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Sweet Dreams


＜その１＞

帝国劇場が最も輝く時刻。それは黄昏時かもしれない。
公演の帰り際、ふと振り向いた時に目に写る紅く染まった煉瓦。
陽が沈む。未だ紅く染まる空に劇場の稜線が際立つ。
暖かい闇の中に、ぽ、ぽ、ぽ‥‥と儚げに灯される劇場の灯。
そして人々は三々五々、家路に戻る。
劇場公演の午後の部に客入りが集中するのも、そうした要因があるのも確かだ。

この日もそうだった。
午前予定されていた公演が急遽午後に変更になったことも客にとってみれば好都合だ。
それに演目によっては時間帯を選んだほうがいい場合もある‥‥特に“愛ゆえに”など
は黄昏時に見るのが情緒的とでも言えるだろう。

突然の演目時間帯変更にも大きな不満の声は生まれなかった。客側にとってもその類い
の予定変更にはもう慣れているらしい。
先月の舞台もそうだ。あの時の配役変更‥‥大神一郎というモギリの青年が主役の青年
将校を演じ、マリアタチバナという本来なら青年将校役の女性が相手役のヒロインを演
じたこと‥‥その配役の変更も逆に期待を以て受け入れられた訳だから、寧ろ突然の変
更はある意味何かが起こる期待と予感を客に齎したりもした。

この日の公演で人々を最も驚かせたのは窓口だった。
窓口とは、つまりモギリ。
いつもの逆立った髪型の青年。如何にも好青年という顔だちのあの青年。
だが、どこか違う。
何が違うのか、と聞かれて答えられる訳でもないのだが‥‥
同じ笑顔。同じ瞳。だが、どこか違っていた。
少しハスキーで耳触りのいい声。ただ、その子守歌にも似たその声は聞く者を深い眠り
に誘ってしまいそうだ。
白いカッターシャツと黒いスラックス、それは同じ。
外見で違うところと言えば、あの青年モギリの象徴たるベージュのチョッキを着ていな
いこと。あとは背の高さが違うぐらいか‥‥それも近くに寄らないとわからない。

「いらっしゃいませ」
「す、すてき‥‥」
「‥‥いらっしゃいませ」
「そ、そんな、いらっしゃいだなんて‥‥」
「い、いらっしゃいませ」
「ああ‥‥まいりましたわ‥‥」
「あ、あの‥‥」
「‥‥む、胸が苦しい、ですわ」
「そ、それはいけません、支配人室で横になられて‥‥」
『‥‥にやり』『む‥‥そのような手が‥‥』
「わたくしもなんだか‥‥」「眩暈が‥‥」「吐気が‥‥」「寒気が‥‥」
「お、おおっ？」

微妙な違いはあるものの、やはり女性客の反応はいつものモギリに対してのそれと概ね
一致していた。新しく赴任した若き支配人の噂は、間もなく女性常連客の間に口コミで
広がっていたのだ。あのモギリの青年と生き写しの青年がいる。歳は２０代中盤、仕事
も相当できるらしい‥‥適齢期を迎えた華族・貴族・富豪のお嬢様常連客にとっては、
まさにうってつけの標的だ。この美貌と財力を以て、あわよくば‥‥という案配だ。
そんな妄想を抱く彼女たちとは裏腹に、当人にしてみればモギリは初めての経験だった
らしい。冷汗たらたら、なかなか動いてくれないお嬢様軍団を相手に奔走していた。

行列も後半に差し掛かった頃‥‥

「はあ‥‥あ‥‥い、いらっしゃいませ」
「大神さん‥‥じゃ、ないですよね‥‥」
「え‥‥ええ、大神は所用で‥‥」
「ま、まるで‥‥生き写し‥‥」
「‥‥親戚なんですよ」

一人の少女が訊ねる。
髪はおかっぱ‥‥売店の売り子と殆ど同じ髪型。大きく円らな瞳‥‥街娘役のあの帝劇
女優そっくりに深海のような深い藍色を呈していた。そう言えば顔のつくりが、なんと
なく彼女を幼くさせたような感じだ。ただ、瞳と同じ藍色の着物が、その少女の年齢を
ほんの少しだけ大人びて見せてくれる。その少女の一張羅なのだろう。
その幼い少女もやはり大神の隠れファンの一人だった。
いつもは臥せ目がちに大神にチケットを手渡し、そそくさと受け取って観客席に走る。
藍色の着物を着て俯いてしまえば、髪の黒と着物の藍色だけが視界を覆って、その少女
の存在感など残るはずもない。事実、大神はこの少女のことは記憶にはなかったようだ。
それが、今日に限ってそのモギリの青年をまじまじと見つめてしまった。
チケットをモギる仕草が少し違う。違う気がしただけだが‥‥
ハサミを入れ少女に返す。その返し方が何処か違っていた。
大神によく似たその青年は、それまでと違う笑顔を浮かべて少女に応えた。

「いつも起こし頂いているようですね。ありがとうございます」
「え‥‥？」
客席に向かう足が止まる。なぜかロビーから離れられなかった。
その青年は次々とチケットをモギりながらも、横で呆然としたままの少女を時折振り向
きながら声をかけた。
「‥‥失礼ですが、お幾つですか？」
「じゅ、１５歳‥‥です」
「学生さん、ですか？‥‥学校はお休みですか？」
「あ、あの、その‥‥学校は‥‥行ってないんです‥‥」
「‥‥‥‥」
モギリの青年は暫しその少女を見つめ、そして再びチケットに鋏を入れ続けた。
「いらっしゃいませ。お客様は二階席になりますね。そちらの階段を上って‥‥」
少女はなんとなく居心地が悪くなってしまったようだ。
学校は行っていない。サボっている訳ではない。
勿論そんな雰囲気の少女でもなかったが。
働いている、ということだった。この時代には珍しくない。
旧制高校に進学できる女性は非常に稀で、ごく一部の特権階層のみの令嬢や、向学心が
高いそれこそ希少な女性に限られる。その少女はというと、ごく普通の何処にでもいる
ような少女だった。
小学校を出てすぐに下働き。帝都は汚れている、と誰かが言ったが、汚れているはずの
帝都東京はそんな幼い少女のために生きる場所を与えてくれた。汚れているのはどんな
ものでも受け入れるため。
働いて得た収入は生活の糧になる。自分のためではなく家族のために。そして同じよう
な境遇の異性と結ばれて、同じように平凡な家庭を築いていくのだろう‥‥
そんな運命が見え隠れする少女の、唯一の楽しみが、この帝国劇場の公演だった。
滅多にとれない休みと僅かばかりの小遣いを、このために‥‥自分の喜びのために使う。
何処にでもいる少女の精一杯の贅沢がそこにあった。

「‥‥お待ちください」
歩きだしかけたその少女に、モギリの青年は再び声をかけた。
「お芝居が終わった後、支配人室に立ち寄って頂けませんか？」
「え‥‥え？」
「お待ちしてますから」
にっこり微笑んで、その青年は再びモギリに邁進した。
兄がいればこんな感じで微笑んでくれるのだろうか。大家族が普通のこの時代にあって、
その少女には男の兄弟がいなかった。いるのは姉妹。姉は既に嫁いでおり、妹はまだ小
学生だ。

その言葉と笑顔に背中をおされるようにして、少女は客席に向かった。
笑顔がやっぱり違う‥‥少女は確信した。
いつものモギリの青年が時折浮かべる照れくさそうな笑顔、その笑顔とは全く違う、大
人の笑顔だったのだ。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



公演が終わった後も、その少女は暫くロビーをうろうろとしていた。
公演の間中、あの青年の言葉が頭の中を駆け巡っていた。芝居そっちのけなど、初めて
だった。
三々五々、客は劇場から散っていく。いつの間にか、ロビーにはその少女だけが立ち尽
くすことになっていた。
空も赤らんできている。
蒸気自動車の音、銀座の街の雑踏が、ロビーに優しく木霊する。
そしてその音に隠れて微かに聞こえるカラスの声。いつもなら、もう家に帰る時間だ。
「‥‥ん？」
気付いたのは売店の売り子。“椿姫の夕”という演目が大好きなその売店の売り子の名
前は“椿”。伝票あわせも完了し売店の暖簾を降ろす段になって、ふいに人気を感じた。
見覚えがある。二ヶ月に一度程の頻度で芝居を見に来て、そして必ず椿の元へブロマイ
ドを買いにくる少女だ。
花組のブロマイドではない。椿が裏で扱う、あのブロマイド。
思わず声をかける椿。
「あの‥‥」
「え？‥‥あ、も、もしかして、劇場閉まっ‥‥」
「いえ、まだ時間はあります。お連れ様でもお待ちになっているのですか？」
「あ、あの‥‥」
「？」
「その‥‥」
「あ‥‥もしや支配人が招かれたお客様では？」
「招かれたって‥‥そ、そんな、そんな‥‥」
「この横の食堂をまっすぐ行くと事務室に突き当たりますから、その横が支配人室にな
　ります。直接伺っていただけますか？」
「で、でも‥‥」
「支配人がお客様を招かれるなんて滅多に‥‥もしや、親戚の方、ですか？」
「ち、違います‥‥」


コンコン‥‥
少女は躊躇いながらも、支配人室の扉をノックした。
と、扉が開いたのは殆ど同時だった。
カチャ‥‥
『ぎくっ』
いきなり目の前に華が広がった。
そして華の薫りも。
「あ、ごめんなさい。では失礼します、支配人」
「あ‥‥」
目の前に広がった華は桜の花びらだった。桜の着物の柄だったのだ。
少女の横をすっと横切る桜の花びら。
長い黒髪が揺れる。紅いリボンが風に靡いた。
風‥‥まるで桜が導いたような、柔らかい風。なんとも言えない甘い香りがする風だっ
た。ちらっとその少女を見つめ、にっこりと微笑み、その桜色の女性は立ち去った。
「なかなか来てくださらないから、ふられたかと思ってましたよ」
「そ、そんな‥‥」
「さ、中へ入ってください」
パタン‥‥
扉が閉まると、さくらの香りはすぐに消えてしまった。
‥‥この扉は現実と夢の世界を繋ぐ扉‥‥
ふと少女の脳裏に妙な思考が生まれた。
「‥‥どうしました？」
「え？‥‥あ、いえ‥‥さくら、さん‥‥真宮寺さくらさん、ですよね、今の方」
「ええ」
「こ、こんな間近で声が聞けるなんて‥‥私、大ファンなんですぅ」
「おっと‥‥なら、もう少し居てもらえばよかったかな？」
その青年は立ち上がり、そして少女の目の前まで歩み寄った。
背が高い。まっすぐ立っていると、少女の視線はその青年のネクタイピンの位置に留ま
ったままだから、空を見上げるようにしないと視線が合わない。
「そちらへ‥‥」
彼もそのあたりはよくわかっていたらしく、少女を傍らのソファに導いた。
そして当人は反対側の小さめの棚に向かう。作業台も兼ねているようだ。本や写真台と
共に置かれている食器の一つを取り出し、何やら水筒のようなものを手にする。
ぼけっとしたままの少女に背中ごしに呟く。
「お掛けになっててください。今お茶を煎れますから」
「お、お構いなく‥‥」
「紅茶でよろしいですか？」
「ほ、ほんとに、その‥‥お、お構いなく‥‥」
「‥‥珈琲にしましょうか？」
「え‥‥な、なんですか？‥‥こ、こーひー、って‥‥」
「ふふ‥‥では珈琲にしましょう」

コポ‥‥
不思議な薫りが部屋に漂った。
甘い香り？‥‥ほろ苦い香り？
異国の薫りがした。
椅子の上に座るような姿勢でソファに腰を下ろす少女。膝の上に掌を重ね、ただじっと
青年の後ろ姿を見つめる。なんだかその青年まで異国の人のようにも見えた。
黒い上着を着ているため先程の白いシャツは見えない。その後ろ姿は、大神という名の
モギリとは明らかに違っていた。
意識を向ける。するとその意識を吸い込んでしまうような闇が覆う。
実際に暗いのではなく、意識の焦点が合わないような感じ。
来てはいけない場所に来てしまった‥‥殊更にそんな気持ちにさせる背中だった。

「‥‥後ろは違うでしょう？」
ドキッ
まるで心を読まれたかのような言葉に思わず硬直してしまう。
「よく似ている者同士を識別する時、前を見てはいけない。惑わされますからね。歩ん
　できた道程は後姿に現れるもの‥‥わたしの背中は大神とは違うでしょう？」
「あ‥‥の‥‥」
青年は二人分のカップを持って少女の待つソファまで近付いた。
そしてよく仕込まれた給仕のように、完璧な作法で少女の前にカップを差し出す。
無論、少女にしてみれば、このような待遇は受けたこともない。
「お、おそれいります、です」
「お口にあえばよろしいのですが‥‥」

黒い青年が差し出したカップ。その中には同じように漆黒の波紋が作られていた。
湯気は不思議なアロマを醸し出す。
「いい香り‥‥」
口にしてみる。
「‥‥う‥‥苦い」
「お砂糖を入れましょうか？」
「‥‥あれ？‥‥でも‥‥美味しい‥‥不思議な‥‥味がする‥‥」
「一種の麻薬みたいなものですからね、珈琲って‥‥私は緑茶も嗜みますが、寧ろ珈琲
　のほうが好きでしてね」
「不思議‥‥こんな飲み物があるなんて‥‥」
「遠い異国の地‥‥大陸の果てで生まれたものです」

その昔、中東の山岳地帯、梺で大きな山火事が起きた。
紅い実を身にまとった背丈の低い樹木は根こそぎ炭と化し、焼跡には紅から漆黒へと様
変わりした種のような実が残されていたのだ。
その地の人々は紅かった頃の実がとても食べられるものではないことを知っていた。そ
れが焼かれて黒い種となったその実を煎じた時、苦味と共に不思議な高揚感に捕われた。
大麻のように我を失うようなものではなく、とても優しく、とても甘い感覚だった‥‥

珈琲の起源を説明する青年の口調は、中東の厳格なしきたりの中で生きる人々、その生
活をかいま見せるような雰囲気すら滲ませていた。
黒い波紋を見つめる少女。
そして再び黒い青年に視線を戻す。
まるで緑茶を飲むような仕草で珈琲を飲む。
「あの‥‥」
「ん‥‥？」
「あの、その‥‥どうして‥‥わたしなんかを‥‥」
青年はカップを置いた。
「いつもおこし頂いているお礼をしたかったのです。できましたら公演の感想とか、ご
　意見とか伺えたら、と」
「‥‥‥‥」
「それに‥‥あなたのことが気になりましてね。雰囲気、みたいなものかな？」
「わたしは平凡な一般客で‥‥それに、いつも二等席で‥‥」
「帝国歌劇団の演劇は全てのお客様に平等です。一等席と二等席の違いは舞台との物理
　的な距離の違い、ただそれだけです」
「‥‥‥‥」
「二等席ではさくらくんの歌声は聞こえませんか？」
「‥‥いえ」
「二等席でもさくらくんの笑顔は見えるでしょう？」
「‥‥はい」
「うん。現状に甘んじることなく更なる向上のために。みなの励みにもなります。どの
　ような厳しいご意見でも、参考にしたいのです」

夕陽が帝国劇場を照らした。
支配人室も紅く染まる。黒い青年の横顔も、少女の横顔も。
如何に帝劇花組の演技が素晴らしいものか、その少女は静かに語り始め、そして言葉は
次第に熱を帯びていった。
悲しいことがあれば、それを生きる喜びに変えてくれる。
辛いことがあれば、それを楽しい未来に変えてくれる。
花組の公演は帝都に生きる人々の日常に根ざしたものだった。

‥‥女優さんはだれがお気に入りですか？
みなさん、好きです。ほんとに。

‥‥一人だけ選ぶとしたら？
う～ん‥‥やっぱり、さくらさん、かなあ‥‥真宮寺さくらさん、です。

‥‥どのあたりが？
う～ん‥‥なんか、お姉さんによく似てるからかな‥‥なんとなく近くにいそうで、で
も手のとどかない人のような感じもするし‥‥そうだ、あの瞳。あの瞳が好きなんです。
まるで星空を見てるようで‥‥まるで海を見てるようで‥‥そういう意味では紅蘭さん
も似てますよね。紅蘭さんの瞳は星空というより青空かなあ‥‥海というより大きな河
のような感じも‥‥あ、もう一人選ぶとしたら、紅蘭さんです。

‥‥さくらくんと紅蘭か‥‥なるほどね‥‥演目は？
全部です。でも、やっぱり“シンデレラ”が一番好き。

‥‥お気に入りのシーンなんかはありますか？
そうですね‥‥ガラスの靴を持った王子様が平凡な姿をしたシンデレラを招くところ、
なんか特に気になります。きっとあの場面は‥‥シンデレラはうれしさ半分、もう半分
は辛かったんだと思います。だってお姉様たちを差し置いて、自分だけが選ばれるなん
て‥‥シンデレラは自分だけの幸せを望む人ではなかったと思うんです。さくらさんの
シンデレラからは、そんな想いがひしひしと伝わってきて‥‥

‥‥紅蘭はいじわる姉さんの役ですよね？
そうなんですよっ、あれは絶対ミスキャストだと思いますっ！‥‥あ‥‥す、すいませ
ん、わたし‥‥で、でも、三姉妹役の紅蘭さんって、なんか、すごく違和感があるよう
に思えて‥‥だ、だって、だって‥‥紅蘭さんは‥‥“つばさ”の紅蘭さんが、一番い
いと‥‥思うし‥‥

‥‥ふむ‥‥他に、ここをこうすればいいと思うところは？
ないです。完璧ですもん‥‥でも‥‥もし挙げるとすれば‥‥アイリスさんの配役。

‥‥アイリス？
アイリスさんは幼い役どころが多いですけど、でも、でも‥‥きっと、もっと大事なパ
ートを演じれると思うんです。例えば‥‥実在はしないですけど、シンデレラを影で支
える友だちとか‥‥そう、リトル・プリンセスのメイドさんみたいな‥‥セーラ姫の友
だちみたいな感じですね。

‥‥小公女、ですか？
はい。わたし、シンデレラとリトル・プリンセスが好きなんです。もしかしたら‥‥自
分の境遇に写し合わせてしまうのかなあ‥‥きっといつかいいことがあるって‥‥そう
信じられる物語だから‥‥

‥‥演出や美術はどうでしょう。気になるところなんかはありますか？
それもないです。舞台がまるでそのまま時代背景に見えますもん‥‥あ‥‥でも“愛ゆ
えに”のカキワリ、ところどころヒビが入ってますよね。それに、ちょびっと照明が明
るすぎる気も‥‥得にラストに近いところなんか‥‥革命っぽいシーンですから、あん
まり明る過ぎるのは‥‥赤いライト以外を弱くするとかすれば‥‥あ、すいません、な
んか生意気言って‥‥

‥‥ふむ‥‥歌はどうです？
もう大好き。みんな好き。どれが一番なんて、選べません。“花咲く乙女”も好きだし
“愛ゆえに”も‥‥あ‥‥そうだ、最近だとアイリスさんの“愛しのジャンポール”。
あれ、すっごくいい曲ですね。さっき言ったアイリスさんの役どころ‥‥それもあの歌
を聞いて尚のことそう感じちゃって。あの歌、“シンデレラ”で使ったら、すっごくい
いと思うんですけど‥‥

空がいよいよ紅く染まり出した。
地平線は真っ赤に、水平線には闇が覆い始める。星の時間ももうそこまで来ている。

‥‥明日は晴れるねジャンポール‥‥涙は見せない‥‥
‥‥優しい夢と嬉しい夢を一緒に見せてね‥‥

愛しのジャンポール、その一節を口ずさむ少女。
あるいは歌詞の中に自分の境遇をも重ねているのだろうか。

じっと少女の歌に聞き入る黒い青年。

チリ‥‥ン‥‥
風鈴の音。
夏でもないのに、何故か風鈴の音色が聞こえた。
錯覚か？‥‥少女は視線だけを窓際に移動した。
「‥‥わたしの手を見てください」
その声に視線を青年のほうに戻す。
黒い青年が掌をかざしていた。
夕陽に照らされたその青年の掌を言われるがままに、じっと見つめる。
手相を見ろ、とでも言うのだろうか？
「大きな手ですね‥‥お父さん、みたい‥‥やっぱり大神さんとは違う‥‥」
「‥‥‥‥」
窓から夕陽が差し込んできた。
「夕陽‥‥」
「‥‥‥‥」
差し込む夕陽に目がくらむ。
その後。
闇。
「‥‥あ」
「‥‥‥‥」
「‥‥あれ？」
「何が見えます？」
「‥‥聞いていいですか？」
「なんなりと」
「掌の‥‥なんだろ‥‥“龍”かな？‥‥これって‥‥入墨か何かですか？」
「龍、ですか‥‥」
「黒い龍が‥‥桜色の珠を持って‥‥」
「‥‥‥‥」
青年はかざした掌をひざの上に戻した。
拳を握る。そして開く。“龍”は忽然と姿を消していた。
『あれ？‥‥錯覚だったのかな‥‥』

少女のほうがその時刻の到来に気付いたらしい。
「あ、もうこんな時間‥‥す、すいません、なんか馬鹿みたいに喋ってしまって‥‥」
「いえ、とても参考になりました。もっと時間があればよろしいのですが‥‥ご家族が
　心配されるでしょう」
「は、はい‥‥あ、あの、ごちそうさまでした、こ、こーひー‥‥」
「ふふ‥‥」
少女は軽く会釈をして、急いで立ち去ろうとした。恥ずかしさで礼もままならない。
「あ‥‥待ってください」
「え‥‥？」
「これ、お持ちください」
「？」
青年は少女に大きめのパンフレットを差し出した。パンフレットにはその青年が書き添
えたと思しき地図のような紙も挟まれていた。そしてなにやら封筒も。
「パンフレットは次の公演、大恐竜島のものなんですが‥‥実は非売品でしてね」
「え！？」
「紅蘭の写真が乗ってるでしょう？‥‥ここだけの話、今回の主演は紅蘭ではないんで
　すよ」
「ええっ！？、大恐竜島って紅蘭さんが主役なのに‥‥だ、だれなんだろ」
「ふ‥‥」
「よろしいんですか？、そんな、外に出しちゃいけないものを‥‥」
「どうぞ。それと、一緒に挟んである地図ですが‥‥」
「‥‥？」
「もし気が向いたら、地図でマークしてある場所に行ってみてください。封筒を忘れず
　に」
「ここは‥‥」
「‥‥あなたは『見る』側よりも『創る』側のほうが向いているかもしれませんね」
「？‥‥？？」

青年は支配人室の扉を開いた。運命の扉でもあったかもしれない。
連れ立って玄関まで歩く。
「あ、あの‥‥今日はありがとうございました」
「こちらこそ。藍色の着物、とてもよく似合いますね。あなたのことは忘れられそうに
　ないな」
「そ、そんな‥‥」
「先程から気になっていたのですが、その袖の模様は‥‥」
着物の袖にさりげなく飾られた刺繍。
藍色の生地に小さく白く浮かび上がる、小さな花模様。
「これ、茉莉花です。この着物、お母さんが仕立ててくれたんです」
「まつりか‥‥ジャスミンですね。ほんとうによく似合う。おっと、名乗るのを忘れて
　ました。私は‥‥そうだ‥‥徒名がいいな‥‥私のことは“ふぇいろん”と呼んでく
　ださい」
「ふぇい、ろん？」
「以前中国にいた折りに友人がつけた徒名です。“黒龍”と書いて“ふぇいろん”です。
　今では“ブラック・オオガミ”なんて言う仲間もいますけどね」
「ぷぷ‥‥あ、わ、わたしは、わたしの名前は‥‥」
「お互い徒名で呼びませんか？‥‥『茉莉花』さん、にしませんか？」
「え‥‥？」
「藍色を飾る白い茉莉花‥‥いいですね。私も夜来香の次に好きな花です」
「イ、イエラ‥‥？」
「イエライシャン。夜来香は中国の花です。ふふ‥‥あなたとは別の場所でまた逢えそ
　うな気がします。お互いの本当の名前はその時にでも。茉莉花さん」
「は、はい‥‥はいっ」

夕陽が銀座の街並みを照らす。
少女の目にはこれまでに見たこともないような風景が広がっていた。
錯角かもしれない‥‥かもしれない、が‥‥
その目に映る銀座の街は、まるで銀幕の映像のように美しく広がっていた。



＜その１終わり＞