＜その３＞ ジ‥‥‥‥ジジ‥‥‥‥ ジジ‥‥ジィィィ‥‥ 蝉の声。 夏の終わりを告げる、蝉の最後の声だ。 なんという名前だったろう‥‥茉莉花は床の上でその蝉の名前に想いを馳せた。 思い出せない。 昔‥‥そう、あれは帝都に引っ越す前のこと。 東北でも北に位置する、蝦夷地と呼ばれる極寒の地で生まれた茉莉花。 短くて、暑い夏。まだ妹が生まれる前に姉と二人で蝉を取りに裏山を駆け回った頃。 姉が教えてくれた、あの蝉の名前‥‥ 蝉の声が途切れた頃、蜻蛉が赤い空に舞い上がる。 茉莉花の周りには大地の恵みが満ちあふれていた。 妹が生まれた年に父親が他界した。土地を潤す者がいなくなった。 茉莉花の家族は自然から恵みを受けることが出来なくなってしまったのだ。 帝都は厳しい街だった。 母親の細い収入も、かろうじて食を繋ぐ程度のもの。田舎での蓄えはすぐに底をついた。 そして姉が母親を助けるために働きに出た。 今の茉莉花よりも幼い年で。そう、あれは１２歳ぐらいだったろうか。 ジ‥‥ ジジ‥‥ 帝都の蝉は決して爽やかではない。 少なくとも茉莉花はそう感じていた。 風のない街に、ただ蝉の耳障りな鳴き声だけが響く。 あの大地に帰りたい‥‥ 風の大地に‥‥ コン、コン‥‥ コン‥‥コン‥‥ 扉をノックする音で茉莉花は浅い眠りから覚めた。 「あ‥‥はい‥‥今‥‥出ます‥‥」 身体がだるい。 ジ‥‥ジジ‥‥ 夏風邪をひいてしまった。季節の変わり目とは言え、まだ暑いこの時期。 茉莉花は少し自分を呪いながら床を立った。 カチャ‥‥ 「あ‥‥無明妃、さん‥‥」 「風邪をひいたそうですね？‥‥これ、お見舞いです」 「わたしに、ですか？」 「ええ。舞姫も心配してました。こちらの袋に薬が入っています。夜叉姫が煎じたもので すから、効き目は折り紙つきですよ。花は神楽から」 「あ‥‥ありがとう、ございます‥‥ジャスミン、ですね‥‥」 「寝ていてください。神楽の“茉莉花”はわたくしが活けましょう‥‥少し難しいですか らね。お食事はされましたか？」 「あ‥‥いえ‥‥あ、あんまり、食欲がなくて‥‥」 「いけませんね。それでは治るものも治りませんよ。気が弱くなれば‥‥運まで弱くなっ てしまいます」 目を閉じる。 ‥‥額に冷たい感触。 冷たい手。無明妃の掌だった。 『気持ちいい‥‥お姉ちゃんの‥‥手と‥‥おんなじだなあ‥‥』 「ふむ‥‥熱がありますね。やはり食事の後、薬を飲んだほうがいいでしょう」 『おねえちゃん‥‥』 無明妃は風呂敷を解いて、小さめの重箱を開けた。 湯気が出ている。材料を持参し、この寮の食堂で作ったらしい。 いずれも煮物が主の軽いものだった。 限りなくお粥に近い状態のご飯を、これも小さめの椀に盛る。 「ちょっとだけ‥‥身体を起こしてくれますか？」 「あ‥‥はい‥‥」 上半身だけ身体を起こすと、すぐに無明妃が背後に回った。 「あ‥‥」 「わたくしに身体を預けて‥‥」 「そ、そんな‥‥」 「いいから‥‥」 「‥‥す、すいません‥‥」 「ここに持ってくる間に程よく冷めましたから‥‥さ、召し上がれ‥‥」 「‥‥‥‥」 無明妃に抱きかかえられながら、茉莉花は食事を取った。 昨日から何も食べれなかったのに、何故か無明妃の作った総菜はすんなりと咽を通過した。 味も感じられないはずなのに、何故かうっすらと懐かしい味がした。 「‥‥おいしい」 「それはようございました。茉莉花殿の好みにあわせてみたのですが‥‥お気に召しても らえて、わたくしもうれしゅうございます」 「無明妃さん‥‥もしかして‥‥東北の生まれ、ですか‥‥？」 「‥‥ふふ‥‥秘密です」 「なんか、北の味がする‥‥雪国の味が、する‥‥」 「ふふ‥‥」 「おいしい‥‥お姉ちゃんが作ってくれた‥‥煮しめと‥‥おんなじ味がする‥‥」 「そうですか‥‥茉莉花殿の姉上と‥‥」 無明妃の作った食事を一通り平らげて、茉莉花は再び横になった。 気のせいか、顔色もよくなっている。 このぶんでは薬を飲む必要はないかもしれない。 「‥‥一応、薬を花瓶の横に置いておきます。目が覚めて、まだ身体がだるかったらお飲 みくださいね」 「はい‥‥」 無明妃は茉莉花が眠る布団の横に一輪挿しを置いた。 茉莉花が見える位置に。 少し背の低い一輪挿し、お盆に固定されて倒れないようになっているらしい。 どうやらこれもお見舞いの一つらしい。 一輪挿しに活けられた花は白い花と蒼い花だった。 白が“茉莉花” 蒼い花は‥‥帝劇で黒子の仕事を終えた後に舞台袖にいつも置かれている、あの花だった。 「きれい‥‥」 「わたくしが花やしきで花を活けているのはご存知ですよね？‥‥それで席をはずして、 また戻ってみると、何故か一輪、違う色の花が混じり込んでいたのです。それが‥‥そ の蒼い花です」 「え‥‥えっ！？」 「不思議と心が落ち着くので‥‥妖しいものではないのでご安心を」 「わかってます。ありがとうございます」 「‥‥もしや、ご存知なのですか？‥‥この花の主を」 「あ、いえ‥‥その‥‥」 色のない部屋に映える蒼と白。 茉莉花はとろんとした目つきでその花びらを見つめ、そしてすぐに眠りに落ちていった。 無明妃は茉莉花が深い眠りに入るまで、ずっと側で茉莉花の柔らかな髪を撫でた。 まるで実の姉のように。 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 乙女学園に入学して半年が過ぎようとしていた、ある日の午後。 荷物とともに電報が届いた。 「茉莉花ちゃあんっ、荷物が来てるよおっ」 「‥‥は、はあい」 ドタタタタ‥‥ 階段を駆け降りる。 吉報来る。そういう予感がした。 ミョウニチ ゴゴシチジ テイトチュウオウホール ニテ オマチシテイマス フェイロン 「ふぇいろんさんだっ！」 茉莉花は電報をしっかと握りしめ、部屋に舞い戻った。 バタン、とドアを閉め、鍵を閉め、ベッドに飛び込む。 もう一度しっかりと電報を一字一句確かめるように読み返す。 そして、その電報をしっかりと握りしめ、まるで胎児のように丸く横たわった。 「ふぇいろんさん‥‥ふぇいろんさん‥‥ふぇいろんさん‥‥」 ふと、一緒に届いた荷物を思い出した。 しわくちゃになってしまった電報を焦りながら引き延ばし、引きだしの中にしまいこむ。 荷物は平べったい板張りの箱。 開封する。中身は和紙に包まれている。 「‥‥なんだろ」 持ってみると軽い‥‥これは衣装だ。 和紙を開く。 「あ‥‥」 チャイナドレスだった。 群青よりも深い青。深海のような色。 限りなく黒に近い藍色の生地、そのところどころに夕陽を反射して源氏蛍のような光を呈 する。光を発する部分には刺繍が施してあった。 藍色の地に白い刺繍の花。茉莉花の花弁だ。 「きれい‥‥あ‥‥もしかして、これ、着ていくのかなあ‥‥は、はずかしいよぅ‥‥」 コトン‥‥ 「ん？」 ドレスの合間から、こちらは藍色の布に包まれた何かが落ちた。 ドレスの蒼にまぎれて気がつかなかった。 開けると‥‥ 「これって‥‥真珠じゃ‥‥」 黒真珠だった。 全く同じ形、大きさの黒真珠が連なってネックレスを形成している。 まるで闇を凝縮したような深い黒。 この世にこんな真珠が存在するのか、と思うほどの黒。 その黒に反射する光が対照的な幻想美を演出する。 「これって、すんごい高価なもんじゃないんだろうか‥‥」 じっと握っていると、じんわりと暖かみを感じる。 試しに首にかけてみた。 違和感がない。 不思議なことに、それをつけていると身体が妙に軽くなるような錯覚さえ感じた。 疲れがたまっていたのか、肩凝りに悩まされていた茉莉花は、そのネックレスが肩の荷を も取り去ってくれたのだ、とすら思ってしまった。 「‥‥ありがとうございます、ふぇいろんさん。大切にします。一生の宝物にします」 とベッドの上に広がったチャイナドレスに合掌する。 もうすぐ陽が落ちる。 茉莉花は晩ご飯も食べず、すぐに眠った。 明日という日が一秒でも早く来るように、と。 翌日、茉莉花は朝からそわそわしていた。 授業に集中できない。 「茉莉花さん、あなた、午後から花やしきに行きなさい」 「はい？」 一時限の講義が終わるなり、茉莉花は彩から告げられた。 浅草花やしきのことは話には聞いている。 「無線連絡があったの。誰かはわからないけど、帝撃五師団の特殊暗証コードだから‥‥ 花やしきには無明妃さんがいるし、たぶん彼女じゃないかしら」 「無明妃さんが？‥‥おかしいなあ、無明妃さんだったら電話してくれるか、こっちに直 接来てくれるはずだけどなあ‥‥」 帝都ホールへ行くには乙女学園からでは遠い。 だれが茉莉花を呼んだかは知らないが、そういう意味では天恵の至りだ。 銀座ではなく浅草、という意味は計りかねるが‥‥ 暫し動きを止めていた茉莉花だが、思い出したようにチャイナドレスとネックレスを鞄に 入れ、すぐさま宿舎を出た。 花やしきに行くのは初めてだった。 浅草寺を経由して行ったほうが近い、と言われて、そのとおりに行こうとするが‥‥当然、 雷門を通過し、出店も通過せねばならない。まだ１５歳の茉莉花は、浅草名物をだまって 見過ごすほど大人ではなかった。 「わ、わ、わ‥‥す、すごい‥‥」 「お嬢さん、綿飴どうだい」 「わ、わ、わ」 「お嬢さん、串団子、おいしいよ」 「わ、わ、わ」 「お嬢さん、リンゴ飴いかがかね」 「わ、わ、わ」 とりあえず、お呼びがかかったものは一通り制覇してしまった。 奇麗な簪や櫛が並んでいる店もある。 茉莉花は藍色の地に控えめな金色の装飾が施されている櫛に目を奪われた。 値段は書かれていない。他を見ると５０圓前後、見た目が高そうなものは１００圓の値が ついていた。しかるに、この藍色の櫛は値をつけられない品なのかもしれない。 でも欲しい。贅沢はしない茉莉花だったが、これだけは欲しかった。 勿論自分のためではない。 「ほう‥‥見る目があるね、お嬢さん。そいつは大陸から来た値打ちもんだぜ。どうだい、 安くしとくよ」 「う～ん‥‥でも、あんまりお金持ってないから‥‥」 「いくら持ってるんだい？」 「えと、えと‥‥５０銭、１圓‥‥５圓‥‥８圓‥‥８圓、です‥‥すいません、ひやか しです、失礼します‥‥」 「そっか‥‥よっしゃ、５圓で結構だ。残りは帰りの電車賃だ。持っていきな」 「え‥‥で、でも、これ、高いんじゃ‥‥」 「なんでかな‥‥なんとなく、あんたに買ってもらいたいんだよ。それに、あんた、どう しても欲しいって顔してるぜ？‥‥贈り物かい？」 「おねえちゃんに似合いそうかなあ、なんて」 「いい妹さんだ。おねえちゃんも負けず劣らずってとこだろうな‥‥持っていきな」 「あ、ありがとう、ございますぅ」 結局遠回りになってしまった。 花やしきに着くと、またまた茉莉花はウズウズし始めるが、ここは我慢だ。 遊覧物品の数々を前にして指を銜えて通過するのは拷問に等しかった。 ‥‥あはははは‥‥きゃああ‥‥ 観覧車に乗る子供たち。 まだ幼い子は母親の腕にしっかりとしがみついて、嬉々として悲鳴をあげている。 茉莉花は立ち止まった。 顔から表情が消えていた。焦点が合わない瞳の向こう側に写る景色。 観覧車が回る。記憶という名のフィルムを巻き戻すように。 茉莉花の顔に哀しみの表情が蘇る。 「‥‥お母さんが恋しいの？」 「え？」 「それとも、お姉さん？」 後ろからいきなり声をかけられた。 振り向くと、白。 純白のチャイナドレスが茉莉花の目に飛び込んできた。 天から舞い降りた神の使い。 まるで天使のような美少女だった。 観覧車から反射した光が、その輪郭を包んで翼のように広がる。やはり天使か？ 暫し呆然とする茉莉花。 「これ、あげる。期限もないから、いつでも乗れる‥‥家族みんなで、ね」 「え‥‥」驚いた。 なにより、茉莉花の脳裏に刷り込まれている女優“李紅蘭”の情報は更新する必要のない ものだったはず。 即ち、李紅蘭＝三編みお下げ髪(くせっけ)＋そばかす(化粧気なし)＋眼鏡(瞳が大きく やや垂れ目)＋チャイナドレス(胸は小さめ背丈も低め)＋関西弁(色気なし)。 誰からも愛される不変のキャラクターだったはずだ。 少なくとも半年前、最後に見た花組公演の紅蘭はそうだった。 それが、今、目の前にいる李紅蘭と称した女性は、あの“李紅蘭”ではない。 別人としか言いようがない。 たった半年で？ 確かに顔形はよく見ると紅蘭に間違いはない。特徴も際立って変化している訳ではない。 にっこり微笑む。 茉莉花は自分の体重が、ふっ、と消えてしまいそうな錯覚に陥った。 引力から解き放たれ、空に“落ちていく”感覚。 そんな不可思議な効果を齎す笑顔だった。 茉莉花の脳裏にかつての紅蘭の映像が蘇る。 大神とさくら、紅蘭の三人が受付に現れた時のこと。“つばさ”の公演初日、だれよりも 早く劇場に到着した茉莉花の目に飛び込んできた紅蘭の笑顔。冷や汗たらたらの大神と、 不安げなさくら。実に対照的な姿が茉莉花の網膜にしっかりと焼き付いたものだった。 あの天真爛漫な笑顔ではない。 本当に天使になってしまったのか？ 「茉莉花はんやね？、やっと会えましたな」 「あ、あの‥‥こ、紅蘭さん、ですか？、ほんとに」 「うん」 「‥‥‥‥」 「行きましょか」 茉莉花は呆然としたまま“李紅蘭”と名乗る女性の後についていった。 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 花やしきの受付を通過し『関係者以外立入禁止』の表札が立っている通路を何度となく通 り過ぎる。 迷路のような通路を通って行き着いた先は鋼鉄製とおぼしき紅い扉だった。 傍らに壱から拾まで刻印された押しボタンが並ぶ。片手で１０桁ほど入力する“紅蘭”。 ガチャ‥‥という音と共に、扉が解錠され、重々しく扉が開いた。 ぼけっとする茉莉花。 「さ、茉莉花はん」 「‥‥え‥‥あ、はいっ」 茉莉花が入ると、紅い扉はすぐに閉じた。 そしてまたすぐに扉。 今度は青い扉だった。 赤鬼と青鬼に挟まれている気分だ。 狭い空間に二人。 ちらっと見る。身長は殆ど同じだ。 『‥‥あれ？‥‥この香りは‥‥』 ほんのりと芳しい香りがする。比喩的ではあるが“風”の香りもする。 風の丘の花畑から生まれる香り。茉莉花にはそう思えた。 「ん？‥‥どうしたん？」 「すごくいい香りが‥‥」 知らず知らず、鼻先を“紅蘭”の横顔に近づけていた茉莉花。 またまた真っ赤になって引き返す。 「うちの“別荘”の横は花畑になってるから‥‥移り香やね」 いきなり照明が黄色に変わった。 「え、え？」 「恒例行事。気にせんでええよ」 暫くすると照明はもとに戻り、青い扉が開いた。その向こうには銀色の通路が続いている。 茉莉花がおどおどするのも不思議ではなかった。 花やしき支部は先に起こった“ある事件”の後、大規模な改装工事が行われ、特に工場内 部に入るためには特殊な認証が必要となっていた。 通路の終わりは黄色い扉。 「ここが新生花やしき工場。帝撃五師団の面々ですら入れるのは限られとるんよ」 「わ、わたしみたいなのが入ってもいいんでしょうか‥‥」 「茉莉花はんは特別。うちの直弟子になる人やもん」 「はい？」 「聞いてない？‥‥胡蝶楽に編入する生徒はんって滅多におらへんの。だから“選ばれた 人”には必ず夢組と花組から指導教官が派遣されるんよ。夢組か花組、どちらを重視す るかは選抜した人間が見定めるんやけど‥‥茉莉花はんの場合は“夢向き”と判断され たみたいやね」 「夢向き‥‥」 「尤も、うちはそうは思わへんけどね。一つに縛るのは茉莉花はんにとって逆効果かもし れへんし‥‥茉莉花はんは寧ろ花組におったほうがええんとちゃうかな」 「え？」 最後の扉を開ける。 すると帝国劇場の客席を凌ぐ広大な部屋が目の前に広がった。 銀色の壁、天井、床。 吸血鬼は銀が苦手やから、と言う“紅蘭”の言葉をまるごと信じた茉莉花。 悪魔や妖怪の類いも寄せ付けないためなのだろうか‥‥自分が立っている床を見つめた。 磨かれた床が自分の姿を映し出す。 横に立つチャイナドレスの紅蘭。その影に隠れた部分が、ちらっと見えて、茉莉花は真赤 になってしまった。 『スカートで来なくてよかった』 「‥‥普通の人には見えへんから」 「へ？」 スカートでも問題ないようだ。 工場には人の気配がなかった。 何に使うのか訳のわからない機械や装置群が整然と並んでいるが、これも稼働していない ようだ。 工場を通過する。 目的地はこの工場の更に向こうらしい。 「うちの別荘はこの向こうにあるんよ。茉莉花はんにはそこで仕事してもらうから」 「は、はい‥‥え‥‥仕事、なんでしょうか？」 「創るほうに向いてる、って言われんかった？」 「‥‥あ」 ‥‥あなたは見る側よりも創る側のほうが向いているかもしれませんね‥‥ 「創る、って言ってもいろんな意味があるけどね。舞台で演じることも“創る”ことに変 わりはあらへん。そう‥‥茉莉花はんには茉莉花はんにしかでけへんもんを創ってもら うつもり」 「で、でも、わたし、工場で働いたことなんて‥‥」 「あ、そこは工場とちゃうんよ。すぐにわかるから」 その先の通路。 また迷路だった。 それも先程よりも更に複雑だ。 「ここから先は資格のない者は通れない。たとえ花組でも‥‥大神はんでも」 独り言のように呟く“紅蘭”。 どういう訳か、茉莉花にはその迷路の解き方が自然と脳裏に浮かんでくるのだ。 前を歩く“紅蘭”の足取りが少しずつ早くなっていくような気がする。 それでも茉莉花は決して迷うことはなかった。 ‥‥ふふふ‥‥ 笑い声が聞こえる。 ‥‥ええん‥‥ぐすっ‥‥ええん‥‥ 泣き声が聞こえる。子供の泣き声だ。 声の方向を振り向く茉莉花。 そこには鏡があった。 自分しかいない。 「‥‥あ！？」 “紅蘭”を見失ってしまった。 茉莉花は一人で出口を探した。 ‥‥きゃあああ‥‥ 悲鳴が聞こえた。 背景に爆音が混じっているような気もした。 ‥‥おねええちゃああん‥‥ 「えっ！？」 幼い子の叫び声。おねえちゃん、と呼ぶ声が茉莉花の足を止めた。 見回す。が何の気配もない。 「確かに聞こえたのに‥‥迷子になってなければいいけど‥‥」 十字路が幾度となく現れる。 ‥‥ギギギギ‥‥ギガガガ‥‥ 不愉快な音が聞こえる。 その声が聞こえる方向に、あえて向かう茉莉花。 不愉快な声が大きくなる。 「‥‥うるさいなぁ」 ‥‥ギガ？‥‥ギィ‥‥ 声は消えた。 最後に残した声が、さながら母親に怒られて落ち込む子供のようにも聞こえた。 Ｔ字路にさしかかる。 右手から甘い香りがする。花の香りか？ いや、香水の香りだろう。 鼻腔を擽る香り。 その甘い香りは、まだ幼い茉莉花の奥底に眠る“女”の部分を刺激する不思議な効能があ ったようだ。 腰のあたりがむずがゆい。 脚の付け根を、その香りが実体となって触れているような錯覚。 快感と嫌悪感がないまぜになったような未経験の感覚に鳥肌がたつ。 ‥‥大神くん？‥‥大神くんなの？‥‥ 声がした。 茉莉花の身体の特に敏感な部分に突き刺さるような、これも甘い声だった。 「え？」 声にならない声で応える茉莉花。 ‥‥わたしを一人にしないで‥‥さみしいの‥‥そばにきて‥‥ 意志とは無関係に声のする方向に身体が動く。 動くたびに、一歩踏み出すたびに、茉莉花の身体を得体の知れない快感と嫌悪感が支配し ていく。鳥肌がたち震える身体を自らの腕で抱きしめる。すると今度は亜熱帯にいるかの ような暑苦しさに見舞われる。 声の所為か？ それとも香りの所為なのか？ 纏わりつく香りは更に強くなっていく。 手で触れられているような感覚。 これ以上は危険だ、と頭ではわかっていても、身体が言うことを聞かなかった。 身体がこれ以上の何かを求めていた。 ‥‥そばにきて‥‥そばにきて‥‥わたしを愛して‥‥わたしを‥‥わたしを‥‥ 長い通路が続く。 その向こうに人影らしい闇。 はっきりとはわからないが、女性、のようだ。 声の主か？ ドレスを着ているのか？‥‥チャイナドレス、だ。 紅蘭か？ いや、何かが違う。 ‥‥茉莉花さん‥‥ 「！」 耳ではなく心に響く声。それが呪縛を解く。 もう一度目を凝らすと、人影は消えていた。 ‥‥行かないで‥‥お願い‥‥そばにいて‥‥ あの誘惑の声は未だに聞こえる。相変わらず香りもする。 しかし茉莉花はもう翻弄されることはなかった。 茉莉花を呼んだ内なる声が、得体の知れない誘惑を完全に断ち切っていた。 少し頭を振って左手に向かう。 しかし、あれは誰だったのだろう？ 錯覚だったのか？ 呆然と立ち尽くす茉莉花。 肌には珠の汗が浮き出ていた。 頬に。腕に。 そして茉莉花の脚に。 茉莉花の細い脚を伝って、汗とないまぜになった、もう一つの夜露がひとすじ流れ落ちた。 扉を幾つ潜っただろうか。 その度に分岐路の選択に迫られる。 いつしか通路は金属から木に変わっていた。 それに伴って明かりが薄らいでいく。松明が灯る木の通路。 闇が覆い始める。 そして、それまでなかった匂いが漂い始める。 木の匂い、というより、風の匂い、と言ったほうがよかった。 それは通路の向こう側から来た。 ‥‥茉莉花さん‥‥ それは先程茉莉花を導いた声。 「この声‥‥」 ‥‥茉莉花さん‥‥ 「ふぇいろんさんっ！？」 １０メートルほど先に十字路が見える。 そこにぼんやりと人影が見えた。蜃気楼のようにも見える、黒い人影。 その人は右手に歩み出した。曲がり角に消える。 「ふぇ、ふぇいろんさんっ、ま、待って‥‥」 十字路までのわずか１０メートルが長く感じる。 距離感が喪失したかのようだ。 やっとのことでたどり着いて右手に進む。人影は消えていた。 走る茉莉花。ひたすら走った。 ‥‥茉莉花さん‥‥ 「ど、何処ですかっ、何処にいるんですかっ、わたしは、わたしは‥‥」 声が聞こえる方向に向かって走る。 通路に光がさしてきた。 松明ではない。これは太陽の光だ。 人影が見えた。 太陽の逆光でよく見えない。 「ふぇいろんさんっ」 走り寄る茉莉花。 その目に写った人影の輪郭は、女性の線を示していた。 「惑わされなかったみたいやね。流石は“神凪茉莉花”はん」 想い人の影は迷宮の中でチャイナドレスに代わっていた。 「あ、あの、男の人、来ませんでしたかっ！？、大神さんにそっくりの‥‥」 「‥‥ううん、だれも来てへんよ。だれも‥‥」 「そ、そんなあ‥‥」 がっかりする茉莉花。 いや、８時になれば会えるんだ。 そう言えば‥‥ 「あ、あの‥‥」 「うん？」 「藍色の‥‥いえ、群青色のチャイナドレスを着た女性を見かけたんですが‥‥」 「へえ‥‥」 「あの人、紅蘭さんの知りあいか誰かですか？」 「‥‥さあ‥‥どうやろ‥‥」 「すごく、その‥‥甘い香りがして‥‥身体の力が抜けて‥‥」 「‥‥‥‥」 感情が欠落した表情を見せる“紅蘭”。 気を取り直して、最後の扉に向かい合う。 太陽の光が降り注ぐ最後の入り口だ。 扉の向こう側に見えたもの。 茉莉花は仰天して暫く扉から先に進むことができなかった。 夢でも見ているのだろうか。 こんな風景を描いた絵を見た記憶がある。 緑と青。 扉の向こうに広がっていたのは青々とした草原だったのだ。 「ここがうちの別荘なんよ」 茉莉花は来た道を反芻した。 道は下りぎみだったことからして、ここは地下のはず。 それ以前にここは帝都東京のはずだ。にもかかわらず、広大な草原が広がっている。 時折風が靡く。異国の香りがする風のような気がした。 帝劇支配人が煎れてくれた珈琲を思い出させて、知らず知らず、茉莉花はチャイナドレス を入れた鞄をぎゅっと抱きしめていた。 「あの‥‥」 「ん？」 「わたし‥‥帰れるんでしょうか‥‥」 「‥‥不安？」 「いえ、その‥‥」 まるで異次元に迷いこんだような錯覚。 思い切って脚を踏み入れた。 ジャ‥‥ 砂と砂利を噛む音。 本物だ。夢でもなければ錯覚でもない‥‥はず。 振り向いてみる。今自分が出てきた扉は、小さな山小屋の入り口だった。 その山小屋の背後は花畑。 “紅蘭”に移る香りの出所がそこだった。 同じ花でも、花やしきなど何処にも見えない。 勿論帝都東京の雑踏も聞こえない。草原が奏でる微風の声。そして遠くで流れているであ ろう川の声だけだ。 「この平原は地球そのもの。あの空の向こうは宇宙。ここには自然がそのまま残ってるの ん」 「はああ‥‥」 「うちが手を加えたのは、この入り口と、食べるための小さな畑だけ」 「‥‥どこなんでしょうか」 「う～ん‥‥桃源郷、みたいなものかな？‥‥ここは普通の人が来れない場所やから。あ んまり遠くに行かんといてな。迷子になってまう」 「‥‥‥‥‥」 「もし万が一、人を見かけても、話しかけたらあかんよ。話しかけられても応えたらあか ん。戻れなくなくなってまうから」 「ど、どういう‥‥」 「あ‥‥もしかして、うちのこと、幽霊と思うてへん？」 「い、いえ‥‥」 時間と空間がねじ曲がっているとしか思えない。 茉莉花は深く考えないようにした。 「ここで、仕事する‥‥んですか？」 「うん。そやね、材料から創らな。この大地から、ね‥‥ただし、この草原とあの森、そ れに川には手を加えたらあかんよ」 「‥‥‥‥」 「ほな、最初は‥‥“石”、創ろっか？」 遠くに流れる川を目指し、河原で石拾いを始める。 どうやら黒っぽい石が目当てのようだ。 その石を山小屋の一角から引っ張り出してきた金属製の“なぐり”で粉砕し、更に細かく 砕く。これ以上細かくならないものを選別し取り出す。 薪となる木も、やはり川から拾ってくる。そして火を熾す。炭になった木を更に燃やす。 ものすごい火力になってきた。 そこに先程砕いた原石を放り込む。 その後は暫く待つ。 ようやく一服だ。汗びっしょりで火照った身体を心地よい風が優しく冷ます。 草原に横たわる“紅蘭”。 「はぁ‥‥ええ気持ちやなあ‥‥」 白いチャイナドレスが土埃で赤茶けてしまっていた。 砂埃で汚れた姿が妙にエロティックに見えてしまう。風がドレスの切れ目に入り込み太股 の白を覗かせた。チャイナドレスの白よりも白い脚。その白い脚に汗の滴がつたう。 濡れた唇。瞳。汗ばんだ肌。 汗に濡れたチャイナドレスが作る丘陵。くっきりと形状を露にする様は、その裸体を想像 するに難くはなかった。 先程の天使を思わせた姿から一転、今度は魔女さながらの妖艶さ。 思わず唾を飲み込む茉莉花。同性をも虜にしてしまう美がそこにあった。 「ん？‥‥このドレスは洗えば元通りになる生地を使うてるから、汚れても平気なんよ」 やはり、ここにいる“紅蘭”は、かつて見た紅蘭ではなかった。 色気とは無縁のはず。少なくとも茉莉花はそう感じていたはずの少女が、少女ではなく、 女としてそこに横たわっている。 自分が男だったら‥‥いや、考えまい。 茉莉花はその妖しすぎる肢体から目を反らした。おかしな感情が首をもたげてしまう。 「は、花、見て来ますぅ‥‥」 山小屋の裏側に走る。 風が反転する。まるで茉莉花を待ちわびていたかのように、緩やかな風に乗ってその香り は茉莉花の元に届いた。 「わああ‥‥」 芳しい香り。先程茉莉花を誘惑した甘い花の香りとは違って、清涼な風と大地の香りがし た。そして、その可憐な香りは茉莉花を懐かしい過去の時間へ導いていった。 花の色は白。よく見ると所々に蒼い花も混じっている。 白い花の絨毯に散らばる蒼い宝石。まるで海の色のようにも空の色のようにも見えた。 「あ‥‥これは‥‥」 その蒼い花。 帝劇で黒子をしている時に、いつも茉莉花を待ちわびるように舞台袖に置かれている、あ の花だ。 「夜来香って言うんよ。蒼い花やないんやけど‥‥何故か、そこに咲いてるのは蒼いんよ ね」 “紅蘭”の声が聞こえた。 まるで今自分が考えていることがお見通しのように。 「月下香とも言われてるんよ。月明かりの下で輝く花やね」 「イエライシャン‥‥ふぇいろんさんの‥‥好きな花‥‥」 「‥‥想い人の花みたいやね」 もしかして、あの人もここに来るのだろうか？ 随分長い時間を過ごした気がした。 炎が落ち着いた頃を見計らって、枝でつついて中身を取り出す。 とりあえず“石”なるものは出来上がった。 風で十分に冷まし、水で洗う。 ヒビだらけの黒い石。柔らかいようにも感じとれる。 「これって‥‥」 「鉛。さっき砕いたんは鉛の原石なんよ。これを更に精製する。そいでもって、鉄と混ぜ るんやけど‥‥そうやね、この続きは次にしよか。三日後にもう一度ここに来てて。今 度は一人でも来れるはずやろから」 「‥‥‥‥」 「あははは、何してるんやろ、って顔してるで。ほんま、可愛いなあ、茉莉花はん」 「むすっ」 「ふふふ‥‥でもな、全てはここから始まるんよ。茉莉花はんにはモノが創られる、その 全ての工程を見て欲しいんよ。そして受け継いで欲しいんよ‥‥うちの力の源となるも のを」 「それは‥‥」 「帝国華撃団のことは聞いてる？」 「は、はい‥‥えと、えと、花組と、夢組のことは‥‥」 「‥‥うちのことは？」 「え‥‥紅蘭さんは花組で‥‥え？」 「そう‥‥」 目を伏せる“紅蘭”。 その表情には思い出を懐かしむような色も見える。 楽しいこと、哀しいこと、うれしいこと、辛いこと、その全てが凝縮したような色だった。 「戦わなしゃあない時もあるのんよね。それしか選択の余地がないんやからね。それしか 大神はんを護る方法がないから‥‥」 「え‥‥」 「でも、ようやく手に入れた。誰も傷つかずに、何も失うことなく‥‥幸福を齎す運命の 人‥‥」 「？‥‥？？」 「あ、あははは、ごめんね、訳わからんこと言うて‥‥でも、ここでうちらが創った“子 供”たちは、帝劇と帝撃の礎となるから。そして茉莉花はん自身の礎にもなるはず‥‥ だから、きっちり遣り遂げなあかん。勉強やない。これは実践や。実践こそが最高の教 師やさかいな」 「は、はい」 「うん。あ、そうそう、ここは自給自足やからね、今度は泊まり込みで来てな。次は畑仕 事もしてもらうから。へへへ‥‥うちのトマトは美味いでぇ」 「は、はいい‥‥」 ‥‥ここのこと、内緒にしてね‥‥ 花やしきに帰還した茉莉花に“紅蘭”が去り際残した言葉。 遠くで聞こえる鐘の音のように、その声は鼓膜に残った。 関西弁ではなかった。 ‥‥わたしのことも、誰にも言わないで‥‥お願い‥‥お願い‥‥ 何故か哀しい表情が、その天使のような顔を曇らせる。 円らな瞳。眼鏡をはずす‥‥と、その瞳が瑠璃色に変わった。 今にも消えそうな儚げな微笑みを浮かべ、その“少女”はゆっくりと踵を返した。 一瞬見えた横顔。 喜怒哀楽全てを包括し、その全てを超えていた。 この世のあらゆる罪を背負っているようにも見えた。 一瞬の映像がコマ送りのフィルムのように茉莉花の脳裏に刻み込まれる。 白いチャイナドレスがプラチナのように見えた。 銀色に輝くチャイナドレスが創る稜線は、明らかに紅蘭とは別のものだった。 三編みにされた黒髪にかけた手の指には、いつの間にか包帯がしてあった。 その指が三編みを解く。そして癖のない長い黒髪が風に靡く。 靡く髪を追うように、その隙間から再び横顔が見えた。 そこにその人の本当の素顔があったような気がした。 あの実験室への回廊。 過去と未来を繋ぐ迷宮のような気がした。 時間と距離の支配から解き放たれているような気がした。 ‥‥吉の運気を呼び寄せる‥‥幸運を導く者‥‥それがあなた‥‥ 夢と花。 それを繋ぐ掛け橋となる胡蝶楽。 自分にそれほどの力があるのだろうか。 これほど特別扱いされても、自分は果たして期待に応えられるのだろうか。 ‥‥わたしを愛して‥‥わたしを愛して‥‥わたしを‥‥わたしを‥‥ あの声。 “紅蘭”の後ろ姿が、あの回廊で出会った群青の女性とだぶる。 やはりあれは紅蘭だったのか？ 去りゆく“紅蘭”の後ろ姿にお下げ髪は見えない。 背中に流れる長い黒髪。風のない花やしきで風に揺れる黒髪。 思わず追いかけようとした茉莉花。 しかし、またしても翼が見えた。 来てはいけない、と言っているような気がした。 “紅蘭”は通路の闇に消えて行った。 茉莉花が出会った“紅蘭”は紅蘭ではなく、やはり別人ではなかったのか？ 天使が紅蘭の姿を借りて降臨したのか。 あるいは紅蘭が別人の姿を借りて現れたのか。 それとも夢だったのだろうか。 不思議の国に迷いこんだ‥‥自分はアリスだったのか？ ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 花やしきの地下ロビーで立ち尽くす茉莉花。 そこで自分も埃まみれになっていることに、ようやく気がついた。 あれは夢ではなかったのだ。現実なのだ。 作業着で来たのは正解だが、いくらなんでもこれではマズイ。 迷った果てに見つけたシャワー室で埃を落とす。 ただ、風の匂いまで落ちてしまうのが、少し悲しかった。 シャワーを浴びながら、茉莉花は紅蘭との出会いを思い起こす。 夢組と共にあった茉莉花にとっても、あまりにも不思議で不可解なことが多すぎた。 夢を見ていたのでは、と怪訝に思えてしまうのも無理はない。そもそも紅蘭以外の人の姿 を見かけなかったのもおかしい。これだけ巨大な施設に、なぜ人がいないのか。 やはり、あそこだけ‥‥紅蘭がいる場所には、別の時間が流れていたのだろうか？ 濡れた身体をタオルで拭く。まだ幼い身体。 紅蘭の匂い立つような肢体を思い起こし、またしょんぼり。 着替えはチャイナドレス。それだけは同じだ。 仕方ない。どうせ着ることになるんだ、これで帝都を闊歩してやろうじゃないか。 深海のような深い藍色のチャイナドレス。 それは計ったように茉莉花の身体をぴったりと包み込んだ。 「うう、緊張するなあ‥‥でも、結構いいかも」 脚が涼しい気もするが、なんとなく気分が引き締まる。 黒真珠のネックレスもつけた。藍色のドレスに漆黒の勾玉。 まるで異国の皇太子妃にでもなった気分だ。 そこで茉莉花は足下に目が行った。 靴だ。 この作業靴は流石にいただけない。 しかし、ここでも茉莉花の運気は力を発揮したようだ。 「退屈じゃのう‥‥だれか遊んでくださりませぇ‥‥」 と、更衣室の向こう側から、おなじみの声が聞こえてくる。 目をこらして通路を見ると、そこにはとぼとぼと歩く見覚えのある出で立ち。 「あ‥‥舞姫さんっ、茉莉花ですっ、待ってくださいっ」 「お‥‥？」 何故か必死で茉莉花は声を出した。まるで迷子になった幼児が母親を探すように。 呼び止められた姫君は、全速力で引き返してきた。 茉莉花との距離は約２０ｍほど。 全速力で“走る”その姫君。 茉莉花との距離は何故か一向に縮まらない。 姫君はしなしなと身体を泳がせ、本人のありったけの脚力、約時速０．１ｋｍほどで必死 になって茉莉花に向かってきている。 従って、茉莉花は手を延ばし口を開いたまま、更に１分ほど待機せねばならなかった。 「はあ、はあ、はあ、はあ、わ、わらわは、わらわは、は、走るのが苦手ぞえ‥‥」 「‥‥‥‥」 「こ、これはこれは、茉莉花殿ではござらぬか。そうかえ、そうかえ、そんなにわらわを ‥‥さ、遊びませう。百人一首などどうじゃ？、それとも共に舞いまするかえ？‥‥な にっ！？、わらわの歌を所望となっ！？‥‥うむ、殊勝なお心構え、御見逸れ致し候。 でわでわ、わらわたちの大部屋へおこしやす。まずは一献‥‥なんの、遠慮は無用じゃ、 泊まっていけばよろしかろうて。わらわが添い寝をして‥‥にやり」 到着するなり反論も返答も許さない舞姫。 ようやく茉莉花の発言が許された。 「あのっ、靴、貸してもらえませんかっ」 「はえ？‥‥靴？‥‥おや、その装いは‥‥でえと、かえ？」 「そ、そんな、違いますよっ」 「むう‥‥茉莉花殿も隅におけぬものよ。かようなる可憐な出で立ち、さてもやんごとな き殿方がお相手と推察。どなたかの？、わらわの知ってる殿方かえ？」 「だ、だから、違うんですってばっ」 「はあ‥‥羨ましい限りぢゃ。お館様もわらわを誘ってくれぬものかのう‥‥いくらお忙 しいからといって、このような仕打ち、あまりにもごむたいでありんすよ‥‥あ～あ、 わらわも、でえと、したいのう‥‥くすん」 「あ、あのう‥‥」 「ん‥‥よ、よもや、その殿方とは、お館様ではありますまいなっ！？‥‥くっ、わらわ の目を盗んで、逢引などと‥‥正室たるわらわを差し置いて‥‥」 「お館様？‥‥へえ、舞姫さんって、やっぱりお姫さまだったんだ」 「ぬっ！？、その勝ち誇った物言い‥‥くぅ‥‥口惜しやぁ‥‥お館様は美少女が好みな のかえ？、わらわのような美女はお呼びでないのでござるのかえ？、お答えあれ、茉莉 花殿っ！、わらわは、わらわは、側室なぞ認めんぞねっ‥‥ぐしゅっ‥‥びえええええ ええええええ‥‥」 「違いますって、わたし、帝劇の支配人さんに呼ばれて‥‥」 「びえええ‥‥へ？‥‥帝劇の支配人、かえ？‥‥ま、まさか、よ、米田大将かえっ！？ ‥‥こ、これは一大事なりっ！！！」 「は？」 「あの老いぼれめが‥‥己の年齢も立場もわきまえず、よりにもよって我ら夢組の大事な 巫女候補を誑かすとわ‥‥なんたる鬼畜、なんたる外道‥‥磔獄門ぢゃっ！、打首獄門 ぢゃっ！！‥‥ご安心召されいっ、茉莉花殿っ、あのような枯れススキ、わらわが一瞬 の後に成敗してさしあげなむっ！、この舞姫にお任せあれっ！」 「あ‥‥ま、待ってくださああいいい‥‥」 よほどヒマだったのか、舞姫はいつもよりも躁気味だった。 それ故に、茉莉花の運気は舞姫によって矛先をずらされたようだ。 来た時と同じ速度で去ってゆく姫君。 「何やってんの、あの娘は‥‥」 今度こそ助け舟がやってきた。 舞姫とすれ違うようにやってきたのは、茉莉花のもう一人の指導教官。 「あ‥‥無明妃さんっ」 「おや？‥‥茉莉花殿ではありませんか」 「あのっ、靴、貸してもらえませんかっ」 「それは構いませぬが‥‥わたくしが持っているのは草履か下駄ですよ？」 「あああ‥‥」 「おや‥‥そのチャイナドレスは‥‥ああ、なるほど、それでは無理もないですね。神楽 に貸してもらうよう頼んできます。暫く待っていてください」 あっと言う間に、先の姫君に追いつき、追い越していく茉莉花の指導教官。 「‥‥何やってんの、あなたは」 「わ、わらわを追い抜くとわ‥‥なんたる脚力」 ボーン‥‥ボーン‥‥ 午後６時の時報が鳴り響いた。 外界から遮蔽された場所にいた所為か、それとも時間軸が変わったとでもいうのか、あっ と言う間に夜が来ていた。紅蘭と別れる直前の花畑は、まだ太陽の光をさんさんと受けて いたのに。 急がないと路面電車に乗り遅れてしまう。 焦る茉莉花。 「お待たせしました。神楽は留守でしたので、勝手に拝借してきましたが‥‥まあ、大丈 夫でしょう。あなたが使うのであれば、ね」 無明妃が持ってきた神楽の靴。藍色のパンプスだった。 白と赤しか着用しない神楽が、何故藍色の靴を持っていたのかは定かではないが‥‥ある いは茉莉花に感化されたのかもしれない。神楽の靴は茉莉花の足にぴったりと収まった。 「ありがとうございますっ、無明妃さんっ、神楽さんにもっ」 「ふふ‥‥でえとですか？‥‥でも、門限は守ってくださいね」 「ふぇいろんさんに会えるんですよっ」 「‥‥えっ！？」 走り出す茉莉花。 「ま、待ってください、茉莉‥‥」 無明妃の声も聞こえなかったのか、茉莉花は走りだした。 紅蘭と過ごした時間が茉莉花の中から、些事にこだわる、という概念を払拭してしまった のかもしれない。 まだ“走って”いる舞姫を追い抜く。 「ひええ、な、なんたる脚力」 そして無明妃にも二度追い越される。 「ぬぉっ？、一度ならず二度までも‥‥亀よりも早いと言われたわらわを‥‥」 「ま、待ってくださいっ、茉莉花殿っ」 茉莉花を追う無明妃。“ふぇいろん”という言葉の真意を確かめる必要があった。 『まさか‥‥まさか、大佐のことでは‥‥』 通路の角を曲がる茉莉花。 無明妃が同じように角を曲がると‥‥ 「‥‥茉莉花殿？‥‥何処へ行ったの？」 曲がった後の通路は５０メートルほどの直線。にも関わらず、茉莉花の姿は何処にも見え ない。目に見えないものを見る、無明妃の“瞳”をもってしても。 呆然と通路の涯を見つめる無明妃を残して、茉莉花は忽然と姿を消してしまった。 曲がり角を成す四本の支柱。 そこには獣の紋章が埋め込まれている。 四匹の聖なる獣。 無明妃は茉莉花の気配の残骸を、その獣たちが見守る床の傍らに見い出した。 そこにあったのはジャスミンの花弁。 それは時間と距離の支配から解き放たれるための代償だったのか？ ＜その３終わり＞
天使が手渡したもの、それは花やしき遊覧用チケットだった。
それがあれば全部のイベントを楽しめる。いや、瞠目すべきはチケットではない。
チケットを持つその手が、そのチャイナドレスをも凌ぐ艶やかさと美しさだったことに茉莉花は改めて驚いた。
やはり天使なのだろうか。
その手を追って行き着いた肢体。花やしきには場違いな美しさだ。
やはり天使に違いない。
鞄に入っている藍色のチャイナドレスを着た自分を想像し、そして‥‥ちょっとしょんぼりする。
あのドレスに収まるには、自分の身体はあまりに幼すぎる。
そして、ようやく顔を確認する。
少しくせがある長い黒髪は後ろで束ねられ、一本の三つ編みになって肩越しに胸のあたりへ流れていた。
柔らかそうな胸と濡れたような髪に、思わず息を飲む。男だったら唾を飲むだろう。
そして、形のいい顎の上にサクランボのような唇。
小さめだが整った鼻。白く滑らかな素肌。
青空をそのまま写したような瞳。
瞳は時折青空そのものによって隠れてしまう。
その少女は眼鏡をしていた。
「夢工場へようこそ」
「え‥‥」
「うち、李紅蘭です」
「‥‥えっ！？」
