていることに気づく。そんなふちがみとふなとの世界が目の前で展開していた。

普段ふちがみとふなとは二人で演奏していると聞いていた。しかし今回は淵上純子さんと船戸博司さんの二人に加えてピアノの千野さんとわれらがソウル・フラワーの大熊亘さんが参加して「ふちがみとふなとカルテット」と呼んでいた。

普段の二人だけであれば、ベースに歌という組み合わせなのだろう。それでもきっとこの二人なら十分に聞きごたえのある演奏をすると想像できる。しかしピアノの千野さん、サックス(クラリネット)の大熊さんが加わることによって、音の厚みが何倍にも増していたと想像出来た。バンド編成ならこれにギターとドラムが加わるのが普通だとすると、音としてもの足りなさを感じても良いのだが、今回それは全く感じさせなかった。というよりドラムは時には邪魔になることがある。それは音程を持たない楽器であるから、音と音のハーモニーの面で邪魔になることがある。それがない分4人の音の組み合わせ・絡みが良く分かり楽しく感じられた。そしてこの4人は皆今乗っているミュージシャンであり、すごく気分良く演奏されていて、聞いていてこんなに気持ちの良いライブは、そんなにあるものではなかった。このライブに来た人たちは、入場料の2倍・3倍得をしたのではないだろうか。それとも吉祥寺という土地柄か。いつもこんなに良い出来であるのなら、私は吉祥寺の人たちを本当にうらやましく思う。

ふちがみとふなとの曲のことに触れなくてはいけない。しかし私は、初めて聞くバンドなので、曲名や歌詞を十分に把握していない。オリジナル曲、ディープ・パープル、フランクザッパ(?)、ロックンロールの曲。

オリジナルの曲は淵上純子さんの世界だ。歌詞を繰り返したり、単純な歌詞の組み合わせであったり、しかしそこから発せられるメロディーと歌詞から受け手である私たちは、すごく想像力を駆り立てられ、実際の生活や社会の出来事の中から同じような体験を引き出す力があるなんとも不思議な力のある歌であった。それはダリの絵から受ける印象とも似ていた。ダリの絵は実際にある出来事ではないのだけれども、世界のどこかにあるかもしれない風景や出来事を想像させる力があるようだった。

千野さんのピアノは勢いがありセンスがありテクニックもありでとても洗練されていてステキだった。ふなとさんのベースは力強くメロディアスで感情があり、本来ベースはリズム楽器で地味という概念をはるかに通り越し主役の一人になっていた。先ほども書いたが、ドラムが入っていたら、ベースは後ろに追いやられていたかも知れない。大熊さんのサックスまたはクラリネットは、もうこれはエクセレンス。言うことはない。すばらしいの一言。将来(今でも)日本の代表的な演奏者になる(なって欲しい)と期待する。その4人が気持ち良く熱演をしてくれたのだから、今回来なかった人はすごく損をしたのではないだろうか。

もうすこし淵上さんのことを。淵上純子。不思議な人だ。まずトークが不思議。言葉がとつとつと出てくる。決して滑らかではない。言いたいことが直接には伝わってこないようなのだけれど、なんとなくおかしいし伝わってくる。そして歌。「ちぎって、ネジって、ねじり倒すように歌う」と自分では言っていた。確かに勢いで歌うときもあった。彼女が気持ちの中に持っている感情や考えを歌という表現手段で素直に気持ちよくぶつけてくる。歌のテクニックも完璧ではないにしても十分あり、私たちは自由に想像力を働かせて、解釈できる。そして心の中に自然にすっと入ってくる不思議な才能の持ち主だった。これからCDを聞き、又ライブを聞き、彼女をそしてふちがみとふなとをより知ることによって、もっと深く彼らの世界を感じることが出来るだろう。

Mさんとその友人二人、行くことを迷っていたらしい。しかしライブが終わり感想を求めると3人とも「来て良かった」と言っていた。そうそう矢野さんと途中休憩のときに挨拶に行った。「覚えていますか。」と聞いたら、名古屋「カルヴァドス」での李政美ライブのときに目の前にいたので、やはり覚えていてくれて、李政美さん・矢野さんと北海道のツアーに一緒に行った私の友人leafさんのこと、leafさんのお母さんにも会ったことを話してくた。

ライブが終わり、アンケートにすごく楽しかったことを書き、Sさんと少し話をして、「趙博さん」のライブを企画している話を聞き、またメールか掲示板で情報交換をしましょうと挨拶をし、大熊さんにも「名古屋に来ることがあったら又会いましょう。」と挨拶をし帰ろうと出口に向かった。階段のところでみわさんと淵上さんがいてCDを何種類か売っていたので、そこにいた矢野さんに聞いておすすめのCDを買い、3人にとても楽しかったと伝えマンダラ2を後にした。とてもステキな、満足の行くライブだった。

山口洋ライブ報告

(1999年8月23日更新)

1999年8月22日名古屋TOKUZOへ山口洋のライブに行った。山口洋は、Heat Waveというバンドのボーカルで、ベースにはThe BOOMの山ちゃんが参加している。

ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬とも仲が良く、阪神大震災後に二人で「満月の夕」を作った。ソウル・フラワー・モノノケ・サミットのときの 中川敬とは違ったメロディー・アレンジで、山口洋は「満月の夕」を歌う。CDアルバムは1枚しか持っていないが、どんな歌手か興味があった。

ソウル・フラワー・ファンの私は何だかんだ言ってもソウル・フラワー・ユニオンと関係のあるミュージシャンを追いかけている格好だ。

6時半頃TOKUZOに着いた。中に入って驚いた。既に多くの人がいた。座席がいつものテーブルではなく椅子だけが並べてあった。約60席、既に8割埋まっていた。最後の列に座ったが、これでは、ピザかスパゲッティーを食べ、ビールでも飲もうと思っていた当てが外れてしまった。しばらく食事はお預けだ。

ソウル・フラワー・ファンが何人かいた。1月にモノノケを呼んだEさん、夫婦で子どもをおじいちゃんに預けてきたというSさん・Mさんの二人。8月13日一緒だったHさん。ビールだけ飲みながら開演を待った。ざっと回りを見渡す。立っている人も含め100人は超えていた。

いよいよ山口洋登場。ギターマイクをつけたアコースティックギター一本でロックンロール。一人でロックは音の厚みでは少しきついが、それでも力強く弾くギターの音が激しく体をゆすった。その唄はロックンロールが好きという山口の力強さ・激しさと時に優しさが混ざり合い、その観客に迫ってくる唄や表情は、中川にも似て、挑戦的であり、又客席の雰囲気を受け取ってもいるように感じた。

会場に来ていた子どもが時々声を出した。「いい雰囲気ですね」と笑いを誘った。傍若無人のようであり、それに反して細心の心を持っているようにも思えた。

ロックは聞くほうにもエネルギーを要求する。山口洋の唄も、やはりその意味では強烈なロックであり歌い続けて10年ほどになるらしいが。ロックの心をいつまでも持っている歌手だ。エネルギーに加えて歌のうまさ・表現力もある。感受性を更に磨き、社会的な視点が広がればさらに良いロック歌手になることだろう。

途中から、「疎遠になっていたご近所のキーボード奏者」というリクオが加わった。リクオはカバー曲、恋の唄、などを甘く歌い上げた。少しソフト路線。キーボードが好きなNAHOKOは気に入っていたようだった

今回は主催者の希望で共演することになったらしいが最近共演していないらしく、多少こなれていない面もあったが、それぞれソロで十分出来る力を持っている二人の音が重なり厚みが増し聞きごたえがあった。今回はリズムセクションがいないので仕方ない部分はあるがリズム・細かいところがもう少し洗練されるともっと良くなると感じた。

二人の掛け合いは音楽だけではなく、トークにもおよびお互い疎遠になっていることや、黙って引越しをしたこと、メールの返事を出さなかったことなどの、仲がいいんだか悪いんだか分からないようなトークが続いた。

そしてアンコールで、リクオも好きだという「満月の夕」を歌った。最近トルコで大震災があった。被災者のことを思うと、阪神大震災とオーバーラップしいつも以上に心に沁みた。後世に歌い続けられる名曲になることだろう。この曲を聞けて大いに満足だった。

そして2回のアンコールが終わり、場内にライトがついてもアンコールの拍手、珍しくアンコール3回。みな満足して帰り道についたことだろう。 

ハイカラ盆踊り報告

1999年 8月18日更新

8月13日、名古屋若宮大通公園内、若宮広場でハイカラ盆踊りが開催された。このイベントの主旨は、普段楽しみが少ない公園やその周辺で野宿をしている労働者のおっちゃん達に音楽を楽しんでもらおうというものだ。主催は普段笹島の労働者を支援している団体で作った連絡会。

朝8時から、舞台を作ったり、屋台のテント、音響のセットなど準備が進められた。

出演者は、朴保&朴実さん、生田卍さん、おーまきちまき&のむらあきさん、韓国からのロックバンドKIBNGDOM、趙博さん、寿、ソウル・フラワー・モノノケ・サミット、まーちゃんバンドの面々だ。

午後2時頃から、演奏が始まった。最初は朴保&朴実さん、イムジン河などをしっとり歌い上げた。次におーまきちまき&のむらあき、ほのぼのとした歌、私の好きな「私と小鳥と鈴」を歌った。その次は生田卍さん、メッセージ性の強い歌。それから韓国のロックバンド、KINGDOM、しっかりした演奏のハードロック、おちゃん達に葉少し分かり難いかも知れないが、熱演だった。

その後に前半の出演者全員でのセッション、朴さんが中心になってソーラン節を歌った。おっちゃんたちも民謡なら、良く知っているので、楽しそうに聞いている。横で寿のナビィが跳ねていた。

前半が終わったところで、いくつかのアピールがあった。おっちゃん達が、毎日仕事を貰うために朝早くから起きてならんでいること。支援団体からのアピールがあった。

その頃から雨が降り出し本降りになってきた。いくら高架下とはいえ風の向きで、観客や音響機器そして、楽器まで雨が掛かってしまう。シートを掛け雨に濡れないように気を使いながら準備をした。

そして後半、最初は寿。最初の曲から、ナビィは皆の気持ちをぐっとつかむ。一気におちゃん達をノセテいった。そしておっちゃん達の踊っている中に入って行き、飛び跳ねながら歌った。ナビィは歌うだけではなく、合いの手を自分で入れ、踊り、そして皆をノセルようにおしゃべりもした。1人3役も4役も同時にこなしていった。すごいパワーで皆を引き付けていった。

その頃に雨は本降りを通り越して雷まで鳴っていた。客席用の白いシートが半分濡れていた。私のシャツも汗と雨でべたべたに濡れていた。しかし出演者も観客もそんな事お構いなしに音楽を楽しんでいた。

そして次にソウルフラワー・モノノケ・サミット、出た最初は機嫌が悪かった。そして若い人たちの集団を見て、今日は君たちのために演奏するんやないんやから、さがってさがってと後ろに追いやる。若者もおっちゃん達が見やすいように素直にそれに従った。

最初音響がうまくいかないので、少し苛立った様子。しかし曲が進むにつれ、おっちゃんや若者の心をつかんでいった。この好調中日ドラゴンズのお膝元の名古屋で、インター「六甲おろし」ナショナルを歌うという暴挙も結構受けていた。

そして最後の曲「さよなら港」が終わり、舞台から降りると「アンコール」の声。トリでもないのに、アンコールに答えて出ていった。そしておっちゃんに一番人気だという「お富さん」を歌った。また盛り上がった。

次は、まーちゃんバンド、三線を手にバンドが5人と沖縄の踊りカチャーシー隊4人の編成。ブームが作った歌「島唄」など沖縄色の強い唄を歌った。

祭り自体の事前の準備不足を出演者のパワーが、補ってあまりある、信じられないくらいにとても良い乗りのライブになった。釜が崎・名古屋・寿町と続いた寄せ場支援のライブの中でも一番良かったという声もある。来年はどうなるのだろう。もういやだというのか、またやるというのか。来年も是非という声は強い。

 私は、10時に会場行き、お手伝いという形で控えテントにいた。出演者にお茶や水、演奏後にはビールを出していた。お陰で出演者の人といろいろ話が出来た。おーまきちまきさん、のむらあきさん、生田卍さん、趙博さん、朴保さん、朴実さん、寿のナビィさん、よしみつさん、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットの中川さん、ヒデ坊、河村さん、大熊さん、奥野さん、みわちゃん、まーちゃんバンドの真知子さんはじめ何人かと。

 そして他にもこのイベントを通じていろんな出会いが会った。準備段階から、打ち合わせに行き、支援団体の人たち、おっちゃん達、。当日は、ソウルフラワーファンのBBSの知り合い、市民運動で顔見知りの人たちなどなど。

 今回のハイカラ盆踊りの目的である、労働者のおっちゃん達に聞いたところ、十分楽しんでもらえたようだった。多分いくつもの至らない点、反省すべき点はあるだろう。出演者に失礼なこと不愉快な思いをさせたこともあるだろう。しかしみな楽しんでもらえたのなら、それでいいし来年につながることだろう。

THE BOOM ライブ報告

(1999年8月2日更新)

1999年7月30日、名古屋市民会館行われたザ・ブームのライブに行った。かねてよりBOOMAMA(普通のファンはブーマーで母親のブーマーのこと。)のNAHOが楽しみにしていたライブだ。

名古屋市市民会館は、3年ほどになるが前回のレインボーホールより収容人数は少ないが、交通の便が良いし、地理も良く分かっているところだ。開場時間に合わせて到着。途中で軽く食事をする余裕もあった。

会場の階段前には既に長い列が出来ていた。指定席なので、慌てることはないのだが、NAHOが買おうとしていたグッズが買えない。

会場に入り21列目の20・21番の席に着く。思っていた通りだいぶ後ろだ。前回は最前列のほぼ中央で、宮沢の汗が飛んできそうな場所っだったので、比べるとずいぶん後ろだ。

今回のライブは、ザ・ブームの10周年、それに久しぶりのツアーでということで、メンバーもだいぶ気合が入っている。新作のアルバム「No control」からの曲をはじめ初期の頃からの曲も取り混ぜてザ・ブームのすべてを見せる、といったライブだ。

時間になりメンバー登場、後ろのほうだし年だし立たないぞ、と思っていたが前の人たちが、立ったので仕方なく起立。いよいよ最初の曲。事前の勉強不足が祟って残念ながら曲名が分からない。2曲目はわれらがソウル・フラワー・ユニオンが歌詞に出てくる「敬称略」そしておなじみの曲、初期の頃の知らない曲も数曲が続いた。そして「沖縄」や「大阪で生れた男」「墓標」等の曲で佳境に入った。

途中「MCの貴公子」と一部ブーマーに呼ばれている、宮沢が(ブーマーはMIYAと呼ぶ、後ろの席に座った千葉から来たらしい女性数人が時々MIYAAAAと叫ぶのでうるさかった。思わず首を引っ込めてしまった。)曲の合間に、MCをかます。タイミングをはずしたり、浮いた中身の掛け声を出す人に「テロリストをつまみ出せ」また「ミッチーのように、自分を演出しなければ」といってオカマっぽく振る舞ったり、名古屋とその周辺の過去のライブを読み上げたり、とても「貴公子」というほどではないがなかなかのものだった。「とっちー」も少ししゃべったのだが、ソウル・フラワーの奥野のようにMCが寒かった。

印象に残った曲は「沖縄」「墓標」「大阪で生れた男」「ブランカ」などなど。中にはメロディーは分かるのだが、曲名が分からないのも数曲。

全体の感想を少し。客席には女性が8割。名古屋からばかりではなく、遠く千葉・長野・大阪・姫路などの遠方からの客が半数近くいたようだ。つまり半分は熱心なブーマーという訳で、おなじみの曲では同じ振り付けで踊り、合いの手(掛け声?)を入れる。それぞれが楽しめば良いのだけれど、自分まで同じように手を動かす訳には行かないので、手拍子をしていたのだけれど、もう少し個性的な楽しみ方はないのかな。

そんなブーマーに乗せられて、メンバーも乗っていたようだ。前回と違って、ダンスのメンバーがいなかったのでその意味では、ショーアップはされていなかったけれど、応援のメンバーの演奏はしっかりしていたし音響も照明も良かった。全体を見れば良いライブだったと思った。アンコールは「星のラブレター」「島唄」。そして2回目のアンコールは「ありがとう」。でみなが納得し無事ライブは終了した。

ザ・ブームというバンドは、ロックバンドと自称している。ギターの小林タカシは飛んだり跳ねたり、ロックをしている。宮沢も影響されてか、ステージのうえで飛び跳ねている。とっちーはドラムなので、正確にリズムを刻もうという意識が強いようだ。山ちゃんはベースなので、やはりリズムとベースラインをきれいに保とうと演奏していた。10年経って、ホコテンの頃からのロックの心を失わないように、そしてより良い音楽を目指している感じが今回のライブでは感じられた。

ザ・ブームは「島唄」で有名になった。今でも沖縄のバンドと思っている人がいる。沖縄の人たちにも、そう思っている人がいるそうだ。その後ブラジル音楽の影響を受け、沖縄から離れていったと批判する人たちがいた。しかし今回、また沖縄をテーマにした曲「沖縄」で再び沖縄に帰ってきたことを主張している。

ザ・ブームの曲の中には、「星のラブレター」のように恋愛をテーマにした曲があり、社会的な主張のある曲があり、またお遊び的なユーモアを交えた要素の強い曲がある。人によっては、大衆に媚びていると言った批判をする人がある。しかし彼らはミュージシャンなのだから、そしてそれを職業としているのだから、まず作品を出し知られることが大切だ。その上で、彼らが主張したいことを音楽の中で表現すれば良い。ただ単にコマーシャリズムに乗っているから良くないという批判は適当でない。そしてその上で、私たちが受け止めれば良いと思う。

「墓標」がNHK「敦煌」のテーマに使われそれなりに人気があり、根強いファンがいる。そして時には社会的な問題をテーマに曲作りをしている。ザ・ブームがこれからどのような音楽活動をしていくのだろうか注目したい。

  1. 大工哲弘さんライブ感想

  2. (1999年7月12日更新)

7月9日に名古屋TOKUZOで、大工哲弘さんのライブに行った。一緒に妻の奈保子と娘のかな。6時半頃に入ると、すでに椅子席がほぼ埋まっている。右の前の席へ案内された。隣には、男性が一人で座っていた。

しばらく待つ間に少し腹ごしらえ、ビールとつまみにスパゲッティー・かなにはピザとジンジャエール。食べながらしばらく待った。

時間になり、今回のライブの主催者らしいぢ額の先生が挨拶。今回のライブはどうも秋に開催する沖縄関係のイベントのプレイベントらしい。

いよいよ大工哲弘さんが登場。なんか普通のボクトツとしたいかにも田舎のおじさんといった感じで、三線を持って登場。あまり表情を出さずに沖縄の民謡を唄い始めた。3曲ほど続けて歌った。

隣に座っていた男性が感極まった様子。奈保子がそちらを気にしていた。

大工さんの歌を聞くのは初めてだったが、沖縄民謡だけではなく、どんどんその地方のいろいろな音楽を採り入れているようで、公演で行った先の民謡などを少しずつお覚えていると言っていた。それだけにはとどまらず、東京節・ガンバロー・沖縄を返せ、などなど古くからの風刺の利いた社会的な歌も多く採り入れていた。このあたりはモノノケと通ずるものがある。どちらが先かはっきりは分からないが、大工さんがモノノケに影響を与えていたのだろう。

曲の間に、オジさんギャグを連発。アフリカで日本食がなかなか食べられなくて、大使館の人がフランスから豆腐をとりよせて、打ち上げをしてくれたときに考えたことは、

「故郷は豆腐にありておもうもの」だったとか、

名古屋には「ハヤシもあるでよ」と言うくらいだから、お囃子をお願いします。とかいくつかいっていました。なほこと二人で、こけていた

休憩時間に、隣の男性に、沖縄出身ですかと聞いたら、やはりそうだった。名古屋近郊の大府に来て20年だそうだ。故郷への望郷の思いが、涙を誘ったのだろう。

他にも沖縄出身ら強い人がちらほら、曲が進むにつれて、お囃子やカチャーシーが出て、ちょっとしたディスコ(古いか今ならクラブなんだろうけど知らないからね)状態。

沖縄の人は昔からこうして音楽を大いに楽しんでいたのかと納得すると共にうらやましくなった。

沖縄への望郷の念を差し引いても大工さんの歌に込めた社会風刺精神、人々の生活に根づいた、多くの民謡はその押さえた表現方法からでもこちらに、ずんずん伝わってきた。

とても短く感じられる2時間が過ぎ、アンコールは、4〜5曲、最後はモノノケと同じ「さよなら港」だった。

その後、奈保子は「ウチナー ジンタ」私は「ジンター ナショナル」のCDを別に買い、それぞれにサインをしてもらったミーハーのしげちゃん、なほちゃんでした。

一週間で、アイヌと沖縄の音楽を肌で感じた。OKIのところで触れた、日本は決して単一民族ではなく、複合国家であるということをまさに体験した一週間であった。そして日本には、在日の人がいて、その人たちもそれぞれの歌や踊りといった文化を持っている。

李政美さんのアルバムの中のうたで、金子みすヾさん作の詩の一節に

「みんなちがって   みんないい」とあるが゙、まさにその通りだ。

  1. OKIライブ

  2. (1999年7月24日更新)

7月4日(日曜日)以前にTOKUZOで会った、すずきさん主催の加納「OKI」のライブに行った。場所は常滑市の大善院というお寺。車で行ったのだが50分ほど掛かった、ほぼ予想通り、道に迷うこともなく到着。切符を買い、すずきさんに挨拶。

本堂にPAをセットし、ご本尊の前で歌うという不思議な光景。開けっぱなしなので、蚊が多い。主催者が蚊取り線香をいくつか用意した。

アイヌの音楽を聞くのは初めて、トンコリという不思議な楽器も。ギターに似た形をしているが、調弦も独特、いわゆる西洋音楽の音階からは外れていて、絶対音感のある人は不響和音に聞こえるらしい。

ギターや三味線、いや他の弦楽器の多くが、弦をおさえて音程を変えるのに、このトンコリは、曲ごとに調律を変えるだけで、後はギターのアルペジオのように、1本ずつ弦を弾くだけだ。どの指で弾くかは決まっている様子で、それも右手だけではなく左手の指でも弾いていた。

らに不思議なことにその空洞になっている胴には、石か何かが入っていて、楽器を揺らすたびになかでその石(OKIは楽器の魂といっていたと思う)が転がる音がする

そのトンコリを使って演奏するのだが、アイヌの音楽は単調でさびもないとOKIの解説。自然と生活そして恋愛のテーマが多いらしい。言葉がわからないので、よくわからない。祭りの時には3日3晩歌って踊るといっていた。まるでリオのカーニバルのようだ。静かな音楽のどこにそのようなエネルギーがあるのだろうか。

アイヌの音楽はいかにもほのぼのとした雰囲気。昔、征夷大将軍と称して私達の祖先がアイヌの土地に侵略していった。その音楽からアイヌは争うことをしなかったのではと想像した。アイヌは元々国という概念がなかったとOKIは解説していた。アイヌの村を侵略していった歴史を私たちは忘れてはいけない。

途中から若い女性二人と日本人であろう男性がパーカッションで加わり、歌に歌を重ねるように、しなやかに歌った。本当は2人・3人・4人と歌を重ねていくらしい

なやかにそして楽しそうに、歌を歌いトンコリを演奏する彼ら。言葉の壁はあるものの、長年歌い継がれた、アイヌの音楽そして文化、生きるエネルギーをしっかり感じたライブだった。

今回OKIの音楽を聴きにいったのには訳があった。それは以前に一度だけ見たアイヌの踊りに私は新鮮な驚きを感じていた。それは、いわゆる大和の音楽や踊りとは全く別の文化をアイヌが持っていたことに対する驚きであった。アイヌの踊りを見たその時から、日本には大和民族、沖縄民族、アイヌ民族がある複合国家であると考えていた。今回OKIの音楽でそのことをさらに肌で感じるように確かめたかった。そのことを、改めて感じたライブであった。

ハシケンのライブに行く

(1999年6月11日更新)

インターネット、音楽的友人に誘われて5月30日ハシケンライブに行った。場所は今池TOKUZO。私はTOKUZOはじめてだったので、入口の数人の若者達を見て少しためらった。しかし時間が迫り友人もいることだし、入口の階段を上っていった。老舗のライブハウスらしく5,60人収容のライブハウスの割に立派な音響設備があった。すぐに友人を見つけその席へ。

別の友人と来ており、しばし挨拶から音楽談義。時間になり、まずカオルフレンズというバンドが演奏。少し緊張しているのか硬い。演奏者が緊張しているとこちらもリラックスできない。途中コーラスをやっていたお兄ちゃんがボーカルを。ラップ風の歌。勢いがあるだけそちらのほうが少しまし。それ以外特に感想はなし。

事前にハシケンのCDを買った。そのすぐ横に本人が座っていた。どこでお知りになりましたか。と本人からの質問。友人の勧めで、と答えた。本人が、いるのならサインをたのもうかというッミーハーな気持ちを押さえつつ、座席へ。

いよいよお目当てのハシケン。ごく普通の人のよさそうなお兄ちゃん風のハシケン。何でもイカ天ならぬ「エビス温泉」というバンドの勝ち抜き番組で優勝した経験があり、テレビ番組のエンディングに持ち歌が使われていたという。

一人で三線・ギター・それになんとかというアフリカのタイコを演奏しながら歌った。その歌声は澄んでいて迫力があり、たった一人の演奏ということを感じさせない迫力があった。TOKUZOの音響がしっかりしているせいもあるが、それ以上に彼の迫力ある歌が伝わってきた。

そして会場の観客との掛け合いも楽しく何よりも歌うことを楽しんでいる様子。曲が進むにつれて観客に掛け合う歌を教えて巻き込んでいく。客もついつい乗せられて、歌ってしまった。最近家出は日本のロック系のバンドを多く聞いているが、ロックとは違う味が出ていて面白かった。今後要チェック。何しろ私を誘ったギンギンのロック好きも偉く気に入って布教活動に入ったくらいだ。またロックはどうもという女性にもハシケンはお勧め。

その後、追っかけ的ファンからの情報では、自分で車を運転しながらのライブ活動ではあるが、歌うことをしみじみ楽しんでいる事が報告されていた。

ほのぼのとした雰囲気のハシケン。心の片隅にでも入れておくと良いと思います。

お花見で一杯!そして・・・

(1999年4月9日更新)

リーフさんに誘われて、名古屋市西区の庄内緑地公園というところで花見をした。

1999年44日午前11時に集合予定。しかし私がついたのは30分過ぎ、リーフさんの同居人のFさんが一人で場所取りをしてくれていた。

今日の趣向は、公園内にある桜を見ながらバーベキューを食べようというもの。すでに他のグループは、食べたり飲んだりカラオケまで準備して歌ったりしていた。

炭火をおこして材料の買い出しを待つことしばらく、今日のメニューはビール、日本酒、ワインにマッコリ。キムチにバーベキューに焼きおにぎり。トックにテールスープそれにYさん持参の五平餅。

総勢6人と少しさみしいが、それでも話題は尽きない。6人の共通点は以前講演会や写真展を一緒に主催をしたこと。他にもそれぞれが別の市民運動に関わっている。運動の対象は違っていてもお互い尊重しながらも意見が合わなければ意見を戦わせる。そんな関係だ。

酔いが少し回ったところで、リーフさんが管理をしている、ホームページの掲示板「失恋レストラン」で、最近議論というのか、ケンカが始まっていた事が話題に。私は第三者なので、傍観していた訳だが、どうも険悪な雰囲気だ。その事を尋ねると、問題点を説明してくれた。どうも当事者の一方がいい格好しいで、あることないことを吹いているらしい。それに怒ったもう一方の当事者が絶縁状を叩き付けた。そんな顛末だった。ケンカは大きいほど面白いというが、一方の当事者が、リーフさんが心酔している人だったから、間でおろおろしている様子だった。まだ余韻は続くと思うが、ここのところ少し落ち着いたようにも見える。ケンカの影響か普段より書き込みが少ないようだ。

酒が進むにつれ他の話題でもかなりの激論、その頃すでに私は酔っ払っていて話に加われなかった。いわゆるドメスティックバイオレンスがテーマだった。つまり家庭内暴力。家庭内暴力を許せないYさん、リーフさん。それに対して、暴力に甘んじている女性もいるのではとタケチャン。暴力を許せないのは当然としても、可能性として甘んじている女性がいることを否定できないとするタケチャンにも、人の考えの多様性を考えると一理ある。物事を自分の経験や価値観で決め付けてはいけないとも考えていた。感情的なやり取りも交えてかなりの激論になった。あの状況(つまりお互い酔っ払っている)では、収拾がつかなかったのは仕方ないかな。私はその事を考えつつも眠くて話には加わらなかった。君子危うきに近づかず…。ずるい!!

その頃には公園を引き上げ、リーフさん宅に行っていたのだが、飲みすぎ、食べ過ぎの私はおなかが苦しくて、しばらく休憩。しばしの睡眠。少し元気になった頃、いつものようにパソコン談義。その後コーヒーをごちそうになり、帰途についた。久しぶりのバーベキューと花見の宴。楽しい1日だった。

 ソウル・フラワー・ユニオン、ライブ報告

(1999年 3月 16日更新)

  1999年3月15日、名古屋クアトロへソウル・フラワー・ユニオンのライブに行った。何といっても新作アルバム発売後のライブツアー初日であり、ファンの間では「地獄集会」と呼ばれ期待され、他の地域の人からはうらやましがられていた。

最初の曲から、メンバー全員ノリノリで、クトロにつめかけたほぼ満員のファンも跳ねまくっていた。

「地獄集会」というネーミングは、先の1月に行われたソウル・フラワー・モノノケサミットでのライブの時に「愛と平和のコンサートというネーミングは、止めて欲しい。今度は地獄集会という名前にして欲しい。」と中川敬さんが言ったことを受けてのことだ。

私たち一家が(親子4人でライブに参加)クトロに入りライブが始まるまでの1時間親はビール、子はコーラを飲みながら待つ間、顔見知りに数人に会った。1月のライブの主催者の一人、今年モノノケを呼ぼうと画策をしている笹島食堂の人、その他にも何人か。そしてソウル・フラワーのファンのホームページで知り合ったDONさん。そして大阪からこのライブに乱入してきたシングルマンとそのお連れ合い。

収容キャパは500人くらいだと思うがほぼ満員。昨年10月から今回まで、ほぼ毎月ソウル・フラワーかモノノケできているせいか、段々ファンが増えてきている。12月に行ったクトロでのソウル・フラワー・ユニオンライブの時より人が多く、客層も若者だけではなく、背広姿のサラリーマン、女性二人連れ、幅が広がった感じだ。始まる前から盛り上がる雰囲気。 1曲目が終わった段階で、会場もソウル・フラワーのメンバーも既に100%のハイテンションに、中川さんも汗びっしょり。

今回のライブは、NEW ALUBAM「WINDS FAIR GROUND」の発売後であり、その中の曲が中心だ。今回のアルバムはアイルランドで録音をしたので、フィドルなどの音が入り、アイルランドテイストが強くなっている。

そして半分は以前からの曲だ。楽器の編成は、フィドル、クラリネット又はサックス、ドラム、ベース、ギター又は三線、ギター又はチンドン又はチャンゴ、キーボード。次から次へ曲をぶつけてくるソウルフラワーのパワーを受けそれを跳ね返す観客。会場は一体となって興奮に包まれていく。

演奏された曲は、全部覚えてはいないがいくつか紹介すると(これからライブに行こうとしている方は、楽しみのためにここは飛ばして下さい。)

「イデアのアンブレラ」「風の市」「平和に生きる権利」「イーチリトルシング」「満月の夕」「アリラン」「マージナルサーフ」「ホライズンマーチ」「戦火のかなたに」「忘れられた男」「ロンドンデリー」「もののけと遊ぶ道」「エエジャナイカ」「ブルーマンデーパレード」などなど。

そして、クラリネットの大熊亘さんとキーボードの奥野真哉さんのユニット「プチ・ソウル・フラワー」によるインスツルメンタル。ヒデ坊(伊丹英子さん)の歌。曲の雰囲気が伝えられないのが残念だけど、少し静かな曲の時だけクールダウンするが、最初から最後までハイテンションは続いた。

そして会場から「奥野〜。」そして「何か面白いこといって〜。」という声。それに「おまえ誰やねん?」と返す奥野さん。しかし話すことが、またまた滑ってしまって、その事が面白くて、一部だけ大笑い。他の人には何が面白いのかは分からないかも知れない。

実は、この声は大阪から乱入してきた、自称シングルマンの声だ。(しかし妻帯者)名古屋の観衆はこんなに品は悪くない。(その後名古屋のDONさんも品の悪い奇声を発していたことが判明した。)

中川さんも、「名古屋は重要な町になってきた。」とか「名古屋に住もうかな。」とお世辞半分としてもかかなり気に入ってきた様子。食べ物に「何で名古屋は何にでも天ぷらがつくんや。」とは言っていたが。

最後まで、休憩なしの2時間半。アンコールも2回に渡り3曲。ソウルフラワーも観客も一体となって興奮に包まれた「地獄集会」だった。

 ライブが終わって何人かに感想を聞くと、今までで最高のライブだったと口々に言うほど盛り上がった。今度は半年以内に来るという。これから待ち遠しい数ヶ月になりそうだ。

 しげちゃん「寿」ライブに行く

(1999年2月25日更新)

いつもの友人に誘われて、「寿」のライブに行った。

開場予定の630分頃に店の前についた。10人ほどのお客さんが待っており、店の入口には「準備中」の紙。名古屋はちょうど「三寒四温」の寒の真っ只中。予定時刻が過ぎている。寒い中をしばらく待った。すると中から男女二人が出てきた。女性に思わず「寒いけどまだですか?」と聞いた。その相手が実は「寿」のなびぃさんだった。

店に入り、お金を払いビールを頼んだ。記帳の用紙があった。何も隠し立てすることはないので、本名と住所を書いた。開演まで友人4人と歓談。もう一人の友人が来て私たちは6人。この一角だけ平均年齢が高い。

1時間ほどして、いよいよライブが始まった。簡単な自己紹介の後、最初は沖縄民謡。彼女のしゃべりとは少し違う印象の澄んだ声が響いた。

三線の音が心地よい。沖縄の言葉で歌う彼女。いわゆる西洋音楽とは違う微妙な音程の取り方。歌いながら、合いの手を入れ、身振り手振りを加えそして高い音程で決して楽ではないと思うのだが何によりも楽しそうに歌うその表情。

沖縄民謡から、彼らのオリジナル曲へ。曲の簡単な解説をしてから歌に入るのでわかりやすい。楽器もギターに持ち替え、雰囲気も変わり、引き込まれるような声。彼女の歌の魅力だけではなくその歌の合間にもお客さんを巻き込む言葉が入る。

実は彼女は、広島の出身だということがトークで分かった。東京と沖縄に住ん出居るという。その言葉・歌から沖縄出身のような錯覚をしていた。そしてトークも、実に楽しそうに自然にそして、お客さんと掛け合いをしながら続いた。

彼女たちの歌に対する思い。ピースボートに乗った時のこと。ベトナムでの出来事。K藤T子さんのエピソード。「…本のバラ」の歌が。ピースボートには合わずにとても寒く感じたことをトークの中で語った。

休憩中に途中で、帰ってしまったお客さんの帰った原因は「K藤T子ファン」だったのではとの予測で、大笑い。

「上を向いてあるこう」を「前を向いてあるこう」に 歌詞を変えて歌い、永六輔さんにも承諾してもらっていること。

途中お客さんにマラカスなどの楽器を渡し「シャカシャカ隊」として巻き込んでいくその楽しさ。そして最後のアンコール曲で沖縄民謡をやり、エイサーの意味とその手振りを指導した上での、ほとんどのお客さんを巻き込んでの踊り付きアンコール曲。実に楽しめた約2時間あまりのライブだった。

この「寿」と言うグループは、社会的な問題に関心が強いことは歌詞から、そしてピースボートに乗ったことからわかる。そしてなお、三線かギターだけと言うシンプルな伴奏なのだがそれを感じさせない歌唱力があり、しかも唄いながらお囃子を間にはさみ、なおかつお客さんに手拍子や合いの手を誘い、のせていく。そして何より、よしみつくん(と呼んでいた)がにこりとも笑わずに演奏しているのに比べ、なびぃの実に楽しそうなこと。この対照がまた面白い。こちらもそれにつられて楽しくなる。最初の紹介の時に、「これから2時間楽しんでください。」とあった。そのときには2時間は長いかなと思ったが、楽しんでいるうちにすぐに時間が過ぎてしまった。

この楽しさ・この雰囲気はCDでは、決してはわからないだろう。F田さんの「プロやね。」と言った言葉に妙に説得力があった。

ライブが終わってから、なびぃさんと握手をしCDを買いサインをしてもらった。少しおしゃべり、そのうち呼べたらいいなと考えた。既にK安さんは何かの機会には呼びたいと画策をしていた。そのことを伝えると、うれしそうな表情になった。私が呼ばなくてもK安さんが、それがだめでも、きっとO川さんが呼ぶだろう。そのときには私たちもお手伝いをしよう。

もっと詳しいレポートはこちらまで、fusuginokuni_c.gif (11832 バイト)

 

1999年新年会

(1999年1月16日更新

1月15日、巷では晴れ着姿の新成人のお祝いムードだが、倍以上の年令が大半、かろうじて30代が二人しかいない私達いつものメンバー9人(ほぼ徐勝氏の講演会実行委員会の顔ぶれで、そのうち5人はアムネスティ・インターナショナル“わや”の会員)+我が家の子供二人はYさんの新居に新年会をしようとを集まった。

いつもの通り一品持ち寄り。キムチ・チヂミ・チラシ寿司・お肉・サラダ、盛りだくさんの料理が並ぶ。遅れてきたメンバーが増えるたびに乾杯。

初飲んでいたビールを、日本酒好き(私)のリクエストで、持参した「立山」の純米酒を開けた。一升がすぐになくなった。その頃になると例によって話題がいろいろな方面に。それぞれの今年の抱負と報告をした。私は安田弁護士の不当逮捕のこと・1月30日に行うNTT労組TE東海支部でもアムネスティ・インターナショナル森澤事務局長の講演会のことを報告と相談。

のうちアルコールが回ってきたのか、というより恒例になった感がある、意見の相違による激論。内容は、私は二人の間にいたにも関わらず酔っていたせいか良く聞いていなかった。韓国、共和国への認識の違いだったかな?

さんから間に入るように言われても入りようがない。はたから見れば今にもつかみ掛かりそうな勢いだが、お互いの意見をぶつけ合うのが、アムネスティ・インターナショナルの良いところなので、しばらく様子を見て、報告やら相談やら話題を変えることで激論を沈静化した。

何人かいなくなったと思ったら別の部屋で、Yさんが最近買ったメビウスの設定をしている。これで又e-mail友達が増えることになる。そういえば今日のメンバーの中で一人を除く全員e-mailでつながることに。ホームページを持っているのも3人。更新した・しないの話から、最近のリーフさんのホームページに出来たM.Y.さんのコーナーを持参したノートパソコンで確認。激論で、パソコン談義までにはならないが、皆パソコン好きであることは確か。

気がつくとワインが2本3本と空いていた。当初子供がいるので、10時には帰ろうと考えていた。気がつくとすでに10時はとっくに回っていた。何を話したのかは良く覚えていないのだが、とにかく気の置けない仲間との楽しいひとときであった。

ソウルフラワーユニオンライブ感想

12月20日、名古屋クワトロでの「ソウルフラワーユニオン」のライブに行った。10月に行った「もののけに出会う夜」に出演したソウルフラワーモノノケサミットのプロとしてのライブだ。モノノケの時とは違ってロックバンドであり、音響もすごくうるさい。クワトロの収容人員は400ほどあるのだろうか。ほぼ満員の人数。早めに入場した妻と娘の3人で、横の椅子席に陣取った。すぐビールとジュースを頼み喉を潤した。1月にモノノケを呼ぶEさん、笹島の救援をしている人、顔なじみが2人。そしてメールで連絡をしていたKさんが電話を掛けてきて、合流した。10月の時の話、モノノケのファン歴、英語のことなどしばし飲みながら歓談。いよいよ時間、最初から若者は跳ねていた。おなじみの曲とたまに知らない曲。演奏はしっかりしており、ベース・ドラム・キーボード・サックス・バイオリン(?)もグッド。観衆ものりが良く、中川さんものってた様子。欲を言えば、ソウルフラワー、モノノケともに彼らの特徴は、社会性のある歌詞が重要なので、しっかり聞き取れれば良かったのだが、演奏に比べて聞き取りにくかった。内容はCDを聞こう。大きな音響の中、休憩を挟んで、たっぷり2時間。20年前ならついていけたが、この年では途中で、疲れてしまった。

しかし中川さんも名古屋を好きになったそうで、来年3月に又来るとのこと。1月のモノノケにも、又来ることを考えつつ帰途についた

ピカソ展感想

(1998年 11月7日更新)

1998116日金曜日の3時頃から、名古屋市美術館でピカソ展を見た。

入り口で入場券を買い、ロッカー室で荷物をロッカーに入れ、携帯電話のスイッチを切って中に入っていった。入り口に大きなピカソの写真。最初の部屋へ。すでにそこから行列が始まっており、説明のパネルを数人の人が見ていた。少しでも空いている時にと思って平日の昼間に行ったのだが、思っていたのより多くの人が詰め掛けていた。

 作品は少年期から年代ごとに順番に並べられていた。ピカソの作品はどれも紙やキャンバスに向かう筆の力に圧倒される。今回も、少年の頃の作品からすでにその迷いのない線一本をとってみても、天性の才能がこちらに伝わってきた。

そして、貧しかったであろう若き日の作品。恋人が出来、愛情溢れる作品を多く世に出していた時期。キュービズムの頃。古典主義に戻った頃。円熟期から晩年に至るまで。それぞれの時代のピカソがそこに存在した。

 私は確か、ピカソ展に来たのは3度目だ。最初は小学生の頃、二度目は十数年前、そして今回。初めてで、小学生だったこともあり、最初のピカソ展で見た「泣く女」の印象は強烈だった。その時には分からなかったが、それは、女性を確か7人代えているピカソが、三角関係になったある時に、自分で女性を選ぶのではなく、女性同士を競わせた時に、棄てられた女性の表情を描いた作品だと思う。その時の強烈な悲しみが出ていた作品だった。

 今回の作品の構成はピカソのそれぞれの時代により変化してきた、手段・技法・表現方法・興味の対象、心の状態の様子がこちらに伝わってくるように並べられたといった印象だ。

しかし私がかつて感じたような強烈な印象はなかった。その理由は、今回の展覧会は女性に対する愛、子供に対する愛などピカソの愛情溢れた作品が多く並べられていたが、もっと人間の醜い面や悲しみを表現した作品が少なかったからだろうか。そして代表作が少なかったようにも感じられた。

 そして少し残念だったことは、出品されていると思っていた「ひろしま美術館」にある〈仔羊をつれたポール〉がなかったこと。女性に対する愛憎劇が、今回の展覧会では、良く分からなかったこと、キュービズムの作品が少なかったこと。さらにかなわぬ夢を言えば、「ゲルニカ」が見たかった。それと予想より込んでおり、時間がなかったせいもあってせっかくの作品、そして作品に込められたピカソの精神と少ししか対話することが出来なかったことだ。

 

 最後に、いつも思うのだが、日展の時ほどではなくてもマナーの悪さは何とかして欲しい。数人できて、小声で話しをする人は良いほうで、人が鑑賞している前を平気で横切ったり、遮ったりする人。これ以上中に入らないで下さいという線の中に入る人。今回見た中で、最悪なのは、皆が見ている前を線の中を歩いて横切った人がいた。皆さんはそうならないようにして下さい。

 1998年アーバナート展#6感想

(1998418日更新)

416日代協理事会が少し早く終わったので、パルコへ行き、「アーバナート展#6」を見にいった。最初アーバナート展の意味が分からず、入り口で、入場料300円と書いてあるのを見て一瞬立ち止まり、引き返した。そしてもう一度周りにはってあるポスターと入り口から見える作品を遠目に見てどんな物かを探ってみた。どうも若手作家の作品展らしい。

パルコギャラリーはいままでも新しい作家の作品展をしているので、取り敢えず入ってみることにした。まず目に付いたのは、卵の作品、煮干しの作品、一つずつ見る。この手の作品は例によって表現方法というか技法というのか、自由で何でもありだ。少し例を挙げれば、絵画、写、真、模型、おもちゃを集めたもの、ビデオ、シルクスクリーンのようなもの、シルクスクリーンそのものも並べてある。立体、機械仕掛け、コンピューターグラフィックス、からくり人形、あらゆる手法が使ってあり面白い。

部屋に飾っておきたいと思った作品をいくつか、紹介する。

題も作者も分からないのだが、布(?)のようなものに日本の伝統的な、そう万華鏡の表面のような赤・白・青・緑、といった原色の円柱や箱型が、組み合わせて描かれているだけなのだが、平面に描かれているにもかかわらず、立体に見える作品。これは装飾的によい。トリッキーできれい。場所を取らない。という特長があってよいと思った。

次に、立体の作品で、男子トイレと女子トイレの便器が並んでいて、端のドアが閉まっており、下の空間に女性の足が見えている。全体が白いのだが、その女性のハイヒールの赤が目をひいた。これは、以前から絵画のように壁に掛けられる立体の作品が欲しいと考えており、なおかつそれほど空間を取らないのでよい。しかしこれが部屋にあったらあまり上品ではないかも知れない。

次にこれは部屋に置きたくないと感じた作品を。

・合成写真か何かだと思うのだが、(その当たりいい加減)人が寝ている頭の拡大写真の脳みそが見えており、そこに虫がたかっている作品。これは気持ち悪い。

・人間の口から赤い水を出している作品。

・煮干しをのりで固めたやつ。少し煮干し臭い。

・座った時の足があり、脚気を調べる時のようにひざをたたくと、機械仕掛けで(大層な物ではないが)鉄の玉が落ちてひざが、蹴るように伸びる作品。これは場所を取ることもあるが、うるさいのと足の前に立ってひざをたたくと、蹴られてしまう。

どの作品も面白く力作であることは認めるのだが、作家に要求したいことは、今のコピー全盛の時代には、普段目にしているものが、殆ど実物ではなく印刷にしても映像にしても、印刷技術とかカメラを通しての現実を見ることがほとんどである。作品に人生観が出るとしたら、もっと本物を実際の目で見、体験して、人生の何たるかを感じた上で、作品にその感動を表現して欲しい。私の考えでは芸術の本質は、人間を表現する事、現実とコピーから受ける印象の乖離が、作品の奥行きを浅いものにしてしまう。お祭り芸術であればそれでもよい。しかし人の本質をもっと見つめるのであれば、世界の出来事をそして人間を注意深く観察し、作品に表現して欲しい。

帰る時に、「アーバンナート展#6」のチラシを見た。英語で、URBANARTとあった。

都会の芸術?確かに何でもありという意味では、都会の雑踏のような印象はあった。しかし意外と人間の素朴さを感じる作品展であった。

しげちゃん牡蠣を食す(1998年2月25日更新)

今度牡蠣を食べる会があるから来ないかと友人から誘いがあった。牡蠣とワイン、魅力的な取り合わせだ。屋外で、たき火で牡蠣を調理し食べるのだそうだ。

当日は雨。それでもテントを張り雨天決行するという。仕事を早めに切り上げ、その店のある上小田井駅に降りた。その駅は初めてだ。改札を出ると「ポポロ」というその店の看板が見え道に迷うことはなかった。

予定の時間の7時少し前に「ポポロ」に着いた。誰もいない様子。カウンターの椅子で、少し待つとその誘ってくれた友人が来た。誰が来るのか聞いていなかったのだが、何のことはないいつも一緒に飲んでいる他の友人も別の席で待っていた。私たち6人。我々以外は4人の計10人。

準備が整い外のテントに行った。マスターが牡蠣の説明をしてくれた。いわく的矢湾の無菌牡蠣なので、当たる心配はないとのこと。テーブルにはワインとワイングラス、軍手と牡蠣の殻を開けるための道具がならべてある。そして最初に出てきたのは生牡蠣。レモンを絞り、口にする。牡蠣の持つあの独特な香りが、口の中に広がる。そしてワインを一口。牡蠣とワインそれぞれの味を引き立て、一層おいしさが口に広がる。それから、13年の経験から得た微妙なたき火の火加減で焼かれた牡蠣が次から次へと出た。マスターいわく火加減と水加減は体得するしかなく、火と水で「ヒミツ」だそうだ。全員妙に納得。左手に軍手をし、へらのような道具で、牡蠣の殻を開け、汁を飲み、実を食べた。食べるほうに忙しく全員口数が少ない。そろそろおなかいっぱいかなというところで、焼いたホタテ貝が出た。牡蠣と違う少し歯ごたえのある食感と風味が口の中に広がった。またワインを口に運んだ。

屋外でのメニューは以上。次に店の中に入り、牡蠣のにんにくオリーブオイル焼きとグラタン。今まで散々牡蠣を食べたのに、これがまたおいしい。その頃になると、私たち6人のグループと他の人たち、男性二人はその店の近くの銀行員と支店長、そして中のよさそうな二人連れも入り交じって話に花が咲いた。職業当てになり、自己紹介やら、名刺交換が始まり、銀行員が学生のころ登山で経験した様々なトラブルの話などで、盛り上がり、ついはしゃいで、大声で話していた。そしてサラダとパエリア風のご飯。ここでイタリアンシェフのタケチャンのうんちくが少し。時の経つのも忘れ話していた。最後にフルーツとアイスクリームのデザート。最後までおいしくいただいた。

気の合った友人とおいしい料理にワイン。これ以上のものはない。その後民家を改造した気品のある美人ママさんのいる店に友人とポポロのマスターと行き、終電に乗り遅れ友人宅に泊めてもらう羽目になってしまった。もう少ししっかりしなければと反省、友人には迷惑を掛けました。

おいしい牡蠣とポポロのマスターと友人に感謝・感謝。

しげちゃんアイスホッケー観戦記(1997年10月20日更新)

1997年10月19日、義理の兄が勤める王子製紙対コクドのアイスホッケーの試合が、姉の家から車で約10分のところにある新横浜プリンスホテルスケートセンターであり、観戦に行った。姉の友人一家と姉の一家が一緒に行く予定だったのが、甥がアルバイトで行かなくなり、切符があまり、ついていくことになった。姉の友人には、17、8年ぶりに会った。その時に写真を撮った長男がまだ2、3才だったように記憶している。その子供がすでに大学生。しかも弟のほうは大学を休学して横浜マリノスのサテライトに所属する現役Jリーガーだそうである。同窓会で書いたように、姉の友人に久しぶりに会っただけでは懐かしくはあるのだが、時間の流れはそれほど感じない。しかし二人の息子を見ると自分も年をとったと感じざるを得ない。

試合のほうはと言えば、それまでアイスホッケーを生で見たことはない。テレビでもNHLをWOWWOWで中継しているが、じっくり見たことはない。オリンピックのときに少し見るくらいだ。スポーツを見に行くのは昔やっていたバスケットボールを含めて久しぶりである。

スポーツを観戦するとどうしても、自分が経験したスポーツと比較してしまう。最初に練習の様子をじっくり見ていたのだが、パスを受けてのシュート、2人でのシュートあるいは3人、そしてディフェンスをつけてのシュートといった練習は、パスを受けて篭に入れるということでは少しバスケットボールに似ていた。しかしバスケットボールとアイスホッケーはそれほど共通点があるわけではなく、その意味では新しい感覚で観戦することが出来る。

まず違いは、当然ながら氷の上で、行う競技なので、スピード感覚が違う。それは瞬間的なダッシュと更にスピードが乗ってくるので一気に、リンクの端から端へ移動できる。試合中ほとんどストップアンドダッシュなので体力の消耗は相当激しいと予想する。試合の途中で3〜5分ごとにどんどん選手交代していかなければ、やはり持たないだろう。スティックを使っているので、パックを打った瞬間のスピードはすごい。もしリング外に飛んだとしたら、浮いた玉なら避けられてもまともにシュートした玉は避けられる自信はない。そしてその滑るスピードとスティックを使用しているからだろうが、パスを出す受けるの正確さがとても難しいと予想する。そして、シュートも正確さが要求されるだろう。勝負のあやが、運に左右される要素も意外と高いかも知れない。そして体のぶつかり合い。カバにぶつかる音。この試合ではそれほどではなかったが、小競り合い。反則によるペナルティー。そのあたりの激しさは、他の球技にはないだろう。観戦が始めてなので細かいところが見えなかった。ペナルティーボックスに入った時に、どうなったのかことごとく見えなかった。これはどのように、ひじやひざ、その他の体を使っているのかが、自分の経験の無さからまったく分からないからで、これがバスケットボールなら、上体の動きだけで足の使い方がある程度予想できる。もちろんファウルは見ていればほとんど分かる。

試合中、じっと集中して見ていたのだが、残念ながら、以上の理由で細かいところはことごとく分からなかった。しかしつまらなかったわけではなくスピード、迫力、体力、技術、チームワークすべてにおいて、なかなかのもので、これはこれから注目に値するスポーツであることを実感した。残念ながら、今回の会場は狭く収容人数が少なかったこと、試合数が年間リーグ全体で40試合ほどしかなく、それも試合会場が、北海道とか遠方が多いそうで、生で観戦するのには少し条件が悪いようだ。そしてもう一つ残念なことは、当然ながら応援していた王子製紙が、3対2でコクドに負けてしまったことである。

余談

試合後近くの喫茶店で、お茶とケーキを食べた。そこの窓から、まだ未完成だがワールドカップの会場となるサッカー場が見えた。収容人数7万人だそうだ。マリノスとフリューゲルスのホームになるらしい。まだサテライトではあるがJりーがーであるまなぶくんがマリノスの1軍にあがって、活躍する日が来ることを期待しよう。

 しげちゃんの同窓会(1997年10月20日更新)

1997年10月18日、アットホームページで紹介したようにかなちゃんの保育園の運動会に行ったあとに、新幹線に乗り、大学時代の尾崎先生のアドグル40周年記念パーティーに向かった。渋谷から約10数分の我が母校の会館に5時30分頃に着いた。アドグルと言うのは先生をアドバイザーとして作られたグループで、サークルともクラブとも違った、先生を中心にした学年を超えた仲間と言ったものである。このアドグルは一緒になって遊んだり、旅行に行ったりする以外にまじめな面を持っており、なほちゃん(妻)に言わせると信じられないのだが、アドグルは聖書研究会でもあり、毎日聖書を読んでいた。もっとも私はほとんど出たことはない。ごめんなさい。そんな訳で、青春時代をともに過ごした仲間が、先生の人柄が求心力となって、卒業後20年たった今でも130名以上も集まると言う同窓会のようなものである。先生あってのアドグルなので、先生ご夫妻に感謝するとともに、幹事になって準備をしてくださった人に感謝・感謝です!

パーティーが始まり、先生の挨拶、先輩からの祝辞、そして遠方から参加者のの紹介と会は進んで行く。挨拶を聞き、時には食べ物・飲み物を口に運び、仲間と談笑する。それぞれが社会的地位も出来、分別をわきまえた年代であり、外見も太ったもの(私)頭のさびしい人、しわが多くなったりしてははいるのだが、この会に来るとどうしても昔の友達の関係そのままの雰囲気と、話す口調になってしまう。20年の歳月を飛び越えて、青春時代の思い出や、子供の話、最近の様子などに花が咲く。そして学生時代には知らなかった先輩や後輩との新たな出会い。先輩の挨拶にあったようにこの会には卒業はない。2年後には先生の喜寿のお祝いが、そして100周年記念まで頑張るのだという。皆で記念撮影をして、カレッジソングをうたいなごり惜しい気持ちを押さえ1次会をお開きにし、2次会へ。学年の近い者同士ガ集まる2次会では更に学生時代の馬鹿なこと、面白かった話題で盛り上がった。気がつくと帰らなければいけない時間だ。泊まる予定である横浜にある姉の家までの最終電車がでる時間が迫る。十分に話が出来なかった友人にまた再開を約束し、友人2人と共に東横線の最終電車に乗った。