short1-2.htmlTEXTMSIEiナカZ饂カ[,ク Sweet Dreams
<その2> 「あ、あの‥‥」 「はいっ、なんでしょうっ」 「あ、あの‥‥こ、ここ‥‥帝国歌劇団の‥‥」 「はいっ、そうですっ、劇団員養成校ですっ!、わたしも生徒の一人なんですっ!」 「養成学校?‥‥あ、あのですね、実は‥‥」 「はいっ、入校御希望の方ですねっ、こちらに御署名の上、最終試験を受けてください  っ!」 「あ、いえ、その‥‥」 「見学御希望の方ですねっ、ではこちらに御署名の上、二次試験を受けてくださいっ!」 「け、見学するのに、試験をするの‥‥す、すいません、か、帰りますぅ‥‥」 「はいっ‥‥あ‥‥ご、ごめんなさいっ、間違えましたっ、大丈夫ですよっ」 「ほ‥‥」 あれから数日後、少女は休日を利用して帝国劇場支配人の奨めた場所にやってきた。 帝都都心部から少し離れた閑静な敷地。周りは学校や研究機関などの建物が並んでいる。 学園都市のような風情だ。 少女は一際目立つ巨大な門の前に立っていた。 渡された地図は間違いなくここだ。 目立つ、と言っても、それはごく限られた人間の目にとって目立つということ。 事実、その少女がここに至る過程で行き交う人に道を訪ねても、だれもこの場所は知ら なかった。これほど大きな建物なら誰か一人くらいは知っててもよさそうなのに‥‥圧 倒的な迫力を示すその門の前で、少女は一人溜息をついた。 門の外壁には‥‥ <帝国歌劇団付属 乙女学園 女子中等部> という金属製のプレートが埋め込まれている。 受付は、その門に近い、建物とは少し離れた場所にあった。 少女は取りあえず指示通り受け付けに向かったのだが‥‥そこの受け付け当番の娘とい うのが、話をしていても、どうにも要領を得ない。 見た目はその少女とたいして変わらない年齢のようだが‥‥短かめの髪を両側に無理矢 理束ねて、その髪の毛の合間から、何やら得体の知れない珠が浮遊している。よく見る とバネのような金属線で珠を括りつけていて、話すたびにそれがユラユラと揺れる。 視線が必然的にそちらに向かってしまうのだ。 その藍色の少女にしても、別段何か用事も目的もあって来た訳ではない。 ただ、帝劇の支配人から“行ってみてください”と奨めるぐらいだ、来る価値はあるの だろう。 よもや、帝劇直属の劇団員養成学校だとは思ってもみなかったが。 「‥‥こちらに署名すればいいんでしょうか」 「はい。もしどなたかの推薦でもあれば‥‥」 「あ‥‥あの、封筒を預かっているんですけど‥‥」 少女は帝劇支配人からパンフレットと共に受け取った長い便箋封筒を懐から取り出した。 表面には“早乙女彩 殿”と書かれている。裏面には“銀座本部 事務局”とだけ。 いや、それよりも少女が受け取った時には、その封筒には何も記載されていなかったは ずだ。 それが封筒には文字がしっかりと書き込まれている。 「あれ‥‥?」 炙り出しではなさそうだ。ここには体温以上の熱源はない。 とりあえず手渡す。 「早乙女先生宛か‥‥あ、この先の建物、入ってすぐにロビーがあります。そこで待っ  ててもらえますか?」 「は、はい‥‥」 腑に落ちないまま、ロビーに向かう。先程の受け付けの娘はその少女が向かった建物と は別棟に走り去って行った。 カチ‥‥コチ‥‥カチ‥‥コチ‥‥ 銀座帝国劇場に備え付けの大時計、それと同じような古い大時計がこの学園のロビーに も備え付けてあった。劇場に似ている‥‥少女はなんとなくそう感じた。建築構造もそ うだが雰囲気が似ている。 ロビーのすぐ向こう側に扉が数枚。恐る恐る開けてみると、そこは観客席だった。 帝劇と全く同じだ。 焦って扉を閉める。左手には売店。違いは売り子がいないだけ。 その横は開放型の食堂を臨む構造の通路になっているようだ。 きっとその先には‥‥支配人室‥‥いや、校長室、または学園長室と言う名の部屋があ るのだろう。 『‥‥そんじゃあ、あとは宜しく頼むぜ、彩さん』 ドキッ だれか来る。 支配人室‥‥もとい、学園長室方面らしき方向から話声が聞こえてきた。 少女は急いで玄関近くまで退避した。 『春香のほうはどうします?』 『そのうち声をかけるよ。今は銀座も浅草も危険だからな。タイミングを見てヤツのほ  うから連絡させる。それまでは武者修行を継続させてくれ』 『‥‥わかりました』 話声の主たちはすぐにロビーに現れた。 「ん?」「あら‥‥」 「あ、あの‥‥」 「見掛けねえ娘だな‥‥新人かい?」 「いえ、私も知りませんね‥‥お嬢さん、何かご用かしら?」 「あ、あの、その‥‥わ、わたし、あの‥‥け、け、けん、見学に‥‥」 「おや?‥‥確か今年の募集は終わったはずじゃ‥‥」 「ええ。ごめんなさいね、お嬢さん。今年の入校はもう無理なの。合格したのに申し訳な  いんだけど‥‥見学はここじゃなくて別の建物に‥‥」 「あ、あの、わたし、そんな、そんな、にゅ、入校だなんて、そんな‥‥」 「ん?‥‥まさか、試験を受けずにこの場所に来たのかい、おめえさん」 目の前に立つ如何にも学園長然とした初老の男性。そしてもう一方は30代半ばと見られ る女性だったが‥‥こちらは見覚えがあった。どこか舞台の上で‥‥ 少女はかなり焦った。 ちょっと見学して、帝劇の裏舞台を堪能できれば‥‥もっと公演が楽しめるはずだ。 そう思って来た。 それが、どうも誤解を招いてしまったらしい。そもそも入校するも何も、そんなお金、ど こにもない。そんな経済的な余裕などあろうはずもなかった。 「‥‥お一人で来たの?」 「は、はい、はい‥‥」 「ふむ‥‥おめえさん、この場所、だれから聞いたんだ?‥‥ここは入校希望者のうち、  試験を受けて合格した者だけに内密に連絡されるところなんだが‥‥」 「あ、あの、その‥‥ふ、ふぇいろん、さんに‥‥」 「‥‥‥‥」「ふぇいろん‥‥?」 「て、帝国劇場の、そ、その‥‥し、支配人さんに‥‥その‥‥」 「ふぇいろん‥‥なるほど、“黒龍”か‥‥」 「何か預かってないかしら?」 「あ‥‥あ、あの、さっき、受け付けの、女の子に‥‥せ、先生に渡すって言って‥‥」 「‥‥つぼみね。あの娘、どこ行ったのかしら、全く‥‥」 暫くそうして待っていると、先程の受け付けの女の子が走ってロビーに入ってきた。 どうやら別棟を探しまくって、結局こちらの建物にやってきたらしい。 「はあ、はあ、はあ‥‥せ、先生、さ、探しましたよ〜」 「つぼみ、あなたね‥‥まず事務局に向かうのが普通でしょう?‥‥どうして実験棟なん  かに行くの?」 「す、すいませ〜ん‥‥」 「実験棟って‥‥」 何気なく聞くその少女。 「あ、いえ‥‥なんでもないのよ」 「その封筒かい?」 年輩の男性が“つぼみ”と呼ばれた受け付け当番の娘から封筒を受け取る。 「‥‥文字が浮かび上がってますね」 「‥‥ああ‥‥開けていいかな、彩さん」 「無論ですわ、米田園長。銀座からの手紙はあなた宛も同前」 年輩の男性は米田と言うらしい。 そう言えば、この学園の園長は帝国劇場の前支配人だと、あの現支配人の黒い青年は言っ ていた。ますます恐縮する藍色の少女。 「取りあえず本人の了承をとらねえとな‥‥ではでは‥‥」 封を切る。 と言うより、封をしてあった場所をひと撫ですると、なぜか封筒は自壊して便箋そのもの になっていた。 「な、なんですか、今の‥‥」 「ほう‥‥見えたのか‥‥」 「‥‥つぼみ、あなたは受け付けに戻りなさい」 「は〜い」 カチ‥‥コチ‥‥カチ‥‥コチ‥‥ 大時計の振り子が奏でる、時を刻む音。 少女にとってはひどく間合いの長い音に聞こえた。 「‥‥ふむ」 「‥‥特例、ですか?」 「そうだな‥‥壱級支援部、あそこ空いてるよな」 「こ、胡蝶楽、ですか?」 「実演授業も受けさせよう。弐級参組にも登録しといてくれ」 「二股なんて前例がないですよ。それどころか入学即壱級、しかも胡蝶楽に編入だなんて  ‥‥“春香”ですら入学した時は弐級だったのに‥‥」 「胡蝶楽に入るには合格基準とは別に特殊な才能が必要だ。センスだな。努力してどうこ  うなるもんじゃねえ。この娘にはそれがあるらしい。ヤツもそれを見込んで推薦したん  だろうよ」 なんのことがわからないまま、ただぼけっと立ち尽くすその少女。 『霊力が全く感じられませんが?』 『そこだ。あいつ‥‥いったい、この娘に何を見いだしたんだ?』 小声で話しこみ始めた二人をよそ目に、流石に少女も不安になってきた。 「あ、あの‥‥け、見学できるのでしょうか‥‥」 「‥‥勿論。ただし条件があるの」 「な、なんでしょうか‥‥」 「その前に‥‥あなたのお名前を聞かせてもらえるかしら?」 「あ‥‥わ、わたしは‥‥」 「ちょいと待ちな、彩さん。ヤツからの追伸がある。名を問うな、とな」 「はい?‥‥そんな、名前も知らないなんて‥‥」 米田は手紙を本来の宛先である彩に手渡した。彩も興味深気に読み込む。 なんとなく焦りだした少女をまじまじと見つめる米田。 「‥‥おめえさん、演劇は好きかい?」 「はい?‥‥も、勿論です‥‥」 「そうか‥‥帝劇の演目では何が好きだい?」 「はい?‥‥あ、あの‥‥シ、シンデレラです‥‥」 「そうか‥‥どのあたりが気に入ってるんだい?」 「え‥‥?」 先の帝国劇場で支配人と行った問答をくり返す。 妙な感覚だった。 「あ、あの‥‥け、見学したいんですけど‥‥だ、だめなのでしょうか‥‥」 「いえいえ。さっき条件があると言ったわよね?、それに応えてくれるのなら」 「じょ、条件って‥‥」 「この学園に入学して欲しいの」 「え‥‥えええええっ!?」 流石に驚く。 休みをもらって劇場に行ったら、大神とは少し雰囲気の違う“大神”がモギリをしていた。 たまたま大神本人が休暇を申請していて、支配人自らモギリを買って出るという前代未聞 の日にばったり立ち会ってしまった。 そして何気なく話し、何気なく支配人室に呼ばれて、何気なくここに来るように薦められ た。それが、よもや養成学校に入学させられる羽目になるなどと‥‥ 「ま、ま、待ってくださいっ、わ、わたし、が、学校に入るなんて、そんな‥‥」 「ほう‥‥これも珍しい反応だな。普通は切望することはあっても、拒否するなんてこた  あ滅多にないんだが‥‥」 「帝劇現支配人と前支配人が共にあなたを認めたのよ?、一緒に演劇ができるのよ?」 「わ、わたし、仕事が‥‥が、学校なんて‥‥」 「え‥‥?」 「わたしが働かないと‥‥い、妹が‥‥おかあさんも‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥そういうことなの」 しょんぼりする少女。 藍色の着物がよけいに色褪せて見える瞬間だった。 もっと華やかな色の着物が似合う年齢だ。おそらく母親が与えた精一杯の贈り物なのだろ う。 「それについては問題ない」 「?」 「胡蝶楽に編入させるからな。それに‥‥ほれ、見てみなよ」 ブオオオ‥‥ 大型の蒸気自動車が門の前に停車していた。 先程と同じように受け付けで対応する、つぼみと呼ばれた少女。 悪戦苦闘しているようだ。自動車の運転手もそのうちイラつき始めたようだ。 入門の最大の難関をクリアしたその運転手は自動車を敷地内に移動させる。 そして米田たちが立っているロビー、その建物の前に横付けされた。 「こんちは〜、園長いますか〜」 「おお、ここだここだ‥‥毎度ご苦労さん」 「あの受け付けの娘、もうちっとなんとかなりませんかねえ‥‥俺には鬼門ですぜ」 「だから受け付けなんだよ。荷物は俺宛か?‥‥それとも‥‥この娘かな?」 「ええっと‥‥藍色の着物を着た娘さんへ、と書いてますぜ。残念でしたな、園長」 「中身は?」 「衣装、棚、生活雑貨、書籍類‥‥あとは書留。これは園長の判子が要ります」 「了解だ」 米田と運送屋と思しき運転手のやりとりを、またぞろ横でぼけっと見つめていた少女。 運送屋にそのまま搬入先を指示して米田は戻ってきた。 ふと我に帰る少女。 「あ、あの、いったい‥‥」 「おめえさんの生活道具一式が送られてきた。“足長おじさん”か“魔法使い”でもいる  ようだな。気分はシンデレラかい?」 「え‥‥わ、わたし、し、仕事が‥‥」 「ああ。勿論仕事をしてもらうよ、住み込みでな。ここは全寮制なんでよ、一応きまりな  んだ、了承してくれや。給金の半分は親御さんに仕送りする。それでいいだろ?‥‥た  ぶんそれだけでもおめえさんの今の仕事分以上は出るはずだ。そのための“胡蝶楽”だ  からな」 「‥‥‥‥」 「米田園長、この娘の名前はどうします?‥‥名を問うな、と言われても、これから一緒  に生活していく以上は‥‥」 「芸名が確定しているようだ。だからこの娘はその名で呼ぼう」 「芸名、ですか‥‥なるほど」 「‥‥‥‥」 「おめえさんの名は『茉莉花』だ」 「‥‥はい?」 「姓はどうします?」 「名付け親にするべ。神凪茉莉花、だな」 「かんなぎ、まつりか‥‥素敵。決まりですわね」 「あ、あの‥‥」 事の成り行きに呆然とする‥‥茉莉花、という名を与えられた藍色の少女。 がんばりな、という台詞を残して立ち去った米田をまたも唖然として見送る。 「さ、あなたの部屋に案内するから」 「あ、あの、あの〜‥‥」 「実は園長、暫く留守にしてたの。これからも滅多には来れないわ‥‥ほんと、今日はつ  いてるわよ、茉莉花さん」 「そ、そうぢゃなくて‥‥」 「きっと楽しくなるわよ、これから。さ、行きましょ。ふふ‥‥“足長おじさん”が贈っ  てくれた衣装、どんなのかしら‥‥楽しみね?」 「あの〜‥‥」 ひとしきり彩から学園の説明を受けると、もう空が赤らむほどの時間が経過していた。 呆然とした表情が抜けない少女に、彩は先程の手紙‥‥少女が持参した封筒を、そのまま 少女に返した。あなたが持っていなさい、と。 少女が再びその手紙を手にした時、筆跡は嘘のようにかき消されていた。 ただ白い紙だけをまじまじと見つめる少女。 そのうち諦めて、少女は引き出しの中にそれを大切に仕舞った。 引き出しの暗闇の中で、筆跡がぼうっと浮かび上がる。   推薦状   乙女学園園長殿   この手紙を持参する女性『乙』に対し、乙女学園入学規則特例第壱号及び   第参号を適用されたし。必要であれば問答集“神々の天秤”を試行された   し。他の試験を課す必要は一切なし。   配属先については学園長に一任するも、願わくば壱級支援組“胡蝶楽”も   しくは壱級壱組“七色向日葵”へ編入されたし。   推薦人(以下甲)は、乙の担任として早乙女彩講師を希望する。また、甲   は帝国歌劇団支配人特権により、夢組・無明妃および花組・李紅蘭を実践   指導教官として派遣する。   入学及び入寮に際し、乙に対し猶予期間を最低三日付与されたし。この間、   乙の保護者の承諾を得るよう乙本人に指示されたし。   丙に要求する乙に対する前記条件が満たされた場合、甲は乙の後見人とし   て乙に対する必要十分な援助を保証する。   尚、乙に対し、氏名及び経歴を問うこと、罷りならず。   芸名を『茉莉花』とし、これを呼び名とすること。                          銀座帝国劇場総支配人                                神凪龍一 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ ジリリリリリ‥‥ 「‥‥う〜ん‥‥」 ジリリリリリリリリ‥‥ 「う〜ん‥‥ん‥‥ん?‥‥はっ、ち、遅刻だっ!?」 目覚まし時計の音に飛び起きる。 チュン‥‥チュン、チュン‥‥ ベルを止めれば小鳥のさえずりが聞こえる。まだ早朝と呼べる時間帯だ。 茉莉花は寝ぼけ眼を擦りつつ、布団をたたみ、いそいそと着替え始めた。 一張羅の藍色の着物ではない。足長おじさん、と米田と彩が称していた人から贈られた蒼 い着物。青空を写した海の色のようだった。 それまでの茉莉花の生活は困窮とまではいかないものの、決して楽なものでもなかった。 母親、姉、妹、そして自分。四人家族。姉は好きな人の元へ嫁いだ。勿論本人は最後まで 結婚を拒んだ。好きな人と結ばれるのを否定する訳では決してありえない。自分だけが幸 せになることが許せなかっただけだ。それも母親の説得によって、家族の説得によって、 最後は自分の幸せを手にしたのだ。その資格は十分すぎるほどあった。茉莉花が働けるよ うになるまで、家庭を支えていたのは姉だったのだから。 姉は嫁いでからも時折仕送りをしてくれていた。本人も決して裕福な家庭ではなかったの に‥‥ 茉莉花は学校に行くことを諦めていた。いや、それは許されることではなかった。だれが 許さないのか?‥‥それは自分だ。どんなに勉強がしたくても、どんなにやりたいことが あっても‥‥それを口にすることはできない。茉莉花の頑固さは姉ゆずりだった。母親は そんな茉莉花の気持ちを察していた。だから少しだけでも余裕ができたら小遣いとして茉 莉花に与えた。一番好きなこと‥‥演劇に使いなさい、と。 そんな彼女に突如訪れた転機。 それはやはり演劇が齎してくれたようだ。そして物語りでしかない人物をも目の前に実現 させてくれた。夢が現実になろうとしているのだ。 乙女学園への正式入学が決定した時、脳裏に浮かんだのはやはり家族のことだった。 米田は給金の半分を仕送りしてくれる、と約束してくれた。いや、それ以前に、こんない い話はどこにもない。給料をもらいながら演劇の勉強ができるんだ‥‥それがどんな辛い 仕事であっても茉莉花は貫き通すつもりでいた。 家族に説明する‥‥いや、説明など必要なかったかもしれない。そして給金をもらえなく とも、家族は絶対に反対しなかっただろう。 母親の答えは‥‥がんばりなさい。妹の答えは‥‥がんばってね。 それだけ。それだけで十分だった。 茉莉花はすぐに家を出た。 泣いた。 学園に着くまで、茉莉花の涙は留まることなく流れ落ちた。 あれから三ヶ月。あっという間に過ぎ去った。 弐級参組では舞台演技の指導がされる。 クラスメートは5人ほどいたが、授業が変わる毎に仲間も変わった。 弐級における組分けはそれ程意味があるものではなかったらしい。ただ、友達とよべる仲 間ができないのが少し悲しかった。 指導するのは最初に出会った早乙女彩。 演技、歌の基本は既に参級でクリアされているとみなされるため、ここでは応用が主眼に なる。 茉莉花は演技が素人同前だったため、授業に追い付くためには夜毎復習する必要があった。 さくらと似ているのは顔形だけではないようだ。ただ、声には光るものがあったようで、 時折壱級壱組“七色向日葵”のテスト興行に歌の裏方として出演依頼がかかることもあっ た。 そして壱級支援部‥‥通称“胡蝶楽”。 仲間がいない。クラスメートがいない。 胡蝶楽というクラスは孤独との戦いでもあった。 それは“仕事”が胡蝶楽の目的でもあったため。 収入が必要だった茉莉花に与えられた仕事は、帝劇の補佐業務。 能力によって四階級に別れる乙女学園の学級編成にあって、そのトップに位置する壱級壱 組。帝劇予備軍とも称されるこのクラスは、帝劇花組に欠員が生じた場合、これを補充す ることを目的として創られたもの。帝撃予備軍とは違う。 ただし、現在はそれを満足する生徒はいない。昨年までは一名だけ所属していたが‥‥米 田と彩の会話で出て来た“春香”という少女だ。 それに準ずるクラスとして壱級弐組、参組そして四組がある。 目的は花組・風組の次期隊員としてであり、弐級課程終了後に適性を判断される。無論帝 劇の真の役割が知らされるのもこの段階。それなりの人材に限られる、ということ。 月組と雪組は乙女学園に人材を募集することはない。 その性質上仕方ないことだったが‥‥そもそもこの二つの部隊は士官学校からの引き抜き や、一本釣りによってメンバーが構成されるのが常だった。 茉莉花が属する乙女学園壱級支援部は、他の壱級クラスとは明らかに一線を画している。 それは二つの内容を持っており、いずれも実践が主眼に置かれていたため。 一つは夢組の補佐。 今一つは花組の裏方。 給金がもらえるのも当然、しかも茉莉花のそれまで仕事の倍以上‥‥という米田の言葉は、 この二つの内容を両立させることに由来していたのだ。 胡蝶楽における孤独感はすぐに解消された。 理由は単純明快、花組の裏方だったから。 本当に楽しかった。 舞台に関係できることが、何よりうれしかった。 帝国劇場に来るのも三ヶ月ぶり。何しろ入学してからは授業と練習に明け暮れる毎日。月 に二度は帝国劇場を訪れる茉莉花にとって、これほど長い間我慢するのも拷問だった。 客としてではなく劇団関係者として帝劇入りする茉莉花。 劇場の雰囲気が少し変わったように茉莉花の目に写る。この三ヶ月の間に改修工事でも行 われたのだろうか? 何故か黒子の格好をさせられて、舞台の書き割りを造ったり、時には台本そのものの草稿 を手掛けたりもする。時々銀座にも向かう。大道具の構築は男性に任せて、もっぱら自分 たちはそれを指示するぐらい。 書き割りがよろしくなければ、その場で直す。 そんな時大神さんの姿を見かけたりなんかして‥‥でもこっちは黒子だし、わかるわけな いよね‥‥など、ちょっと溜息を漏らしたりもする。 そんな彼女が書き割りを描き直していると、はからずもモギリの青年はその黒子に気付か れないように横目でちらっと見守っていたりもした。 楽しいこと、うれしいことが、そのまま仕事になれば、疲れなんて忘れてしまう。 茉莉花の仕事量は他の黒子に匹敵していた。 黒子。そう、顔を隠した月組の面々ですら茉莉花の仕事ぶりには目を瞠った。 それも、忘れていた疲れも仕事が終われば、どっと表面化する。 舞台に腰を下ろして溜息をつく。 スポットライトなどない。暗い舞台。華やかな舞台の裏の顔‥‥ そして立ち上がって舞台袖に行く。 そこには時折、蒼い花が一輪置かれていることがあった。 蒼い花。名前なんて知らない花だった。 まるで自分のように‥‥ふぇいろんさんのように。 その花を持って寮までの遠い道程を一歩踏み出す。疲れが拭われる瞬間だった。 胡蝶楽のもう一つの顔。これが問題だった。 どんな辛い仕事でも貫き通すと、心に堅く誓った茉莉花だったが‥‥夢組の補佐は信じら れないほどの激務だった。花組の裏方業務よりもこちらが優先されたほどだ。 幸か不幸か、夢組の補佐業務は花組の仕事がない時に限って降ってきた。だから茉莉花に とっては休日などないに等しい状態が続くこともしばしば‥‥帰宅すると同時に深い眠り に入ることが常だった。 その業務とは‥‥ コンコン‥‥コンコン‥‥ 『おはようございます、茉莉花殿。起きてらっしゃいますか?』 「は、はいい、もう着替えましたから‥‥」 『一階の会議室でお待ちしています。明日の件で打ち合わせをしたいので‥‥』 「わ、わかりました、です」 着替えも終わり、扉越しに自分を呼ぶ声に応える。 夢組隊員から直々にお呼びがかかる。疲れなど訴えていられない。 声の主はわかっている。信じられないほどに美しい白無垢の巫女様だ。 茉莉花はすぐに部屋を飛び出す。 一階に着くと白無垢は一人ではなかった。 二人。つまり‥‥遠距離出張を意味していた。 そもそも夢組の仕事は近場で行われることが殆どない。だいたいは日本各地を飛び回り、 茉莉花は決まってそのお伴をさせられた。そして夢組隊員も必ず最低二人ペアで地方巡業 をする。 夢組‥‥巫女の姿をした女性が四人。 茉莉花が教えられた夢組の仕事は、その全て、だった。 超極秘の夢組業務。夢組の仕事だけは、乙女学園の生徒どころか、帝国華撃団内部でも上 層部しか知らされていない。なにしろ花組隊長ですら、その内情を把握していないのだか ら。 それを一介の乙女学園生徒に伝授する‥‥明らかに茉莉花を次期夢組隊員と期待しての事 だった。 「あの‥‥明日はどちらへ‥‥?」 「函館です」 「函館‥‥えっ、ほ、北海道、ですかっ!?」 「はい。申し訳ありません、一週間ほど滞在することになりますね。茉莉花殿には他に仕  事も授業もありましょうが‥‥無論、その間の授業については、不肖、この無明妃が教  官仕る故、心配ご無用」 「あ、あの‥‥わたし、船、苦手なんですけどお‥‥」 「船酔いの薬もばっちりです。なんでしたら暗示をかけてあげましょう」 「あぁぁ‥‥」 髪から肌まで、何もかも純白の巫女‥‥名を無明妃という。 いつも目を閉じたままで、その瞳を見せたことがない。 まさか瞳も白金のようなのだろうか? その女性の他にいたのは、茉莉花も初めてお目にかかる女性だった。 北海道というと‥‥脳裏に浮かんだのは、身長2メートルはありそうな、長身の女性だっ た。その人の生まれ故郷が北海道だと、少し前に聞いた。 今回は違った。妙な格好をしているが近似的には巫女だろう。 「さ、寒そうじゃのう‥‥わらわは寒いのが苦手ぢゃからのう‥‥」 十二単を腰近くでバッサリと切断し、腰帯から下にちょろっと名残りの着物、その下は真 赤なミニスカート。少しでも動くと中身が確実に見えそうな短さだ。よもやこの格好で北 海道に行くのだろうか? 「あ、茉莉花殿は初対面でしたね。こちらは舞姫。夢組の副隊長です」 「えっ!?」 「のほほほ‥‥よろしゅうお頼み申す、茉莉花殿。貴女のお噂はみなから伺っております  るぞよ。しかし、花のように愛らしい方でございますなぁ‥‥いっそ、わらわたちの大  部屋へ引っ越しては如何かの?、わらわが添い寝を‥‥」 「あ‥‥あの、よろしくお願いしますぅ」 「ふふ‥‥それにしても北海道とはのう‥‥ぶるるっ、想像しただけで凍えそうぢゃ。あ  〜あ、お館様も一緒に参ってはもらえぬものかのう‥‥震えるわらわを抱き締めて、暖  めて‥‥あ‥‥お、お館様、な、何をなされますっ!?‥‥俺が暖めてやろうぢゃない  か、さ、さ、ずずずいいっと‥‥あ、ああ‥‥いけませぬ、お館様、そのような‥‥‥  ちょっとぐらいいいぢゃないか、別に減るもんじゃないだろう‥‥お、おやめになって  たもれ、ここは雪国、神聖な国ですぞえ、白い雪を汚すなど‥‥ぬへへへ、ほれ、こっ  ちにきなさい、舞姫‥‥あああ、わらわの、わらわの雪があああ‥‥」 「‥‥‥‥‥」「気にしないでください。いつものことですから」 茉莉花は日本各地を転々と旅をすることもしばしばだった。 夢組は帝国華撃団としての地位も確かなものだったが、実は帝国歌劇団・夢組としての役 割も担っていた。日本舞踊を愛する巫女たち。特に舞姫の舞は、その名が示すように舞を 舞うために生まれたかのような、美しくも儚い、神々の舞のようだった。 そして歌。花組にも決して劣らない、透き通った声‥‥無明妃だ。無明妃の歌声は舞姫を も凌いでいた。いつも目を閉じたままの麗しの巫女‥‥目に見えないものを見る‥‥その 目に写し出されたもの、その悲劇を歌うのだろうか。 夢組の舞と歌は茉莉花をいつしか虜にしていった。 夢組補佐が激務だったのは、彼女自身、夢組の演舞に配役の一人として狩り出されること から始まった。能、狂言‥‥茉莉花は見たこともない日本舞踊を一から勉強しながら、そ の舞台のフォローをすることになった。 更には帝国華撃団・夢組の仕事。 風を読み、森の歌声を聞き、地の嘆きを鎮める。 然る後に吉となる方角を定め鬼門を封じる。運気の向上を促す。 そう聞いていた。 だが、夢組が設立されるに至って求められた仕事は、夢組を構成するメンバーの能力が異 能を極めたために、その枠をも超えてしまっていたのだ。 即ち、退魔師としての集団である。 初めてそれを目にした時の衝撃は今でも忘れられない。 当然の反応として茉莉花は驚き、戸惑った。 それをたくみに宥めるのが無明妃だった。 夢組に欠けている人材。花組のメンバーをコピーしてブレンドしたような夢組の巫女たち だが、夢組に欠けていたのは新しい血だった。新しい可能性が必要だった。 例えば花組の真宮寺さくら、という女性。 個性豊かな花組にあって寧ろ特徴がないともとれる女性だが、逆に最も可能性を秘めた原 石とも言える。実際、彼女の演技に魅了される客も少なくない。惹きつけられる理由は客 にもよくわからなかったが‥‥見た目は何処にでもいる普通の女性のはずなのに。 あるいは、破邪の血統という、これも異能と呼べる力に縛られるが故に、あえて普通の女 性にならしめんとする自然の力だったのだろうか。 そして夢組には“さくら”がいなかった。 ‥‥なぜ胡蝶楽に配属されたのか‥‥よく考えてみてください、茉莉花殿‥‥ ‥‥あなたには夢組の‥‥いえ、帝撃のだれにも負けない強い力が眠っているんです‥‥ 自分の力? 勿論、茉莉花に認識できるはずもない。 夢組隊員たちが示す超常的な力は、そんな力の片鱗すら示さない茉莉花にとっては驚愕の 種でしかない。もともと自分は何処にでもいる普通の少女なのだから。 『よく考えて‥‥あなたがなぜここにいるのかを‥‥なぜそうなったのかを』 何故? それはたまたま運がよかっただけ。 『運がいい‥‥“吉”の運気を引き寄せる‥‥幸運を導く者‥‥それがあなた』 え?‥‥ 「運がいい、ただそれだけなんですよ?」 「茉莉花殿」 「は、はい」 「花組公演が大好きなあなたが、入学してから暫く観劇出来ない時期がありましたね」 「はい?‥‥それは、授業もお仕事もありましたから‥‥」 「それでも時間は作れたはず。何故、帝劇に行ってみようとは思わなかったのですか?」 「それは、だから‥‥」 「なんとなく、行かないほうがいいと、そう感じていたのではありませんか?‥‥あるい  は、あれだけ好きだった花組の演劇を、何故かその時期だけは見たいと思わなかったの  では?」 「‥‥‥‥」 「‥‥その頃、帝劇は大変なことになっていたんですよ。タイミングが悪ければ、あなた  も巻き込まれていたかもしれません。幸運を司る者はそれ以上に強い悪運に取り込まれ  ることもありますから」 「え‥‥?」 「惜しむらくは、あなたを見出すのがもう少し早ければ‥‥あなたの力を仲間たちに分け  与えることが出来ていたかもしれないのに‥‥残念ながら今のあなたは、あの時の“月  影”を退けるほどの力を持つに至ってません。巨大すぎる吉の運気を制御できずに、た  だ垂れ流しているだけですから‥‥」 「え、え‥‥?」 「‥‥余計なことを申し上げたようです。忘れてください」 「?‥‥??」 ‥‥運命を変えられる‥‥その強大な力は‥‥いずれ帝撃を変えていくかもしれない‥‥ どう考えても答えは見つからない。 今、ここにこうして学園の生徒でいられるのも偶然の産物と言ってもいいのだから。 答えがわからないまま時は過ぎる。 ‥‥胡蝶楽ってどういう目的で創られたんですか‥‥ いつだったか、思いきって無明妃に聞いてみた。 「胡蝶楽とは、もともとは背中に胡蝶の羽根を纏い、髪に山吹の冠をさし‥‥そして山吹  の枝を持って舞う古典舞踊をさします。胡蝶のように舞い山吹のように色鮮やかに‥‥  胡蝶は夢の証し、そして山吹は花を示します。乙女学園・胡蝶楽は花組と夢組を繋ぐ掛  け橋として創られたものなのです‥‥」 確かにそうかもしれなかった。 ‥‥茉莉花‥‥夢組にあって花の名を冠するお人よ‥‥我らの道標とならんことを‥‥ 乙女学園に入学して茉莉花は少しずつ変わって行った。 花瓶に花を挿す習慣もついた。 これも以前では考えられないことだった。花を愛でる余裕などない所以もあった。 花瓶に二房の花。 一輪はあの蒼い花。黒子になって仕事を終えた後、必ず舞台袖に置かれている一輪の花。 夜来香という名の花。 闇の中にあっても清楚な香りを漂わせて、その存在を知らしめる可憐な花。 いったい誰が置いていくのだろう‥‥ ふぇいろんさん、かな‥‥気づいてくれてるのかな‥‥ そして白い花。自分の名の由来となった茉莉花。 蒼と白。 茉莉花にはその色が、何故か自分を運命づける色でもある気がした。 自らの着物の色、そして自らの名となった茉莉花の花弁の色が。 <その2終わり>