独り言7



青春の香り
(2000年2月7日)
今、めちゃめちゃハスキーボイスなのであります。
先週の中頃から、なんだかのどの調子が悪いなぁ~と思っていたのですが… 案の定きました。カゼです。
いえ、巷で流行っているインフルエンザではございません。熱はそんなに出ないし、腹も下らない。ひたすら鼻とのどが荒れまくるという、この研究棟の3階に特異的に広まっている、ごくごくローカルなカゼなのでした。

普段僕は、皆がバタバタ倒れている時にはぴんぴんしていて、誰一人カゼをひいていない時に何の前触れもなく重篤な状態に陥るという、周囲の意表をついた攻撃が得意なのですが… 今回はみんなと仲良く歩調を合わせ、ちょっとだけ安心♪ なんだ。僕だって同じニンゲンじゃん♪

…って、んな悠長なことを言っている場合ではないのであります。
やらにゃならんことは、山ほどあるし、働いた分だけ仕事か減るかといえば、そう一筋縄ではいかないトコロが実験というものの悲しさ… しかし、何とかコナして先へ進まねばならん!! ってことで、クスリ嫌いの僕も、今回ばかりはパブロンをアリナミンで流し込み込み、なんとか持たせたのでありました(笑)

さて、普段菜食主義などを気取っていると、一度気持のタガが外れたが最後、せっせ、せっせと、フセッセーを積み上げてしまうものです。
普段はコーヒーも飲まない僕が、カフェインのどっさり入った栄養ドリンクをシュポシュポ飲んでいるあたりで、既に相当壊れている訳ですが、加えて今日は、「おりゃ~!気合い入れるぞ!」とばかり、夜明けの廊下で独り一服…
…いえ、タバコはやめたんですが… まぁ、気合い入ったとき! 酒が入ったとき! アンド、泣きが入ったときに、ごくごくたま~に、こうやって一服入れることもあるのです。ものすごい久しぶりに吸うタバコは、それはそれは、うまいんですぜ♪ ヘビースモーカーの皆さん、この至極の一本を味わうためにも、禁煙してみません?
(ホントは、カゼの時にタバコはめちゃ不味いんですが…)

しかしなぁ、こうやって煙をくゆらせていると、若かりし日のことを思い出します・・・
あぁ、あの頃はこうやって、無意味に徹夜なぞして実験やってたなぁ~ とか。
懐かしい煙のニオイとともに、青春の日々が次々とよみがえって来ては、薬物使用でミョ~に廃テンションなアタマの中を、ピカピカと駆け抜けて行きます。最近ムチャなスケジュールを組む元気もなくなって来ていた僕も、いつの間にか、まんまとアロマセラピー完了! 瞬間的に若い頃のエネルギーがみなぎってしまったのでした。

おっしゃ~! 気合い入ったじぇ~!
不摂生ついでにカップラーなんかを食って、ほとんど音程がとれないヘタッピな鼻歌を歌いつつ、喜々として実験を再開したのでした。

それにしても、カゼをひいて鼻が利かないと言うのは、時として実験の役に立つこともあるものです。
ロウを溶かすのに、キシレンという薬品を使うのですが、これがまた、結構クサイ。
しかし今日は、ニオイが全く分からないので、この操作、オキラクにこなせちゃいました♪ めでたし!

…と、そこへ後輩の女の子が入ってきました。 もうそんな時間か・・・

「おはようございます♪ あれ、シノンさん、今日ははやいですね~」
「んおっはよぉ~! はははは~っっ♪ 昨日は徹夜しちゃったからね~ん☆」

さわやかな朝なのである。

「そうなんですか~、大変ですね♪ あれ? なんか懐かしいニオイがするな~。何だっけコレ?」

そう言いながら、後輩は部屋を出ていったのでした。

…おっと危ない。
鼻が利かないので気づかなかったが、よく見ると、キシレンが少し床にこぼれていたみたいです。
そういえばキシレンって、構造がトルエンにとても良く似てたんだっけ・・・
知らないうちに多少ラリっていた僕の頭では、なぜか、彼女の青春をうまく想像できないのでした。



フェチとの上手なつき合い方
(2000年2月4日)
…というわけで、ここ一ヶ月ほど、くすぐりに対するテンションが低下していたのである。

こんなHPを作って、剰えこのフェチを日本中に蔓延させてやろうなどという大それた野望を抱いていた自分なのであるが、ふとしたときに、

「くすぐりに感じるなんて、オレってやっぱり、相当ヘンだよなぁ・・・」

と、今更ながら、ミョ~に醒めてしまう事があるのだ。
皆さんの中でも、夜な夜なネットでくすぐりネタを検索したりしている折り、不意にとてつもなく後ろめたい気分に襲われてしまった、という経験のある方は、結構いらっしゃるのではないだろうか。おそらくその感覚と似ているのだろう。醒めている時の僕は、まるで現世の自分を眺め下ろす背後霊にでもなった気分なのである。

こういう低迷期は、小さいときから何度も訪れてきたものだ。 一晩寝れば回復するときもあれば、数ヶ月にもわたって、ローテンションが持続することもある。
そのたび、「くすぐりに対するこの感覚を忘れることが出来たら、どんなに楽だろう!」と思い、フェチのスイッチが入ってしまったこの身を呪うのだが、不思議なことに、しばらく放っておくと再びフェチ心は萌え萌えしてくるのだ。そして、このフェチの再燃には、今まで一度も裏切られたことがない。
(まぁ、だからこそ今僕はフェチな訳だし、この反芻があってこそ、フェチというものは自覚されるものだと思うのだが…)

と言うわけで、フェチなテンションが低下したときには、僕は何もしないことにしている。…というか、こう言うときは自分のフェチに対して嫌悪感さえ抱くこともあるので、敢えて何もする気が起こらないのだ。気力がないときに、ムリに何かをしようとする必要はないだろう。エッチな気持ちが種の存続に直結しない「フェチな性衝動」は、所詮、精神の「道楽」だと思う。楽しみたい時に楽しめれば、それで良いだろう。

(あ、あくまでこれは「フェチ」についての話であり、決して、実生活でやる気がない訳ではありません。お間違えのなきよう…。僕の場合むしろ、実生活の充実とフェチの低迷とは、ピークを同じにすることが多いかもしれません。)

「くすぐりの館」なんぞという、安直ではあるが偉そうな名前をつけたHPを運営しているにも関わらず、このような事を書いてしまうという時点で、僕は管理者失格なのかも知れない。
しかし、こういう風に「ムリをしない」ことは、フェチを長く楽しむための秘訣ではないかと思う。
本館やその他のくすぐりHPに遊びに来るときも、好きなときに来て、イヤになったら勝手に距離を置けばよい。だから、仮に「くすぐりと決別しよう!」と一大決心をしたとしても、それをわざわざ表明する必要はないのではないだろうか。あなたが本当にフェチならば、どうせまたすぐコチョコチョが恋しくなるのだろうし、一度捨てぜりふを吐いてしまうと、復活するのは相当に骨が折れるのだから…
 

…ということで、少しまとまりないが、このところ掲示板にもコメントしなかった言い訳を書いてみました(笑)
多少はテンション戻ってきたのだろうか…?

しかし、カンペキにくすぐりから足を洗えたとしたならば、それはフェチとつきあい切った究極の形と言えるだろうね。それはそれでまた、非常に嬉しいことだと思います。



ルーズリーフのラビリンス
(2000年1月11日)
僕たちの研究室の様に基礎生物学をやっている所では、学生は、一日の大半を「実験」という肉体労働に費やしている。大学院というと、机にかじりついて勉強ばかりしているというイメージをいだかれる方もいらっしゃるだろうが、僕のいる環境は、残念ながらそうではない。理科の時間で見たような実験器具をつかって、なんやかんやとワケわからんもんを測定したり、奇怪な模様をあぶり出してみたり、時にはアブナイ薬品を使って後輩を脅かしてみたりしているのである(笑)
そんな地道な作業の末に得られたなけなしの結果をもとにして、新しい知見を考察し、世に発表してゆく、といのが、僕らの研究プロセスなのだ。

と言うことで、「実験」という呪いの儀式は、非常に大切なのである。
しかし、もっと大切なものがある。それは・・・・・実験ノートだ。
実験は、学生個人個人が勝手気ままに行うものだが、参加することに意義があるのはオリンピックだけで、その詳細を「記録」してこそ、初めて意味のある「結果」として残し、第三者に伝えることができるのだ。
記録すること。これは、実験という事象を形あるものに変換する、とても大切な作業なのである。

こんなワケで、僕は今日もノートに記すのだ。「この恨み、はらさでおくべきか・・・・」(笑)

さてこのように、研究者の命とも言える「実験ノート」だが、その書き方には当然、決まったルールなどもない。だから、ノートの内容は人によって千差万別だ。
必要最低限のことだけを、日付とともにメモ程度に走り書きしておくだけの人もいれば、同じ「表」をつくるにも、定規できち~んと線を引いて3色刷りくらいの豪華版でまとめ上げる人もいる。その人の性格のみならず、実験に対する心構えや、そのときの気分の抑揚までが端的に現れるので、たまに他人のノートを見せてもらうと非常に面白い。
ノートの書き方を見れば、その人の血液型がわかってしまうくらいだ。 例を挙げよう。

まずわかりやすいのはO型。
O型の人のノートは、とりあえず、「第三者に見られるために」作られていない。自分だけが解読可能な象形文字で、最低限のことが書かれているのだ。しかし、重要なポイントはきちんとメモされているし、浮かんだアイデアなどがしっかり書き留められているので、見ているとなんだか、研究に対する情熱を感じてくる。罫線を完璧にムシした筆跡は、幻想的ですらある。

B型はふたつのタイプに分かれる。「こりこりタイプ」と、「なげやりタイプ」だ。
先に挙げた「きち~んと罫線を引く」タイプは、A型か、B型の「こりこりタイプ」だ。先天的に病的な凝り性があるB型は、「ノート作り」というプロセスに生き甲斐を感じるとスゴイ。誰もが教科書と見まごう様な、完璧無比なノートを作り上げる。多色刷りになるのも、このタイプの特徴だ。その緻密さから、一見A型と間違えるが、「作る」ことに満足したB型は、ノートを現場であまり使わないため、ページがキレイなのですぐにわかる。
「なげやりタイプ」のB型は、最初からノートをあまりとらない。とっていても、本人でも解読不能である。

A型のノートは、一番効率的と言えるだろう。
たとえ字はテキトーでも、実験方法・データなどが整然とまとまっており、第三者が見ても、説明ナシで意外にすんなりと理解できる。ノートをおろそかにせず、また依存しすぎもしない。シンプルだがバランスが良いのがA型ノートの特徴だ。
今日の予定、実験記録、さらに明日の予定までがきちっと書かれているノートに出会ったら、それは典型的なA型(しかもAA(笑))のノートと見て間違えないだろう。B型ノートと判別するポイントは、内省や感情的なことがあまり書かれていない点だ。 A型ノートはクールである。

AB型のノート。これも、大きくふたつのタイプに分かれ、その特徴はB型と良く似ている。
一つは、B型以上に洗練された詳細なノートである。後から追加された書き込みが多く、一見雑然としているが、きちんと読み下して行くと、正確に整理されており、清書すればそのまま教科書に出来るくらいの完璧さがある。先天的に頭がキレるAB型は、ひとたび完璧を目指すと恐ろしいパワーを発揮し、たかが実験ノートでも芸術作品になってしまうのである。凝り性な割に飽きっぽいB型のノートが最初の方だけキレイなのに対し、AB型のノートは終始その芸術性が貫き通されているので、区別は割と楽である。
もう一つのタイプは、必要以上のノートを取らないタイプである。AB型はもともと記憶力も良いので、ノートには日付と結果しか載っていない。方法すら書かれていない場合もある。また、まれに、ナスカの地上絵の様な意味不明な図形が書かれていることがあるが、そのナゾを解こうなどというのは愚の骨頂である。こう言うときはまず、5分間くらい本人の顔色をうかがって、ご機嫌ならば素直に質問してみよう。運が良ければ何十分もかけて懇切丁寧に教えてくれるはずだ。
 

半年前くらいの新聞に、キュリー夫人のノートが発見されたと報じられていた。
10年近く使ったノートは、たったの300ページ程度だったという。
シノン式の「実験ノート占い」で判定すれば、夫人はO型、もしくはAB型となるのだが・・・
本当は何型なんだろう? 知っている人いたら、教えてね♪
 

まぁ、こんな感じに分類される「実験ノート」だが、B型である僕のノートはというと、これらの典型からは少し外れるようだ。僕のかつての師匠のノートが「完璧タイプのAB型」だったので、それに触発された「凝り性」の僕は、はじめの頃は「こりこりノート」を作っていた。しかし、すぐに「飽き」が来て、横着しようとすることに・・・

その横着とは、すべてのノートにページ番号を振ることなのである。こうしておけば、同じことを二度書かなくてすむ。実験方法や、材料など、一度書いたものを元にして書くことができる場合は、「~ページ参照。ただし、~を改変」という風に記しておけばよいのだ。これだと、「きちっと記録する」という本来の目的を捨てずに、非常にシンプルに書ける。

・・・・しかし、ここにも落とし穴があった。
年を重ね、いろんな実験をやるようになって、ノートが非常に細分化されてきたのだ。
最近のノートはこんな具合である。

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◎ サンプル
  博論ノート7のp.576で作成した~のサンプルを使用。

◎ 方法
  ノート3、p.112-4と基本的に同じ。ただし、検出には
  番外p.A-21で作成したものを使用(p.512の改変例参照のこと)。

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ノートは至ってシンプルにまとまる。しかし、記すとき、いちいち昔のノートを引っぱり出して、ページを確認しないといけなくなってしまった。結果、ノート書きをするときには、ありとあらゆる過去のノートが机の上に散乱するのである。

これだから、さらなる横着が生まれる。
同じ様な実験が続くときは、「方法は、前回と同じ」、などとなってしまうのだ。
これは確かに、記すときには楽だ。しかし、一度データを整理してみようとノートを開いてみると・・・もうお分かりだろう、、、

「前ページ参照」→「p.~と同じ」→「~参照。ただし●□はp.~に従う」。。。

たらい回しなのである。
自分が築いてきた迷宮に、自らどっぷりとはまりこんでしまうのだ(笑)
これは非常に、効率が悪い。

しかし、そんな僕のノートにも、一つの利点がある。
第三者が見たとしても、よ~くその迷宮を解読して行けば、必ず正確に追試できるようになっていることだ。
記憶力の悪い僕は、過去の自分に何度助けられたことか・・・(笑)
この一点だけは、僕が飽きずに「凝っている」ポイントなのである。
典型的なB型なのだが、それを見破れるのはB型しかいない。
 

最初の扉が開いてより7年・・・ルーズリーフのラビリンスは今宵も果てしなく広がって行く・・・

どうか、火事にだけはなりませんように。アーメン・・・



あけたら閉めよう
(2000年1月10日)
ちょっと遅くなって、今日は成人式になってしまいましたが、皆様、

新年あけましておめでとうございます!

おかげさまで、本館も4回目のお正月を迎えることが出来ました。本館がここまで来られたのも、ひとえに皆様のおかげでございます。
本年も、よろしくお願いいたします。。。

な~どと言ってみたりして、年が明けて2000年、サード・ミレニアムに突入したからと言って、ふだんの生活が大きく変わったかというと、決してそんなことはないのである。正月休み明けの4日、研究室にもどってみれば、修論、卒論の追い込み、博論の仕上げなどで、皆相変わらず忙しく動き回っていた。一応警戒しいていたY2Kも、研究室内では数名のパソコンの時計が1980年になったぐらいで、これと言って大きなトラブルは生じなかったようだ。

研究室内のトラブルで一番問題になるのは、恒温槽(温度を一定に保つ機械)の異常である。
大腸菌を飼う37℃の培養器や、いろんなサンプルを保存してある冷蔵庫。モノによっては-20℃や-80℃のストッカーに入れたりして、大切にストックしておく。冷凍した刺身が美味しくなくなるように、生体試料は、凍結・融解を繰り返すとサンプル自体が痛んで使い物にならなくなる。このため、超低温フリーザーの異常は、何を持ってしても回避しなくてはならないものなのだ。
今回の年越しでは、万が一に備え予備電源を確保して、助手の先生が居残って見張りをしていた。

このように、恒温槽に関しては、研究室の全員が日頃から、停電が起こったり異常が起こったりする事に対してかなり敏感になっている面がある。しかし一方で、そう言ったトラブルが「何も起こっていない」ときの扱いといったら、これがまた人によっては非常にずさんなのである。

例えば、何かの用事があって、後輩に話しかけたとする。たまたまその子は、フリーザーに自分のサンプルをしまおうとしていたところだった。
こういうとき、「ああ、そのことですか~」と対応しながら、手を動かして、とっとと自分の仕事を完遂してくれれば良いのだが、たまに、フリーザーの扉を開けっ放しにしたまま、こっちの話に夢中になってくれちゃう子がいるのだ。こういう子に迂闊に話しかけてしまった自分は、しまった!と後悔するのだが、相手はお構いなしに世間話までし出したりするからたまらない。「いいから、とりあえず、早く扉しめろ(笑)」と言って、その子には二度と恒温器の開閉中に話しかけまいと、心の中で誓うのである。

フリーザーや培養器など、恒温槽の開閉をルーズにすることは、どこかのCMでも訴えているように余分な電力を消費するだけでなく、機器の寿命を縮めることにもつながる。一番直接的には、サンプルの損傷にも繋がるのだが・・・そういうトコロがあまり気にならない人が多いのは、何故なのだろう?

長年研究室にいて思うのだが、このあたりの感覚は、「髪の毛がどのくらいまでのびたら、床屋に行きたくなるか」という問題と同じくらい、非常に感覚的で個人差が大きいものであるようだ。
なにもフリーザーの開閉に限った話ではない。細かいことだが、電気のつけっぱなし、水道の出しっぱなし、ティシューペーパーの使い方など、様々なところで、そういった感覚の差異を感じることがある。

僕は小さい頃、非常に貧しい国で育った経験がある。
突然の断水、停電は当たり前。当然の如く、濁った生水は飲めない。一部の上流階級が浪費の限りを尽くす一方で、貧しい者達は、漆喰でつくった屋根もない小屋に住んでいた。
そのような環境で育ったということと、両親が共に倹約家であったことからか、僕は無意識のうちに、物事の「効率」というものを考えるクセがついていたようだ。 つまり、同じ仕事をするにも、水や電気などのエネルギー、日常的に消費される資源などを極力無駄遣いをしないような手順を無意識のうちに考えており、それを自然に実行しているのである。

例えば、洗い物の仕方がそうだ。実験室にいると、毎日沢山の洗い物に遭遇する。皆、自分でつかった実験器具は当然自分で洗うのだが、面白いことに、その洗い方の流儀は人それぞれでかなりの特徴がある。
そのなかでも一番多いのが、いわゆる「流し洗い」というやつだ。洗い物をはじめるとまず、水、瞬間湯沸かし器のお湯など、とりあえずジャンジャン流しはじめる。そうしておいて、本人は、小さな三角フラスコを一生懸命ゴシゴシと洗っているのだ。この間、流されている水は何の仕事もしていない。すすぎでもないのに、ジャンジャン水を流すことは、「これが洗い物という儀式なんだ!」と自己暗示をかけるだけの役目しか果たしていないのである。

僕はこういう「ムダ」が、生理的に非常に気持ち悪いのである。夏の暑い日に、窓を全開にしてクーラーをかけるバカはいないだろうが、それと同じ感覚だろう。こういう感覚は、育った環境などにより後天的に備わった価値観から生まれるものだと思うが、不思議なことに、そういう価値観はある程度大人になると変わらなくなってしまうものであるようだ。テレビやラジオをつけていないと勉強に集中できない人がいるように、冷蔵庫を開けっ放しにしても平気だったり、水を流しながら洗い物をしたりするのは、その人の生活スタイルの一部として、意識の中に強固に固定されたものなのである。

こういう人から言わせると、いちいち水資源や電力の節約を考えて行動する方が、頭を使う分「非効率的」なのだそうだ。少なくとも僕は、骨を折って面倒な作業手順を考え実行している訳ではない。周りの人にとっては、それは非常に大変なことなのだろうか? いくらカワイイ女の子でも、そういうルーズなトコロを見るだけで一瞬幻滅してしまう僕は、実はビョーキなのだろうか? よく考えると、研究室の中で「流し洗い」をしない人は、僕ぐらいしかいないかも知れない。
 
 「エコロジーなんて、全然興味ない」という人が、僕の身の回りには非常に多いのだが、これも「価値観の違い」という一言で片付けられる問題なのだろう。消費し、お金が巡らないと皆が豊かに暮らせないという、おかしな経済システムの中においては、エコロジーなど諸悪の根元なのかもしれない。また、日常生活でいくら資源の節約をしてみても、ドライヤーを1分間使う方がよっぽどエネルギーを消費しているかも知れないのだ。そもそも、この世界の調和にとって何が正しいのかなど、正確なことは誰も解らないのである。節約が徳だとすれば、僕個人が存在すること自体が、否定されてしまうかもしれない。

それでも、出来る限りのことはしつつ、生きていきたいと思ってしまうのは、単なる自己満足&エゴだろうか・・・
これ、僕にとっては、永遠の課題なのである(笑)

今はとりあえず、「開けた冷蔵庫はすぐに閉めましょう」というスタンスで行きたいと思っている。
 


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