空が鉛のようにどんよりと曇っていた。
確か昨日は雨だった。履物がぐっしょりと濡れて歩きにくいこと此の上ない。
しかも、この生暖かさ。恐らく霧が発生するだろう。
一度霧が出ようものなら、この箱根の山は視界が全く利かなくなる。
空は霧が立ち込める予感めいたものを旅人に齎した。
迷ったら大変だ。神隠しに遭う前に人里に入らなければ‥‥と。

すぐに濃霧が箱根を覆った。
霧と言う名の魔物が山全体を食らってしまったようだ。
一寸先も見えない。

そんな折、一人の男が山の方角から路を下ってきた。
霧の中でも視界が利くのだろうか。
一里先まで見えるかのような足取りで、砂利を踏みしめる。

霧の向こうに茶店が見えた。
普通なら見えない。
普通の人間の、普通の視力なら。
その男は茶店の前で足を止めた。
わびさびとはあまり縁のなさそうな男だった。
腰帯に差した黒鞘はあまり高価な品物には見えない。漆などとうの昔に剥げ落ちて、
所々大きめの瘡も見える。
ただし中身のほうは違っているようだ。
勿論鞘に納まっている状態で刀身など見える訳もないのだが、鍔と鞘の間から奇妙
な気配が滲み出ている。気配としか言い様がない。それに長い。
男のほうはと言うと、こちらも明らかに普通ではなかった。
編笠を深めに被り、藍色が色褪せて暗い灰色になった着物と袴。
男の発する気配は腰のものと同等か、それ以上。これは見るものが見れば、という
ことではなく、生きる者全てが見出すことができる共通の気配かもしれない。
恐怖を促す気配。
殺気。闇。無。負の世界が凝縮したような気配をその男は発していた。

「寄っていきなされ」
その茶店を守っていたのは腰が随分曲がった老婆だった。
老婆は恐れることもなく、あるいは、その男が来るのをわかっていたかのように声
をかけた。旧知なのか、あるいは歳のためか。
もう何も恐れるものなどない歳になってしまった故なのか。
事実、老婆の声にはあまり感情というものが含まれていなかった。
「焙じ茶を所望したい」
「焙じ茶だけさ」
「饅頭もあればうれしいが」
「干柿しかないよ」
「‥‥干柿は好かん」
その男は路に面した古い丸太に腰をおろした。編傘も脱がず腰のものもそのまま。
店の前に置かれた椅子は壊れていてとても座れる状態ではない。風化したような痛
み方だった。
暫くすると老婆が現れた。細い手に小さめのお盆。湯呑みと干柿がのった皿。
湯呑みにはきちんと蓋がしてあり、皿にはきちんと匙が乗っていた。
使い込まれた陶器だが、かといってそれほど安物にも見えない。
「客に出していいのか?」
「置物になるよりはマシさね」
「干柿は無用だが」
「少しは栄養とらにゃいかんぞね」
「‥‥ありがたいことだ」
少し細めの湯呑みを右手に持ち、左手を底に添えるその男。
その場にも、本人の体裁にも、あまり似付かわしくない作法で焙じ茶を嗜む。
やはり編笠で顔はよく見えない。
ただ、その男の発する気配とは裏腹な立ち居振る舞いは、老婆が失った感情を少し
だけ甦らせることには成功したらしい。
かなり熱めの茶だったはずだが、その男は最初に一口含むと、後は一息で飲み干し
た。それもわかっていたらしく、男が湯呑みを横の丸太に置く前に老婆がそれを受
け取る。
そして、いかにも不味そうに干柿を喰らう男に老婆も興味がわいたようだ。
「お前さん、何処に行きなさるんかね」
「江戸」
「‥‥あれはお連れさんかね?」

霧が揺らいだ。
錯覚かもしれない。
しかし、霧の粒子が密度を上げたような感覚。
極低気圧が及ぼす酸素欠乏的眩暈。
老婆は涼しげに呟いた。
「迷い人のようじゃの。心ここにあらず、じゃ」
何かの気配を察して言ったのか?
異常が日常であるかの如き気配を漂わせる、その男の影響なのか?
「今日は店じまいじゃな」
「すまないが茶をもう一杯所望できないかな。干柿の後味が‥‥」
「煎れるまでに終わるかの?」
「連中次第さ」
老婆が湯呑みを受け取り、店に姿を消すと同時に、路に影が揺らいだ。
霧は相変わらず。

霧が揺らいだ。
今度は普通の人間でも認識できるほどの揺らぎ。
それはまるで日中に亡霊が現れたようなものだった。
つまり、その揺らぎは、なんとなく人の形をしていた、ということ。
陽炎のようにゆらめく人影らしき“影”。
編笠を深く被ったまま、その男はゆっくりと立ち上がり、そして影に対峙した。
影は相変わらず揺らめいたままだが‥‥ゆっくりと形を取り始めた。やはり人型。
男の汚れた藍色とは違って、影が纏っていたのは闇のような完全な黒。
影は全部で四つ。
「箱根には何用だったのですかな?、氏綱様の巡礼ではありますまい」
影が言葉を発した。
言葉も心なしか揺らいでいたような感じだ。
「ご返答をいただきに参りました。あのお方はあなた様がお越しになるのを随分長
 いことお待ちになっております」

四つの影は四方に展開した。
二つがそのまま。二つが後方へ。編笠を被った、その男を取り囲むように。
「何故躊躇うのです?‥‥あのお方のお力をあなたも享受することが‥‥」
「狂言なら上方でやれ」
「我々には賛同していただけない、と」
「妖怪坊主の一件かね?」
「‥‥‥‥‥」
「茶坊主、と言ったほうがよかったかな?」
「殺れっ!!!」
背後から襲いかかる二つの影。
二つの短剣を交差させ、身体を丸めて怪鳥の如く空に舞い上がる。

キン‥‥

木漏れ日が復活したのか、と錯覚する。
影の頭領らしき男が一瞬目にした銀光。
その楕円の軌跡には宙に舞った忍びがいた。

バサ‥‥

短剣の柄を握り締めたまま、忍びの二名は事切れていた。刃ごとスッパリと二等分
されて。
目の前にいた二名は、無論動くことすらできずに瞬殺された。
霧すらも切断する剣技。
ただ、その男は見えない太刀筋を披露している間も、路なりの雑木林に目を向けて
いた。
霧で隠れた、その向こう側に何があると言うのか。

サ‥‥

緩やかな風が吹く。
霧が一瞬晴れた。
霧の合間に見えたもの。
それは、やはり人だった。

「お久しぶりですね、兄者」
「‥‥‥‥」
「腕を上げましたか。新陰流ではありませんね?」
霧が産みだした人影。
兄者、と言うだけあってか、その男と極めて似通った風体をした青年だった。
編笠も同じ。ただ、着たきり雀と卸したての違いが明確だ。刃のような鋭い剣気の
その“男”とは違い、春風のような爽やかな気配を醸す青年。

「生臭坊主の使いかね?」
「始祖様です。兄者だから話すのですよ」
「ほう」
「我々は全能ではありません。出来ないことは補完しなければなりません。我等、
 柳生一族のために」

青年は柳生一族と名乗った。
始祖は柳生石舟斎のことを指す。
青年はその男を兄者と呼んだ。
つまりその男も柳生ということなのか。

「ただ、一部にこのような分子がいたのは心外でした。消す手間が省けましたよ」
「風魔だろ?」
「気付きましたか。流石は‥‥」
「風魔には百合姫という当主がいたはずだが?」
青年の後ろに控える二人の男たちをちらっと見つめる。
なにかに取り憑かれたような目つきをしている。だが決して腑抜けになっている訳
でもなさそうだ。
そういう意味では先に倒された四名もそうだったが‥‥彼らは決して腕が悪かった
訳でもなかった。そこいらの剣術指南などよりは遥かに上の凄腕に属したはず。

「年齢を超越した美の具現者です」
「まだ子供だよ」
「兄者のことも話しておきました。随分と興味を示していました。会ったことがあ
 るそうで?、先代当主の小太郎殿を倒した折りに?」
「‥‥どうだったかな」
「彼女が兄者に興味を示したのは、女として、だと思いますよ。兄の小太郎殿を殺
 されておきながら、女の性には勝てませんか。あるいは憎悪が欲情に変わったの
 でしょうか?‥‥それとも兄者が目覚めさせた、とか?」

その男の周囲に、それまでの殺気を凌ぐ気配が立ち上がった。
春の気配を漂わせていた青年も、一気に冬に逆戻りしたような表情を見せる。
「龍の逆鱗に触れてしまったようだ」
「他に伝言はあるかね?」
「退散しましょう。気が向いたら来てください。叉十郎ほど聞分けがない方だとは
 思えませんからね、兄者は」
「気は向かんさ。だが行く事にはなるだろうよ」
「‥‥‥‥‥」

影が再び揺らめく。
そして消えた。
影が消えると、霧までも薄れていくような気がした。
あるいは彼らを導くために、その霧は発生したのかもしれない。

涼しげな風が箱根を奔った。
もう霧は完全に晴れたようだ。
陽が差し始める。
すると今までの鉛色の景色が嘘のような美しい景色が広がった。
後ろには新緑の山並み。
前方は下り坂。その向こうに町並みが見える。
その向こうには海が見えた。
小田原の海だ。

「おや、終わったようじゃの。焙じ茶はどうするね」
「頂こう」
再び丸太に腰を下ろす。
小鳥の囀りが聞こえてきた。
水の音も聞こえる。
近くに小川でも流れているのか。
山の声に暫し身を委ねていると、老婆が再び姿を見せた。
焙じ茶の入った湯呑みを二つ。
そして自分も丸太に腰掛ける。
「姫様がおらんようになって、風魔もすっかり箍がはずれてしもうたようじゃ」
「いつからだ?」
「桜が咲く頃だったかの。一人の若武者がきてからじゃの」
「さっきのヤツか?」
「いいや。女子のような優しげな顔しとった。ああ、女子かもしれぬな。まるで
 桜の精霊のようじゃったな。風神の化身とも云われた姫様が、まるで魂を抜か
 れたように‥‥」
「‥‥二刀を使うヤツか?」
「そう言えば、脇差が妙に長かったような‥‥うむ、青い鞘だったの」
「伊織、か‥‥」
深く被っていた編笠を少し上げる。木漏れ日を確かめるかのように。

木漏れ日の向こう側。これから向かうであろう路から、今度は旅人らしき二人組
が向かってくる。
商人ではない。明らかに武士だった。
その男の前で止まる。

「客が多いな、今日は」
今度は殺気が感じられない。顔見知りのようだ。
「お迎えにあがりました」
「急ぎかね?」
「事態が悪化しました。御館様は城内に於て“陣”を構えております。あろうこ
 とか、始祖様が復活されて‥‥」
「らしいな。叉十郎はどうした?」
「宗冬様は‥‥」
「?」
「遺言がございます」
「‥‥そうか」
「ただし随伴した裏柳生が今際に残したもので、正確なものかは‥‥『我、月影
 の呪詛を受けし者の業により朽ちん。彼の者ども、外道の威をして生ける者全
 てを魔界に落としめんとするものなり。天威を以て抗する事能わず』です」
「新陰流太刀筋の月影とは思えんな。最期の件が気になるが」
「それは御館様も仰せに‥‥しかし宗冬様が天威の技を使えるとは存じませんで
 した。あれは友矩様の奥義だったはずでは?」
「‥‥‥‥‥」
「いずれにしても幕府は最早、天海の意のままです。上様も完全に‥‥」
「叔父上は?」
「兵庫助様率いる尾張柳生は風魔を抑えるのに手一杯の状態です。天海の奸計で
 江戸柳生は壊滅。裏柳生も四季龍を除いて全滅です」
「‥‥大義」
「お急ぎください、御曹司」

再び湯呑みを口にする。
やはり一口目は焙じ茶の味を堪能し、そして二口目で一息に飲み干す。
「美味かった。代金はここに置く」
「そんなに高くはないがのう」
「そいつらを葬ってやってくれ」
ゆっくりと立ち上がり下りの路に足を向ける。今時分からなら陽が落ちる頃には
海が見える場所に着くだろう。
「待ちなされ」
老婆が声がその男の足を止めた。
「持っていきなされ」
「これは?」
「握り飯じゃよ。江戸まではまだまだ遠い道のりじゃて」
「‥‥かたじけない」
その男の顔が少しだけ表に現れた。
精悍な中に少しだけ少年の面影を残す、その男の顔の片側には刀の鍔が飾られて
いた。
隻眼、だった。

再び霧が箱根を覆う。
まさしく、これから歩む道程が見えない、ということなのか。

「お前さん、よかったらお名前を聞かせてくれんかね」
男たちの後姿が、霧の中に溶け込んでいく。
「三途の川を渡る折り、その名で舟に乗れるかもしれんからの」
そして、霧が老婆の問いに答えるように、山間の路に霞のような声が木霊した。

「柳生十兵衛三厳」





第十一章 明日への扉





<その1>

雨に煙った夜更けは去り、雲一つない晴天の朝を迎えた帝都東京。
銀座の一等地にある、その劇場に相応しい朝焼けだった。
窓から朝陽が柔らかく降り注ぐ部屋。
朝陽が柔らかいと感じたのは、その窓ガラスが薄く曇っていたから。
外気は少し肌寒いぐらい。
洗面台の鏡に映る自分の顔を見る。
「‥‥情けない面だ」
冷たい水で顔を洗い、そのまま逆立った髪をも無造作に洗う。
濡れた髪は水の重みで自然と眉まで覆った。髪を切ったのはいつだったかな、と珍
しく自らの体裁を省みる。
顔色も青白い。
眠れなかった訳ではない。
眠りの中で見た夢。やはり戦いの夢だった。
血のついた刃が閃き、闇の中を駆け抜ける自分。次々に現れる強敵。
まるで時代劇に取り込まれたような錯覚。
倒錯の世界で、ただ闘うことだけを強いられる。
傷つき、疲弊し、それでも倒す。また現れる更に強大な敵。
戦いが自らを成長させる。戦いのためだけの戦士へと。
ふと目が覚めると、もう眠りにつくことは出来なかった。
神凪は銀座に着任して以来、支配人室の折畳み仮ベッドの上での睡眠が殆どだった。
勿論、それは前支配人の米田にしても同じ。支配人室の壁から折畳みで収納出来る
硬めのベッド。板の上に薄いマットが敷かれた硬いベッド。
そんな硬い仮ベッドも柔らかい布団と大差はなかった。
半年近く土の上で寝ていた生活もあったくらいだ。米田と神凪にしてみれば、その
硬い仮ベッドすら心地よい温もりを与えてくれた。
それが今朝に限ってやけに硬く感じてしまった神凪。
理由ははっきりしていた。
布団よりも柔らかく、毛布よりも暖かく、そして花よりは控えめで蕾みよりは鮮烈
な甘い香りのその人と共にあったのだから。
あの天上の感触から、すぐに離れてしまった自分が今更ながら大馬鹿者に思えてし
まう。“後ろめたさ”があったのだろうか‥‥だれに対して?

「お・は・よっ、お兄ちゃんのお兄ちゃんっ」
「おはよう、アイリス。随分早いじゃないか」
「あ、お兄ちゃんのお兄ちゃん、髪が逆立ってない‥‥」
「ああ、今洗ってたから」
「え、えと、えと‥‥その‥‥‥‥素敵‥‥」
「ふふ‥‥ありがとう、アイリス」
「もじもじ‥‥ん‥‥なんか、顔色、よくないね」
「大丈夫だよ」
「そうは見えないよ。ちょっとしゃがんで、お兄ちゃんのお兄ちゃん」
「?」
「いいから」

一方のアイリスはと言うと、こちらもぐっすりと眠れた。
不安は勿論あった。眠れなかったとしても、それは仕方ないはずなのだが、何故か
よく眠れた。安心する材料もたくさんあったからだ。
帝撃五師団を成す、花・夢・月・風・雪。
自分が属する花組と由里たち風組は勿論知っている。それ以外に部隊が存在するこ
とを知らなかったアイリス。彼ら、彼女らとの出会いが、アイリス自身封じ込めて
いた不安を拭い去り、そして安らかな眠りへと導いたのだ。
アイリスは十六夜と眠った。
自分の部屋のベッド、その大きすぎるベッドは、まさに二人のためにあったのだろ
う。アイリスと十六夜は、まるで姉妹のように抱きあって眠った。
そして目覚めた。
十六夜が横で熟睡しているのを見て、起こさないようベッドからぬける。
部屋を出て‥‥右手にすみれの部屋。
すみれは下の治療室。
だが、不在のはずの部屋には仮の住人が寝床を借りていた。
それは舞姫。
楽屋で眠る夜叉姫たち。舞姫は一人では眠れない習癖があった。必ず大部屋で仲間
と一緒に眠る。そして昨夜は帝劇五師団の女性陣殆どが楽屋で眠った。舞姫にして
みれば、これ以上の条件はなかったはずだが、何故か、すみれの部屋で眠る、と言
い出した。マリアが着替えを用意する際に連れていったすみれの部屋。舞姫はその
時点で決心していたらしい。
アイリスは舞姫が眠るすみれの部屋を暫し見つめ、そして階段を降りて行った。
そして神凪と鉢合わせになった。

「心を開いて‥‥アイリスを見て‥‥」
「‥‥‥‥」
神凪はアイリスの言葉に従った。
心を開く。心を無にする。無の世界に導く者が自らの心を無にする‥‥神凪は一瞬
だけ苦笑にも似た思いが込み上げてきたが、それもすぐに消えた。
アイリスの小さな掌、その暖かく柔らかい天使の羽根のような肌触りが、神凪の心
を無の世界から光の世界に導いていく。
「これ、は‥‥」
「アイリスの大好きなお兄ちゃん‥‥」
「光、が‥‥」
「アイリスの大好きなお兄ちゃんのお兄ちゃん‥‥」
「俺の、中に‥‥光が‥‥溢れてくる‥‥」
「ふたりの心がひとつになれば‥‥」
アイリスが唱える優しい呪文。
ふたりの心がひとつになれば‥‥アイリスの心に浮かぶ二人のイメージ。それは二
人の大神。光と影は常に表裏一体。いずれも欠けてはいけないもの。そのアイリス
の想いが神凪の渇いた心を潤していく。
銀座に着任し、山崎とともに徹夜で霊子甲冑の整備に没頭し、疲れた自分を同じよ
うに癒してくれた優しい巫女。
あの時よりも遥かに暖かく、遥かに優しく、遥かに力強く‥‥アイリスの癒しの光
は神凪を包み込んだ。

「えへへ‥‥どう、元気になった?」
「‥‥アイリス」
「え?」
「君が今一番欲しいもの、教えてくれるか?」
「欲しいもの?‥‥欲しいもの、って‥‥急に言われても‥‥」
「大神か?、やっぱり」
「どきっ‥‥そ、それは、その‥‥」
「ちょっと違うけど、代りが出来るかもしれない」
「え‥‥きゃっ」
神凪はおもむろにアイリスを抱きかかえた。
小さく、華奢な‥‥もうすぐ12歳になろうかという、幼い体躯。
質量など持たない羽根のような身体だった。
「お、お兄‥‥」
「君にはもらいものばかりしている。言葉では感謝しきれないほどに」
「そ、そんなこと‥‥」
「今の俺は大神の代り‥‥いや、君の一番大切な男性の代りだ」
「え‥‥?」
「大神よりも、もっと大好きな人がいるんじゃないか?‥‥甘えたい人がいるん
 じゃないか?」
「‥‥!」
「ふたりっきり。だれも見ていないよ」
「あ‥‥あ、あの‥‥」
「遠慮するなよ。おかしな娘だな」
じっと見つめる神凪。あまりにも優しすぎるその瞳に、アイリスはたまらず目を伏
せた。同じ瞳だった。幼い頃の自分を同じように抱いてくれたあの人と。
顔を上げてられない。こんなに真っ赤になっては‥‥
咽まで出かかった言葉を必死に押さえ込む。
そんなアイリスの呪縛を神凪は優しく開放した。
「少し重くなったかな?‥‥もうすぐ12歳だもんな」
「‥‥パ‥‥」
「ほら、遠慮しないで」
「‥‥パパッ!」
背伸びをしていたのか?
11歳の少女が父親を想うのは、まだまだ子供だ、ということなのだろうか?
大人になることを願う少女なら、捨てなければいけない想いなのだろうか?
違うはずだ。少なくとも神凪は確信していた。
11年の人生、その半分が孤独。友達はいない‥‥だれもいないのだから。
だから心のないものが友達になった。ジャンポールという名の心を持たないはずの
友達は、いつしかアイリスの中で心を持つまでに重要な存在となってしまった。
ぬいぐるみへの代償。それは正常な環境で育った少女であれば“かわいい”で済む
話だろうが‥‥アイリスに対して、それは決して正しい評価ではなかったはずだ。
心の停滞。心の空白。
空白を埋めるために必要なのは時間ではなかった。きっかけだった。
きっかけは海のむこうの小さな島国からやってきた。
その人が導いてくれた‥‥まるで母親のような人だった。
そして本当の心を持つ友達が出来た。仲間が出来たのだ。
みんなは姉になった。姉妹という繋がりが出来たんだ‥‥
そして兄も出来た。兄は‥‥いつしか異性になっていた。心の成長まで止まってし
まっていたアイリスの時間を再び甦らせた男の人。それが恋であることを教えてく
れた人。大切な何かを教えてくれた人。
アイリスの腕の中から、いつしかジャンポールは消えていた。
アイリスは確かに成長した。
でも何かが足りなかった。
アイリスの更なる飛躍を妨げる何かが、未だに心の中で引っ掛かっていた。
神凪が示したのは、そのアイリスに一番必要だったこと。アイリスの失った時間を
取り戻させることだった。
「アイリスの髪は草原の香りがするな‥‥かすみ草の香り、かな?」
「!‥‥ぐひっ‥‥」
大神と同じことを言う、もう一人の大神。
父親にして恋人。
「風の匂いがする場所に行こう」

階段に隣接する宿直室。いつもは山崎が眠っている小さな部屋。
ちらっと覗いてみる。
大の男どもがギュウギュウ詰めになって眠っている。
斯波、村雨、朧、銀弓、氷室。下敷きになった銀弓と朧が唸り声を上げている。眠
っていても帝撃を支えるあたりは月組ならでは、だった。
氷室は水たまりが出来るほど涎を垂れ流して鼾をかいていた。こちらは天国にいる
夢でも見ているのだろう。
斯波と村雨は寝息もたてずに眠っていた。
「‥‥ちっ、朝っぱらからつまらんモンを見てしまった」
苦虫を潰したような顔の神凪。
泣きながらも、天使のような笑顔を示すアイリス。
「うむ。やはり鑑賞するのは美少女に限る」
「ぐすっ‥‥えへへ‥‥ぐすっ‥‥」
去り際にアイリスは宿直室に軽く手を振った。すると‥‥たんぽぽの種のような、
何か綿毛のような淡い光の珠が部屋を埋めた。その光は眠る戦士たちに柔らかく降
り注いだ。そこにいた者たちは夢の世界で癒されたのだ。
扉を閉めて、神凪は階段を上った。しがみつくアイリスを揺らさないように。
踊り場を回り込んで、そして二階へ。
花組の少女たちの部屋。
静かな廊下。みな眠っているのだろう。
あやめの部屋を通過。
大神の部屋を通過‥‥ちらっと横目で眺める神凪。
気配は感じない。でも、確かに人はいる。
「おにい、ちゃん‥‥」
「アイリス」
「‥‥うん?」
「お嫁さんになりたいかい?」
「‥‥‥‥」
「だが大神はまだまだヒヨッコ、君には相応しくない。暫く待ってあげなさい」
「‥‥うん」
ロビーを通過。
カーテンの隙間からぼんやりと薄明かりが漏れている。
夜明けの時刻。
静まり返ったロビーに、いつもの騒がしい面々が幻のように浮かび上がる。
神凪とアイリスの目に映った走馬灯のような幻。それもすぐに消えた。
「‥‥ぐすっ」
「すぐにうるさくなるさ。せめておやすみの時間ぐらい静かにしておこう」
「‥‥うん」
渡り廊下を通過する。
右手には窓。窓の外は銀座の街。
左手には吹き抜けの食堂。昨晩の歓迎会兼慰労会の名残なのか、だれもいないはずの
食堂に霊気が漂う。霊気と言うよりも命の鼓動、と言ったほうがよかった。
「昨日は‥‥楽しかった‥‥」
「アイリスは初めてだったかな、みんなに会うのは」
「うん‥‥みんな‥‥優しい人ばっかり‥‥」
「俺にしてみれば言うこときかない悪ガキばっかりだぜ?」
「えへへ‥‥だからパパなんだね」
「ふ‥‥」
そしてバルコニーに到着した。
窓を開ける。
少しだけ風があった。
雨の名残。銀座の街はしっとりと濡れていた。霞のベールに包まれていた。
夜明けの薄明かりが、その街を幻のように浮かび上がらせる。
チュン‥‥チュン、チュン‥‥
二人を待っていたかのように、小鳥が囀り始めた。
アイリスが手招きをする。すると何処からともなく小鳥たちは集まってきた。
バルコニーの手すりに、アイリスの手に。
「おはよ、みんな」
チュン‥‥チュン‥‥
アイリスの言葉に歌で応える小鳥たち。
「言葉がわかるのかい?」
「うん‥‥なんとなく、だけど‥‥」
「じゃあ、この子たちに頼んでくれるか?」
「うん?」
「大神の部屋の窓に行って、叩き起こしてこいっ、ってね」
「えへへ‥‥うんっ」
サアア‥‥
一斉に波が退くように小鳥たちは飛び立った。
チリリン‥‥
自転車が通り過ぎた。
新聞配達の少年。
暫くすると、もう一台。
チリリン‥‥
牛乳配達の少年。
朝の風景が開始された。
空を見る。雲はもうない。
星明りも少しずつ消えていって、それはいつしか青い空に消えていった。
太陽の時間が甦った。
「寒くないか?」
「‥‥ううん」
神凪にしがみついたまま、アイリスはじっと銀座の街を見つめていた。
「パパがいるから」
「ふふ‥‥」
「‥‥ううん、お兄ちゃんのお兄ちゃんがいるから」
「‥‥‥‥」
「アイリスは大丈夫。アイリスは一人じゃないもん。アイリスはいつだってパパと
 ママに会える。アイリスの今のおうちはここ。アイリスの大切な人が集う場所」
「‥‥‥‥」
「ありがとう‥‥お兄ちゃんのお兄ちゃん‥‥」
「アイリス‥‥」
「‥‥もうちょっとだけ‥‥抱っこしててくれる?」
「いつまでだって」
「ありがとう‥‥ありがとう‥‥お兄ちゃんの‥‥お兄ちゃん‥‥」
すぐにアイリスは眠りについた。
朝靄が消えるように‥‥銀座の街に煙る霞がアイリスの夢の中に消えていくように。
やがて銀座に眩しい陽の光が差し込んだ。
少しずつ、少しずつ‥‥人の流れが生まれてきた。
神凪は眠るアイリスを抱いて、そしてバルコニーの窓を閉めた。


昨晩、可憐一行が帝劇に到着したのは、みなが寝静まった後。ほぼ日が変わる時刻だ
った。
椿と由里も自宅には戻らず、そのまま銀座に泊まることになった。何しろ、二人の住
むアパートは浅草‥‥いくら作戦が終了したとは言え、後をひく可能性は否定できな
い。そう、だれ一人、特級指令が完全に成功したと考えている者はいなかったからだ。
衰弱していた夏海も銀座に。
四人を出迎えたのは春蘭だった。
月影から受けたダメージから回復しきれていない夏海を、春蘭が無理やり治療ポット
へねじ込む。横にはすみれと山崎。そして、山崎が眠るポットの前に巫女が一人。
目を閉じて、ただじっと手を組んでいた。不思議な色を放つ数珠を持って‥‥
夏海はその金髪の巫女をちらっと見つめ、そして大人しくポットに横たわった。
可憐、椿、由里の三人は、紅蘭の部屋で眠った。神凪が事務室に残したメモに、その
部屋を使え、と書いていたわけだ。少し躊躇する椿と由里だったが、部屋に入ってみ
てすぐに納得した。不安が嘘のように消えていく。理由はわからない。わからないが、
離れていても“彼女”が護ってくれているのだ‥‥と、由里と椿は信じた。その不可
視の力が、紅蘭の部屋の四隅に置かれた木の置物に由来することに気づいたのは可憐
だけだった。
春蘭は眠らなかった。眠れなかった、と言ったほうが正しい。
二階にはいられない‥‥二人が眠るあの部屋の傍には‥‥
春蘭は地下の治療室、夏海が眠るポットの前で一晩を過ごした。あの巫女が気になっ
た所為もある。
自分の記憶にある少女によく似ていた。神凪に“導かれた”あの夢魔に。
冬湖がいれば確認できたのだろうが、その冬湖とは、もう‥‥
目を閉じたまま微動だにしない、その巫女を監視するかのように、春蘭は治療ポット
を挟んで対峙した。
すぐに夜は明けた。
日の出とともに瞼が開く、その巫女‥‥神楽。
銀色の瞳を真っ向から受ける春蘭。
瞳に宿す、その気質、気性。その裏に見える艶。
すぐにわかった。
神凪の姿が見え隠れしていた。読心能力は全く持ち合わせていない春蘭だったが、同
じ想い人の、光と影の部分、その切れない境界線を挟んで分かれた女なのだと。


眠り姫はいつもどおりに目が覚めた。
暫し天井を見つめる。
帝国劇場の二階にある部屋。仙台の実家は木造で、その天井には梁が覆ってある。
子供の頃、風邪をひいて熱を出すと、あの梁が眩暈を催させた。
迷路のような構図。平衡感覚を失う、あの天井。
さくらは再び目を閉じた。
そしてまた開ける。
実家の天井とは違う、まっ平らな天井。
その無彩色の天井が、さくらの平衡感覚を失わせる。
帝国劇場に来てもうすぐ三年になると言うのに‥‥こんなことは初めてだった。
昨夜のことは覚えている。
自分の中に未だ残る感覚。
昨夜の感覚。
光と闇が自らの中で交錯した影響なのか?
その後。
眠っていたはずなのに、はっきりと憶えている。
ガラス細工の人形を愛でるように、そっと触れてくれた。
あるいは、渇いた砂漠の果てに見つけたオアシス、そこで貪るように。
優しく。激しく。
貫かれ、引き裂かれ、愛され、包まれる。
それが永遠に続くかもしれないと戦慄き、逆にそれを望む。
痛みと同居する安らぎ。恐れと背中合わせの喜び。
言葉で表現することのできない感情だった。
少しだけ怖かった。
それが夢で終わってしまうのが怖かったのかもしれない。
さっきまで見ていた、あの夢のように。
あの隻眼の青年は、いったいだれだったんだろう。
物干し竿のような長刀を血に染めて、そして、自らも血に塗れて‥‥
わたしに手を差し伸べてくれた、あの人。
彼に似ていた。ストイックなところ。その生き様。
「わたしのことを、伊織、と呼んでた‥‥」
“伊織”という名。そして二天一流。お師匠さま。
さくらの記憶に該当するのは一人。
剣聖宮本武蔵。
では、あの人は佐々木小次郎だろうか?
いや、違う。その人の業は、あまりにも戦場の匂いがする剣法だった。
宮本武蔵にはたった一人だけ弟子がいた。
名を伊織。後に養子となって宮本の姓をなす。
伊織は男性だったはずでは?
さくらは少し妙な気分になった。
剣を使い手ではあっても、それほど宮本武蔵に対して思い入れがあるわけではない。
ないのだが‥‥

‥‥さくらはまだ寝てるわ‥‥起こしちゃだめよ、椿‥‥

あれはマリアの声だ。
一階から聞こえる。
さくらはそこで現実に戻った。
起き上がる。
何も着ていない。
「あ‥‥」
少し痛みが残る。
下腹部に残る淡い痛み。
目を閉じる。闇が覆った。
あの優しい闇が、再びさくらを包み込む。
さくらの中に甦る。
言葉に出来ない感情の中で、確かなものもあった。
新たなる迷い。そして後悔ではない『後ろめたさ』。
ずっと、ずっと慕ってきた、あの人に対する後ろめたさだった。
仲間に対する後ろめたさかもしれなかった。

起き上がって姿見を見る。
あやめの部屋から借りてきたものだ。
その裸身。
幼かった自分じゃない。
違うんだ。
これは自分のための身体じゃない。
この身体は、あの人たちの受け皿なんだ。
下腹部のさらに下。
‥‥柔らかく疼く。
淡い痛み。懐かしい痛みかもしれない。
その場所こそ、山崎が施したシールドがカバーしていた、その『力』の根源でもあった。
さくらはいつもどおりの桜色の着物を着た。
母が仕立ててくれたオリジナル。昨日零式の中で自ら破り去ったものは、幸いにして、自
分が大戦終了後に仕立てたものだ。
「‥‥これでいいんだよね」
みんなといればいつもの自分でいられる。
ベッドの傍らにお守りのように置いている霊剣荒鷹。父の形見。
そしてもう一つ。霊剣荒鷹・真打。彼からの贈り物。
荒鷹を抜き、そして荒鷹真打も抜く。全く同じ寸法、同じ重さ。
一本でも重い太刀を二本、両手に構える。大神の持つ雷神・風神よりも長く重いそれを。
切先同士がわずかに触れた。
荒鷹が震えた。
本来の持ち主だった二人の男性、その残留霊力が拮抗し、共鳴する。
それがさくらの奥の奥、そのまた奥‥‥山崎すらも探知出来なかった最も深い部分を刺激
した。
記憶がフラッシュバック。
さくらの脳裏に刹那、過去の自分が映し出された。
過去。真宮寺さくらとして産まれる以前のそれすらも。
左手に持つ荒鷹影打を青眼に、右手に持つ荒鷹真打を肩口から。
「狼虎滅却‥‥」
さくらは剣を下ろした。
「‥‥わたしが使える技じゃない」
夢の中のさくら=伊織が見せた二天一流活殺奥義。
正統な伝承者、それも何か資格のようなものがなければ使えないだろう。理屈ではなく、
さくらの内にある何かがそう告げる。
“資格”を持った者だけが‥‥伊織が子孫に残す事の出来なかった、歴史にひっそりと埋
もれた奥義。だれも知らない、大神も神凪も知らない、その技。
「身の程知らず、だよね、わたしが大神さんに伝えるなんて‥‥」
荒鷹を鞘に収め、さくらはほんの少し名残惜しむように部屋を出た。

階段の手前、左を向く。
あやめの部屋。そして大神の部屋。
少しうつむく。
階段から誰かが上がってくる足音。男性特有の足音ながら、とても静かな、さくらにとっ
て既にそれだけで判別出来てしまう音。
うつむいた顔を更に落し、階段下からも影になってしまう角度で。
「‥‥おはよう、さくらくん」
「お、おは、よう、ござい‥‥ます‥‥」
「‥‥‥‥‥」
「わたし‥‥」
「‥‥泣いてるのか?」
「!」
顔を上げると彼がいた。
重なる夢。
蘇る現実。
見つめあう二人。
「い、お‥‥」
「じゅ‥‥」
その場にいられなかった。
その人の顔をまっすぐ見られなかった。
泣き顔を見せたくはなかった。彼を迷わせたくなかった。
だから‥‥さくらは逃げた。


大神が目覚めたのはそれから30分ほど経った後。
勿論自室で。
そこで大神は大変な事実に気がついた。
自分の横で、杏華が眠っている、ということに。自分にすがりつくように。
チャイナドレスの止め紐も肩口から全てはずされ、かろうじて“そこ”に布が引っ掛
かっている程度。ドレスに隠されていたその中身を垣間見た大神は、理性と煩悩の伯
仲する戦いの狭間にあった訳だ。何故、そこに杏華が眠っているのか、すら考えない。
と言うよりも、大神は昨晩は疲れ切って部屋に入り込んで、幸か不幸か、杏華の存在
に気がつかなかったのだ。
『す、すごい、すごすぎるぞ、これは神様がくれた貢ぎ物に違いない!、あやめさん、
 ありがとうっ!』
『ば、馬鹿なことを考えるなっ、すみれくんとあんなことして、まだ‥‥くっ、本格
 的に隊長失格だぞっ!?』
『ちょ、ちょっとだけなら、さ、触って‥‥お、起きないかな、杏華さん』
『‥‥はっ!?、ま、まずい、このままでは人間失格になってしまう』
『はぁはぁ‥‥ごくん‥‥し、下はどうなってんだろ?』
『‥‥はっ!?、お、俺はいったい、何をしようとしてるんだ?』
身体が言うことを聞かなかった。
大神はぐっすりと眠る杏華の、そのチャイナドレスの下のほう‥‥つまり毛布がかけ
られた脚のほうに、じわじわと手を伸ばした。
ちょろっと除けてみる。
案の定、ドレスの切れ目から全開らしい。影でよく見えないが。
「う‥‥ん‥‥」
『おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお‥‥』
『はっ!?‥‥や、やめるんだ、大神一郎‥‥いかん、身体が勝手に‥‥』
「あ‥‥ん‥‥」
『おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお‥‥』
『はっ!?‥‥や、やめ‥‥‥だ、だめだ、か、身体がいうことを‥‥』
「‥‥おお、が、み‥‥さ、ん‥‥」
『おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお‥‥』
煩悩の力、恐るべし。
大神はついに迷いを克服した。
そろりそろりと毛布をはぐ。
「う‥‥ん‥‥」
『ギクッ!?』
寝返りをうつ杏華。一瞬凍りつく大神。
せっかく除けた毛布が杏華の白い脚を再び覆う。
『ふぅ‥‥や、やるな、杏華さん‥‥しかし‥‥』
と、再びそろそろと毛布に手をかける。
『こんなことで諦める俺ではないぞ‥‥ふっふっふ‥‥覗きの帝王、この大神一郎の
 行く手を阻む者など‥‥』
コンコン‥‥
『ギクッ!!!』
「大神さん、おはようございます。マリアです」
『‥‥汗』
「大神さん?‥‥まだお休みですか?」
『‥‥‥‥汗』
「開けます、よ?」
「ギクッ!?‥‥お、起きてます、ちょ、ちょっと、今着替えてるから‥‥」
「よう、マリア、はええな」
「おはようございます‥‥どうしたんですか?、大神さんが?」
「あ‥‥さくら‥‥あなた、大丈夫なの?」
さくらの声。いつもと違うが‥‥大神は耳をすました。
雰囲気はよく掴めないが、少なくとも元気にはなったようだ。大神は心底ほっとした。
何しろ夕べは‥‥
きっと神凪が何か処置をしてくれたのだろう。昨日は言い過ぎたかな‥‥大神は少し
自己嫌悪に陥った。いくら兄だからと言って‥‥あれではヤツアタリだ。
それもさくらが何事もなさそうな雰囲気を感じて、大神も内心ホッとしていた。
‥‥いや、今の問題はそれではない。
自分だ。自分が置かれている立場が大問題なのだ。
いよいよ大神の部屋の前に面子が勢揃いしたようだ。
大神は焦りを通り越して、身体が冷たくなるのを感じていた。
先日の朝と全く同じだ。こんな局面を顕にされたら、どうなるかは‥‥
「おせえぞ、隊長‥‥開けるぞっ」
「わ、わ、ま、待っ‥‥」
ガチャ‥‥
鍵はかかっていない。そして神凪が施した結界も、大神が手を触れた途端、その
効力を失っていた。
疲れていたために、寝巻きも着ず、下着一枚でベッドに入り込んだ大神。
そして横で眠っているのは寝乱れたチャイナドレスの少女。
勿論無罪だ。何もしていない。言い訳が通用すれば、だが。
「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」
暫し呆然とする花組三人。
「や、やあっ、おはようっ」
投槍に朝の挨拶をかます大神。
「‥‥だめ‥‥いや‥‥」
寝言が聞こえる。
悶えるように寝返りをうつ杏華。
勿論大神は何もしていない。爆睡していたのだから。
「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」
「こ、これはだね、つまり‥‥」
「はあああ‥‥」「んんんん‥‥」「ふううう‥‥」
気合いを充実させるマリア、さくら、カンナ。
三色の稲妻が大神の部屋に入り込む。
「ご、誤解だ、これだけは誤解だ、ち、違うんだ、め、目が覚めたら‥‥」
「死あるのみっ!」「闇に還れっ!」「塵となれっ!」

恐るべきオーラを噴出しつつ、三人は大神の部屋を後にした。
勿論、眠っている杏華のもとに狼を残しておくわけにはいかない。ボロクソにされた
大神を担ぐカンナとマリア。さくらが先頭に立ち、地下格納庫まで行進する。
静まり返った地下格納庫。おさげ髪の主はいない。主の代理人とも言うべきあの三人
もいない。
そして、目の前には漆黒の鬼神。
流石に二の足を踏むマリアとカンナだが、さくらがウインクをすると‥‥何故か零式
は“零式”ではなくなった。新たな命の鼓動が宿っている‥‥マリアとカンナはそう
感じた。
破滅の象徴ではなく、産み出す者へ‥‥まるで母のような‥‥海のような。
三人はそのまま大神を零式のコクピットに幽閉した。


ワイワイ‥‥ザワザワ‥‥
朝の帝劇は静けさの中に目覚める。
大神または紅蘭が新聞を取りにくると、たいてい椿が売店の準備をしていて、和やか
な会話のうちに花組の少女たちが目覚めるのだ。
それが、この朝は違った。
昨晩の続きが物の見事に再現されていた。
「腹減ったぞっ、飯はまだかっ!?」「あ〜あ‥‥頭いたい‥‥」
ぼやく氷室&朧。
「‥‥手伝いもしないで‥‥アイリスと十六夜を起こしてきてよっ、そこでボケッと
 待ってないでっ!」
ムっとするのはやはり玲子。
食堂待機組は料理には縁のない面々。厨房に入っているのは逆に腕に自信のある者た
ちだった。指揮を取るのは、これがどういう訳か斯波。間違っても昨夜の作戦の続き
ではない。
「無明妃さん、それ、日本酒ですよ?」
「!?‥‥酒を油と間違えるとは‥‥わ、わたくしは、い、いったい‥‥」
「おやおや、無明のお妃様ともあろうお方が‥‥」これは玲子。
「斯波さんと一緒だと、妙に調子が狂うんですよね、無明妃さんって」弥生が続ける。
「な、なにをおっしゃいますっ、わ、わたくしは、わたくしはっ‥‥」
「‥‥不安だ」
斯波の副官として調理するのは無明妃。いつもは完璧な朝餉を作る無明妃も、この時
ばかりは冴えなかった。
玲子、弥生、の他にも女性はいた。
アイリスと十六夜はいない。二人とも昨夜の功労で、今朝の食事担当は免除だ。
いたのは可憐とさくらだった。
可憐の横顔。じっと見つめるさくら。
可憐が振り向く。慌てて視線を反らすさくら。
「どうしたの?」
「い、いえ」
後ろめたさ。
言えない。この女性にだけは言えない。
「昨晩の事、かな?」
「!!!」
「破邪の力が半ば強制的に解放された‥‥それを聞いた時、大佐が取る行動は一つし
 かないってわかってたわ」
「か、可憐、さん‥‥」
「でもね、そのこと、みんなには‥‥特にマリアさんと神楽さんには言わないほうが
 いい。言う必要もない」
「‥‥‥‥‥‥」
「ちょっと悔しいけど、ね。でも、それで全てが決まる訳じゃない。わたしの長い時
 間とあなたの僅かな時間、それが同じラインになっただけ。でしょ?」
「‥‥可憐、さん」
「ふふ‥‥これでライバルね。尤も、あの人が‥‥誰か一人のものになる、っていう
 のも、ちょっと難しいかもね」
その通りだった。
自分が悩んでいた事、それは可憐も同じだった。
「あ、あの、何作ってるんですか、可憐さん」
「うん?、これ?、見ての通り、卵焼きよ」
「卵焼きって‥‥わたしが知ってるのと随分ちがう」
「中身はゆるゆるなのよ。プレーンオムレツとか言うのかな、わたしのお店では人気
 メニューなのよ?」
「なんか、柔らかそうで‥‥おいしそう‥‥」
「ふふ‥‥結構むずかしいのよ、これ。あとで教えてあげるわ、さくらちゃん」
「は、はいっ」
暫くすると食堂に銀弓と村雨が合流した。
寝坊ではなく、玄関ロビーで由里たちと何やら打合わせしていたらしい所為だった。
やや困ったような顔つきで氷室と朧の席に同伴する。
「大神隊長も仕事くれるよ、全く」
「扉自体は交換出来るだろうがな。あいつ、壁ごとブチ壊したらしいな」
「ええ。まぁ俺でもそうしたでしょうから、同情はしますがね。それと天井。こいつ
 は月村のクソ野郎に伝票回しますよ」
「‥‥由里くんは何と?」
「何も。ただ、困った事に、かすみさんが現地に残ったらしいんすよね」
「ふむ‥‥修理は俺と朧でやるよ。銀弓、お前は横浜に用があるんだろ?」
「それなんですがね、雲行きがどうも怪しくなってきたんですよ」
「?」
食事が出来たようだ。
さくらと可憐が配膳する。
「お、待ってましたぜ、うまそう〜」
「ほほぅ、流石は帝国華撃団料理人組、仕事を間違えてるぜ」
「へえ、すごいなあ‥‥花やしきの朝ご飯と全然違う」
「‥‥‥‥」
何故か下を向いたまま顔を上げようとしない少年がいた。
さくらがその場所まで来ると、その少年は更に俯いた。
「いっぱい作りましたから、おかわりしてくださいね」
にっこり微笑むさくら。
その少年‥‥村雨はこくり、と少しだけ頭を振って応えた。
顔を見せないように‥‥顔が見れないように。

食堂の一角には見慣れない面子もあった。
窓際に座り、そして銀座の朝の風景を見つめる。
「ふ〜ん‥‥これが銀座、デスカ‥‥」
「‥‥人が多い」
「あ、あの‥‥」
お盆を持ったまま立ち往生することになったさくら。
そこにいた二人が何者であるかは、なんとなくわかっていた。
それも‥‥昨晩、神凪が傍にいたためなのだろうか‥‥
「‥‥‥‥」
じっとさくらを見つめる少女、春蘭。
その春蘭を見つめる夏海。
「あ、あの‥‥よかったら、おかわりしてくださいね」
「ありがと、デス、さくら」
「え?」
「これは何?」
「あ、それ、納豆です。そっちはアジの開き。こっちはきんぴらごぼうと‥‥」
「ふむ‥‥面白い味がするな‥‥バランスもいい‥‥」
「あのぉ‥‥」
何か言いたげなさくらだったが、黙々と食事をとる二人を見て、結局引き下がるだけ
だった。その後ろ姿を、春蘭が何故か寂しげに見送りながら。



ぐったりした大神が、はっと気づいた時。
零式は活動を再開していた。新たな命の鼓動を以て。
コクピットを埋め尽くす宇宙。光と闇の世界。
「ああ‥‥酷い目にあったな‥‥いや、自業自得か‥‥でもなんで杏華さんが俺の部
 屋にいたんだろな‥‥」
暫しボケっとする大神だったが、すぐに自分がおかれている状況を理解した。
以前にもこの場所には来たことがある。
再びシートに背中を預ける。目を閉じる。
鼓動が聞こえる。胎動を感じた。まるで母親の胎内にいるかのような感覚。
さくらの香りがした。さくらが幼い自分を抱いている‥‥大神を産んだばかりの母、
そのイメージとだぶる。
暫くその感覚に身をまかせ‥‥そして目を開ける。
零式は再び眠ってしまったようだ。
コクピットハッチが開いていた。
そこで大神は零式のコントロールパネルを改めて見直すことになった。
‥‥何もない。
自分たちが運用してきた霊子甲冑、光武と神武、その機体を制御し、ステータスを監
視するパネル群、スイッチ群が‥‥零式には全くなかった。
“星空”は、パネルが反射する光だと思っていたが、そうではなかった。
ただ、濡れたような光沢のある金属面だけが零式の内部を飾っていただけだった。
大神は驚愕した。それまでは闇のベールに覆われていた零式の胎内が、シート以外に
何の突起もない、まるで本当に母親の胎内のような構造であったことに。
「これは‥‥いったい‥‥」
表面に触れる。
冷たい鉄の感触。
紅蘭が手をいれた霊子甲冑たちとは異質の感触だった。自分の愛機だった光武・神武
は設計自体は山崎真之介だが、実物は紅蘭がチューニングしたもの。紅蘭が花組のた
めに、花組個人に合わせて改良を加えた。だから、という訳ではないのだろうが、花
組に配置された霊子甲冑は、甲冑にあるまじき暖かみを持った『機械』だった。
まるで服のような甲冑だった。
それに比べると明らかに違う。“零”と自称した零式の自我ともいうべき存在が大神
を導いた、あの時とも違う。いや、寧ろあの時は紅蘭が愛情を注いだ霊子甲冑たちを
も凌ぐ一体感を感じた。
それがない。
「‥‥“零”」
大神はふいに言葉にした。
すると‥‥

プシュッ

唐突にコクビットが閉じた。

フォォォオオオオオオオオン‥‥

うっすらと木霊する、何かの起動音。
回転子が際限なく角加速度を上げていくような‥‥静かで、何か妙に“機械的”な音
だった。蒸気音などない。

ズ‥‥ズズ‥‥ズズズ‥‥ブシュ――――――ッ‥‥
今度は蒸気の音がした。
これも普通の蒸気機関の音ではなかった。霊子併用機関とも違う。
何か“吐き出した”ような蒸気音だった。

シュ――――‥‥

吐出した蒸気音とともに、地下格納庫に再び沈黙が訪れた。
沈黙‥‥いや、時折音は聞こえる。
囁く声が?‥‥声のような呼吸のような。

‥‥主にあらず。
「え‥‥?」
‥‥主にあらず‥‥我は主に従う‥‥
「兄さん、か‥‥俺ではだめらしいな」
‥‥天衣を駆れ‥‥我と戦え‥‥我が主と戦え‥‥
「天衣?‥‥戦うって‥‥」
‥‥我を開放せよ‥‥主を開放せよ‥‥
「‥‥‥‥」
‥‥我は零‥‥我は‥‥我は‥‥

大神は暫し目を閉じ、そしてすぐに零式から離れた。
もう自分と零式との繋がりは断たれたのだ。
神凪と杏華が創りだそうとしている新たなる命。その純白の鎧こそが自分の駆るべき
機体なのだから。自分と命運をともにする片身なのだから。
零式は再び眠った。
大神はプレハブに向かった。入室厳禁の札がかかっている。入るわけにはいかない。
そのプレハブの前に立つ。

フォォォオオオオオオオオン‥‥

「‥‥はて?」
またあの起動音。
それはプレハブの中から聞こえてきた。

ヒュ‥‥ヒュゥゥ‥ンン‥‥ンンン‥‥
何かが回転しているような音だったが、これは零式のそれとは違っている。
風を巻き込むような音。春の旋風が音を出すとすればこんな音なのだろうか?

サ‥‥サァ‥‥ザザァ‥‥
「?‥‥波の音?‥‥まさか、この向こうに海が‥‥ある訳ないか」
また別の音。思わず言葉にした通り、それは浜辺の波音に似ていた。
音は単音ではなかった。
楽団でもいるのだろうか。
思わずプレハブのドアを開けそうになる大神。

「入室厳禁だぞ」
「あ‥‥」
入口から声が聞こえた。
黒いスラックスに黒いシャツ。
少し皺が入っているらしく、格納庫の薄明かりに縒れの部分が鈍く反射していた。
「おまえ‥‥そんな格好で零式乗ったのか?、パンツ一丁で?」
「えぁ?、す、すんません」
「今度そんな真似してみろ、中庭に素っ裸で吊るしてやるからな」
「うぅ‥‥これには深い事情が‥‥」
「事情ではなく情事だろうが、杏華くんとの」
「ち、違いますよっ、俺は、何も‥‥はぁ‥‥いっつもそうなんだよなぁ」
「くっくっく‥‥」
わざわざ与えてやった折角のチャンスを棒にしてしまった弟の情けない顔を、何故か
微笑ましく見つめる兄。
その柔らかな表情もすぐに消え、生真面目な司令のそれに戻る。
「わかったか?」
「‥‥はい」
「俺が聞いているのは零式のことだ」
神凪は大神の傍には来ず、格納庫の薄暗い領域‥‥即ち零式が眠る場所に歩み寄った。
ふと見上げる。
相変わらず零式は眠ったまま。主がすぐ傍まで来ているにもかかわらず。
「進化したか」
「?‥‥自分は拒絶されてしまいました」
「こいつは新たなる主人を得た。お前と俺、いずれにもなれる主をな」
「さくらくんのこと、ですか?」
「主か、それとも宿主か、いずれにしても‥‥」
「昨夜のことは零式がトリガーになってたんですか?」
「‥‥‥‥」
「零式はいったい何なんですか?」
ふいに神凪はそれまでポケットに入れていた手を抜き、徐に黒い機体の表面に触れた。
猫でも撫でるような仕草で。
「霊子甲冑は霊力と蒸気の力で動く。それを運用出来るのがお前達だ」
「え、ええ‥‥?」
「この零式は‥‥零式神武は、霊子甲冑ではない」
「‥‥え?」
「零式は元々魔操機兵だった」
「な、なんですって!?」
「零式の原形となったのは神威だ。お前もよく知ってるだろ?」
「神威って、あの、大戦時の‥‥えっ!?」
「あれの試作機体だ。虎型、つまり光武の原型が紙面上で見通しがついた頃、山崎真
 之介は自ら運用する指揮官機の製造に着手した。光武を率いて前線に立つためのな。
 その最初に創った霊子甲冑、それがあらぬ意志を持って魔操機兵となった。神威試
 作機体、即ち零式神威としてな」
「あ、あれが‥‥」
「何故そうなったのか、創った“山崎”本人も俺もわからん。あいつの筋書きでは、
 そのデータを元に一気に光武を量産するハラだったらしいが‥‥結果は最悪だった。
 神崎側も光武試作機体を用意してたんだがな、全て解体した。関係者に認知されて
 いる光武の試作機体、つまり桜武が産まれたのはそれから間も無くのことだな。真
 の光武、本来あるべき姿の鎧は闇に葬られた訳さ」
「‥‥‥‥‥」
「その後山崎は行方不明になった」
「行方不明、ですか」
「‥‥ふふん。“核”の部分を抽出した後、神威は俺が破壊した。そして俺が新たに
 創った機体にその核を融合させた。俺にそうしてくれと望んだのさ、そいつは」
「‥‥‥‥‥」
「これは壮大な失敗作だ。神威になれず、神武になれず。こいつを動かすのは霊力で
 はない。決して揺らぐことのない強い意志、如何なる者にも屈しない覇気、そして
 闇の落とし子として生まれた自分を慈しんでくれる‥‥母性」
「さくらくんがそうだと?‥‥そうなったと?」
「選んだのは零式だ。だがこれをさくらくんに与える訳にはいかん。大神、お前が俺
 と同じになってはいけないように」
「‥‥‥‥‥」
「さくらくんには然るべき鎧が必要だ。それがわかった‥‥今朝な。杏華くんに頼む
 つもりだったが、やはり俺が創る事になるだろう。そしてその霊子甲冑は俺が創る
 最後の鎧にもなる。それまでは大神、お前が彼女を支えろ。今までどおりな」
「‥‥‥‥‥」


公演がない日も売店は営業をすることがある。帝劇食堂を利用する客もいるし、売店は
公演に無関係に繁盛する。寝不足の椿だったが、売店の仕事をすること自体が元気の素
でもあったようだ。
銀弓と村雨、そして由里の四人で軽い打合わせをしたのがつい先程。すぐ横に見える、
帝国劇場の表玄関、その扉近辺が宛ら大型蒸気自動車が突っ込んできたかの如き破壊痕
を見せている。大神が突入してきた時の余波だった。
昨晩帰還した椿と由里、そして可憐がそれを目撃した後、偶然見回りに来た大神と遭遇、
事の詳細を聞かされ、四人で応急処置をしたのだった。応急処置と言っても外から中が
見えないように工事用の養生シートを被せ、ないとは思うものの不届き者の侵入を懸念
して、中からは軽い板張りを施したに過ぎない。
氷室と朧が応援に来るらしいから、そちらは彼らに任せよう。椿や由里が手を出すより
もよっぽど手際がいいだろう。

椿が売店の準備をしていると客が一人やってきた。
表玄関は完全に封印してあるはずなのに、何故か疑問にすら思わない椿。
「ごめんくださいませ」
「あ、いらっしゃいませ。お客様、せっかくおこし頂いて申し訳ないのですが、本日の
 公演は急遽中止になりまして‥‥」
「あら、残念。みなさんの舞台が見られると思ったのに」
藍色の着物を着た女性だった。
長い黒髪を後ろで結っている様はどこかあやめを彷彿させる、20代前半と思しき女性。
瞳は大きめ、目元は意外にすっきりしている。さくらに似た瞳だった。
さくらに似た‥‥いや、さくら本人と言っても疑いはしないだろう。
未来のさくら、あるいはさくらの姉、か?
『きれいな人だなぁ‥‥さくらさんの親戚かなぁ』
椿は暫し呆然と魅入った。
暁蓮とは対照的な美しさだった。艶もあるが、どちらかというと母性のほうが強く滲み
出ている。
椿はその闇のように深い碧と、対照的にそれ自体が光を放っているかのように、淡く輝
く白色の刺繍に目を奪われた。
花の模様。
椿の知らない花。いや、知っているかもしれない。
その華を。路地裏にひっそりと咲く。人目を避けるように。
その華が咲く藍色を。
幻のような夢のような。既視感でもなく思い出でもなく。
「この刺繍が気になります?」
「あ、いえ、その、し、失礼しましたぁ」
「ふふ‥‥相変わらずですね、椿さんは」
「何処かでお会いしました‥‥っけ?」
にこにこ微笑むその女性。
「この刺繍は茉莉花。ジャスミンです。お茶にも使えますよ」
「あ、あの‥‥」
「こちらに大神一郎、という者が居りますよね?」
「え?、ええ、今日はまだ休んでいると‥‥え‥‥あ、あの‥‥?」
大神一郎、と呼び捨てで指名するという事は?
「随分怠け癖がついてしまったのね。困った子」
その女性は手に持った風呂敷を椿に手渡した。
「これ、みなさんで召し上がってください」
「あ、あの‥‥」
「中庭で待たせていただきます。一郎にお伝え願いますか?」
その女性は売店を通り過ぎる途中、振り返って椿を見つめた。 
そして会釈するように、手を着物の合わせ目に乗せ、頭を下げた。 

「申し遅れました。わたくし、大神小夜子と申します。大神一郎の母でございます」


<その1終わり>