<その5> 花やしきの特設ステージに幕が下りた。と言ってもイベントが終わった気配はない。 ステージの前には、パーティではなく演劇を楽しむ面子が集まっているし、耳をすませば幕内 からも話し声が聞こえる。歓談を楽しめるよう軽い歌劇などで構成されていた花組野外公演だ ったが、観客の後押しもあって、休憩(準備時間)を挟んで非公開の公演を実施することにな ったらしい。 観客は五師団+特別招待客のみ、総勢十数人足らずの小さな公演だが、みな目が肥えている連 中だし、中途半端は逆に失礼だ。 花組は悩んだ末に、演目を“シンデレラ”にした。何より“主賓”が最も愛している演目だ。 ただ、さくらたちは、その主賓がこの場にいないことには気付いていなかった。 紅蘭を除いては。 「なんか久しぶりだな、シンデレラやるの‥‥緊張しちゃう」 「‥‥うちなんか、意地悪姉さん役、最近違和感感じてるんよね」 「ん?‥‥王子様がいねぇじゃねえか」 「マリアさんならあそこですわ。でも衣装が‥‥?」 「いや、マリアは今回継母役なんだよ」 「えっ!?」「だれやろ‥‥」「‥‥‥‥」 「旦那が王子様だ」 「うそ‥‥」「な、なんやて?」「山崎少尉が?」 「アイリスは‥‥」 「大丈夫だよ」 「そっか‥‥じゃあ、アイリスからだな、そろそろ出番だから‥‥」 いつもの舞台袖とは違うが、いつものように開幕前の打ち合わせに臨む。五師団が観客という ことで配役をアレンジしようと大神が話をもちかけた。 人手が足りないため、今回は大神とともにカンナが裏方にもまわる。それでカンナだけが事の 詳細を前もって知らされていた。山崎も裏方兼務だが、熱狂的さくらフリークを逆手に取り、 王子役をやらせてハプニングを誘うというカンナの魂胆が見え見えだった。 従ってマリアが継母役に後退する訳で、ほかの面子の配役は概ね変更はない。 “主賓”が望んでいたことを反映したのか、アイリスはシンデレラの幼い親友という設定にな っている。ただ、そのアイリスがここのところ妙に元気がないことに花組の面々は些か懸念を 抱いていた。特に何処がどうという話ではなく、なんとなく、目がうつろというか‥‥ 「配役がちょっと違うが、イケるよな?」 「大丈夫だよ」 「‥‥しっかり頼むぜ、アイリス。夢組のお姫様はなかなか目が肥えてるらしいからな。 上っ面じゃ騙せねぇぜ」 「大丈夫だよ」 「お、おい‥‥」「アイリス‥‥」「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「大丈夫だよ。大丈夫だよ。大丈夫だよ。大丈夫だよ‥‥」 「準備はどう?」 舞台袖の奥、通路脇の暗闇から声がした。 何処か懐かしい声。しかし何処か艶かしい響きがあった。 暗闇にぼんやりと浮かぶ輪郭。音もなく舞台袖に滑り込み、輪郭から面がこの世界に健在化す る。厚みがないのか身体の線がきっちりと出る上着と、太腿の付け根さえも顕わにしそうなタ イトなショートスカートに身を包む、その女性。 「あら‥‥アイリスが一番手みたいね。がんばって」 「大丈夫だよ」 「ふふふ‥‥」 「あのさ、かえでさん、一応、ここ関係者以外は立ち入り禁止なんだけどな」 「あら、そんな素っ気無い‥‥わたし、部外者なのかしら?」 「隊長から聞いてねえかな。このステージは“花組”以外立ち入り禁止なんだよ。隊長 が指定する招待客は例外だけどな」 「‥‥そんなに嫌わなくてもいいじゃない。仲良くしましょうよ、ね?」 「まいったな‥‥」 「あんな、かえではん、ここ、ちょいとした仕掛けがありましてな」 「?」 「あんまし関係ない人が来るとですな、その仕掛け、そん人に悪戯しよるん」 「‥‥どういう意味かしら」 「つまり‥‥こんな感じですねん」 紅蘭の唇が震えた。 眉を歪めるかえで。低周波ノイズのような振動が鼓膜を襲う。かえで以外はまるで感じていな い様子を見ると、かえでのみに働きかける仕掛けのようだ。 「‥‥あんまりいい気分じゃないわね」 「いやいや、それだけやないんですわ。それ以上は踏み込まんほうがよろし」 「‥‥ほんと、嫌われてるみたいね」 「席に戻って楽しんでくださいな。せっかく来られたんやし」 「そうするわ。アイリス、しっかりね」 「大丈夫だよ」 艶やかに翻り、元の闇の中に消えていく。 その後姿は妖艶を通り越して悪夢のように見えた。 顔を見合わせる花組。一様に困ったような表情をしている。 「招かれざる客もいなくなったことですし、そろそろ始めますわよ」 「でも、かえでさん、わたしたちのこと心配してくれて‥‥」 「さくらはんは優しいな」 「‥‥紅蘭、なんだか、ほんとに意地悪姉さんに見えるよ。どうしたの?」 「ふふん‥‥さ、みんな気張っていこ」 「やべ、そんな時間かっ!?、ちょ、あたい、旦那探してくるぜ」 ステージまわりに点在していた円卓から人影が消えた。 ステージの前に集まり、椅子を並べて開幕を待つ態勢に移った訳だ。五師団が一同に会するの も珍しいが、こうして席を並べるのは更に珍しい。ただ、始まりの時刻に比べると、人影が些 か減っているような気配だ。 まず騒音の発信元二名がいない。夢組の舞姫と月組の銀弓。 斯波もいなかった。夢組は夜叉姫しかいない。そして何より、今回のイベントの主賓とも言う べき茉莉花の姿が見えない。 ゴロ‥‥ 「ん?」 ゴゴゴゴ‥‥ 「雷?」「雨降るのかな?」「雲は‥‥遠いな。西から聞こえる」 ゴゴゴゴゴゴゴゴ‥‥ 暗闇が覆う西の空に稲光が舞った。 それが合図となった。ステージが開幕した。 暗い舞台に立つ一人の少女。 金髪を靡かせて舞台を翔ける。その少女の周りには常に光があった。 翔ける度に光がこぼれていた。そういう少女だった。 しかし、この舞台に降臨したのは、あの天使のような少女とは少し違う。 少なくとも観客たちはそう感じていた。霊的な気配から感じ取るのではなく、純粋に舞台を楽 しむ観客としての反応だった。 「‥‥なんか、変じゃないか?」 「そうですね‥‥いつもと違うような気がする‥‥アレンジしたのかな?」 「十六夜、なんか気付いてる?」 「ううん‥‥ただ‥‥なんだろ、あそこにいるの‥‥アイリスじゃないような‥‥」 存在が弱々しい。そんな感じだった。 生命力を感じさせない演技に、だれもが首をかしげてしまう。 「あら、わたしにはいつもと変わらないように見えるけど?」 釘を差すのはやはり副指令。 口元には妖しい笑みが浮かんでいる。 ゴゴゴゴ‥‥ゴゴゴ‥‥ 雷鳴が少しずつ近くなってきた。 もう星空も見えない。 夜空は曇天と化し、漆黒の闇が覆っていた。照明もあまり効果がない。 舞台を照らす光が、こころなしかアイリスの演技に助長されるかのように薄暗くなっていく。 『‥‥氷室主任』 「ん?」 観客席の後ろから小声で話し掛ける裏方の青年。 その表情は天気の所為ではないだろうが、少し暗みを帯びていた。 「どした?」 「発電機の出力が上がらないんです。ちょっと手伝ってもらえませんか?」 「おかしいな、昨日メンテした時は大丈夫だったのに‥‥予備もか?」 「ええ。それにどっかで漏電しているような気も」 「わかった。そっちは俺がやっとくから、おまえは舞台に集中しとけ」 「ですが‥‥」 「念願だったさくらさんの相手役だろうが」 「う‥‥そ、それは‥‥」 「いいから行けよ」 ゴゴゴゴゴ‥‥ 雷鳴の頻度が高くなってきた。 「?‥‥爆竹の音が‥‥気のせいか」 舞台袖に立つ意地悪姉さんの眼鏡が照明に反射する。 雷の音を聞き違えたのか? ステージに立つアイリスの姿もかなり暗くなっていた。 照明など必要としない潜在力を持つ少女も、その片鱗さえも見れない。 ‥‥そうだ、シンデレラのために、魔女を‥‥魔法‥‥知ってる‥‥ 瞳も暗い。声も低い。 舞台からさしのべる掌が、まるで闇を召喚しているようにも見える。 「‥‥気のせいやない」 次の出番まではあと数分。 紅蘭は舞台袖から駆け下りた。 ゴゴゴゴ‥‥ゴゴゴ‥‥ ゴゴ‥‥ 同じ頃。 茉莉花を探す斯波と舞姫は、花やしきの地下工場入り口前に来ていた。 ただ、到着してからその場所から先に進めない。扉横のセキュリティに個人コードを投入して も二人のそれは弾かれてしまう。以前紅蘭が茉莉花に諭したように、この工場に入り込むには ある“資格”が必要とされるらしい。 斯波も最初は結界か何かかと推測して、荒っぽい対策も嵩じたが、解決する兆しも見せない。 力では通れない仕組みのようだった。 「ふーむ‥‥どうしたものか」 「‥‥本気を出しておられぬご様子」 「ん?」 事の成り行きをじっと見守っていた舞姫が口をはさむ。 酔いはすっかり覚めている様子だった。 「今の斯波殿からはあまり真剣味を感じられませぬな‥‥茉莉花殿の行き先、ご存知 なのでは?」 「‥‥‥‥‥」 「ふむ‥‥存外、我らは余計な事をしているのかもしれぬのぅ‥‥ただ、茉莉花殿の 安全だけは保証していただかないとな」 「‥‥‥‥‥」 「どうかの?」 「無明さんが一緒じゃないのかな。今日も出際に彼女がそう‥‥」 「わらわは無明殿のことを聞いているのではないぞえ、斯波殿」 黒眼鏡に隠された斯波の瞳をじっと凝視する“すみれ似”の瞳は、すみれのそれとは違い、明 らかに退魔の巫女の力が含まれていたようだ。相手が仲間であるにも関わらず。 「貴殿があくまで知らぬ存ぜぬを貫き通すのなら、それも結構。しかし心しておくが よい。茉莉花殿に万が一のことあらば夢組はそれなりの措置を取らせて戴く故」 「それなり?」 「下手人及びこれに荷担した者、全て我らが報復粛清滅殺の対象となる、ということ じゃな。仮に相手が五師団であっても‥‥貴殿であってもの」 「おいおい‥‥」 「よもや不可能だとは思ってはおりますまいの?‥‥無論わらわは争いごとは好かぬ。 好かぬが‥‥茉莉花殿の身が危険に晒されるというなら話は別。帝撃の事情など二 の次、三の次」 「はぁ‥‥まいったな、無明さんが絡んでいるとしか言いようが‥‥」 「聞いておりませぬな」 「‥‥彼女、茉莉花さん、今日が初対面だったけどね、彼女が危険な目にあっている というのなら俺も助けるさ‥‥君が言う“万が一のこと”の前にね」 「ほー‥‥斯波殿の言葉とも思えぬ清廉ぶりよの。詩でも詠いたい気分じゃな」 初めて見る舞姫の辛辣な態度に斯波も溜息をついた。それほどあの少女を大切に思っているの だろう。いや、自分も今日初めて会うまでは、あの茉莉花という少女を理解することは出来な かったかもしれない。 あの声。あの瞳。どこにでもいそうな平凡な少女。 自分も既に取り込まれてしまったか‥‥斯波は苦笑した。 「粛清よりは和解を。滅殺よりは事無きを得るのが最善‥‥あの少女が関係するので あれば尚更」 「ぬ‥‥」 「何よりも和を尊ぶ少女。彼女の周りには常に誰かがいる。それは彼女の存在以上に 彼女の努力に拠るものだよね。それを無駄にするのはどうかと思うけど?‥‥俺は 間違っているかな?」 「‥‥‥‥‥」 「それにせっかくの新郎新婦だ。仲違いは避けたいよ」 そう言われて舞姫は自分の格好を思い起こした。ウエディングドレスを着たままだ。仮装のた めとは言え、新郎役に対しては冷たい言葉だったか? 斯波にしても、あらぬ嘘を言う人間ではない。無明妃が絶賛する人物だ。随分失礼なことを言 ったかもしれない‥‥俯き加減で困ったような表情をする斯波を見て、舞姫は少し後悔してい た。 「ふむ‥‥どうやら俺は信用されていないらしい。やはり大将を連れて‥‥それとも 大神隊長を呼ぼうか?」 「‥‥いえ」 「?」 「言い過ぎたようじゃ。わらわの想いを理解して戴きたかっただけ。わらわは‥‥い や、なんでもござらぬ」 「‥‥‥‥‥」 「数々のご無礼、許してたもれ‥‥出すぎた女子のたわ言と思し召されよ‥‥」 「いや‥‥言い分は承った。君は優しい人だからな‥‥白拍子、舞姫よ」 開かずの扉をじっと見つめ、斯波はおもむろに踵を返した。 ここにいても時間の無駄だ。ふと横を見ると舞姫がひどく暗い表情をしている。 視線が定まらないのは何を思っている所以か。茉莉花か?、それとも自分自身のことなのか? 舞姫の手をとり自分の口元に近づける斯波。シンデレラの王子役でもないだろうが、舞姫の虚 ろな視線を自らの視線に誘導する。ぽかんとするお姫様にして新婦。 「‥‥ほんとに結婚しようか?」 「‥‥へ?」 「俺の妻になれ」 「‥‥‥‥‥‥‥‥ぬがっ!?」 「君の想い人、なかなかに人気があるからな。誰とは言わないが、他の姫君に取られ てしまう可能性も否定できまい?‥‥はは、言い訳くさいな‥‥」 「な、なにを、なにを、をを‥‥お、わ、わらわは、おや、おやか、かかかか‥‥」 「考えておいてくれ‥‥茉莉花さんについては少し心当たりがある。そっちに行って みよう」 「‥‥あたふた‥‥おろおろ‥‥」 本気か冗談かは知る由もないが、斯波からの唐突なプロポーズは舞姫に相当な混乱を齎した。 言い方もダイレクトだが、意外にも舞姫はその手の申し出を受けるのが初体験だったからだ。 京都で白拍子をしていた頃には、確かに恋文の類はもらったが、それも恋の真似事に過ぎなか った。 すたすた前を歩く斯波に、おろおろしながらついていく。超鈍足も、この時ばかりは斯波の歩 行速度にぴったりと合っていた。十二単をばたばたさせながら、何かを言いたげに、でも何も 言葉にならず。 自己嫌悪の念が陰りも見えなくなった。顔がこれ以上ないくらい真赤になってしまって。 ▼ ▼ ▼ 「茉莉花殿、起きてください、そろそろ‥‥」 「くかー‥‥すぴー‥‥むにゃ‥‥くけけけけ‥‥くかー‥‥」 「‥‥熟睡してるわ」「流石はマツリカ、色気も素っ気もないナ」 すっかり陽が暮れた大陸の港町。 尤も、このホテルには港町という雰囲気よりもスラムの色が濃かった。 殊更気配に敏感な霊能の持ち主であれば、この気配に無視して熟睡するには相当の力が必要だ ったが、茉莉花にはそれすら必要ではなかったようだ。仲間たちよりも眠りに入るのは遅かっ たが、寝てしまえばいつもと変わらない。スラムの気配も微風の如し、だった。 「茉莉花殿、茉莉花殿‥‥」 「ぬひひひひ‥‥くかー‥‥あ‥‥い、いや、む、みょうひしゃん、そんな‥‥大神 さんと‥‥えっち‥‥」 「は?」 「‥‥む、むみょ‥‥で、でかい‥‥着痩せ、してたんでしゅね‥‥そんな‥‥大神 さん‥‥あ‥‥やまじゃきしゃんも‥‥ど、どして、どして‥‥そんなに、むみょ、 ひ、しゃんが、いいんでしゅかぁ‥‥ううう‥‥」 「‥‥‥‥‥」 「ものすごい夢を見てるようね」 「むむむ‥‥流石はマツリカ」 想像に難くない内容に凍り付いて声をかけられなくなった無明妃と、それを見つめるさくら似 ×2。先程のナツのレポートが明らかに影響しているようだ。ただ主人公が春香ではなく無明 妃であるのは、ナツにインプットされた初期条件故か。 「そろそろ出るが‥‥ん?‥‥まだ寝てるのか‥‥どれ、俺が背負っていくか」 と、ぐーすかへらへら爆睡する茉莉花殿を抱き起こす黒い青年。 むかっと表情に表れるのは当然春香。 「そ、そんな、起こしますから、大神さんが、そんな‥‥」 「大丈夫ですよ、若菜さん。すいませんが、彼女の荷物を」 『うぐぐ‥‥なんでですかぁ‥‥しかも、人違いのまんまでぇ‥‥』 「お‥‥そう言えば着物だった。これは背負うのは無理か」 「そ、そうですよ、だから‥‥」 茉莉花殿は黒い青年の首元に顔を埋めるような格好で抱きかかえられた。 事情も知らず、相変わらず起きる気配を見せない。 「おや‥‥意外に軽い」 『のわっ!?、そ、その娘、夢組ですよっ!?、な、なんでわたしじゃ‥‥』 「ん?‥‥無明妃さん、あなたも準備してください」 「‥‥は?‥‥あ、は、はい」 山崎に声をかけられて、ようやくフリーズから解放された無明妃が、先頭の神凪+茉莉花の後 に続く。 ホテルの外に出ると、あたりは全くの暗闇だった。 点在する家々の灯りはそれこそ星よりも暗く、路地の詳細を教えてくれることもない。 それでも青年二人はすたすたと歩いていく。少しでも離れると、その二人は闇に溶け込んでし まいそうだった。 つかず離れず、茉莉花を除く三人はあてどない闇の中を彷徨い歩いた。船が停泊しているであ ろう港は、先に経由した漁港とは違う場所にあるようだ。 並外れた方向感覚を有する三人(眠っている茉莉花は勿論除外)をして、明らかに先のルート とは違うらしいことはわかっても、方向がさっぱりわからなかった。海に向かっているのだろ うが、山を上っているような感覚にも襲われる。 人知れずマーカー用に残留思念を道すがら残しておこうとするが、それもすぐに蒸発するかの ように消える。迷子になったら終わり、という訳だ。 ナツは溜息をついた。これほどの迷宮は初めての体験だった。 「ナツ、方向音痴じゃないけど‥‥これはさっぱりわからん。マークも残せんゾ」 「夜になってから殊更に霊感が鈍くなってる気がするわ」 「‥‥仕方ありませんね。ここは我々がいるべき場所ではないようですから」 想い人の背中で眠る茉莉花。 あたりは漆黒の闇なのに、その茉莉花の姿だけは、闇夜に明るく浮かび上がっている。 「危険はないでしょう。何しろ、あのお二人がご一緒ですから」 「‥‥ご尤も」 「と、ところで‥‥わたし、微妙な立場になっているような気が‥‥」 あの青年二人には春香は春香として認識されず、真宮寺さくらの母親ということになってしま っている。さくらに似ていることがそうさせるのだろうか。それなら茉莉花にしてもナツにし ても同様だ。 春香のどこがあの青年二人をして真宮寺若菜という女性と誤解させてしまうのか? 三人ともさくらの母親とは面識が全くない。理由など想像もつかない。さくらと春香の類似点 を検証すれば、解答のヒントが出てきそうだが‥‥ 「我々が幾らあがいたところで元の鞘には戻れないでしょう。今回ばかりは運を天に 任せるしかないですね」 「そーみたいですナ」 「そ、そんなぁ‥‥いきなり人妻ですよ?、しかも未亡人扱い?‥‥こんなとこまで ついてきて、もう‥‥泣きたい」 「わははははは、不倫とは流石お姉‥‥むがっ!?」 「あ、ん、た、と、い、う、女、は‥‥あんたが無理矢理ここまで引っ張ってきたん でしょうがっ!、いったい誰の所為だと思ってるのよっ、ああんっ!?」 「むがっ、むがっ、むげげげ‥‥」 「‥‥大丈夫。わたくしたちには彼女がいる」 無明妃の視線の先には、未だ眠り続ける茉莉花の姿があった。 黒い青年の闇に抱かれて、なお暗闇を照らすように、はっきりと浮かび上がる道標。 「運を天に任せる、か‥‥違いましたね。幸運は常に我らとともにある」 ▼ 「‥‥ん?‥‥あ‥‥あれ?‥‥ここ、は‥‥??」 青空が視界を覆う。 雲ひとつない。空に落ちていきそうな錯覚に眩暈する。 茉莉花が目を覚ました場所は、あの草原だった。遠くから小川のせせらぎが聞こえてくる。 霧もすっかり晴れていて、山々の稜線がはっきりと見えた。 「?‥‥あれ?‥‥確か‥‥無明妃さんと‥‥み、みんなは‥‥」 「目、覚めた?」 「ギクッ!?」 気配もなく、いきなり声が聞こえた。 馴染みのあるその声も、前触れもなく耳に入ると驚いてしまう。 チャイナドレスではない。 ドレスには違いないが、何処か中世の貴族然とした雰囲気のクラシックドレスだった。 「こ、紅蘭、さん?」 「うん。ステージの途中で来たんよ。うちの出番もうないからな」 「ステージ‥‥」 「あんな、茉莉花はん、ナツと春香はん、見んかったか?」 「え?‥‥ええ、一緒に‥‥」 「やっぱ一緒やったんやな‥‥流石は茉莉花はん、上手く引き寄せてくれたんやね」 きょろきょろとあたりと見回す。 草原。まわりにはだれもいなかった。確かに入り口は草原だった。 船で日本に帰国するはずだったが、寝ている間にこちらが近道と見切ったのだろうか。 「あ、あれぇ?」 「どしたん?」 「あたし、中国にいたんじゃ‥‥あ、そっか、元の草原に戻れば近道だし‥‥」 「‥‥夢見てたん、ちゃう?」 「ゆ、夢?」 「目覚めて早々悪いんやけど、工場につきおうてくれへんか?」 「あれが夢‥‥はぁ‥‥え‥‥工場、ですか?」 「うちの実験室、破壊されてもうた」 「‥‥えぇっ!?」 「迂闊やった。時限式発火装置の残骸があったから事故やない。犯人はいずれ捕まえる として‥‥問題は“夢見る蛸”や」 夢見る蛸、といわれても今の寝起きの茉莉花には明確なイメージが湧かなかった。 ちょっと前に茉莉花自身が人体実験に使われたような記憶はあった。しかしその時の記憶が定 かでない。文字通り夢を見させるとか、あるいは被験者の深層心理に何らかの作用を与えるよ うな代物だろう。 「‥‥で記憶媒体が損傷しとる可能性が‥‥」 「え?、あ、すいません、もう一度‥‥」 「‥‥とにかく急ご。あまり時間をかけると‥‥かなり、まずいことに‥‥」 「は、はい‥‥?」 しかし、夢を見ていたと言われたら否定しようがないが、どこから夢だったんだろうか。 確かに草原までは無明妃と一緒だった。あれは間違いなく現実だ。 では無明妃はどこに行ったのだろう。春香は?、ナツは? 二人とも夢の産物だと言うのか? 寝ぼけ眼をこすりつつ、意地悪姉さん役のままの紅蘭に続く。 カールした長い黒髪はカツラではなく、紅蘭の自前だった。 地面を蹴る脚に追随して、バネのように背中で跳ねる。 夜来香の香りがした。 あの淡い藍色を呈した花の香りが、風に乗って茉莉花の鼻腔をくすぐる。 紅蘭の髪が舞う。そのたびに散る花の香り。 そのたびに‥‥紅蘭の後姿がぼける。 目の焦点が合わない。 茉莉花は走りながら何度も目をこすった。 松明が灯る夢の回廊を“現世”に向かって走る。 迷宮のバイパスは身体が覚えている。工場への最短距離を確実に選ぶ紅蘭と茉莉花。 ものの数分で二人は迷宮から脱出して、工場内にある紅蘭専用実験室の前に辿り着いた。 しかしいつもの通路とは景色が違う。扉が歪んでいる。それに焼け焦げた木と鉄の赤錆、それ に火薬が交じり合ったような刺激臭が充満していた。紅蘭が言ったように爆発物の影響だろう か。警報は鳴動していない。警備員も来る様子がない。 「ここ、極秘やし」 「で、でも、このままじゃ‥‥」 「もうすぐ舞台が上がるから、山崎はんと氷室はんが助っ人にくるはずや。ここいら 一帯は二人に任せたらええ。ただ、二人が来る前に残骸からタコ救出せなあかん」 「わ、わたしと紅蘭さんだけで?‥‥む、無理ですよ、こんな有様じゃ」 「あのタコな、他にだれも知らへんのよ。茉莉花はんと無明はん以外は」 「は‥‥?」 「極秘中の極秘の試作品なんよ。神凪茉莉花専用超級羅盤“ゆめかまぼろしか”のため の。絶対に回収せなあかん。だれにも知られんように」 「‥‥はい?‥‥ちょ‥‥ちょーきゅー‥‥ら?」 「零式に組み込んでるほうは心配ない。だれも触れんしな」 「???」 「とにかく、うち一人じゃ無理やさかい、分担しよ」 「は、はいぃ‥‥」 「うちは、瓦礫が崩れんよう挿し木入れるさかい、中入ってもらえるかな‥‥ちょっと 危ないけど」 作業着に着替え、深呼吸の後、瓦礫の隙間に入り込む茉莉花。 夢見る蛸の発見が目的だが、この様子では粉々になっているかもしれない。それ以前に瓦礫が いつ崩れ落ちてきても不思議ではない状態に、楽天家の茉莉花も冷や汗をかきつつ探索するし かない。 二本足で立てるスペースを見つけた。一休みし、溜息をつく。 「大丈夫か、茉莉花はん」 瓦礫越しに紅蘭の声。 「は、はい。どのへんに置いてたんですか?」 「そっからもう少し右やね。“さくらちゃんの棺”の中」 「‥‥あ、わかった」 おもむろに右の隙間に身体を滑り込ませる。気分は芋虫だった。 しばらく這っていくと、壁が見えた。行き止まりだ。見上げると隙間から天井が見える。この 上の瓦礫はそれほど堆積していないようだ。 力をいれて、思い切って立ち上がる。 ガラガラッ‥‥ズ‥‥ズーン‥‥ 「ま、茉莉花はんっ、大丈夫かっ!?」 「‥‥はあい‥‥ごほっ、ごほっ‥‥」 両手を無理なく広げられる程度には広くなった。 「ど、どないなっとるんっ!?、挿し木届いてへんのんか?」 「崩してみました」 「へ?」 「あ‥‥さくらちゃんの棺、発見」 崩れた瓦礫の一角に、西洋で遺体を埋葬する棺(吸血鬼が眠りそうな)のようなものが埃をか ぶっていた。黒塗りの木版が瓦礫の衝撃で大破している。その割れ目から中身が覗く。人肌が 見えた。 「よっしゃーっ、それやそれ」 「このお札、剥いじゃっていいんですね」 「かまへん、かまへん」 棺には何やら怪しげなお札がびっしりと貼られている。それも瓦礫の影響か、殆どが剥がれか かっていた。“釘打ち師さくらちゃんの棺”と刻まれた板が打たれてある。 「開けまーす‥‥うりゃっ!」 バリッ! 「そいやっ!」 バキッ‥‥バキキ‥‥ 「‥‥とうっ!」 棺の主が姿を見せた。 中身は全裸の“さくら”だ。勿論茉莉花はそれが本物ではないことを知っている。そしてどう いう目的で“創られ”たのかも。大神も知っているが、大神がよからぬ目的で使用しそうだっ たために、この棺に埋葬されてしまったらしい。 紅蘭、氷室、朧の三名によって(後の二人は半ば騙された感はあるが)製造された、完全人型 蒸気機械。外見は普通の人間と全く区別がつかない。腰部から生える排気管を除けば。 食事は神崎重工製特殊燃焼炭。ただし重量は200kg。 そのさくらは“眠って”いるようだ。頭に何か妖しげなヘルメットをかぶっている。左の手首 には金色の腕輪。 「はぁ、はぁ、はぁ‥‥はー‥‥きれいだなぁ‥‥さくらさん‥‥」 「どや、壊れてないか?」 「きれーです」 「ちゃう、ちゃう、腕輪とヘルメット」 「あ、そっか‥‥うーん、腕輪がちょっと傷ついてるみたいですぅ」 ぱちっ 「ビクッ!?」 突然開眼する“さくらちゃん”。 プシューッ‥‥ 腰のあたりから蒸気が出る。 「やだ、大神さんのエッチ」 「は?‥‥あ、あの‥‥ちょっと失礼」 「あ、あああん‥‥いやん‥‥そ、そこ‥‥あん‥‥」 腕輪をはずす茉莉花のタッチに感じ入る“さくらちゃん”。 「‥‥ええんか?、そんなにええんか?‥‥こんなことしたりして‥‥」 紅蘭調で作業を続行する茉莉花。 「あああん‥‥」 ヘルメットの回収を終了。 “さくら”は重量は200kgほどある。流石にこれは茉莉花には回収できそうにない。 「また来ますからね、さくらさん」 「だれとデートですか?‥‥ふーん‥‥ふーん‥‥ふーん‥‥」 行きはいい。が、帰りは辛い行程になった。 荷物がかさばり、せまい瓦礫を通過できなくなってしまった。 致し方なし。茉莉花はヘルメットを自分の頭にかぶり、腕輪も装着した。 ヘルメットから簾のように延びる八本のチューブ。そのうちの一本が腕輪からはずすことがで きず、これが瓦礫に時折ひっかかる。携帯用の充電器も装備しているらしい。茉莉花が装着す ると、その妖しげなタコのパーツは活動を再開したようだ。意味不明のライトが点滅し、瓦礫 を照らす。 「‥‥あのぅ」 「どしたん?」 「動いてますよ、これ」 「!‥‥は、早く戻って、そ、それと、で、電源おお落とさんといて」 「‥‥あの‥‥あたし、かぶっちゃってますけど‥‥平気ですよね?、ね?」 「‥‥‥‥は‥‥はやく‥‥も、戻って、な‥‥あ、あせらず、急いで、な」 「‥‥汗」 ガラ‥‥ ‥‥ゴン。 「いでっ」 ヘルメットに直撃する瓦礫。 タコの怒りを煽ったのか、意味不明のライトは点滅どころかものすごい明かりを点し始めた。 残りの命(つまりバッテリー)などお構いなしに。 茉莉花の頭に怪しげな振動が伝わってきた。腕輪を装着した手首が熱い。 ピー‥‥ピー‥‥ピ、ピ、ピピピピピピピピピピ‥‥ 「‥‥なんかぴーぴー言ってますよぅ」 「げげっ!?」 もうすぐ瓦礫のトンネルも終わる。 通路が見えた。 紅蘭の脚が見えた。 ガラ‥‥ 「!」「あかんっ!」 ドン‥‥ ズズズズズズズ‥‥ド、ドーーーーーーーーーン‥‥ ゴン‥‥ カラ‥‥ 煙が通路を覆った。瓦礫の積み木はついに崩れてしまった。 実験室を埋め尽くしていた瓦礫が通路まではみ出してきていた。 「ま‥‥まつ‥‥茉莉花、はん‥‥?」 最悪の結末。 この重量の下敷きになった‥‥どんなに運がよくとも、助かる見込みは‥‥ 紅蘭はへたりこんだ。埃まみれの眼鏡越しに見る最悪の事態に、思考が停止してしまう。 「‥‥酷いな」 「こ、これは‥‥」 声の主は斯波と舞姫だった。二人がこの禁断の場所に入ってこれた理由など、今の紅蘭にとっ ては些細な問題でしかなかった。それ以前に何の反応を返すことすらできない。 紅蘭の唇からこぼれる唯一の言葉。茉莉花という単語。舞姫はその先にある結末に恐怖した。 「ま、まさか、こ、この中に?‥‥こ、これはどういうことなのかえっ?」 「‥‥うち‥‥うち、茉莉花はん‥‥」 呆然とする三人だったが、流石に斯波はすぐに我に返った。 しかし、この瓦礫の山に埋もれているであろう被害者を救い出すのは不可能に近い。 「舞姫さん、氷室呼んできてくれ‥‥おいっ」 「な、なんとしたことじゃ‥‥わ、わらわが付いていながら‥‥」 「しっかりしろっ!、電力室にいるはずだから急いで連れてきてくれ」 「はっ!?‥‥わ、わかりもうしたっ」 鈍足は何処へやら、舞姫は駆け出した。 ウエディングドレスが視界から消えたのを見計らって、斯波は紅蘭のほうに向き直った。状況 を把握されてしまうと、紅蘭は‥‥下手をすると舞姫の宣言通り夢組の抹殺対象になってしま う。とりあえず舞姫はこの場から離脱させないとまずい。 「迂闊に手を出したら崩れるかもしれん‥‥ん?」 「‥‥‥‥‥」 「紅蘭さん?」 「‥‥ん」 「大丈夫かい?」 「‥‥はい」 振り向いた素顔、眼鏡の奥で潤む瞳は明らかに紅蘭のそれとは別物だった。 頬を飾るソバカスもない。雪のように白い肌。薄紅色の唇。それは、ぬらぬらと煌く亜熱帯の 湿原にも見えるし、夏の太陽が反射した海のようにも見えた。 髪の毛を見ると、いつの間にかカールが取れていた。長い黒髪が流れるように肩にかかる。 その先。少し大きめだったクラシックドレスも、特に胸の部分がぴっちり中身が充填されたよ うだ。形まではっきりとわかった。そして、その少女の掌には何時の間にか包帯が巻かれてあ った。 「‥‥そうだ、下の虎型、大神隊長のヤツ。あれは動くんだよな?」 「はい。整備は十分です‥‥まさか乗るおつもりですか?」 関西弁が消えていた。 「は?‥‥冗談だろ、乗るのは君だよ」 「わたしが‥‥?」 「レストアしたの、君だろ?‥‥あれを使うしかないぜ。迷ってる暇はない」 「そうでしたね。でも、今のわたしにはあの機体を動かすことなど‥‥」 「波長が合わないってのか?、君が試験運用するために調整したんじゃないのか?」 「‥‥‥‥‥」 「‥‥君‥‥李紅蘭、だよな‥‥?」 立ち上がる“紅蘭”。 意地悪姉さん役のクラシックドレスが、ひどく違和感を齎す。やはりチャイナドレスが似合い そうだ。 しかし、目を奪われるのは、大きく開かれた胸のパーツ。 どう見ても紅蘭のものではない、その谷間の影。 「もっと簡単な方法があります。上ではそろそろ公演が終わる頃でしょう」 「ああ‥‥?」 「アイリスに来てもらいましょう。彼女にプローブしてもらったほうが確実です。甲冑 を使って力技もいいでしょうけどリスクが大きいですからね」 「‥‥お説、ご尤も。君はここを動かないでくれ。自分がアイリスを迎えに行く」 「わかりました」 「すぐ戻る。くれぐれも“そこ”から動かないでくれよ」 舞姫同様、駆け出す斯波。 その後ろ姿を見送る“紅蘭”の視線は、すぐに下に落ちた。 自分が立つその足元。埃と瓦礫の破片が散らばる床に、何時の間にか、うっすらと霜が降りて いた。霜の半径は約1メートル。斯波が言う“動くな”とは、ここから出るな、という意味だ ろう。それは“紅蘭”にも理解できた。自分がどういう存在なのかを斯波なりに懸念した結果 だろう。流石は雪組隊長だった。 「あ、霜柱だ‥‥」 パリッ‥‥ 赤い靴が張り付いた霜を振り落とす。普通の霜にしか見えない、その何かを。 パリ‥‥ 何気なく。普通の霜柱を割るように。 “紅蘭”が霜の領域から出ると、その霜は見る見る黒々と変色し、そして消えた。 明らかに普通の霜ではなかったらしい。そして、霜の領域にあった瓦礫やら埃やらは一掃され て、霜が消えたあとの床は、その領域だけワックスをかけたかのように元以上の輝きを取り戻 していた。 いつ仕掛けたのかは知る由もないが、斯波の術も“紅蘭”には無意味だったらしい。どういう 効果があるのかも知る術はないが、瓦礫が消えたところを見ると、無理に出ようとすると消去 されてしまうのかもしれない。たとえそれが人間であっても。 「蛸を修理できればいいけど‥‥」 “紅蘭”はすぐに元の迷宮に足を向けた。 何のためにここに来たのか‥‥よもや茉莉花を瓦礫の中に埋もれさせるためか? 斯波と舞姫がそれぞれにアイリスと氷室を連れ立って戻って来た頃には、既に“紅蘭”の姿は なかった。瓦礫の前の壁に“茉莉花と共に実験室に行く”という張り紙だけを残して。 顔を見合わせる斯波、氷室、そして舞姫。この瓦礫の中から既に救出したとでも言うのか? あるいはそもそも被害にはあわなかったと言うのか? 「‥‥逃げられたか」 「あん?」 「“時だましの雪原”から抜けるとは‥‥やはり別人だったのか?」 「?‥‥それにしても、発電機の電力が上がらないはずだぜ。ここいらには配電装置が 集約してるしなぁ」 それにしては先程と状況が変わったようには見えない。 アイリスに探索を依頼するが、瓦礫の中に茉莉花らしい気配を見出すことはできなかった。少 なくとも茉莉花はこの中にはいない、ということだ。 「無事ということになるのかな?」 「あ、あの、斯波殿‥‥」 「ん?」 「ま、茉莉花殿はほんとに大丈夫なのかえ?、わ、わらわが傍にいて‥‥」 「心配すんなって、舞ちゃん。紅蘭が一緒なんだろ?。それに実験室に行くっつうんだ から怪我もしてないはずだぜ」 「で、でも、でも‥‥うむ、わらわは実験室とやらに行くぞえ、確認せねば‥‥」 「おーっと、悪いがそれは罷り通らずだ」 膨れっ面でずんずん歩く舞姫の前に立ちはだかる2メートルの大男。燃えるような髪形が埃だ らけの狭い通路で余計に暑苦しさを助長した。 筋肉の塊に顔面から突っ込む舞姫。 「むがっ!?、邪魔しないでたもれっ、氷室殿っ」 「本部棟地下実験室に入るためには特殊な資格が要る。大佐が特殊な鍵を施したからね。 今となっては紅蘭と藤枝杏華さんの二名だけ‥‥俺も山崎も入れん」 「うぬ‥‥茉莉花殿はどうなのじゃっ!?、入ってないではござらぬかっ!」 「‥‥鋭いな。俺も不可解だが、彼女の認証コードは大佐と同一らしくてね、ここいら のセキュリティはフリーパスだ」 「ぬぅ‥‥だいいち、今日のわらわは茉莉花殿のガードじゃぞっ!?、なーんでわらわ が茉莉花殿に会えずに‥‥‥ん?」 身長差では50センチ近くある二人。ちょうどいい位置に舞姫の頭がある。 いきり立っているようなので、その頭を撫で撫でして怒りを静めようとする氷室。 逆効果だった。 「むがーっ、わらわは子供ではござらぬっ!、もう添い寝もいらんぞねっ!」 「あはははははは、舞ちゃん、かわえー」 「仕方ない。とりあえず物証を探すとしよう。だれの仕業か知らんが、プレゼントから 何かわかるかもしれんからな」 「おおよ。全くナメた真似しくさってからに‥‥犯人はこの手でブチ殺したるぜ」 「うぎゃーっ、わらわを無視かえっ!?、このままでは納得でき‥‥」 「頼むよ、舞姫さん」 「‥‥むが」 新郎の頼みを受けて黙り込む新婦の図、だった。 再びアイリスに探索を依頼するが、主だった収穫は殆どなかった。 爆発中心と思しき地点にあった赤茶けた金属片だけ。少なくとも帝撃で使用されている金属で はない。微量の有機物が付着している。 「これだけか‥‥サンキュ、アイリス、帰っていいよ」 「大丈夫だよ」 あまり関心を示す様子もなく、アイリスは無表情のまま帰路についた。 ぽかんと見送る氷室。ステージで感じた印象が気になる。 「‥‥やはり変だな」 「何が?」 「アイリスだよ。彼女、具合でも悪いのかな‥‥影が薄いし‥‥」 「彼女は花組。おまえは雪組」 「‥‥へいへい、大神に任せとけっつうんだろ」 「そ、そしたら、わらわは夢組で、やっぱし茉莉花殿を‥‥」 「頼むよ、舞姫さん」 「‥‥うが」 「おうおう、そう言えば、舞ちゃん、隊長とよろしくやってるみたいだな」 「うが?」「ん‥‥?」 「ふはははは、俺の耳は地獄耳、花やしきの通路には隠しマイクとカメラが満載だ」 「‥‥!!!」「‥‥隠しカメラ、か」 「結婚式には俺も呼んでくれよ。でっけー花束送るぜ。山崎と一緒にな」 「あ、あれは、ごごごかいでぶ、がががががががっががっがが、がげげげ‥‥」 手を止める斯波。 何か思いついた様子で氷室を見つめる。 「‥‥ここいらにもあるのか?」 「ある。しかし角度が悪いな。映像はキツそうだが、音声は大丈夫だろ」 「‥‥あたふた‥‥おろおろ‥‥」 「時間的には?」 「過去12時間まで追跡できる。今日なら朝からだな」 「ご、ごかい、ごかいぞえ、わ、わらわらわら、は‥‥んが‥‥おろおろ‥‥」 「性能は?」 「識別音声帯域は犬の耳並み。光受信感度はふくろう並み。亡霊の息吹ですら収集でき るぜ。俺様が開発したフィルターをカマしてあるからな」 「お、おや、おやかたさまさまにには、な、な、ないみみつに‥‥ふがっ‥‥」 「知ってるのはおまえだけか?」 「いや、常駐警備員のうち、研究棟担当も知ってるな‥‥やるか?」 「速攻で回収しろ、氷室。警備員は口を塞いで拘束しとけ。回収物の解析もおまえ一人 でやれ。結果は俺だけに報告しろ。大将には言わんでいい」 「了解だ」 来たばかりですぐに氷室は引き返した。 捨て台詞も忘れずに。 「‥‥ところで式場はどうする?、媒酌人は?」 「いーから早く行け」「ご、ごごご、ごかごかごか、ごかごか‥‥んが」 サ‥‥ ゴゴゴ‥‥ ポツン‥‥ポツン‥‥ 星空が完全に暗黒となった。黒い曇天から雫が零れる。 舞台が上がったと同時に、野外特設会場に小粒の霧雨が落ちてきた。 傘は必要ないが、長い時間じっと立っていると髪が濡れてしまいそうだ。 引き際を告げる合図なのか。 「公演は終わりみたいね。さ、みんなお開きよ」 それほど降ってもいないのに、びしょ濡れのように髪が黒々と輝く。 かえでの合図を聞いてるのかいないのか、集っていた五師団の面々は会場の後片付けを開始し た。ただ人数が宴会開始の頃に比べると明らかに減少していた。無論、それは舞台が気に入ら なかったという訳では決してない。一人が抜け、また一人抜け‥‥ 事務連絡らしき様子で、耳打ちされたメンバーが音を立てずに席をはずしていたようだ。 「‥‥人が少ないわね。結構面白い舞台だったのに」 「あ、斯波さんなら急用があるとかで」 近くにいた弥生を捕まえて事情聴取を行うかえで。 藤枝かえで、という女性は五師団に総じて受けが悪いらしいが、唯一月組の音無弥生という少 女からはどういう訳か好かれている。 弥生に関しては、かえで以上に大人びて見えることもあるが、この時は茉莉花なみの年齢にし か見えなかった。尤も、かえで並みによくわからないところがあるが。 「ふーん‥‥氷室くんが席にいないというのも‥‥ん?‥‥招待客もいないわね」 「茉莉花ちゃんたちなら舞台裏か舞台袖で見てるんじゃないですか?」 「へえ‥‥わたしは出て行けって言われたけどな」 「無明妃さんが直接花組と話をつけたみたいですよ。普通の舞台だったら不可能です からね。いい勉強になったんじゃないですか?」 「‥‥‥‥‥」 「あ、かえでさん、ここわたしがやりますから中に入っててください。風邪ひいちゃ いますよ」 「‥‥ありがと」 舞台を振り向く。 もう幕は下りている。垂れ幕越しに声が聞こえるのは、大道具の整理をしているためだろう。 大神の声も聞こえた。 「‥‥ねえ、弥生」 「はい」 「片付け終わったら、わたしの部屋に来てくれない?」 「はい‥‥?」 「紹介したい女性がいるの」 「はあ」 「わたし、結構嫌われてるみたいだからね、説得力ないし‥‥せめてあなただけでも 彼女と仲良くしてほしいのよ‥‥月組に配置する予定だから」 「え‥‥初耳ですよ。うちの銀弓隊長は知ってるんですか?」 「まだ内密。でもこれは神凪くんの意向でもあるの。彼の片腕だった子だから‥‥」 「神凪隊長の‥‥あ‥‥いけない‥‥司令の?」 「彼女を癒すには特別な人でなければいけない。アイリスのように」 「‥‥怪我でもしてるんですか?‥‥わたし、お役に立てるんでしょうか?」 弥生の表情が曇る。 哀しい色が瞳に宿る様は、必要以上に年齢を幼く見せる。今目の前にいる少女は客観的に見て も十代前半だ。時折上目づかいで見上げる瞬間、一気に十年は経過したかのような色艶を醸し 出す。年齢不詳もここまでいくと見てる者に寒気を齎すかもしれない。 まわりに人気がないことを見計らって、かえでは弥生の耳元に唇を寄せた。 『あなただからお願いするのよ、春香』 『それは構いま‥‥!!!』 『あっと、いけない‥‥弥生、だったわね、今のあなたは』 『‥‥‥‥‥』 『部屋で待ってるわ‥‥や、よ、い。必ず来てね』 サ‥‥ サー‥‥ 霧雨の密度が濃厚になってきた。 特設会場から明かりが消える。 会場には誰一人残ってはいなかった。 人がいた、という気配すらも。 <後編に続く>