<その2> 夕焼けが浅草の街を彩る。空の朱と雷門の朱が、まるで鮮血のような色に見えた。 いつもは人通りの激しいこの界隈も今日は何故か少ない。おかげで無明妃と紅蘭は、予測して いた時間よりも早く花やしきに到着できた。 先に着いたのは無明妃だが流石にあの迷宮には入れない。入り口で紅蘭を待つしかなかった。 勿論申し合わせた訳ではない。茉莉花を追ってくれば必然ここに至るだろう。 朱く染まる浅草とは対照的に、花やしきの中は暗い。照明の消えた工場は殊更暗かった。 物理的な光源の有無は無明妃にとってあまり意味はないが、どういう訳か、工場の先、迷路の ような廊下を通過した後に出現した問題の入り口付近は、一寸先も見えない状態だった。手探 りでここまで来たのだ。  『わたくしの目にも見えないとは、この通路、どういう仕掛けが‥‥』  「‥‥無明はん?」  「お待ちしていました。ここを通過するにはあなたの許可が要るようですね、紅蘭殿」 走ってきたらしく、真紅のチャイナドレスは汗に濡れて“紅蘭”の身体にぴったりとはりつい てしまっていた。白いドレスではなく、本来の色に戻したらしい。無論、無明妃にその訳など 知る由もないし、知る必要もないことだった。 ただ、何故わざわざ衣装を変える必要があるのか‥‥頭の片隅にその疑問がシミのようにこび りついていたのも確かだ。  「‥‥今回だけ特例ですよって。ほんなら行きましょか?」  「‥‥‥‥」  「?‥‥どうかしましたん?」  「この通路‥‥恐竜の顎門のようにも思えてならないのですが‥‥」  「もしそうなら、無明はんは、たいそうなご馳走ですなぁ」 扉をくぐる。 茉莉花がいれば、そこには広大な草原が広がっているはずだった。 二人を待っていたのは緑の大地ではなかった。 乾いた黄土色の世界。乾いた風が吹きすさぶ砂漠の世界だった。 どんよりとした曇った空。雨が降りそうな色なのに、渇きを潤す気配すら感じられない。  「‥‥‥‥‥」  「こん先ですよって」 この先? 地平線まで砂漠は続いている。 そう意識していたものの、“紅蘭”の声が乾いた空気に響くなり、地平線の映像は豹変した。 砂漠の果てに現れたのは街。それも明らかにゴーストタウンだ。 さっさと前を歩きだそうとした“紅蘭”の、その肩にいきなり手を延ばす無明妃。がっしりと 捕まれ、まるでクレーンに捕獲されたかのように身動きもとれない。  「おわっ?‥‥な、なんですのん?」  「‥‥何者か?」  「ははははは、何言うますねん、うちは‥‥」 空気が凍った。 そして“紅蘭”も、そのまま氷の中に閉じこめられてしまった。 『うちは‥‥』という言葉を吐き出し、その後を凍らされたままに、その唇は異様に艶めかし いままに、一瞬にして氷の柱の中に結晶化された。無明妃の指先から放たれた、微かな光の粒 によって。  「‥‥迂闊」  「あれ?、どうしたん、無明はん‥‥ん?、うちとおんなじ顔しとる‥‥だれや」  「無間地獄か」  「はい?」 ピキ‥‥ 目の前に現れたもう一人の“紅蘭”も、氷の墓標に閉じこめられた。  「無明はん?」  「無明はんってばっ」  「おーい、こっちやで。はよ来てぇな」  「あ、そっちやないで。こっち、こっち」 いつの間にか無明妃は厳冬の荒野の中に放り出されていた。 あの通路に入りこんだ記憶はない。確かに入り口で待機していたはずだ。無明妃に悟られるこ となく操作した、ということなのか? 暗黒の野原にぽつり。周りには無数の李紅蘭がいた。 茉莉花の目に映っていた美しい李紅蘭ではなく、美しさはそのままに、ただ表情はどれも恍惚 の色を呈していた。何かが楽しくて、何かが快感で、仕方ないような表情で。 チャイナドレスの下で何かが蠢いていた。  「うち、李紅蘭や」  「そうや、そうや」「きゃはははははははははははは‥‥」 ものすごい大合唱が凍てついた大地を駆け抜ける。 何気なく何かを呟く無明妃。唇だけが微かに震えた。 シーン‥‥ すぐに耳が痛くなるような静けさが荒野を覆った。 笑みを浮かべたままの李紅蘭軍団は、そのまま色素を失っていった。 荒野に李紅蘭の石像が乱立していた。 無明妃が唱えた石化の呪文。何かがきっかけになったのだろうか、それともこのフィールドが 助長しているのか、無明妃の霊力はここに至って夢組どころか帝撃最高レベルにまで達してい た。 ヒュー‥‥ 風の音がした。 風が人の形を造った。亡霊のように、宙に舞う人影。 その人影の顔に相当すると思しき領域から、子守歌のような声が聞こえてくる。  「残念だけど、あなたは永遠にこの地から出ることは出来ない」 その人影が少しずつではあるが明確な輪郭を露し始めた。 女性だ。  「寂しがることはないわ。あなたにぴったりの伴侶を見つけたから」 対峙する無明妃。 大地にうっすらと朱が滲む。血か? その血溜まりは、見るまに沸騰していった。腐肉臭が漂ってきた。 沸騰はそのうち人間の身長ほどまで立ち上がってきた。180センチを超えたあたりで沸騰は 止まった。頂上から20〜30センチあたりがくびれ始める。くびれはそのうち首のようにな った。くびれより上部が頭に見える。 そして胴。腕。足。あっという間に、赤い血の粘土は人の形を造った。  「これがわたくしの伴侶ですか。無念といえば無念」  「うふふ‥‥」  「先程‥‥土人形に紅蘭殿の姿を射影したのは嫉妬でしょうか?」  「‥‥なんですって?」  「紅蘭殿は美しくなられた。それとも‥‥選ばれた者への劣等感ですか?」  「‥‥こういうの、いかが?」 そのゴーレムは、更に細部に渡って変形を遂げていった。 頭から髪の毛が伸びる。そして胴は服を形作っていった。 右腕が更に棒状に伸び、それは剣となった。 頭に顔が生まれた。顔に表情が生まれた。 表情には哀愁が生まれようとしていた。  「‥‥無意味なり」  「違った?‥‥てっきり、わたしと同じ人を愛しているのだとばっかり‥‥」 妖しい声に触発されたのか、ゴーレムは生きている人間と変わらない動きで、無明妃に近づい ていった。  「あ‥‥ああ‥‥む、むみょ、う、ひ‥‥か?‥‥」  「近寄るでない」  「苦しい‥‥俺を‥‥俺を‥‥殺して、くれ‥‥」  「‥‥‥‥‥」  「せめて、お前の、手で‥‥俺を‥‥さも、ないと、お、俺、は‥‥」 逆立った髪の毛。黒いスーツ。漆黒の長剣。 そのゴーレムが振り下ろした必殺の刃は無明妃を両断した。  「はぁ‥‥上手くいかないものね‥‥」 帝国華撃団司令長官の姿を借りたその土人形は、外見とはあまりにも不釣り合いな仕草を見せ て土に帰っていった。 その土の横に立っていた亡霊のような人影。いつしか影ではなく、実体となって現れていた。 群青のチャイナドレス。長い黒髪。瑠璃色の瞳。 茉莉花の目に映る紅蘭、その妖艶なパーツをあまさず抽出した魔女の如き妖艶さ。  「期待してたんだけどな‥‥残念だわ」  「そうですか。詠でも謳いましょうか?」  「!?」  「あなたも寂しいのですね」  「‥‥あれで始末できたとは思わなかったけど‥‥流石は帝撃を裏で支える者ね」  「人聞きの悪い‥‥」 チャイナドレスの裾に埃がついていた。 先程土を掘り返した影響なのか。 ゆっくりと近づく。無明妃から戦う意志は感じられない。 す‥‥とひざを折り、その埃を丁寧に叩き落とす無明妃。  「?‥‥何をしているの?」  「裾が汚れてますよ‥‥“紅蘭”殿」  「!」  「わたくしは“紅蘭”殿のお眼鏡に叶いましたか?」  「‥‥はぁ」 群青のチャイナドレスの裾。 細い腰。 ひときわ高い丘陵部を経て、首すじに視線が到着すると、そこには三編みお下げ髪が待ってい た。その頬。きちんとソバカスが敷き詰められた日焼けした肌。 そして眼鏡。その奥に輝く漆黒の瞳。 手品か魔術でも見ているように、妖艶な美女は愛らしい少女へと変貌を遂げていた。 そこにいたのは間違いなく李紅蘭だった。  「いつから気付いてましたん?」  「大佐の土人形が登場したあたりから。あのように思い違いをされているのは紅蘭殿ぐ   らいですからね」  「あちゃぁ、そっかぁ‥‥山崎はんのほうがよかったんか」  「‥‥そうですね」 せっかく埃がとれたチャイナドレスを気にすることもなく、紅蘭はドカッと土の上に腰を下ろ した。無明妃がそれに従う。ただ、無明妃の場合は古風に膝をおっただけだ。  「‥‥ちょっと試してみたくなりましてな。堪忍してください」  「ええ。無意味にこのようなことをなさるお人ではありませんからね、あなたは」  「‥‥無明はん」  「はい」  「‥‥打ち合わせ、しましょか?」  「?」 じっと無明妃を見つめる“紅蘭”。 瞳の奥に宿る、何かの輝き。 鼓動が伝わってくるような瞳だった。  「茉莉花はんと‥‥一緒に‥‥行ってくれへんかな」  「?‥‥何処へ?」  「あんたが傍にいてあげれば‥‥なんも心配あらへんから‥‥」  「‥‥おっしゃる意味が、よくわかりませぬが?」  「‥‥‥‥」 続く言葉が見つからないのか、紅蘭は再び立ち上がった。 膝をおったまま“見上げる”無明妃。 その無明妃の美しい顔立ちをまじまじと見つめる紅蘭。 視線が交錯する。 バシッ 映像が映し出される。 “紅蘭”の脳裏に。無明妃の脳裏に。 茉莉花が見た、夢そのものを、偽りなく。 茉莉花が体験した夢を、映像を、二人は瞬時に共有した。 そして‥‥ バシッ ‥‥む、無明妃さんっ!‥‥ ‥‥手を離さないでっ!‥‥あ‥‥ ‥‥待っていて‥‥‥わたし‥‥茉莉‥‥忘れないで‥‥ バシッ‥‥ 閉じた瞳の、その網膜に焼き付くフラクタルな映像。 明るい混沌の渦に取り込まれ、そして“この世界”から消えていく。 自分。そして茉莉花。 握った手と手が、その渦に力に耐えきれず、二人は別れていく。  「見えましたん?」  「‥‥‥‥」 紅蘭が無明妃に見せた映像には、紅蘭の意図とは裏腹に先の結末まで含まれていた。紅蘭には 見えなかった、茉莉花が見た夢の中で欠落していた最初の部分までも。渦の先に待っていたも のは“送り手”となる人間には見えなかったのだろうか。  「まさか‥‥まさか、茉莉花殿、が‥‥」 驚きを隠すことが出来なかった。 紅蘭が見せた真実は帝撃のみならず帝都に‥‥いや、世界の根幹に関わる事象だったのだ。 少なくとも無明妃にはそう思えた。 運を司る者を待ち受ける運命。それを垣間見た無明妃には、これからの帝撃のあり方など余り にも些細なことのようにも思えた。  「‥‥これがうちの考えてることですのん。うちが、茉莉花はんに夢見せて、わかった   こと。勿論、その‥‥確定では、ないかも、しれまへんよって‥‥あ‥‥」 声が震えた。  「茉莉花さんを護れるのはあなたしかいません」 声の音色が変わった。 そして表情も。妖精のような愛らしさがその瞳に宿る。  「その時はわたしも傍にいるわ。決して失敗はしない」 声がまた変わった。 護ってやりたくなるような表情は一変し、妖艶な波動が渦巻く。先程ゴーレムを出現させた、 あの女性だった。  「‥‥わたくしは選ばれた、ということですか」  「いいえ。最初から決まっていた。あなたの血がそうさせたの」  「‥‥‥‥」  「あなただけが頼り‥‥彼女を“彼”に逢わせ、そして‥‥‥‥のために」 未来は現在から分岐する。現在は過去の選択による結果。故に過去がなければ未来もない。 無明妃の脳裏を掠める帰納法的解釈は、自ら成すべきことをも決定づけるような気がしたのだ。 如何なることが起ころうとも茉莉花の傍にいよう、と。 “その時”まで彼女を脅かす如何なる存在からも彼女を守ろう、と。 躊躇うことなく、ただうなずくだけの無明妃。 何の逡巡もない。何の疑問も持たない。 これが運命であることを受け入れるかのように。 それが自分の使命であることのように。自分が生まれた理由であることのように。 時と共に変化する“紅蘭”の表情を、一つ一つ確かめながら、無明妃は己の成すべきことを心 に刻んでいた。  「‥‥わたくし、生まれが津軽なんです」  「津軽って、東北の?‥‥霊山が連なってるって聞いたことが‥‥」  「ええ。でも、何もない、荒涼とした雪国なんですよ。潮来が招く死者の国‥‥鬼が往   来する極寒地獄‥‥わたくしは鬼っ娘、と呼ばれて、友達もいませんでした。潮来で   すら避けて通る小娘だったんですよ」  「‥‥‥‥」  「ふふ‥‥当たり前ですけどね、鬼の子供だから‥‥わたくしには鬼の血が混じってい   るから‥‥」 初めて自らの過去を明かす無明妃。 それが何を意味するのか、聞き手である“紅蘭”にはよくわかった。 依頼主でもあるが故に。  「いつも独りぼっちだった‥‥思い出すのは雪ばかり」  「雪、か‥‥」  「帝撃にスカウトされたとき、ようやく家が見つかったみたいで‥‥なんだかすごく安   心した記憶があります。たぶん、みなさんもそうなんでしょうね」  「‥‥そうやね」  「愛した人もいた。無くしたものもある。でも、仲間ができた」  「‥‥‥‥」  「素敵で哀しい思い出がいっぱい。戦いにあっても生きている喜びがある。わたくしは   幸せでした‥‥幸せ、でした‥‥」  「‥‥‥‥」 迷宮は次第に明るさを取り戻していた。 選ばれし者のみが通ることを許される“紅蘭”の回廊。 そこに無明妃が通ることになったことの意味は? 回廊を構成する金属が、優しく輝き始めた。 そろそろ、あの木製の廊下に代わる頃合いだ。 二人は静かな通路を目的地までゆっくりと歩いた。 途中で茉莉花の位置はほぼ確実につかめたからだ。  「ふ‥‥大戦の時すら、こんなことは考えなかったのに‥‥どうかしてます」  「‥‥うちにできること、ある?」  「‥‥‥‥」  「何でも言うたって。無明はんの願いは何でも叶えたるさかい‥‥不可能も可能にした   るさかい‥‥言うたって」  「‥‥茉莉花殿と一緒に」  「うん?」  「茉莉花殿と一緒に‥‥大佐と、真也様と、四人でデートしたいですね」  「‥‥まかしとき」  「うふふ‥‥茉莉花殿、喜びますね‥‥ふふ‥‥たとえ、それが夢であっても‥‥」  「‥‥‥‥‥」  「夢見る蛸、でしたね。わたくしの淡い夢を叶えてくださいませ」  「また逢える。必ず。“約束の時”に始まる旅は“邂逅の時”で完結するから‥‥」 いつの間にか通路は木の壁に代わっていた。 松明が灯され、床に二人の長い影が二重、三重に交錯する。 その先。 いつか茉莉花が想い人を追いかけ、行き着いた先。あの時立っていたのは“紅蘭”。 同じように女性の輪郭が光に溶けて見えた。そして今、立っているのは茉莉花。 見つめる紅蘭。あの時とは逆に。  「ああ‥‥わたくしたちの、大切な人‥‥見つかりましたね、紅蘭殿」  「‥‥‥‥‥」  「さ、三人でこれからの指導方針を確認しましょうか。その時まで‥‥の、ね」 紅蘭の瞳は涙で潤んで、茉莉花の姿を陽炎のようにしか捉えられなかった。 自分のための涙は枯れた。だから仲間のために泣く。 溢れる涙を拭いもしないその姿は、間違いなく、花組の、あの李紅蘭だった。 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇  「おーい、茉莉花ちゃあん、電話だよお」  「くかー‥‥すー‥‥くかー‥‥」  「茉莉花ちゃああん、おおおいっ」  「ふぎっ‥‥ん?‥‥え‥‥あ‥‥おろ?」  「こらあ、早く起きろおっ、寝坊娘っ、電話切るぞおっ」  「は、はあいっ、い、今行きまああすっ」 ドタドタドタドタ‥‥ 変わらぬ朝の風景が茉莉花を迎えた。 いつもの電話。無明妃からだろう‥‥なんとなく予想できた。 一ヶ月ぶりだ。 一ヶ月前‥‥茉莉花はあの時のことをよく思い出せないでいた。 紅蘭に被らされた蛸に似た機械のことは覚えている。その蛸が夢を見させる機械であることも 理解している。実際夢を見た。 しかし、その夢の内容を、茉莉花は全く記憶していなかった。 そして、その後に起きたであろう出来事に関しても記憶が定かでない。 無明妃がいた。 それは覚えている。 まさか無明妃が記憶を操作したのだろうか? いや、それはありえない。それに記憶を操作させる必要があるほど、重要な出来事があったよ うな感じではない。 一ヶ月という月日は、茉莉花にとっては短い時間だった。 あの後、裏方の仕事が山のように舞い込んできたからで、気にする余裕がなかったのだ。 それが昨日から、ぱたんと落ち着いてしまった。全く仕事の依頼が来ない。学園の授業も終盤 であり、半ば自由参加だ。 それで思い出したのだ。と言うより思い出せないでいるのを思い出した、という具合だ。 茉莉花は暫し考え込んだが、いつものように、あっけらかんと電話口に向かった。 ちょっと肩こりがする。なんだろう‥‥肩が妙に重かった。 首を回しながら電話に出る。  「も、もしもし、お待たせしました」  『‥‥茉莉花殿?』  「あ、はい、おはようございます、無明妃さん」  『おはようございます。あの‥‥今日、お時間いただけませんか?』  「はい、大丈夫です。えと、どちらに伺えば‥‥」  『花やしきに来てください。あの‥‥出来れば、正装で来ていただけますか?』  「はい?‥‥清掃するんですか?、もしかして工場の?」  『は?‥‥あの、なるべく奇麗な服装で来てくれませんか?』  「‥‥あ‥‥わ、わ、わかりました(ばかだなぁ、あたし)」  『では夕方‥‥現地にて』  「りょ、了解です」 カチャ‥‥ 眠気が一気に覚めた。 寝ぼけてよく聞き取れなかったものの、なんだか無明妃の声が上ずっているような気もした。 何かあったのかな? ‥‥待て。 そう言えば、今日は面接があったような‥‥ 茉莉花は両手をおかっぱ頭に添えて、考えるポーズを取った。  「何やってんだよぅ」  「あ‥‥おはよう、ナッちゃん」  「悩みでもあんのかぁ?、ナツに相談してみいな」  「‥‥あたしのまわり、みぃんな大人だからさ、あたしも追いつかなきゃって悩み」  「ほげほげ。解決策はじゃのう、朝飯を食うことぢゃ」  「‥‥なるほど。でわ、飯くわん」  「うみゅ」  「ちなみに今朝のおかずは何だろね?」  「ハタハタ汁だそうな」  「なにっ!?」  「ハタハタとは何ぞや?」  「魚だよぅ、青森から秋田にかけて捕れるのさ。しかし‥‥うわぁ、何年ぶりだろ。懐   かしいなぁ。よしっ、食堂へ急げっ」  「ナツは初めてだな。美味いのケ?」  「へへへ‥‥いっぱいよそってもらおうっと」  「‥‥美味いようだナ」 茉莉花のまわりにはいつもだれかがいた。 辛いことも翌日には忘れてしまう茉莉花をいい意味で助長してくれた。 仕事になれば夢組がいる。裏方にまわれば花組がいる。 寮に戻れば友達がたくさんいた。 一番の親友は隣の部屋に入ってきたばかりのナッちゃん。 聞くところによれば、ナッちゃんも茉莉花同様、帝国歌劇団の総支配人に見出されてスカウト されてきたらしい。ただ、茉莉花の“足長おじさん”は既に不在であるため、ナッちゃんをス カウトした支配人というのは大神だという噂が飛び交っていた。 大神が後を継いだのだろうか? 茉莉花は複雑な想いで、その噂には敢えて深入りしないようにした。 そのナッちゃんだが、略歴は茉莉花同様、極秘にされている。 出身も不明だ。言葉づかいからもあまり読み取れない。 入学早々、茉莉花同様壱級に配属された。それも壱組。すなわち“七色向日葵”だ。 茉莉花とは対照的に、演技は抜群に上手い。歌に至っても茉莉花を凌ぐ。 時折臨時指導にやってくる春香をも唸らせる妙技と、何より霊力ポテンシャルが春香なみに高 いらしく、それが春香を殊更に震撼させていた。次期花組エースの呼び声も高い。 しかし、当のナッちゃんはそれを歯に着せるようなことは決してしなかった。 舞台を降りれば、何処にでもいるような少女に変わる。 自分をナツと呼び、人にはナッちゃんと呼ばせる。 本名は知らない。本人も口にしないし、先生もナツと呼ぶ。 初めは不思議に感じたが、茉莉花は新しい友人を指示どおりナッちゃんと呼ぶことにした。 自分も似たようなものだし。 茉莉花と同じくらいの背丈。髪の毛はかなり長い。背中あたりまで延ばしている。 そして顔立ち。これが驚くほど茉莉花によく似ていた。 似ているという意味では春香もそうだが、ナツの顔はその二人の中間的な位置にあった。 ナツの顔を光と影に分けたら茉莉花と春香が出来た‥‥と見られて不思議はない程に。 それ以上に的確な表現があった。 ナツの顔は真宮寺さくらの幼少の頃にうりふたつだったのだ。  「ほほ、これはなかなかに美味だナ‥‥ちょっと食いにくいけど」  「骨、ぬくんだよぅ。ほれ、真ん中から‥‥こんなふうに」 ハタハタ汁は、頭と内蔵を取った身を骨ごと煮て調理される。 骨は硬いから食べることは出来ないが、ちょうど切り身の部分から背骨がまるごとスルっと抜 けてくれる。そして丸ごと戴く、という寸法だ。飽きのこない淡泊な白身で、煮ても焼いても 美味しい。鮨にして保存食にするのもいい。  「器用だナ、マツリカは‥‥こうか?‥‥ありゃ」  「美味しいなぁ‥‥お母さんにも食べさせてあげたいなぁ‥‥」  「マツリカの母上はどんな人?」  「う〜ん‥‥そうだね、彩先生みたいな感じ。優しくて強いんだ」  「そっか。ナツは母というのをよく知らんから‥‥そっか、彩先生みたいな感じか」  「‥‥‥‥‥」  「いいな、マツリカは‥‥姉上、妹君もいるんだゾ?」  「‥‥そうだね。あたし‥‥結構、幸せかもしれないよね‥‥」  「そうだゾ。でもナツも結構幸せだかんな。マツリカもいるし」  「‥‥ありがと」  「むふっ。それにしても、ハタハタは美味いナ」 食堂はがらんとしていた。 茉莉花とナッちゃん、弐級の子が二人、三人‥‥そして家政婦のおばさんが二人。 五十人は収容できると思われる食堂だが、席が埋まることはない。 寮に入っている生徒数は三十人程度で、授業や実技、仕事の時間が個人個人でバラけている ため、必然的に食事の時間帯も重なることが少ない。  「あのさ、ナッちゃん」  「はぐはぐ‥‥はぐ?」  「今日ね、奇麗な服、着てこい、って言われてるんだけど‥‥なんだと思う?」  「はぐはぐ‥‥はぐ‥‥うむ‥‥それはきっと、デートのお誘いではなかろか」  「‥‥えっ!?」  「無明妃様からじゃろ?‥‥きっと、マツリカと‥‥」  「む、無明妃さんが、わたし、と、デート‥‥?」  「はぐはぐ‥‥ん?‥‥なんか、妙なこと、想像してはおるまいの?」  「で、でもさ、デートって言えば、手つないだりとか‥‥キ、キス、したり、とか‥‥   そ、それはマズイよぅ、わたしの初めての人が、無明妃さんだなんて‥‥」  「おいおい‥‥無明妃様が、マツリカと、キスして、どうすんじゃい」  「そ、そうだよね‥‥?」  「ふむ‥‥他にいるんじゃないのカ?‥‥ダブルじゃねえのケ?」  「ダブる?‥‥う‥‥不吉な言葉」  「お相手は山崎さんと‥‥ふへっ、大神さん、だったりしてナ」  「‥‥‥‥‥」  「はぐはぐ、はぐ‥‥ん?‥‥おい?」  『山崎さんと大神さん?、どっちが無明妃さんと‥‥ま、まさか、大神さんでわ?‥‥   うー、それは困る‥‥はっ、わたし、なんてヤツ?‥‥ふぇいろんさんに一生ついて   いくって誓っておきながら‥‥でも、もし無明妃さんが、大神さんのこと、密かに好   きだったりしたら、どうしたらいいんだろ‥‥春香さんも確か大神さんのことを‥‥   ああ‥‥これが板挟みというものなのね‥‥』  「ほへへ、あらぬ期待をかけてしまったナ。はずしてたらスマン。米田のオッサン、と   いう結果にならんことを祈ってるゾ」  「はぅ‥‥」  ▼  「‥‥ということになります。ここ試験に出すからね。ちゃんと復習しておいてくださ   いね。それじゃ、今日の授業はこれで‥‥」 バタンッ ダダダダダダダ‥‥ 終業の宣言を最後まで聞かず、教室を飛び出したのは言うまでもなく茉莉花。 一般教養の授業は全てのクラスから任意に生徒が集まってくるため、得に出席は取らない。 それに乗じて、面が割れないよう、帽子をかぶり、作業着でダッシュする。 だれも自分だとは思わないだろう、という茉莉花の作戦だが、既に常習であるらしく、担当教 官は溜め息交じりで茉莉花の後ろ姿を見送った。まるで行く末を案じているかの如く。 カーン‥‥コーン‥‥ 教会から聞こえる鐘の音。 今日もミサがあるのだろうか。 寮へ走る茉莉花の耳に優しく木霊する聖なる音色。  「ん?‥‥ありゃ、茉莉花じゃ‥‥おーいっ、茉莉花っ」  「‥‥‥‥‥」  「おーいっ、聞こえねえのかっ、ちょっと来いっ、面接すんぞっ!」 約50メートル余り離れた距離、変装して走る茉莉花を茉莉花と見切る男。米田一基。 聞こえないふりをして走り去ろうとする茉莉花。  「ぬ‥‥あいつ、バックレようってのか‥‥そうはさせねえっ」 ピーヒョロロロロロ‥‥ 教会の聖なる鐘の音色に混じる、無節操な笛の音。 すると、何処からともなく、参上する黒子軍団。  「おしっ、てめえら、あの牝狐をお縄にしろっ‥‥お白洲に連れてこいやっ」  「へいっ」 脱兎の如く走る茉莉花の背後に迫る謎の黒子軍団。乙女学園を囲む森を駆け抜けるキツネと狼 のようだった。 森は鬱蒼としている。方向感覚を狂わす力が森自体から発している。その上、ここには結界が 施されていた。普通の人々には踏み入れる意欲を減退させる力も、迷い込んだら二度と出れな い仕掛けがそこにはあった。その異界の中を平気で駆け抜ける少女と追跡者たち。 森の終わりに建物が見えた。教会だ。 と同時に茉莉花は追跡者の気配を察知した。すぐに教会に逃げ込む。 尼寺ではないが、ここは聖地だ。面倒は起こせないし、なにより、怖いシスターがいる。  「祈りなさい‥‥うりゃっ!‥‥はい、神様は許してくれました」  「わーい、わーい」「遊ぼ、遊ぼ」「何して遊ぶ?」  「えと、えと、わたしは‥‥」  「お姉ちゃんは説教してなきゃ」  「うぅ‥‥」 子供たちに説教を施される?、赤い修道士。 そこに駆け込む一人の少女。 バタンッ  「シ、シスターッ!」  「はい?‥‥あら、茉莉花さんじゃありませんか、どうしました?、トイレですか?」  「か、かくまってくださいっ、悪い人たちに追われてるんですっ」  「わぉ、茉莉花さん、新しいお芝居の稽古ですか?、何かお手伝いしましょうか?」  「と、とりあえず、後から来る人達、ブッ飛ばしちゃってくださいっ」  「おっけー、おっけー、わたし“たち”に任しちゃってください」  「お願いしますっ」 学園に戻った追跡者たちは、恐ろしく消耗していた。 体力と瞬発力には抜群の能力を示すはずの彼らに、これほどのダメージを与える者。米田は察 しがついていた。茉莉花は教会を経由していったのだ。  「ひ、ひっとらえてめえりやした」  「よしっ‥‥おらっ、下手人っ、面をあげんかいっ!」  「はぐはぐ‥‥」  「おめえと言うやつは、こないだ途中で面接止めちまっただろうが‥‥ん?‥‥あん?   おめえ、ナツじゃねえか?‥‥ぬぅ、影武者たぁナメた真似しやがって‥‥おめえら、   もういっぺん探してこい。それと銀弓に連絡して帝都全域に指名手配しろ」  「へ?‥‥へ、へいっ」  「はぐはぐ‥‥く、苦しいゾ‥‥ナツは悪いこと、してないゾ‥‥」  「わ、わりいわりい、けえっていいぞ、ナツ‥‥あ‥‥待て」  「はぐ?」  「いい機会だ。おめえの面接を先にやろう」  「ぐえっ」 米田の包囲網をくぐり抜けて寮に戻った茉莉花は、無明妃の指定する“奇麗な服”を吟味して いた。もともと自分が持っている服は二着しかない。普段着の着物と藍色の着物。それと“足 長おじさん”が送ってくれた洋服が三着、和服が一着、作業着一着。あとは‥‥想い人がくれ たチャイナドレス。 茉莉花は自分がもともと持っている藍色の和服とチャイナドレスを天秤にかけていた。  「‥‥ドレスはやめよう。これは一番大切だし」 藍色の和服にした。 初めて帝国劇場に行った時に着た一張羅。 いつも茉莉花と一緒にあった着物だ。袖には白い茉莉花の刺繍がある。 するする‥‥っと作業着を脱ぎ、下着もはずす。 まだ十代前半の幼い肢体に、天窓から光が差し込む。 産毛が光を反射する。小さな胸に、ちりちり、と光の粉が舞った。  「‥‥神様、どうか、もっと胸を大きくしてくださいませ‥‥」 と祈りを捧げる。 藍色の着物は、そろそろ仕立て直しが必要になってきたようだ。 少しずつ成長する茉莉花の身体に、その着物はわずかばかりだが小さくなってしまったようだ。  「‥‥この着物は、お母さんじゃなきゃだめだな‥‥よし、今度の休みに家に帰ろ」 コンコン‥‥  『!‥‥まさか、園長先生じゃ‥‥』  「茉莉花殿はおられるかの?」  「あ‥‥」 カチャ‥‥ 聞き覚えのある声に扉を開ける。  「のほほ‥‥お迎えに参りましたぞえ」  「お久しぶりですぅ、舞姫さん」 今日はまた一段と派手な十二単に身を包んでいる、のほほん白拍子がそこにいた。 十二単の内側から外側にかけて、虹色の着物が連なっている。 最も外側は、紫色の薔薇の絵柄が施された玉虫色。 目をパチパチしながら、その異様な風体を呆然と見つめる茉莉花。  「お‥‥着替え中でしたか。これは失礼したの」  「迎え、って‥‥?」  「無明殿よりお願いされましての、何やら花やしきまではイバラの道だそうね。よって   わらわに助っ人為しめん‥‥ということなのじゃ」  「い、棘の道って‥‥」  「茉莉花殿の花道を邪魔する者どもがいるらしくての。護衛ぢゃて」  「そんな‥‥いくら園長先生だって‥‥」  「米田大将ではござらんよ」  「え‥‥」  「ほんとの邪魔、魔物らしいでの」  「そ、そんな‥‥ど、どうして‥‥?」  「わらわもとんと気付かなんだ。無明殿が“遠見”されたのじゃ。しかし遠見が出来る   のは神楽殿だけと思っておったが‥‥流石は無明殿。話によると茉莉花殿がこの学園   の“結界”を出たところで襲う算段を練っているようじゃよ、その曲者らは」  「‥‥‥‥」  「大将が面接をこの日に設定されたのは、そうした事情もあったのじゃろう。今日は茉   莉花殿にとっては一生にわずかしかない“凶”の運にあたるようじゃからの、学園に   留めておきたかったのじゃろうね」  「そうだったんですか‥‥」  「それもわらわが来たからには心配無用じゃ。いかな物の怪が現れようが問題なし。護   衛はわらわの他にもいるようじゃし‥‥大船に乗ったつもりで花やしきへゴーゴーッ」  「他の護衛の方、って‥‥」  「んー‥‥それはわらわもようわからん」 一階ロビーで待っていると告げ、舞姫は扉を閉じた。 すぐ後に、追伸が聞こえてきた。  「あ‥‥お守りを忘れぬようにの」  「お守り?」  「大切なお人から頂戴したものがあるじゃろ?‥‥黒真珠が連なっているはずじゃ」  「‥‥あ」 ▼ 西の蒼い空がうっすらと暗みを帯びる頃。 東の空が赤く染まり始めた。 蒸気機関車に乗って見る夕焼けは感傷的な思い出を呼び起こす。茉莉花は遠い昔、故郷を離れ る時に見た夕焼けを思いだしていた。 じっと車窓から空を見つめる茉莉花。その茉莉花の横顔を、妹を見守るように優しく見つめる 白拍子。  「夕陽の赤って、優しいですね」  「‥‥ほえ?」  「哀しい時も暖かく見護ってくれる。どんな人にも‥‥」  「‥‥‥‥」  「わたし、蒸気機関車も結構好きなんですよ。特に夕焼けを見ながら乗るの‥‥」  「‥‥茉莉花殿は銀座に赴任されるのがいいかもしれぬな」  「え?」  「帝国劇場のテラスから見える夕陽もいいらしいでの、お館様が申しておった。わらわ   は花やしきに来て欲しいと願っておるのじゃが‥‥茉莉花殿が望むのなら銀座でもえ   えかもしれぬな。それにお館様も時折出張するからの、安心じゃ」  「へえ‥‥でも、帝国劇場に就職なんて、そんなの夢のまた夢ですよ」  「そうかのう‥‥まぁ、希望がなければ茉莉花殿は我らがおる花やしきで‥‥ん?」 ガタン、ゴトン‥‥キ‥‥ガタン、ゴトン‥‥ レールの継ぎ目にかかる車輪が奏でる規則的な音。 敷き詰められた砂利、枕木がその音を柔らかくする。 舞姫はその音に中に微かに混じる不愉快な鳴き声を聞き逃さなかった。 蒸気機関車が牽引する客車はいつもより静かだった。それもそのはず、茉莉花と舞姫以外には 乗客がいなかったからだ。  「‥‥‥‥‥」  「どうしたんですか?‥‥舞姫さん?」  「列車を選んだのは、まずったかのぅ」  「え‥‥?」  「客がいないのがせめてもの救いじゃの‥‥!‥‥くるぞえ」  「‥‥えっ!?」 ザワ‥‥ 背中に鳥肌がたった。 びくんと痙り、茉莉花は席を飛び上がった。 すかさず茉莉花を引き寄せ、自分の背後にまわす舞姫。 茉莉花の座っていた客席の後ろ。背凭れに隠れてよく見えないが、空気が澱んでいた。  「な、なんなんですか、あれ‥‥」  「御不動呪は覚えておるな?」  「え‥‥は、はい」  「目を閉じて詠唱せよ。諌言に耳を貸すでないぞ」 わら‥‥ わら、わらわら‥‥ わらわらわらわらわらわらわらわら‥‥ 闇が蠢いていた。 す‥‥と音もなく移動する舞姫。掌を闇に向ける。  「戒」 美しい掌から大気を震撼させる波紋が生まれた。 霊的波動が大気のブラウン運動をも加速し、最寄りの物質にまでその波動は波及する。 車両が揺れた。茉莉花の鼓膜が悲鳴をあげる。 蠢く闇が刹那身震いした。そしてアリの巣をつついたように実体化する。 車両の半分を埋めんばかりの死霊の群れ。 明らかに死人だった。  「いや‥‥」  「詠唱を止めるでないっ!」  「は、はいっ」 ヒヒヒヒヒヒヒヒ‥‥ ヒヒヒイイィィィィ‥‥あわわわわわわわわ‥‥ごぼっ‥‥むーん‥‥ わらわらわらわら‥‥わらわらわら‥‥むーん‥‥  『い、いや‥‥』 茉莉花の小さな耳を嫌らしい音が汚す。 目を閉じ、両手を結び、ひたすら御不動呪を唱える。  「滅せよ」 舞姫の瞳が黄昏色に染まった瞬間、その視界に捉えられていた物の怪は生涯を全うした。 うぞぞぞ、と耳障りな音を立てて、消えていく。 消えては‥‥また、現れる。 何故だ? 動いている車両に、魔界のエネルギーを供給できる龍脈などないはず‥‥舞姫は際限なく現れ ては襲いかかってくる死人を片っ端から始末しては、その供給元を探索していた。 一方の茉莉花。すぐそこに腐臭を放つ不浄の者がいるおぞましさに、一瞬詠唱が途切れてしま った。そして不動呪の不可視シールドも。 茉莉花は死人の格好の標的になってしまった。  「きゃ‥‥」 黒い影が舞姫の視界を横切った。取り逃がしてしまったっ!? それは茉莉花を包んで車窓から列車の外へ引きずり落としてしまったのだ。  「しもうたっ!」 列車の窓から放り出された茉莉花を追うように舞姫も後に続こうとするが、物の怪の壁に阻ま れる。倒しても倒しても次々に現れるボウフラの如き様は鳥肌がたつほどの醜悪さを見せる。 うぞぞ‥‥ うぞぞぞぞぞぞぞ‥‥  「おのれ‥‥皆殺しじゃっ!」 茉莉花を襲われたことが舞姫の逆鱗に触れた。 同時に舞姫の両手に扇子が現れる。それも二の足ほどの長さの骨を持つ巨大な扇子だ。 何処に仕舞っていたのか? 袖の中か? 十二単の中には他にも何かありそうな雰囲気だった。 扇子が展開する。十二単が舞う。 孔雀のような色彩の扇子が翼のようにも見えた。 恐るべき霊力の奔流が、扇子を軸に渦を巻く。 まるで舞姫の舞に導かれ“何か”が無の世界から蘇ろうとしているようにも思えた。 狭い車内に神風が吹き荒れる。強烈な熱気が物の怪の顔面に吹きつけられた。 死人どもは反撃どころか座標を確保するだけで精一杯だった。いや、耐えただけでも賞賛に値 する。かなりの妖力によって保護されているようだ。  「神崎封神流‥‥」 そんな魔物どもをあざ笑うかのように風は更に強くなった。 勢い余って、舞姫の重い十二単をも宙に舞わせ、その下の真紅のミニスカートすら全開にして しまう。  「連雀之舞っ!」 キン‥‥ 空気が哭いた。地獄から召喚される聖なる獣。 キャアアアアアアアアアアッッ!!! 鼓膜を引き裂かんばかりの強烈な鳴声と共にこの世に産みだされたのは真紅の孔雀だった。 絢爛な小尾と不死鳥の如き翼が、狭い車内をくまなく取り囲むように展開される。 最早不浄の輩に逃げ場所などなかった。 ‥‥グルルルルルルル‥‥ 咽に何か閊えたような唸り声が続く。獲物を探しているようだ。 舞う舞姫の扇子がそれを指す。  「余さず食らえ」 ‥‥グゥ 紅蓮の炎が創りだす熱気に“凍りついた”まま身動きの取れない物の怪。 エサを見つけ真紅の瞳が喜びに燃える。 嘴を獅子の顎門のように開く。 グッ、グッグッ‥‥グググッググググ‥‥ 咽の奥に閊えていたのは、故郷たるべき地獄に吹き荒れる暗黒の業火だ。 それを不浄の物の怪目がけて吐き出すっ! ゴォアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア 一瞬の出来事。 不浄の輩の再生を許さない、まさに地獄の炎。 すみれが持つ奥義とは異なる様相を呈する舞姫の上級魔獣召喚法、神崎封神流『連雀之舞』。 長刀の流派であるはずの神崎風塵流と同じ音の技を、何故舞姫の退魔法術に名付けられたのか は不明だが‥‥その技の切れ味は明らかにすみれの『連雀の舞』を凌いでいた。 解釈の違いか? 帝撃司令がいれば、そう言うかもしれない。 死人は痕跡も残さず粛正された。 車両には傷もない。些かの焦げ跡もなかった。かつて帝国劇場で起こった“鳳凰の暴走”とは 違う。魔界の者にのみ働きかけるらしい。このあたりもすみれとは少し違う力のようだ。 凄惨な戦いの名残もない車内を手短に物色する舞姫。 物の怪が発生したと思しき床に、何か焦げ目のような跡があった。 焼け跡を残さないはずの連雀の炎によって焼かれた? そこに残っていたのは黒焦げになった短冊のような紙だった。  「短冊‥‥降魔の類いかと思いきや、式神とは」 紙切れを懐に収める舞姫。  「近くに本体がいる、か。これは急がねば」 少し思案した後、車窓を開ける。 列車は何事もなかったように走り続けている。もう帝都に入る時刻だ。  「‥‥ここから飛び降りるのは、ちと怖いが‥‥無事でおれよ、茉莉花殿」 鉄橋にさしかかった。 下は川だ。 川の流れを暫し見つめ、舞姫は、ひょい、と窓から飛び降りた。  ▼ 茉莉花を包んだ黒い影はそのままクッションになって川の土手に軟着陸していた。 すぐさまその影は土に染み込み、跡形もなく消えていた。  「う‥‥」 痛みで目が覚める。 左手を抑えながら周りを伺うが、茉莉花には何の気配も感じられない。 霊的感応力は零に等しい茉莉花だったが、調子のいい時は不穏な気配を察知することぐらいは 出来る。それも今日は全く霊感が働かない。 それが茉莉花を妙に不安にさせた。 腕を擦ってみるが、骨折はしていないようだ。妙なクッションもあったし、茉莉花自身、得意 ではないが柔術も習っていたために受け身は取ることができた。 しかし、あれほどの高い鉄橋から落ちて気を失うだけで済んだのは運がよかった。運は完全に 凶に向いている訳でもなさそうだ。 失神していた時間はわずかだったらしい。それほど陽も落ちてはいない。 何気なく視線を落とす。  「あーっ!?」 着物の袖が破れていた。落ちた拍子に引っ掛けたのだろうか? 藍色の地を飾る唯一の白、その“茉莉花”の部分がバッサリと真っ二つに。 暫し呆然とする。この着物は母親が仕立ててくれた大切な一張羅だったのだ。  「そんなぁ‥‥なんでこんな目に‥‥ぐしゅっ」 立て続けの災難に気力も萎えてしまう。しかし何時までもこんな所にはいられなかった。 着物が自分を守ってくれたんだ。お母さんが自分を守ってくれたんだ。茉莉花は自分に言い聞 かせた。 ゆっくりと立ち上がる。 川の向こうに帝都が見える。茉莉花を乗せた列車は既に視界から消えていた。  「歩いていかなくちゃ‥‥舞姫さん、大丈夫かな‥‥」 とぼとぼと歩き出す。 人が通れる橋は、列車が走る鉄橋からは随分離れている。 もしかしたら、無明妃との約束の時間には間に合わないかもしれない。 いや、今はそんなことを考えている状況ではなかった。  「また襲われたら‥‥どうしよう‥‥」 もう一度周りを見渡す。 夕焼け空は本格的に赤く染まっていた。 カラスも飛んでいる。でも人はいない。 ぶるっと震え、歩いていた茉莉花は走り出した。 なんだか怖い。 暗くもないのに、何故か得体の知れない闇が背中から襲ってくるような気がした。  「はあ、はあ、はあ‥‥」 随分走った。 体力には自身がある。 あの、橋まで行けば、人もいっぱいいる、から‥‥ もっと、走って‥‥走って‥‥ あまり距離が縮まらない。 それもそのはず、裾が纏わりついて上手く走れない。  「‥‥助けて、お母さん‥‥」 破れた袖の“茉莉花”に祈る。 ‥‥何処に行くのさ?‥‥  「‥‥え?」 ‥‥そんなに急いで、何処に行くんだ?‥‥  「‥‥やだ」 耳をふさぎ、ひたすら走る。 ‥‥逃げないでくれよ‥‥可愛いお嬢さん‥‥  「はあ、はあ、はあ‥‥」 ‥‥フフ‥‥何処行くんだよ、可愛い娘さん‥‥フフ‥‥  「助、けて‥‥舞、姫、さん‥‥無明、妃、さあん‥‥ふぇいろんさああんっ」 ‥‥フフフ、フ‥‥!?‥‥ 茉莉花にしか聞こえない声、それが凍りついた。 そう、茉莉花の背中にじっとりと付着していた、得体の知れない不安は嘘のようにかき消され ていた。  「はあ、はあ‥‥?‥‥あ、れ‥‥?」 振り向く茉莉花。 カア‥‥カア‥‥ カラスが飛んでいる。 赤い空。 下に視線を移す。川が流れている。他には何も見えない。  「?‥‥??」  「大丈夫かい?」  「ビクッ!?」 振り向いた直後に後ろから声をかけられた。 一瞬硬直する。 恐る恐る振り向く。  「驚かしちゃったね」 赤い空。 夕陽が逆光になって、その人の姿はよく見えなかった。 髪の毛の色が夕陽に赤く染まっていた。黒髪ではない。金髪だ。染めているのだろうか? 黒髪だった名残のように、その部分が触覚のように閃いていた。 背が高い。茉莉花の想い人と殆ど同じくらいか。 眼鏡をしている。瞳を伺い知ることは出来ない。  「あ、あの‥‥」  「神凪茉莉花さん、だね?」  「は、はい‥‥あの‥‥」  「自分は斯波と言います」  「し、しう゛ぁ?」  「?‥‥前に会ったかな?」  「あ、う‥‥す、すいません、あの‥‥」  「自分は雪組の人間です。無明妃さんから頼まれたんだ。あなたを無事花やしきへ連れ   てきてくれ、ってね」  「‥‥‥‥」  「遅れて申し訳ない。舞姫さんが一緒では‥‥?」  「‥‥ここでおじゃる」 舞姫の声が聞こえた。 その声の方向、川の岸辺をよーく見ると、まるで土左衛門のように横たわる人影。ずぶ濡れに なって、更に重量を増した十二単に身を包んだ白拍子の残骸だった。 ゆっくりと立ち上がり、ふらふらと二人の元へ馳せ参じる。  「だ、大丈夫ですかっ、舞姫さんっ、怪我は‥‥」  「か、かたじけのうごじゃる‥‥へっくしゅんっ‥‥うう‥‥」  「うーむ、着替えたほうがいいな」  「‥‥へっ、へっ‥‥へっくしゅっ、へっくしゅっ‥‥うう‥‥ずるっ‥‥うう‥‥」  「土手の向こうに車を止めてますから、そこで着替えてください。茉莉花さん、手伝っ   てあげてもらえますか?、後部座席に舞姫さん用の服を置いてあります」  「‥‥‥‥」  「茉莉花さん?」  「はっ‥‥は、はいっ」 茉莉花は舞姫の腕をとり、指示された車に向かった。 斯波のことは気になったが、とりあえず舞姫だ。 その斯波は、何故かその場にじっと立ったまま、茉莉花の来た方角を凝視している。黒眼鏡の 所為で相変わらず表情はよくわからない。 見えない“何か”が、そんな斯波の視線を真っ向から受け、何か得体の知れない殺気を漂わせ ていたからだ。  「立ち去るがよい」 ‥‥シ‥‥シシシ‥‥  「俺の名は斯波。知っているなら去れ。さもなくば‥‥」 ‥‥シ‥‥ 気配が消えた。 暫く視線を固定していたが、そのうち斯波は二人が待つ車に向かって歩き出した。  ▼ 三人が帝都入りする頃、東の空には星が見えていた。 それほど暗いという時間ではないが、少なくとも車の運転には照明が必要になってきていた。  「うう‥‥情けなや‥‥面目ないぞえ‥‥へっくしゅっ、へっくしゅっ」  「熱があるみたい。もっとわたしの傍に‥‥」 後部座席でぶるぶる震える舞姫を、茉莉花は擦るように抱えた。 ずぶぬれの十二単をトランクに入れ、代わりに純白のドレスを着る舞姫。ウエディングドレス のような派手な衣装も舞姫の長い黒髪にはよく似合う。紅蘭が用意した特注品だった。  「薬ありますよ?」 運転する斯波が振り向かずに言う。  「ぎくっ!?‥‥く、薬など結構じゃっ、気合いぢゃ、気合いで治すのぢゃっ」  「どう見ても風邪じゃないですか。ひき始めの処置が大事ですよ。茉莉花さん、これ、   飲ませてあげてください」 やはり振り向かずに茉莉花に小さめの水筒を渡す。蓋をあけると独特の香りが漂ってきた。  「あ、葛根湯だ」  「のわっ!?‥‥ぶるるっ、い、いや、ほんとに、結‥‥へっ、へっきしゅっ」  「わたしもあんまり好きじゃないんですよね。でも飲まないと」 よく見ると水筒にはラベルが貼ってあった。 紅蘭が実験でフラスコなんかに貼る、あのラベルだ。 と言うことは?  「それ、紅蘭さんが煎じたスペシャルドリンク“極道一直線”です。栄養剤やら頭痛   薬やら、なんだかいろんなのが入ってるらしいですよ。葛根湯の香りはしますが万   能薬だそうで。眠くなるという副作用があるみたいですけど効果は抜群」  「へえ‥‥初めて見たなぁ」  「自分も風邪ぎみでしたんで試しに飲んだんですよ。これがまた強烈。良薬口に苦し   と言いますが、それはキワモノですね。飲んだ直後に眠くなって‥‥覚めたら目が   ギンギン、じっとしてられないんですよ。とりあえず一緒に実験に立ち会った同じ   雪組の氷室というアホを半殺しにして治まりましたが‥‥あの野郎、ただの風邪薬   だとぬかしくさってからに‥‥あ、すいません」  「へ、へえ‥‥」「ひえぇ、そ、そげな、恐ろしいモノ、わらわの胃には‥‥」  「他にも試されそうになったんで慌てて逃げてきましたよ。強心剤“ワレ気ィツケン   カイ”とか、便秘薬“トマラヘンガナ”(超級下剤“ゆるるん”5%配合)とか。   もしかして、茉莉花さん、知ってるんじゃ?」  「‥‥‥‥‥」  「“ゆるるん”の成分表示にジャスミンと書いてあったような気が‥‥」  「き、気のせいですよ、気のせい‥‥と、とにかく、舞姫さんに薬を‥‥」  「ひぃぃ、ゆ、許してたもれ、許してたもれ、許して‥‥へっ、へっぶしゅっ」  「さ、あーんして」  「い、いやじゃ、いやじゃ‥‥」  「あーん」  「うぐ‥‥あ、あぐ‥‥!‥‥ぐ、ぐええええええっ」 舞姫の症状も少し落ち着いたようだ。 茉莉花は斯波をあらためて見つめ直した。 金髪。こめかみのあたりの髪は黒い。前髪の一部も触覚のように黒かった。なんとなく虎を彷 佛させる。 雰囲気は『ふぇいろんさんに似ている』という印象が示すとおり。茉莉花は気づいていなかっ たが、五師団の他の仲間に対する接し方とは少し違うようだ。暗殺者、という斯波が本来持っ ている雰囲気は何処にも感じられない。それが茉莉花の何に由来するものなのかは推測すら出 来ないが。 よく見ると正装している。タキシードではないが、それなりの礼服だった。 そんな外見や内面よりも、茉莉花の心を占めていたのは“しば”という名前。 何処かで聞いたことがある響き。 何故か無明妃の美しい顔が脳裏に浮かんだ。 その唇が茉莉花に囁きかける。でも聞こえない。 唇は水色に染まっていた。 開かずの瞼が開かれ、美しい金色の瞳が茉莉花を見つめていた‥‥  「大事に至らなければいいんですが‥‥今日の舞姫さんは自分の相方ですからね」 斯波の声で現実に戻る。  「うう‥‥後味が‥‥ぐしゅっ‥‥あ、そう言えば、斯波殿も正装されて‥‥」  「舞姫さんのウエディングドレスに合わせたんですよ。パーティには我々も参加です」  「パーティ、ですか?」「ほげ?」  「ええ。無明妃さんが茉莉花さんを呼んだのは、花組主催のパーティに参加していただ   くためなんですよ。勿論パートナーが一緒の」  「花組主催‥‥」  「ぐしゅっ‥‥わらわのお相手は、斯波殿、なのかえ?‥‥ぐしゅっ」  「ええ。新郎新婦の装いですね。お気に召さないでしょうが我慢してください」  「そんなことは‥‥でも、なんか違和感がありませぬかえ?」  「今回は五師団混在みたいですよ。組み合わせは大神隊長が決めたようです‥‥花組は   除いてね」  「え‥‥それは‥‥?」  「花組が主催ですからね。そして彼女たちの舞台を我々が観劇するからです。花組公演   花やしき版ですね」  「ほ、ほんとですかっ、もしかして、貸し切り、ってやつですかっ!?」  「そのとおり」  「わあ‥‥ど、どうしよ‥‥わたし、わたし‥‥」  「ち、ちなみに、お館様のお相手は‥‥ぐしゅっ‥‥どなたか、ご存知かえ?」  「山崎隊長は出席できません」  「そ、そんなぁ‥‥」「山崎さん、来ない、んですか?」  「大神隊長も参加できないと言ってました。二人とも裏方の作業があるようですね」  「ぐしゅっ‥‥ひーん‥‥」「‥‥‥‥」  「茉莉花さんのお相手は不明です。現地に到着したら無明妃さんを探してください。彼   女があなたを然るべき場所へご案内しますから」  「は、はい‥‥はい‥‥」  「ひーん‥‥ん?‥‥ね、眠い‥‥‥‥くかー‥‥ふしゅっ‥‥すぴー‥‥」  「‥‥すごい効き目ですね」「‥‥目覚めが正常であらんことを」 花やしきに着く頃、空はかなり暗くなり始めていた。 人の往来もなんだか多くなっている。既に帰宅時間の頃合いだった。 茉莉花を乗せた車は、花やしきに着くまで、長い時間を要した。 列車から飛び降り、斯波の車に乗り、川を超えてからも、何度となく襲撃を受けたからだ。 舞姫は熟睡していた。紅蘭の薬がよほど効いているのか、目覚める気配が全くない。 そんな舞姫を庇うように茉莉花は後部座席でひたすら御不動呪を唱える。 襲撃を受けたまま車を運転するほうが危険だと判断したらしく、斯波は何度となく停車せざる を得なかった。ただ、その停車時間は異常に短かく、茉莉花が不動呪の一節を詠唱する間もな く、斯波は車に戻ってきていた。  『終わりました。たぶんまた来ます。楽にしててください。詠唱も不要ですよ。この車、   紅蘭さんのチューニングが施されてますから』 と事も無げに告げ、斯波は運転を再開したのだ。 それが何度か続き、花やしきに到着したのが、この時刻。  「‥‥正門が閉まってますね」  「ええ。今日の花やしきは定時よりも早く営業終了です。準備がありますからね」  「準備‥‥」  「花やしきの野外特設会場が舞台になります。花組野外公演ですね。客はみんな身内で   すから、気楽にね。存分に楽しみましょう」  「うわ、そんなの初めてですぅ」  「さてと‥‥舞姫さん、起きてっ、着きましたよっ」  「くかー‥‥ふしゅっ‥‥すぴー‥‥‥んが‥‥しゅるるる‥‥すぴー‥‥」  「‥‥はあ」 溜息交じりに眠り姫を抱きかかえる金髪の王子様、という構図か。 茉莉花はちょっと感動しながら二人を見つめた。 なんだか、舞姫が羨ましい‥‥そんな気持ちも沸き上がってくる。  「軽い‥‥舞姫さん、ちゃんと飯食ってんのかなぁ‥‥」  「‥‥‥‥」「くかー‥‥んがんが‥‥」  「さて、行きますか?」  「‥‥え‥‥あ、は、はいっ」 観覧車が回る。 弾丸列車が走る。 ネオンが煌めく黄昏時の花やしき。 人はいない。 不思議な光景だった。  「とりあえず、パーティ会場へ行こうか。公演は夜になるから‥‥それまでは腹ごしら   えと、閑談でもしていればいいね」  「は、はいっ」  「ふ‥‥ああ、そうだ、茉莉花さんのお友達も招待してるよ」  「え」  「確か‥‥ナッちゃん、って言ってたかな?」  「ナッちゃんっ!?」  「うん。あと春香さんか、彼女も来てる。無明妃さんが見つからなかったら、それまで   の間、彼女たちと一緒にいればいい」  「ど、どこに‥‥?」  「もうパーティ会場にいるはずだよ。なんなら先に行ってて構わないから。俺は舞姫さ   んを保健室に連れてから行くよ」  「は、はいぃ」 茉莉花は駆け出した。が、何を思いだしたのか、途中で引き返し、舞姫を抱いた斯波の元に 戻ってきた。眠る舞姫に顔を近づけ、  「早くよくなってください、舞姫さん。一緒に舞台見ましょうね」 と声をかけ、その頬に軽く接吻をして、再び走り去って行った。 見送る斯波。 仏頂面が売りのその表情が、意外にも優しくそして柔らかく崩れていた。 お転婆な妹か娘を見守るように。 黒眼鏡に隠された氷のような瞳。雪組の隊長としての鋭さは見出せない。 何故だろう。 初対面のはずなのに、何故か他人のような気がしない。斯波自身にもよくわからなかった。 ただ、これだけは直感した。自分の戦士としての勘がそう告げていた。 あの少女が自分の運命を決定づける鍵となる人物である、と。 <その2終わり>