濃藍色の闇が、しっとりとその紗幕を世界に投げかけていた。薄い大気が 夜の色に染め上げられる。地上を照らしていた茜色の光輪は、すでに大地の 縁へと姿を隠し、かわって闇の中には、冴々とした銀輪が美しくも儚げな光 をそっと揺らめかせていた。 夜の帳に、ぽつりぽつりと瞬く星々。悠久の時を経て夜天を彩る、美しき 天使の光。和らいだ世界を、静かな時が支配する、夜の刻の訪れであった。 「………お月さまがきれいね」 ため息とともに、小さな声が呟かれる。そっと、かすみは横へと顔を向け た。カールした栗色の髪。赤い帽子。好奇心に輝く瞳は、どこか切なげに瞬 き、じっと、視界を埋める夜空の支配者たる銀輪へと向けられていた。 「……そうね」 わずかに時間をおいて、軽くかすみは頷いた。 色調のコントラスト、および月や星の位置関係は、その時々によって刻々 と変わっていく。どれが美しい配置で、どれがそうでないのかは、実際には 人々の感性に頼ることが多い。万遍不変の価値観や美観といったものがない 以上、『きれい』である、ということの判断基準は曖昧なものとなる。 だが、普通の人間には、そんな判断基準などというものは意味をなさない。 ただ、自分が『きれい』と感じ、『素敵だ』と感じれば、それはその人にと って絶対の判断基準なのだ。 そう、人間、であれば。 蒸気テクノロジーの進化によって生み出された、完全自律人型蒸気。彼女 たちには、彼女たちを作り出した人間たちのような『感性』は存在しない。 ただ、さまざまな知識を学び、経験していく中で、どれが美しくてどれが醜 いか、といった曖昧な基準が培われていき、『疑似感性』といったものがで きるだけである。 だが、所詮、『疑似』である。本当の意味での『美しい』ということを、 彼女たちが理解できるはずはなかった。 はず、なのだ。 だが、由里は確かに『きれい』と言った。人に命令されたからではなく、 強制されたわけでもない。そのようにプログラムされたわけでもないのに、 由里は確かに『きれい』と呟いたのだ。まるで、人間のように。 「……」 かすみは由里に対しての思考を停止した。由里がそう言うならばそうなの だろう。なぜかそのような判断が生まれ、かすみはすぐに疑念をメモリーか ら消去した。彼女自身の思考プログラムに秘密裏に埋め込まれたプロテクト の存在を感知することなく。 うっとり、とした様子で夜空を眺める由里へ、かすみは静かに報告した。 「由里。あと五分で、川崎空港に着陸するわよ」 「ちぇ、もうすぐこんな夜空ともお別れかぁ……残念ね」 さみしそうに呟いて、由里はそっとコンソールに手を置いた。その背後で、 ひどくせっぱ詰まったような怒鳴り声が響いた。 「おおおおいっ! そんなのんきな会話をしてる場合じゃあないだろうっ!? ほ、本当に、無事に着陸出来るんだろうなっ!?」 がくんがくん、と上下左右に激しく揺さぶられる天狼丸のブリッジ。必死 になってコンソールにしがみつきながら、山崎は悲鳴じみた声を上げていた。 赤ランプが激しく点滅し、あちらこちらから異臭が漂う。ときたま、どぉん、 という爆発音とともに、煙が立ち上る。 「確率72.4%」 冷静にかすみは告げた。その数字に、訊ねた山崎の顔がひきつる。 「……な、なんで、この状態で72%もあるんだ……?」 倉庫街脱出時の曲芸まがいの発進が、天狼丸にはよほど応えたらしい。現 在、天狼丸はかなり危険な状態にある。 機体を浮かせるためのガスの詰まった十二の気嚢(きのう)のうち、五つ の気嚢が、脱出の際に破壊した天井の破片によって破けてしまい、中身のガ スが放出されてしまったのである。 しかも、推進力を得るための主機関がすべて停止したうえに、補助機関ま でも調子が悪く、充分な揚力を発生させることが出来ない。さらに、船体の あちこちで、小さいながらも爆発が起こっている。いつ空中分解してもおか しくはなかった。 結局、上空1000mあまりまで達した段階で、天狼丸はかすみや由里の 制御から離れ、暴走を始めたのである。 天狼丸は現在、かろうじて残った気嚢と、かすかに動く補助機関で何とか 揚力を得てはいるものの、ゆるやかに落下を続けているような状態であった。 この状態では、とてもではないが、浅草までは行くことはできない。万が 一浅草にたどりつく前に落ちたならば、帝都の市民が大騒ぎすることは確実 だった。いつ落ちてもいいように隅田川沿いに行くことも考えられるが、現 在の天狼丸の状態では、蛇行する川に沿って飛ぶことも難しい。 そう判断した大神と山崎は、仕方なく天狼丸を他の場所に移すことに決定 した。 最も近く、なおかつ敵の襲撃が来るまでに時間を稼げる空港、ということ で、一時は横浜空港を目指したのだが、とてもではないがたどりつけそうに なかった。そこで、川崎空港へと緊急に着陸しようと、大神は判断したので ある。 川崎空港は、東京空港や横浜空港とは異なり、物資輸送を主点とした港で ある。殺風景な倉庫やパイプで組まれた簡素な待合所があるだけで、夜間の 視認も、小さな蒸気ランプがほんのかすかに灯っているような場所であった。 このように設備が乏しいため、ここに夜間着陸しようとするものは、ほと んどいない。そのためか、航空管制もずさんであり、誘導もない。 だが、大神たちにとって、それはむしろ有り難いことだった。何しろ、軍 の機密の飛行船である。できるだけ人目を忍んで着陸したいところだった。 そして、何よりこの船には、優秀過ぎるほどの航法士と操舵士がいる。彼 女たちには、たとえ視界が0だとしても安全に着陸できる能力がある。川崎 空港を利用することには、問題となる点はなかった。天狼丸の損傷以外には。 「着陸準備。第五、第十一気嚢にあるヘリウム圧力が低下しているわ。左右 バランサーを調整します。 進入角再計算開始――かすみさん、蒸気機関の制御をお願い」 「了解。減速30%、主翼を最大展開」 「――かすみさん。揚力が5%足りないわ。もうちょっと主翼を展開できな い?」 「無理ね。これ以上は展開できないわ。少し速度を上げます」 「アプローチ再計算。高度を300に落として、再度着陸開始ポイントへ戻 って」 「了解」 半分近くの気嚢が破れ、満足な浮力が得られない現在、天狼丸を地上に無 事に降ろすためには、主翼による揚力を得る必要があった。調子の悪い補助 機関をなだめすかしながら動かし、グライダーのように滑空しながら、川崎 空港の小さな滑走路に着陸させる。熟練した飛行士であっても難しいアプロ ーチを、彼女たちは淡々とした表情で行っていた。 「………本当に着陸出来るんだろうな?」 不安をめいいっぱい表現した声で、山崎が呟く。端正な顔を青ざめさせて、 落ち着きなくブリッジを見回す彼に、明るすぎるほど明るい声がかかった。 「ふぁいふぉうふふぇふよっ! やふぁふぁふぃふぁん!」 「……煎餅食べながら言うな!」 上下左右に揺れ動く船内、ぱりぽりぽりと能天気な音を立てておせんべを ほおばっている少女に、山崎は胡乱な瞳を向けた。 「だいたい、この緊急時に、なんでのんきに煎餅なんか食べられるんだ?」 「だって、おせんべ食べないと、力がでないじゃないですかぁ」 当然、といった口調で、椿はがさごそと袋をあさって、おせんべをとりだ した。 「力が出ないと、大変なんですよ? ほら、『食い物のうらみはおそろしい』 って言うじゃないですかぁっ!」 「例えがぜんぜん違っているが、何となく分かる気がする……」 楽しそうにまたおせんべをほおばる椿を見て、山崎は呟いた。ここで椿に 暴れられては大変である。それ以上の突っ込みをやめて、おとなしく山崎は コンソールにしがみついた。 「進入角OK。着陸体勢に入ります」 「速度現状を維持。高度280――270――260――」 「椿ちゃん。念のため、地上部分をスキャン。不審なものがないか、見てお いて」 「ふぁい!」 「180――170――160――」 「全員、ショックに備えてください」 「100―――80―――60――」 「地上部分に怪しいものはありませぇん! だいじょーぶですよっ!」 「OK」 「30――20――10―――着体!」 ドン、という音とともに、天狼丸のブリッジが激しく振動した。ついで前 方に投げ出されるようなショックが全員に襲いかかる。 「エアブレーキ展開。エンジン、フルリバース!」 空気の裂ける悲鳴が轟く。がくがくがくという小刻みな振動が、果てしな く続くかに思われた。だが、それもそう長いことではなく、やがて、静かに 天狼丸は停止した。 「着陸、完了。全機関停止。――川崎空港に着陸しました」 ほう、と、ため息が大神と山崎の口から漏れる。 とりあえず、無事に、天狼丸は川崎についたのだった。川崎空港から車で約二十分。臨海工業地帯からも十分に離れた台地に、そ の屋敷は広がっていた。 派手ではないが、典雅で洗練された造形を誇る、瀟洒な西洋建築の屋敷。 それだけで銀座の二区画から三区画ぐらいはありそうな広大な屋敷の周囲に は、手入れの行き届いた樹々と花壇の並ぶ西洋庭園が、地平線まで広がり、 風光明媚と言っても過言ではないほどの美しい光景を見せている。なだらか に続く舗装された道は、屋敷の手前で、噴水をとりかこむようにカーヴを描 き、広く張り出したテラスの下の車寄せに通じている。 重厚な樫の木の扉。精緻な細工を施された、蒸気ランプ。品のいい花壇に 植えられた、今を盛りと咲き誇る、珍しい種類の花花。 絢爛にして華麗。瀟洒にして豪華。 貴族の館とは、このようなものではないだろうか。 そう思わせるほどの美しさと品のよさを、その屋敷は醸し出していた。 その屋敷の持ち主の名は、神崎忠義。日本はおろか世界にまでその名を馳 せる、一代財閥の総裁であった。 初夏の朝またぎ。 まだ日も昇らぬ午前四時という時間は、静謐な空気ですべての世界を覆い つくし、薄闇の中にまどろむように流れている。 かすかに開かれた窓から流れ込む風は、しっとりとした湿り気を帯びて、 心地よい微睡みにほほ笑む少女の頬を濡らす。切れ長の瞳を縁どる長い睫毛 がかすかに震え、少女は、ほっそりとした指で軽くその目元をこすった。 花びらのように可憐な唇が小さく開かれ、思わず胸を高鳴らせるような甘 い吐息が漏れる。細く柔らかそうな髪が羽根のようにふわりと落ちかかるの を、けだるげに少女はかきあげ、そして、そっとその瞳を開いた。 濃い睫毛の下にゆらめく、しっとりと潤んだ濃茶色の瞳。一度閉ざされた その瞳がもう一度開くと、そこに宿ったのは、知性と意志を感じさせる強い 光だった。 軽く体を動かし、優雅な仕種で掛け物を取り払う。ほっそりとした華奢な 脚がふかふかとした毛足の長い絨毯にそっと降ろされる。小さく欠伸をして、 少女は天蓋つきのベッドから舞い降りた。すべるような足取りで、東側につ けられた出窓へと向かう。華麗なまでの仕種で、少女は窓を開け放った。 地平線を隠す森の樹々の向こう、澄み渡った青空を従えて、輝く光盤がす がすがしい光を投げかけてくる。思わず目を細め、まぶしそうに小さな手を かざして、少女は顔をしかめた。だが、すぐに笑みを浮かべる。 すぅっ、と、少女は大きく深呼吸した。透明な早朝の空気が、胸いっぱい に広がる。気持ち良さそうに、少女は輝くような微笑を浮かべた。大きくの びをして、肢体にたまった眠気を吹き払う。 そして彼女は、左手を腰にあてた。軽く身をそらし、右の手をその可憐な 口元にあてる。 そして、優雅で気品あふれる声が、涼やかな音色で流れ出した。 「おーーーーっほほほほほほほほ ほほほほほほほほほほほほほほほ ほほほほほほほほほほほほほほほ ほほほほほほほほほほほほほほほ ほほほほほほほほほほほほほほほ ほほほほほほほほほほほほほほほ ほほほほほほほほほほほほほほほ ほほほほほほほほほほほほほほほ ほほほほほほほほほほほほほほほ ほほほほほほほほほほほほほほほ ほほほほほほほほほほほほほほほ ほほほほほほほほほほほほほほほ ほほほほほほほほほほほほほほほ ほほほほほほほほほほほほほほほ ほほほほほほほほほほほほほほほ ほほほほほほほほほほほほほほほ ほほほほほほほほほほほほほほほ ほほほほほほほほほほほほほほほ ほほほほほほっのほ〜〜〜っ!!」 神崎家の優雅な一日は、鶏よりも正確で容赦ない目覚ましで始まる……… 「・・・・け、今朝の朝の高笑いは、一段と凄じかったな」 げっそりとした顔つきで夫が呟くのを、雛子(ひなこ)は横目で眺めた。 少女のような口で、小さくちぎったパンを小鳥のようにさらに小さくついば む。優雅な仕種で残りのパンをディッシュへと戻し、そっとナプキンで口元 をぬぐった。 「あら、そうでしたか? いつもと変わらぬ、すみれさんですよ?」 「それはそうだが……毎朝毎朝、なぜあんな高周波の高笑いを聞かせられな ければならないんだか……」 顔をしかめて呟く夫を、雛子は冷めた目つきで見やった。薔薇色の唇が開 き、冴々とした声が放たれた。 「――あなた。あなたはもしかして、すみれさんをお嫌いなの?」 「い、いや、そんなわけはない、そういった意味じゃないんだよ、雛子……」 「ほんとうに?」 「ああ!」 力強く、重樹は頷いた。実際、彼にとって、娘であるすみれほど溺愛して いるものはないくらいなのである。 (少なくとも、ひなよりは可愛いげがあるし……) 「悪かったですわね、可愛いげがなくて」 「ち、ちょっと待て、雛子! 私は何もそんなことは言っていないぞっ!!」 ひどく狼狽して、重樹はあたふたと両手を振り回した。軽く鼻を鳴らして 雛子は冷たく言った。 「あら、そうでしたの? わたくし、てっきりそう思っていらっしゃると思 いましたわ」 「ま、まさか……私は、いまでも君に夢中なんだよ、雛子?」 「あらやだ、あなたったら」 軽く頬を染めて、雛子ははにかんだ。こうしてみると年齢よりも若く見え る。恥じらって身をくねらせる様子は、なかなかに妖艶だったが、重樹は胃 のあたりが重くなるのを感じた。 やん、いやん、と、まるで女学生のように恥じらう妻をげっそりとした顔 で眺めて、一口紅茶を口に含む。思わずため息がもれそうになって、慌てて 重樹はナプキンで口をぬぐうふりをした。 神崎重樹。 世界に名だたる神崎財閥の総帥、神崎忠義の息子であり、やり手の二代目 として日本国内外に恐れられる神崎重工の社長である。格幅のよい体つきを した男であり、その眼光は父親ほどではないものの、充分に知性と教養と、 そして強い意志を持った光を宿している。実際、彼の手腕なくして、神崎財 閥の発展はありえなかっただろう。財閥の母体を作った彼の父、神崎忠義に して、 「まあ、わしの右腕とまでは言えんが、右手の人さし指ぐらいにはなろうて。 ほーーーっほほほほほほほ………(中略)………ほほほほほほほほほほ!」 と言わせしめたほどの男であった。 (ちなみに忠義の本当の右腕は、宮田恭青という) それだけの有能な男である。さぞかし私生活でも夫唱婦随、亭主関白であ るかと思いきや、実体はこれであった。 「――お父さま、お母さま。おはようございます」 我と我が身の不幸を(内心で)嘆いている重樹の耳に、涼やかな声が流れ こんできた。慌てて重樹は姿勢を正し、そして、とろけるような笑顔で愛娘 を迎え入れた。 「やあ、おはよう、すみれ。良く眠れたかい?」 「ええ。とても」 にこやかに、彼の愛娘すみれは答えた。鮮やかな光沢の紫色の着物を、両 肩が露出するように崩して着こなしてはいるが、その上品な顔だちと優雅な 仕種で、むしろオリエント風のローブ・デ・コルテにさえ見せている。彼女 以外には(たとえ雛子であっても)似合うとはいいがたい難しい着こなしで あった。 娘を迎え入れて、神崎家の食事はさらに華やいだものとなった。重樹もほ とんど蕩けるような笑顔で、愛する妻と娘の華やかな会話を楽しんだ。すみ れとともに食事をするのは、仕事に忙しくてなかなか娘に重樹と雛子にとっ ては非常に貴重な時間なのである。一分一秒でも惜しくなり、つい長々とし ゃべっているうちに、ふと重樹は、時間が迫っていることに気づいた。 「いかん。午前の会議に遅れてしまう――すまないな、すみれ。もう少しゆ っくりと話をしていたかったのだが」 「構いませんわ、お父さま」かすかに寂しそうな微笑をひらめかせたものの、 すみれは軽く頷いた。「大事なお仕事ですもの。……いってらっしゃいませ」 「ああ、いってくるよ」 重樹は妻と娘へ愛しさを込めた視線を向けて。頷いた。そして、背筋を伸 ばしてダイニングルームを出ていった。 「ほんとうにお忙しそうですわね、お父さま」 「夕べも遅かったですからね」娘の呟きに答えながら、雛子は重樹の出てい った扉を見つめた。「夕べ、川崎の空港に軍の飛行船が不時着したとかで、 いろいろと大変そうですわ」 「まあ……」軽く目を見開いて、すみれは雛子へと瞳を向けた。 「それでは、夕べの明かりは、飛行船の明かりでしたのね?」 「明かり?」 不思議そうな顔をする雛子に、すみれは微笑しながら頷いた。 「ええ。丁度わたくしが帰宅する途上で、川崎の空港の方に明かりが見えま したの。とても綺麗な光でしたが、なんだかとても危うい気がして……」 ふぅっ、と、すみれは悩ましげなため息を漏らした。その切れ長の瞳が潤 み、まろやかな小さな肩が震える。しっとりとした赤い唇が、可憐なまでに 花開く。うっとり、とした声が、静かにその花弁から流れ出た。 「とても美しいものでしたわ……まるで、群れからはぐれた蛍火のような…… とても、悲しくて、とても美しい、光でしたわ……」 「すみれさんは、とても感受性の強いかたですから……」 優しく、雛子は愛娘の華奢な肩を抱いた。娘に似た切れ長の瞳が、溢れる ばかりの愛情を込めて白い貌に注がれる。まるで大切な大切な美術品に触れ るかのように、注意深く、だがどこか陶酔したような悩ましげな仕種で、娘 の瞳からこぼれる雫をぬぐった。 かすかに、すみれは微笑んだ。白い頬をわずかに赤らめさせて、すみれは 母親の顔を仰ぎ見た。 「お母さま。……わたくし、お父さまとご一緒してはいけませんかしら?」 「……?」 怪訝そうに首をかしげる雛子から目をそらし、すみれは、恥ずかしげに身 をよじった。 「あの……あの、蛍火のような光が、忘れられませんの。何だか、とても大 切なことであるように、わたくしには思われて…… それで、その、飛行船というものを見てみたいのです。 ………いけませんか?」 「そうね……お父さまが、よろしいのであれば、わたくしは構いませんよ? まあ、すみれさんがいらっしゃらないというのは、わたくしには寂しいで すけれど……」 「ごめんなさい、お母さま。愛しておりますわ」 そう言ってすみれは、そっと雛子の頬に花弁のような唇を寄せた。軽くつ いばむようにキスをする。 そして、優雅な仕種で立ち上がると、洗練された物腰でドレスの裾をつま んで礼をし、軽やかに身を翻して父親の後を追って出ていった。 微笑みながらそれを見送り、雛子も静かに席を立った。彼女は彼女で、女 優としての仕事が待ち受けているのだ。 だが、神ならぬ身の彼女には、この日愛する娘を送り出したことが神崎家 全体の運命を左右することになろうとは、知る由もなかったのであった。 「完全自律行動型の、人間と等身大の人型蒸気だとっ!?」 驚愕の声が、朝を迎えた天狼丸のブリッジ内にこだました。 川崎空港の端に設けられた、倉庫の一角。天狼丸を外部の目から隠すため に徹夜でカモフラージュに奔走していた山崎と大神は、ようやく一段落つい たあとで由里たちに事情をうかがっていた。 天狼丸に積み込んであった材料をもとに作られた朝食をぱくつきながら話 を聞いていた山崎がご飯粒と共に驚愕の声を上げるのに、さほど時間はかか らなかった。 「そ、そんなものが存在するのかっ!?」 「……ご飯粒飛ばさないでください、山崎さん」 しかめ面で由里は、飛び散ったご飯粒をつまみあげて屑籠に捨てた。 「それに、そんな大声を出さなくても聞こえます。……んもう、センサーの 感度を下げちゃったじゃないですか」 「ふぉうふぇふよぉ。おふぇんふぇたふぇられふぁいでふぅ!(そうですよ ぉ。おせんべ食べられないですぅ!)」 両手で耳を押さえながらも口にしたおせんべをぱりぽりと器用に食べる、 という妙技を見せて、椿が同意する。その横で、かすみが静かな微笑みを浮 かべて湯飲みを差し出した。 「まあまあ、お茶でも飲んで、落ち着いてください、ね? 山崎さん?」 「……あ、ああ……」 反射的に湯飲みを受け取って、山崎は頷いた。ずずっ、と一口すする。山 崎が黙ったのを機に、大神が代わって由里に訊ねた。 「それでは、君たちは、人間そっくりに造られた人型蒸気なのかい?」 「はい」 「信じられないな……」 腕を組み、眉を寄せて呟く大神の横で、山崎も頷いた。 「全くだ。人間の動きを疑似トレースする蒸気反応基盤搭載のフレキシブル フレームはもとより、蒸気機関および蒸気演算機の小型化、軽量化を計らね ばならない。しかも本来は外部に設置する蒸気漕、燃焼炭漕を、ボイラーと ともに格納する場所も確保する必要がある。あと、蒸気圧調整装置、重力計 測機器と連動した各種バランサーとそれに直結する超小型モーターなども必 要だ。 どう見積もっても、人間のサイズにそれだけの機器を設置する容量がある とは思えないのだが……」 そこでキラリ、と山崎の瞳が光った。どこか熱っぽくいやらしい視線で、 由里たちを眺めまわす。 「……うーん。分解してみた……」 思わず呟いた声が、途中で止まる。ひきっとひきつった山崎ののどもとに 針をつきつけたまま、かすみは優雅な微笑をたたえた。 「申し訳ありませんが、その要望にはお答えできません。もし力ずくでその ようなことを行うと、機密保持プログラムに基づいてあなたの命を奪うこと になります」 「………わ、わかった、わかったっ!!」声を裏返らせて、山崎は頷いた。 「分解したりしない! しないから、その針をどけてくれっ!」 「はい。くれぐれもお気をつけくださいね?」 にっこり、と、大輪の花が咲いたかと思われるような魅惑的な微笑を浮か べて、かすみは袖の中に針をしまいこんだ。ふうっ、と安堵の吐息をつく山 崎を見ながら、由里が言葉を続けた。 「あたしたち蒸気天使は、他の人型蒸気とは異なり、自主的な判断に基づい て行動することが出来ます。それに、人とほとんど異ならない外見ですから、 普通の人型蒸気では入り込めない様々な場所に潜入することもできます。 敵国や重要施設への潜入と諜報活動、要人の暗殺、テロ、軍事施設破壊。 さまざまな用途に、命の危険など無視して使用できる、人間にはない能力を 持った、戦闘用特殊人型蒸気。 ――それが、あたしたちです」 「……」 しばらく、黙って大神は由里たちを見回した。真剣な眼差しが、三人の美 少女たちに向けられる。強い意志を感じさせる、まっすぐな瞳。人の心の裡 にまで食い込んでくるかのような、鋭ささえ感じさせる視線。 静寂がブリッジ内に訪れる。奇妙に緊迫した雰囲気が漂う。椿でさえも、 小さな口元におせんべをくわえたまま、妙に緊張した様子でじっとしていた。 「……君たちが何者なのか、それはよく分かった」 やがて、ぽつり、と呟くように大神が口を開いた。緊迫した空気が、やや 緩和する。ほっ、とした様子で、椿がぱりっと音を立てておせんべを噛った。 「だが、まだ一つ疑問点がある」ゆっくりと、大神は言葉を続けた。「君た ちを作ったのは、どこの組織だ? そして、君たちは何故、その組織から逃 げ出したんだい?」 「それは――」 ためらうように口ごもる由里。それをそっと横目で眺めて、かすみが口を 開いた。 「申し訳ありません、大神さん。それを言うわけには参りません」 「……何故だい?」 「それを聞いてしまったら、もう大神さんたちは、後戻りができなくなりま す。おそらく――よくて、軍からの追放、悪ければ、特殊部隊による暗殺」 「暗殺?――ずいぶんおだやかじゃあないな」 眉を寄せる大神に、かすみは頷いて見せた。 「第15次星龍計画。これだけ言えば、充分でしょう。これ以上は、お聞き にならないほうがよろしいかと」 「な、何っ!? ま、まさか――」 山崎が切れ長の瞳を丸くした。そして、険しい表情と口調で、大神へと向 いた。あせりの色が、その端正な顔に色濃く現れていた。 「おおお大神、すぐだ、今すぐに、こいつらをほっぽり出せっ!! そして とっとと天狼丸を浅草に届けるんだ!」 「どうしたんです、少佐?」 訳もわからず首をひねる大神に、山崎は狼狽もあらわに叫ぶように答えた。 「ばかやろう! 星龍計画だぞっ!? 一介の技術少佐や、士官学校出たて の少尉が関与することじゃない! 下手すりゃマジに、俺たちは東京湾の藻 屑になるんだぞっ!?」 「………」 「冗談じゃない。俺は何も聞かないからな!」 ほとんど恐怖に近い表情でまくし立てる山崎を眺めて、ふう、と一つ大神 はため息をついた。 「それほど危険な計画、というわけか。士官学校出たばかりの俺には、それ がどの程度危険なものかは皆目わからないが………」 「今ならばまだ、間に合います。大神さんが由里に命令してくだされば、そ れで全てが解決します」 「……?」 訝しげに自分を見つめる大神から、かすみはつと目をはずした。ゆっくり とした動作で、お茶を一口すする。それはまるで、心を落ち着けるための動 作にも見えた。 やがて、かすみはひとつため息をついて、話し出した。 「由里および私たちのメモリーにある、大神さんたちに関する全記録の消去。 および由里のマスター登録の初期化。これは、由里のマスターである大神さ んにしかできません。 後は、私たちで判断して行動を開始します。決して、大神さんたちにご迷 惑はかけません」 「………」 大神は腕を組んだ。眉根を寄せ、思案にふける。我慢できなくなったよう に、山崎が怒鳴った。 「おい、大神少尉! 何を躊躇っている!? 早いところ、その命令を出せ! 俺たちが関与していい事柄じゃないんだ! さあ、早くしろ!!」 「………」 「大神っ!」 苛立った山崎が再度声を荒げたとき、ようやく大神は顔をあげた。しっか りとした意志の籠った視線を由里へと向け、大神は静かに訊ねた。 「由里くん。もし俺がその命令を下したとしたら、君たちが安全に逃げられ る可能性はどのくらいある?」 「………」わずかに間をおいてから、由里は答えた。「大神さんたちをお守 りする必要がなくなりますので、可能性は60%まであがります」 「!………そんなに低いのか?」驚きに、大神は目を見張った。「それじゃ、 俺たちがいた場合、君たちが安全な保証は……」 「現段階で48.5%です。組織が大神さんたちも関係者と見なした場合、 40%を切ることは確実です」 「………!!」 「決まりだな」絶句した大神に代わって、山崎が頷いた。「俺たちは、足で まといでしかない。どちらにとっても、ここで別れたほうが得策だろう?」 「………そうですね」 大きくため息をついて、大神は由里を見た。黒い瞳の真摯な眼差しが、由 里を貫いた。 ドキン、と、何かが由里の中で揺れ動いた。奇妙な感覚が、センサーでな い何かに反応した気がした。 だが、それが何かを確かめる前に、すでに大神は命令を下していた。 「由里くん。俺たちに関する全記録の消去、およびマスター登録の初期化を 命令する。実行は、君たちが天狼丸を降りた時点で行うこと」 「………はい、マスター」 神崎重工川崎工場は、川崎空港に隣接する川崎臨海工業地帯にある。蒸気 船、蒸気自動車をはじめとして、工業用、建築用、土木作業用の各種の蒸気 機械を製造するプラントが有機的に結合された、一大コンビナート群。その 一角に立てられた地上2階建ての武骨な造りの建物が、神崎重工川崎工場の 社屋であった。 昨夜連絡した時に指定された時間に山崎と大神が訪れると、ほとんど間を 置かずに、案内のものが現れて社屋の一室へと案内された。 「社長の到着が少々遅れております。申し訳ありませんが、しばらくこちら でお待ち下さい」 丁寧な物腰でそう告げられ、大神と山崎はその部屋にはいった。 簡素ながらも、明るい室内。調度品は実質性と品のよさを兼ね備えたもの が多数用いられ、居心地は満点と言ってもよい。少なくとも、軍の官舎など よりはるかに良い。出された珈琲も、そのようなものに無頓着な大神たちに さえも舶来の逸品であることが分かるほどのものであった。 神崎重工は以前から軍と密接な繋がりを持ち、天狼丸の製造にも、技術支 援をはじめとして様々な援助を行っている。天狼丸の損傷を修復するには、 彼らの協力を仰ぐのが最も適切な方法であった。損傷修復のための資材、人 材、それになにより整備用ドックの借用を求め、山崎と大神は神崎重工の工 場を訪れることにしたのである。 しばしの沈黙が訪れる。防音設備が整っているのか、社屋の外で活動する 工場のまき散らす騒音も、かすかに耳に届く程度になっている。それがむし ろ静けさを増長して、大神たちも黙々と珈琲を口に運んでいた。 (………あれで良かったのだろうか?) ふと、大神の脳裏に、由里たちと別れたときの光景が浮かび上がった。部 屋の静けさがそうさせたのか、あのとき交わした会話までも甦る。 (大神さん………) 天狼丸を降りる前、すなわち、メモリーからの記録消去を行う前、由里は 大神へと振り向いた。明るい栗色の瞳が、わずかに揺れ動いたかのように見 えた。そしてそっと、由里は自分の首に巻かれたスカーフを留めているブロ ーチをはずした。 (……これ、取っておいてください) (え?) 目を丸くする大神の掌に、由里はそのブローチを押しつけた。いたずらっ ぽい表情で、由里は微笑い、ひとつウインクをしてみせた。 (とりあえず、迷惑料、ってとこかな? あたしたちのおかげで、この船も 壊しちゃったし) (そんな、気にしなくても……) 俺は気にするぞ、という技術少佐の声を無視して、大神は由里の手にブロ ーチを戻そうとした。だが、大きく首を振って、由里は受け取るのを拒否し てみせた。 (ごめんなさい。あたしの最後のわがままです。受け取ってください) (だが………) なおも躊躇う大神に、由里は微笑んだ。かすかに寂しそうな表情が、大神 の胸を突いた。 (これぐらいしか、あたしにはできないから、ね?) (………) (じゃ、さよなら、大神さんっ!!) そう言い残して、由里は小走りにかすみたちのもとへと駆けていった。三 人そろって、天狼丸から出ていく。ちょっと寂しそうな椿の顔、おだやかな 表情を浮かべたままのかすみの顔、そして最後に、由里がもう一度、ハッチ のところから顔をのぞかせた。何かひどく心に訴えかけるものが、その美し い顔にひらめいた気がした。 (さようなら、あたしの、たぶん最初で最後のマスター……) それはほんとうに耳に届いたのか。大神自身もよくわからなかった。だが、 問い返す暇はなく、すぐにハッチから三人の蒸気天使の姿は消えうせていた。 (マスター、か………) それは、日本語で言うところのご主人様にあたる舶来語である、と、大神 は聞いた覚えがある。召使を抱えたことも、もちろん召し抱えられたことも ない、平凡な農家の息子である大神には、知識でしか知らない言葉だった。 (あまりいい気分じゃあないな……第一、由里くんには似つかわしくない) わずかに苦笑して、大神は思考を中断した。いまさら考えても仕方のない ことであった。 その時であった。 カチャリ、とかすかな音がして、部屋のドアがわずかに開いた。反射的に 大神は立ち上がっていた。神崎重工の社長、神崎重樹が来たのだと思ったの だ。 だが、部屋に入ってきた人物は、大神たちの予想をはるかに上回るものだ った。艶然とした微笑が、二人の軍人の思考を止めてしまった。 「………あら、あなたがたが、あの蒸気飛行船のかたがたですの?」 紫色の着物って、派手だよなぁ……… 神崎すみれに対する大神の第一印象は、そのようなものだった。
蒸気天使 〜 Steam Angels 〜
第二話「紫の天使」