<その3> 帝国劇場の食堂に静けさが訪れるのは、恐らくみなが寝静まった後なのだろう。 作戦が終了した昨晩もそうだった。今朝も緩やかな騒めきで一日が始まった。 間も無く昼というこの時刻もそう。 この時は昨晩のそれに匹敵したかもしれない。 窓際に座って息子を待つその女性。 息子達が再会を果たした翌朝のそれと同じように、同じ席で。 朝日が降り注ぐ時刻を過ぎてなお、その女性のまわりには朝の柔らかで鮮烈な光が纏わり ついているようだった。 食堂入口、ロビー方面から隠れるように見つめる花組四人衆+杏華+由里&椿。 『はぁ‥‥』『ほぁ‥‥』『はぁぁ‥‥』『なんて、きれいな、人なんだ‥‥』 『大神さんの、お母様‥‥素敵‥‥きれい‥‥』 『美しすぎる‥‥若すぎる‥‥まるで‥‥恋人、じゃないのよ‥‥』 『わ、わたしが最初にお話したんですからねっ』 大神に促されて食堂入りした杏華だったが、既にそこには治療を終えた“彼女”が座して いた。流石に同席する訳にもいかず、空腹を抑えて椿たちと共に見学側に廻る。横に配置 した椿がさり気なく渡す、通常の三倍はあろうかという超弩弓紅鮭おにぎりと卵焼き、沢 庵、佃煮のおかず三点セット。椿以外にもカンナが同じようにその超弩弓おにぎりを両手 に見物態勢を整えていた。杏華はありがたくおこぼれを頂戴する事にした。さながら、せ んべいを持って演劇鑑賞するかの如く。ちなみに椿はおにぎり以外にも紅蘭製の即席写真 機を用意していた。何に使うかは、さくらと杏華にとっては一目瞭然だったが。 そして事務室方面、厨房側から、やはり隠れるように見つめる雪・月・夢の出歯亀集団。 『ちょ、ちょっと、押さないでよっ、氷室くんっ』 『むぎゅっ、だ、だれぞえっ、わ、わらわの上に乗ってるのわ‥‥ぐげっ!?』 『それにしても‥‥ぐへっ‥‥美しきお人‥‥ぐはっ』 一番前にいた夢組三人娘の上に同じ夢組の夜叉姫と雪組の氷室という大型が乗っかる様。 その背後から朧と村雨が隠れるように覗き込む。 可憐、玲子の二人は堂々とその女性まで近づき、食事はもうすぐお持ちいたします、と茶 菓子と緑茶を置いて厨房まで戻った。勿論見物ではなく、本当に料理の途中だったため。 その後ろにさり気なく影のように着いていた十六夜がするっと見物班に合流する。 斯波は厨房で本領発揮、という状態だった。相手の女性を見て、本職?の血が騒いだのか もしれない。その横では銀弓がぐったりと横たわっている。玲子と可憐に、築地まで行っ て食材仕入れて来て、という気の毒なオーダーを実現したためだった。 そして‥‥やはり最後尾で後姿を見せるだけの弥生。 暫くすると待ち人が入場してきた。 大神と神凪。 厨房と入口付近に屯する軍団を横目に溜息をつきつつ横切ろうとする。 神凪が止まった。大神もそれに引摺られるように。 「‥‥無明妃」 「ほへ‥‥はっ、はいっ」 「斯波と銀弓もいるようだな。横浜に行くと言ってなかったか?」 「それが‥‥」 斯波と銀弓は無明妃が治療室から出てくるのを待って劇場を出発するつもりだった。 ところがロビーに現れたのは無明妃ではなく、二人の大神の母親。 無明妃を含めた夢組四人には、既に彼女から何事かを言い含められていたらしい。 斯波と銀弓にも同じ内容が本人から告げられた。 「横浜には行くな、と?‥‥おふくろが?」 「はい。何を意味しているのかはわかりませぬ。ですが小夜子様がおっしゃる以上、そ のお言葉に従う他ありません。わたくしとしては些か心残りではありますが‥‥」 「ふむ‥‥」 「銀弓殿も同じです。真也様のお命を救っていただいたのですから。それに御本人も今 朝の御様子では横浜はよろしくないと判断されたようではありますが」 「斯波は?」 「斯波殿はもとより小夜子様のお言葉に従う所存の御様子でした」 「ほう‥‥」 「お知り合い、ですので?」 「さあな」 神凪はすぐに踵を返した。 懸念材料だった案件が回避された。勿論司令としてそれを口に出して言う訳にはいかな い。暁蓮には手を出さないでくれ‥‥そんな事は。 それは大神も同じだった。だから大神も自分の想いを代弁してくれた昨晩の兄に対して、 心の中で謝罪していた。 その二人の懸案を影で紡いでくれた人。 その人がそこにいた。 「お待たせしました」 「すいません、整備を出来るところまで終わらせておきたかったので」 「構わないわよ、待つのは慣れてるから。何年も何年も何年も何年も何年も‥‥」 「う‥‥」「う‥‥」 菩薩様に説法を受ける鬼神の図。 いつもは闇の気配を漂わせている神凪でさえ、その周囲に柔らかな春の陽射しのような光 の粒が舞う。大神に至っては春一番が優しく吹きつけられたように、逆立った髪が緩やか に揺れている。 『ふわぁぁぁ‥‥』入口付近。 『おぉぉぉぉ‥‥』厨房周辺。 神楽と舞姫、無明妃の三人に至っては、袖から数珠を取り出し、南無阿弥陀仏、菩薩様、 御不動様、と唸っている。 実は彼女達に限って先程治療室への入室が許された。ポッドで眠る山崎の顔色が今朝とま るっきり変わっている。血色がよく、唇も男子に有るまじき艶やかさを示していた。 そして腹部。傷がその痕跡すら残さず消えていた。春菜が施した縫合の跡すらも。何事も なかったかのような健康な身体だった。治療ポッドのメーターが示す値は、成人男性の健 康優良見本のような数字。 夢組四人はその場で土下座し、最大限の礼をつくしたのだった。 その視線の真っ只中にいる主役の三人。 さくらと同じ顔の女性。正確にはさくらの輪郭をほんのわずか細め、瞳もほんの気持ちだ け引き締め、唇に紅みを帯びさせ‥‥その唇は紅を引いている訳ではないのに艶やかな紅 みを帯びており、そこだけは桜色の唇のさくらとは明確に違いがあったが‥‥しっとりと した長い黒髪をリボンではなく後ろで結っている。 着物も勿論違う。色の違いもあるが袴を着用せず、きっちりと和服を着こなす様は同じ体 裁の無明妃をも凌いでいた。そして決定的に異なるのが‥‥胸元だった。和服であるが故 に控えめに見えるが、その下に隠されている“それ”は、明らかにさくらを凌駕している はずだった。匹敵するのは同じ体型では杏華ぐらいだろう。 「整備って霊子甲冑のこと?」 「ええ‥‥え‥‥な、何故母さんが霊子甲冑の事を?」「‥‥‥‥」 「無双天衣?、それとも、零式?」 「な‥‥」「!」 「わかっていると思うけど、焦らないことね。それにあの子たちはいずれあなたたちの下 から飛び立つわ。衣を変えてね。七瀬のように」 「なぜ‥‥」「どういう‥‥」 「‥‥口が滑っちゃったわ。忘れて。それよりも、わたしに隠し事なんて出来ないわよ? 一郎、あなたとすみれさんの事。そして麗一、あなたとさくらさんの事」 「!」「!」 「あなたがた、責任取れるんでしょうね?」 「あ、あの、その‥‥」「そ、それはですね‥‥」 「あ〜あ‥‥なんか、やだな‥‥わたし、やきもち妬いてるのかな‥‥」 なんとなく頬杖をつくその女性。 瞼を閉じ、困ったような微笑みを浮かべる。 まるで少女のようだった。その瞬間だけは、さくらよりも幼く見えもした。 『おぉぉぉぉ‥‥』『か、か、か、かわ、かわいい‥‥』 入口・厨房の反応は、そのまま神凪・大神の反応とも重なった。 目の前にいる女性は本当に自分の母親か? 最後に接した瞬間は間違いなく母親だったし、あの時と何ら変わっていない。 自分たちが成長したから?‥‥母親に近づいたから? 「ねぇ‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥は、はい」 「どうするの?」 「‥‥はい?」「は、はい?」 「あの娘たち。あの娘たちから選ぶんでしょ?」 「‥‥‥‥‥」「‥‥‥‥‥」 「焦る事も急ぐ必要もないけど‥‥でも‥‥決まったら、一番に、わたしに言うのよ?」 「‥‥‥‥‥」「‥‥‥‥‥」 「ふふふ‥‥あ〜あ‥‥わたし、何言ってるんだろなぁ‥‥」 藍色の着物が再び揺れた。 頬杖を解き、視線を入口方面に向ける。あれでも隠れているつもりか、と厭きれるほどの 存在感を示す帝国劇場常駐組。前列は花組。後ろの列には風組+杏華。 袖の茉莉花が揺れた。 その白い花の先、白い指先がその女性を指さす。 「ん?」「?」 思わず大神と神凪も振り向いた。 入口付近は騒然とした。一体だれが指名されたのだ? 「紅いドレスの方。こちらへ」 「‥‥え?」 杏華だった。 流石に慌てふためく。 ゆっくりと恐る恐る食堂フロアへ脚を踏み入れる紅いチャイナドレス。 紅蘭とは違う、しかし紅蘭と重なる、その気配、影。 「おや?」 厨房から覗き込んでいた氷室が眉をひそめる。 「ん?、知りあいかい?」 「どっかで見たことあるな、あの娘‥‥んー‥‥何処だっけっかなぁ‥‥」 「あのチャイナドレス、確か花組の李紅蘭って娘のじゃなかったっけ。関係者じゃね?」 「そういう繋がりだったかなぁ‥‥思い出せん‥‥そんなに昔じゃなかったような‥‥」 杏華が円卓前に到着すると、その女性は立ち上がり、対面する位置まで移動した。 「大神小夜子と申します。失礼ですが初めてお目にかかりますので」 「す、すい、すいません、わ、わわ、わたし、わたしは、ふっ、藤枝っ、んぐ‥‥」 「藤枝‥‥もしや藤枝杏華さん?」 「は、はいっ、はいっっっ」 「そう‥‥貴女が‥‥」 暫く杏華をじっと見つめ、そして視線をその胸元に落した。 「‥‥立派ね」 「え?」「か、かぁ、かあさん」「あ、あのぉ?」 「それは貴女には必要ありません。わたくしがお預かりしてもよろしい?」 「‥‥え?」 すっと近づき、そして杏華の背後に廻る。ドレスの止め紐が自然に、そう勝手に外れ、そ の“中身”が顕になる直前、彼女は手をその中に差し入れた。 「あ‥‥」『おわっ!?』『お、おぉっ!?』 「これは紅蘭さんが戻ってから使うべきです。あなたにはまだ早い」 素早く所望のモノを手にとり、そして素早くドレスを封印した。息子たちにその尋常では ない“中身”を披露しないように。 手に取ったのは、紅い時計。 「時計‥‥」「‥‥‥‥」 大神と神凪の脳裏に過ったのは自分たちが所有していた“天塵”という名の銀時計。 それと色は違うものの、形は全く同一の代物だった。 「それ‥‥は‥‥」 「この時計は今のあなたにとって不幸を齎すだけ。これは天塵と龍塵がそろってこそ意 味を成す。故に紅蘭さんを待ちなさい。それまでわたくしが預かっておきます」 「‥‥‥‥‥」「‥‥‥‥‥」「‥‥‥‥‥」 「この時計の所為であなたは‥‥いえ、やめましょう。少なくともわたくしが来た以上、 あなたの未来に暗い影は落させない」 「‥‥‥‥‥」「‥‥‥‥‥」「‥‥‥‥‥」 最後の言葉が意味するところはその場にいた三人にとっても不明だった。 ただ神凪だけには同じ言葉に重なる何かが脳裏にぼんやりと浮かび上がっていた。しかし 何故母がそれを知っているのか、そればかりはやはり謎だった。 「あなたには代わりをさしあげます」 そう言うと彼女は自らの黒髪を結っていた簪を手にした。 当然、その長い黒髪は戒めを解かれる。 さくらよりも艶があり、黒い髪。 唖然とする見物人。大神と神凪も同様。息子である自分たちも髪を下ろした彼女を見たの は初めてだった。 袖に忍ばせていた紅いリボンを手にする。思い入れがあるらしい、そのリボンで長い黒髪 を後ろで纏める。その姿、まさに真宮寺さくら。 そして、着物以外でさくらと遠目に識別するのは最早困難となった。 一方、ショートカットの杏華には勿論簪を付ける余地などない。 故に彼女は杏華が着用する紅蘭のチャイナドレス、その止め紐部分に簪を差した。 「その簪がつけられるまで髪が伸びたら、わたくしのところへいらっしゃい」 「‥‥はっ、はいっ」 「そして‥‥」 ゆっくりと杏華を引き寄せ、その名の通り、薄紅色に熟した杏のような唇に、それよりも 紅い自らの唇を近づけ、そしてぺろっと舌で舐める。 『おわっ!?』『のぉおおっ!?』 「!?」 「‥‥ほら。海苔がついてますよ」 「あっ!‥‥す、すみっ、すみませんっっ」 「ふふ‥‥」 その唇はそのまま耳元に移動した。 「あ、あの、あの‥‥」 「‥‥‥‥‥‥」 「‥‥えっ!?」 「わかりましたね?」 「え、え、え?」 「その時が来れば、自然とそうなります。何も心配しないで」 「え、え‥‥ええええっ!?」 やわら大神を見つめる杏華。そして真赤になって元の場所、入口に屯する仲間たちの傍ま で走って戻る。仲間たちがやや嫉妬まじりに出迎え、それでも少しでも時間を無駄にしま いと主役三人に視線を戻す。 「え、えらいものを見てしまった‥‥」 「さ、さくらくん、杏華さんに、いったい‥‥あ、ち、違う、母さん、母、さん‥‥」 「ふふふ‥‥」 妖しくも艶やかな笑みを浮かべ、今度は大神に近づき、そして耳元に唇を寄せた。 その様。 さくらが大神に施しているようにしか見えない。 『さ、さくらのやつっ、何てことしやがるっ』 『さくらっ、抜け駆けはダメだよっ』 『うぬぬぬぬ、さくらったら、公衆の面前で‥‥』 『わ、わたしったら、人前で‥‥あ‥‥わたしはここです、よ、ね』 じっと事の成行を見つめていた神凪も納得した。 母親が何を指示したか、それは自分自身も大神に対して望んでいた事でもあったから。 厨房方面から人影が一つ、分裂した。 トレーに三人分の珈琲を乗せて。 懐かしいアロマが漂う。マリアが横浜の専門店から取り寄せた品で、これを出すのは重要な 客に限られる。いち早くその香りに気付いたマリアが舌打ちする。自分も向こうにいればそ の役割を演じられたものを、と。 珈琲を運んだ女性。今の今まで背中を向けていた少女だった。 「‥‥お茶をお持ちしました」 「あ、ああ、すまんな弥生」「あ、ありがとう」 「ん?」 背後から近づいたその弥生という少女を確認するために振り向く“さくら”。 「副司令が横浜から仕入れた珈琲です。よろしかったらどうぞ」 「‥‥‥‥‥」 「わたしは音無弥生と申します。月組の‥‥」 「違うでしょう?」 「ん?」「?」 「何故あなたはここに居るの?」 「‥‥‥‥‥」「?」「??」 「何故あなたは顔を変えたの?」 「‥‥‥‥‥」「??」「???」 「何故あなたは黄泉の人に従うの?」 「!」「?」「?」 「理由がありそうですね。後でゆっくりお話しましょうか‥‥“弥生”さん」 「‥‥失礼します」 ゆっくりと立ち去る月組のくの一。その背中。明らかに普段の彼女から伺い知れる姿ではな かった。 「思っていた以上に状況は複雑ね。弥生さん、って言ったかしら、彼女」 「彼女が何か?」 「彼女をさくらさんに近づけてはいけません。麗一、あなたがしっかり護りなさい」 「?‥‥弥生に何か問題でも?」 「そしてアイリスさんにも。一郎、アイリスさんはあなたが護るのよ。いいわね?」 「?‥‥アイリスを?」 「そうよ。彼女だけは絶対に一人にしてはいけない。必要なら夜も一緒にいなさい。 抱いてもいいわ。抱く、というのは男として女を抱く、という意味よ」 「えぁっ!?」「そ、それは、い、いくら、なんでも‥‥」 「アイリスさんの意志を一郎、あなたの元に繋ぎ止めておく必要がある。何が起って も彼女が迷わないようにね。彼女にとってあなたが全てである、という想いが如何 なる誘惑や甘言を無効にする。彼女が大人になるのを待つ必要は全くない。彼女は 女として完成したから‥‥多分最近でしょうけど。彼女が傷つくのを恐れているの なら、その心配も無用。彼女にはあなたの全てを受け入れる用意がある」 「ア、アイリス、を?」「‥‥‥‥‥」 「迷わないで、一郎。あなたの迷いは彼女の迷いにもなる。わかるでしょ?」 「アイリス、を‥‥」「‥‥ふぅ」 「でも二人とも離れる事もあるし‥‥う〜ん‥‥ん‥‥ふふ‥‥いい事考えたっと」 そこで“さくら”は再び立ち上がった。 今度は厨房を指さす。 またしても騒然とする面々。今度は誰だ? 「黒髪のアイリスさん、いらっしゃい」 「‥‥はっ、はいっ、かっ、かしこまりましたっ」 指名されたのは弥生と同じ月組の十六夜だった。 ガチガチに緊張しながら厨房から出る。テーブルでどんな会話がなされているかは、彼女の 地獄耳を以てしても聞き取れてはいなかった。 「わ、わた、わたしはっ、わたくしはっ、はっ、はや、葉山‥‥」 「ふふふ‥‥十六夜さん、勿論知ってますよ。麗一のお嫁さんになる方でしょう?」 「!!!!!!!」「ちょ、ちょっと、母さんっ」 「ふふふ‥‥帝撃司令は美少女がお好きみたいね」 「あ、ああぁぁぁ‥‥」「ちょ、ちょっとっ」 「ねぇ、十六夜さん、わたしのお願い、聞いてくれる?」 「な、なんなりと‥‥」「ご、誤解してもらっては、こ、困るんだけど‥‥」 「この劇場に住んでくれないかな?、そう、あそこにいる桜色の着物の女性と一緒に。 そして、あなたの分身、アイリスさんと一緒に」 「はぁぁ‥‥おおせのままに‥‥」「な、なぁ、母さん」 「ふふ‥‥さぁ、さくらさんとアイリスさんのところへ」 「はぁぁ‥‥かしこまりました‥‥お母様‥‥」 「お、おいっ、十六夜っ、ちょっ‥‥」 しっかりとお墨付きを頂戴した十六夜は、厨房方面ではなく、さくらがいる入口付近の軍団 に合流した。不思議そうな顔をするさくらを尻目にアイリスが出迎える。十六夜はアイリス とさくらに挟まれる形でぴったりと寄りそうように配置した。 「あの、母さん?」 流石の神凪にしても状況を把握出来なかった。 「ここには明後日までしかいられない。三日後には別のわたしが来てしまうから」 「?」「え?」 「兎に角、出来るだけの事をしていくわ」 「明後日‥‥ですか‥‥」「も、もう少しゆっくり滞在しても‥‥」 可憐と玲子が厨房から出てきた。 途中その間仕切りに屯する、手伝いもしない見物人軍団に物凄い視線を浴びせつつ。 玲子が配膳するのは前菜の生ハムと海老のサラダ。その後、可憐がクロワッサンとチーズを テーブル中央に置き、ワイングラスに白ワインを注ぐ。 「お、おい、可憐、昼間っから‥‥」 「小夜子さんがいらっしゃったのに、半端な応対は出来ません」 「ありがとう、涼‥‥あ、っと、可憐さん、でしたね、今は」 「‥‥はい」 「サラダは玲子さんがお作りに?」 「え、ええ。お口にあえばよろしいのですが」 「ふふ‥‥これを頂くのは、米田さんの誕生日以来かしら?」 「あ‥‥そうか、そう言えば‥‥思い出しましたよ、小夜子さん、あやめさんと一緒だった んですよね。そっか、そっか‥‥何処かでお目にかかった事があると‥‥」 「米田って‥‥か、母さん、まさか大将と?、ど、どういう事だよっ!?」 「ふふふ‥‥」 「き、聞き捨てならんぞ、今のはっ、お、おいっ、玲子っ、どういう事だっ!?」 「はて‥‥記憶がイマイチ‥‥」 「お、おのれ、大将‥‥あやめさんのみならず、おふくろにまで‥‥」 「あの、老いぼれめが‥‥老い先短い分際で‥‥俺の留守を狙って‥‥」 「あら?」「あらら?」 ぷるぷると震える大神と神凪、その手に持っていたシリシウス鋼製のフォークがぐんにゃり とねじ曲がる。あらぬ誤解を得て怒りの矛先が米田に向かったのは気の毒としか言いようが ないが。 そして厨房から今一人、料亭御用達の調理作務衣も眩しく、斯波がお盆を持って登場。 白いほっかむりも意外によく似合っているが、それ以上に腰回りの白い前掛けがあまりに様 になっていた。これには夜叉姫とカンナも仰天、昨夜の話がハッタリではない事を確信した 次第だった。 唖然とする大神と神凪を尻目に、レディーファーストを実践する眼鏡男。 「今日の築地でまともだったのは鮃だけだったようで。鮃の蒸し焼き炒め‥‥所謂ムニエル というものです」 「素敵。ありがとうございます、斯波さん」 「ごゆっくり。後で軍鶏鍋を出しますから。和洋折衷で申し訳ありませんが」 「まぁ、素敵」 「‥‥‥‥‥」「‥‥‥‥‥」 「おっと、失礼、お二人の分を忘れてました。すぐにお持ちしますので」 神凪と大神の前に運ばれたのは鮃ではなく鰈だった。 鰈の煮付け。 「‥‥おい」「‥‥なんで?」 「すいませんね、鮃は二尾だけだったんですよ。一尾は先程氷室に食われてしまいまして」 「「氷室ぉぉおおおっっ!」」 「よもやその煮付けが雑魚だなんて思ってませんでしょうな?」 「あら、美味しそう。わたしにも一口」 そう言って神凪の皿にある鰈をつまむ“さくら”。 「あ‥‥」「まぁ、なんて上品な味」 「お褒めにあずかり、恐悦至極。ではあらためて、ご歓談ください」 「ほら、麗一、鮃も美味しいわよ?」 そう言って自分の皿にある鮃を箸でとり、神凪の口元へ運ぶ“さくら”。 「んぐ‥‥‥ま、まあまあ、かな。で、ですが、母さんの作る煮付けのほうが‥‥」 「ま。そんなこと言って。じゃあ夜はわたしが作ってあげるからね、麗一」 「は、ははは‥‥」 「司令という立場でありながら‥‥子供のように‥‥」 「ほら、一郎、あなたも。あ〜ん」 「あ、あ〜ん‥‥」 「‥‥貴様、それでも花組隊長か?」 只事ではなかったのが、これを見物していた面々だった。 入口付近の劇場常駐組は、予想していた通り、口を全開にして床には涎の池を形成している。 厨房組も同様。ただ問題なのは、どちら側に付きたいのか、という選択肢だった。母親役に なりたいのか、それとも大神・神凪側になって母親に甘えたいのか。そのどちらでもあるの が厄介でもあった。 斯波が最後にテーブルに持ち込んだ軍鶏鍋は絶品だった。 それをつつく三人。外から眺めたその姿は家族の団欒、そのもの。 あれほど明るい笑顔の神凪を見るのは、長い付きあいの可憐・神楽をしても初めて。 そしてあれほど屈託のない笑い顔を見せる大神は、花組の女性陣にとっても初めてだった。 だれもがそれを見たいと願っても、だれも実現出来なかった姿。 それを“彼女”が齎した。 食事が終わると“さくら”は厨房に赴き、斯波・可憐・玲子に深々と礼をした。 恐縮する三人。そして未だ蹲る銀弓に“お疲れ様でした、銀弓さん”と、ぼけっとした顔の 頬に軽くキス。一気に目覚め、すぐに大神と神凪の謝礼も受けて再度眠りについた。 夕飯はわたしが作るから、みなさん、まだ帰らないでくださいね‥‥と言われては、誰一人 帰路につく者などいない。菩薩様が与えてくださる甘露。一粒残らず、一滴残らず、いただ きます。 「一郎、麗一、中庭にちょっと付きあいなさいな。仕事があるでしょうけど」 「はい?」「なんでしょう?」 「確認ね。二人の現在の力が、わたしが認識しているそれと合致しているか」 「?」「‥‥?」 「今のあなたがたを把握しておきたいの。ずれてたら修正しなくちゃ」 「??」「??」 「わたしが試してあげる、という事」 「‥‥‥‥‥」「‥‥‥‥‥」 またしても聞き耳を立てていたストーカー軍団から驚きと期待に戦慄く気配が立ち上がる。 特にカンナは、“さくら”が最後に言った“試してあげる”という言葉にかなり動揺してい た。あの二人を試す?、あの鬼神を?、試す? 中庭に移動すると、支配人室前廊下には横一列に見物人が整然と並んだ。先にも後にも、こ れ以上のショーはないだろう。椿と由里がここぞとばかり、椅子を並べ、煎餅・駄菓子・茶 の販売を開始。 「え〜、お煎餅にお茶、干柿、饅頭はいかぁ〜っすか、え〜‥‥」 「ボリボリボリボリボリボリボリ‥‥」 「由里殿や、わらわは海苔巻き煎餅二枚と帝劇饅頭、それに煎茶が欲しいぞね」 「え〜っと、海苔二枚で80銭、帝劇饅80銭、煎茶80銭、“サービス料”が 50銭、しめて2円90銭になります」 「にっ、にぃっ‥‥!?」「ボ、ボルんじゃねぇよっ!」 「観戦料金も含まれております。予め御了承ください」 「ボリボリボリボリボリボリボリ‥‥」 「では、椿殿、わたくしは三色あられ一袋と‥‥」 「3円50銭になります」 「さっ、さんっ‥‥???」「お、おいっ、土産じゃねぇんだぞっ!」 「先着5名様に小夜子様の生写真を御付けいたします」 「‥‥‥‥‥‥」 「ぼ、ぼくはもらおうかな、3円?、4円?」「ま、まぁ、良心的かな、俺も‥‥」 三色あられは争奪戦の上、朧・可憐・神楽・杏華・さくらが購入した。 「お、おのれ‥‥」「やだやだやだやだっ、アイリスもっ、アイリスもっ」 「海苔巻き煎餅一袋は5円ですが、これには大神親子の写真がつきますが?」 「‥‥‥‥‥‥」 「栗饅頭12個入り一箱20円。ちなみに大神小夜子様手作りの饅頭でございます。ちなみ に、小夜子様御持参の風呂敷付きです。更にちなみにこの風呂敷、小夜子様自ら刺繍なさ れた茉莉花が鏤められております。勿論二品とありません」 「‥‥‥‥‥‥」 小夜子の土産までも売り物にしてしまう椿。尤も、みなさんでお召し上がりください、とい う小夜子の言葉に完全に背く訳ではないだろう。 海苔巻き煎餅袋詰めを壮絶な戦いの上で杏華が制し、小夜子特製栗饅頭については20円と いう額がモノを言い、これを現時点で購入出来たのは夢組会計担当の無明妃だけだった。 花組は紅蘭が宴会担当も兼ねて一部の小遣い積立金を一括管理しているが、その肝心の彼女 は不在。雪組は可憐、月組は弥生がそれぞれ同じ役目を担っているが、いずれも一月程前に とある目的で使い切ってしまったばかり。 「ち、ちきしょー‥‥」「やだやだやだやだやだぁっっ、アイリスもぉおおっ!」 「やった‥‥大神さんのお母様の、大神さんの‥‥二枚も‥‥ぐふっ、ぐふふふっ」 「ど、どれ、無明殿、一つ、わらわが小夜子様の栗饅頭を、し、試食仕ろう」 「舞姫‥‥あなた、わたくしから小遣い前借りしてたの、忘れたの?‥‥この高貴なる御饅 頭様は今夜真也様と共に、御祈祷奉り後、大部屋で厳かに頂くの。わかった?」 「うぅ‥‥」「当然ね」「え?、食うのか?、お供えせずに?」 「そしてこの風呂敷は、そうね、取りあえず、わ、わたくしが保管しておきます」 「う‥‥ん?」「‥‥ちょっと待て、無明妃」「‥‥そいつは納得できねぇな」 「ボリボリボリボリボリボリボリ‥‥」 「さくら、お茶とってくれ」「やだ、この干柿、渋みが残ってる‥‥おげぇ」 「お、朧くん、も、ものは相談だが、その、君が持ってる写真をだね‥‥」 「このあられ、美味しい」「うげっ、こりゃ味噌汁じゃねぇかよっ!」 「むっ!?、この帝劇饅、アンコ入ってねぇぞっ、どういう事だっ!?」 「か、神楽くん、も、ものは相談だが、その、君が持ってる、その‥‥」 「あっ、ラッキーッ、帝劇饅に栗入ってたっ」「こ、これもアンコなし‥‥」 「ん?、饅頭の中に何か‥‥ぶっ!?‥‥う、梅干しが入っとるではないかえっ!?」 「か、可憐さん、も、ものは相談ですがね、その写真についてですね‥‥」 「大福餅は大丈夫でしょうね‥‥ん‥‥ん?‥‥苺?‥‥お、美味しいっ!」 「ボリボリボリ、カリッ‥‥ん?‥‥なんだ、柿の種か‥‥!‥‥か、辛ぇえっ!!」 「くすん、アイリスも写真欲しい‥‥ん?‥‥煎餅の袋に‥‥あっ!、写真発見!!!」 「何っ!?」「何ですとっ!?」「何ですってっ!?」 「あ、言い忘れてました。“アタリ”と“ハズレ”がありますので、念のため」 「わーい、わーいっ、お兄ちゃんのママだっ!、わーいっ!」 「‥‥ざらめ煎餅3枚と海苔巻き2枚だっ!」「‥‥帝劇饅頭3個頂戴っ!」 「か、辛いぃ、お茶‥‥ぶっ!、だ、だから、なんで味噌汁なんだよっ!」 「おっ!?、俺の煎餅にも写真らしきものが‥‥‥米田の親父。ふざけんなっ!!」 「わたしの饅頭にも写真が‥‥ドキドキ‥‥ん?‥‥えーん、自分の写真だよぉ‥‥」 「わいわいわいわいわいわい」「ボリボリボリボリボリボリボリ‥‥」 この状況を唖然と見ていた神凪と大神、今や眉間にまで血管が浮かび上がっている。 「お前ら、な‥‥」「‥‥金払ったんだろうなっ!?」 「ふふふ‥‥舞台女優になった気分、かな?」 何故かその“さくら”は昔を懐かしむような表情で呟いた。 女優になりたかったのだろうか。同じ顔のさくらのように。 草履を脱ぎ、足袋も脱ぐ。白い素足と共に、一瞬だが、着物の合わせ目がずれて脹脛まで見 えた。その一瞬だけの映像が、その場にいた男性陣の網膜に焼き付いたのは言うまでもない。 「み、見たかっ?、見たかっ!?、銀弓っ!」 「天女のお御脚‥‥しかと、この目で。もう俺は何も見ない‥‥何も覗かない‥‥」 最早顔色が赤を通り越して赤黒くなっている大神と神凪。 「貴様ら‥‥決して覗いてはならんものを覗いたな‥‥」 「‥‥後で目をくりぬいてやる。舌も抜いてやる。そこで待ってろ」 逆立つ髪の毛が静電気でますます天上に向かって立ち上がる。 ぷるぷる震えながら、自らの靴と靴下も脱ぐ。 大神が“さくら”の前に立った。まさに大神とさくらの構図でしかなかった。 「‥‥わたしがいる」 「隊長と、さくら、だ‥‥」 桜花乱舞。そこには絢爛たる桜吹雪が舞っているようだった。 大神と“さくら”。合体するのではなく、戦う二人。 「あら、一郎が最初なの?‥‥ふふ、おいでなさい」 「‥‥いきます」 最後の言葉が途切れたと同時に大神は動いた。 たった一歩で間合いに入る神速の踏み込み、それと殆ど同時に必殺の霊力が充填。 些かも滞りなく。 『は、速いっ!?』見物人の咀嚼音が一瞬停止した。 「せぃっっ!」 実の母の肩口に向かって奔る電撃の上段二段蹴り。狼虎滅却、快刀乱麻・飛燕脚。 しかしそこに母の身体はなかった。 「!?」「む?」 横で見ていた神凪ですらも息を飲んだ。 大神が捕捉を誤ったとしか思えない軌道だった。小夜子はその軸線の真横に立っている。 その脚にいつの間にか小夜子の掌が添えられていた。そのままするすると大神の身体方向に 移動しつつ、その横膝を押える形で下に流す。 「あ‥‥」 バランスを崩すも軸足で後方に飛び、宛ら獣のような前屈みの姿勢で対峙する大神。 既に目の前に“さくら”がいた。 「!」「ふふっ」 同じように前屈みの姿勢で、ただし着物故に膝を屈伸するような格好で。大神よりも低く。 あっと言う間に小夜子の頭部が大神の顎の下まで到達していた。 両掌が大神の腹部に密着する。 『双龍!?』 驚愕する神凪。それは自分が編み出した技であり、自分しか使えないはずだった。 その技を目の当たりにしたカンナとさくら、そしてマリアに刹那緊張が走る。あの鍛練室の 時よりも大神の体勢は不安定だったからだ。 「はっ!」 まさに双龍だった。 大神は神凪が放った時に対してとった防御行動をそのまま使った。 足首だけの力で後方に飛び、霊力と化勁の力による防御を前面に。 「がっ!?」 大神は吹き飛ばされた。神凪の時よりも激しく。 『な、なんという威力‥‥っ』 しかし大神はまだ体勢を整える余力を残していた。飛ばされながらも着地体勢を整えようと する‥‥が、またもや小夜子が目の前に出現。 「ほらほら油断しない」「な‥‥」 その姿、千手観音。残像がそう見せているのか、あるいは、小夜子の周りだけ時間の流れが 違うのか。 大神は飛来する無数の掌の、一部だけを防御する事しか出来なかった。 いや、それでも、一部だけでも防御出来ただけでも、驚愕に値する技量と言える。 大神は今度こそ吹き飛ばされた。神凪に向かって。 ガッチリと弟を確保する兄。 「く‥‥が‥‥」 見つめる母。 右手を斜め右下方向に、左手を左上に。 桜木のようにも見えた。 「那覇手桐島流奥義・火神三十六掌」 持っている煎餅を須く落し唖然とする見物人の中で、一際驚愕の表情を見せるのはカンナ。 あの大神が一矢も報いる事なく完膚無きまでに叩きのめされた。一瞬にして。 そして、その技。 桐島流?、火神三十六掌?‥‥見たことも聞いたこともない。 「な、な、なんだ、なんなんだ、あ、ありゃ‥‥」 「三十六掌と全然違う‥‥」 カンナの呟きに、隣に座っていた夜叉姫が応える。 「な、なんで、てめぇが三十六掌知ってるんだよ、あたいですら会得出来てねぇのに」 「だからあたしがおめぇを鍛えるって言っただろ、夕べ」 「‥‥ち、ちきしょー」 「しかし、小夜子様‥‥すげぇぜ‥‥お美しいだけじゃねぇ」 戦う力を根こそぎ奪われた大神をゆっくりと芝生の上に座らせる神凪。 それでも急所を外してくれたのは母ならではの優しさか。 「大丈夫か?、大神」 「は‥‥は、はい‥‥くっ」 「随分強くなったわね、一郎。最初の手合わせでわかったわ」 「‥‥‥‥」 「ただ、あなた‥‥闇の影響をかなり受けてるわね。修正しないといけないわ。闇を寛容 するのを否定するのではないの。程度の問題。あなたが本来持つ聖なる力がどれだけ相 殺されてしまうのかが、ね。今晩、見回りが終わったら、わたしのところに来なさい。 いいわね?」 「は‥‥はい」 がっくりと肩を落す息子を見つめる母親。戦う力どころか自信までなくしてしまっては本 末転倒だ。苦笑する仕草で溜息をつき、そして歩み寄る。大神の前で着物を正し、しゃが む小夜子。 真正面から見つめ、そしてその手を取った。 「お立ちなさい」 「!‥‥は‥‥はい」 その言葉がその昔絶望の淵にあった、あの時と同じように大神の心を貫く。 小夜子は大神を元の場所まで手を引いて招き、そして今度は密着するように向き合った。 「あ、あの、母さん‥‥?」 「あなたの力はわかりました。それを踏まえた上で、あなたに必要なものを教えます」 「は、はい‥‥?」 そう言うと小夜子は大神の手にずっと添えていた自らの手の右手側を大神の肩に置いた。 大神の右手は小夜子の肩に。お互いの左手はお互いの腰に。 やはり只ならぬ気配が立ち上がるのは観戦者の女性軍、特に花組。 「さ、さくらのやつっ、何するつもりだっ、あたいの目の前でっ」 「ちょっとっ、さくらっ、いい加減、アイリス、怒るよっ!」 「さくら‥‥街娘役は舞台の上だけにしときなさいよ‥‥」 「あ、あのぉ、わたしはここ、ですよ?」 そして小夜子は大神の胸元に頬を寄せ、大神には自分の髪に頬を乗せるよう指示する。 大神が持つ霊力のうち、紫色の波長を小夜子が代行する。自らの力ではなく、大神が持っ ている力、あるいは第三者の力を大神を中継して自らに投影する小夜子。 「これは‥‥」 「霊力が同期・強調したら、あなたは左手を、わたしは右手を天に向かって伸ばす」 「こ、こうですか?」 「そう。そして霊力を全域に向けて蓄積放出」 「‥‥‥‥‥」 「神崎風塵流封神奥義・紫仙鳳翼燕子花」 「!」 「これはすみれさんと完全に心が通じあった時に使いなさい。何故ならこの協力技こそ が神崎風塵流の究極奥義をも凌ぐ力を持っているから。あなたがすみれさんの負担を 軽くしないといけないから」 「は、はい‥‥」 今度は大神の左肘を自らの柔らかい丘陵に押し当てる小夜子。 「か、か、か‥‥」 「慌てない、慌てない。でも‥‥ふふ‥‥さくらさんがしてるように見えるかな?」 そのようだった。 そしてその肘を抱き、左手を大神の胸に添える。 大神の右手はその小夜子の左手の上に。 「この場合は霊力を同期させる必要はありません。恐らく“彼女”があなたに合わせて くれるはずだから。彼女に主導権を渡しなさい」 「は、はい?」 「あなたは右手を拳にして前方に突き出す。彼女は左掌を。あなたの膝はややガニ股気 味にして腰を落す。彼女はやや内股気味に。この時は息を合わせないとダメ」 「‥‥は、はい」 「李氏八卦掌奥義・四神天翔烈界破」 「!‥‥紅蘭、ですね‥‥天象烈界破とは違うのですか?」 「勿論。これは紅蘭さんが復帰し、杏華さんと‥‥となった後で使える技」 「は、はいっ、はいぃ‥‥」 「相手は逆でもいい。紅蘭さんとそうなった後で、万が一杏華さんが戦場に立つような 場合でも。その時は四神冥王烈界破よ」 「え‥‥杏華さんが?‥‥杏華さん、神武を操縦出来るんですか?」 「ごめん。また口が滑っちゃった。忘れて。この協力奥義に限っては、本当にどうしよ うもなくなった時に使うのよ。これはあまりに強大な威力を秘めているから」 「そ、そうなんですか?」 「しかも相方となるのは紅蘭さん。彼女も恐らく覚醒した状態で合流するはずだから。 そしてこの技で解き放たれた四神は放っておくと地上の悪という悪を喰らう。それは 人間も例外ではない。だから四神が暴れる前に再度封じる必要がある」 「それは‥‥」 今度は自らを抱きかかえるように指示する小夜子。左腕で腰を、右腕で小夜子の下半身 全体を支え、顔が小夜子の胸元に埋まるような格好。小夜子は両腕でその大神の頭部を 包み込む。 またしても騒然とする観衆。 「あ、あの‥‥ほ、本当に、これでいいんですか?」 「ふふふ‥‥」 「あ、あの、こ、これは、その、頻繁に使っては‥‥ダメですよね、はい‥‥」 「巻き起これ」 「ま、巻き起これ‥‥?」 「愛の嵐」 「あ、愛の嵐っ!?」 「そして‥‥」 「あ、あの、こ、これは、勝利のポーズ、ですか?」 「バカッ、狼虎滅却・天地風雲よっ!」 「は、はいっ」 「もうっ。この技は聖なる力を秘めているのよ。あなたと紅蘭さん、二人のね。だから 四神もこの力には抵抗出来ない。もしあなたがたが倒すべき相手が残存しているよう な場合、止めの一撃にもなる。蓄積霊力を最初の奥義とこの奥義に上手く分配しなけ ればだめ。この技の時は、あなたが紅蘭さんを導くのよ。わかった?」 「わ、わかりました、です‥‥と、ところで、神武乗ってる時も‥‥?」 「接触している事が重要なの。紅蘭さんとの接触面積が大きいほど、近ければ近いほど いいわ。霊子甲冑同士の場合は金属だから接触部分が点になってしまうわね‥‥うん、 そこは麗一と相談しましょう」 「‥‥そうですね」 「二人で操縦できる霊子甲冑があれば一番いいんだけどね」 「?‥‥二人で、って‥‥複座式、という意味ですか?」 「いい?、愛の嵐、よ?」 そう言うと自らの胸に大神の顔を抱いたまま、小夜子は大神の逆立った髪を撫でた。 「は、はい、はい‥‥はい‥‥」 「ふふ‥‥よろしい」 そして小夜子は大神から離れた。 「他の花組のみなさんについては‥‥うん、明日にしたほうがいいわね。見られている 事だし、影響が出るとよくない」 「え?‥‥みんなに個別指導、ですか?」 「何言ってるの。わたしが彼女たちに教えられる訳がないでしょう?、そもそもわたし のほうが彼女たちから‥‥」 「?」 「あ、っと‥‥危ない危ない。鶏は卵を産むけど、卵が最初だった訳じゃない。だれか が似た卵を持ってきたとしても、鶏が孵るとは限らない」 「?‥‥??」 大神はバツが悪そうに、躊躇いがちに小夜子から離れ、そしてもう一人の自分に役を譲 った。ニヤニヤ笑みを浮かべて交代する神凪。 「ふ‥‥役得だな、大神。愛の嵐、ってか?」 「トホホ‥‥」 「さて、次は麗一ね」 「力は加減しますが、御注意を」 「ふふ、優しい人‥‥」 小夜子の瞳が明らかにさくらとは違った色彩を放っていた。 いや、鍛練室で神凪の膝に頬を乗せた、あの時の色と、似ていなくもなかった。 目を細め、懐かしい人を見つめるような瞳でもある。 「わたしは長い間待っていた‥‥この日が再び来るのを」 「?」 「あなたと再び踊るため‥‥淡い思い出ではなく‥‥切ない片思いでもない‥‥」 「?‥‥??」 「さあ、いらっしゃい、麗一」 最初の大神と同じ位置で母と対峙する神凪。 不思議な事に、大神と仕合った鍛練室の時と異なり、暗黒霊力が気配すら感じられない。 それでも只事ではない霊気が立ち上がり、それが神凪の呼吸と共に更に巨大に膨れ上がる。 腰を落し、八極拳の構え。そして手が拳ではなく掌に変化する。 左手を掌を向けて前面、小夜子に。 右手を後方下向きに流し、手刀を形作る。 「これから出す技によって、あなたの最も愛した人は逝ってしまった」 「‥‥‥‥‥」 「無論、あなたに対しては絶対にそんな事はしない。尤も、躱されるでしょうが」 「わたしの愛している人は、目の前にいる」 「‥‥自分もです、母さん」 「うれしい」 対する小夜子は初めて構えを取った。 半身にし、左手をやや前方へ。右手を左肩近く、顔寄りに。 左足をやや前に、重心を右足に。 「‥‥参ります」 大気が引き裂かれる音が観衆の耳を襲った。 見えたのは神凪の腕の位置が変わった後、即ち技が発動された後。 「え?」「な、何が?」 その過程が見えた見物人は誰一人いなかった。大神ですらも。 左掌が背後に、そして身体の陰に隠れていた右手の手刀がいつの間にか前面に突き出され ている。その神速の“抜刀”によって産まれた霊波と気功波が小夜子を襲った‥‥はずだ った。 しかしまたもや、大神の時と同様、小夜子の身体の軸からずれた位置に放たれ、その軸線 上、かなり離れた場所にあった桜の木に直撃する。 桜の木は神凪の気功波を吸収した。そういう性質の大木らしい。 そして神凪は最初からそうなると予想していたらしく、間を置かずに引き手の左手が裏拳 で旋回、真横から小夜子の肩口を襲った。 まるで質量がない羽のような軽さで後方にずれる“さくら”。 神凪の連続技はそれで終わらなかった。左手、右手、左手、右手‥‥と、掌、手刀、拳と 形態を変えつつ、それぞれが必殺の威力を以て藍色の着物に飛来する。 が、その全てを“さくら”は流した。常に、必ず、神凪の手に自らの手を添えて。 神凪が腰を落すと同時に“さくら”もしゃがむ。二人の視線は常に同じ位置にあった。 まるで二人が激しくも美しい円舞曲を舞っているように。 「な、なんて奇麗なんだ‥‥」溜息を洩らすカンナ。 「あたしも、初めてだ‥‥あんな‥‥」同じく夜叉姫。 「詠春拳だ。八卦掌も混じってる」 氷室が答えた。感に堪えるような口調は隠せない。 「知ってんのか、氷室さん」 「手を添えてるだろ?、聴勁と言うが、あれが詠春拳たる所以だ。足捌きは八卦掌のほう に近いな。いずれにしても紅蘭が得手にしてる。しかし‥‥」 「詠春拳は確か女性が開祖だったわね」 「よく知ってるな、玲子。もしかしてお前もやるのか?」 「わたしじゃなくて可憐さんよ」 「そうなのかい?、可憐さん」 その可憐は何処か哀しそうな顔をしていた。 横に座る本物のさくらは更に酷い。 「‥‥わたしは‥‥わたしは、あんなふうには、踊れない‥‥」 瞳が潤み、そしてそれは涙となって頬を伝った。 嫉妬。間違いなく、それは嫉妬だった。向ける相手が間違っているとわかっていても。 神凪に想いを寄せる全員が同じだった。 マリアも。可憐も。神楽も。杏華でさえも。 「私の技がこうも容易く‥‥流石です、母さん」 「あなたがわたしを導いてくれたのよ」 「?」 「ふふふ‥‥」 円舞曲の最後に放たれた必殺の正拳突き。まさに必殺の衝撃波を伴って。 それを左手で流そうとする小夜子。 その瞬間、拳が逆螺旋を描く。 物凄い踏み込み音と共に、引かれた拳の代わりに必殺の肘が小夜子の胸元を襲う。 躱す事は出来ない、密着距離からの連携技。 李氏八極拳・猛虎硬爬山。 少なくともそれを知っている数少ない面子、斯波と氷室にはそう見えた。 それもわかっていたかのように、小夜子は右手で受けとめる。既に足は地にない。故に 小夜子は神凪の技によって羽のように、またしても後方に翔んだ。 全く手ごたえがなかった。しかし、それもそうなるだろうと神凪は予測していた。 連続技を締括る最後の、正真正銘、必殺の抜刀が、未だ宙を舞う小夜子を襲う。 「狼虎滅却・天狼天破!」 神凪の踵落しが産み出す衝撃波。着地した大地が激震を起こし、軸線上の大気に巨大な 刃が奔った。 空中で腰をかがめ、神凪に対して礼をするような格好を取る小夜子。 右腕を前から、左手を後ろから、そして腕を回す。 「破邪剣征・月華爛漫」 袖の茉莉花が旋回し、小夜子は独楽のように回転した。 刺繍であるはずの茉莉花から本物としか思えない花びらが産み出された。 白い華。とても小さな花びら。それは茉莉花。 同じく白い花。茉莉花よりも少し大きめの花。マリア。 薄紅色。桜の花びら。 淡い黄色。菖蒲。アイリスの花。 紅い大輪。ハイビスカス。 紅紫から青紫へのグラデーション。三色すみれ。 真紅の蘭。 そして小夜子の着物と同じ色の花、夜来香が全ての花びらを包み込むように乱舞する。 まさに月華爛漫。 袖の回転面、それに等しい断面積の虹色の台風。 飛来する大気の刃を受け止める花の乱舞。 キンッッッッッ 高周波の衝撃音が帝国劇場を襲った。 全ての窓に亀裂が走る。割れずに、まるで曇ガラスのような目に見えない微細なヒビ。 そして何事もなかったように咲く茉莉花。白い花。蒼い花。 またしても唖然とする見物人たち。 これまで自らが戦い、仕合ってきた相手、あるいは自分も含めて、これほどの技量と力 を持った体術の使い手など存在しなかったから。ただでさえ、帝撃司令の実力を知って いるのに、まだ隠し種があるというのか?‥‥あるいは、それまで認知していた彼の力 は、やはり氷山の一角に過ぎなかったのか。 そして、やはり動揺を隠せないさくら。 「月華、爛漫‥‥?」 「妙だな、真宮寺大佐の桜花爛漫とは違う」 「ち、父を、御存知なのですか、し、斯波さん?」 「え?‥‥ああ、一度会った時に見た技だけど、明らかに‥‥君は知らないかい?」 「し、知りません、桜花爛漫なんて技、見たことも、聞いたことも‥‥ましてや、月華 爛漫なんて‥‥」 「‥‥そうか。だが君なら出来るんじゃないか?、桜花爛漫は確か桜花放神の上位奥義 だと聞いてる。桜花放神を会得した者であれば必ず出来る。大佐はそう言っていた」 「‥‥‥‥‥」 「しかし‥‥なんと美しい奥義なんだ‥‥」 戸惑いと焦り、そして得体の知れない不安と失望感がさくらの内側を駆け巡る。 自分は一体、何者なのか‥‥存在意義さえも失いそうだった。 自分は居なくともいい。大神小夜子が真宮寺さくらとして生きていっても、何の問題も ないかもしれない。寧ろ、神凪にとっては‥‥小夜子の技は意図せず、逆にさくらを鬱 にしてしまった。 「無双天威は?」 「天狼天破は私の霊力を伴って命中した場合、月読と同じ効果を与えます」 「確認したいと言わなかったかしら?、あなたの力を全て解放した上で」 「それは出来ない相談です」 「安心なさい。銀座が壊滅する、なんて事にはならないわ」 「‥‥ほう?」 「勿論、この劇場もね。わたしが今まで嘘を言った事がある?」 「‥‥‥‥‥」 神凪が少しだけ移動した。観客に背中を向ける位置まで。 故にその顔は彼ら、彼女らには見えず、母親だけに向けられる。 瞼を閉じ、そして再び開く。そこにあるのは真紅の瞳。 魔王ではなく、堕天使のそれ。 「‥‥望むらくば、今の私の姿、この場で忘れてほしい」 「あなたはわたしが産み、育て、愛した。あなたの全てを。大神麗一、そして神凪龍一 を。たとえあなたが魔道に堕ちたとしても‥‥あなたを愛せずにはいられない」 「あなたの言葉を信じてます。ですが、もしも、万が一あなたがここで逝ってしまった ら、私も後を追う事にします」 「馬鹿言わないの」 神凪の周囲に、遅ればせながら、そしてこれまでで最も巨大な霊力‥‥そう、大神と対 峙した時よりも、月影と対峙した時よりも‥‥それが稚技だったとさえ思えるほどの、 絶望的な暗黒霊力が吹荒んだ。 それまで雲一つない晴天だった空が、時を経るまでもなく渦巻く暗雲で覆われた。 雷鳴が轟き、大気がイオン化、プラズマとなって、その男の周囲を奔る。 「な‥‥な、なんだよ、こ、これは‥‥」 「サ、タン‥‥?」 「‥‥終わりだ」 「こ、これが、兄さんの‥‥真実の‥‥」 現在の五師団を指揮する者、銀弓・無明妃・斯波・大神の口から、まさに絶望めいた色 の言葉が搾り出された。ポテンシャルが、まさに天と地ほど、大人と赤児ほどに違う。 これほど絶望的な実力差があったのか?、自分と帝撃司令の間には? 地球そのものを飲み込みかねない暗黒の力だった。 「これが、今の私の力そのもの。この状態から放たれる無双天威は、この国全土を滅ぼ してしまう。あるいはこの惑星そのものを。私が“真”に変貌するまでもなく。故に 私は自らを封じた」 「光を喰らう闇。それでも聖なる力が消える事はない」 「‥‥‥‥‥」 「あなたは変わる必要はない。でも望むなら変わる事もできるのよ」 「‥‥一郎っ!、よく見ておけっ!」 合掌する神凪。 それは無双天威を放つための構えであり、母親に対する尊敬と慈悲と愛情が入り交じっ た姿でもあった。 曇天と、今や夜のような暗さになった中庭、それを照らすことのない暗黒の稲妻が天地 を結ぶ。極太の雷光に成長したその“柱”は中庭の四隅から、壁際から、目に見える領 域の全てから派生した。 滑るように無作為に移動する稲妻が、やがて小夜子の周囲に集結。 柱がお互いに雷光の糸を放ち、お互いに結びつく。 最早小夜子に回避出来る空間はなくなっていた。 「‥‥はっ!?、じょ、冗談だろっ、兄さんっ!、や、やめてくれっ!!!」 「これが月読‥‥」 合掌を解いた神凪が消えた。 宙に舞う魔鬼。天翔ける堕天使。 「く、くそっ」 今の大神にその果てしない力を抑える術はない。 空中を舞う翼が、再び頭上で合掌となる。 見上げる小夜子。 目を細め、そして、両手を振り上げる。近づく息子に向けて。 掌を伸ばし、両手の人差し指同士、親指同士を接触、まるで今まさに水の中に飛び込ま んとする人魚のように。 「狼虎滅却・無双天威ッ!!!」 “柱”に接触した神凪の諸手の手刀が凄まじい轟音と共に暗黒の亜空間を形成する。 無双天威・月読が産み出す無の世界。 誰一人‥‥唯一月影の精神体だけが身体を犠牲にして逃げ出せたのみの、絶対必殺。 亜空間はすぐに劇場の壁面近くにまで膨張していった。その闇はやがて銀座全域に、日 本全体を覆い尽くすだろう‥‥あるいはそれに留まらず、黒い世界はこの惑星全体にま で広がり、地球は事象の地平線へ消えていくのかもしれない。 観客は誰も動かない。 回避しても無駄だとわかっていたからか。あるいはどうせ逝くなら、彼の手にかかって と願っていたからかもしれない。 しかし暗黒天球は壁に接触する直前で成長が停止、逆に収縮していった。 小さく、小さく。 それはやがて発動点まで収縮し、消えていった。 そこには小夜子が最初と同じ場所で、同じ姿勢で立っていた。 両手を空に伸ばしたまま。 中庭には枯れ葉一枚、土一片ですら、その同じ場所に停滞している。 小夜子の言葉通り、帝国劇場はいつもの静けさを保っていた。 曇天も嘘のように晴れ上がり、もとの明るさを取り戻す。 腕を下ろし、首を少しだけかしげて微笑む菩薩様。 呼吸も忘れ、瞬きも忘れ、ひたすら見つめる観客。 「‥‥お見事でした」 「如何なる闇を以ても消せない聖なる光。狼虎滅却・天威円極」 「天威、円極‥‥」 「さっき一郎の頭を撫でた時に、ほんの少しだけ霊力を貰ったの。わたし、霊力ないか ら。覚醒した一郎が使った場合、花組メンバー全員を“かばえる”ようになる」 「‥‥‥‥」 「一郎、ちゃんと見たでしょうね?」 「は、はい‥‥は、い‥‥」 「あなたのほんの僅かな力でも、麗一の無双天威を中和出来るのよ。あなたは間違って も“違う”方向に力を向けてはいけない。その理由がわかった?」 「‥‥はい」 「そして、麗一」 「はい」 「何故月読を超える技を使わなかったの?」 「勘弁してください」 「銀河天震を」 「!!!‥‥やはり、知って、おられたのですね‥‥」 「あなたには‥‥あなたの奥の奥には、闇よりももっと暖かくて輝かしい力が眠ってい るの。あなたが捨ててきたと思っているもの。あなたが望んでも得られないと思い違 いをしているもの。それに気付いて欲しかった。あなたが拠り所としている、その闇 の力をわたしが無効化すれば‥‥心を開いてくれるのでは、と」 「‥‥‥‥‥」 呼吸一つ乱さず、劇場に到着したままと同じ姿‥‥いや、髪形がリボンによってポニー テールとなった“さくら”が、その髪を揺らし、ゆっくりと神凪の近くまで歩み寄る。 試しの時を終えた神凪は大神と異なり、肩を落している風ではなかった。 古今東西、最強を自負する自分が勝てない唯一の相手が目の前の女性だったから。それ も最初からわかっていたから。 いずれは大神もその女性のように成長するだろう。その時こそ‥‥ 「何を考えているか、わたしにはわかる」 「‥‥‥‥‥」 「あなたにはあなたの道を行ってほしい。その気持ちに変わりはないわ。でも忘れない で。わたしがあなたの傍に控えている事を。あなたには帰る場所がある事を」 「‥‥はい」 「愛してるわ、麗一」 そう言って小夜子は神凪の首に腕をまわし、身長差がある自分の“位置”まで神凪の顔 を誘導した。そして、重なる‥‥その真紅の唇。 「!!!」「う、うわぁぁ‥‥」「あ、あぁぁ‥‥」 またしても口をあんぐりと開ける観衆。勿論大神もその一人。 「‥‥あ、マ、マリ、マリア、あ、ありゃ、ありゃ、そ、その、が、外国で、その、よ、 よくやる、あの、か、家族同士の、そのキ、キキキスだ、だろ?」 「あぁぁぁ‥‥」 「た、た、大佐、わ、わ、わ、わた、わたしに、にも‥‥」 「れ、れ、れ、れい、麗一、さ、さん‥‥」 「さ、さよ、小夜子、様‥‥」 家族同士のフレンチキスにしては有り得ない長い時間が経過した後、小夜子は離れた。 名残惜しそうに。何処か哀しそうに。 「‥‥麗一、あなたも今晩、一郎が終わった後に来て。仕事を全て終えてから」 「はい」 「あなたには‥‥とても‥‥とても長い時間が必要。だから明日の朝まで、わたしの傍 にいてもらうから‥‥あなたのために‥‥わたしのために」 「‥‥はい」 呆然とした大神を含め、三人の大神親子は中庭の傍らにあるベンチに腰をかけた。 小夜子を挟むように大神と神凪が両脇をかためる。 どんな会話がされているか、遠目の観客にはわからない。 ただ、時折笑みを溢す小夜子、微笑みを浮かべる神凪、そして何処か情けない表情の大 神の、その姿を見ていると、何処にでもいる家族の情景にも見えた。 「終わったようだ。さて、俺達はここで出来る仕事を手伝うとしよう」 無音状態の観客席で斯波が締括る。斯波と銀弓はそのまま事務室へ消えた。 可憐、椿、由里も続く。 「俺らは玄関の修理だ。後で地下にも行ってみよう」 氷室は朧と夜叉姫を連れ立って正面玄関に向かった。 「わたしは司令室に行ってる。大将から連絡あるかもしれないし」 玲子が半ば呆然としたままのマリアを引っ張り、地下に向かった。 夜叉姫を除く夢組は全員治療室に戻った。山崎がいつ目覚めてもいいように。 弥生と村雨は一度花やしきに戻り、そのまま築地に行って食材を仕入れてくるらしい。 未だ動揺したままのカンナとさくらを、アイリスと十六夜が引っ張る。 鍛練したほうが気が紛れるから、と。 同時刻。 横浜の湾岸に位置する高台、近隣住民からは“港が見える丘”と称される、やや荒れた 公園に二人の男が立っていた。 長身で長い銀髪と端正な顔立ち。もう一人は更に背が高く、無骨を絵に描いたような男。 愛用しているはずの紅い中国服、そして青いシャツではなく、いずれも軍服を黒に染め た、目立たず動きやすい服装だった。 鍛錬でもしていたらしい、やや汗ばんだ二人の顔。 先程まで熱気で赤らんでいた顔が、今は土気色になっていた。 「まさか、ヤツが復活した、のか?」 「恐らく神凪大佐、ですよ」 「‥‥信じられん。あれが一個の人間が持つ力、なのか?」 「‥‥‥‥」 青ざめた月影の顔に苦悩の色すらも滲み出る。 湾岸の彼方、水平線の向こう、銀座の位置にじっと視線を固定する二人。 つい今しがた、その銀座の上空から帝都全域にまで拡散した雷雲。 今はそれが幻のように消えている。 随伴した、恐るべき暗黒霊力すらも。 自らの主となった女性を蹂躙してまで得た力。大神ですら太刀打ち出来ないと自負して いた自分の力が、暁蓮と交わる事で更に強化された。 そこまでして得たものが、まるで獅子の前に群がる蟻のようにすら感じられる。 そしてもう一方の龍塵。 こちらは一度は青ざめていた顔が、再び烈火の如き気合いと共に紅く染まっている。 己の本来の主の、その色に相応しく。 「流石は冥王、魔界を統べる者との死闘の再現となりますか?」 「あのような輩と神凪殿を一緒にしては失礼であろう」 「確かに。ですが、これで手段を選ぶ訳にはいかなくなりました」 「むぅ‥‥しかし、わからんのは‥‥」 「そこです。あれは間違いなく無双天威月読。それも私がかつて経験したものを遥かに 凌ぐ質量です。それが一瞬にして解除された」 「中和されたような感じだったな。まさか大神殿か?」 「それはないでしょう。彼の力は未だ拘束されたままです」 「では‥‥」 「‥‥どうやら今一度銀座に赴く必要がありそうですね」 苦悩の色を隠せないまま、月影は何かを覚悟した表情すら浮かべていた。 見つめる龍塵。 「それは自分が承ろう」 「?」 「一度暁蓮様に同行したが、あの時は挨拶もままならなかった。帝国華撃團諸君に、こ の私の存在を明らかにする、よい機会でもある。月影殿お一人だけと思われては心外 この上ないからな」 「しかし‥‥」 「まぁ、任せておけ。妙な輩も徘徊しているようだ。それは貴殿向きではあるまい?」 「‥‥藤枝あやめ、か」 「貴殿は暁蓮様、そしてかすみ殿と共におられよ。お二人と共にある事こそが貴殿を更 に強くする。貴殿は焦る必要など全くないのだよ」 「‥‥‥‥‥」 「ふ‥‥夜には戻る。かすみ殿に緑茶を用意して待つよう伝えてくだされ」 立ち去ろうとする龍塵の、その行く手の竹林に隠れるように立つ女がいた。 珈琲のようなやや茶色味を帯びた長い黒髪。 細身でありながら、由里が選んだ和服故に、その随所で見え隠れする身体の線と面が、 確実に女である事を証明している。 「おっと‥‥聞こえてましたかな。彼の事は頼みましたぞ、かすみ殿」 すっと頭を下げて横切る龍塵。 かすかに、ほんのわずかだが、蘭の香りがした‥‥ような気が、かすみにはした。 そして再び“彼”を見つめる。 うっすらと瞳を潤わせる雫が、月影の心を締め付けた。 さくらが後ろめたさと感じたそれと似た感情によって。 二人を包む浜風は時折優しく、そして時に激しく吹きすさぶ。 何かをせかすように。 せめて、夕暮れまでに、と。 <花組野外公演 第十一章 終わり>