美しき誤解


突然ですが、くすぐりの魔力についてとりとめなく考察してみました(長文失礼致します)。読まれる方の嗜好によっては失礼な内容かもしれませんがご容赦くださいm(__)m。

ずばり、くすぐる側とくすぐられる側の「美しい誤解」が、くすぐりの魅力の本質ではないかと。

わきやお腹や足のうらをこちょこちょしてあげるだけで、いくらでも黄色い声をあげさせることができる。くすぐったがりの人なら、からだから力が抜けてひっくり返ってしまうかもしれない。恋人とか親友が、あなたの指先ひとつで他愛なくふにゃふにゃになって、無邪気な笑顔を見せてくれる。この、そこはかとなく「イケナイ支配欲」がくすぐる喜びかな、と思います。もちろんスキンシップそのもの...柔らかな肌や、その奥でよじれる筋肉の感触とかも嬉しいですけど。
いっぽう、(親密な関係の人から)くすぐられるのは、気持ちいい要素のほうが多いです。最初は「やめろー!」って怒ってても、すぐに「没頭」してしまいます(^^;。あと、くすぐりって愛情表現の面もありますね。誰かが他の掲示板で書かれていたのですが、「彼女にくすぐられると可愛がられてる、愛されてるなーって思う。」と。まさにこれ。さすが「心を開く魔法」と呼ばれるだけのことはあります。
くすぐる側の、ちょっとヒトをオモチャにするようなイタズラ心と、くすぐられる側の「愛されてる!」って「錯覚」?が交錯する危うさこそ、くすぐりの「魔力」だと思うのです。普通のSEXにも通じることかもしれませんが。

ですから、個人的には「本当に苦しい責め」には、あまり興味がないのです。相手も憎からず思っている人でないと...。本当に嫌がってるのをくすぐるのは、くすぐりの美点を消してしまう気がします。
くすぐりって、基本的には相手のからだにかるく触れることであって、肉体的に傷つけることはありません。痕を残さないのはもちろん、しばしば愛撫とさえ見分けがつかなかったりします。それが時によっては、耐え難いsensation を引き起こすというギャップが楽しいんですが(^^)。
親が子どもをくすぐるのは愛情表現だと思います。最近はよくお仕置きに使われたりするらしいですが、それもちょっとしたいたずらへの茶目っ気あるたしなめ...というレベルだと思います。大人どうしの、快楽のためのくすぐりであっても、原点は子どもの頃の平和な遊戯である、と思っています。

ムチとかローソクの痛みを愛に変えるのは、大脳の高度な働きを要します。本来、相手を痛めつけ、傷付ける手段ですから。けれども、くすぐりにはもともと、快楽と苦痛の両方の要素があって、高度にバランスしています。神様がどうしてこんな感覚を人間に与えたのか...。本当に不思議です。でも、人間関係には大いに役立っているのかもしれません。





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