のゆくえ  -- StarLight Force --
Sakura Wars 2nd Pararel Story.
第一章「花萌える帝都」 第一話


 だいたい、最初から、気に入らない展開だった。
 東洋の端の、辺境の島国。考えるだけでおぞましい『あの男』の国に近づいたときから、腹の立つことばかりだった。

 時ならぬ大嵐に見舞われた海。
 大荒れに荒れ狂う嵐の中、あちらこちらにふらふら、ふらふら、とさ迷う船の部屋で、前後左右上下に大きく揺さぶられること数時間。逆巻く波に翻弄され、ひどい船酔いに苦しめられ、ようやく港に辿り着いたころには、ふらふらになっていた。
 ところが、港についたらついたで、予定よりも十時間以上遅れており、深夜を回った頃合で、ほとんどの交通機関がストップしていた。
 薄汚くてせせこましい港の待合所も早々と閉まっており、深夜の暗闇の中に放り出されて、右も左もわからぬまま、遠くに見える明かりを頼りに適当に歩いたはいいが、どうも道を間違えたらしい。
 ふと気がついて周囲を見渡せば、見知らぬ土地の、人気のない倉庫街。
 しかも、港についたころよりも、さらに激しさをます、暴風雨。
 春雷が轟き、叩きつけるような雨が、横殴りに襲い掛かる。
 念入りにセットしたご自慢の黒髪が、暴れ狂う突風に、まるでもぎ取られるように乱れまくる。
 優雅に差した傘をあざわらうかのように、前から後ろから、横からと、叩きつけてくる雨。
 せっかくのご自慢のドレスが、水を吸って重く垂れ下がり、磨きに磨き上げた玉のような肌に、べっとりと張り付く。
 道路のあちこちに溜まった水溜りが、クツの中まで染みとおり、不快感をさらに増長させる。
 あげくのはてに、差していた傘の骨が折れ、慌てた彼女の手の中から、まるで木の葉のようにくるくると飛び去った後。
 狙い済ませたかのように、突風が、街角に捨てられていたゴミを吹き上げて、彼女の頭にひっくり返したところで――

 ――ソレッタ・織姫は、キレた。

「……ふっざけるなーっ! でーすっ!」
 完全にキレた。
 徹底的にキレた。
 それはもう、キレまくった。
 ゆらり、と、深紅色の光が、彼女の優美な肢体から立ち上る。据わりまくった瞳の先に、しなやかな指先が踊る。まるで見えないダンスを踊るかのように、鮮烈な光の珠が、彼女の周囲を弾みながら疾走し、美しい光の軌跡を描き出す。
「……みんな、なくなるといいのでーすっ!」
 張り上げた声とともに、光弾が乱舞する。
 ひっくりかえったゴミが、散り散りに消滅する。足元の水溜りが、まるで蒸発したかのように消滅する。狭い道の両側に片付けられていた木箱が、轟音とともに破壊される。
 情け容赦のかけらすらない、徹底的な破壊活動が、数秒続いたころ――
「――何してるの、織姫?」
 まるで、地獄の底から響くような、冷ややかーな声が届き、はっ、と織姫は我に返った。
 とたんに、周囲を乱舞していた光の粒子が消滅する。
 おそるおそる振り返った彼女の視線の先に、傘(の残骸)を差した、女性の姿があった。
「……か、かえで、さん……」
 織姫の放った光弾をまともに浴びたのか、焼け焦げたような穴をところどころに開けた、もはや意味をなさないであろうぼろぼろの傘を、なぜか頑なに差しながら、かえでと呼ばれた女性は、にっこり、と微笑んだ。
 ――眼はぜんぜん笑っていなかったが。
(……殺される、かも、でーす)
 ちょっとまずいかも、とびくびくする織姫の様子に、藤枝かえでは、ふぅ、っと疲れた吐息を漏らした。ゆっくりと首を振り、しなやかな動作で、織姫の下へと歩み寄る。
「今回は、夜だし、人通りもなかったからよかったけど……もっと周囲の状況を見なさい、織姫。あんなことをしたら、みんなに怖がられるわよ。化け物だ、なんて言われてしまうわ」
「べ、別に、日本人に、どーいわれようが、わたしは気にしないでーす」びくびくしながらも、織姫は抗弁した。
「……ちょっち、しか」
「……」
 付け加えられた言葉に、彼女の本心が隠れている。思わず笑い出しそうになるのを、かえでは必死でこらえた。しかつめらしい表情を崩さないように注意しながら、かえでは織姫に言った。
「まあ、今回のことは、目撃者もいないようだし、大目に見るわ。だけど今度から気をつけて頂戴ね。いくら私でも、かばいきれる限度、というものがあるのよ」
「……はぁい、でーす」
 しぶしぶながら織姫は頷いた。どうも、この目の前に立つ女性は、織姫は苦手だった。
 柔らかな視線。優しい顔立ち。そして同時に、何か深い傷痕を魂に刻みつけ、いまだに血を流し続ける、哀しいものを背負った、その表情。
(――カグヤを、思い出させまーす)
 かつて、織姫が所属していた、部隊。その部隊を指揮していた、女。
 周囲の人間を、男女の関係なく魅了し、蠱惑していた、女。
 魔性、という言葉がなにより似合う、おぞましい女。
 ……なにより、『彼』を、『彼の心』を奪い去った、憎々しい、女。
 もっとも、目前に立つ女性には、憎しみは感じない。彼女は織姫に対し、最初に出会ったときから親切であったし、瞬く間に意気投合した。芯の強く、間違ったことは間違ったことだとはっきり言い切る彼女の気性は、織姫の好むところだった。
 ……そして何より、今は、彼女の上官でもあるのだ。



「――ところでかえでさん。帝劇には明日行けばいいのですねー?」
 猛り狂う暴風雨から逃れ、タクシーを拾ってホテルに到着した後、チェックインを済ませてきたかえでに、タオルで頭をぬぐいながら、織姫は再度確認した。
「ええ、そうよ」
 こちらは軽く手巾(ハンカチ)で拭いただけのかえでは、明るい笑顔を見せて頷いた。
「もっとも、私のほうは明日からちょっと他の場所に行かないといけないから……あとひと月ぐらいは、帝劇に顔を見せることはできないけれど、ね」
「……そう、ですかー」
「……心細い?」
 くす、と軽く笑声を上げるかえでに、ぷう、と織姫は子供のように頬を膨らませた。
「冗談ナッシングでーす! わたし、子供じゃありませーん」
「はいはい。そうよね」
 織姫の抗議を軽く受け流して、かえではにっこり、と微笑んだ。ホテルの鍵を、織姫に渡す。
「はい、部屋の鍵よ。――それじゃ、明日の十二時、帝劇にいらっしゃい。米田長官には、私から連絡しておくわ」
「……はーい」
 ふてくされた様子の織姫に、再度くすり、と笑みを零して、かえでは踵を返した。その姿がホテルの扉の向こうに消えるまで、織姫はちらちら、と見送っていた。
「……心細くなんか、ないでーす」
 小さく、織姫はひとりごちた。
 ゆっくりと立ち上がる。部屋の鍵と、小さな荷物を手に、ロビーを横切り、階段をめざす。
 ふと、周囲に視線をめぐらす。
「……」
 談笑する、初老の紳士。着飾った婦人。
 忙しそうに行き来するボーイ。生真面目な表情でデスクに向かっている受付嬢。
 ホテルの外側を行き来する、西洋の洋服を着込んだ青年や淑女。その中に、見慣れぬ『キモノ』を来た女性の姿が、ちらほら、と見受けられる。
「……」
 視界に映る、いずれの人も、髪が黒い。
 瞳が、黒い。
 頬骨の出た顔立ちと、小さな身体をもっている。
「……」
 交わされる言葉は、聞きなれたイタリア語ではない。フランス語、ドイツ語でも、スペイン語でもない。オランダ語、ハンガリー語でも、ない。

 ――英語ですら、ない。

「……」
 心の奥底が、なぜか震える。なにか、目に見えない巨大なものが、織姫の全身を覆い尽くすように広がってくる。
 遠く近く、談笑する人々の声が、潮騒のように響き渡る。うぉん、うぉん、と、大きくなったり近くなったり、あざ笑うように騒がしくなったり、陰口のようにひそひそと囁くようになったり。
「……」
 世界が、揺れているような気がした。
 目の前にあるありとあらゆるものが、自分を嘲り笑い、翻弄し、ひどく疎ましそうに遠ざけているような、そんな気がした。
「……ふんっ!」
 ぐっ、と、織姫は荷物を抱きしめた。きゅっと優美な曲線を描く眉を寄せ、鋭い瞳で、にらみつけるように周囲を睥睨した。
 そして、ゆっくりと、階段を踏みしめ、上りはじめた。
 噛み締めた唇から、小さく声がもれる。
「心細くなんか、全然ナッシングでーす……」
 そう。
 なにを恐れることがあろうか。
 この貧相な国で、弱小の小さな島国で、彼女を害するものなど、いはしない。
 彼女は、強いのだから。
「……そう、恐れるものは、何もありません。
 わたしは……わたしは、強いですから。誰にも、負けないですから……」
 脳裏に、『彼』の顔が浮かぶ。
 常に感情を見せず、表情を崩さない、冷徹な顔。
 目に見えない壁を周囲に張り巡らし、あらゆるものを拒絶する、孤高の魂。
「アイツのように……アイツのように、すればいいのでーす。
 それが、わたしたち、星組のエリート、なのですから……」
 ――そうだ。
 わたしは、エリートなのだ。
 たかが辺境の島国の、小さな脅威など、取るに足らない。
 花組だかなんだか知らないが、そんな脅威に怯えているものたちに、遅れをとるものか。
 あなどられて、たまるものか。

「……わたしは強い。わたしは、強い!」

 足を踏み出す。力強く、音を立てて、階段を踏みしめる。

「……わたしは強い」

 一歩を踏み出す。身体の震えをこらえ、さらに一歩を踏み出す。

「……わたしは強い」

 一段を上るたび、織姫の唇から、言葉が漏れる。

「……わたしは強い」
「……わたしは強い」
「……わたしは強い」

 ゆっくりと、ゆっくりと。
 ともすれば震えがちな足取りを、気力を振り絞って無視する。

「……わたしは強い」
「……わたしは強い」
「……わたしは強い」

 一歩一歩、踏みしめるたびに、言葉をつむぐ。
 自分に、言い聞かせるように。

「……わたしは強い」
「……わたしは強い」
「……わたしは強い」

 やがて、目的の階に辿り着く。隙間なくきっちりと敷かれた絨毯を踏みしめ、部屋の前に立つ。

   「……わたしは、強い!」

 大きく息を吸い、織姫は扉を開け、足を踏み入れた。
 勢いよく閉じられた扉は、かすかに、耳障りな音を立てた。



 ……その翌日は、打って変わった快晴だった。
 前の日の大嵐がウソのように、どこまでも晴れ渡った青空が広がっていた。
「……」
 面白くなかった。
 ほんとうに、面白くなかった。
 ぜんぜん、まったく、これっぽっちも、面白くなかった。
 これでは、まるで。
 ――まるで、わたしが来るのを狙いすませて、嵐が来たかのようではないか。
 ホテルから帝劇へと向かう蒸気タクシーの中で、織姫は不愉快の絶頂にあった。
 だが、そんな彼女の神経を逆なでするものがいた。
「……いやあ、ほんと。昨日の嵐はひどかったですなぁ」
 のんびりとしたお気楽な口調で、タクシーを運転していた運転手が、世間話をはじめたのである。
「まるで、何か不吉なものがやってきたかのようで……うわっ!」
「黙るがいいでーす!」
 考えたくないことそのものずばりを、言い当てられた感じで、思わず織姫は運転席の背もたれを思い切り蹴飛ばした。
「……お、お客さん! 暴力はいけませんよ!」
 思わず悲鳴をあげる運転手に、織姫は不快そのものの視線を突きつけた。とげとげしい口調で問い掛ける。
「……昨日日本についたわたしが、不吉の前兆だ、とでも言うですかー?」
「い、いや、それはそんなことは……」
 慌てて運転手は首を振った。さすがに話題がまずかった、と顔をこわばらせる。別の話題を慌てて探し出す。
「そ、そういえば、お嬢さん。帝劇には何の御用で? 春公演は一週間前に終わってますし、夏公演まではあと二ヶ月ぐらいありますよ?
 今は休演期間で、売店とレストランぐらいしか開いていないんですが」
「……」
 黙りこむ織姫の様子に、だが、先ほどまでの険悪感が消えた、と見て、運転手は話題を続けることにした。
「まあ、あそこのレストランは、銀座でも一、二を争うほど美味しい食事を出してくれるし、運がよければ、帝劇・花組の華やかな女優たちの艶姿を拝見することもできる、ってんで、休演日でも人気ですからねー」
「……」
「でもまあ、これは噂なんですが、花組の女優さんたちは今、里帰りをしているとかで……ええと、さくらさんとアイリスちゃんぐらいなら、運がよければ会えるかもしれませんけれど、ね」
「……」
 黙りこんだままの織姫の様子に、運転手は安堵したのか、ちょっと質問を投げかけた。
「お嬢さん、帝劇の誰のファンですか?」
「……」
「私はねえ、やっぱりさくらさんですかねぇ」
 てへへ、と、年甲斐もなく運転手は照れたように頭をかいた。
「そりゃあ、帝劇トップスタァのすみれさんの煌びやかさも、マリアさんの凛々しさも、カンナさんの力強さと明るさも、紅蘭さんのお茶目さも、アイリスちゃんの可憐さもいいんですが。
 何と言うか、さくらさんには、花というか、輝きがあるんですよねぇ。
 あの、ひたむきさ、って言うんですかねぇ。何事にもまじめに取り組もうとする健気な様子と、舞台にあがったときの、輝きぶり。
 ――みょうなものですけどね、さくらさんが舞台にあがった瞬間、どうしても、視線がそっちにいっちまうんですよ。まあ、私だけでしょうけどね」
「……」
「いやあ、あれは天性の女優、ってやつなんでしょうかねぇ。心の美しさというか、清らかさというか、そんなものが滲み出てきていて。
 絶世の美女、ってのは、もしかしたら、姿かたちだけでなく、さくらさんのように、内面の輝きさえ持っているものなのかもしれませんねぇ。
 ……って、いけねぇいけねぇ。柄にもないことを言ってしまいましたねぇ」
 さすがに照れくさくなったのか、運転手はそういって赤くなった頬をぽりぽりと掻いた。
「……ふん。絶世の美女なら、す・で・に! あなたの後ろに、いるでーす!」
 かすかに鼻を鳴らして、織姫は言った。
「まったく、日本のオトコは、見る目ナッシングでーす!」
「い、いや、もちろんお客さんは、美人ですよっ!」
 慌ててフォローする運転手を、織姫は不信感いっぱいに睨み付けた。
「口先だけで言い訳するなんて、サイテー。これだから日本のオトコは嫌いでーす!」
「いやこりゃまいったな、あははは」
「笑ってごまかすのも、サイテーってカンジ」
 つん、とほっそりした顎をそらす織姫の様子に、苦笑しながら運転手は言葉を続けた。
「まあ、許してください、お嬢さん。お嬢さんみたいな若くてきれいな子を乗せて、ちょいとばかり浮かれて調子に乗ってしまったんですから」
「……ふん」
 だが、織姫の不機嫌な様子はあまり変わらない。そこで運転手は、奥の手を出すことにした。普通の少女であれば、絶対に機嫌を直す、とっておきの言葉を。
「いやでも、お客さんも、ほんと綺麗ですねぇ。まるで舞台女優のようですよ。最初に乗せたときには、今をときめく銀幕のスタァか、はたまた帝劇の輝ける大女優か、と思いましたからね」
「……当然でーす」
 そっぽを向きながら、織姫はむぅ、とした顔で答えた。
「わたしは、ソレッタ・織姫。世界に名だたるローマ大劇場で、主役を何回も演じたことのある、大女優ですからー!」
「……ろぉま、ですか?」
 だが、あいにくと、運転手はローマなるものは知らなかった。知っているのは帝劇か、浅草の演芸場、街角の喜劇、寄席ぐらいなものである。典型的な江戸っ子である彼にとって、ローマもロバも、区別できないものだった。
 それでも、何となく、すごいものだということはわかったので、いささか大げさに驚いて見せた。
「そいつはすごいですなぁ。いやまったく、御見それいたしました。そんなかたを乗せていたとは露知らず、申し訳ありませんでした。あなたのような超一流の女優さんを乗せられるなんて、光栄の至り、ですなぁ」
「……最初っから、そう素直ならいいのでーす」
 ようやく機嫌を直したように、織姫は正面へと向き直った。少々高慢だが魅力的な微笑を浮かべて、織姫は、偉そうな態度で運転手に告げた。
「いいですかー? わたしは、世界のちょー一流の劇場で、ちょー一流の役者たちと競い合い、栄光を勝ち取ってきた、ちょー、ちょー、一流の、ホンモノのスタァなのでーす!
 そのわたしを乗せているのですから、光栄に思うのが当然なのでーす!」
「いやまったく」
 相槌を打ちながら、ふと、運転手は気づいた。
 それほどの女優が、帝劇に行こうとしている、ということは……
「……それじゃあもしかして、お客さん、帝劇の舞台に、立たれるので?」
 訊ねた運転手に、鷹揚な仕草で、織姫は頷いて見せた。
「そうでーす。世界の頂点に立つ、超一流の女優の演技が見られるなんて、この国の人々はみんな、わたしに感謝するがいいですねー!」
「……は、はあ……」
 何となくどもりながら、運転手は頷いた。
 よくわからないが、とにかく自信だけは超一流の女優を乗せて、蒸気タクシーは銀座の町並みを抜け、やがて帝劇へと到着した。



 帝都銀座に建つ、大帝国劇場。
 どっしりとしたビクトリア調の巨大な建築物であり、銀座の一区画を丸ごと占領した、荘厳ささえ感じさせる建物である。ややくすんだ石造りの外壁は、様式美とともにある種の風格さえ漂わせて、銀座の町並みに溶け込んでいる。
 だが。
 本場のヨーロッパの劇場、長い年月を経てきた本物の風格を醸し出す、数々の名劇場を見慣れてきた織姫には、帝都市民が誇りにしているその劇場も、単なる物まねにしか見えなかった。
 むしろ彼女にとっては、タクシーの窓から見えた、テンプル……増上寺や築地本願寺のほうが、感慨深いものを感じたものである。
「……なんか、サイテーってカンジ」
 ふん、と鼻を鳴らして、織姫は大帝国劇場へと足を踏み入れた。
 見上げるほどに高い天井を持つ、正面ホールにすすむ。西洋文化を必死に取り入れ、真似ているのがありありとわかる、螺旋階段や巨大な円柱をじろじろと見渡す。一種の荘厳ささえ感じさせる風合いのホールだが、特に感銘を受けることもなく、織姫はすたすたと歩いて、小さな売店へと歩み寄った。
 売店の中で、忙しそうに商品を陳列していた少女が、気づいたように織姫に向き直る。そばかすを散らした、ちょっと可愛らしい雰囲気の彼女は、戸惑ったように織姫に問い掛けてきた。
「あ、あの……えーと、はお・どぅゆどー、の、ですか?」
「ニッポンゴをしゃべるでーすっ!」
 思わず叫ぶ織姫に、きょとん、と売店の少女は目を丸くした。数瞬、視線が宙をさまよう。
 そして、ぽん、と手を打つと、少女はにこやかな笑顔を浮かべた。
「ごめんなさい。日本語、大丈夫なのですね? えーと、それで、何の御用でしょうか」
「わたしはソレッタ・織姫いいまーす。米田支配人のところに案内するでーす」
「ああ、本日いらっしゃる予定の、新人さんですね?」
 少女の言葉に、かすかに織姫は眉をひそめた。
「『新人』ではないでーす。わたしは舞台経験豊富な、スタァでーす!」
「あ、いえ、『新しく来た人』という意味ですから」
 慌てて説明する少女に、ふぅん、と織姫は気乗りしない答えを返した。
 高村椿と名乗った少女に連れられて支配人室に向かう。
 だが、部屋に入った瞬間、そこらじゅうに漂う酒精に包まれた初老の男の姿に、思わず織姫は顔をしかめた。
「な、なんですかー、この酔っ払いはっ!?」
「あ、あの、酔っ払いじゃなく、米田支配人です」
 ひそひそと囁くように説明する椿をよそに、織姫は眉をはねあげたまま、ずかずかと机のところに近づいた。
 ぐい、と身を乗り出すようにして、彼女たちをほったらかしにして杯を傾けている、米田と呼ばれた男に声を叩きつける。
「ソレッタ・織姫。本日付で大帝国劇場・花組に着任したでーす!」
「聞こえているぜ、織姫」
 かすかに酔ったような声で、米田は答えた。にやり、と大きく唇をゆがめる。
 瞬間、米田の雰囲気が一転した。
 冷ややかな、魂の奥底さえも凍えさせるような、強烈な殺気が、いきなり織姫に吹き付けてきたのである。
 皺深い瞳の奥に、爛々と輝く光。強烈な視線が、そこだけまるで酔いを感じさせない鋭さで、織姫に突きつけられる。
「……!」
 思わず、織姫は身をのけぞらせた。
 まるで、抜き身の刃を突きつけられたような気がした。
 目の前の小柄な男の姿が、ひとまわり、大きくなった気がする。たゆたう酒精の中、まるで研ぎ澄まされたナイフのような殺気が、織姫の全身に緊張を走らせた。
 思わず、しなやかな指が震える。深紅色の光の珠が数個、彼女を守るかのように周囲を飛び回り始めた。
「――ま、今後ともよろしくな」
 のんびりした声に、まるで霧が晴れるかのように、米田から立ち上っていた殺気がふうっと消えうせた。ちびり、ちびり、と杯を傾ける米田の姿は、数瞬前となんら変わることなく、織姫の前にあった。
「……」
 絶句する織姫に、米田はかすかに苦笑を浮かべた。ぐい、と杯を乾すと、米田は、あごで扉を指し示した。
「もう少ししたら、歓迎会をやる。椿に案内させるから、先に部屋で荷物を置いておいてくれ」
「……」
「返事くらいしろや」
「……は、はい! 了解しました!」
 思わず背筋を伸ばし、答礼して……ようやく、織姫は気づいた。
 目前の老人が、にやにやと人の悪い笑みを浮かべていることに。
「……」
 くっ、と織姫は唇を噛んだ。
 試された。自分の力を、試された。
 目の前の老人は、視線だけで、織姫の力を試したのだ。織姫の力を試し、さらに、自分の力を見せ付けた。彼女の実力を測り、自分と彼女の立場、力関係を、無言のうちに突きつけたのだ。
 世慣れた対応だった。外見や年齢、階級よりも、実力を重んじている、織姫の性格を見抜いていなければできない、対応だった。
(……かえでさん、ですねー?)
 脳裏に、微笑する女性の姿が浮かび上がる。米田に自分の性格を伝えたのは、間違いなく彼女だろう。
「……そう悔しそうな顔をするねぃ。織姫」かすかに苦笑を浮かべながら、米田はなだめるように言った。「俺の殺気を感じ取り、すぐに対応する反射神経……さすがは元星組『深紅の舞姫』の織姫、だな」
「……」
「まあ、今後は俺に従ってもらうわけだから、試すぐらいは許してくれや」
「……日本のオトコ、小ズルいでーす」
 不貞腐れたように呟く織姫を見て、米田は軽く笑った。



 その日は、織姫にとって不機嫌極まりない日となった。
 不貞腐れたまま参加した歓迎会で、直属の隊長となる人物と出会った。
 大神一郎、と名乗った青年は、感じのよさそうな笑顔で、織姫に挨拶したものだが……
 日本の男、というだけで、織姫は、不快感を抑えることができなかった。
 ここは日本なのだから、当然といえば当然なのだが、それでも、エリートであり世界的なスタァである自分を、ただの日本人が指揮するなど、分不相応にもほどがある。
 だいたい、自分のような有能なものを指揮できるほどの実力が、この男にあるのかどうか。
 値踏みする視線を向ける織姫に、大神は、ややぎこちない笑顔を浮かべた。
「まあ、織姫くんも日本に来たばかりだし、いろいろとわからないこともあるだろう。何かわからないことがあったら、遠慮なく言ってくれ。親身になって世話をするよ」
 ――その言葉に、カチン、ときた。
 織姫の裡から、不快感と嫌悪感が、みるみるうちに湧き上がってきた。
「……ふーん、親身?」
 自分でも驚くほど冷ややかに、織姫は答えていた。
「親身って、なんですかー? わたしに親切にして、何がほしいのですかー?
 わたしの信頼?
 わたしの感謝の言葉?
 ……それとも、わたしの、キスでもほしい、というのですかーっ!?」
「……えっ!? そ、そんなことは……」
「わたし、もうお部屋に帰らせてもらいまーす!!」
 戸惑った様子の大神たちを置いて、織姫は楽屋を飛び出していた。
 足早に、階段を駆け上がる。
 むかむか、と、煮えくり返るような黒々としたものが、織姫の裡に渦巻き、思わず織姫は吐き捨てるように呟いた。
「親身になって、世話、する?」
 くるり、と身を翻して、踊り場を駆け抜ける。
「親身になって世話をして……そして『あの男』のように、飽きたら捨てる!
 それが、日本の、オトコでしょーがーっ!」
 織姫の脳裏に、悲痛な表情を湛えた女性の姿がよぎる。
 ポートレートを掻き抱き、毎晩毎夜、泣き崩れる女性の姿が、脳裏に蘇る。慟哭の悲鳴が、響き渡る。
 ……愛する男に捨てられた、みじめな女の末路……その、悲しき姿が、織姫の心を苛む。
「……日本のオトコ、大嫌いでーす!」
 ぐっと唇を噛み締める。そうでないと、また駄目になる。心に築いた壁が、感情の嵐に崩されてしまう。
 軽く首を振って、哀しき情景を追い出した織姫の耳に、たたた、という足音が聞こえた。
「……待ってくれ、織姫くん!」
 なんていまいましい。
 内心で舌を鳴らしながら、織姫は振り向いた。その瞳に、追いかけてきた青年の姿が映った。
 天を衝くような、短い黒髪。切れ長の、強い意志と信念を感じさせる瞳。若さと強靭さを兼ね備えた、すらりと伸びやかな長身。
 沈着さと勇猛さをあわせて感じさせる、若狼のような青年。
 強い光を宿す瞳が、まっすぐに自分に向けられる。
「……あら、少尉さん? わざわざ追いかけてきたですかー?」
 唇を曲げ、不快感をあらわにして、織姫はきついまなざしで青年を迎えた。
 その織姫に、大神は、軽く息を整えて答えた。
「あたりまえだろう。今日から君も、新しい花組の仲間なんだから」
 真摯な視線が、織姫の心を突き刺すように向けられた。
「織姫くん。なぜ機嫌を損ねたのか、俺にはわからないが――いきなり怒っていなくなったりしたら、みんな心配するよ」
「……」
 心配?
 心配だって?
 青年の言葉を内心であざ笑いながら、織姫はすげない口調で告げた。
「少尉さん。間違わないでほしいんですけど。
 わたしは、花組の『仲間』になったつもりは、ありませーん!」
「……え?」
「だいたい、『仲間』どころか、みなさんはわたしの引き立て役にすらなりません。
 実力が、違いすぎるのでーす。
 いいですか、少尉さん。くれぐれも、わたしの邪魔をしないでくださーい!」
「……」
 呆気に取られた風情の大神に、織姫は背中を向けた。そして足早に、自室へと駆け込んだ。
 ばたり、と扉を閉める。
「……そうでーす。『仲間』なんて、必要ないのでーす」
 呟きが、織姫の唇から零れ落ちた。
「だって、『仲間』は――いつも、わたしを、裏切るですから……」



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