Sweet Dreams

＜その４＞カーン‥‥カーン‥‥カーン‥‥ 火の見櫓の鐘の音。暗い空が赤身を帯びる。夜の８時前。帝都が眠りにつくにはまだ早すぎる時間帯。雑踏も途切れることはない。茉莉花は銀座の雑踏の中にいた。あまりにも目立つ藍色のチャイナドレスは、見ようによっては“客引き”とも取られかねない。まだ幼さの残る和風然とした茉莉花と、エロティズムの象徴とも言えるそのドレスとのマッチングは、ある種の人間にとってはその欲望を実践せずにはいられないだろう。夜の銀座を歩くには些か危険な装いだった。しかしこの日、夜の銀座は茉莉花を許容したようだ。悲鳴が聞こえた。雑踏が一斉に動く。「え、え‥‥な、何が‥‥」茉莉花が立つ歩道、そこに金粉が降り注ぐ。いや、金粉ではなく、火の粉だった。「きゃ‥‥」「何やってんだっ、こんなとこ突っ立ってると燃えっちまうぞっ、早く逃げなっ」見た目が如何にも“それ”風のガラの悪そうな男が茉莉花の目の前に立ちはだかった。明らかに慈善事業とは無縁の男が、火の粉から茉莉花を護る。「な、何が、いったい‥‥」「この先の飲み屋から火が出たんだっ、すぐに廻るぞっ」「えっ！？‥‥で、でも、わたし、帝都ホールに‥‥」「だったら迂回して行きなっ、帝劇の手前で曲がるんだっ、わかったなっ」「あ、あなたは？」「火消しが足りねえ。俺たちゃ、こういう時も用心棒を買って出るんだ。火と喧嘩だぜ」「き、気をつけてくださいねっ」「‥‥ありがとよっ、さっさと行きなっ」「は、はいい‥‥」火の粉が舞う銀座を茉莉花は走った。チャイナドレスが脚に纏わりついて上手く走れない。そんな茉莉花を避けるように火の粉が降り注ぐ。何故わたしはここにいるのだろう？それは勿論‥‥ふぇいろんさんに会うためだ。 ‥‥そうじゃない。どうやってここまで来たのだろうか？花やしきから、この銀座まで来た道程、その記憶がない。気がついたら銀座の繁華街に立っていた。火の見櫓の鐘の音で、茉莉花は目が覚めた。時間の感覚がなくなってしまったのか？距離の感覚もない。「‥‥あの人、火傷なんかしないよね。あの近所の人たち、大丈夫だよね」火事が気になる。火の粉が治まってきた。立ち止まって振り向く。空はまだ紅いままだ。「‥‥雨降ってくれないかな」暫し炎の行方を追い、そして再び茉莉花は走った。ポツン‥‥ ポツン‥‥ポツン‥‥ サ‥‥サアア‥‥ 「あれ？‥‥雨が‥‥やばいっ、急がないと」いきなり雨が降ってきた。まるで空気のような霧雨だった。息を吸うと肺にまで水蒸気が入り込みそうなほど、密度の濃い霧雨だ。火消しには寧ろ好都合だろう。広範囲に火の粉をまき散らしていた炎も、この分では鎮火も早まりそうだ。茉莉花は目的地に急いだ。勿論、何故雨が突然降り出したか、などとは考えずに。帝都ホールに着く頃、ドレスはびっしょりと濡れてしまっていた。いつもはさらさらのおかっぱの髪もびしょ濡れだ。「‥‥わたしってば、ほんとは運が悪いんぢゃないんだろうか」チャイナドレスから水が滴る。流石にこの状態ではホールに入ることなど許されないだろう。周りを見てみると、ホールの入口、即ち玄関は、すぐにロビーにつながる。そのロビーには結構な数の人がいた。みな正装している。男性はタキシードを、女性はドレスまたは和服を着用している。何かイベントでもあるのだろうか。対して自分はチャイナドレスなのだが‥‥いかんせん、濡れねずみ。あまりの恥ずかしさに、茉莉花はこそこそと入口から入ってすぐ脇に隠れた。玄関を創る巨大な柱。その脇にはカーテンがあって、茉莉花が姿を隠すにはちょうどいいサイズだった。「早く乾かないかな‥‥どうしよう‥‥ふぇいろんさん、何処にいるのかな‥‥」カーテンに隠れながら、周囲を見回す。火事のことを知らされていたのか、周りの紳士淑女たちも玄関から見える赤身を帯びた空を見つめていた。雨のおかげで、先程よりは元の暗さを取り戻している。もう鎮火したかもしれない。ざわざわ‥‥ 『そろそろ時間ですわね』『そうですね。では参りましょうか』みな、一斉に動き始めた。ロビーの先は大扉になっている。帝都ホールの名のとおり、巨大なダンスホールの入口だ。正装の男女の目的は、どうもダンスらしい。茉莉花のドレスは一向に乾く気配を見せない。「ど、どうしよ‥‥」ロビーから人の気配が消えた。これ幸いとばかり、茉莉花はロビーに足を踏み入れる。きょろきょろと周りを見回して、階段を発見。なんとなく構造が帝国劇場と似ている。もしかしたら二階からダンスホールが一望できるかもしれない。そしたらホールに来ている面々も判定できるだろう。茉莉花は階段を駆け上がった。濡れたドレスが脚にひっつく。「わっ！？」当然、足がもつれる。が‥‥茉莉花は転ばなかった。「大丈夫ですか？」階段を降りてきた男性に支えられた。「あ、ありがとうございます‥‥あ、あの、濡らしちゃって‥‥ご、ごめんなさいっ」濡れねずみの茉莉花を支えて、その男性の服も雨水が染み込んでしまったようだ。黒い燕尾服が濡れて、更に深い黒になる。「びしょ濡れにさせてしまったみたいですね‥‥すいませんでした」「‥‥え」ようやく顔を振り上げる。そこに見たのは、懐かしい人の笑顔だった。「あ‥‥ああ‥‥」「お久しぶりですね、茉莉花さん。よく来てくださいました」「ふぇいろんさん‥‥ふぇいろんさあああんっ」思わずしがみついた。もう何もかも忘れて、何もかも捨てて、一生このままでいたかった。父親を亡くした茉莉花にとって、父親のような人。一度しか会ってない。一度きりしか話していない。半年前のただの一度だけ。帝国劇場で。茉莉花にとっては、回数など問題ではなかった。時間など問題ではなくなっていた。でも父と呼ぶには若すぎる。兄と呼ぶには年の差がある。目の前の青年は少なくとも自分より１０歳は上だ。そして何より恋人と呼ぶには‥‥自分は幼なすぎる。茉莉花はそこではっきりと自覚した。大神に抱いていたものとは違う、切なすぎる想い。恋ではなく、もっと大切なもの。「何度も夢見たんです、ふぇいろんさんに会える夢‥‥今日だって幻を見て‥‥ずっと、　ずっと会いたかったんです。会ってお礼を言いたくて‥‥一緒にいたくて‥‥」音楽が聞こえてきた。ダンスホールから洩れてくる音。陽気で切ない音色だった。「踊りませんか？」「え‥‥え？」「ふふ‥‥ダンスも習ったのでしょう？‥‥成果を見せてください」「そ、そんな‥‥わ、わたし、社交ダンスは苦手で‥‥」「大丈夫。私がリードしますから」「で、でも‥‥こ、こんな濡れちゃってて‥‥」「二階に行きましょう。踊り場があります」「あ‥‥」手を引かれて階段を上る茉莉花。二人だけの夜の舞踏会。雨が観客だ。これは夢なのだろうか。まだ覚めない夢を見ているのだろうか？ ‥‥紅蘭が見せている夢なのか？切ない片思い。つのるばかりの片思いだった。それを叶えてくれたのは、時の女神の力なのか？「チャイナドレスがよく似合う。予想以上だ。数年後が楽しみですね」「え‥‥あっ！」濡れたチャイナドレスに茉莉花の身体の線が浮かび上がる。幼いとはいえ、れっきとした女の身体が。あまりの恥ずかしさに、つい想い人から離れ、濡れたチャイナドレスを隠すように自ら抱きしめる茉莉花。その人の燕尾服も、既に濡れてしまっている。「す、すいませんっ、わ、わたし、な、何やってんだろ‥‥」「さくらくんに似ていると思ったが‥‥“杏華くん”も混じってるのか‥‥」「え‥‥？」「いえ‥‥さ、私の肩に手をおいて‥‥」「は、はいい‥‥」二階の踊り場に立つ二人。小窓が格子状に並んで創られる大きな半円筒形の窓はステンドグラスになっている。ちょうどホールの角にあたるため、外からは殆どの方角から見えてしまう。霧雨が止んだ。行き交う人々がふと天を見上げる。そして、そこに行き着いた。ホールのステンドグラスに写る二つの影。七色のガラスに幻想のように揺れる二人の影絵。異国情緒の香りがする三拍子のメロディも聞こえてくる。さくらと同じほどの背丈の茉莉花が、背の高い青年の前に立つ。肩に手を延ばす。なんだか懸垂でもしているような感じに、苦笑いと照れ臭い笑いが混じった表情を示す藍色の少女。「私に身体をあずけて‥‥楽になりますから」腰を抱いた腕に引き寄せられる。照れが高じて真っ赤になった。「あ、あ、あの、あの‥‥」「音色に合わせて。私の動きに合わせて」とても緩やかな円舞曲だった。全く知らない曲。しかし茉莉花の身体は滑らかに動いた。チャイナドレスが踊る。幼い肢体は妖精のようだった。対して青年の黒い燕尾服。燕尾の部分がかなり長い。背丈に合わせたのだろうか。それがまるで‥‥漆黒の翼を休めた、堕天使のようにも見えた。銀座の街に降臨した堕天使と妖精。いつの間にかホールの周辺に人垣が出来ていた。闇に魅了されてしまったのか。『夢なら覚めないで‥‥』黒い青年の胸に抱かれ、茉莉花は願った。「着替えを用意しておけばよかった‥‥寒くありませんか？」「い、いえ‥‥あったかい‥‥暖かい、です‥‥」西欧で生まれた円舞に、夢組の日本舞踊で培った和風の舞いがブレンドされる。それはステンドグラスに舞子が投射されているようだった。茉莉花の舞いは、街角に集まった目の肥えた銀座っ子にも感動的な光景に写った。その場を離れられない。吉の運気を引きつける少女は、路上の観客をも惹きつけた。「あなたの夢は？」「お嫁さん‥‥あ、あの‥‥きゃ、脚本家に‥‥なりたい、です」「ふふ‥‥好きな人がいるのですね」「そ、それは‥‥それは‥‥」「お嫁さんになるのは少し待ってくれませんか。あなたの幸せを少しだけみんなに分け与　えて欲しいから‥‥」「え‥‥？」「脚本家、か‥‥素敵ですね。いろんなところに行って、いろんなものを見て、学んで、　知ってください。そしてもっとたくさんの人と友達になってください。あなたは、あな　たのまわりに集まる人、全てを幸せにできるはずだから」ボーン‥‥ボーン‥‥ 時間の流れが変わった。ホールの大時計の時報が示そうとしている時刻。夜の９時。堕天使の誘惑は終わりを告げようとしていた。動きを止め茉莉花の腰から腕を離す青年。そして茉莉花も自然な立ち位置に落ち着く。名残惜しそうに青年の肩から手を離す。「‥‥時間です」「‥‥え？」哀しそうな笑顔を浮かべる燕尾服の青年。きょとんとするだけの茉莉花だった。「シンデレラが好きなんですよね、茉莉花さん」「は、はい‥‥？」「‥‥今回は、男が去らねばなりません。ガラスの靴も残せません」「え‥‥え、え‥‥ど、どういう‥‥」「あなたにもう一度会いたかった。あなたの声、あなたの笑顔‥‥あなたは私に勇気を与　えてくれる」「そ、そんな、そんな‥‥わ、わたしは、まだ‥‥」「“本名は今度会うときに”と言いましたね。私の本当の名は‥‥」「い、言わないでくださいっ、わ、わたしには“ふぇいろんさん”で十分ですっ」本来の名を告げることが、その物語の終わりを示すような気がして、茉莉花は青年の申し出を拒絶した。ぎゅっと握りしめる拳がふるふると震える。理由もなく自然と涙目になってしまう。「‥‥そうですね。あなたも私にとっては“茉莉花”さん、なんですよね」「ふぇいろんさぁん‥‥」その青年は再び茉莉花に歩み寄った。手を差し伸べ、おかっぱの髪の毛に触れる。そしてその額に掌をあてた。びくん、と身震いする茉莉花。頭からつま先に柔らかい落雷が奔るような感覚。苦痛よりも清涼な感触に包まれる。さながら、身体の中に思い出を刻まれたような感じだった。「‥‥ふぇいろんさん？」「あなたの幸運をお手伝いする“おまじない”をしました。私からの最後の贈り物です」「‥‥ぐすっ」「もしも、再び会えることがあったら‥‥また一緒に珈琲を飲みましょう。夕陽が照らす　帝国劇場で」「‥‥行かないで」茉莉花の瞳から遂に涙が零れ落ちた。何故泣くのか。理由がわからない。寂しいから泣くのではない。それはわかった。恋しいから泣くのでもない。もっと大切なものを失う気が茉莉花にはしたから。ギ‥‥ ステンドグラスを成す黒いフレーム、その一部が中央が割れた。割れ目がまるで牙のようにも見えた。闇が顎を開ける。バサッ‥‥ 風が吹く。顎門に吸い込まれる空気の流れ。それは紅蘭が導いた、あの秘密の場所からの暖かく清涼な風とは違った。闇からの風。凍えそうな風だった。青年が宙に浮く。茉莉花にとって、物理現象から逸脱したその行為は重要ではなかった。その先に続く何かが茉莉花を止めどなく不安にさせた。まるで、堕天使が再び飛び立つかの如く。天に向かって再び戦いを挑むが如き様相だったから。マントを翻す吸血鬼。これは演劇ではない。茉莉花には恐怖も感慨もない。ただ哀しいだけ。ただ切ないだけだった。「行かないで‥‥行かないで、ふぇいろんさあん‥‥」止めどなく涙があふれる。火照って乾いたはずの肌が、また涙で濡れた。「あなたが創り出す新しい帝劇に幸福があらんことを」「ま、待って‥‥ふぇいろんさんっ、ふぇいろんさああああああんん‥‥」叫ぶ茉莉花。円舞曲が空回りする。三拍子の曲が酷く乾いて耳に木霊した。ステンドグラスを飾った二人の影絵。その一つが消えた。ただ、その夜に現れた青年の存在の名残は残されていた。開かない窓。ステンドグラス。その格子の間に咲く一輪の蒼い花、夜来香。ガラスの靴の代わりに、その青年は蒼い夜来香の花を残していった。泣き崩れ、蒼いイエライシャンを呆然と見つめるだけの茉莉花。ステンドグラスに映し出されたシンデレラに、街頭に立ち並ぶ観客の目にもうっすらと涙が浮かんでいた。 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 茉莉花が乙女学園に入学して、一年が過ぎようとしていた。半年前のあの夜から暫く呆然とする日が続いたが、それも少しずつ元気になって行った。なんと言っても茉莉花にとって漢方薬となったのは“紅蘭”の存在だ。３日おきに花やしきに出向く茉莉花をまわりは不思議に思ったが、まあ心配することもないだろうと、誰もあまり深く追及することはなかった。茉莉花は少しずつ、少しずつ‥‥何か確かなものが自分の内に育まれていくのを実感していた。それが何なのかはわからないが、意識して感じ取れるものでもない。これも“紅蘭”の導きなのだろうか？ “紅蘭”の天使然たる姿は日を追う毎に際立っていった。空気のように軽く、水のように滑らかに、大地のように確かな存在。そして時には火のように熱くなる気配。意志は金属のように堅く、茉莉花を育む様は巨木の苗に自らの命を注ぎ込むかのようだった。しかし、その“紅蘭”にもここ最近は会っていない。持て余す茉莉花だが、ここで大体は夢組から出張依頼が来るのが常だ。仕事や授業がない日は、じっと部屋で待機している茉莉花だが、その夢組からのお呼びもかからない。やっと演舞もまともになって、夢組のみんなの足を引っ張ることもなくなってきたのに‥‥尤も、夢組の真の役割に関して、茉莉花自身、何の役にもたっていないことは承知していた。それでも夢組の女性たちは、誰一人、茉莉花に対して辛くあたることはなかった。茉莉花は知らなかったが、こういうことに関して最も敏感な反応を示すはずの女性‥‥神楽という少女ですら、茉莉花に対しては異常なほどに優しく接したのだ。優しい姉たち。そんな彼女たちからの連絡が途絶えて久しい。なんとなくさみしい。黙っていてもやってくる姉たちの声が懐かしくなっていた。花組の公演は殆ど定期的に行われるために、黒子としての仕事も定常的に発生する。夢組はどうなんだろう‥‥茉莉花はちょっと不安になっていた。茉莉花は夢組の日本舞踊がいつからか好きになり始めていた。花組の動的な演劇とは対照的な、夢組の静的な演舞。どちらか選べと言われても、もう選ぶことができないほど‥‥ 茉莉花は夢組に浸り切っていたのだ。それこそがまさに“胡蝶楽”の真の目的だったかもしれない。しかし“その日”は遂にやってきた。コン、コン‥‥コン、コン‥‥ 「！‥‥は、はいっ」この独特のノックの音。これは無明妃だ。茉莉花はそう思った。カチャ‥‥ 「無明妃さんっ、今日は‥‥あれ？」扉を開けた茉莉花の前に立っていたのは無明妃ではなかった。白い無明妃とは対照的な黒い女性だった。短かめの黒髪、それに眼鏡をしている。背が高い。黒いワンピース‥‥の胸元が開けられて、まっすぐ向いた茉莉花の視線はその深い谷に吸い込まれていく。思わず自分の胸に手をあて、しょんぼりする茉莉花。ちょっと劣等感。「こんにちは。可憐と申します。初めてお目にかかります‥‥茉莉花さん、ですね？」「かれん‥‥さん‥‥？」「はい。帝撃雪組の副隊長をしております」「雪組って‥‥」「無明妃さんには今暫くはお会い出来ません。わたしはこの後すぐ現地に向かわなくては　いけませんので、失礼ながらこの場にて用件を申します」「は、はい‥‥？」「帝国華撃団花やしき支部まで出頭願います、神凪茉莉花さん。非常招集です」「‥‥えっ！？」「本作戦に参加していただく見返りとして、成果の如何に問わず、無条件に給金半年分の　特別報酬と銀座本部での実習が約束されます‥‥結果によっては更に上乗せされること　もあります‥‥結果次第、です」「‥‥銀座本部？‥‥えっ！？、て、帝国劇場ですかっ！？」「では、確かに伝えましたから。お急ぎください」「は、はいっ‥‥はい‥‥？」訳がわからないまま茉莉花は着替えた。蒼い着物でもなく、藍色の着物でもない。白いレオタードの上に白いジャケット。赤いアクセントが入った燕尾服のようなダブルのジャケットだ。それに真紅のブーツと真紅のグローブ。白と赤。夢組カラーだ。仕事‥‥特に帝国華撃団・夢組補佐の場合、着物姿では問題がある。尤も夢組のメンバーは着物がステータスシンボルであるためか、いつも白無垢のままではあったが。茉莉花が住む寮から花やしきまでは、迎えの蒸気自動車でやってきた。運転手は茉莉花を下ろすと、すぐに何処かへ消え去って行った。何故かその運転手は黒子スタイルだった。花やしきに入り込んだのはいいが、指令部があるらしい部屋までが迷路。勿論紅蘭の、あの秘密の“別荘”には行けるのだが、それ以外はまるでわからない。他の帝撃要員とは全く逆だった。ロビーで迎えを待ったほうがいいだろう‥‥事実、すぐにその迎えはやってきた。「神凪茉莉花さん、ですよね？」「え‥‥あ‥‥」茉莉花を迎えにきたのは、憧れの、あの女性だった。「わたし、真宮寺さくらと言います。迷われました？」「‥‥‥‥」呆然とする茉莉花。舞台でしか見ることができなかった、あの憧れの女優さんが‥‥自分に話しかけている。「茉莉花さん？」「‥‥はっ？‥‥あ、いえ、そ、その‥‥」「急ぎましょう。司令代理もお待ちになってますから」「は、はいい‥‥」走る。さくらの速度は普通の成人女性のそれを明らかに凌駕していた。いや、それどころか、同年男性をも上回っているかもしれない。そして茉莉花はそんなさくらに肉迫する速度を示した。幼い頃から大人なみの仕事をこなしてきた所以か、わずか１６歳にして成人女性の肉体とそれ以上の体力をも身につけていたのだ。『流石に‥‥あの人が目をかけただけはある‥‥』ちらっと横目で茉莉花を見つめ、独り言をつぶやくさくら。プシュー‥‥ 指令室に到着。灯りが眩しい‥‥人がいっぱいいる‥‥５‥‥６‥‥７人だ。「乙女学園・胡蝶楽、神凪茉莉花さんをお連れしました、司令代理」「ありがとう、さくらくん」その人が振り向く。「よく来てくれました、茉莉花さん」「ふぇい、ろん、さん‥‥ふぇいろんさんっ！！」「え？‥‥おわっ！？」思わず飛びついて抱きつく茉莉花。あの青年と同じ顔と同じ声と同じ匂いがしたから。もう二度と会えないと諦めていたから。「もう何処にも行かないで、ふぇいろんさん、わたしの傍にいてください、わたしを見守　っててください、お願い、お願い、お願い‥‥」「あ、あの‥‥」「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」呆然と事の成り行きを見つめる少女たちだったが、すぐさま我に還り、二人を引き離す。唖然とするのはその青年も同じだったようだが。「ちょ、ちょっと待って、これは何かの間違いで‥‥」「え‥‥あれ？‥‥！！！‥‥ま、まさか‥‥」「わ、私は帝国華撃団・花組隊長の大神一郎です‥‥」「え‥‥」「げ、現在帝撃司令が不在のため、臨時に私が司令代行しています。よろしく、神凪茉莉　花さん」「は、はい、し、失礼しましたぁ‥‥」「では主旨を説明しますので、“お二人”ともよく聞いてください」「‥‥え？」「はい」横を見るともう一人同じような服装をしている少女がいた。茉莉花と同年代か、あるいはちょっとだけ上ぐらい？ただ自分の白とは違って山吹色のジャケットだった。アイリスが着用する戦闘服にも似ている。違いは薄い緑、蓬色のアクセントが入っていること。春の色だった。着用しているのはお互いに新型の戦闘服らしかった。スクリーンの前に立つモギリの青年。即ち花組隊長。その戦闘服姿を見るのは勿論初めてだ。茉莉花はしばし呆然として見つめていた。大神が告げた内容は深刻なものであることは、茉莉花にもわかった。帝国華撃団特級指令第四号が発令されたこと。それは大陸から正体不明の物体が接近しているためで、外敵と判断したこと。判断材料の一つは海外への大規模な人材流出が発生していること‥‥誘拐・拉致。それも対象は霊的素養がある若い女性に限られていたこと。乙女学園の生徒、茉莉花の同級生も確認されている。これを夢組と雪組、そして花組別動隊“胡蝶蘭”が臨戦体勢で追跡している。一方、大陸方面とは反対側、つまり太平洋側から、これもまた正体不明の航行物体を帝国海軍が確認していること。大型で約五時間後には北海道東部沿岸に上陸することが予測されている。尤も両者の関連性については陸軍特殊部隊と海軍特殊部隊が調査しており、詳細はよくわかっていない。「本題に入ります。あなたがたをお呼びしたのは‥‥実は帝都の守護を受け持ってもらい　たいのです」「え‥‥」「！」「帝撃五師団は今回の件で完全に分断されてしまいます。あなたがたには後方支援という　名のもとに参加していただきましたが、実際は帝都防衛の主力になってもらうことにな　ります」「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」「無論、お二人とも帝国華撃団の隊員ではありません。ですが帝国華撃団が不在である以　上、お願いできるのはあなたがたお二人だけなのです」「え‥‥？」「‥‥‥‥」久しぶりに訳がわからない状況がやってきた。ぼけっとしたままの茉莉花に、大神がゆっくりと歩み寄る。「司令長官からの任務依頼を伝えます‥‥かえでさん」「ええ」大神に呼ばれて応えた女性。藤枝かえで。帝国華撃団・司令部副長官。初代帝国華撃団副司令“藤枝あやめ”の妹、という肩書きで、ほぼ半年前に着任した。勿論、茉莉華にその素性などわかるはずもない。その女性がぴったりと大神に寄り添う。花組の少女たちの間に不穏な空気が漂ってくるのが茉莉花にもわかった。この女性はあまり歓迎されていないらしい。「“乙女学園胡蝶楽所属、神凪茉莉花殿。貴殿に帝国華撃団・夢組への配属を依頼する。　帝国華撃団総司令長官、神凪龍一”」「神凪？‥‥え？‥‥夢組に、配属‥‥ですか？」「本依頼書は実は半年前に書かれたものよ。辞令ではなく依頼。茉莉花さん、あなたは　軍籍じゃないものね」「はあ」「うふふ‥‥可愛い娘‥‥流石に“彼”が目をかけただけはあるわ‥‥そう、あなたは　最初から夢組に配属されることを約束されていたのよ」「‥‥はい？」不思議な笑顔を浮かべて、大神の斜め後ろに退く“藤枝かえで”なる女性。退いたと言っても相変わらず大神の身体に密着したままだ。奇妙な色の表情を見せる、その女性。大神が代わって茉莉花に告げる。「間もなく夢組隊長が帰還します。その時に辞令書と共に命令書をお渡しします。そし　て茉莉花さん、その後もわたしたちと共に戦ってもらえるのなら、後に正式な任命書　が手渡されます‥‥勿論帝撃夢組隊員として、そして帝劇夢組劇団員として」「‥‥‥‥」「そして、春香くん」大神が再び対応する。横の少女の名は春香、と言うらしい。「はい」「“乙女学園第壱期卒業生、野々村春香殿。貴殿に帝国華撃団・花組への配属を依頼する。　帝国華撃団総司令長官、神凪龍一”」「はいっ！」「本来なら君にも俺たちと一緒に来てもらうはずだったんだが‥‥やはり、茉莉花さんと　一緒にいてもらおうと思う。君を帝都に残すことが最善の策、ということかもしれない　から‥‥そう思いませんか、茉莉花さん？」「は‥‥？」唐突に指名された茉莉花はやはり面喰らう。「二人は夢組隊長が帰還した際、具体的な指示を仰いでくれ。今回の作戦で君たちを指揮　してくれる人だから」「‥‥は、い」「はいっ」「では‥‥」大神は茉莉花たちから離れ、残る五人に視線を送った。勿論茉莉花の知っている人たちばかりだ。帝国歌劇団、花組‥‥それは帝国華撃団・花組。こうして近くでお目にかかれるなんて‥‥今が臨戦態勢でなければ、と、茉莉花は溜息を漏らした。マリア・タチバナ、桐島カンナ、神崎すみれ、真宮寺さくら、李紅蘭‥‥ 茉莉花は紅蘭のところで視線を止めた。純白のチャイナドレスではなく、新緑の戦闘服。にも関わらず、天使然とした雰囲気はそのままだ。相変わらず翼が見える。茉莉花はまたしても目をこすった。お下げ髪ではない。やはり一本の三編みにした長い黒髪が肩越しから胸に流れ込んでいる。あのおさげ髪の少女はもういないのだ。それこそ花のように、信じられないほどに美しく咲き誇って、そこに立っている。雪のように白い肌と艶のある黒髪が、夢のようなコントラストを見せる。まるでその場所だけが時の支配から逸脱しているかのように。横に立つさくらやすみれをも凌ぐ、異次元の美と妖艶さを以て。背後から閃く光の帯。一瞬形を成す四匹の聖なる獣。獣たちは“紅蘭”を護るように四方に佇んだ。紅蘭の新緑よりももっと深い緑、その軍服に身を包んだ女性に向かって獣たちは絶えず威嚇の気配を放っているように茉莉花には見えた。それに呼応するように、深緑の軍服の背後から立ち上がる暗い蜃気楼。その蜃気楼も“紅蘭”と同様、翼を形作る。藤枝かえでと李紅蘭。妖しい笑みを浮かべる魔界の女王と、神獣を従える時の女神‥‥という構図か。誰も気づいていない。茉莉花にだけ見える、異次元の映像。もう一度目をこすり“紅蘭”を見つめる茉莉花。「うちの顔に何かついてる？」「‥‥え‥‥あ、いえ、その‥‥」「ついていると言えばソバカスはついていますわよね」すみれが言う。「ふんっ、これはうちのトレードマークやで」「うふふ‥‥くせっけ三編みお下げ、もね」さくらが言う。「ふんっ、そうやっ、羨ましいやろっ」「へへ、胸がねえところも特徴だな」カンナが言う「はっはっはっ、じ、実はサラシ巻いとるんやっ、サラシたろかっ！？」「こらこら、いい加減になさい」マリアが窘めるが‥‥ 何かがおかしい。茉莉花には、紅蘭の顔にソバカスなど見出せなかった。雪のように白い肌だ。それに髪の毛はくせなどないし、お下げにもしていない。まっすぐに伸びた長い黒髪を胸のあたりで三編みにしている。その胸にしても、カンナが皮肉るようなものではない。戦闘服の上からでもはっきりとわかる形状は、茉莉花をして触ってみたいと思わせるものだ。みんなが見ている紅蘭の映像は、自分が見ているそれとは違うのか？今、目の前に立っているのは紅蘭ではないのか？『‥‥そんなに見つめないで、茉莉花さん』「え‥‥」「そんな見つめんといて、茉莉花はん」「‥‥‥‥」茉莉花の背中に冷たい汗が伝う。動悸が襲う。ゆっくりと、おおきく。どくん‥‥どくん‥‥ 自らの心臓の鼓動が茉莉花の鼓膜に突き刺さる。 “紅蘭”の姿がぶれて見える。意識を固定するのが困難になってきた。この世を司る見えない時計。その時が刻まれる音のようにも思えてならない。茉莉花と“紅蘭”を結ぶ時間。今この世界を支配する時の流れとは違うような気がした。 “紅蘭”と過ごした時間は、自分を現世とは違う時間軸に導いてしまったのか？いや、そうではない。今こうして花組の前に立つ自分は、明らかに現実の世界にある確固たるものだ。 “紅蘭”と接する“時”だけが異なる時間軸にあるのか。それとも圧縮されていた紅蘭の映像が、“時”のフィルターによって真実の姿を茉莉花に見せているのだろうか。「‥‥顔色悪いで、茉莉花はん。緊張しとるんか？」『‥‥心配しないで、茉莉花さん‥‥自分を信じて‥‥』「あなたは、だれ、なの‥‥？」「は？、だれって‥‥紅蘭ですがな。毎週会うてますや‥‥」『わたしは‥‥李‥‥蘭‥‥もう一人の‥‥わたし‥‥』「どうしたんよ、茉莉花はん‥‥ほんまに大丈夫か？」『もう一人のわたし‥‥もう‥‥一人の‥‥‥蘭‥‥』意識が分裂するような感覚に、茉莉花は失神寸前に陥った。身体を束縛する重力が切断されるような錯覚。それは錯覚ではなかった。茉莉花を拘束する重力は、一瞬だが本当に途切れてしまったようだ。夢組のシンボルカラーの赤。その赤に塗られた靴が床から一瞬だけ、それも数ミリ程度だけだが、確かに離れた。霊力を念動に変換できるのはアイリスだけのはずだったが、それと全く同じ現象が茉莉花自身に起こった。勿論一瞬。せいぜい一秒程度だろう。だれも気づいていない‥‥はずが、それを見逃さなかった人物がいた。『！！‥‥こ、これは‥‥い、いったい‥‥』さくらだった。虚ろな目をした茉莉花の、その表情を心配していた花組の面々だったが、さくらはその足下から目を離せなかった。『こ、この力は‥‥アイリス？‥‥いや、霊力がまるで感じられない‥‥いったい‥‥あ　‥‥ああ‥‥』「どうしたの、さくら？」『‥‥心が‥‥こ、こころが‥‥』茉莉花に生じた超常現象を垣間見たさくらは、茉莉花の心に生じた葛藤をも感じ取っていた。奥深く封じ込めていた“何か”が再び起き上がってくる。「さくら？」「‥‥え？‥‥あ、あ、いえ、な、なんでも‥‥なんでもありません」かえでがさくらの横に歩み寄る。胸に手をあてたまま俯くさくら。その手に並ぶように、柔らかな丘陵に手を重ねる“かえで”。美しいだけに、その動きの妖しさは異様を極めた。「あ‥‥」「気分が悪いんじゃない？」「いえ、ほんとに大丈夫ですから‥‥」「そう？‥‥出撃、見合わせたほうがいいんじゃない？」さくらの耳元に自らの口元を近づける“魔女”。さくらの身体を支えるように、愛撫するように。柔らかな胸の感触を証明する動きは、そのままさくらの下腹部に移っていく。「あ‥‥あ、の‥‥」『あなたの身体はあなただけのものじゃないのよ』「や‥‥」誰の耳にも届かないその妖しい囁きも、茉莉花の耳にははっきりと聞こえた。 ‥‥茉莉花さん‥‥ その声が再び茉莉花を導く。 ‥‥さくらくんを‥‥さくら‥‥を‥‥ 『‥‥ふぇいろんさんっ！』その声、その姿に、分断されかかった茉莉花の意識が復活する。「‥‥わたしっ！」「！？」「！」茉莉花の声に、そこにいた全員が一様に驚いた。無論さくらも。そして“魔女”のように見えた女性も。空気を引き裂く声。魔を退かせる清涼な響き。夢組たらしめる破魔の歌声は、知らず知らず茉莉花にも継承されていたのだ。今まで眠っていた何かが目覚めたかのような感覚だった。「‥‥がんばりますっ！！」脳に落雷が降り注いだような衝撃。大神は目をぱちぱちさせながらも、我に還って再び花組と対峙した。「おお‥‥気合い入ってるな、茉莉花くん。俺たちも負けてられんな」「そ、そうですわね‥‥でも、この娘、なんか変わってませんこと？‥‥と言うか、霊力　が全然感じられないんですが‥‥」「‥‥すみれさんもそう思います？‥‥でも‥‥何か‥‥」「そう言や“茉莉花”って司令がつけた芸名なんだって？‥‥本名はなんて言うんだ？」「そ、それは‥‥」「それは作戦が終わってからにしましょう。今は一刻を争うわ」「そやそや、茉莉花はんは茉莉花はんやからな、ええ感じやでぇ～」「‥‥なんだかなぁ」かろうじて対応する花組の面々。流石にさくらも気を取り直す。「だ、大丈夫ですから、かえでさん、ご心配かけました」「そう？‥‥無理しないでね、さくら」「過保護とちゃう？、かえではん。さくらはんを欠いては勝てるものも勝てへんがな」「あらあら、ごめんなさいね」 “紅蘭”だけは茉莉花に微笑みでサインを送り、“かえで”は奇妙な視線を茉莉花に送るだけだった。『ほ‥‥どうしちゃんたんだろ、あたし‥‥あれ？‥‥アイリスさんが‥‥』そこで茉莉花は改めて気付いた。マリア、カンナ、すみれ、さくら、紅蘭‥‥もう一人。あの金髪の美少女がいない。大神が五人の前に立ち、そして一人一人に視線を送る。花組の女性たちは、みな大神の目だけを見ていた。「新人二人の歓迎会をしなくちゃいけないな‥‥速攻でカタをつけるぞ」「ええ」「そうですね」「そうですわね」「だな」「そやね」大神はすぐに踵を返した。「よーし‥‥帝国華撃団、出撃だっ！」「了解っ！」 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 花組が翔鯨丸で出陣した後の花やしき指令室には、二人の新人帝撃要員が残された。茉莉花は相変わらずぼけっとしたまま立ち尽くす。非常事態が起きていることは間違いない。特級指令‥‥と大神は言っていた。無論、茉莉花にその意味など理解できるはずもなかった。ただ一つわかっていたのは、出撃間際、紅蘭が茉莉花に向かって送ったサイン。 “今こそ成果が試される。心を宿す鋼鉄の鎧と共に”と。そう、辰型霊子甲冑には、茉莉花と紅蘭が鍛えた命の金属が使われていたのだ。「挨拶がまだでしたね」「‥‥はい？」「わたし、野々村春香といいます。あなたが在籍している乙女学園、その最初の卒業生な　の」「あ‥‥よ、よろしくお願いしますぅ‥‥わ、わたしは‥‥」「神凪茉莉花さん。帝撃司令にスカウトされ、帝撃司令と同じ姓を冠する期待の新人」「え？‥‥あ‥‥帝撃司令、って‥‥わたし、司令長官には面識も何も‥‥」あまりにも唐突な夢組配属依頼に戸惑いを隠せない茉莉花。自分が何をしなければいけないのか全くわからない。いくら夢組補佐の経験があるとは言っても今回は勝手が違う。いつもは自分の側に先輩がいてくれた。無明妃が、舞姫が、夢組の女性たちが、何の役にも立たず足を引っ張るしかない自分を必ず護ってくれた。それが‥‥ 「ねえ、茉莉花さん‥‥」「‥‥は、はい？」「あなた‥‥大神隊長のこと‥‥どう思ってる？」「‥‥はい？」「大神隊長のこと」「ど、どう思うって‥‥どういう意味ですか？」「女として‥‥あの男性をどう思ってる、ってこと」「‥‥‥‥」無言で応える茉莉花の姿そのものが答えになっていた。「そっか‥‥でも‥‥あなたは夢組‥‥ふふ‥‥わたしのほうが有利よね‥‥」「え‥‥」「もう一つ聞いておくわね‥‥神凪司令のことは？」「で、ですから、わたし、司令長官とは面識なんて‥‥」「‥‥早乙女先生が言ってた“足長おじさん”の噂、どうも本当みたいね」「え‥‥」「神凪司令に目をかけてもらってるからって‥‥自惚れないでね、茉莉花さん。わたし、　あなたに負けるつもりは更々ないから」「そ、そんな‥‥う、自惚れるなんて、そんな‥‥わ、わたし、その、あの‥‥」「わたしは帝劇のトップスターになる。そして帝撃のエースパイロットになる。そういう　教育を受けてきたの。頂点に君臨するのは、わたし一人‥‥そしてあの人の側にいるの　も、常にわたしだけ。覚えておいてね、茉莉花さん」「そ、そんな、勝つとか、負けるとか‥‥わ、わたし、わかんないですよぅ‥‥」「問題は神崎先輩ね‥‥でも勝てない相手ではないわ‥‥ふふふ‥‥」「‥‥‥‥‥」真正面からじっと茉莉花の瞳を見つめる春香。顔立ちは茉莉花と同じようにさくらを幼くしたような感じだが、何故か茉莉花とは似ても似つかない。いずれも瞳はさくらと同じように円らで大きめ。短めのくせのない黒髪も同じ。背丈も同じ。部分部分は似通っていても、茉莉花と春香は明らかに別人だった。違いは何か‥‥あえて言うなら、さくらを特徴づける要素、そのうち全く正反対なものを選別して振り分けて出来上がった二人のさくら‥‥それが茉莉花と春香の違いかもしれなかった。スクリーンを見つめながらも、二人の応対に意識を向ける深緑の美影。かえでの表情には、まるで玩具を発見した子供のような、妖しくも無邪気な笑みが形作られていた。ピ‥‥ ピ‥‥ピ‥‥ 通信ランプが灯る。「‥‥はい。帝撃花やしき支部です」かえでが対応する。『山崎です‥‥藤枝副司令ですか？』「ええ。今どこ？」『川崎です。そこに野々村春香さんと神凪茉莉花さんもいらっしゃいますよね？』「ええ」「はい」「は、はいい‥‥」『そこから移動してもらえますか？』「‥‥どちらへ？」『私は今、銀座本部へ向かっています。帝国劇場で合流しましょう‥‥野々村さんに乗っ　ていただく霊子甲冑もそこにあります。私が到着次第、最終調整します‥‥急いでくだ　さい。茉莉花さんも、です』「わかりました」「は、はいい‥‥」かえでは通信を切った。茉莉花を見つめる。「りょ、霊子甲冑って‥‥」「霊子力で起動する人型蒸気。辰型霊子甲冑“天武”のことよ」「あ‥‥そうじゃなくて‥‥」「漆黒の破壊神“零式神武”とその姉妹機“七瀬”、そして“無双天衣”の力を受け継い　だ帝撃純正の霊子甲冑。時の女神が創った最強の甲冑」「女神‥‥？」「神話の講義は受けなかった？‥‥戦いの女神は三姉妹という説が一般化されてるでしょ。　西欧も中東も‥‥ふ‥‥創る側も創られる側も、か‥‥その女神の衣を身に纏うことが　出来るのは限られた者だけ。春香と、そして、茉莉花さん、あなた」「はあ‥‥は、えっ！？、わ、わたしも乗るんですかっ！？」「しょうがないわねえ‥‥」「光栄なことなのよ？」黙っていた春香も流石に口を挟む。「乙女学園の学生からたった二人。しかもあなたはまだ在校生でしょ？‥‥わたしですら　卒業してからどれだけ修業したと‥‥」「わ、わたし、運転免許持ってないですよっ！？」「二人が乗る機体は最終型。かなり安定しているわ。都市エネルギーをも変換出来るよう　エンジンを三層構造にして搭載しているし‥‥“神威”の霊子核機関をブーストアップ　した初期型に比べれば随分マシよ。司令が花組のために最終調整するはずだったみたい　だけど‥‥」「ど、どうしよう‥‥」「さ、二人とも、急いで轟雷号に乗って頂戴。辞令が出た以上、これからは時間との戦い　よ」「了解」「あ、あのぅ‥‥」「質問は現地で山崎少尉が答えてくれるわ。急ぎなさい、茉莉花さん」「は、はいぃ‥‥」霊子甲冑が置かれるデッキのすぐ横はプラットホームになっている。そこにあるのは鋼鉄の鎧を運ぶ鋼鉄の列車。帝都を走る蒸気鉄道とはまるで異なる、まさに弾丸列車の異様を見せつける。頬を上気させる春香。いよいよ自分の出番なのだ、という喜びを隠しきれない表情。対する茉莉花の内にあるのは不安だけだった。「牽引車両に乗組員用のシートがあるから」「はい」「あのぅ‥‥」「質問は向こうで、と言ったでしょ？」「ひ、ひとつだけ‥‥さっき、アイリスさんの姿が見えなかったんですが‥‥病気か何か　でしょうか」「‥‥‥‥」「？‥‥何言ってるの。いたじゃない、さっき」「え？‥‥え、え？‥‥だ、だって‥‥」「‥‥‥‥」「さっき出撃したじゃない‥‥大丈夫？」「そ、そんな‥‥」視覚変調は“紅蘭”のみならずアイリスに対しても波及していたのか？茉莉花は、何がなんだかわからないまま銀座に向かうしかなかった。発進する轟雷号を冷たく見送る“かえで”。その表情には無邪気な色など微塵もなく、まさに魔界の景色が描写されたような暗い色が浮かんでいた。「‥‥“龍眼”とは驚きだわ」紅蘭との対峙の折りに茉莉花だけに見えた暗黒霊力。「このまま放置しておいていいものか‥‥」それが実体となってかえでの背中を飾る。「ふ‥‥取るに足らないわね。仮に問題が起きたところで、さくら同様‥‥ふ‥‥」闇に染まった白鳥の翼は堕天使の証なのか。「残念だったわね、神凪くん‥‥私の誘いを断るから、こんなことに‥‥そう、あなたの　遺産は全てわたしがいただくわ‥‥わたしがね‥‥ふふ‥‥ふはははははは‥‥」＜その４終わり＞