<その1> 乙女学園は人目につかない閑静な場所に位置している。 建物自体も低く設計され周囲は森に囲まれているために、尚更その場所を特定することは容易 ではない。その上夢組が施した惑わしの結界が強固な障壁となって立ちはだかっている。 人はもとより魔物ですら退ける、宛ら尼寺のような場所でもあった。 その尼寺は駆け込み寺ではない。 行く宛てのない女子はただ憧れるだけ。何不自由ない裕福な少女の多くが、その“選別試験” を受け、そして拒絶されていく聖地。 一年前そこに一人の少女が入学した。行く宛てのない少女、に近い境遇だった。 たった一度の帝劇支配人との邂逅が彼女の運命を変えた。 芸名を神凪茉莉花。 帝国歌劇団総支配人から銘々され、その姓をも貰った少女。 憧れだった帝国歌劇団に関わる。裏方でみんなを支えたい。 そんな想いとは裏腹に、少女を取り巻く環境は彼女を舞台に引きずり出そうとする。 乙女学園から目と鼻の先には教会がある。 園長の米田の奨めもあって、茉莉花も半信半疑でお祈りを捧げに行った。 乙女学園に施された結界とは少し違う、やけに暖かいシールド。欲望や不浄な情念に取り憑か れた者を浄化し、癒すための結界‥‥茉莉花にはそう感じた。 そして、それは一人のシスターから発せられることも。 寝坊娘の茉莉花が日曜の朝を賛美歌で目覚める。 彼女自身何か想うものがあったらしく、それ以降もしばしば教会に出向き、祈りを捧げること が多くなっていた。茉莉花の家風は無宗教に徹するものだったが、祈るという行為自体に何か 重要な意味があるような気がしていたのだ。 祈り、そして、目の前のブロンズ像に十字を切る。 茉莉花の横に時折姿を見せる赤いシスター。 柔らかそうな栗色の長髪。触ってみる?、と言われて撫でてみたら羽毛のような感触。 日本人ではなかった。肌の色や顔立ちは東洋的美少女に類するものだったが、淡い瞳の色と髪 の色が決定的に違っていた。 仏国から修業のために来日した、ということらしい。最も生粋の仏国人ではないようだが。 いつも胸の十字架に掌をあて、強い光を放つ瞳でこちらの瞳をじっと見つめていた。 不安や不満、猜疑心、驕り、嫉妬‥‥暗い情念には無縁のはずの茉莉花の、その心の奥底に燻 る火種をも見出し、浄化していく強く優しい眼光。 『マリア様‥‥シスターはマリア様の化身のようです』 『またまたぁ、茉莉花さんってば‥‥プリン食べてく?』 一緒に祈ることもあってか、茉莉花とは自然と友達のような関係になっていた。 茉莉花の前に立ち、シスターが言う。 わたしは全ての子供たちの母親になりたい。 腕を翼のように広げ包み込む様。赤い服が鳳凰のように見えた。 それとは対照的に背後に控えるブロンズ像。重い十字架を背負った救世主。 茉莉花は想う。 救世主を妊った聖母マリア。 母親が望む子の姿とはいったい何なのか? 子の幸せよりも世界の救済なのか? ブロンズ像が残した偉業は、果たして本当に母親が望んだものだったのだろうか? 目の前に立つ赤いシスターを見ていると、自分の人生を問われているような気がしてならなか った。 『あんまり深く考えないほうがいいですよぅ、茉莉花さん』 『‥‥シスターの夢は?』 『へ?‥‥わたし?‥‥わたしは‥‥その‥‥お嫁さん、かな‥‥へへ』 祈る、という行為があなたを救ってくれるはず。 シスターは茉莉花に会う度、そう付け加えた。 祈ることは決して他力本願ではない。だれかに助けてもらうことじゃない。自分が自覚してい ない自分の本当の力を、その一瞬だけ解放することなのよ‥‥と。 『好きな人と結婚して、好きな人の子供を産んで、その子と彼のために生きていく。 ありきたりな幸せが一番かもしれませんね』 『‥‥マリア様も本当はそう願っていたんでしょうか?』 『マリア様は神様が選んでしまった。自分の意志とは関係なく』 『意志とは関係ない運命もある‥‥わたしも好きな人とは結ばれないのでしょうか?』 『‥‥‥‥‥』 わたしには見える。あなたの未来が‥‥あなたの将来が。 あなたを待つ人がいる。“彼”があなたを待っている。 そして、あなたこそ帝国の、いえ、現代のマリア様になれる。 キーン‥‥コーン‥‥ 教会の鐘が鳴る。乙女学園のすぐ横にあるキリスト教会の鐘の音。 茉莉花は授業を受けながらも、窓の外に見える教会のその鐘の音に耳を傾けていた。 耳をすましていると、そのうち賛美歌が聞こえてきた。 ああ、あのシスターの歌声だ。 ぽかんと外を見る。もうすぐ桜の咲く季節だ。 ぽかぽかと暖かい陽気に、つい居眠りしそうになる。 「茉莉花さん、次を読んでみて」 「‥‥‥‥」 「‥‥茉莉花さん?」 「は?‥‥は、はいっ、えと、えと‥‥えーと‥‥」 「‥‥眠い?」 「あ、その、あの‥‥すいませんっ」 「はぁ‥‥もうあなたには退屈な授業かもしれないわね‥‥」 在学中の茉莉花だったが、既に正式な帝国華撃団夢組隊員として登録されている。 実戦もこなした。帝撃五師団が動員される大規模な作戦だった。 ただ、実戦における茉莉花の評価は大きく割れていたのも事実。 花組・夢組両隊長は茉莉花の才能を絶賛したが、逆に夢組を除く五師団の隊員たちはそれほど の実力を見出せずにいた。無論それは茉莉花の能力を認識できずにいたためだが、かと言って 山崎や大神が周りを納得させる説明ができる訳でもない。 取りあえず隊長の判断に委ねる、ということで「可」という評価に落ち着くことになった。 五師団隊長のうち、直接茉莉花と関係した二人(大神・山崎)と何故か斯波の同意を得たこと によって<神凪茉莉花を正式に帝国華撃団夢組隊員として認定する>という証明をもらったわ けだ。それはとりもなおさず乙女学園での終了証書をもらったも等しい。 ただ、肝心の帝国歌劇団夢組としての実技に貢献できうる技能を取得出来たか、というと、実 はまだまだで、そのために茉莉花は卒業の見通しを立てられない状況にいた。 講義が終わると同時に茉莉花は外に飛び出そうとした。 ひなたぼっこには最適な陽気だ。 が、すぐに担任が呼び止める。 「茉莉花さん、ちょっと‥‥」 「は、はいっ」 「帰る前に職員室に寄ってちょうだい」 「あ、あの‥‥す、すいませぇん‥‥」 「別に説教しようって訳じゃないわ。進路相談よ‥‥一応ね、形だけでも」 「は、はぁい‥‥」 ぽかぽか。 春の陽気だ。 聖母が生まれた国には雪が降ってるのかな? 『‥‥雪かぁ』 校庭の芝生に仰向けに横たわる茉莉花。生まれ故郷の東北を思い起こした。帝都では桜が咲く 頃でも稀に雪がちらつくこともある。しんしんと降る雪は全てに平等だ。どんなに汚れた地に も、どんなに美しい屋敷にも、その白は平等に降り積もる。 『‥‥帰りたいなぁ‥‥そうだ、結構お給料もらったし、みんなで‥‥』 「サボったらあきまへんで、茉莉花はん」 「え‥‥」 ふいに影が覆う。 太陽を遮る妖艶な輪郭。 白色の衣が光に透けて、身体の線を華やかに浮かび上がらせる。 「あ‥‥こ、こんにちわ、紅蘭さん」 「先生に呼ばれとるんとちゃう?‥‥進路相談があるんやないのん?」 「は、はいぃ‥‥」 むくっと起き上がる。 この世のものとも思えない美影が横に座る。影が影でなくなった。 じ、っと茉莉花を見つめる。 「あ、あの‥‥」 「‥‥うん?」 「な、何かご用があって来られたんでわ‥‥?」 「まあ、ね」 相変わらず美しい。 この人はいったいどういう人なのだろうか。 茉莉花の目にだけ写る“李紅蘭”の姿は、女優としての理想像そのものだ。 にも関わらず、中身はオリジナルを保持している。 いや‥‥もしかしたら中身も変わってしまったのかもしれない。 茉莉花は横目でちらちらと“紅蘭”を見ながら、ゆっくりと立ち上がった。 藍色の着物についた芝生を払い落とす。 キラキラと、その芝生が陽の光を浴びて舞い降りる様。それをじっと見つめる“紅蘭”。 「‥‥待ってるから」 「え?」 「うち、ここで待ってるさかい、面談終わったら来てな」 「あ、あの‥‥“別荘”に行かれるのですか?」 「今日は違うとこやね」 「?‥‥??」 「よいしょっ」 “紅蘭”も立ち上がる。 チャイナドレスが揺れる。長い黒髪も。睫毛も。唇も。 刹那、無彩色だと思われていた景色が、鮮やかなパステルに染まった。 桜だ。 桜の花が咲いていた。 いつの間にこれほどの桜が咲いたのだろうか。 風が吹いた。 春一番だ。 舞い飛ぶ桜の花びらが、その色を更に鮮明にする。 ああ、この人の周りは空気ですら官能されてしまうのだろうか。 ‥‥時間の流れすら超越してしまうのだろうか。 「さ、行ってきなはれ」 「は、はいぃ」 茉莉花はなんとなく駆け足で職員室に向かった。 見送る“紅蘭” ‥‥何だろ? 何故か其所にいたたまれなくなったのだ。 その時は“紅蘭”と一緒にいると、何故か心が騒めいたのだ。 「まずは成績なんだが‥‥」 「は、はいぃ」 場所は職員室から園長室に移っていた。 茉莉花を待っていた担任の早乙女彩は、園長の米田が珍しく来校しているということで、面談 を園長室に移したのだ。乙女学園卒業生の進路は当然ながら米田の意向が大幅に反映される。 今年卒業となる生徒たちは既に配属先が決定している時期。茉莉花は入学してまだ一年も経っ ていないこともあり、卒業は時期をずらすことになっている。言わば帰国子女的な扱いだ。 成績表に目をとおす米田。何やら感慨深げにも見えるし、困ったような顔つきにも見える。 「‥‥歌はいい」 「本格的なコーラスにも参加できますね、ゆくゆくは」 「しかし演技がなぁ‥‥」 「そこなんです。このままでは夢組の公演に正式参加させる訳にも‥‥」 「うーむ‥‥どうしたもんか‥‥」 米田と彩の査定に、ひたすら恐縮する茉莉花。 特例で、しかも殆ど特待生扱いされて入学したにも関わらず、成績はサッパリあがらない。 乙女学園の学業成績というのは、他の生徒との相対評価となる部分もあるが、寧ろ絶対評価を 見るところが多く、その基準値となる進級条件は非常に厳しく設定されている。 茉莉花の歌は文句なかった。順位も上から三本指に入るくらいだ。 演技も素人同然というほどひどい訳ではない。ただ、それをショービジネスに発展させられる か、という問題になると、学園側としては及第点を与える訳にはいかなかった。乙女学園が育 成する人材は単なる霊力保有者の素養確保だけに留まらない。素質を育む手段・手法をも教育 する必要があった。 茉莉花自身、卒業最低条件の近辺を行ったり来たりしているのが情けなかった。 それでもみんなに追いつこうと特訓はした。したが‥‥やはり歌のようにはいかない。 「あ、あの、園長先生‥‥」 「ん?」 「わ、わたし、あの、舞台よりも、その‥‥裏方にまわりたいなぁ‥‥なんちゃって」 「ちょっと、茉莉花さん、あなた、乙女学園卒業して裏方就職なんて、そんな‥‥もし かして胡蝶楽の所為で?」 「裏方って‥‥おめえ、舞台演出やりたい、っつうの、本気だったんか?」 「‥‥ふぁい」 唖然とする米田と彩を申し訳なさそうに見つめる茉莉花。 「あんなぁ、おめえは声はいいんだ。あきらめんのは勿体ねえよ‥‥いや、演出やるの を否定している訳じゃねえぜ。確かにおめえは創作の成績はいい。美術のセンスもあ る。“仕事”もなかなか上手くこなしてるし‥‥」 「あ‥‥ありがとう、ございますぅ」 「ちょっと、園長、誉めてどうするんですかっ」 「おっと、わりいわりい。ごほん‥‥ただな、舞台の下を支えるモンは普通は上には上 がらんからよ、勿体ねえと思うんだがなぁ‥‥」 「そうよ。演技さえ追いつけば‥‥」 「ふぁあいぃ‥‥」 「‥‥しょうがねえなあ」 椅子の背凭れに身体をあずけ、米田は天井を見つめた。 致し方なし、といった表情が浮かぶ。 『おめえの言ったとおりだなぁ、紅蘭』 「はい?」 「独り言だ‥‥この件は改めて話そうぜ。戻っていいぞ、茉莉花‥‥あっと、演技の時 間を少し増やしておくからな、仕事の合間に顔出せや」 「は、はあい‥‥失礼しましたぁ‥‥」 歌は好きだ。 しかし演技はどうも苦手。見てるほうがいい。 演技に際し、配役に感情移入することが茉莉花にはどうしても出来なかった。 自分がその場面での主人公になることが、茉莉花に大変な違和感を齎していたのだ。 脚本など、客観的な立場で記述する場合においてはその限りではない。 外から物語を眺める。外から記述する。創作。夢の代筆。 それが茉莉花が望んだ姿だった。 「はぁ‥‥裏方のお仕事したいなぁ‥‥」 「それは無理よ」 「ギクッ!?」 溜め息まじりで廊下を歩く茉莉花。 後ろから唐突に声を掛けられる。 聞き覚えのある声。春風のような声だ。 「こ、こんにちは、春香さん、ど、どうしてここに‥‥」 「米田園長に呼ばれたのよ。臨時指導員やれ、ってことらしいわ」 「す、すごいなぁ」 「そんなことどうでもいいわ。それよりあなたよ。裏方がしたいなんて、自分の立場が わかってて言ってるの?」 「え‥‥」 「まわりを押し退けて帝撃入りした神凪茉莉花さん。ところが成績はさっぱり。能ある 鷹は爪を隠している訳?」 「‥‥わたし‥‥あの‥‥がんばってるんですけど‥‥やっぱり、その‥‥向いてない じゃないかって思って‥‥」 「あなたは夢組の隊員なのよ?、もう後には退けないのよ?‥‥あなたの生様は乙女学 園の仲間たちを代弁するべきもの。ちがう?」 「あ、あの‥‥」 しょんぼりする茉莉花に追い討ちをかけるように現れた少女。 進路に悩む茉莉花とは対照的だった。 「あなた、少し調子に乗ってるんじゃない?」 「そ、そんな‥‥」 「こないだの戦闘、たまたま一人勝ちしたからって‥‥それが実力と思わないほうがい いわよ。運がよかっただけなんだからね」 「しゅん‥‥」 「‥‥ふんっ」 春香は卒業してからも、帝撃要員に登録されることなく一年を費やした。 勿論、それはただ単に“空き”がなかったからではなく、春香の能力を開花させるためにとっ た方針だった訳だが、春香にしてみれば在学中に正式採用された茉莉花の存在は疎ましいだけ のものに過ぎない。 嫉妬ではない。春香は茉莉花に対して能力的な遅れを取っているなどと考えていないからだ。 「やっぱり、わたしには才能なんて、ないんだよね‥‥」 とぼとぼと校庭に引き返す茉莉花。 取りあえず“紅蘭”との待ち合わせがある。 再び校庭に戻る。陽射しが幾分和らいでいるような気がした。 舞飛ぶ桜の花弁。 淡い光を放つ桜の繚乱。 そして木陰で佇む天使。 桜の精霊だろうか? あまりにも現実離れした風景に茉莉花もただ見とれるしかなかった。 精霊は向こうからやってきた。 「どやった、面接?」 「‥‥‥‥」 「ん?」 輪郭がぼやけて見える。 ほんとに、この人は何者なのだろうか‥‥? 「その顔は‥‥ふむ、“演技がサッパリ”なんて言われたん、ちゃう?」 「う‥‥」 「さしずめ‥‥“特待生でありながら成績が芳しくなく、しかも裏方に才能を発揮し、 うんたらかんたら‥‥”ってか?」 「‥‥ぐすっ」 「あはははははは、そりゃ、そうやろ、茉莉花はんには演技なんて似合わんさかいな」 「そんなぁ‥‥そこまではっきり言わなくても‥‥」 「悪気があって言うてるんやないよ。“向いてない”って思ってる訳やね」 「?」 「演技するということは、ある意味自分を捨てることやし‥‥ちゃうかな、他人の歴史 を自分の内に入れることなのかな?、それが架空の人物であっても‥‥茉莉花はんは それがでけへんのやろ?」 「‥‥どうして、そんなことがわかるんですか?」 「人の想いを模倣する時‥‥人格を覆う殻が破壊される恐怖。無垢な裸体を獣の群れの 前に晒すが如く。白が犯される。灰色に。赤黒く。そして暗黒に‥‥蘇る暗黒の血統 と闇の系譜」 「?‥‥??」 「ふ‥‥とっておきの処方箋かましたろか?‥‥うちの今日の用件はそれなんよ。こん なこともあろうかと思てな」 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ “紅蘭”が茉莉花を連れてきた場所は銀座帝国劇場。即ち帝撃の本拠地だ。 花組に見つからないよう地下まで入り込む。目的地は格納庫脇にあるプレハブだ。 このプレハブに入るのは二度目だ。 一度目は勿論、出撃のため。あの時は山崎がいた。 零式神武との邂逅の時だった。 <神凪・藤枝・山崎以外のプレハブ入室厳禁>と書かれた木製のプレート。 新しいはずのプレートも、どういう訳か100年ぐらい経過したように古ぼけて見える。 神凪‥‥自分の芸名と同じ名字。だから入室が許可されるのだろうか? 山崎‥‥山崎隊長のことだろう。 藤枝‥‥ 『藤枝‥‥』 「‥‥どしたん?」 「あ、いえ‥‥」 プレートに見入る茉莉花。そんな茉莉花を妙に感慨深げに見つめる“紅蘭”。だが、とりあえ ず中にあるブツが今回の目的だ。 プレハブの中は広々としていた。かつてここで作業していた痕跡もない。白い機体は別ブロッ クに移されていたし、茉莉花の愛機となった黒い鬼神は何時でも発進できるようカタパルトに マウントされている。つまり大事が起これば茉莉花にも動員がかかる、ということを意味して いた。 「何の機械ですか、これ」 「“夢見る蛸”」 「夢見る‥‥タコ?」 「茉莉花はんが何を悩んでるのか、何故悩んでいるのか、何処に原因があるのか、その 解決策を見出すための機械や。茉莉花はんの深層心理をかくかくしかじか‥‥」 「‥‥わたしがタコだからですか?、タコだっておっしゃるんですねっ!?、タコなわ たしをいぢめるために造ったという訳ですねっ!?‥‥ひどい、ひどいわっ、どうせ わたしなんか、わたしなんか‥‥ひっく‥‥」 「にひひひ、そうグレんと‥‥」 二人を待っていたのは工事用ヘルメットにタコ足をつけたような機材だった。 広々とした空間に鎮座するタコ。 「だいぶ前に“まことくん”っちゅうウソ発見器を創ったんやけど、大神はんにかぶら したらバクハツしてもうてなあ、わっはっはっはっ‥‥」 「へぇ‥‥」 「今回のはその改良版や。ちょい趣向がちゃうけどね。茉莉花はんの頭のサイズにあわ せたから、大神はんを実験台にでけへんかったのは残念やけど。ぶっつけ本番やね」 「へえ‥‥え?」 「かぶって」 「へ?」 「頭にかぶるんよ」 「‥‥‥‥」 「なんや、その顔‥‥心配せんかて大丈夫やて」 「あ、あの‥‥」 「‥‥ジタバタせんと‥‥ぬふふふ‥‥うちにまかしときぃて‥‥」 タコ足に相当するチューブが行き着く先。何やら測定機器らしい機材が山済みされている。 ヘルメットは茉莉花の小さな頭をすっぽりと覆い、更に開閉式のカバーが顔面を覆う。 目のあたりには赤みを帯びたレンズが着いているが、どうやら装着した人間から外は見えない 仕組みらしい。偏向グラスのようだ。 そのレンズに、これまた双眼鏡のような機材を取り付ける。これも中から見える訳ではなく、 発光デバイスを組み込んだものらしい。 先端からまたしてもチューブが伸びる。 暗闇の中で、茉莉花に緊張が生まれる。 目を閉じている分、“紅蘭”の息遣いが身近に感じられる。 ‥‥なんだか、呼吸が荒くなっていないか? 茉莉花は“紅蘭”が妙に興奮しているのを肌で感じ取っていた。 ‥‥やばい。 実験中はいい。モノ造りにかける紅蘭の集中力はハンパではない。 ただ、その結果と検討となると、決まって“紅蘭”は虚ろな視線を宙に漂わせ、口元をぽっか り“へ”の字に開き、うはうは状態に陥ってしまうのだ。こうなるとかなりまずい。まわりが 見えなくなってしまうのだ。そのうち顔を天井に向けてへらへら笑いだす。茉莉花にとって御 馴染のマッドサイエンティストの降臨だ。 昔からそうだったのだろうか?‥‥茉莉花には勿論わからない。 実際、この姿を花組のだれかが見たとしたら、目を疑ったかもしれない。 あなたは紅蘭ではない、と。 某かの精神的なストレスがそうさせるのだろうか? あるいはトラウマか? いずれにしても実験中には起こらない“それ”が、何故か今日に限って始まっているらしい。 何故だ? 茉莉花はいよいよ焦り始めた。 「ふぅ‥‥この緊張感がたまらん。戦場では常に生と死が背中合わせやからな‥‥これ は訓練でもあるんや、茉莉花はん‥‥」 「ドキドキ‥‥」 「んん?‥‥緊張しとりますなぁ?‥‥なあに、これは夢を見せる機械やからな、なあ ぁんも痛いことあらへんよって‥‥ふは‥‥うちにまかしときぃて‥‥く‥‥く、く けけけ‥‥」 「ドキドキ‥‥」 「ん〜‥‥ほな、いったれ」 「え‥‥心の準備がまだ‥‥」 キン‥‥ こめかみに氷をあてられたような冷気を感じた。 眉間に熱湯をかけられたような熱さを感じた。 次の瞬間、茉莉花は意識を失った。 「よっしゃ、このまま行ったれ‥‥‥あれ?‥‥なんか‥‥変‥‥」 深い深い眠りに入った。 記憶が創りだす偽りの夢ではない、本当の夢の世界に。 ▼ ▼ ▼ ヒュー‥‥ 音がした。 真っ白な世界。 闇を超え、純白が覆う。 ヒュー‥‥ 境界線が見えた。 空と大地を分ける一本の線。 ヒュー‥‥ そして空の白が少しずつ灰色になっていった。 灰色は更に暗く、そのうち黒くなった。 そして黒はまた白を生み出した。 これは雪だ。 ヒュー‥‥ザッ‥‥ 吹雪の音。 寒い。 感覚が戻る。 足が冷たい。手も冷たい。 身体が震えていた。 「ここは‥‥」 茉莉花は雪原の中にいた。 いったい何処なんだろう‥‥ 記憶を掘り起こす。故郷も雪国だったが、この景色は見たことがない。 ‥‥故郷? 故郷が雪国だった、という事実は記憶から生まれたのではない。 茉莉花が直感したものにすぎなかった。 そう‥‥今の茉莉花には記憶というものが欠落していた。 自分の名前すら思い出せないでいたのだ。 ザッ‥‥ザッ‥‥ 雪を踏む音。 だれか来る。 目をこらすが吹雪でよく見えない。 「‥‥こんなところで何やってんだ?」 声が聞こえた。 わたしに聞いてるの? 「道に迷ってしまいました」 考える前に口が動いた。 自分の意志ではないかのように。 声の音色がほんの少しだけ低めになっていた。風邪のせいか? 大人びた声を発する自分に一瞬戸惑う。 「ここは人が通れるところじゃないぜ?‥‥あんた、だれだ?」 「わたし‥‥‥‥‥子と申します」 わたし? わたしが言ったの? わたしの名前は‥‥ 「いや、名前じゃなくて‥‥おっと、こんなところにいたんじゃ凍え死んじまう。家が すぐそこにある。話の続きはその後だ」 「ありがとうございます。助かりました」 その男性の声には聞き覚えがあった。あったが、その存在は記憶には留まっていなかった。 だれだったろう‥‥思い出せない。 顔も見えない。防寒布で顔を覆って瞳しか見えない。 ただ、その瞳には見覚えがあった。 だれだったろうか‥‥やっぱり思い出せない。 「あの‥‥」 「ん?」 「お名前を教えていただけませんか‥‥?」 「ああ、名乗ってなかったな‥‥大神だ」 え? 「大神、様‥‥」 「様なんて、やめてくれ。大神さん、でいいよ」 「‥‥はい」 オオガミ‥‥懐かしい響き。 なんだろ。思い出せない。とても大切な言葉のような気がするのに。 わたし、なんか変だ‥‥ 言葉が私じゃない。 ‥‥胸が熱い。 こんなに寒いのに、身体が妙に火照ってる。 あ‥‥胸が‥‥大きくなってる? あ、あれ? それに‥‥身体が‥‥ 「大神様は、ここで何をなさっているのですか?」 「何をなさってって‥‥食ってくためのことをやってるだけさ。ここいらには熊やら猪 やら、獲物には事欠かないしな。冬を越せば山菜も採れる。川にいけば魚も釣れる」 「都には興味がないのですね」 「‥‥ふん」 灯が見えてきた。 この人の家だ。 バタン‥‥ 意外に広々とした小屋だった。 太い樹木を横倒しで組み上げた小屋は、どんな吹雪でも耐えられそうなほど頑丈に見える。 暖かい。 暖炉の火が創りだす温もり。 四方の壁には剣が掛けてある。 西に漆黒の鞘の長い日本刀。 北と南に、それぞれ赤い鞘と青い鞘の小太刀。 そして入り口となる東の扉の上には、鍔が‥‥鷹の紋様の太刀。 四本の日本刀。 「‥‥刀が珍しいか?」 「あ、その‥‥この鷹の鍔がつけられた太刀は‥‥」 「アラタカ」 「え?」 「厄除けだよ。気になることでもあるのか?」 「あ、いえ、その、真向かいの黒い長剣と、なんだか対照的で‥‥」 「‥‥暖炉の前に座っててくれ。今茶を煎れるから」 「ここにお一人で?」 「あんたが最初の客だよ」 防寒布をほどく、その人。 横顔が見えた。 髪の毛が逆立っていた。まるで天の怒りの如く。 「‥‥茉莉花か?」 「え?」 「その袖の刺繍」 「‥‥よくご存知ですね」 「ここは季節はずれの茉莉花が咲く。短い春だけ咲くのさ」 ああ‥‥ この人だ。 名前‥‥思い出せない。 でも‥‥この人だ。 「夜が明けたら人里まで送ってやるよ。今日はここで休んでいけばいい」 「あの‥‥」 「ん?」 「‥‥ここにおいてもらえませんか?」 「は?」 「わたしを、ここにおいてもらえないでしょうか」 「夜逃げでもしてきたのか?」 あたしを見つめる、その人。 あたしの瞳を見つめる、その人。 その人の瞳にわたしの瞳も映る。 「面白い目をしてるな」 「‥‥‥‥」 「やけに荒鷹が気になっていたようだが‥‥おたく、風水師か?」 何の話をしているんだろう? 風水師? なんだか‥‥頭が‥‥痛い‥‥ 「外にいるのはあんたの鬼かい?」 「気づいて、らっしゃったのですか」 「これだけ威嚇の気を向けられちゃ、気付くなってほうが無理だ」 「‥‥わたしを心配しているんです」 「来るものは拒まず。そんなにヤリたいんなら相手してやろう」 「ま、待ってください、“しhぁ”は敵ではありません」 「シヴァ?‥‥シヴァ神にあやかってるんかい?」 「印度の山岳地帯で出会って依頼、わたしを護ってくれてます」 「ふーん‥‥」 扉を開けかけて、その人はまた暖炉に戻った。 その人の瞳は赤く輝いていた。 暖炉の火が映し出されているのだろう‥‥ 赤い瞳。燃えるような瞳に、私は暫し見とれてしまった。 「修業は必要ねえと思っていたが‥‥鍛えなおすか。なんかやばい予感がするぜ」 「修業‥‥?」 「あんたから妙な気配を感じるんだよ。不幸を撒き散らしてるんじゃねえの?」 「そ、そんなぁ‥‥」 「どら、そう言えば、確か伝承に‥‥」 何やら棚の中を探し始めるその人。 この小屋の壁半分を埋める大きな棚にはびっしりと書物が並んでいた。 「‥‥あれ?‥‥どこ仕舞ったっけ?‥‥汗‥‥やべ、一子相伝の秘伝書が‥‥」 「あの、わたし、あの‥‥お邪魔でしょうか‥‥?」 「ん?」 「や、やっぱり、わたし‥‥厄介者なのでしょうか?」 「‥‥好きにしてくれ。ただし余計な仕事をくれるなよな」 「は、はいっ。あ、あの、ご迷惑はおかけしませんから、わたし‥‥あの‥‥わたしの できることで何かお手伝い‥‥」 「飯でも作ってくれりゃいいさ」 「はいっ、わたし、がんばります、大神様」 「“様”はやめてくれって‥‥ああ、そうだ、“連れ”にも中に入ってもらいな」 「は、はいっ、しhぁも大神様を慕ってくれると思います‥‥あ‥‥大神様もしhぁの ことを慕ってしまうと‥‥わたしの立場が‥‥うー‥‥」 「はあ?」 ああ‥‥ わたしは‥‥この人と結ばれるんだ‥‥ もう少しで未来が見えそう‥‥ 室内を見渡す。 何もない。刀しか。 窓の外は吹雪。その窓に映る自分の姿。自分の‥‥ ‥‥! さくらさん!?、どうしてここに? ‥‥違う。 わ、わたし? これが、わたし? 『おお、あったあった。ええっと‥‥』 さくらさん‥‥? だれのこと? さくら‥‥思い出せない。思い出せないのに‥‥その名前が出てきた‥‥ バタン‥‥ 扉が開いた。 外は吹雪だ。 窓の外は暗い世界。氷の世界だ。 扉の向こうに白い美女が見えた。 薄手の羽衣が、風に靡いて‥‥ 白い髪が白金のように輝いていた。 しhぁ‥‥ ‥‥マツリカ‥‥‥モドッテキテ‥‥‥‥シテ‥‥ 水色の唇が呟いた‥‥ 金色の瞳が見えた‥‥ 黄昏の瞳‥‥ 退魔の瞳‥‥ ヒュー‥‥ 『扉閉めてくれよ‥‥お‥‥な、なんと‥‥』 『‥‥ステキナ、イエ‥‥ワタシ、キニイッタ‥‥』 『はぁ‥‥すんげえ美人‥‥雪女、か?』 『アナタ、イイヒト‥‥ゴシュジン、マモッテ、クレル‥‥』 『はい?‥‥おい、ちょっと通訳してくれるか?‥‥ん?‥‥寝ちまったか‥‥』 『‥‥ゴシュジン、カワイイ‥‥ワタシ、カワイイカ?』 『は?‥‥??』 しhぁ‥‥そんなに‥‥ その人に近づいちゃ、だめ‥‥ 『アナタ、ツヨイ‥‥ワタシ、ワカル‥‥アナタ、ゴシュジン、コドモ、ツヨクナル』 『?‥‥茶でも飲むかい?、熱いのは大丈夫か?』 『ワタシモ‥‥コドモ、ホシイ』 『あ?』 『ワタシニモ、コドモ、クダサイ‥‥アナタノ、チ、ワタシノ、チ、マジルコト、ゴ シュジン、マモル』 『???????????』 ああ‥‥ 眠い‥‥ ヒュー‥‥ 明るい‥‥ 白が覆う。 境界線が薄れていく。 待って‥‥ まだ、戻さないで‥‥ 白。 真っ白な世界が覆った。 ▼ ▼ ▼ 「‥‥はん、茉莉花はん、大丈夫か?」 「う‥‥?」 「よかったわぁ、失敗したかと思てビビってもうたで。あんがとさん、無明はん」 「近くを通ったら妙な気配を感じたものですから。立ち寄って正解でした」 紅蘭の横に茉莉花のもう一人の指導教官が立っていた。 シヴァ? 夢の続きを見ているのか? 一瞬茉莉花は現実と区別がつかなくなっていた。 「‥‥どやった?」 「え‥‥?」 「何か見えた?」 “夢見る蛸”が見せた深海の世界。純白の世界。闇の世界。 真冬の辺境。とても寒い孤独の世界。 辛く険しい道程を予感させる未来が、その夢の先にあるような気がした。 茉莉花の表情がこわばる。 夢で遇えた人と共に歩むことで、自分の未来が自分の“夢”とかけ離れた方向に進むのではな いだろうか。それは舞台でもなく、脚本でもない。演劇とはまるで縁のない世界に。 それでも、進みたい自分もいる。その人とともにありたいという、心の奥から叫ぶ声を否定で きない自分が。 「‥‥違う人間になる夢を見ました」 「へ?‥‥おかしいなあ、そんなはずはないんやけどなあ‥‥」 「だって、わたし‥‥大人になってましたから‥‥それに、しhぁも‥‥」 「それなら問題ないねん。茉莉花はんの未来につなが‥‥ん?、しhぁ?」 「わたしの未来?」 「え?、あ、うん、そうやねん。“夢見る蛸”の八本の足は、その人の分岐する未来に 繋ぐ夢を見せてくれるはずなんよ。予知夢やね。せやから大人になってるんは別に変 やないんよ」 「‥‥わたしの深層心理をどうこう言ってたのは?」 「あ、あははは、まあ、それもあるで。うん、まあ、その‥‥」 「くっ‥‥また騙された」 「堪忍してぇ」「ふ‥‥」 あの夢を見せた機械。 滑稽なスタイルの中に潜む偉大な力を感じる。茉莉花は暫しその愛すべき蛸の姿をじっと見つ めた。もしかしたら、もう一度世話になるかもしれない。 八本の足。 つまり未来は固定されていない、ということか? 自分の見た夢は可能性があるだけにすぎないのか? 何もしなければ、このまま女優への道を歩むのだろうか? いや、それも叶わないまま終わるかもしれない。裏方にもまわされず、それどころか、この暖 かい環境から、また元の辛い生活に‥‥極寒の地へ、と。 未来などだれが約束してくれると言うのだろうか。 「雪原に舞い降りたジャスミンの花と言う訳か‥‥その花を拾うたのは、これまた大神 はんにそっくりな御仁ね‥‥ふーん‥‥」 「あの‥‥ほんとに、わたしの未来だったんでしょうか?」 「可能性のひとつやね。つまり、今の茉莉花はんの精神と合致した波長で、未来に‥‥」 「過去につながる可能性は?」 「‥‥え?」 過去、という言葉が自然と口から溢れた。何故かあの映像が未来のものとは茉莉花には思えな かったのだ。 理由はない。理由などないが‥‥この世界の時系列、その先にあのイベントは存在しない。茉 莉花は確信していた。未来の姿と思われるあの夢は過去のものなのだ、と。 何故そう思うのだろう‥‥ それは‥‥おそらく夢に現れた大神の存在。彼の中に今の大神、この世界の大神のかけらのよ うなものが感じられた。そして茉莉花の想い人のそれも。 夢の中の大神から感じ取った、何か魂の泉のような気配。それに自分の中の何かが共鳴した。 まるで魂のゆりかごのように。 「意味ありげなことを‥‥茉莉花はんの未来は過去にある、とでも言いたいんか?」 「‥‥‥‥」「茉莉花殿‥‥?」 「そんなんありえんで。時の流れを遡るなんて、科学の力やあらへんがな」 「科学では無理だと?」 「現代の科学ではね。時を遡るデバイスも作れへんし、出来たとしても、それに人の 身体が耐えられへんやろな」 「耐えられない?」 「うん。時間を制御するために犠牲になる物理量が存在するし。質量やね。それに分 子の構造すら変容してまうかもしれへん。いや分子どころか、その分子を構成する もっと小さなユニットすらも。消えてなくなるかもしれへんしな、時間という膨大 なエネルギーを得る代償として」 「‥‥紅蘭さんの力をもってしても?」 「うちの力、って‥‥もしかして、うちのこと‥‥なんか、気づいてはる?」 夢で会った人物は間違いなく大神だった。 そして茉莉花にとって最も大切な人でもあった。 二人がその人の中に見えた。 それがどういうことを意味しているのか、茉莉花にはわからない。 しかし、それをわからないままにしていい問題でもなかった。 「‥‥紅蘭さん」 「ん?」 「初めて会った時‥‥ほんとはふぇいろんさんがいたんじゃないんですか?」 「‥‥‥‥」「そう、わたくしも聞きたいことが‥‥」 「あの迷宮で‥‥わたしが追いかけて行った先に‥‥紅蘭さんがいた。その前にふぇい ろんさんが来たんじゃありませんか?」 「‥‥いいや、だれも来なかった。あそこで待ってたんはうちだけ」 「嘘つかないでっ」 「うちは嘘は嫌いや。“うち”は嘘はつかへん」 「ではもう一人の“紅蘭”さんが嘘をついてるんですね」 「‥‥‥‥」「もう一人の、紅蘭、殿‥‥」 暫し沈黙が続いた。 “紅蘭”はただじっと茉莉花を見つめるだけ。 無明妃は不可解な表情で“紅蘭”と茉莉花を“見つめて”いた。 目に見えないものを見る、その瞳で、“紅蘭”の中に何かを見出そうとしているのか? 茉莉花は何か意を決したような表情を見せていた。 「‥‥小夜子という名前に聞き覚えはありませんか?」 「サヨコ?‥‥聞いたこと、あるようなないような‥‥」「小夜子‥‥」 「わたしが見た夢のわたしの名前‥‥」 「え?」「‥‥‥‥」 「そして‥‥」 茉莉花の瞳が虹色に煌めく。 水面を漂う花びらのように、果無気に見えた。 茉莉花の花弁がひとひら散った‥‥ように“紅蘭”には思えた。 「わたしの名前。茉莉花の本当の名前」 「!」「!」 「大神小夜子‥‥それがわたしの本当の名前」 思い出の名が消える? 思い出が壊れていく? 茉莉花は瞳を閉じた。唇をそっと噛みしめた。 「大神‥‥」 「同性なんです、大神さんと」 「ちょ、ちょっと、茉莉花はんの名を問うな、っちゅう約束が‥‥」 「紅蘭さんと無明妃さんになら。お二人は‥‥わたしを導いてくれるはず」 茉莉花の瞳に導かれるように、なんとなく胸に手をあてる“紅蘭” カチッ‥‥ 何かの音。掌に伝わるレトロな響き。 秒針の音だった。 時を刻む音が再び蘇る。 「サヨ、コ‥‥‥!!!」 一瞬“紅蘭”に本当の素顔が戻った。 茉莉花にはそう見えた。 「‥‥わたし、紅蘭さんの別荘行ってきます」 自分が見た夢の答えは、あの回廊にあるような気がした。 あの分岐する迷宮にこそ、自分が見た夢の世界があるような気がしたからだ。 追いかけようとする“紅蘭”。打ち明けられた事実は、自分の予想を遥に越えるものだった。 “紅蘭”は戦慄した。茉莉花の正体が“彼女”だとしたら、何故この時代に? なんとしても確かめる必要があった。 が、無明妃によって停止させられる。 「‥‥お待ちください、紅蘭殿」 「すんまへん、無明はん、緊急事態ですよって、勘弁したって‥‥うっ!?」 身体が硬直した。 背後から迫る鬼気が“紅蘭”の運動神経を束縛したのだ。 「困りましたね‥‥茉莉花殿に関わる事柄を紅蘭殿の独断で判断・実施されるのは、わ たくしとしては些か承諾致しかねるのですが‥‥」 「事後承諾ではあきまへんのやろか?、と、とにかく急がんと‥‥」 「神凪茉莉花は夢組隊員であると申し上げたいのですが?」 「!」 「先の事変にて、彼女は正式な夢組隊員となりました。その意味はあなたなら御存知の はず‥‥責めているのではありませぬ。あなたは真也様の盟友でもあります。そのお 方が成すことを、わたくしは信じております」 「‥‥‥‥」 「ただ、少しばかり先走ってはおりませぬか?‥‥彼女の成長は、我々の指導によって 如何様にも変わってしまう。大佐が何故わたくしどもを任命したのか、それを今一度 よく考えてみませぬか?」 「‥‥うぅ」 「他意はありませぬ。我々は些か擦れ違っていたように思います故」 「‥‥返す言葉もありまへん」 「茉莉花殿を探すついでに、少しだけでも話をしましょう。では、花やしきにて‥‥」 瞼を閉じたまま、無明妃は“紅蘭”を一瞥し、そしてすぐさま茉莉花を追いかけた。 無明妃が立ち去ると同時に硬直が解ける。 残された紅蘭のこめかみのあたりに、ひとすじ汗の珠が伝う。 何故か無明妃の背後に鬼が立っているような気がした。微笑みの後ろ側は鬼の面か‥‥温厚な 無明妃の言葉の裏に見え隠れする峻烈な鬼気。閉じた瞼の奥にある瞳が、鬼のそれに思えた。 鬼に睨まれたような気がした。 「‥‥神凪はんが無明はんを選んだ理由が、なんとのう判った気がする」 そこから先は自分が介入できる問題ではないかもしれない。 いや、そうではない。今一度“力”を解放する必要に迫られつつあるのだ。 それは茉莉花の言葉が全てだった。 未来は過去にある、というその言葉に。 白いチャイナドレスの胸元に手をあてる。 そして留め紐を解く。 そこから覗く白い肌に同じように白い手を差し込む“紅蘭”。 胸の谷間にひっそりと隠された“それ”が再び光を浴びた。 「小夜子はん、か‥‥」 それは銀色の輝きを放つ懐中時計だった。 壊れた時計を復活させた時、彼女もまた新たな力を得た。 天塵という名の銀時計の中には、未だセピア色の写真が残されている。 少し痩せぎすの少年。 眼光の鋭い、髪が逆立った青年。 そして‥‥ “紅蘭”の中で葛藤が生まれる。 人格の分裂?、それとも人格の融合か? 瞳の色が目まぐるしく変化する。そして髪の色も。虹色に輝くのは照明の所為ではなかった。 “紅蘭”の中に息づく複数の人格が、オリジナルのそれに重なり、そしてまた切り返されて いく。さしずめ花札を切るかのように。その人格に映し出される蘭の花は、花札の絵柄には ない、またそれ以上に色鮮やかだった。手にとった銀時計に収められた色あせた写真とは対 照的に。 セピア色の写真に写る、若き日の神凪と少年の頃の大神。 中心にいる女性を護るように。 藍色の和服に身を包んだ女性を。 その和服の袖。小さな写真には写されていないが、白い茉莉花の模様があるはずだった。 優しげな瞳はさくらに似ていた。 “紅蘭”はその写真を少しの間見つめ、すぐさま茉莉花を追いかけた。 <その1終わり>