<その3> この日の浅草はいつもより夜が長かった。 雷門の露店も普段より活気があったようで、浅草寺の和尚達ですら例外ではなかったようだ。 住民たちには聞きなれたはずの寺の鐘が、不思議と露店主や客をよりいっそう活気づける。 じっとしていられない。 浅草に行こう。 そこに集う何かに引き寄せられるかのように、理由もなく人々が集まってくる。 雨の中、傘を片手に。それも今はすっかり晴れ上がっている。 浅草寺の左手には花やしきが見える。 普段であればとっくに営業時間停止の時刻で、夜になればその姿は闇に隠れてしまう。 その花やしきが今日に限って煌々と灯りを照らす様は不夜城のようだった。 観覧車のネオン。 無人の“豪快号”がレールを疾駆する。 だが、何故か浅草に集まった人々は、花やしきに行く気配は見せなかった。 何故か皆、幻影を見ているような想いに捕われていたからだ。 あれは浅草を照らす光なのだ、と。 「銀座よりも活気が出てるんじゃねぇかな?」 「そうね‥‥」 観覧車から浅草を見つめる帝国歌劇団黒子筆頭と花やしき営業所長。 二人にはパーティに参加するためのパートナーが割り当てられなかった。大神が作ったクジに 物の見事に外れてしまったのだ。尤も、その二人は最初からパーティを外から眺めるつもりだ ったらしいが。 「‥‥それで?」 「ん?」 「俺をこんなところに誘うとは‥‥さては、玲子姉さん、俺と‥‥」 「いやぁん」 「マジっすかっ!?、そ、それでは、お言葉に甘えて‥‥」 「う、うわっ、なに服脱いでんのよっ」 「え‥‥違うの?」 二人が乗る観覧車が、その頂上に到達する度に、玲子は特定の方向を見つめていた。 視線の方向には横浜がある。 更にその手前の、東京湾を見つめているらしい。 銀弓も玲子に習う。恋人同士という雰囲気ではない。 「‥‥わざわざ監視するまでもないと思うがなぁ」 「まあね」 「それに今日に限って言や、尚更問題ないぜ。何しろ五師団が勢揃いだからな」 「‥‥あなた“大佐”と手合わせしたことある?」 「は?‥‥いきなり何を‥‥」 のほほんとした銀弓の表情がいつになく堅くなる。 大佐という言葉に秘められた意味が持つもの。 「まさか‥‥」 「よくわからないけど、神楽から言われてんのよ。南西から凶星が来る、だから“大時 計”で見張っててくれってね。正確な時間がわからないのがイタイけど、神楽の遠見 は外れたことがないからね」 「それが大佐だと言うのか?」 「もしもそれが“人間”だったら丁重に迎え入れろ‥‥警官や軍隊に発覚したら事無き よう処置してくれ、というのが依頼なのよ。大佐かどうかはわからないわ。大佐に匹 敵するかもしれないけど。その後は夢組がなんとかする、って言ってた」 「‥‥俺の情報網にはない話だな。裏を取る必要がありそうだ‥‥」 「ふぅ‥‥相手の素性がわかればアタシらの出番なんだろうけど、こういう状況じゃぁ 夢のみなさんを頼るしかないもんねぇ」 ▼ 野外特設会場では花組のステージが始まっていた。 歓談を楽しめるよう、長い演劇ではなく、パントマイムや短い歌劇・歌謡ショーなどで断続的 に休憩が入る変わり種だ。ステージ前に並ぶ椅子は整然と並んでいる訳ではない。みな思い思 いにコミュニティを形成している。 保健室から戻った舞姫は、パートナーの斯波の肩に凭れ、またもや爆睡している。 珍しく神楽がいた。神楽の相方は雪組の村雨だった。神楽が白装束以外の服装を着用するのは 見物だ。赤いジャケットと白いミニスカート。いつもの逆だ。否応にも目に付く。村雨は白い ジャケットと黒いスラックス。これも珍しい組み合わせだ。しかし二人とも全く視線を合わせ ていない。敵が横にいるかのようだったが、横にいる十六夜・氷室ペアがその二人分騒いでい るために険悪なムードなどすぐに消えてしまう。 「わーっはっはっはっはっはっは‥‥」「きゃははははは」 「‥‥少し静かにしてくれない?、氷室くん」 「がはははは、暗ぇぞ、神楽ちゃんよぅ、ほれ、おめえも呑め。呑め」 「‥‥‥‥‥」「なーんで、一郎兄ちゃんじゃないのよー、ねー」 可憐の相手は朧。朧の年上マニアはあやめに端を発するが、未だにそれを引きずっているらし い。完全に可憐の尻にしかれているようだった。 弥生の相手は夜叉姫。夜叉姫は何故か男装だった。男性が足りない、ということで。 風組三人娘はエスコート役だ。 ほぼ真ん中に茉莉花がいた。親友のナッちゃんと春香、そして何故かかえでが一緒にいる。女 四人、エスコートする男性はいない。かえで以外の三人については、知らぬ者が見れば異様な 風景だったかもしれない。何しろ、茉莉花・ナツ・春香の顔は殆ど同じとしか言いようがなか ったからだ。茉莉花と春香の二人だけであれば、お互いの雰囲気みたいなものが識別の手段に なった。それが今ナツが真ん中に座っている状態だと、パッと見、判断がつかない。 「あのぅ」 「ん?」 “さくら似3人組”右側が“非さくら”に話し掛ける。 頬杖が妙に絵になるかえでが、まるで夏祭りに来たような出で立ちの茉莉花に視線を向ける。 「無明妃さん、見かけませんけど‥‥」 「舞台裏にいたわよ。大神くんと話をしていたわ」 「え?」「む?」 「はぐはぐ‥‥ほへへ、ナツの予言が的中したかナ?‥‥無明妃様、大神さんとアレし てナニして‥‥ぐわっ!?」 「そんなことないよっ!」「馬鹿なこと言わないでっ!」 「く、くるひぃ」 茉莉花と春香に首を締められるナツを横目に、かえでが妙な表情を作る。 じっとステージを見つめる、帝国華撃団初代副司令と同じ顔を持つ女性。 ただ、その瞳はもう一人の“あやめ”に限りなく近い色をしていた。 視線の先にある人影。 そして、特設会場舞台のカーテン越しにいた、その人物も同じようにかえでを見つめていた。 「‥‥どうしたの、紅蘭?」 「ん?‥‥ああ、さくらはんか‥‥ちょっとね‥‥」 「なんか目が恐いよ?‥‥どうしちゃったの?」 「かえではんが来てるようやね」 「え?、ええ、わたし、その、銀座で捕まっちゃって‥‥問いただされちゃったのよ」 「‥‥なんて言うたん?」 「花やしきで帝撃隊員限定で公演をやるって。労いも兼ねて‥‥まずかったかな?」 「ううん。それだけ?」 「あのね、茉莉花さんと、乙女学園のお友達も招待するって‥‥まずかった?」 垂幕越しに見えないはずのその人物を凝視する“紅蘭”。 外見は紅蘭。その内側に違う人物が宿る。 茉莉花だけが確認できる気配を、その時だけはあまりの峻烈さ故に、さくらの霊的な直感力が 察知したらしい。無垢で好奇心旺盛な円らな瞳の中に、絶望と希望が入り交じった混沌の色を 見出す。 「あの‥‥紅蘭?」 「‥‥さくらはん、次の出番やったな?」 「え‥‥ええ‥‥?」 「“夜来香夜想曲”、歌ってくれへん?」 「へ?‥‥イ、イエライシャン‥‥ラプソディ‥‥?」 振り向いた“紅蘭”の、その瞳が見たことのない色に染まっていた。 虹色の中で変遷する様は、さながら万華鏡の中に閉じこめられる錯覚を生んだ。 赤を超え、時を超える。 紫を超え、別世界を飛ぶ。 さくらの意識の中に別世界の映像が飛び込んできた。 戦争。 混乱。 荒廃の中で、それでも逞しく生きる人々。 さくらの網膜に映し出される暗い映像。 その混沌の中にしっかと立つ一人の女性。歌姫の唇から零れるメロディに疲弊した人々が癒さ れていく。中国語の歌だったが、日本語に翻訳される必要はなかった。さくらには理解できた のだ。大陸の哀しい歴史を綴る歌詞。それを彩る、また違う大陸のブルースを。 異なる文化故に争いが生じたのか? 異なる文化は、お互いに理解しえないのか? しかしその歌は確かに文化の違いを超えて融合していた。 “紅蘭”の瞳が本来の色を取り戻した。 きょとんとするさくら。夢でも見ていたように。あるいは幻に誘惑されたのだろうか? 「知ってるやろ?」 「‥‥うん‥‥でも、何故?‥‥それにあの景色は‥‥」 「分岐する未来にある、もう一人のうちが見せる哀しい人生」 「‥‥‥‥‥」 「哀しい詩。悲しい曲。でも、その歌には希望がある。明日を生きる力がある」 「‥‥あなたは‥‥だれ?‥‥ほんとに、紅蘭?」 “紅蘭”の唇が微かに震えた。 漆黒の瞳が追随する。震えは瞳の潤いをも震わせていた。 ‥‥今は聞かないで、さくらさん‥‥ 「えっ!?」 「ほな、行こか?」 さくらのステージが始まった。 珍しくチャイナドレスを着用している。黒髪を真横で束ね、中国娘満開の様相だった。 漆黒の生地に見事な花模様の刺繍。満開の夜桜をイメージしているらしい。 さくらのコピーとでも言うべき三人も、歓談(?)を一時停止し、さくらに魅入った。 いや、そこにいる帝撃関係者全てがステージに視線を固定した。 さくらと大気を分かつ境界領域が見る者に異常なステータスを齎す。 ある者は、それが光に埋もれてぼやけて見えた。 またある者には限りなく薄い闇の皮膜に覆われているようにも見えた。二次元平面を成す事象 の地平線に向かって光が吸い込まれていく様。中心にいるさくらが逆に際立って輝く。 物凄い存在感があった。 「はぁぁ‥‥」 茉莉花も溜息を漏らすしかない。 「うむむ‥‥お見事。流石は花組のエース」 ナツも感嘆する。 「わ、わたしだって‥‥い、いずれは‥‥」 動揺を隠しきれない春香。 「‥‥‥‥‥」 かえでだけは視線の中に暗いものを含ませていた。 それまで隠していた何かが露骨に顕在化したのか、表情まで暗いものになっていた。 静まり返った特設会場に、ゆっくりと静かに、さくらの歌声が木霊する。 子守歌にも聞こえる。嗚咽のようにも聞こえた。 ‥‥月下的花児都入夢‥‥ 異国の言葉が、何の違和感もなく、さくらの唇から零れる。 さくらから産み出される霊的波動に乗って、言霊は天上の音楽になった。 ‥‥只有那夜来香‥‥ 森の囁きがアカペラのBGMになった。 風の声がコーラスになった。 「‥‥くっ」 体調不良を来したのか、あるいは何かに堪え兼ねたのか、席を立つかえで。 勿論、他の“さくら”三人組は気付く訳もない。ステージに意識を奪われていたからだ。 特別な照明などない。にも関わらず、さくらのまわりに蛍の光のような淡い光の粒が漂い始め た。 「はあ‥‥」 「まるでセントエルモの灯のよう‥‥素敵‥‥」 「花やしきに漂う精霊だナ。あそこまで具現化できるとは‥‥恐るベシ、破邪の歌姫」 「え?」「精霊?‥‥わたしには蛍の光みたいに見えるけど‥‥」 「歌で精霊を招くとは‥‥ちゃんとやれば神獣レベルの召還が可能かもナ」 「?‥‥??」「それは‥‥」 「神獣の力はいろんなところに派生してるからナ。すみれさんの鳳凰もそうだし、舞姫 様の連雀もそうだナ。尤も“オリジナル”は紅蘭さんの‥‥いや、なんでもないシ」 「舞姫さんの連雀?‥‥あ、知ってるよぅ、あれすごいんだから。ぐわぁって、がぶり って、もう、悪者なんかみんな食べちゃうんだから」 「紅蘭さんって‥‥まさか、鳳凰蓮華を凌ぐというの?、聖獣ロボが?」 茉莉花が想像したのは、すみれの連雀ではなく舞姫の召喚術。 霊能が殆どない茉莉花をして、あの孔雀を見たときは腰を抜かしたものだった。 紅蘭の話題が出て春香が想像したのは、勿論、聖獣ロボ。 翔鯨丸に搭載されるはずだった拠点制圧用霊子爆雷を紅蘭が改造したと聞いている。聖獣ロボ をコントロール可能だった霊的媒体、即ち風組隊長が開発途中で行方不明になったからだ。 その後、聖獣ロボ改に発展し、更に改造されたという話も聞いているが‥‥ 「ほへ‥‥二人とも、正式隊員のわりに勉強不足じゃないのカ?‥‥マツリカ、おぬし、 夢組だろ?、ぐわぁ、とか、がぶり、とか、そーゆーこと言ってる場合ぢゃないだろ。 霊力がないから『鳳凰系』は無理だろうから、『胡蝶之舞』は辛くても会得しとけよ ナ。あれは精神波で攻撃するタイプだし。言っとくけど、これはマツリカ自身の為で もあるんだからナ?」 「‥‥ふぁい」 「春香さんもだゾ。ご自分は完璧と思ってるかもしれんけど、ナツから見れば霊的鍛練 がイマイチっすナ。さくらさんのあの力がセントエルモの灯にしか見えんとわ‥‥霊 視が出来ていない証拠だゾ。それに紅蘭さんの“聖獣ロボ零式”を単なる誘導爆雷だ と思ってるんだとしたら、それは大変な誤解があるゾ?」 「うぬ‥‥」 「むふっ♪、まあそのうちナツが風組で‥‥あわわ‥‥あれ?‥‥かえでさん、どっか 行ったのかナ?」 「ぐすっ、ナッちゃんがいぢめる‥‥ん?」「特訓しなければ‥‥あ?」 「もしや、逢引でわ‥‥よっしゃっ、各々方、偵察だゾッ!」 「はい?」「は?」 「きっと舞台裏だゾ。あのスマシ顔で‥‥むほほ、イケイケ副司令だったりしてナ?」 ‥‥夜来香‥‥更愛那花一般的夢‥‥ さくらの歌声は花やしきを超え、浅草中に染み渡った。 まるで何かを、誰かを、鎮魂するかのように。 住民たちの心の奥底にわだかまる悪徳が、その歌声によって浄化されていくようだった。 だれもが持っている慈しみの心が、その歌声によって覚醒していくようだった。 ただ、さくらのコピーの如き三人組には、その歌声に含まれる、ある種の暗示は効かなかった ようだ。 精神に些かの変わりようもなく、その三人は席を立った。 勿論、その歌声がもっとよく聞こえる場所に向かって。 ▼ 「素敵でしたぁ‥‥素晴らしかったですぅ、さくらさん」 「ありがとう、茉莉花さん」 「参考になりました。でも、わたしも負けませんから」 「あ、ありがとう、春香さん」 「意外に胸ありますナ、さくらさん。さては大神さんに育成されて‥‥むげっ!?」 「失礼しましたっ!」「こいつは何と言うことを‥‥」 「あ、あははは、相変わらずね、ナッちゃんは」 さくらのステージは歓声と共に幕を閉じた。 休憩に入り、花組が裏方に集合する。輪の中心は勿論さくらだった。 花組の間でも今回の歌は予定外だったらしく、みな目をまるくしていた。 紅蘭の入れ知恵であることは予測できたが、何時練習していたのか?‥‥普段のさくらよりも 出来栄えは相当なものだったようで、花組をして感動させてしまったのだ。 落ち着いた頃を見計らって、舞台袖に隠れていた“さくら似三人組”が顔を見せた。 尤も、目的は他にもあったが‥‥肝心のかえでは見当たらなかった。 大神もいない。 場所を間違えたのか? 「‥‥ところで、さくらさん、かえでさんを見ませんでしたかナ?」 「え?‥‥ううん、見てないわ。あれ?‥‥紅蘭もいないわね」 「ありゃ?、こっちだと思ったのに‥‥ナツの見当違いカ?」 「い、いいじゃない、ナッちゃん、今はさくらさんと‥‥ぽっ」 「‥‥そうね。気になるけど‥‥あ、さくらさん、今度是非一度練習に‥‥」 和やかな空気が緩やかに凍りつく。 さしずめ、ぬるま湯に水道水を少しずつ注入していく過程。それを時間圧縮するかのように。 茉莉花にはすぐにわかった。注入元方向に振り向くと同時に声がした。 「ここにおられたのですね、茉莉花殿」 指名された茉莉花にとっては、尤も馴染のある、澄んだ声。 「無明妃さんっ!、ご無沙汰してましたっ、今までどうして‥‥」 「申し訳ありませんでした。立て込んだ用事がありましてね。もう大丈夫です」 「よかった‥‥あ‥‥その‥‥いつもと違いますね、着物‥‥」 純白の日本人形、無明妃‥‥の姿ではなかった。 真紅の振り袖に黒い帯。その振り袖も、襟が大きく後退し、うなじが露骨に見えている。 そして、白金のような長い髪を束ねる漆黒の髪飾り。 血の色を呈した唇。 見つめる茉莉花も沈黙で応答する。 白い日本人形を飾る赤と黒。 似合わないのではない。寧ろ無明妃を知らない者が見ればその妖艶さに言葉を失っただろう。 ただ茉莉花にとっては“無明妃”を証明するのは白という清涼さであり、その艶やかな色彩は 無明妃の存在そのものを否定している気がしたのだ。 「‥‥似合いませぬか?」 「あ、その‥‥そんなことは‥‥」 「ふふ、舞姫のようにはいきませんね。みなさん、茉莉花殿を借りたいのですが、よろ しゅうございますか?」 「どうゾ、どうゾ、こんなんでよければ」「いてもいなくても特に問題ありませんね」 「むっっかーっ、そんな言い草はないっしょっ!?」 「ふふふ‥‥仲がいいのですね‥‥では、参りましょうか、茉莉花殿」 「ぶつぶつ‥‥」 無明妃と連れ立って舞台袖から去る茉莉花。 勿論、ただ黙って見送るはずもないナツ。 無垢な瞳がキラリと光る。 「かえでサンで暇つぶしのつもりが‥‥ふっふっふ‥‥本命をゲット」 「は?」 「準備はええかナ、春香サン」 「あん?」 さくらに聞こえないよう、小声で耳打ちする“さくら似”二人。 『出歯亀少女隊だよ〜ん』 『は?』 『またまたぁ、知らんフリしてオゲレツッ‥‥尾行に決まってますがナ』 『ぬ?、あなたっ、わたしに覗きをさせようってのっ!?、わたしはこれから、さくら さんと今後の花組のありかたについて議論を‥‥』 『あん二人はきっと大神隊長と山崎さんと、アレしてナニするために‥‥いやん、エッ チ‥‥あだっ!?』 「すいませんっ、さくらさんっ、急用ができましたっ、失礼しますっ!」 「え‥‥?」 「あででででででっ、み、耳がっ、耳が、もげるぅ」 春香に耳を引っ張られつつ、ナツも退場した。 舞台袖に立ち尽くすさくら。 闇に消える二人を追うさくらの視線は、自然と自らの足元に落ち着いた。 闇の中で一際映える蒼い花びら故に。 そこには帝国劇場で茉莉花をいつも迎える、あの花が残されていたのだ。 だれかが落としたのか? とても懐かしく、とても哀しい香りがした。 「‥‥夜来香‥‥あの人の花‥‥」 さくらはその花を髪に挿し、ステージを後にした。 ▼ 花やしきの事務所は帝撃花やしき支部への入り口も兼ねている。 茉莉花にとって、既に馴染みの建物になっている。迷路のような構造も、最初は戸惑ったが、 今では難無く目的地に到達できてしまう。 各所に点在するセキュリティには紅蘭が施した茉莉花専用の認証システムが稼動している。 茉莉花が持つ特種なアイデンテティ(霊子反応によって識別できるものではないらしい)を検 知してセキュリティを解除するものだが、最近このシステムが働いた形跡がない。 偶然と呼ぶにはあまりに不自然だったが、茉莉花が無作為に選ぶ通路のセキュリティシステム は定期点検による一時停止が常だったからだ。 今日の茉莉花は指導教官を伴っている。 相方の無明妃も個人認証の応答がないのを不審に思ったが、先導する茉莉花がそうさせている のだろうと納得する。霊的素養の片鱗も見せない茉莉花が時折見せる霊的素養を超越した超常 現象だ。 「申し訳ありません茉莉花殿、折角のパーティなのに‥‥」 「そんな‥‥確か、地下の第百倉庫って、虎型の部品が置かれていたような‥‥」 「あそこの保安責任者は紅蘭殿ですね。何か意図があるのでしょう」 「へ?‥‥無明妃さんの用事ではないんですか?」 「無論わたくしの案件もあります。ただ、紅蘭殿も何かあるみたいですよ」 「へえ‥‥なんだろ?」 「たぶん、行けばわかるでしょう」 だいぶ深いところまで降りた気がする。 茉莉花自身、時折部品調達のために紅蘭と共に倉庫に出向くことがあるが、この第百倉庫まで 来ることは滅多にない。見学も兼ねて一度紅蘭に連れてきてもらったのは随分前のことだ。 別に百番目の倉庫という訳ではないようで、地下最下層まで百回往復して初めて開くことがで きるという曰く付きによるものだった。 中には虎型霊子甲冑、所謂光武の備品が所狭しと山積みされている。 その光武の貴重なパーツ類に謁見できるのは其れ也の資格が必要だ、ということらしい。 第百倉庫の前に到着した二人を待っていたのは、厳重な扉の前に貼られた一枚の紙切れ。 そこには、 ## 光らない光武の心を持って別荘へ来られたし ## と書かれていた。 「光武の心‥‥わかりますか?、茉莉花殿」 「まさか霊子機関じゃないよなぁ‥‥あんな重いの、無理だし‥‥他に何か意味がある のかもしれないですね。紅蘭さんが持って来い、って言うくらいだし」 卯型を経て辰型が帝撃汎用霊子甲冑として正式採用された今も、光武の設計指針は色褪せるこ とはない。新型が生まれる際には、パーツ検証のために必ず光武が導入される。特に純白の機 体はバランスもよく完成度が高かったために、先の大戦で大破した後も特別にリストアされ、 この第百倉庫に眠っていた。 「光らない光武、か‥‥」 純白に輝く光武を目の前にして呟く無明妃。 記憶の片隅に埋もれた映像のかけらにその答えがあった。 「あ、それはわたしにもわからないですぅ‥‥どうしたらいいんだろ」 「‥‥あれのことかもしれない」 「え?」 無明妃の“視線”が指した先にあるのは闇だ。奥行の見えない倉庫の闇ばかりが広がる。 大神が愛用した純白の光武の、その白さ故に、闇は殊更に暗く見えてしまう。 だが、その闇の先には何かがあった。 「‥‥なんです?」 「光武八番機」 「光武、八番機?‥‥あれ?‥‥虎型の現役時代って、花組は七人では?」 「あの機体は特別です。太陽の色彩に彩られた花組の機体‥‥それとは対照的に夜の象 徴とも言える色‥‥月の化身かもしれませんね」 「‥‥なんか零式みたい」 「あれは零式から生まれました」 「え?」 「でも、もう動くこともありません。紅蘭殿も随分手を尽くしたようですが、あの機体 は本当に死んでしまったようです」 「死んでいる‥‥」 闇の先にある何かが茉莉花に語りかける。 少なくとも茉莉花にはそう感じた。 それが茉莉花を動かした。 「‥‥呼んでる」 「?」 ゆっくりと闇に向かって歩き出す。 茉莉花の足音に共鳴するように、その闇は次第に輪郭を著し始めた。 確かに光武だ。右手に剣を、左手には盾のようなものを持ち、彫像のように立っている。 盾のようなもの、と言うのは、酷く損傷しているためにオリジナルが盾であろうと推測できる に過ぎないからだ。剣も刃こぼれが顕著で、しかも途中で折れている。 近くまで寄ってみる。 身体も傷だらけだ。 両肩の装甲はまるで強酸でも掛けられたように腐食が進んでいるし、エンジンを保護する背中 のシールド鋼も銃弾痕が顕著だ。ハッチ近辺に至っては内部の緩衝材まで剥き出しになってい た。どれほどの戦いだったのか。 明らかに死んでいると思われるその機体に、そっと掌をあてる茉莉花。 「‥‥眠っているだけだよね?」 ギ‥‥ 茉莉花の呼びかけに、その機体は最後の力を振り絞ったようだ。 錆びれた装甲が鈍く軋む。 最早失ったはずの視力に最後の力をかき集め、その単眼は閃いた。 『これは‥‥』 無明妃も声を出せなかった。 花やしき技術陣も、帝撃五師団の技術部隊も、そして何より、この機体の主でさえも、この 機体を復活させることは出来なかったのだ。それが‥‥ 「何?‥‥何が言いたいの?」 ギ‥‥ギギ‥‥ 装甲が軋む。 震えながら、その機体はハッチを開放した。コクピットが露になった。 やっと出遭った恋人に、その衣を脱ぎ捨て自らの柔肌を示す鋼鉄の乙女なのか。 臨終に至り、自らの生きた証を示したかったのだろうか? コクピットは零式と同じだった。 夜空を覆う満天の星々。 その星が、茉莉花の視線を受けて、より一層輝く。 「なにを、するつもり?‥‥え‥‥わたしを待ってた?」 コクピットの夜空は恒星の如き光量を以て茉莉花に対峙した。 その光は飽和限界に達し、宛ら流星のように茉莉花に向かってなだれ込んだ。 彗星群が茉莉花に集約する。光の衣が茉莉花を包んだ。 身体が金色に輝き、倉庫の闇を払拭する。まるで太陽が顕れたようだった。 茉莉花が受け取った金色の光は、すぐに虹色に変化した。 そして‥‥再び闇が覆った。 開け放たれたコクピットに星々の煌きはない。 光らない光武は、今度こそ永遠の眠りについてしまった。 「身体が熱い‥‥これが、光武のこころ、なの?」 「‥‥おそらく、この子はあなたの背中を押しただけだと思います」 「ど、どういう‥‥」 「あなたの中にあったとても硬い壁‥‥それをあの光が消してくれました」 「?‥‥??」 「‥‥紅蘭殿が招いた理由はこれだったのですね」 「?????」 『さっきの光はいったい‥‥』 『マツリカを待ってたみたいだナァ、あの光武』 一箇所しかない第百倉庫の入り口、その対面には資材梱包用の木箱が散在している。 隠れて、こそ、っと成り行きを見つめる二人。 ナツに先導されてここまで来たが、その経路は迷路に等しかった。 通常の入り口ですら発見するのが困難な第百倉庫、その“勝手口”を通じて偵察に入るナツと 春香。ここに至って春香はナツのどこか異様な能力を察し始めていた。 『ん?、どうしたんかナ、春香サン』 『あなた、大神さんにスカウトされたって聞いてるけど‥‥』 『むほほほ、内緒だゾ』 『あなた、どういう人?‥‥乙女学園の生徒ではないの?』 『ナツにとって乙女学園は家だけどサ‥‥マツリカもそうだナ。でもナツの役割はマツ リカとは違う。そして春香サン、あんたともナ』 『‥‥どういう意味かしら。さっき風組がどうとか言ってたわね』 『鋭いナ。ま、風組は一時の受け皿だナ。ナツにとって重要なのは‥‥おっと、移動す るようだゾ。この話は次の機会にでもしましょうナ』 『‥‥ふん』 ▼ 茉莉花と無明妃が次に向かった先は例の別荘。 夜の浅草花やしきの喧騒は全く伺い知ることは出来ない。それ以前に、今、ここを支配してい る時刻は夜ではなかった。 朝もやが煙り、地平線を彩る山々が幻のように見える。 その幻からフェードインしつつ急速に現実化する大地の草原。 風は幻の峰々から靡いてくるのだろうか。冷たく、そして清涼な香りがした。 暫し、呆然と風景に“魅入る”無明妃。 見えないものを見る無明妃の瞳をもってしても、その地が決して虚構ではなく、また贋作でも ない、現実のものにしか見えなかったのだ。 「この前に来た時と少し違うようですね‥‥」 「えっ!?、無明妃さん、ここに来たことが?」 「一度だけです。いつもここで訓練を受けているのですか?」 「訓練って言う訳ではないんですよ。なんて言うか‥‥生活することが勉強、かな?」 「‥‥‥‥‥」 不思議な感覚に支配される。 既視感と呼ぶには感覚が長すぎる。 無明妃の記憶の奥底、最も深いところに埋もれた思い出をくすぐるような感覚だった。 ここがあるべき場所なのか? 人はここに帰する、ということなのか? 「あの‥‥無明妃さん?」 「はい?」 「今日、何かご用があったのでは‥‥?」 「あ‥‥え、ええ、そうでした‥‥そうでしたね‥‥」 風の大地に二人。 手と手をつないで。 はぐれないように。 見失わないように‥‥ 「素敵なお着物ですね」 「はい?‥‥あ、ありがとうございます‥‥?」 破れた袖を隠す。 「袖が破れてるようですが‥‥」 「‥‥ここに来る途中で‥‥はぁ‥‥これ、お母さんが仕立ててくれたんです。帝劇に 行く時はいっつもこれ着て‥‥きれいな茉莉花の刺繍だったんですぅ、それが‥‥」 「‥‥だから“茉莉花”殿、なのですね」 「えへへ‥‥ふぇいろんさんがつけてくれたんですよ〜」 「ふふ‥‥差し出がましいようですが、わたくしが仕立て直してさしあげましょうか? 完全に復元は無理ですが、花を元通りにするくらいなら出来ますよ?」 「え‥‥え?、無明妃さんって、仕立ても出来るんですかっ!?」 「ええ。わたくし、料理も好きですけど、裁縫が一番の趣味なんです。舞姫の崩れた十 二単も時々面倒見てあげてますからね」 「わぁおっ、すんごいっ、すごすぎますっ、わたし大道具は得意なんですけど、こうい う細かいの、ダメなんですよぅ‥‥ほ、ほんとに、お願いしていいんでしょうか?」 「勿論」 風が止んだ。 幻の峰々を包む霧が少し深くなったようだ。 風の音が止み、代わって小川のせせらぎが微かに聞こえてくる。 水の流れ。 その水の音に混じって、土を噛みしめるような音が聞こえた。 大地の声? いや、足音だ。 小川の音色とよくあう軽妙なステップに、その足音を刻む人となりが見えるようだった。 もうひとつ。 無明妃の耳には足音は二つ聞こえた。 茉莉花には聞こえない。肉食獣の聴覚であっても認識できるレベルではない。 「‥‥だれか来ます」 「え?」 これが人間の歩行であるなら恐るべき隠行の術だった。 空気の微妙な揺れと、隠し切れない“気配”が無明妃にその存在を教えたのだ。 「きっと紅蘭さんだ」 「‥‥違いますね」 「え?‥‥でも、ここに来る人って、紅蘭さんしか‥‥」 「足音が違います。二人いますね」 「え‥‥それって、もしかして、結構やばいかも」 「?」 「前に紅蘭さんに言われたんです。この場所で人に会っても話しかけたらいけない、っ て。何か聞かれても応えたらいけない、って」 「ふむ‥‥」 繋いだ手を更に強く握りしめる無明妃。 そしてもう片方の手も握る。 「無明妃さん?」 正面から茉莉花を“見つめる”無明妃。 “開かずの瞳”をかざる長い睫毛。 「むみょう、ひ‥‥さん?」 「‥‥わたくしを見て。わたくしの‥‥瞳から目をそらさないで」 「えっ!?」 朝露が降りたように輝くその睫毛が震える。 そして‥‥ゆっくりと、その瞼が開いた。 「!!!」 これ以上ないほど目を見開く茉莉花。 瞬くことすらできなかった。 決して開くことのない無明妃の瞼の奥にあるもの。 その封印を破り、今茉莉花の瞳に映し出される。 身体が硬直した。 茉莉花の記憶の片隅に埋もれた何かが再び蘇ろうとしていた。 無明妃の朱い唇から零れる音楽のような言霊に。 「偉大なる我らが導師よ、その力をかの娘に継承せしめん」 厳冬の草原。 暗い夜空に吹き荒ぶ純白の風華。 白い大地。 黒い空。 その地平にすっくと立つ、ひとりの鬼。 白金の髪が風に靡く。 黄昏の瞳が闇夜を貫く。 「‥‥○○○○○‥‥○○○○‥‥○○‥‥」 茉莉花の唇が奏でる低い音色。 意識ははっきりしている。自分の声ではないことも認識していた。 『わ、わたしの、中に、だれか、いる‥‥だれ‥‥なの‥‥?』 不安が過る。 目眩に似た既視感が、茉莉花の精神を肉体から引き離した。 艶やかな着物の、その胸元を開く無明妃。 純白の肌に作られる影。その胸の谷間の更に下。 着物の影に隠された、無明妃を証明する傷跡。 白い柔肌に刻まれた十字の刻印が、痛々しく生々しい映像となって茉莉花の瞳に焼き付く。 『む、無明妃さん‥‥』 「この名を捨て、この記憶を捨て‥‥この有様を捨て、かの者のため、善鬼とならん」 『ぜんき?』 “夢見る鮹”が見せた懐かしい夢も、意識の表層からは消えてしまっている。 自ら発した善鬼という言葉の意味すらも、遊離した茉莉花の精神には届くはずもない。 自分の未来が過去にある。そう自ら断言したことも茉莉花の記憶には残っていない。 無明妃は再び目を閉じた。 無明妃を無明妃たらしめた胸に刻まれた十字の傷。 それが消えた。一瞬の後に何もなかったように。それが契約の証なのか? 美しい純白の素肌だけが、その胸の谷間を彩る。 そして繋いだ手を離すと、茉莉花を拘束していた得体の知れない何かが、無明妃の中に取り込 まれていった。同時に茉莉花も身体の自由を取り戻す。 「今のは‥‥」 「ちょっとした事前準備です。気にしないで」 「も、もしかして、わたし‥‥“よりわら”にされてしまったんでしょうか‥‥?」 「違います。敢て言うなら‥‥そうですね、守護霊だと思ってください」 「で、でも、その‥‥なんだか、すごく、その‥‥暗い気配がしたんですけど‥‥」 「暗いのは茉莉花殿の不安が反映したもの。闇は決して負の者ばかりではありません」 「でも‥‥ん?‥‥あ‥‥あっ!」 “事前準備”中にその迎えは顔だちがはっきりわかる距離まで接近していた。 二人。青年だった。茉莉花と無明妃に合わせたのだろうか? 一人は銀色の長髪。 もう一人は短い黒髪。しかも逆立っていた。 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 茉莉花、そして無明妃ですら、呆然としながらその後の言葉を発することが出来なかった。 つまり二人にとっても予想外の来客だったらしい。 二人の青年が目の前に来るまで、ただ呆然と立ち尽くすだけ。 人に会っても、話しかけてはいけない。 実際、紅蘭との約束を忠実に守ってしまった訳だ。 「おや?‥‥こんなところで人と出会うとは」 「‥‥日本人か?」 二人とも日本刀を持っていた。 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 やはり対応できない茉莉花と無明妃。 「人買いに攫われたのでもなさそうだな。どうする?“神凪”」 「‥‥変わった娘さんたちだな」 目の前の青年は、明らかに自分の想い人に他ならない。 見かけはかなり若い。 もしかすると、自分とそれほど差がないようにも思える。 時間軸が狂ってしまったのか?‥‥背丈も自分の想い人よりは10センチほど低い。大神と同 じくらいか? 『わたしのことを忘れてしまったの?』 『わたしを待っていてくれたの?』 『わたしのために、若返ってくれたの?』 茉莉花の思考に混乱が生じはじめた。 「私の名は山崎真之介と言います。こちらは大神‥‥もとい、神凪龍一。我ら二人とも、 日本から海外出張でこの中国に‥‥」 「茉莉花‥‥」 「え?」 茉莉花という問いかけに、思わず反応する茉莉花。 思いだしてくれたのだろうか? 山崎と称した青年の自己紹介に中国という言葉が含まれていた。それも茉莉花の耳には残って いるはずもない。少なくとも今自分が立っている場所は中国ということになるはずだが‥‥ 「袖が破れてるようだが?」 「ぎくぎく」 「破れ目に刺繍がある‥‥茉莉花かい?」 「は、はい、はい‥‥」 破れた袖が齎した会話。 必ずしも不運要素だけではなかったらしい。ほんの少しだけ気持ちが明るくなった。 見つめあう二人を後目に、もう一方もやはり見つめあっていたようだ。 日本人形の如き無明妃が取り乱す様は、かなりの見物だった。 「うーむ‥‥美しい‥‥まるで天女のようだ。お名前を聞いてもよろしいか?」 「あ‥‥あ、あの、わ、わたくしは、その‥‥」 「うーむ‥‥可憐だ‥‥ん?‥‥もしかして、目を煩っておられるのか?」 「あ、そ、それは、あの‥‥」 「うーむ‥‥ますます抛ってはおけん。なあ、神凪‥‥おいっ!」 「あ?‥‥ああ、そうだな‥‥しかし、どうしてこんなところにいるんだ?」 茉莉花に至っては問いかけに応える言葉もままならない状態だった。 何を話していいのかすらわからない。 あなたはふぇいろんさんなの? どうしてここにいるの? いままでどうしていたの? 聞きたいことは山程あった。 「まあ、いいじゃねえか。私らは明日船で日本に帰るつもりなんですが、ここで出会っ たのも何かの縁、よろしかったら食事でも‥‥」 「あ、あの‥‥」「あ、あの、わたしたち、あの、日本に‥‥」 「ん?‥‥なら一緒に行くかい?」 「おお、それはいい考えだなっ、ナイスだ神凪。いや、他意はないですよ。女性二人だ けというのも不安でしょう。いや、まずは、出会いを記念して、一杯‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「ここからだと港までかなりあるな。近場で一泊するか」 「うんうん、それがいいな。そこで一杯‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「霊力も高い‥‥なかなか、いい“素質”がありそうだ」 「いいじゃねえかよ、そんな堅苦しいことはっ!‥‥さ、お二人とも、いざ参らん」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 何がなんだかわからないまま、茉莉花と無明妃は二人の青年とともに“別荘”の敷地から離れ ることとなった。 草原の向こうにある世界は茉莉花にもわからない。いや‥‥それよりも、もっとわからないこ とがあった。 無明妃も同感のようだ。 二人は顔を見合わせては、もう二人を見つめる‥‥という行為を何度もくり返し、草原の向こ う側の世界へ足を踏み入れた。 霧が覆う幻の世界。 これこそ幻なのだろうか? その二人、いや四人を追う、もう二人。 「やっぱりナ」 「‥‥なんか、やばい気がするんだけど」 「そらヤバイっしょ。しかぁしっ、そこで強引にですナ‥‥」 「あの二人、ほんとに大神さんと山崎さんなのかな?」 「言われてみれば‥‥雰囲気が微妙に違うような気もするけど‥‥しかし他人の空似に しては二人同時というのもどうかと思うゾ」 「それはそうだけど‥‥霊的な気配も似てるけど、でも、なんか、違うような‥‥なん か、やばいような気がする‥‥」 「もうっ、悩んでてもしょうがないってば。ここまで来て何の土産もなく帰れませんゼ」 別荘の小屋の陰から事の成りゆきを見つめていた春香とナツ。 二人も同じように敷地から足を踏み出す。 「ん?‥‥だれや?、そこにおるの」 背後から声が聞こえた。 独特の関西弁は間違えようがない。 『しまった、紅蘭さんダ‥‥走るゾ、春香サン』 『ちょ、ちょっと』 先行する四人は既に丘の向こう側に姿を消してしまっている。その先には森が見える。 このままでは見失う可能性がある。 走り出すナツと春香。 「ナツに春香はん!?、ちょっと待ちなはれっ!、そっちに行ったら‥‥」 二人の姿は霧に隠れてしまった。 追う紅蘭。 目の前に小川が見えた。 飛び越せる程度の幅しかないが、紅蘭は突然立ち止まった。 「な、なんちゅうこっちゃ‥‥なんであの二人が‥‥」 風が吹いた。 霧が晴れた。 先ほどまで見えていた森の姿は何処にも見えなくなった。 その森とともに、ナツと春香の姿も消えた。 小川の先には広大な平原が広がるだけだった。 <その3終わり>