Another Diary

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1997.9.8

中国からの来訪者

 しばらく前に私の勤める会社に中国から鋳造などの技術を学ぶために研修に来ていた方々がいました。5月には全員お帰りになられたのですがそのうちのひとりが帰るにあたって残していった詩をここに紹介したいと思います。

『帰ろう』

日本は、美しい
日本の技術は、進め日本の雨と雪は、忘れることが、できない
ただ
自分の仕事を、持って
自分の国家が、まだまずしくて
自分の心が、あることを、おぼえて帰ろう

 つたない部分もあるとあると思います。
でも‥‥なんか伝わって来るものがあると思いません!?
私は彼らにとっていい思い出になってもらえたら。ただそれだけを思います。



1997.9.7

人類愛の母、この世を去る
 マザー・テレサの突然の逝去の報を聞き、残念な気持ちや悲しい気持ちなどが生まれましたが、いちばんは寂しい気持ちだったと思います。
本当に尊敬できる人でした。私が尊敬できる人として一番に挙げる人でした。いえ、生きている人の中でという条件が付かなければ、今でも一番尊敬できる人です。ノーベル平和賞受賞などで偉業について学ぶ機会が多かったし、日本にも足を運んでくださったりして身近にも感じていたのに、もうこの世にいないのだなと思うと残念です。でも彼女の思いは他の人に伝わっているから大丈夫、人の死を惜しむよりは具体的に募金をするとかそういった行為こそが私のできることかなとも思います。神の愛の宣教者会宛に募金する方法についてWeb上ででも探してみようと思います。(知っている方がいたら教えてください。)
 私は愛に飢えている人の中のひとりだからマザー・テレサの来日時の言葉は耳に心地よいのですが、マザー・テレサだからこそ私たちにこのような言葉をくださるのだけれど、それをそのままに受け取ってはならないのだと思います。心の貧しさ以前に真の貧しさにさいなまれている者を救うことと同列であるはずもなく、彼女の言葉から自分たちは心が貧しいのだ、自分たちも貧しいのだと考えてはいけないのでしょう。
 人に与えることによって逆に相手からや自らの内より与えられるものがあるのならば、何より与えることによって相手が大いに救われるのであれば.....と思います。
でも、人にできることはあまりに大きく、そしてそれに対して自分がさけることはあまりにも小さくて、私にできることはなんだろう。小さな一歩を踏み出したいそんな気がしました。
 この文章は誰かにではなく自分に問いかけながら書きました。


1997.7.13

人は誰でも自分の望むとおりの人間になるのだ

 紫堂恭子さんの作品『星が生まれた谷』の中にあった言葉です。
紫堂さん流の賢者の言葉だと思います。そしてこの世の真理をではないかと。私はその様に感じました。

 そう、人は望んだ通りの人間になるのです。
望めば叶うなどという物語の世界とは違います。努力すれば報われるというのとも違います。しかし、その人が今あるような人間なのは、その人の望んだ姿がまさにそれだからなのです。
 希望を希望で終わらせないように、少しでも頑張れる自分になりたい。
そう思います。(語尾、ちょっと弱いですね



1997.7.6

突然の雨に.......
 それは、スコールと呼ぶにふさわしいものでした。
日曜日の午前中、私は(不健康ながら)椅子に座りMacintoshに向かっていました。すると、突然切妻屋根を叩く雨音が。パラパラ‥パラパラパラパラと、かなり大きな音がしました。これは!? 一雨来たのかな。洗濯物は大丈夫だろうか!?
 そうしてテラスに向かった私を待っていたのは、霧まじりの土砂降りでした。
霧になってしまうくらいの雨。そして風。
近くの中学校の桜は雨風に揺られています。庭の草木を濡らす雨、木々に繁る山々は遠くにかすんでいます。とても幻想的でした。
切妻のトタン屋根を叩く雨音や、テラスのタキロンの天井を叩く雨音も気持ちいい。素晴らしいひとときでした。
 しかし、そんな自然のスペクタクルもわずか30分ばかりのうちに終焉を迎えたのでした。
 さっきまでのバケツをひっくり返したかのような雨模様がうそのように雨足は遠のき、外は明るくなり青空まで見せはじめたのです。そうして、いつのまにか陽射しは夏のものになったのでした。
 7月のとある休日の ひとときでした。




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