Page-Lmemo Magic story of Broom rider 3. 
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 一人の少年が、ベランダに置かれている蜜柑箱から、手元のざるに蜜柑を一山ほど移している。
 首の後ろでひとまとめにくくられた髪を前に垂らしながら、ともすれば中学生と間違われそうな容姿を持つ、その少年の名は弥雨那希亜、自称「魔女の系譜の魔法使い」である。
 彼は白い息を吐きながら、蜜柑を移し終えると部屋の中へと入っていった。
「は〜い、蜜柑盛ってきましたよぉ〜」
 一年先輩のルームメイトである軍畑鋼に希亜はそう言いながら、ベランダへの扉を閉める。
 既に正月も4日になり、そろそろ世間は動き始めていたが、学生は未だ冬休みを満喫する。 この部屋の寮生2年の軍畑鋼と1年の弥雨那希亜も、その例外ではなく冬休みを満喫していた。 宿題やレポートを片づけられた者達の特権と言えるだろう。
「こたつも蜜柑も、弥雨那ちゃんにはいつもすまないっスねー」
「私は美味しいのを売っている場所を知っているだけですから、この蜜柑自体は軍畑さんのお金で買ったものですしぃ、感謝されるいわれはないんですよぉ」
 希亜は軍畑の言葉に答えながら、ベランダから部屋に入った彼は竹製のざるに盛られた蜜柑を片手に、部屋の中央に置かれた炬燵へと歩いて来る。
 実際、この炬燵も買った訳ではなく、ゴミをリサイクルした物だった。 まだ十分に使える物を捨てている程には、世間は裕福だと言えるだろう。
 軍畑はその炬燵に入りながらに原稿用紙に向かっていた。 今彼が描いているのは漫画のラフ、要するに鉛筆等による下書きの事である。
「やっぱり炬燵は暖かいですね〜」
 のんびりと炬燵に入る希亜も、軍畑と向かい合ってノートPCのキーを叩く。
 それからしばらくそれぞれに原稿用紙やノートPCに向かっていた。
 外には灰色の寒空からしんしんと雪が降っている。 部屋の中は鉛筆が線を引く音、キーを叩く音HDDのアクセス音、そして時折かわされる二人の会話だけがあった。

 不意に希亜の視界が変わった。 たった一瞬だが全てが空に包まれていた、視界だけではなく、ほぼ五感全てが空を感じていた。 それもいつもの空とはどこか違う空を。
「…ん、弥雨那ちゃん、どうかしたっスか?」
「いえ…、ちょっとトイレに行って来ますね」
 そう言ってふよふよと希亜は部屋から出て行くのだった。
「何かあったみたいッスね…」
 ルームメイトの確信めいた言葉が部屋に広がる。
 そして軍畑が再び原稿用紙に向かおうとした時、廊下をドカドカと駆け上がってくる足音が聞こえ、それは真っ直ぐにこの部屋の前まで来てピタリと止んだ。
 一瞬の静寂が広がる。
「何スか?」
「希亜おるか!?」
 軍畑の言葉と、勢いよくドアを開けて問う猪名川の言葉が重なった。
「…弥雨那ちゃんならトイレに行ってるッスけど、何かあったんスか?」
「希亜の婆ちゃんの婆ちゃん… ちゃうわ、曾婆ちゃんが危篤やってさっき電話があったんや」
「マジっスか?」
「当たり前や!」
 その二人の言葉の直後、寮の近くの空からだろう大音響が響き渡った。
「…聞いとったみたいやな、希亜」
 サウンドバリアを貫く瞬間の大轟音が辺りに広がる。 そんな現象がただ、寮の上空で起こった。 現象を起こしたのは希亜自身なのだろうと、由宇も軍畑も確信していた。
 
 
 
 

箒乗りの 魔法の話 その三

 子猫と希亜と綾芽の空

 
 
 

 小一時間後、寮管理人室。
 どてらを羽織ってぼんやりと炬燵に入ったままに蜜柑を食べる由宇、蜜柑は先ほど希亜&軍畑の部屋から奪ってきた物だ。
 ニュースが流れているテレビを見るでもなく、彼女は蜜柑を剥いていた。
 そんなときに電話が鳴った。
「なんやろ… はい、試立リーフ学園学園寮管理人室です」
『あ、管理人さんでしょうか』
「はい」
『私、弥雨那希亜の姉の「アっちゃんかぁ、久しぶりやなぁ、ウチや猪名川の由宇や。
 今どないしとるん?」
『…由宇。 希亜の事なんだけど、一週間ほど帰れないから』
「それはかまへんけど、何かあったん?」
『うん、曾お婆ちゃん。 今亡くなるの』
「…なんやそれ」
『分かるんだって、自分の死期が。 私はあんまり面識無かったから、そんなにショックはないんだけど、希亜は曾お婆ちゃん子だから…』
「ほうか」
『うん、色々忙しくなるからまたね、関西の即売会にはいるから』
「分かった、アっちゃんも元気でな」
『うん』
 久しぶりに聞いた知人の声が途切れ、陳腐な電子音の連続音に変わる。
 やがて受話器を置き、由宇は再び炬燵に入った。
 記憶の中の彼女は、もっと口数の多い春風のような人物だった。 でも、電話口の彼女は何か他人行儀で、口数も多いという訳ではなかった。
「アっちゃんかて、ショック受けとるやないか」
 呟かれた由宇の前には、剥かれたままの蜜柑があった。
 
 
 

 数日後、夜、寮管理人室。
「はいもしもし、試立リーフ学園学園寮管理人室って、アっちゃん。どないしたん?」
『さっき希亜が飛び立ったからその連絡』
「なら、30分ぐらいで着くな」
『多分ね』
「そういえば、希亜はアっちゃんの事話さへんなー。 こっちの友達にも姉貴がいるなんて話したとこ見た事無いで」
『そう』
「…アっちゃん?」
『何? 由宇』
「どうしたんやアっちゃん、こないだもそうやったけど今日はもっと口数少ないやんか。 ウチは知っとんやで、あんたが落ち込んどるの」
『…私の事でもあるんだけどね』
「なんや?」
『希亜の事なんだけど、あの子の住所変わったから、手続きの仕方教えてあげて』
「それはええけど、なんかあったんか?」
『うん、でもこれは言う訳にはいかないから。 ごめんね。 でも、希亜が話すのなら問題ないから』
「…まぁええわ、手続きの事はばっちり面倒見たるから心配せんでええで」
『ありがとう。 そう言えば由宇ちゃん去年の暮れ帰ってこなかったでしょ』
「ちょっと、こっちでいろいろあってなー。 来年は帰るから、な?」
『もう、こっちのみんなも楽しみにしてたのに』
「ま、まぁ色々あったんや」
『そう言う事にしとくわ、じゃそろそろ切るね』
「ああ、またなー」
『そうだ。 あの子まだ泣いてないから』
「…アっちゃん?」
 そう呟いた由宇の耳には、切れた電話の陳腐な電子音だけが聞こえていた。
「泣いてへんて、どういう事や?」
 

 数十分後、希亜&軍畑の部屋。
「戻りました」
「なー」
 ベランダから入って来た希亜と、彼に抱えられた青御影のようなやや青みがかったグレーの毛並みを持つシャム猫の子猫が、それぞれに帰還と来訪を告げた。
「お帰りっス弥雨那ちゃん… て、どうしたんスかその子猫?」
 軍畑の視線の先、コロコロと鳴る陶器製の鈴を首輪に付けたその子猫は、希亜の足下にピッタリと寄り添っている。
「ちょっとあって、私の手元に置く事になりました。 使い魔予定のクラムです」
「なー」
 クラムと呼ばれた子猫は軍畑に向かって一鳴きしシッポを立てた。
「…なんて言うんスか? 弥雨那ちゃんは魔女の王道を行こうとしているんスか?」
「曾祖母の遺言でして… これ以上はちょっと」
 言いにくそうに、と言うよりは何かから逃げるように視線をはずす希亜に軍畑は深く追求する事もなく。
「まぁ、そこにいると寒いっスから炬燵にはいると良いッスよ」
 そう言って彼を迎え入れるのだった。
 
 
 

 感覚がない事が分かった。
 正確には五感はあるのだが、まるで実感がなかった。
 どこか、空を飛んでいる。 希亜の知らない空を。
 見た事もない箒に乗って、見た事もない格好をした魔女達と共に。
 だが、どこかで懐かしさを感じていた、それを感じさせるものも分からすに…

 ホワイトアウトした視界に身をよじった直後、自分がベッドの中にいる事に気付いた。
 意識が少しばかり認識範囲を広げ、それまで見ていたものが夢だとおぼろげながらに確認した。
「…夢かぁ〜」
 辺りを見渡す、レースのカーテン越しに冬の朝日が部屋の中に深く入って来ている。
「どこの、空だったんだろう」
 まだ目覚め切らない頭でぼんやりと呟いた希亜だった。
 

 お昼前、学園内校舎屋上。
 コロコロ。
「なー」
 首輪についている陶器製の鈴が鳴る。
 ブレザータイプの制服の上に、彼の言う魔法使いの正装である濃紺の背中で大きく分かれているマントを羽織った希亜。
 その彼の膝の上で、青みがかったグレーの毛並みを持つ子猫が、丸まっていた体を伸ばすように頭を上げてひと鳴きしたからだ。
「どしたの?」
 希亜は膝の上の子猫に触れるでもなく、視線を膝の上の子猫へと落とした。
 その子猫の頭の先、視線の先に一人の生徒がいた。 ゆっくりとした仕草ではあるがこちらに向かって歩いて来る。
「来栖川芹香さんですよ、クラム。 こちらの方の魔女と言えるでしょう」
 希亜がそう説明しながら、そっとクラムの頭に手を乗せると、クラムはまた彼の膝の上で丸まるのだった。
 芹香はそのゆっくりとした足取りで希亜に近づいてくる。
 そうしてようやく目の前まで来ると、彼女が口を開く前に希亜が口を開いた。
「この子の事についてなら、今は答えられません。 ただ、私の大切なものの一つです」
「では一つだけ? 使い魔なのですか?」
 希亜は彼女の言葉を確認するように呟くと、目を閉じしばし思案にふける。
「とても近いものですよ、私の血筋ですから」
 希亜は答えてから瞳を開き。
「でも今は、私がそばにいる必要があるんです」
 芹香は「そうですか」と、少し残念そうな表情を見せるが、そのまま言葉を続けた。
「え? 綾芽が探しています?」
 コクコク。
「参ったなぁ」
 希亜はすぐに立ち上がってこの場から離れようと思ったが、膝の上のクラムの存在にその行動を取る事はできなかった。
「クラム、行こうか」
 そんな希亜の呼びかけにクラムは耳をピクンと動かしただけで、相変わらず丸まったまま希亜の膝の上を独占していた。
「しょうがないなぁ」
 やや諦めるように呟く希亜の様子を芹香は微笑ましく思い、希亜に綾芽には私から言っておきますと言付け、その場を離れていった。

 今日は3学期の始業式であり、大量の生徒の中に紛れてか、希亜は朝から綾芽に会ってはいなかった。
 会いたくない、と言う事は微塵もなく。 ただクラムの相手をしていたら、いつの間にか探されていた訳である。
「何の用なんでしょう」
 年の瀬に彼女の。 正確には彼女がパパと言って慕っている、希亜の一年先輩に当たる悠朔の実家の神社で、彼女らと一緒に手伝いをしていた。
 途中ハイドラントご一行の自滅的なハプニングもあったが、元旦のお務めの終わりに夕食をご馳走になって、希亜はそのまま神戸の実家へと戻っていた。
 以来、綾芽とは顔を合わせてはいなかった。 何度か電話をしたぐらいである。
「とは言え、そろそろ顔を見たくなりますねぇ〜」
 希亜自身、綾芽の事はある意味とても気にかかる人物だった。
 それが「好き」という、衝動を呼び起こす想いである事を間接的にとは言え指摘され、しばらくは動揺する事もあった。
 希亜自身が感じている、彼女の影の部分が気にはなりにこそすれ、それも含めて好きである事を、現在は快く思っている。
 未だに告白をしていないのは、そんなに焦らなくて良いと思うからだ。
 たとえ周りから見れば言わずもがなな事であっても…

 ふと思う、希亜自身恋心に気付いたのは初めてだったかもしれないと。
 今まで身内以外には極力自分の力を隠していた、子供の心が残酷を通り越してどれだけ自分本位であるのか、彼はいじめという実体験を持って知っていた。
 そんな日々だったから、一時は他人を信じる事を止めていた。 それは彼の姉が絵本制作を始めて関西での即売会にて猪名川由宇と知り合い、彼が由宇と知り合いになる頃まで続いていた。
 まだ一人前でもなく、だからと言ってもう幼いとは言えない、そんな中学の多感な時期に、彼は由宇に出会った事に幸福すら覚えていた。 初めて一族以外で、この常人離れした力を持つ彼を、まったく特別扱いしなかった事に。
 だから、この年の離れた人物には、感謝してもしきれないほどの感情を持っていた。 それをあまり表に出さないのは、思い出す度に感謝出来るように、いつも心を閉ざさないように決めたからだった。
 彼にとって、彼女由宇の背中はとても大きかったのである。 たとえいつもは関西のおばちゃんであっても…

 ぼんやりと思考していたのか、ふと気付くと希亜の視線が膝の上のクラムの視線と合っていた、空の碧が溶け込んだような瞳から向けられるそれは、心なしか優しいまなざしに感じた。
 だがその視線はすぐに別の方へ向けられた、同時に青御影のような毛並みの耳もピクンとその方向を向く。 希亜もその視線の先を見た。
「ああ、初めてだったね。 悠綾芽、私が一番好きな人。 多分ね」
 やってくる彼女の事を説明しながら、パタパタと走ってくる彼女の姿を見ていた。
 久しぶりに見た彼女はやはりいつものスタイルだった。 鞄を片手に白い羽織に緋色の袴姿、神社などで見かける巫女に学生用の鞄を持たせたと言えば分かり易いだろうか、そんな格好だから少々離れていてもよく分かる。
 膝上のクラムはそんな彼女の様子をじっと見ている。
「希亜君、もう探したんだから」
 そんな事を言いながら希亜の目の前で止まると、ポニーテールを揺らすように怒ったんだぞと緋袴姿でポーズを取る綾芽。
「ごめん、この子が放してくれなくて」
「さっき芹香さんから聞いたんだけど、クラムってその子の事?」
「うん、しばらくは側にいてあげないといけないから」
「ふーん、芹香さんから聞いたけど。 魔法使いらしくなってきたね希亜君、お姉ーさんはうれしいよ」
 そう楽しそうにおどけるように言った綾芽に希亜は快く思うのだった。
「ねえ、抱いても良いかな?」
 そんな綾芽の申し出に、希亜は膝の上のクラムに訪ねる。
「クラム、いいかな?」
 そんな希亜の質問にクラムはぷいっとそっぽを向いて答えた。
「…ごめん、ダメみたい」
「うぅー、そんなぁ」
「やっぱり人見知りするみたいだから」
「…うん」
 目の前の綾芽の視線が未練がましくクラムを見つめる。
「さて、中に入りましょうか」
 まるで「しょうがないなぁ」とでも言うかのように、苦笑を交えてそう言い、希亜はクラムを抱えて立ち上がる。
 すぐにクラムは希亜の腕を駆け上り、肩に寝そべるように乗っかった。
「か… かわいい〜」
 魔法使いの容姿の少年の肩に乗る子猫に、綾芽は思わずそう言うが。 当のクラムは綾芽からぷいっと頭を背ける。
「ううっ」
 残念そうな綾芽のその声に希亜が幾つが思考を巡らせるが、それらをとりあえず追い払い。
「行きましょうか」
 そう言って希亜は、子猫クラムに未練を残す綾芽に促すのだった。

 希亜から言わせればクラムは、静かな猫だった。
 元々人から見れば気まぐれな生物を素体にしたのだから、もう少し猫っぽくても良いはずなのだが、気まぐれと言うよりは、あまりにも希亜に懐きすぎていた。
 まぁ、少々目を離してもちゃんと側にいるという利点もあるのだが。 

 前を行く彼の肩に子猫が乗っている、シッポをひらひらと揺らしながら。
 別に何かに気を取られるでもなく、物静かに前に向けられている頭。
 青御影のような色合いの、ふわふわの体毛に包まれた全身、その中でピンと立った耳に朧気に見えるまだ赤い表皮、その耳がピクピクと動き周囲の音を聞き分ける、長いシッポはひらひらと揺れてバランスを取っていた。
 そんな子猫が希亜の肩に、がしっ!と爪を立ててはいるが、まるで寝そべるように捕まっているのである。
 子猫って、こんなに無条件でかわいいんだと思う事を越えて、綾芽の視線は前を歩く希亜の肩の上の子猫に釘付けだった。

「使い魔はね、その魔法使いを象徴する事もあるんだよ」
 幼い頃に聞いた曾祖母の言葉を反芻する。
「そーなんだ」
「っ!」
 綾芽の声を聞いた希亜は驚いて思わずその場で立ち止まった。 次の瞬間、自分が思考の中へ深く入っていた事に気付いたと同時に、無意識の呟きを聞かれた事に思考も止まった。
「わっ!」
 後ろからの綾芽の悲鳴、そして希亜は追突した綾芽に背中を強く押された。 突然立ち止まった希亜に、クラムに注意が行っていた綾芽がぶつかったのだ。
 倒れる希亜の肩からクラムが離れる感触、同時に希亜の足は突然の事に動きもせず、そのままの勢いで希亜は床に倒れた。
「痛い〜…」
「ごめん。 でも、急に止まらないでよぉ」
 いつも以上に気の抜けた声で倒れている希亜と、謝る綾芽。
 希亜はとりあえずふわりと浮き上がる。
「なー」
 そんな鳴き声を上げ、クラムは希亜のブレザータイプの制服を駆け上がり、何事もなかったかのように再び肩に乗った。
「むぅ〜」
 脱力するようなうなり声が希亜の口から漏れる。
「また、考え事?」
「あ〜、はい」
「何を考えていたのよ」
「この子の事を、少し。 この子は猫とぉ…」
 思わず言葉を止めた希亜。
「どうしたの? 猫と何?」
「私の系統は、不浄を地でゆくものです。 話すのって問題ありますか?」
 一応悠朔の実家の神社の手伝いをしている訳であり、巫女装束をしている綾芽に希亜は訪ねる。
 神道では不浄、言ってみれば汚れることはタブーだからだ。
「あ、大丈夫だよ話すくらいなら」
「この子は使い魔です。 今はまだ私の魔力を使って体の整合性をとり続ける必要があります。 それでこの子は私の曾祖母の思念と…」
 希亜の口調が固く重くなって行く。
 ふと視界に入った希亜の手が、何かを握ろうとしたまま震えているのに綾芽が気づいた。
「私の作る法規の制御装置でもあるアズレグラス、そして…」
 綾芽が希亜のその様子に気づいた直後、
「そして私によくなついていた子猫のクラムを使って、作り出しました」
 希亜から告げられた言葉に、綾芽は違和感を覚えていた。 その違和感は次の希亜の言葉で具現化した。
「私が殺したんです! 私が。 あんなに懐いていたのに、あんなに無垢で無邪気な命を、私が殺したんです」
 自分を責めるがごとくまくし立てる希亜を止めようと綾芽が希亜の両肩を掴んだ。
「ちょっと、希亜君! 希亜君しっかりして!」
 少なくとも綾芽が知っている希亜は、確かにどこか危うさを感じさせる所はあっても、こんなふうに脆さを感じさせるものは無かった。
「私はもう、生き物を飼う資格なんてないんです!」
 相変わらずパニックに陥っている希亜を止めようと、綾芽がその手をふるおうとしたその時、希亜の顔をやや青みがかったグレーの何かが叩いた。
「痛っ」
 思わずのけぞる希亜。
「えっ何?」
 驚く綾芽の目の前で、ピシパシとしなやかに打ち付けられ続けるのは、希亜の肩にいる子猫のしっぽだった。
 そして、その子猫クラムはとどめとばかりに前足の爪をにゅっと突き出し、その爪で希亜の頬をひっかいた。
「痛い」
 どこか遠くで呟くような、そんな無彩色な希亜の声が綾芽の耳に聞こえた。
「もういいよ、クラム」
 少なくとももう正気に返ったのか、希亜の言葉からは荒れる様は感じられなかった。
 綾芽はそれを確認するように希亜に声をかける。
「大丈夫?」
 頬に浮かび始めた赤いひっかき傷をさすりながら、希亜は視線を上げ。
「綾芽さん、この子は曾祖母でもあるんです」
 痛みのために少しばかり涙に濡れたままの希亜の瞳は、いつも通りのほほんと綾芽の瞳の向こうを見ていた。
「希亜君の曾お祖母ちゃん?」
「はい、名はクラム・ユーナ。 私の師と同じグエンディーナの人でした」
 あっさりと返事を返した希亜はそのまま言葉を続ける「あ〜、でもこの事は、秘密にして下さいね」と。
 

 同日夕刻、五月雨堂、住居側。
 いつの間にか希亜の右肩の上に寝そべるようにへばりついているクラム。
 健太郎の目の前で、一人と一匹は夕日の差し込む部屋の中でぼんやりと外を見ていた。
 のほほんとした希亜と、その右肩の上で寝そべって目を閉じているクラムに、まるで程良く枯れた老婆と飼い猫を思わず見いだしてしまった健太郎が、希亜には失礼かなと考えた矢先に希亜の声が届いた。
「そう言えば健太郎さん、バスケットってあります?」
「えっ? ああ、バスケット?」
「はい、この子の寝床に使いたいんですけど。 古いもので良い物があればと思って」
 そんな風に話している二人の後ろ、部屋の外から小猫を、希亜の肩にへばり付くように寝そべっているクラムを警戒してか、スフィーは部屋に入って来れなかった。
 依然として猫を恐れるスフィー、そんなふうに部屋の様子をうかがっている姉の後ろ姿に気付いたリアンは声をかけた。
「どうしたの? 姉さん」
「あ、リアン」
 スフィーの後ろから現れたリアンが、希亜の肩に乗っている子猫に気づいた。 そのまま彼女はじっとその子猫クラムを見る。
 クラムは頭を動かすでもなく、シッポをピンと立て、そのまま左右に二三度振った。
「どうしたの?」
 シッポを振ったクラムの方を向いて希亜が言う。
「その子、希亜君?」
 そのまま希亜は振り向き。
「はい、想像の通りですよ」
 そう事も無げに言った。
「使い魔ですか… 希亜君とは少し違う空を感じます」
「えー? …ほんとだ、少し懐かしい感じもするんだけど… なんだろ、この感じ」
「そですか。 ところで健太郎さん、さっきのバスケットの件ですけど、もしあったらお願いできますか?」
「バスケットって言うけど、色々あるよ」
「大丈夫ですよ、健太郎さんが見つけた物で、良いですから」
「本当に良いのか?」
「ええ、健太郎さんはクラムを見ましたから、どのくらいの大きさの物がよいか見当はついたはずです。 それに私は知っているんですよ」
 事も無げにそう言いきった希亜に健太郎は、
「知ってるって何を?」
と、至極当然の質問をした。
「それは、秘密です。 言ってしまうとありがたみもなくなりますから」
「占いでもしたの?」
「そんなところです」
 実の所希亜は、健太郎の目利きと人格を最大限に頼りにしただけであった、希亜自身はあまり占いもしないし、予言なんか全くの範疇外だからだ。
 ただ、占いをした事にした方が、後々説明する手間も省けるのでそうしただけであった。
 
 
 

 見た事もない様式の建物。
 その中で行われる、どこかで見たような様式の術式。
 何かの箒を作っている事だけが、理解できた。
 感覚がない事が分かった。
 正確には五感はあるのだが、まるで実感がなかった。
 だがその中で、心の深いところをくすぐられるような、懐かしいと言える空の記憶に触れているのを感じていた。

 目が覚めた。 先ほどまで見ていた夢がゆっくりと記憶から消えてゆくのを感じつつ、希亜は幾つかの思考を巡らす。
 なぜあんな夢を見るのか。
 あの夢は何をしているのか。
 なにより懐かしいと感じる空に触れている、あの感覚が希亜には理解できなかった。
 少なくとも、この空の記憶に触れるのとは、また違った感覚を覚えていた。
 

 朝霞の残る中、向こうからリムジンが走ってくる。
「なー」
「う〜ん、多分そうでしょう」
 そんな会話にならない会話を希亜とクラムで交わしながら、独りと一匹は車が止まるのを待っていた。
 程なく中から降りてくる、鞄を手にした緋袴の少女。
「希亜君お早う」
「お早うございます、綾芽さん」
 実のところ、二人が校門で会うのは久しぶりだった、いつもは教室で一緒になる事が多いからだ。
「お早うございます、芹香さんに綾香さん」
「希亜君、ママと芹香さんは先輩なんだから」
「知ってます」
 そんなありふれた光景を、希亜は平凡な様相そのままに見つめていた。

 二人は隣り合って校舎へと歩く。
「今日の授業ですけど、休講が一つあります」
「あ、そうなの?」
「はい、5時限目の特別講義、今日は民族社会学だったと思いますが、休講になってますよ」
「そうなんだ。 希亜君はその時間どうするの?」
「部活の決算資料を提出に行きますよ」
「もう、そんな時期なのねー」
「決算ですからねぇ」
「お昼はいつも通りでいいの?」
「はい、ご一緒します」
 

 5時限目。
 お昼休みいっぱいまで綾芽と一緒にいた希亜は、一度部室に戻り書類を確認してここ学務課に来ていた。
 事務員に書類を手渡す。
「はい、では少々お待ち下さい」
 そう言って彼女は奥の方へと行き、そこの責任者に書類の確認を取っている。
「電芹、今日はこれで上がりだよね」
「はい、たけるさん。 早く書類を提出して帰りましょう」
 希亜の後ろに二人、正確には一人と一体、図書館カフェテリアでおなじみの電芹とたけるのコンビがこちらにやってきていた。
 そろそろ提出期限と言う事で、今年度の使用実績を含めた書類の提出が義務づけられていた。
 図書館カフェテリアか第2茶道部か、希亜からはどちらか見当はつかなかったが、会話から彼女らも書類の提出にやってきたのだろうことが窺えた。
 無論希亜も再三に渡るチェックの末提出に至っていた訳で…

 ふと希亜がその二人の方を見る、距離にして丁度1メートルぐらいだろうか。
 希亜は同じ寮生である事から、軽く会釈をする。
 それに気付いた電芹が、遅れてたけるが会釈をした。
 別段親しい訳でもないが、顔を知っておりそして寮生という程度の間柄なので特に会話がもたれる事もなく、希亜はカウンターの向こうに視線を戻し、彼女らも書類提出の為に鞄から書類を取り出していた。
 希亜の視線には、彼女らの方にやってくる南女史の姿が入る。
「あらあら、電芹ちゃんにたけるちゃん、予算申請の書類ね」
「はい、南さん。 一応規則ですのでカフェテリアと第2茶道部の書類をお持ちしました、ご確認下さい」
「はい」
 電芹から書類を受け取った南は、ぱらぱらと書類をめくりつつ一通り目を通すと。
「はい、確かに。 じゃあこれは提出しておくわね、ご苦労様」
「ではお願いします」
「失礼します」
 それぞれに南に挨拶して二人はこの場から離れていった。
 その様子を見ていた希亜が、再びカウンターの向こうへと振り向くと焦点が合わなかった。
 焦点を合わせる。
「どうしたの?」
 そこには至近距離でこちらをのぞき込む南の姿があった。
「…いえ、書類の確認待ちです」
「そう。 …そうだ、すぐに寮に戻るんでしたら、ついでに由宇ちゃんに渡して欲しい物があるんだけど」
「良いですよ。 ただし、書類の提出が早く終われば、ですけど」
「おねがいね」
 そう言って仕事に戻ろうとした南だが、何か思い出したのか希亜の前に戻ってきた。
「どうしたんですか?」
「希亜君の実家の住所変更の件だけど、世帯主になってるわよ?」
「いいんですよ、遺言で私が管理人になることに決まりましたから」
「大変ね」
「まぁ、そうですね。 でも家族も親戚も手伝ってくれますから、大丈夫ですよ」
「じゃ実家の住所変更あれでいいのね」
「はい、よろしくお願いします」
「由宇ちゃんに渡す荷物持ってくるわね」
「は〜い」
 結局希亜はその後10分程して書類の提出が無事終わった事を告げられ、由宇宛の荷物を持って学務課を後にした。
 

 夜、寮の食堂。
 丁度ピークの時間帯にさしあたっていた。
 男女両方の寮から寮生がやってくる、そんなごった返す食堂の中、傍らで食事を取っている川越たけると、いつも通りに雑談しながら時間を過ごす。
 彼女自身は食事を取る必要はない、食事代わりにバッテリーに充電するのだが、充電自体はここでは行う事はあまりなかった。
 彼女、通称電芹と呼ばれているそれは、無論生物ではない。 耳には、曰く「人間との識別用」とのセンサーがあり、それがその目論見通りに人間ではない事を主張している。 その存在を広く指す名前は世間一般に広くホームメイドの名で知れ渡っていた。
 その人よりも格段に鋭敏なセンサーに、気になる会話が流れ込んできた。
「…で私には、あれらを感じる事が出来ないんです」
「でも弥雨那ちゃん、オイラ達と変わることなくコミュニケーション出来るじゃないスか」
「そう言う反射的な事ではなくて、私が目を閉じて、それらを感じられるかと言う事…」
 声の質から誰の言葉かすぐに分かった。 一連の会話の流れからして、以前カフェテリアで聞いた内容とほぼ同じ事だと判断していた。
 それは客観的に言えば、暗にHMはただの機械だと、そう判断出来る物でもあった。 とは言え、今の彼女はそう言う事で落ち込んだり、深く考えたりする事はなくなっていた。
 だから「彼はそう言う物の考え方をするんだな」と判断するにとどまっていたし、彼自身の言葉が彼がただそう感じるだけで、実際にそうであると言う保障や確証はない事が、彼の口から今紡ぎ出されていた。
 ふと傍らのたけるのお茶が飲み干されている事に気付き。
「たけるさん、お茶入れてきますね」
「うん、お願い」
 そう返事を受け取ってから彼女は、自動給茶機へと足を進めるべく立ち上がった。 それよりほぼ同時か、やや早くに立ち上がった人物がいた。 件の人物、弥雨那希亜だった。
 二人はほぼ同時に自動給茶機の前に来て立ち止まった。
「「どうぞお先に」」
 二人の声が同時にお互いにかけられる。
「あ〜」
 言葉がハモった事に思わずそう声を上げた希亜、彼がやや見上げるようになる彼女、電芹は彼の視線を感じとりどうぞと仕草で促すのだった。
 希亜はばつが悪そうに無言でコップをセットし、ほうじ茶のボタンを押す。
「もし、気を悪くしているのでしたら、償いはします」
 唐突に彼は呟いた。
「え?」
 そんな戸惑うような電芹の声に、希亜の言葉が続く。
「私には、あなた方の心の機微は感じ得ないから。 誤解の無いようにこれだけは伝えておきたい。 私のあなたに対して抱いてるイメージは、ただの女子寮生で。 あなた方に対して抱いているのは、道具であり友人であり機械である、その全てであってどれか一つじゃない事。 それだけです」
 決して早くはないが、簡潔に言い終えた。 彼は既にほうじ茶の注がれたコップを取り出し、彼女に会釈をして元の席の方へと戻っていった。
 

 夕食後、たける&電芹の部屋。
「…という訳なんです」
 人間で言えば、心にもやもやを抱えているという物だったのだろうか、電芹は部屋に戻るなり食堂での一件をたけるに話していた。
「なんだかよく分からないけど、それって別に電芹に直接言う必要なかったんじゃない?」
「そうかもしれませんね、でも…」
「?」
「…実は私も弥雨那さんの会話をずっと聞いてましたから。 もしかしたら気付いていたのかもしれません」
「一度じっくり話を付けなきゃ、電芹にはちゃんと心があるんだから」
 そう意気込むたけるだったが、慈しむつもりでついいつものようにチョークスリーパーを決めてしまった電芹の前に決行は遅れるのだった。
 
 
 

 それは、よく見知っている箒だった。
 幾つもの失敗と経験を繰り返して作り出された英知の一つの結晶。
 それに文字が、文章が刻まれた、希亜の記憶にあるどんな文字とも違う文字が。
 だが不思議と読むことが出来た。

 空を越えてゆく者よ、汝の姿は人々の願い。
 虚空を目指す、今は叶わぬその想い。
 その姿、放たれるそれよりなお猛く。
 その姿、空を越えてなお高く。
 その力、この人々が見上げるこの空より。
 その力、再びこの空へ。
 昇りゆけ我らの願い、昇りゆけ我らの想い。
 再び見ること叶わずとも、昇りゆけ天津風を切り裂いて。
 見上げる虚空、全てはお前の力。

 刻まれたそれらの文字は、一度淡く光を放つと、吸い込まれるように消えていった。
 その箒、Raising Arrowは何人かの技術者に囲まれて、静かにそこにあった。
 

 朝靄も既に晴れた中で、希亜はルームメイトの軍畑と同期の蛮次と共に登校していた。
 ふとバランスを崩す。
「わぁ!」
「っとぉ! おんし気を付けて歩かんと危ないぞ」
 躓いた所を、とっさに平坂蛮次に捕まれて事なきを得た希亜。
「蛮ちょさん、ありがとう」」
「おお。 考え事するんも良いが、おんしは歩きながら考えん方がいい」
「そうっスよ、弥雨那ちゃんは歩くのは上手くないんスから」
「そうですねぇ」
 歩き慣れているはずの朝の通学路を、学校へ向けて歩いている希亜の脳裏には、今朝見た夢の事だけが広がっていた
 

 選択科目の教室で、ぼんやりと希亜は窓の外に広がる空を見上げていた。
 まだ授業には早く、希亜以外には人気はあまりなかった。
「いったいどうしてあんな夢を見るんでしょうか」
 登校中にも考えていたことをもう一度考え直してみる。 Rising Arrowは希亜の曾祖母のいた、同時に希亜の師の出身世界であるグエンディーナで作られた物だ。
 今まで見た夢が全てそうだとは言わないが、グエンディーナでの曾祖母の記憶なのでないかと、希亜の中で仮定が立てられていた。
 もしくはRising Arrowの記憶ではないかと。
 ぼんやりと今朝見た夢を反芻しながら希亜は、なぜ今になって夢を見るのかを考えていた。
 

 昼の校舎屋上。
 いつものように希亜は綾芽の横にちょこんと座り食事を終えていた。
 新学期に入ってから少し変わった様に見えた希亜の綾芽に対する接し方に、綾香達は興味津々で成り行きを見ていた。 今までよりは少し積極的に、と言うよりはためらいが消えたという感じであった。
 その中でただ一人、朔は特に驚く事もなかった、元旦に手伝いの際に聞いてしまった事と、去って行った後に姉のはじめから色々と言われていたからだ。

 綾香は驚いてはいたが、同時にこの二人のやりとりにじれったさも感じていた。
 彼女の知る限り、希亜は綾芽に対してはっきりとした事は何一つ言っていないのだ。
 その点で言えば、少なくとも自分と悠朔とハイドラントの関係は、この二人よりはまだ近い位置にいると思えるからだ。
 だが希亜ははっきりとは言わないだけでほぼ必ず行動には移していたと言えた。
 ある意味に於いてただ自然に彼女のそばにいたとも言え、その点では綾芽の事を羨ましいと思う事もあった。
 とは言えこの二人、希亜だけに問題がある訳ではなかった。 綾芽自身の方はと言えば、これはこれで相当に鈍いのである。
 けっこう希亜の事が綾芽の口から出る事はあるのだが、小さな女の子が言う「ただの男友達」、まるでそんな扱いなのである。 姉の芹香はそのことに対して何か分かった事があるようだが「時が解決してくれます」と慈しむような微笑を綾芽に向けながら言うものだから、それ以上聞く気になれなかった。
 その時の事を思い出して呆れつつ、目の前のじれったい二人に対して少しの苛立ちを抱えていたからか、つい愚痴の一つがこぼれた。
「綾芽は、よく希亜と二人で一緒にいるけどどうして?」
「希亜君の事ちゃんと見てないと、悪い事するでしょ」
 我ながら意地悪な質問だと思いつつ繰り出した質問だが、あっさりと予想通りに返された。
「…あー、希亜あんなこと言われているけど良いの?」
「ま、問題ないかと」
 達観したと言えば聞こえは良いが、何とも面白くない返答に綾香は抱えていた苛立ちと共に業を煮やし口を開いた。
「希亜、この際はっきり言ったらどうなの?」
と、言ってからすぐに後悔する事はなかったが、若干の沈黙の間に二人の事に変に干渉してしまうのも考え物かなと、少しばかり思うのだった。
「はっきりですか…」
 そんな言葉を呟く希亜に、綾香の言葉と朔の言葉が返されるが、ハイドラントはその様子を昼のドラマを見るような心境で目の前のやりとりを聞いていた。
 思わずというよりも、いつもののほほんとした表情で希亜が綾芽の方へ顔を向ける。
 綾芽も希亜と彼女の言う両親の様子に思わず希亜の方を見返す。
 膝の上のクラムの耳がピクンと二人へと向けられる。
 ハイドラントはこの様子にこれは見物になると思い、とりあえず希亜が入れていた玄米茶をすすろうとした。
「綾芽さん…」
 希亜の言葉にハイドラントの視線も熱くなる。
「…ずっとそばにいさせて下さい…」
 あまり面白くない言葉だなと客観的に判断したハイドラントはお茶をぐいっと口の中へと運ぶ。
 だが、希亜の言葉は続いた。
「…死が二人を分かつまで」
と。

「ぶーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」
 ハイドラントは口の中のありったけのお茶を吹いていた。

 視界が一瞬真っ白に染まり、なま暖かい液体が降りかかり気化熱でどんどん冷たくなって行くのが分かった希亜。

 希亜の膝の上から逃げ出し、ハイドラントの吹いたお茶から逃れたクラム。

 突然吹き出したハイドラントに、今まで真剣に聞いていた自分が思わず我に返った綾芽。

「ハイド、良い所だったんだからそれはないでしょう!」
「まったくだ、せっかく面白い物が見えると思ったのに」
 そんなブーイングをたれる綾香と朔。

「待てい! なぜ告白に「死が二人を分かつまで」が入るのだ!?」
 思わず大きな声を上げるハイドラントの言葉は続く。
「普通そのフレーズは結婚式だろうが! 結婚式の神父がいう聖書の言葉だ!」
 短いながらも怒号にまかせて熱弁をふるったのだが、ハイドラントも言ってて思わず気がついた。
「結婚式… 結婚式?」
 最後に自問自答するようにそう呟いてハイドラントは希亜に頭を向ける。
「もしくはプロポーズだな」
 朔の付け合わせるような言葉に綾芽は口をぱくぱくさせたままに視線を希亜に向けるが、当の彼女はまだ事態が飲み込めてはいなかった。
「そんなに綾芽の事が好きなんだ」
 綾芽の耳にそんな綾香の声が入った、直後先ほどの希亜の言葉と、大晦日の晩に聞いた言葉を思い出すや否や、ボンと音が出るような勢いで顔を真っ赤にして綾芽は声を上げた。
「き、希亜君が好きな人って、わたしだったの!?」
 本人は至ってまじめに驚いているのだが、思わず覗いた希亜はショックのためか「るるる〜」とワカメ涙を流しており、途方にくれるように綾香達の方を見ると、苦笑としかとれない表情の綾香、希亜に対して同情と言うより哀れみの視線を送っている朔、先ほど掘った墓穴であまり面白くないのか憮然としたハイドラントが見えた。
 

 そこから少し離れた屋上のど真ん中。
「すごい事になってるね、電芹」
「私もこんな現場に遭遇するなんて思っても見ませんでした、たけるさん」
 屋上のど真ん中になぜか立っている電柱、その物陰に隠れきれる訳もないのに、たけると電芹は電柱に隠れるようにしてこの現場にとけ込んでいた。
「どうしますか?」
「どうしますかって… 今入って行ったら、ねぇ」
「そうですね」
 二人と一本の電柱はこっそりと逃げるようにその場から去って行く。 少なくとも当人達にとってはであるが。
 
 

 午後の授業中。
「お互いガチガチになってるね」
「綾芽さん弥雨那君の方にまったく振り向きませんね」
 そんなたけると電芹の4つ前の席で、希亜と綾芽は隣り合って座っていた。

 出来るだけ平然としようとつとめる希亜だが、綾芽に関係する色々な思考がゴチャゴチャに脳内を駆けめぐっていた。
 自分を分析する、心拍がいつもより早いのが分かる。 気がつくとシャーペンを握っている手にはじっとりと汗をかいている。 授業にほとんど集中出来ない。
 混乱と不安、同時に相手である綾芽も頻度や方向性の差はあれ、同じような心の揺らぎを感じているのを、希亜は感じていた。
 直後に脳裏に展開するそれに対する数々の対抗策と結果の推定。
 種々の検討を崩壊させるように排除して、平常心を取り戻そうとするが、気付くと再び頭の中は綾芽の事で占められていた。
 そんな混乱のループに陥った希亜の中で、ただ一つだけ変わらず静かな思考があった。

 いつもとは違うのだが、結果的にいつもと同じように隣に座って授業を受けているらしい希亜。
 その希亜をまともに見る事が出来ない状態ではあったが、綾芽の思考は落ち着いていた。
 ふと、いつからこうなったのかを思い出す。
 綾芽から見た希亜は、日常に溶け込んでいるはずなのに、違和感にも似たような、どこかしら危うさを内包した存在だった、だが初めからそう思った訳ではなかった。
 彼の第一印象は、のんびりとぼんやりとした男の子だった、同時に朔が「こっちが間違いを犯さない限りは、信頼に値する」と評価した人物だった。
 それが変わったのは、彼と話すようになってからだった。
 また家に戻って綾香と芹香の三人で話したときに友人達の顔の話になり、話題がそれぞれの瞳に触れた時、希亜だけではないのだが、三人共に抱いている印象が違っていた。
 それぞれが希亜の瞳に対して持った印象は、見下ろす瞳、眠たげな瞳、見透かす瞳、それが三人のそれぞれの印象を端的に表現した物だった。
 芹香は希亜の瞳を俯瞰する物と位置づけ、綾香は彼の目を一見した大多数の意見を反映するような回答を、綾芽は会話の節々から受ける、どこかしら相手を見透かしたような言葉からそう感じていた。
 そこまで思考して、隣に座る希亜の方へ視線を向けようと思うと妙に心音が大きく聞こえていた。

「あ、耳まで赤くなってる」
「…初々しいと言うんでしょうか?」
 たけるの言葉に思わず疑問系で応えてしまう電芹。
「分からない、恋した事無いもん」
 たけるの言葉に答える事を保留した電芹は、目の前の二人の様子を授業中である事を考慮して、さり気なく観察を続けるのだった。
 

 放課後。
「あ、綾芽さん」
 思わずどもってしまう希亜の言葉が、今日最後の授業を終えて鞄に教科書を入れていた綾芽に届く。
「何?」
 少なくとも綾芽本人は、普通に対処したはずなのだが、傍目から見れば素っ気なく言葉を返していた。
 当の希亜はその様子に、綾芽がまだ混乱していると思いつつも言葉を続けた。
「いつまでも、待ってますから。 今日の返事を。 いつになっても」
 人によっては女々しいと言うだろう、そんな思考が希亜の中にはあるが。 希亜は今までずっと、今日中にここまで言わなければならない、そんな必要性を感じていた。
 そしてそれを言ってしまった希亜は、思わず気が抜けてしまっていた。
 だから綾芽が生返事を返しても、気に出来るほどの思考は残っていなかった。

「じゃあ、また明日」
 そんな言葉もぎこちなく希亜に届けられ、綾芽は教室から出て行った。
「この後どうなるか楽しみだね電芹」
「興味深いですねたけるさん」
 二人の視界には、先ほど教室から出ていった綾芽の背の陽炎を見るように、ぼんやりと出口を見ていた希亜の姿があった。
 

 夕刻、リムジン車内。
「何かありましたか? うん、学校でちょっとね」
 芹香の問いかけに綾芽の代わりに綾香が答えた。
 先ほどから綾芽に向けられていた芹香の視線に、より濃厚に心配の色が宿る。
「あのね、 …希亜君に告白されたの…」
 顔を赤くする訳でもなく、ただ困惑、そんな表情のままに綾芽はそのままうつむいてしまう。
「わたし、分からない。 希亜君の事嫌いじゃない、でも…」
 綾芽が両親と慕う来栖川綾香と悠朔、それらに対する愛されたいという感情を内包した好きとは、希亜に対する感情が違うことに薄々気づいてはいても、まだはっきりとは自覚できなかった。
 綾芽自身、希亜のことが好きか嫌いかと問われたら、少なくとも好きととれる範疇で答えただろう、今の混乱がなければだが…
 その事をおいても、綾芽にとって希亜は日常を共にする存在であり、「危ない事をしそうな気がするから」という理由付けで気になる存在だった。 もっとも、その理由が愛情を渇望するが故の代償行動であることに気づいているのは、希亜と芹香だけなのかもしれない。
 

 夕刻、寮食堂。
「隣、よろしいでしょうか」
「! …あ、はい」
 視界外で関知できなかったことに一瞬驚いた希亜だが、とりあえず返事を返した。
 隣の席に電芹が座る。
「どうしたんですか?」
 そう答える希亜だが、電芹が隣に座る理由に一つだけ心当たりがあった。 それは先日の軍畑と希亜が話していた時に電芹の視線に気付き、その会話の内容が聞かれていたのだろうと判断した希亜が、その後で電芹に持つ印象とHM等に持つ印象とを話した事だった。
 その事に対しての質問には特に問題なく答えられるはずだった。
「人を、異性を好きになるって、どんな感じですか?」
 だから、そんな質問を受けた希亜の思考は。
 止まった。
「あの、弥雨那さん?」
「あ〜の〜。 …てっきり私があなた方に対して持っている感情について聞かれるのだとばかり思ってたので〜」
 ゆっくりと自身を再動させるような希亜の声が電芹に返る。
「電芹ー」
 少し離れた所からたけるの声が届く、電芹は彼女の方に向くと軽く手を振り、
「こっちですたけるさん」
 そんな電芹の様子に希亜は、これから二人から受けるだろう質疑に対して、どよーんと心に雨雲が垂れてくるのを感じていた。
 とは言え希亜は適当にはぐらかすことなく、ただし綾芽に関わる部分は黙秘をして答えてゆくのだった。
 

 夜、寮の屋上。
「なぁ、何かあったのか?」
 相当近くにいたのだが。 朔がそう訪ねるまで、かなりの時間を要した。
 月明かりに照らされる中、マントを羽織りつばの広い帽子をかぶった人物が、備え付けのベンチに腰掛けてどこか遠くを見ている様にも見えた。
 背格好から朔はすぐにそれが希亜だと気付いたが、纏う雰囲気があまりにも暗いことに、声をかける事にためらいを覚えさせていた。
 どよーんと暗い表情の希亜は、ずっと一人静かに良い香りのする酒を飲んでいた。
 お猪口に注がれた琥珀色の液体を口に含むのではなく、一気に流し込んだ所でようやく朔は声をかけていた。
 こちらに気付いたのか、希亜の視線だけが朔に向けられる。 瞳は唾広の帽子の陰に入ってしまい見えないが、視線が向けられたときの感覚で朔は判断していた。
 いつもののほほんとした雰囲気は何処にもなく。 いつもはオブラートに包まれている悪寒が、まるでハリセンボンやミノカサゴのように朔の感覚に実体があるかのようにまとわりついて来るのを感じた。
 別に命とか肉体的に危険という感覚ではなく、悪寒が凝縮し実体を持って迫ってくるような、そんな何か精神が搾取でもされるんじゃないかと、思考は警告を発してはいるのだが。
 体は動かなかった。
 無論別に恐怖に動かない訳ではない。 広義の恐怖には入るとしてもだ。
 ただ、視線の先に酒に酔って赤い顔をした、希亜の碧眼が在っただけなのだ。
「どうです〜」
 のんびりした言葉と共に、希亜は自分の物とは別のお猪口に酒を注ぎ、朔に差し出す。
「ああ、もらおう」
 流されるままお猪口を受け取り、香りを楽しむ。
 極上と言えるその深く熟成された香りを中程に、口へと運んだ。
「あの人は、私もよく分からないところがあるんです」
 朔が口へ喉へ、酒を流し込んでいる最中に希亜は口を開いた。
「あの人はもしかしたら、消えてしまうかもしれない、誰の前からも…」
「…ちょっと待て。 確認するが『あの人』っていうのは綾芽だな? それはどういう意味だ?」
「あの人は、まだ生まれていません」
 希亜の言葉に朔は、未来からやってきた綾香と朔の子供、綾芽の言った言葉を反芻する。
「それで?」
「タイムパラドックス… そんな言葉なんて意味はないか、世界の力とでも言うのでしょうか。 観測はしていませんが、そんなものがあるのなら、綾芽さんは整合性を保つために消滅します」
「…それは杞憂に過ぎないんじゃないか?」
「私の想像上の中でも、最悪の事態の一つです。 前提条件は幾つもありますが、ある一点のみの杞憂が正しければ、綾芽さんは消滅します、誰の記憶からも」
「その仮定が正しいのなら、大した問題ではないな。 記憶が失われてしまったのなら、嘆く理由も無い。 無くした物に気付かない以上、それを探す事も無い。 客観的に観測できない喪失を恐れる理由は……少なくとも俺には無い。  デジタルな意見としては、な」
「そう? まだ言葉を残しているね?」
 朔は肩を竦めた。
「残念ながら、人の心はアナログでできてる。 1でも0でも無い、当人さえも観測できないノイズも混じる。 …これ以上言わせるな、無粋になる。 それにしても、そんなあるか無いかもわからない思考に苦悩するほど、お前が綾芽の事を想っているとは気づかなかった。 だいぶ重症だな」
「自分でもかなり重症だと思いますよ。 …でもね、我が庇護内に無いとは言え、あの人物は私の見ているものでもあるんですよ、当たり前です」
「…嘘だな、それはお前の思考の真実じゃない」
「ええ、違いますよ」
 間髪入れずに返ってきた希亜の口調は、簡潔だった。 そして彼は短く言葉を続けた。
「私は、あの人と共に時を歩みたいのです」
 朔にとって、ここまで物事をはっきりという希亜は別段珍しいものではなかった。
 ただ彼にとって以外だと思ったのは、独占欲が感じられなかった事だろうか。
「…もし、もし綾芽がお前以外の人物を選んだとしたら、どうする?」
「その時はその時です。 それであの人が幸せになれるなら、私はかまいません」
「お前の想いはその程度なのか?」
「人によっては、そう見えるでしょう」
「…独占欲がないのか? お前は」
「ありますよ、でもそれを向けるわけには行かない」
「何故?」
「確実に私はあの人の心を破壊するでしょうから。 私はね、今はあの人の自由意志を最大限に尊重している。 それにあの魔女の庇護下にいるから、私の影響は少ないんですよ」
「そんなはずはない」
「あなたの目にどう見えているかは知らない。 でもね、あの人が私の庇護下に入ることと、ワタシが独占欲に沈むこと、両方が行われたら。 私はあの人の心を壊すでしょう」
「…そうなっても、そんな心配はしていない」
「何故?」
「お前を信じているからな」
「…あなたは ひどい人だ」
「誉め言葉と受け取っておこう」
「そうですか。 では、今宵はこれまでとしましょう…」
 そう言って、ふよふよと夜の空の中へと飛んでいった希亜の背中を、朔はぼんやりと眺めた。
「お前から魔女を取っても、いろいろと残る物もあるんだがな。 だが俺だってお前に精神的に色々搾取されるのはごめんだ。 お前が言ったんだぞ、『魔女には注意しなさい、特に取引となることは』ってな…」
 呟いた所でふと、柄にもない事を言っていたのに気づいたのか、朔は視線を空から手元の御猪口に落とした。
 一口ほど口に含む、上質の味わいが強烈なアルコールと共に口の中へ広がる。
「珍しく酔うまで飲んだんだなあいつ」
 屋上でよく酒をたしなむ希亜だが、実際酔うまで飲んだ事など見た事はなかった。
 珍しい物を見たなと思いつつ、綾芽の事に思考を傾ける。
「あいつはともかく… 俺は綾芽に甘いかな」
 御猪口に揺らぐ琥珀色の水面に、綾芽の姿が映ったような気がした朔だった。

 そう高くない寮の上空、せいぜい200mだろうか。
 その虚空の中で希亜はぼんやりと風に身を任せていた。
「悠朔さんには言う必要はないですね。 あなたが知りたいのなら、それはあなた自身で気付かなければならないことなんですから」
 普通の人間なら体験するであろう成長過程に、幾つかの欠落と、致命的な欠落があると希亜は綾芽の中に見ていた。
「もっと親に愛されることを、感じてください」
 街の光の向こう、来栖川邸がある方向に希亜はぼんやりと呟く。
 風が流れ始めた虚空の中、ぼんやりと呟く。
「押しつぶされないで、くださいね」
 それは、杞憂かもしれない願い。
 希亜にとっては、最悪を避けたいが為の想い。
「早すぎたんです、あの人の心はまだ幼い」
 闇の中、虚空の中で、誰かに聞いて欲しいと、希亜は願った。
 

 同夜、来栖川邸宅内、芹香の部屋。
「で、綾芽の様子どうだった姉さん」
 部屋に戻ってきた芹香に綾香は開口一番にそう訪ねる。
「ママ…」
「あ、綾芽?」
 芹香の後から部屋に入ってきた綾芽に綾香は驚いていた。 彼女はママと慕う人物のそんな様相を見て一度視線を外すが、芹香を一度見て綾香の方へと向き直った。
「ねぇママ、人を好きになるってどう言うこと?」
「え…」
 綾芽の言葉に、綾香は返す言葉に困った。 人生経験は綾芽に比べれば抱負だろうが、まだまだ若輩者の綾香にそんな問いが答えられるはずはなかった。
「ねぇ、ママ」
「私だって、そんなに経験無いんだけどね」
 綾芽の頭にポンと綾香の手が置かれ、さわさわと頭をかき混ぜてゆく。
「綾芽の正直な気持ち、言葉に出来る?」
「ううん」
「じゃあそれでもいいわ、言葉にならなくても、希亜に全部ぶつけちゃえ」
「で、でも」
「大丈夫よ、あの朔でさえ信用しているんでしょ。 それに、ちゃんと見ておかないと後悔するわよ」
「後悔?」
「そう、ちゃんと綾芽の気持ちをぶつけておかないと、そしてあいつの事を見ておかないと、なにするか分からないわよ」
「…うん、そうだよね。 ありがとうママ!」
 綾芽は吹っ切れたのか、そう返事を返すと自分の部屋へと戻っていった。

 芹香が戸を閉めると、綾香は無意識のうちに深くため息をついていた。
 そんな様子を見ながら、芹香はゆっくりと綾香の前のソファに向かう。
「何よ姉さん、私に言えるのはあの位のことなんだからね」
「…羨ましいですか?」
「羨ましいか。 …それも少しはあるけど、微笑ましいかな、どっちかと言えば」
 ゆっくりと姉、来栖川芹香が綾香の前のソファに腰掛ける。
「まあ、元はと言えば私がけしかけたんだけど。 ほら、あの二人って見てる分にはお互いに青信号じゃない、しかも綾芽は本気で気付いてなかったし… だからじれったくなって」
「…希亜はずっと待っているつもりだった?」
「何を? ってまぁ、あの子ならやりかねないわね」
 フルフル。
「…違う? 綾芽の心が育つのを待っていた?」
「どう言う事、姉さん」
「…自信はありませんが。 希亜は自分に向けられる視線が、綾香に向ける視線の陰となっていることに気づいています?」
「なにそれ…」
「…あの子はあなた方を渇望してます、同時にその対衝動としてあの男の子を見ている面があります…」
「じゃあ、希亜のことは好きでも何でもないってこと?」
「…もしかしたら、まだそこまで考える事はないのかもしれません…」
「なんで?、綾芽は普通の…」
 子なのに、と言葉を続けようとした綾香の脳裏に、綾芽と初めて会いそして来栖川家で預かる経緯がフラッシュバックする。
「…子じゃなかったわね」
 言葉だけは紡いだ綾香だが、沈黙は重くのしかかった。
 
 
 

 翌朝、校門付近。
「むぅ、落ち着かないぃ〜」
 そんな事を言いながら、深くため息をついている希亜を、朔は楽しそうに眺めている。
 朔にとって普段のほほんとしている希亜が、そんな風にそわそわしているのを新鮮な感覚で物珍しそうに見ている。 無論希亜も朔がそんな風に自分を見ていることに気付いてはいたが、綾芽の事で完全に手一杯になってしまった今、いつもののほほんとした毒舌でさっくりととどめを刺す余裕などあるはずもなく、ある意味一方的に見せ物になっていた。

 そして、その二人から離れた場所に、当人達にとってはこっそりと、他から見ればあからさまに目立った場所に忽然と電柱が立っており、その下に電芹とたけるはいた。
「そろそろ来る頃ではないでしょうか」
「どきどきしてきた」
 

 車の窓からふと空を見上げる、どんよりと曇ったそれから、今、雪が降り始めた。
「降ってきましたな、今日は一日中雪だそうでございます」
「積もりそう?」
「はい、お嬢様。 予報では積もるとのことでした」
「ありがと」
 もうじき車は学園に着く、気になった芹香が綾芽の方を向くと、彼女は綾香の肩を枕に眠っていた。
「あ、うん。 そろそろ起こすわね」
 芹香の視線に気付いたのか、それともただ恥ずかしかったのか、ともかくも綾香は綾芽を起こしにかかる。
「綾芽、そろそろ着くわよ」
「ふぁーぃ、おきるぅ」
 まだ眠そうにそう返事を返しながら目をこする綾芽、窓の外にはもうじき校門が見えて来ようとしていた。
 

 昨夜遅くまで眠れなかったらしく、目をこすりながら綾芽が車を降りた。
「おはよう…、眠そうですねぇ」
 未だ睡眠を欲している綾芽の頭に、聞き慣れた声が入って来た。
「よく眠れなかったらしくて」
 隣に立っている綾香がそう弁解している。
「今日は、休講はないですよ。 …綾芽さん起きてます?」
 綾芽にとって聞き慣れた希亜の声が、そう呼びかけている。 いつものように挨拶を返そうとしてはいたが、何故か言葉にするのはためらわれた。
「ごめんね希亜、綾芽をお願い」
 未だに眠そうに見える綾芽の様子に綾香はそう言い、もう一度綾芽に起きるように促すが、当の綾芽は相変わらず眠そうにしている。
「しょうがないですねぇ」
 希亜はそう苦笑して言葉を続けた。
「ほらほら、お姉さんがそんな眠そうにしてたらだめじゃないですか」
「んー、希亜君のせいだよ。 希亜君が悪いんだから」
「ええ」
「どうして、そんな風に何もかも分かったような事言うの!?」
「私が未熟だからです」
 あっさりと、簡潔に答えた希亜に対して綾芽は、その眠そうに充血した目を見開き、真っ直ぐに綾芽を見つめる希亜の視線にあわせた。
「希亜君が悪いんだからね」
「…」
「なんで、希亜君のこと考えて眠れない夜を過ごさないといけないの?」
「どうして、希亜君に話そうとすると、何も浮かばないの?」
「どうして…」
 希亜は綾芽の様子がおかしいのに気付いたが、次の瞬間綾芽は低い声で言った「もう、怒ったんだからぁ」と。
「綾芽さん」
 柔らかく呼びかける希亜の声に、綾芽は何処からともなく長刀を取り出し、切っ先を迷うことなく希亜に向けた。
「…危ないですよ」
 希亜はのほほんとそう言い、綾芽に近づいてゆく。
 近づいてくる希亜の喉元へと、綾芽は切っ先を向ける。
「わたし、本気だからね!」
 そう綾芽が言った直後、希亜の左手が伸び綾芽の長刀の刃を握りしめた。
「っ!?」
 幾人かの息をのむ音の中。
 刃が肉に食い込む感触が、肉を刃が貫く感触が、お互いの脳に到達する。
「よく手入れをしていますねぇ」
 のほほんとした音で紡ぎ出される、揺動を感じさせない声が広がる。
 向けられた切っ先から刃がそれないように、希亜は片手でその刃をしっかりと握りしめていた。
 程なく握られた手のひらと刃の間から赤い液体がじわじわと沸き出す。
 希亜自身最もその様子を分かっていながら、そこから与えられる感覚を無視する、そうしないとパニックに陥りそうだったから。
「動いたら、切り落としてしまいますよ」
 綾芽の膝が、腕が震える、少しでも力を加えたら、希亜の指を切り落としてしまう。
 希亜の後ろにいた朔にもそれが分かっていたが、手を出せば不意に切り落とさせてしまうのではないかと、戸惑わせる。
「例え刃物のような言葉で話すとしても、刃物を持ち出してはいけませんよぉ」
 のほほんとした言葉が、静に紡ぎ出された。
「分かりましたね?」
「分かった、分かったからぁ」
 震える声を上げる綾芽に、希亜はいつも通りののほほんとしたままに言葉を続けた。
「そうですか… んでは。 ゆっくりと大きく息を吸って、はいて… もう一度」
 希亜に言われるままに綾芽は深呼吸を繰り返す。
「こ、これでいい?」
「ええ、少しは落ち着きましたね」
「で、でも希亜君、手…」
「言わないでください、痛いんですから」
 そう言った直後、希亜の表情が痛みに歪む。
「やせ我慢も、限度はあるみたいでぇ」
 相変わらず口調はのほほんとしたものだが、言葉の節々には全く余裕はなかった。
「今、放しますね」
 握ったままの手を、もう一方の手でそっと、一本一本極度の緊張と痛みで硬直してしまった指をゆっくりと動かして、希亜は血にまみれた手を綾芽の長刀の鋭い刃から引き剥がした。
「長刀はもう少しそのままで、お願いしますね」
 そう言って希亜は未だに血が流れている手を、長刀の刃の峰の部分に触れさせ、短く呪文を呟いた。
 日本語でも英語でもない音節が、静かに流れてゆく。
「もういい?」
 呪文の詠唱が終わったのを見た綾芽希亜に恐る恐る問いかける。
「はい、大丈夫ですよ」
 そう言って希亜はダラリと手をおろした。
「う、うん」
 ぎこちなく返事を返し、長刀を何処へともなくなおした綾芽はすぐさま、
「希亜君、血! 保健室に行かなきゃ!」
 そう慌てる綾芽だが、希亜は全く反応せず、そのままの状態で微動だにせず立っていた。
 のほほんとした、いつものぼんやりと見透かすような、とも言える視線も全く焦点が合っていない。
「希亜、君? ねぇ!」
 不思議に思った綾芽が希亜に呼びかけるが、希亜からの返事はなかった。
 傍らの地面には、希亜の手からあふれ出る血が、酷くゆっくりと地面に赤い班点を描いてゆく。
「ちょっと、希亜君! そのままにしてたらだめだよ」
と、綾芽が希亜の肩に触れると、彼の上体がふらりと崩れた。
 綾芽が声を上げる間に、希亜の体はゆっくりと、まるで宇宙遊泳でもするように後ろへと倒れてゆく。
 重力を無視した落下速度の遅さに、呆気にとられた一同の中、いち早く朔が我に返り希亜を受け止めた。
「気絶しているな、ショックかどうか分からんが、このまま保健室に連れて行く」
 希亜を一瞥して簡潔にそう述べると、朔はそのまま保健室へと希亜を抱えて早足で歩き出した。
 

 傍らの不自然にそびえる電柱の影。
「電芹、すごい物見ちゃったね」
「そうですね、どうして弥雨那さんはあんな事をしたのでしょう」
 べつに学園で怪我をするのを見るのが珍しいことではない、戦闘や喧嘩の果てに負傷するのは、やはりそうまで珍しいことではない。
 ただ今回の場合は、戦闘や喧嘩の結果ではなく負傷した、見方によっては希亜が自分で傷つけた訳だが、少なくとも今回のようなケースは学園でも珍しいと言えた。
「分からないよ。 人を好きになるって、あんな怖いことも出来ちゃうのかな」
 先日希亜に根ほり葉ほり聞いた、綾芽との事を思い出したたけるの言葉に電芹は返す。
「かもしれませんが、それは弥雨那さんの性格によるところが大きいのではと」
「そっか…」
 お互いに、もし自分だったらどうするのか。 そんな事を二人は考えていた。
 

 第二保健室。
 運び込まれた希亜は、すぐさま縫合手術を受け、今はベッドに横になっていた。
「見た目は派手だけど、それほど出血はひどくないし、縫合も済ませたから、当面は抜糸まで安静にする事ね」
「ありがとう石原先生」
「それにしても、ずいぶん鋭い刃で切られたわね」
「いや、そいつが掴んだんだ」
「冗談を言わないで、自分で傷つけた物ならもっと浅いわよ」
「嘘じゃない、希亜君が掴んだの」
「…全く、冗談じゃないわ」
 保健室のベッドの上に希亜は寝かされていた、その手にギブスを付けられて。
 今は眠っている、縫合手術の前に暴れると危ないからとかめんどくさいから等と言って、全身麻酔をかけられてそのまま眠っている。
「それだけ…」
 必死だった、朔はそう言おうとして言葉が止まった。 昨夜の希亜の姿を思い出したからだ。
 黙した朔に綾芽が問いかける。
「どうして、こんな事出来たのかなパパ」
「…少なくとも根性を見せるためじゃないな、こいつはそんな奴じゃない」
「答えてくれないんだ」
「綾香に何か言われたのか?」
「ママは、希亜君に何でも良いから一度思っている事をぶつけてごらんって言われてる」
「そうだな、それが良い。 誰かの言葉だが、言葉だけでは伝わらない、だが、言葉無くしては何も伝わらない。 とにかくよく話してみることだ」
「うん」
「こいつの事、好きか?」
「分からない。 でも、嫌いじゃない」
「なら、それでいいさ。 こいつは待つと言ったんだ、待たせればいい」
「好きになるまで?」
「いや、少なくとも子供でなくなるまで、だな」
「…わたしまだ子供なんだ」
「こいつもお前も、まだまだ子供だ、俺だって人のことは言えない。 だが、さしあたって綾芽は希亜より子供でなければいい。 …俺に言える言葉はこのくらいだ」
 

 泣いている彼がいる、よく晴れた空の下で、なりふり構わず泣いている自分がいる。
 自分以外の全てが彼女を忘れてしまった世界で。

 泣いている彼女がいる、雪の降りしきる空の下で、傘を差したまま墓前で。
 自分を最もよく見ていた彼を、殺してしまったことに後悔をして。

 鳴いている一匹の猫がいる、遙か彼方に下界を見下ろす空のかなたで。
 この空に融けながら、もう叶うことのない望郷の念を捨てきれずに。

 心の中に恐れを感じつつ、心地よい闇の中で希亜の意識が夢から覚める。
 見ていた夢は記憶から失せ、静かに増えてくる五感からの情報に身を任せる。
 光が、匂いが、温度が、いつもよりぼやけている五感に広がってゆく。
 胸の上に何かがいる、ここではない空のかけらを内包した存在。 それが子猫クラムだと分かると、希亜は安心してぼやけたままの五感にまどろむように、再び沈み込むように身を任せた。
 

 放課後、第二保健室。
「まだ寝てるわよ、彼」
 入って来た綾芽に、保険医の相田響子はそう返した。
「石原先生は?」
「あの人なら今、第一に行っているわ」
「そうですか」
 そう返事を返しつつ、綾芽は希亜が寝ているだろう寝台のある方へと視線を向けていた。
 気付いてから暴れないためとはいえ、全身麻酔があだとなった。 麻酔が切れても寝ている典型的な例である希亜に、やや呆れながらではあるが。
「麻酔は切れてるから、起きたら分かるはずだけどね」
 そう言って相田響子はカーテンをスライドさせ、横になってる希亜の姿を見る。
「あ、クラム」
「この子猫、さっきからずっとそこに居座ってね、主人を守っているみたいなんだけど…」
 二人の方を見ることもなく、クラムはふわふわの体毛のまま希亜の胸の上に丸まっている。
「希亜君…」
 綾芽が希亜に近づくと、クラムのシッポがピンと立った。 そのまま頭を持ち上げ
「なー」と一鳴きし、その視線を綾芽に向けた。
 鳴き声に思わず視線を合わせてしまった綾芽、希亜の瞳で見透かされるのとはまた異質な感覚を受けるが、すぐにクラムは視線を逸らし、頭をおろしてそのまま丸まった。
「どうやら、近づいても良いみたいよ。 私の時はそのまま近寄らせてくれなくてね」
「クラムちゃん、ありがとう」
 綾芽の声にクラムはシッポを立てて一振りし、再びシッポを丸める。
「良い猫ね」
 そう言って響子は自分のデスクに戻り、そのいすに軽く腰掛けて二人の様子を見ようとした。 だが不意に手を伸ばしたカップのコーヒーが空になっているのに気付き、再び立ち上がってコーヒーメーカーを操作するのだった。

 静かに寝息を立てて眠っている希亜の表情は、いつもののほほんとした様子に近い物の、それよりはよりあどけなさが強く現れていた。
「わたし、希亜君のああ言うところが怖い」
 そう言って、綾芽は希亜の寝ているベッドに腰掛ける。
「どうしてあんな危ない事が平気で出来るの?」
 寝ている希亜が返事を返す事を、どこかで期待したのか、綾芽は言葉を続けるのだった。

 意識ではなく、その意識が認識する空間の底の方から声が聞こえる。
 聞き慣れているはずなのに、ひどく懐かしいその声は、希亜自身に対して問いかけていた。
 その事に注意を向けると同時に、まどろみに沈んでいた五感が覚醒を始める。
 意識に届いた瞬間から、誰の声、誰の息づかいかが理解できていた。

「…わたしには希亜君がわたしのこと好きだって理解できない」
 そう呟いてから、ようやくこの部屋にもう一人の人物、相田響子がいる事を思い出し、恥ずかしくて言葉が止まった。
 カーテン越しの窓の外にある運動場からは、どこかの運動部のランニングのかけ声が、酷く遠くに聞こえている。
「私が悪かったんです」
 すぐさまでないが、希亜はベッドの上で横になったまま言葉を返した。
「お、起きてたの!?」
「今、起きるところです。 まどろみの中で声が聞こえました、いつも聞いているはずなのに、その声はひどく懐かしい物に感じました」
 希亜は、酷く遠くに相手がいるようにそう言いながら上体を起こし、視線を合わせた。
「とりあえず、混乱させたのは未熟な私の失態です」
 そう言って希亜は綾芽に深く頭を下げる。
「そんな事無い、わたし私が勝手に怒ったのが悪かったの」
 慌てる綾芽に、希亜は頭を上げいつも通りののほほんとした視線で綾芽を見据える。
「…よければ、話してもらえますか?」
「うん。 昨日の夜、ママや芹香さんに相談したら『想いをぶつけてごらん』って言われて、気がついたら一晩考え込んでて。 朝希亜君の顔見て考えてた事を言おうと思ったら、急に腹が立ってきて… それで…」
「何故怒ったのかは聞きませんよ、私も昨晩は荒れてましたから」
「そうなの?」
「ええ、ちょっと酒量を間違えました」
「希亜君?」
「はい」
「お酒は二十歳になってからだよ」
「…まぁ、私はお前さんのそう言うところも、危ないところも含めて好きなんですけどね」
「どうして、そう言いきれるの?」
 不意打ちとも言える希亜の言葉だったが、それに動揺する前に綾芽の口は動いていた。
「そうですねぇ」
 希亜は一度視線を膝の上のクラムに向け、答える。
「酷く言えば、私はあなたの全てが欲しい、あなたの微笑みも、あなたの絶望も、全てを。 でもあなたから全てを奪ったら、あなたではなくなる。 だからあなたの側にいたい、側にいてあなたの存在を感じていたい。
 でも、私にはあなたを守る力はありません、せいぜいあなたと共に戦うことが出来る程度です。
 …こんなところで答えになるでしょうか」
「それじゃあ分からないよ」
「ええ、はっきりとは分かりませんね。 でも、人を好きになるなんてそんな物ですよ」
「そうなのかな?」
「そんなもんだと思ってます」
「わたしは希亜君の事、時々怖いって思う。 さっきみたいな事、平気でするんだもん」
「平気じゃないです、あの時は魔法を使う以上に精神を制御するんですから。 手だって切れば痛いんですよ」
「じゃあ、どうしてそんなことが出来るの?」
「さっき言ったとおりです。 あなたが好きだから、あなたと共に戦うことは出来るからですよ。 だから手の痛みだって我慢できるし、あなたに指を切り落とされることだって諦められます」
「そんなのだめだよ、わたし希亜君のこと傷つけたくない!」
 一瞬、きょとんとしたような表情を見せる希亜だが、次の瞬間微笑みながら静かに口を開いた。
「それは、お互い様です」
「え?」
「じゃあ何で? どうして?」
「あの時の綾芽さんは錯乱してました。 だからさらに大きな精神的ショックを与えて、錯乱した状態を一つの事象に絞り込ませたんです。 そうやってお前さんの心を冷やして落ち着かせたわけです」
「じゃあ希亜君は…」
 綾芽の言葉が止まった、その直後希亜のギプスで固められた手が、綾芽の手の上に載せられる。
「ちゃんと面倒見てくださいね、お姉さん」
「うっ…」
 

 夜の帳が降りる中、寮管理人室から大声が聞こえてくる。
「このどあほうっ! なに怪我しとんねん。 しかも自分から刃物握ったってどういう事やねん!」
「猪名川さん」
「結花は黙っといてんか! このアホにはきつーく言って聞かせな分からんのや! ええか希亜、ウチはあんたのねーさんのアっちゃんからよろしく言われてるのは知っとるやろ…」
 結花はとどまることを知らない猪名川の説教に「ほどほどにね」とやんわりと言って管理人室から出た。
 主に仕事上とはいえ、猪名川の性格を少なからず知っているからこそ、彼女が同人誌以外でそう理不尽に怒ることはないと知っているからでもあった。

 やや後ろめたい気分で管理棟から出た結花の目の前に、健太郎の姿が目に入る。 彼が結花に気付くと不思議そうに訪ねてきた。
「結花、猪名川さん怒鳴りあげてるけどどうしたんだ?」
「希亜君が怪我したんだけどね?」
「希亜が?」
「うん、あたしは直接見てないんだけど。 なんでも朝校門で彼女と口論になって、彼女が怒っちゃったのよ。 それでその彼女が長刀を希亜に突きつけたんだけど…」
「切られたのか?」
「ううん、希亜君がその切っ先を掴んだんだって」
「掴んだ!?」
「うん」
「無茶するなー」
「だから、猪名川さん怒っているんだと思う」
 二人の会話がとぎれた間にも、猪名川の説教が聞こえてくる。
「ま、帰ろうか」
「うん」
 健太郎も今の猪名川に何を言っても無駄だろうとあきらめ、二人は寮を後にするのだった。
 

 夜、来栖川邸、綾香の部屋。
「ふーん」
「『ふーん』じゃないよママ」
「ごめんね綾芽。 でも、綾芽ってずっと振り回されれっぱなしね」
「うん、ちょっと悔しい。 いつも希亜君の前ではお姉さんで居ようと思ってるのに、気がついたらわたし希亜君に面倒見られてるんだもん」
「でも、綾芽がそうやって面倒見たいって思ったのは、同学年じゃ希亜くらいよね?」
「うん、だってかわいいんだもん」
 そう言った綾芽の会心の笑みに、綾香は昨日の姉の言葉を思い出しつつ、かなり希亜に同情するのだった。
 

 同刻、寮の屋上。
 街の仄かな明かりと、明るい月の光の下。 いつものベンチに座って希亜はぼんやりと酒を飲んでいた。
「こんばんわ、今宵も来ましたね」
「隣良いか?」
「無論」
「さっきは災難だったな」
「猪名川さんのことですか? それなら自業自得ですから」
「そうか。 さて、何から聞こうか…」
 そう言いかけて朔は希亜の様子を見る。
 膝の上に例の子猫が丸くなっている、いつもの魔女の正装ではなく、背中で大きく割れた濃紺のマントも帽子もかぶっておらず、どてらを羽織っている。
 そしてにやけている訳でもないが、その表情からは笑み以外の何物にも見えなかった。
「今日は上機嫌だな」
「ええ、良い物も見えましたから」
「良い物?」
「ええ」
 上機嫌でお猪口の中の酒に口付ける希亜は、顔を赤くして戸惑う綾芽の姿を思い出しつつ、ぼんやりと口の中の酒の味を堪能するのだった。
「そうか」
「どうです? おひとつ」
「貰おう」
 月明かりに照らされ、二人の影はぼんやりと屋上に伸びている。
「手は大丈夫か?」
「まだ痛みますね、明日にでも五月雨堂に行って見る予定です」
「そうか …治るのか?」
「治さないといけません」
「そうか」
 朔はそう呟くように言い捨て、再びお猪口の中の琥珀色の液体を口の中へと含む。
「質問は良いんですか?」
「もう答えはもらった」
「それは残念」
 そうは言っても、朔の視界に在る希亜は、ぼんやりと幸せそうな笑みを浮かべていた。
 

 深夜、寮、軍畑&希亜の部屋。
 既に丑三つ時であり、希亜と軍畑の寝息と、時計の針の音だけが部屋の中に広がっていた。
 そんな静けさの中、カーテン越しに入ってくる月の光を受けて、そのやや青みがかったグレーの毛並みを持つ子猫が、シッポをゆらゆらと揺らしながら起きあがった。
 とてててて、たっ… ぽふっ。 とてとて。
 二段ベッドの上で掛け布団をかぶったままに、漂うように宙に浮いたまま寝ている希亜。 その体の上に子猫クラムは軽々と飛び上がり、希亜のおなかの上で再び丸くなった。
 そうして、部屋は再び元の静けさを取り戻すのだった。
 
 
 

 見たことのない装束の人々の中に、一人静にたたずんでいるのが分かった。
 何かの術式が始まる、強力な魔力が術式に集まる。
 次の瞬間、光、音、匂い、とにかくいろんな物がはじけるように消えた。
 光でも闇でもない空間。 希亜が知っている宇宙という空間よりは、色々な物がありもっと混沌とした空間。
 そんな空間を感じたのもつかの間、突然空に放り投げられた。 希亜のよく知るこの世界の空に。
 何処までも続く森の中に降り立つ。
 鬱蒼と広がる針葉樹林の森は、拒むでもなく受け入れるでもなく、ただそこに沈黙していた。
 

「ん〜」
 夢の中の内容を、整理しながら希亜はベッドの上で目を覚ました。
 重力に少しばかり身をゆだね、ベッドに身を沈める。
「欧州の北の方の森だったなぁ」
 胸の上で何かが動いた。 と言うよりは、ようやく胸の上に乗っている物に気付いた。
「クラム、こんなところで寝て」
 手を伸ばそうとしたが、ギプスで覆われている左手に気付き、代わりに右手を伸ばす。
 ふわふわの体毛で覆われた子猫にそっと手を置き、優しくなでる。
「夢、か」
 久しぶりに夢を見たなと、ぼんやりと天井を見上げながら、今見た夢の事を分析し始めるのだった。
 

 商店街、Hony Bee前。
 歩いて朝の商店街を進む希亜の視界に、店先を掃除しているリアンの姿が入って来た。 水色の足下まである髪の途中からゆったりと三つ編みにした髪が、掃いている箒と共に揺れる
 そのまま、ちょうど彼女の後ろから声をかける。
「おはようございまーす」
「おはようございます希亜君。 昨日結花さんから聞きましたけど、怪我をしたんですよね、大丈夫ですか?」
「ええ。 それで、お時間ありましたら治癒関係について教えていただけたらと思うんですけど」
「それは良いですけど、ちょっとお店の中に入っていてもらえますか? すぐ済みますから」
「はい」
 店の中へ入って行く希亜の後ろ姿を見ながら、リアンは昨夜に聞いた結花の話を思い出していた。
 

「やあお早う、ストレートティーで良いかな?」
 まだ開店前の店内に入った希亜は、そんな泰久の声に出迎えられた。
「あ〜すいません開店前なのに」
「いや、新しい葉が手に入ったから試飲してもらおうと思ってね」
「そ〜言う事なら喜んで」
「分かった、今からいれるよ」
 カウンター席に着いた希亜は、かけられたポットのガスの音を聞きながら、ぼんやりと時を過ごす。
 後は、ポットのお湯が適温に達するのを待つだけとなった泰久が、ふとカウンターの上に無造作に置かれている、希亜の左手にギプスがされているのに気付いた。
「手、どうしたんだい?」
「ああ、これですか?」
 なんでもないんですよと言わんばかりに答えた希亜の背後から声がかかる。
「希亜君が彼女をなだめようとした時の傷。 って聞いたけど」
「結花さん…」
「希亜君こっちへ」
「あ、はい」
 リアンに呼ばれて、店の奥へ入っていった希亜に泰久は。
「なだめようとしてギプスって、いったい何があったんだ?」
 そう一人困惑するのだった。
 

 店の奥でリアンは希亜のギプスの着いた手を注意深く見て口を開いた。
「魔法を使った跡がありますよ希亜君」
「変ですねぇ、私は使った覚えも使われた覚えもないですし、なにより自分の魔力以外には何も感じません」
 戸惑いながらに返す希亜にリアンの言葉が続く。
「私たちと同じ、グエンディーナの力を感じます。 何となくですが、希亜君の魔力に近いような気がします」
「…あ〜 心当たりが、あるようなないようなぁ」
 言われてから、自分の魔力によく似てはいるが、もう少しグエンディーナの方の魔力が強い、もう一つの魔力を感じる。
 ふと希亜の脳裏に、ふわふわの毛並みの子猫クラムの姿が浮かぶ。
「あの子猫ですか?」
「多分、他には考えられないですから」
「まだそんなに強い魔力を使った訳ではないみたいですけど、はっきりと治癒の魔法の効果が出てると思います」
「あの子はまだ安定していないはずなのに…」
「よほど想われているんですね、その猫に」
「え、ええ」
 想われていると言われて、戸惑いながらに希亜は返事を返した。 希亜自身はまだ普通の猫だった頃のクラムを殺してしまったことを後悔しており、素直に返事を返せはしなかったのだ。
「あの子は、使い魔です。 この私の」
「だから、あの時感じたんですね、希亜君と同じ空の記憶を」
「そっちを感じましたか」
「それともう一つ、私たちの世界の記憶を感じました」
「そうですか。 …朝からずっと寝ていたので、少し心配だったんですけどそういう事だったんですね」
「大切にしてあげてくださいね」
「ええ、責任はとるつもりですよぉ」
 のほほんとそう返す希亜だが、その瞳は静かにリアンに向けられていた。
 

 寮、管理棟、管理人室。
「いないんですか? 希亜君」
 管理人室でそう言われて、綾芽は素っ頓狂な声を上げていた。
「そや 希亜やったら今日は出かけとるで」
「やっぱり連絡しとくんだった…」
 来栖川姉妹と相談して、結局作ってもらったクッキーの入った紙袋を片手に、深く落胆する綾芽。
 そんな彼女を見かねて、由宇は声をかける。
「まぁ、そうがっかりしぃなや。 それより聞いたで、希亜と痴話喧嘩の末怪我させたんやってな」
「う、うん」
「大丈夫や。 一応管理人やからな希亜から一部始終聞いとる。 そやからあんたが希亜に対して責任感じるのは筋違いや」
「でも…」
「そうやなぁ。 あんた希亜の前では大人でいたいんやってな、希亜が言うとったで
『あの人は私のことを子供だと思っているんですよ』って」
「そんな事ないよ、よく分かったもん」
「何がや?」
「希亜君の怖さも、希亜君がわたしをどう思っているかも…」
「そんなん上辺だけや」
「そんな事ないよ、希亜君はわたしより大人だよ…」
「やっぱ、上辺だけやな。 希亜の面倒見たいんやったら、もう少し理解したり」
 由宇の言葉に、綾芽は黙り込んでしまった。
 実際問題由宇は希亜のことに関して、いつもはあまり見せることのない、青さの中の強がりで意地っ張りな側面を知っていた。 それはまだ希亜がこの学園に来る前の出来事だっただけに、その点では由宇は学園で最も希亜の事を知る人物でもあった。
 綾芽に希亜の事をもっとよく見てもらいたいと思った由宇だが、その事は綾芽自身が見つけるべきだと思い、口にはしなかったのだった。
「わたしの知らない希亜君?」
「そや希亜もまだまだ子供やからな、まぁ今時珍しい奴やし。 …そや、ゆーさく呼ぶか?」
「あ、お願いします」
「ほなちょっと待ててなー」
 そう言って管理人室から出た由宇は、男子寮に向かいながら「若いってええなぁ」と呟くのだった。
 

 薄く積もった雪が、寒さの中融けることなく全てを覆っていた。
 二人は、その中をしばらくの間無言で歩いていた。
「本当はね、パパ」
「ん?」
「あの時、希亜君に止めて欲しかったんだ」
「あんな止め方でか?」
「ううん。 あれは、怖かった」
「だろうな」
 二人は寮の中庭に向かって歩いていた。
 休みの日の午前中と言う事もあり、あまり人気はない。
「でも、あの時希亜君の言うとおりにしたのは、希亜君の事信じているからだと思う」
「そうか」
 薄く積もった雪を踏みしめる足音だけが、今の二人を包んでいる。
「パパは希亜君の事どう思った?」
「…言葉は悪いが、お前が希亜を殺しても、あいつはお前を恨みはしないのかもな」
「パパ!」
 思わず声を上げる綾芽に朔は苦笑しつつ謝る。
「…でも、パパの言いたい事は分かるよ、たぶん」
「そうか」
「パパも結構希亜君のこと見ているんだね」
「あいつが勝手に近寄ってくるだけだ」
 朔が立ち止まり、ベンチに積もっている雪を払いのけ、座り込んだ。
「そうだ」
 綾芽は袖に入れていた紙袋を取り出し朔へと差し出す。
「クッキー焼いてもらったんだけど、パパ食べてくれる?」
「あいつには会っていかないのか?」
「うん、会ったらまた魔法をかけられるから」
 一瞬何か反論めいた言葉を返そうとしたが、それが思考から霧散するのを感じつつ、朔は紙袋を受け取った。
「それとね」
「まだ何かあるのか?」
「希亜君には今日来た事は秘密にして欲しいの」
「そうか」
「今日はありがとう。 やっぱりわたしのパパだね」
「そうか、役に立てたのなら光栄だ」
「じゃーねーパパ、また学校で」
 離れて行く綾芽に、朔はベンチに座ったまま手を振る。
 幾つかの疑問が頭の中で浮かんでは消えていた。
 行ってしまった綾芽から受け取った紙袋に意識が移ると、彼は何事もなかったかのようにそれをコートのポケットに入れ、このベンチを後にするのだった。
 

 夕刻、寮、食堂。
「ま、怪我をしたのが左手なのが痛いなぁ」
 そんな事を言いつつ右手でぎこちなく箸を持ち悪戦苦闘しながら食事を続ける希亜。
 そんな希亜を、二つの視線がじっと見ていた。

「あれ? なんか不器用だね」
「彼は左利きですよ」
「そーっだったけ電芹?」
「はい」
「そっかー」
「「あ」」
 二人の視線の先、希亜のギプスのついた左腕が醤油差しを倒した。
 視線の先の希亜は、失敗とばかりに「むー」と唸ると、倒れていた醤油差しを起こし、布巾をもらう為に席を立った。
「ギプスのついた左腕の可動範囲に注意するべきでしたねぇ。 結花さ〜ん布巾くださ〜い!」
 寮の食堂のおさんどんである結花から布巾をもらうと、希亜は慌てる事もなく席へ戻りこぼれた醤油を拭き取り始める。
「やっぱりちょっと不便そうだよ」
「そうですね」
 そう言って電芹は立ち上がった。
「電芹?」
「色々、聞いておきたいことがありますから」
 たけるにそう答えた電芹は、そのまま希亜の席の方へと歩いてゆく。
「あー待ってよぉー」
 結局のところ、電芹に介護してもらいつつも、今日も希亜は根ほり葉ほり聞かれるのだが。 今日に限って言えば、希亜と綾芽の事よりは希亜自身のメイドロボに対する考え方を聞き出す方が多かった。
「見えるからと言って、存在しているとは限りませんし。 感じないからと言ってそこに無いとは言い切れないですからね」
 そんな事を言う希亜だが、結局のところ電芹について言えば、数日前に彼女に伝えたとおりにこう言った。
「前にも言いましたけど。 私のあなたに対して抱いてるイメージは、ただの女子寮生ですから」
 屈託無くそう言う希亜に、電芹以上にたけるが安堵したのが希亜には印象的だった。
 食事を終えても、しばらくの間二人と一体は話しに花を咲かせているのだった。
 

 夜、寮屋上。
 最近何となく屋上に上がる事が多くなったなと、自覚しつつ朔は屋上へと出た。
 少し風が吹いている物の、冷たいくらいに明るい月が屋上を照らし出していた。
 辺りを見渡しながらここから見る事の出来ない屋上の端、貯水槽の裏のベンチへと進んで行く。
 そうして足を進めるが、目的のベンチに誰もいない事が分かると、
「誰もいないのか」
 無意識に出た言葉だが、少しして自分が酷く落胆している事に気がついていた。
「帰るか…」
 ごまかすように呟いてその場を離れる。 なんだか空しい。
 扉を開き階段を降りる。
「あら〜、おかえりですかぁ」
 間延びした声が下から上がってくる。
 ふと安堵している事に気がついた。
「今日は、濁りにしてみました」
 楽しそうに言いながら、ふよふよと上ってくる希亜の手には、二つの御猪口が握られている。
「孤独、じゃないのか?」
「いつも同じ物では飽きてしまいますからねぇ」
 そんな返事に少し落胆しつつも、朔は希亜と共に階段を上るのだった。
 
 
 

 日曜日お昼過ぎ、五月雨堂。
「ちわぁ、摂津屋で〜す」
 言いながら帽子を脱いで店内に入る希亜。
 聞き覚えのある声に、五月雨堂店主の健太郎は店の入り口へと視線を走らせた。 そこには濃紺のコートを羽織ったよく見知った少年が、右肩に青御影の毛並みを持つ子猫をへばりつかせてたたずんでいた。
「いらっしゃい、でも摂津屋って?」
「江戸時代ですけど、江戸に出店する店はそれぞれの出身地の名を付けたんが多かったんですよぉ」
「希亜君の出身って… 兵庫の湊じゃないの?」
「平安時代じゃ違いすぎますよぉ、でも六甲屋だとかっこ付かないですから」
「そうかな?」
「ええ。 それはそれとしてスフィーさんいらっしゃいます?」
「奥でご飯食べてるよ」
「…こんな時間に?」
「ちょっと炊飯器の調子がおかしくなってね、それで…」
「いいですか?」
「ああ、どうぞ」
 ぺこりと頭を下げて、希亜は店の奥へと入ってゆく。
 その後ろ姿を追っていた健太郎は、バスケットがまだ見つかって無い事を伝えるのを忘れたなと、店の奥に消えた背中に思うのだった。

「お邪魔しまぁす」
「んー! んん!? んぐっ、んんんんーーー」
「はて、なんでしょう?」
 キッチンの方から聞こえる、うなり声に引き寄せられるように希亜は足を進める。
「あ゛…」
「んんんんんんーーーー…」
「何をしているんですかぁ?」
 喉を詰まらせて苦しんでいるスフィーに、呆れながらにそう言った希亜だが、スフィーの青くなっていく顔に驚き慌てて駆け寄り背中をばしばしと容赦なくたたく。
 程なく飲み込んだスフィーは涙目ながらに顔を上げ、
「あ、ありがと」
 そう言って再び昼食を食べ始める。
「何を慌てたんですか?」
「…希亜が急に来たから、希亜が悪いんだからね」
「そうですか、私はてっきりクラムに驚いたかと」
 そう言いつつ希亜は肩に寝そべるようにしてへばりついている青御影の毛並みの子猫を見下ろす。
「その子は猫の格好をしているけど、猫じゃないから」
「分かりますか」
「リアンと話し合ったりはしたけどね、大事にするんだよぉ」
「はい」
「じゃあ、少し待っててね」
 そう言ってスフィーは、昼食の続きを取るのだった。
 

「また夢を見るの?」
「はい」
 昼食を終えたスフィーに希亜は最近の一連の夢と、それに対する自分の見解を話していた。
「一緒に飛んでいたのは、こんな服です」
 と、希亜はラフスケッチをしたためてスフィーに見せた。
「グエンディーナの装束にありそうだけど、私たちとは違うからチョット分からないよ」
「仮にグエンディーナだとすると…」
「曾祖母の記憶かと考えるのが妥当かなぁ」
「だよね」
「伝えたかったのは、記憶なのかな」
 そう言いつつ希亜は膝の上のクラムの頭をなでる。
「まだ安定していないんだよね?」
「どうでしょう、元が魔女な人ですから案外しっかりと安定していない振りをしているのかもしれませんよ」
 二人の視線の先のクラムは、希亜になでられ気持ちよさそうにあくびをして、丸くなって瞳を閉じた。
「まだ安定しきっていない状態で魔法を使ったんですから、しばらくは普通の子猫ですね」
「そうだね、その子ならあたしも平気だし」
「猫苦手なんですか?」
「うん… ちょっとあってね」
 
 
 

 月曜日朝、校門前。
 降りしきる雪の中、校門前に二人の人物が立っていた。
 一人は乳白色のハーフコートの上から、濃紺の背中が大きく割れたマントを羽織り、雪の積もった濃紺の鍔の広い魔法使いがかぶるような帽子をかぶった小柄な背の低い人物。
 一人は傘を差して白いコートでたたずんでいる、やや背が高い人物。
 どちらもただ一台の車を待っていた。

 そこから離れること数メートル、電柱の影に二つの雪だるま… もとい、二人の人物が体に雪を積もらせながらたたずんでいた。
 無論この二人、川越たけると電芹の二人の仲良しコンビである。
「そろそろでしょうか」
「だと思うよ」
 不意に辺りの様子をうかがった電芹は、たけるの体に積もってゆく雪に気付き、そっと雪を払いのける。 今まで気付かなかったことに、人間なら苦笑という思考的処理をしながら。
「あ、ありがとう」
「いえ、風邪を引いては大変ですから」
 そう返事を返しながら、電芹はたけると自分の上に傘を差した。

 雪が深々と降り積もるが、その音は校門へと入ってゆく生徒の足音にかき消され。
 冷たく冷えた朝の空気も、その生徒達によって幾分か暖めらたようにうかがえた。

「寒いですね」
「ああ」
 とは言え、じっと立っていたら寒いのは当たり前である。

「電芹、バッテリー大丈夫?」
「はい大丈夫ですよたけるさん」
 芯から冷える電柱の影の二人にも、寒さは平等に訪れる。
 

 先ほどから落ち着かないのか、綾芽は窓の外と車内とを交互に見ているように見えた。
 綾香を挟んで反対側に座る芹香はその様子に気付いてはいたが、希亜と綾芽の問題なので、自主的には関与しないようにしていた。
「そろそろ着くわね」
 綾香の言葉に綾芽は視線を何度も往復した車外へと向ける。 見える景色は既に学校の一角をとらえており、校門が近づいてることが見て取れた。
 

「お早う希亜君」
「お早うございます、綾芽さん」
 ややぎこちなく交わされた挨拶。
 綾芽はそのまま軽く深呼吸をして、口を開いた。
「わたしは、許さないからね。 希亜君が怪我したのは、希亜君が悪いんだから!」
「綾芽?」
 思わず呼びかける綾香の目の前で、希亜は何一つ表情を変えることなく綾芽の言葉の続きを待っていた。
「何でもっとわたしに話してくれないの? わたしじゃ相談相手にもなれないの? 希亜君いつも一人で悩んでいるじゃない、それがわたしの事でもあなたの事でも」
 綾芽は希亜の瞳から視線を逸らすことなく語りかけ、一呼吸おいた。
「クラムちゃんのことだってそうなんでしょ? 全部一人で抱え込んで、そんなんじゃいつか壊れちゃうよ?」
「心配してくれるんですね」
「当たり前じゃない」
 迷いのない綾芽の返事に希亜は正直にうれしかった、だからか。
「こらぁっ! こんな時ににやけない!」
「そ、そんなの無理ですよぉ。 うれしいんですから」
「だ、だからって!」
「私はあなたに対して代償や対価を求めていた訳ではないんですけど、心の底では分かって欲しいと思ってたんですね。 今私は幸せです」
「もう、一人でひたってないでよぉ」
「もう少しひたらせてくださいよ〜」
「恥ずかしいからだめー」
「そんなぁ〜」

「痴話喧嘩ね」
「いや、夫婦漫才だろ」
 コクコク。
 確認しあう綾香と朔、傍らでは芹香が目の前で痴話喧嘩を繰り広げる二人を楽しそうに見つめていた。

「いいなぁ」
「丸く収まったみたいですね」
 相変わらず電柱の陰に隠れるようにして覗いている二人は、視線の先の綾芽と希亜のじゃれ合いにそんな感想を述べた。
「んー、私も彼氏作ろうかなー」
 呟いたたけるの言葉に電芹は動揺するのだが、それはまた別のお話である。
 

 放課後、学園上空 fifty miles over.
「日本が見下ろせるなんて…」
 そう感想を述べた綾芽だが、景色を楽しんでいるようには見えなかった。
「こんなところに連れてきて、どうするの?」
 綾芽の言葉が優しく希亜に届く。
「聞いて欲しいことが在るんです」
 希亜が、Rising Arrowが展開しているフィールドの外側は、宇宙と呼ぶべき熱く冷たい死の世界。
 遙か眼下の地表を薄く覆う雲、見上げれば何処までも続く闇の中に浮かぶ光、光、光。
 太陽は闇の中に浮かぶ天窓のように明るく、この闇へと光を放っていた。
 そんな前人未踏の絶景とも言える景観なのに、綾芽も希亜もこの景色が目に入ってはいなかった。
「初めてかな、希亜君が言い出すのって」
「…そうですね」
「話して良いよ、ここならわたしたち以外誰にも聞こえないのでしょ」
「ええ。 …この正月元旦が過ぎた頃、私の曾祖母が亡くなりました。 それから始まったんです」
「うん」
 希亜は綾芽の相づちに引き出されるかのように、今までの経緯を話し始めた。
 曾祖母の死。
 遺言によって曾祖母の家を相続し同時に次代へと受け渡すこと。 既に行われた引っ越しは希亜の住所変更届が受理され必要事項は全て終わっていた。
 そして曾祖母の残留思念と、まだ幼い飼い猫と、希亜の作り出した結晶その他を用いて、使い魔を作ること。
 とてもなついていた子猫を殺めてしまった後悔が、いつまでも離れない事。
 そして、綾芽の心がまだ幼いところが多いこと。
 希亜は余すことなく話していた。 普通なら本人に隠すべき事でさえも…
「希亜は考えすぎだよ」
「そうですか?」
「わたしの事みんな知ってるじゃない」
「私が知っているあなたの事は、ほんの一握りですよ」
「そうかな」
「ええ、私の知らない私、あなたの知らない私があるのと同じように、私の知らないあなた、あなたの知らないあなたもまた、存在するんです。 まぁ、知らない物が多い方が、いろいろと知ってゆく楽しさというのは大きいですけどね」
「言いたい事は分かるけどー。 …何か上手くごまかされているような」
「ごまかすほど色々分かっている訳ではないですけど、ごまかしているのかもしれませんね」
「どうして?」
「綾芽さんは私があなたの事を色々知っていると思っているみたいですけど、私はもっとあなたの事が知りたいんですよ?」
「…えっと。 満足、してないの?」
「永遠に満足なんてしませんよ、それに今だって私の知らないあなたを見ているのですから」
「希亜って、ストーカー?」
「綾芽さん、それは酷すぎますよぉ」
「冗談、希亜君の表情が話し始める前より柔らかくなっていたから、ついね」
「…そうですねぇ、気は少し楽になりました」
「よかった、わたしでも役に立てるんだ」
「はい、もう数え切れないくらいに」
「え?」
「授業中とか、お昼休みとか… 色々と」
「ずるいよ、わたしはここのところずっと悩んでたんだからね」
「その悩みは、解決しましたか?」
「うん。 でも今はまた新しい悩み事があるよ」
「それは?」
「どうやったら、希亜君にもっと愚痴をこぼしてもらえるか、とかぁ。 もっとわたしの事頼って欲しいなぁ、とかぁ」
「う、う〜む」
「そんなところかなー」
「難しいですね〜」
「でも、希亜が意地っ張りなところ、少し分かった気がする」
「意地っ張りですか…」
「うん、自分より寂しいものを知っているぐらいに寂しがり屋で、誰かのために意地っ張りなところが、希亜にはあるよ」
「私が寂しがりやというのは、正直意外ですけど。 まぁそう言う側面もあるかもしれませんね」
「知ってる? 希亜君魔女っぽいとき意外は、ころころ表情に出てるんだよ」
「え?」
 多分今は驚きと幸せがごっちゃになった顔をしているんだろうと思いつつ、希亜はゆっくりと綾芽の方へ振り向く。
「ね?」
「こうやって、ゆっくりとあなたに近づいて行くんですね」
 赤くなっていた顔を真っ赤にしながら、希亜は真っ直ぐにそう言った。
「…希亜、ずるい…」
 顔が火照るのを感じつつ綾芽はただそれだけを返していた。
 
 
 

 数日後。
「なぁ、今日は玄米茶なんだな」
「ちょっとネタ切れでして」
 ようやく冬の寒さが一段落したこの時期、風がない事を良い事に久しぶりに屋上で昼食を取る事になった。
 既に昼食を終え、お茶を飲んでくつろいでいる所だった。
 希亜の膝の上では、今日も子猫のクラムが丸まってお昼寝を堪能している。
「そろそろ神戸でも早いところは梅が咲く頃ですねぇ。 梅木瓜桜、春がまたやってきますね〜」
「何?ぼけって」
「桜や梅によく似た花の事ですよ、詳しくは知らないんですけどね」
 いつ頃咲くのか、そんな事を考えている綾芽が桜のその時期に気付き口を開く。
「でも桜が咲く頃には芹香さん卒業しちゃってる…」
 希亜は軽く頷き、
「そですよ。 移ろい行くのは少なくとも間違った事じゃないです、私だってそのうち卒業しますし、年老いて行きます」
 さも当然のごとくそう言いきり、そのまま綾芽の言葉を待つ希亜。
「それは、そうだけど」
「多分、綾芽さんの言いたい事は分かるつもりです、だから今のこの日常を大切にしたいんです」
 希亜の言わんとした事が綾芽の思っていた事にかなり近かった事に、綾芽は希亜が魔法を使ったと思い訪ねる。
「使ったでしょ?」
「…魔法ですよね?」
「うん。 だいたい合ってたから…」
「残念ですけど、使ってませんよぉ」
 実際の所、希亜はこの魔法、本人曰く「精霊達と語る為の魔法」を、普通にコミュニケーションをとれる相手に対して、何も言わずに使った事はなかったし、希亜自身は必要なければ極力使わない方針でいた。
 だから綾芽に対してその魔法を使ったのは、初めて会った日に使ったあの一回きりだった。 同時に希亜は知りすぎた情報に対していくつかの疑問を持っていたが、それは今に至るまで一人胸の中にしまってあった。
 一つだけ彼に誤算があったとすれば、彼女に惚れてしまった事だろうか…
「…え?」
 さらりと告げられた希亜の否定の言葉に、綾芽は一瞬言葉を失った。 そして希亜はその間にただ一言だけ言葉を続けた。
「よく見てますから」
と。
「ううー、わたしの方がお姉さんじゃないといけないのにー」
「まぁともかく」
「何よぉ」
 ふくれっ面で言い返す綾芽に、希亜は真っ直ぐに言い返す。
「ふつつか者ですが、よろしくお願いしますね」
「あ????。 はい、こちらこそ。 …って希亜君!」
「はい」
「…あんまりお姉さんに心配かけないでね」
「ん〜、難しいですねぇ」
「そんなぁ」

 目の前で続けられる希亜と綾芽のやりとりを肴に、朔はゆっくりとお茶をすする。
「あれはあれでいいの? 姉さん」
 綾香の問いかけに、芹香はただ慈しむような目で綾香に答える。
「ふう」
 やや大げさにお茶を飲み干した朔は、一度希亜と楽しく話している綾芽の方へ視線を向け、それからぼんやりと空へ視線を向けた。
「今日は良い天気だな」
「そうね」
 疲れながらに言った言葉に綾香が苦笑しながら応える。
 それはまだ寒い冬の昼の出来事でした。
 
 
 

登場人物(登場順)
軍畑 鋼
猪名川 由宇
クラム(希亜の使い魔)
来栖川 芹香
悠 綾芽
宮田健太郎
スフィー
リアン
川越 たける
電芹(セリオ@電柱)
牧村 南
平坂 蛮次
悠 朔
ハイドラント
石原麗子
相田響子
江藤 結花
江藤 泰久
 
 
 

おあとに…
「ゆっくりと春が来ますねー」
 そうか、もう春なのか…
「まだ一月なんですけどね。 …そう言えば、私は未来は見えたりするの?」
 無理だよ、君が見ることが出来るのは空の記憶だから。
「ふーん」
 それと
 このまま進めたら来年度の話しに入りそうなんだけど。
「いいの?」
 さあ。
「…(おいおい)」
 そうそう。
「なに?」
 綾芽を庇護下におくの頑張ってね。
「あう、まだしばらくかかりそう…」
 今回は色々と最終段取りで、失敗したな。
「そう言えば…」
 何?
「体調が悪い時は、ちゃんとおとなしくしないと、色々と支障来すよ」
 …んー、了解ー
(本当に分かっているのかな)
 


今回の色々
 悠朔に父性を 綾香に動の母性を 芹香に静の母性を表現しようと思ったのですがどうかなぁ
 電芹とたけるには第三者視点
 由宇には保護者役

ぼやき
 L悠朔は綾香に告白してないのね、検索しても出てこなかった。


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Ende