ゆめか、まぼろしか <後編>
<その1> 降魔戦争が終結すると帝国陸軍対降魔課は事実上解体された。米田とあやめにとって対降魔課 は哀しい記憶しか齎さないが故に、幕僚の意向にあえて反対することもなかった。 ただ、“戦争”が終結したとはどうしても思えなかった。小物ながら魑魅魍魎は相も変わらず 湧き出てくる。何かの前兆としか考えられない。 日増しに危機感を募らせていた米田は、花小路伯爵の後押しを得て対降魔部隊の後継となる部 隊の結成に着手する。それが帝国華撃団と銘々されるのは暫く後のこと。 まずは主力となる霊子甲冑を運用出来る人材、即ち現在の花組のメンバーをスカウトすべく、 その情報収集も兼ねた斥候索敵部隊が編成された。 帝撃最初の実働部隊となった月組。その初代隊長には米田腹心の部下が暫定的に充てられた。 しかし大陸で遂行していた大規模な作戦によって、月組を構成するメンバーは殆ど殉死、時を 経ずして月組は全く機能しなくなってしまう。生き残ったのは、朧という当時十歳そこそこの 少年ただひとり。 花組第一号となる人材、李紅蘭のスカウトに成功したという報告を受けるいなや、米田はすか さず月組の補充に乗り出した。しかし人材急募と言っても容易に見つかるはずもない。 風組にも人材は必要だった。後方支援用艦艇、即ち翔鯨丸も既に完成している。必要な人材は 一人二人ではない。 米田は真宮寺一馬が存命の頃に大陸で見出したという一人の少女のことを思い出した。当時は 十歳前後にしか見えなかった幼い少女だが、あの当時ですら信じられない容量の霊的波動を感 じた。恐らく朧より多少年上になっているだろうが、一体どれほど“成長”したものか。 『表舞台には出さないほうがいい』という真宮寺一馬の言葉が最後まで気にかかったが、他に 選択肢がない以上、その少女をスカウトするしかない。まずは風組、能力次第では月組、とい う腹積もりだ。表に出したくない理由は後で考えればいい。 人材不足が米田を焦らせていた。 冬の仙台。 誰から聞いたのか、駅前で米田を待つ人がいた。 さくらだった。 年齢的には十二、三歳になったのだろうか、あの幼いおかっぱの少女が想像どおりの成長ぶり だった。どこにでもいるような少女。駅前で立っていても見過ごしてしまいそうな外見だった が、逆に目を閉じていてもわかる存在感が米田を立ち止まらせた。この年齢で既に父親である 真宮寺一馬をも凌ぐであろう、その潜在的な力が。 霊子甲冑を運用する素体としては、これ以上完璧なモデルはなかった。米田は当初の目的を忘 れかけ、刹那、さくらを引き抜こうとする気持ちが頭を過ったが、流石に一馬のことを思い出 し口を噤んだ。 既にさくらの身体には破邪の力を発動させるに十分な下地が形成されていた。それを看破した 米田は、父親と同じ宿命を背負わせることに恐怖したからだ。尤も、そのさくらも数年後には 銀座に向かうことになるのだが。 真宮寺家で暫し時を過ごし、目的地に向かう。 広瀬川を横切る。 ここから海側に向かうと小さな小屋がある。村雨を見出した場所だ。その村雨は斯波と二人だ けで雪組の仕事をこなしていた。雪組は月組の発足と時を経ずして結成された訳だ。 更に先。青葉山を越え、人里離れた山奥まで歩き、その場所に辿り着く。仙台駅から悠に二時 間はかかる行程だった。 その少女はたった一人でその山小屋でひっそりと暮らしていた。 既に小屋の前で米田を待っていた様子。まるでその日に米田が迎えに来るのを予感していたか のようだった。 初めて会った頃は確かに十歳ぐらいにしか見えなかったが、それも目の錯覚だったのか? いや、本当は成人に近い年齢だったのかもしれない。事実あの時、十歳にしては大人びた仕草 をしていた気がする。しかし、この時、米田が目にした少女は、既に少女ではなかった。明ら かにあの頃のあやめを凌ぐ美と艶を誇っていたのだ。 あらためて名を問う。一馬は確か本名らしき名前を教えてくれた記憶があるが何故か思い出す ことができなかった。 名前はない、とその女性は言った。 村雨同様、自らの名を封印したその女性は、徒名で“音無弥生”と名乗るだけだった。 濡れた唇が震える度に、官能的な歌声が響き渡る。西欧の秘められた湖には旅人を誘惑する歌 姫がいるという。正しい者は湖畔へと導き、悪しき者は迷宮へと誘う。その歌声に魅了された 者は、その歌声の詞に逆らうことは出来ない。その少女の声はまさにセイレーンの言霊のよう に米田の鼓膜の奥にまで浸透した。 その後は帝撃主要メンバーであれば誰でも知っている。 最初は米田の目論見どおり風組に採用。しかし風組は帝国劇場の看板娘も兼任しなければなら ない上に、問題なのはこの少女が花組を喰いかねない魅力を持っていたこと。それは外見のみ ならず内面から滲み出る資質。女優としての素質、と言ってもいい。彼女にはそれがあった。 あやめが急遽、当時月組採用された椿とスイッチすることを提案、そして弥生は月組配属とな った。 実は当時すみれ以外のだれも動かすことが出来なかった試作霊子甲冑桜武を遠隔操作するとい う信じがたい技を見せ、急遽花組に登用するという案も浮上した。花組に配属されなかったの は、弥生自身に不可解な所が多すぎて、米田は勿論、あやめですら彼女をコントロールするこ とが出来なかったからだ。それが何に由来するのかはわからない。一馬が彼女を山奥に閉じこ めておいた理由もそこにありそうだが、今となっては何もかも不明だ。 本人の希望もあり、海軍士官学校在学中の大神を監視する、という役割を担う事になる。 弥生の経歴は仙台在住以前は全くの謎だった。それは弥生自身記憶があやふやだったと証言し たこともある。 何故、ここに至り、かえでがその弥生に向かって“春香”と名指ししたのかは、それこそ謎だ った。実際の春香は茉莉花より一つ二つ上の、しかも今や花組隊員。勿論弥生も近い年齢には 見えるが、実際のところは不明だ。  「乙女学園であなたを見た時、ほんと驚いたわ」 かえでの部屋に入れる人間は限られており、五師団の中では大神と弥生だけだ。 帝国劇場のあやめの部屋には何度か入ったことはあるが、あれとは些か毛色が違っている。あ やめの和風然とした模様とは異なり、洋風の明るい部屋だった。畳ではなく板張りの上に中東 色の敷物、その上にクッション。  「他言無用に願いませんか」 弥生の瞳に宿る光。 どう見ても夢組のそれに近い色彩を放っている。そして、ナツが見た、あの光の色にも。 流石のかえでの表情にも焦りが見えた。  「シャワー浴びてるはずだから、もうすぐ‥‥そんなに恐い目で見ないでよ」  「人間の体臭は気になりませんよ、わたし」  「彼女、仕事が終わった後は身体を清めたいらしいの。あなたもそうだったんで   しょ?、大神くんの監視をしていた頃はバンバン殺ってたみたいじゃない?」 弥生の目の色が明らかに変わったと同時に席を立つかえで。 扉の向こうに、その目的の人物がいるのか。少しためをおいて扉を開ける。 ポタ‥‥ ‥‥雨? 違う。 汗だった。  「紹介する必要はないかな。知ってるでしょ?」 扉から部屋の中へ。 滴る汗が、その行程を示す。  「二人ともわたしに似てるし、ね‥‥さ、握手、握手」  「‥‥よろしく」  「ご無沙汰してました、冬湖さん」 滴る汗は長い金髪が源流だった。 マリアのプラチナブロンドより若干暗め、神楽のそれに近い色の髪。背中まで流れ飴色に輝く 様。白いシャツも濡れていた。くっきり浮かび上がる女性の象徴は、弥生を凌ぐボリュームを 示す。帝撃No.1の可憐に肉薄する勢いだ。 冬湖は先の事件の過程で失踪した。四季龍の先導的役割を担った女性だが、主たる神凪との間 に生じた確執が二人を隔ててしまったのだ。  「四季龍と言えばあの赤い髪の人‥‥そう、秋緒さん」  「あれは四季龍崩壊の元凶だ」  「あなたのこと、気にしてましたよ?」  「‥‥あれが?、わたしを?」  「お互いに理解が足りなかったと。秋緒さん、あなたに戻って欲しいみたいですよ」  「‥‥‥‥‥」 冬湖の髪から滴る汗には、雨の匂いも混じっていた。 雨の中を駆けてきたのか? シャワーとは、雨のことなのか?  「司令はあなたを月組に配置しようとした。それはきっとあなたに仲間を与えたかっ   たのだと思うの。でも、あなたには既に盟友がいるから」  「‥‥‥‥‥」 弥生は冬湖を連れ立ってかえでの部屋から出た。かえでが何を考えているのかは知るところで はないが、自分に直接関与する事柄ではなさそうだ。今はこの冬湖の処遇のほうが重要だった。 先程までざわめいていた花やしきも、すっかり静けさを取り戻した。 既に真夜中と言っていい時刻だ。浅草の喧騒も同期したように消えている。 建物を出る。遊戯施設も眠りに入っていた。 無人となった夜の花やしきの闇に、それ以上の暗さを以って歩む二つの美影。  「修復は完了したようね」  「このあたりは被害が少なかったから。そうだ、紅蘭さんに会ってみます?」  「やめておくわ。取り乱してしまいそう」  「紅蘭さんなら神凪司令の行方をご存知かもしれませんよ?」  「‥‥もういいのよ。わたしはただの駒だから。ただの兵隊」  「司令はあなたのことを軽々と見なしていない」  「‥‥‥‥‥」  「言葉にはしていなくとも、あなたを求めているんじゃないでしょうか?」 ‥‥俺の傍にいろ‥‥ 冬湖の脳裏に鮮明に蘇る言葉。 あの瞬間、眩暈。そして身体がこわばり、ただ震えた。若き日の神凪と過ごした日々が、鮮明 な記憶として蘇った。どうしようもない悦楽と後悔と憎悪と愛情に、身体が今再び震える。 勿論抱かれたことなどない。女として見てもらった記憶もない。それで自分が自己嫌悪に陥っ たことなどない。当たり前のことなのだから‥‥ でも‥‥ 本当は‥‥  「かえでさんの言ったとおりかな。わたしたち、案外似てるかもしれませんね」 弥生の瞳が本来の輝きを放つ。ひたすら隠し通してきた破壊の光にして消滅の道標が具現化す るのか。その瞳に、かつて月影という名の破壊王が示した力を垣間見、冬湖は身震いした。 束縛の鎖から解放された大神をも圧倒した破壊神の技を。単体では最早無敵と化したあの男と 同じ力を。  「あなたの力、わたしに貸してもらえませんか、冬湖さん」  「‥‥?」  「人を探してるの。わたしの運命を変えてくれる人。たぶん、あなたも‥‥」  「わたしの知ってる人?」  「わたしの親友、そして‥‥わたしの宿敵」 弥生の瞳から混沌の光が消えた。 まるで死んだ魚の目のように。悲しみも喜びもない、感情が欠落した瞳に。  「彼女の名は、神凪茉莉花。かつて、そう呼ばれていた」  「神凪?‥‥大佐と縁でもあるの?」  「ええ。ただ、今のあの子はまだ妊娠していないけど」  「?」  ▼  「あ‥‥大神さん、彼女目覚ましたみたいですよ、もう下ろしていいですよ」  「大丈夫?」  「‥‥ふが‥‥あ‥‥えっ!?」 男性の胸に抱かれている自分をやっと認識した茉莉花。 目の前には若き神凪の顔が。暫し呆然と見つめるが、すぐに状況を把握した。  「わわわわっ、わ、わ、わた‥‥」  「下ろすよ?」  「ふぁふぁ‥‥へっぶしゅっ!」 起きぬけにクシャミを一発。 まだ少年ぽさが抜けない端正な顔に、思いっきり唾がかかる。  「おわっ!?‥‥ご、ごめ、ごめんなさいっ」  「い、いや」  「お、おい、マツリカ、鼻水が垂れてるゾ」  「ずず‥‥す、すいませぇん‥‥ずる‥‥」 目を覚ました茉莉花が見た景色は、朝靄に煙る海だった。 寝ている間にホテルから港まで経過したらしいが、茉莉花にはその間の時間がひどく長いよう な気がした。自分を抱えたまま歩いたとしたら相当の距離を、と茉莉花は恐縮して訊ねてみる が、ホテルから港までは歩いて十分もない、と言われて少しだけほっとする。ただその言葉に 眉をしかめるのは茉莉花以外の三人。彼女たちにとって、あの行程は少なく見積もっても一時 間以上、距離にして一里近くはあったような感覚なのだが‥‥。 船に乗り込み、そのまま一行は夜を過ごした。 状況が今一つ理解出来ていないナツと春香だけは、流石に熟睡という訳にはいかなかった。 慎重な春香をして、船内探索の欲求にかられたナツを留めることができなかった。この船が日 本を目指している、という保証は何処にもないのだから。 無明妃が熟睡したのを見計らって船室を出た二人だが、すぐに障害が発生した。四人の女性が 寝泊りする船室の前に二人の青年が椅子に座っていたのだ。 『眠れませんか?』という黒い青年の言葉にあたふたしつつ船室に引き返す。彼らは宣言通り 夜通し見守ってくれていたのだ。それがナツと春香を余計に神経過敏にしてしまう。 夜が明けるとすかさずナツが甲板に出ようと申し出た。船の上だから安全だろうが、とりあえ ず単独行動は避けたい。男性陣も付き添う形でペアを組むことになった訳で、黒い青年が茉莉 花、春香、ナツに同伴することになった。 無明妃は山崎と先に朝食を取る、ということで、この場所にはいない。 山崎はナツと春香にも一緒にと申し出たが、当然二人としてはこの場を離れる訳にはいかなか った。茉莉花に“独占”させるなど以ての他だ。  「これも夢なんでしょうか?」  「は?」「マツリカ、あんだけ爆睡しといて、まだ寝ぼけてるんカ?」  「夢の中で夢見るの。変?」  「何を言ってるのかさっぱり」  「でもなー‥‥あ‥‥ああーっ!」  「今度は何?」「ナツ、腹へったナ。しかも、眠い‥‥」  「タ、タコがないっ!」 頭をかかえる茉莉花。 頭に何か付けていたような仕草だ。 これが夢か、あるいは現実が夢なのか。この航海は幻なのか‥‥それとも、これまで過ごした 銀座や乙女学園、そして花やしきでの日々、全てが嘘か。 どちらも現実か? それとも、全てが夢か幻か。  「ついにボケたか‥‥さ、みんな、飯食いに行こ。ナツ、その後、寝る」  「う〜ん‥‥やっぱり夢かぁ」 一行が乗り込んだ船は大型の貨物船だった。 黒い青年の知り合いだったらしく、船長が工面してくれた部屋は客船の一等客席級で、長い航 海にも十分耐えられる装いだ。 上海から横浜港への航路には、それ程の日数は必要ない。明後日には到着するだろう。 茉莉花にとっては久しぶりの日本海だった。尤も海に出たのは北海道行きの青函航路以来だ。 津軽海峡は湾を抜けた途端に波が荒くなるため、あの時の茉莉花は船酔いの絶頂にあったが、 今回はそうでもない。これほど穏やかな海があるのか、と茉莉花は船に対する先入観をあらた めた。  「今日は静かだな。いつもはもう少し波が高いんだが」 という神凪の言葉に、思わず天を仰ぎ、神の祝福に感謝する。 それにしても、ほんとに船に乗ってよかったのだろうか?‥‥あのまま道を引き帰して、あの 丘に、あの森に戻ったほうがよかったのでは、と。 ぼけっとする茉莉花をひっぱるナツが、ふいに踵をかえした。 茉莉花のまん前に同じ顔をくっつける。  「な、なに?、キ、キスするの?」  「あほっ、あれ見てみ」  「え?」  「食堂の横だ」  「ドキッ!?」 いつのまにか黒い青年が茉莉花の横に、それこそ頬擦りせんばかりの距離に立っていた。春香 も慌てて従う。  『ドキドキ‥‥』  『おい、マツリカ、どこ見てんだ、食堂だよ』  『ぽー‥‥』  「無明妃さん?‥‥何してるのかな?」 春香も興味深々に眺める。 食堂の横、船体側壁に位置する通路からは海が望める。 そこに無明妃が立っていた。一人? 誰かと話こんでいるらしいが、相手は壁に隠れて見えなかった。  「だれと話してるのかな?」  「山崎じゃないか?」  「山崎さんなら、さっき船長室に入って行きましたよ?」  「まあ、とにかく飯食おう。俺は先に行ってますよ」  「ぽー‥‥あ‥‥わ、わたしも行きますぅ」  「わ、わたしも行くわ」  「むぅ‥‥しゃーないな、ナツも腹減ったシ」 食事を終えた四人は、必ず二人以上ペアになるという神凪の申し出に従い、船内の自由行動を 取った。茉莉花に随伴するのは神凪、という当初の申し合わせだったが、今回は春香が強引に その権利を取得した。残された茉莉花はナツと連れ立って無明妃を探すことに。 デッキの上階部分に佇む青年と“未亡人”。 時折強く吹く潮風に、服の裾(下着は着用していたものの、春香は未だに神凪のジャケットだ けを着ていた)を必死に抑えながらの船内デートとなった。女性のそういうところにはあまり 動じないはずの青年だが、どうも“若菜”という女性と錯覚しているためか、ひたすら視線を 水平線に向けたままで、かなり居心地が悪そうだった。  「お礼を言い忘れてました」  「はい?」  「路地裏で助けていただいて‥‥あの、わたし、男の人に裸見られたの、初めてだっ   たから、その‥‥」  「そんなことは‥‥ん?‥‥あ、あれ?、でも真宮寺少佐と‥‥え?」  「わ、わたし、あの‥‥」  「お話中申し訳ありません」 背後から、ぬっ、っと出現したのは無明妃。 いつもの白い出で立ちではなく、パーティに出席するために着用した玉虫色の着物がより印象 的だった。  「茉莉花殿を見かけませんでしたか?」  「そう言えば彼女たちも君を探してたよ」『ど、どうしよ、聞かれたかな?』 逆立った髪が潮風に靡く。この“時代”のこの青年は花組隊長よりも若いはずだが、雰囲気は こちらのほうが年長者に見える。先入観がそうさせるのではなく、彼が本来持っている指導者 としての気質がそうさせるのかもしれない。 暫しじっと“見つめる”無明妃。瞼を閉じたままでさえ、その瞳に描かれる風景に偽りの姿は ない。しかしその無明妃の瞳を以てしても、その青年の姿は朧げに映し出された。  「帝都には戻らないおつもりですか?」  「その件だけどね、無明妃さん、君、仲間になってくれないかな?」  「申し訳ございません。私は既に他の組織に属しております故」  「そうか。山崎も寂しがるな」  「とても傷つきやすいお人です。弟君‥‥真也様もそう‥‥」  「‥‥真也のことも知っている、か」 無明妃はすぐに立ち去った。 茉莉花の声が遠くから聞こえる。無明妃とナツ、三人の他愛もない会話が、潮風に乗ってデッ キの二人に届く。無明妃の依頼内容を深刻に受け止めているのは春香も同じだった。 春香にとって山崎という青年は夢組隊長の山崎真也であり、この旅に同行している長髪の青年 も彼に他ならないと信じていた。しかし無明妃の言い分だと、その男性には真也という名の弟 がいるようだ。つまりあの青年は、山崎真也の兄‥‥ということになる。それがどういうこと を意味しているのか。  「先程横浜で一泊すると進言しましたけど、その後のご予定は?」  「え、あ、い、いえ、全く‥‥」  「仙台に帰りましょう。私がお伴させていただきますから」  「仙台?‥‥えっ!?、ふ、二人で、ですか?」  「真宮寺家ですよ。茉莉花さんも連れて行きたいところですが、彼女はあの家にはあ   わないような気がしますから。約束を反故してしまうけど、その間は山崎に面倒を   見てもらえばいいでしょう」  「ごくん‥‥わ、わかりました」  「楽しみですね。実は私、さくらちゃんのことが気になって‥‥はは、親でもないの   に、余計なお世話ですよね」  「あ、あの‥‥わたし‥‥い、いえ、なんでも‥‥」 茉莉花とナツは手持ち無沙汰の極地にあった。 朝餉が終わったら寝るつもりだったナツだが、逆に目が覚めてしまったのだ。眠れなかったと は言え、水面に反射する朝日を浴びては流石に目がさえてしまう。それに元々二人とも部屋で じっとしていられる性格ではない。茉莉花は暇さえあれば創作活動(もしくは製作活動)に従 事しているし、ナツはナツで放浪癖があって散歩という名の徘徊を繰り返すのが常だ。しかし 今は限られた空間で、道具も何もない。 戻った無明妃を捕まえ、先程だれと話をしていたのか、と問い詰めるが、にこにこ笑ったまま 話を反らされ、それっきり。 愚にもつかない与太話で時間を潰す三人。 そのうち無明妃は、寝ているのか起きているのかわからない状態で、椅子に腰掛けたまま微動 だにしなくなった。  「工作しない?」  「ここ、船の上だろうがよぅ」  「へっへー、これこれ」 と茉莉花が見せたのは奇妙な腕輪だ。どこで見つけてきたのか?、いや、いつ装着したのか? 見たこともない金色の腕輪に、七色のチューブがぶら下がっている。 実は茉莉花自身、それをいつ装着したのか記憶が定かではなかった。夢で見たのがそのまま。 いや、それはあるまい。あれは夢だったのだ。花やしきでのパーティに参加する時に、初めか ら着けていたような気もするし。 着けている、といえば、首元には漆黒の真珠が連なっていた。 黒真珠のネックレス。それが金色の腕輪と奇妙なコントラストを描く。  「‥‥なんだ、それ」  「タコ足。ぶるんぶるん、ぶるるーん‥‥頭ないぞー」  「何処で作業するんだよ、何処でっ。材料は?、船バラすんカ?、それとも何か、タ   コ釣って、その頭でもつけるっちゅーんカ?」  「‥‥タコですいませんねぇ。この下にね、ちっちゃい工作室があるのよ。さっき見   つけたんだけどね。しかもこの船‥‥聞いて驚け、霊子力機関で動いてるんだよ。   工作室のおじさんが教えてくれたの。それでね‥‥」  『ナ、ナニ?』 茉莉花から目を離した時間は殆どなかった。いつのまに船内を探索したのか、とナツは肝を潰 していた。しかも霊子機関で駆動する貨物船などと、言えば所属がバレるような機密事項を思 わず漏らしてしまう船員?‥‥いや、茉莉花がそのように誘導したのか、あるいは言わせてし まう雰囲気を発していたのか。 茉莉花の異常とも言うべき能力に、滅多に感嘆しないナツもあらためて目を丸くする。 茉莉花によると、その船員はフランスから大陸横断しつつ中国に入ったらしく、事もあろうに 霊子甲冑の開発までやってるという爆弾発言を見ず知らずの茉莉花に漏らしてしまっていた。 この船に乗っているのは神崎重工で開発中という試作機体の視察のためらしい。  「‥‥それで、どーすんだ?」  「内緒だよ?‥‥これね、紅蘭さんが作ったの。そんでね、改良した時にわたしも手   伝ったんだけどぉ、わたしが頭を壊したから、わたしが直さないと。えとね、これ   ね、わたしが持ってる力を使って夢を見させてくれるのだ」  「‥‥‥‥‥」  「‥‥黙んないでよ。とにかくっ、修理したほうがいい気がするんだよねん。腕輪の   ほうに“記録”のバックアップがあるから、それを‥‥」  「わかった、わかった。手伝うヨ。春香サンはどーすんだ?、意外かもしれんが、あ   ん人の技術力は花やしきでも通用するからナ、連れてったほうがいいゾ?」  「うーん‥‥でも、なんか悪い気がする‥‥」  「いいのカ?、さっき大神さんと二人っきりでなんか話てたゾ?」  「!‥‥むぅ‥‥く‥‥い、いいもん、だって春香さん、花組だし」  「あら、よくわかってるじゃない」 とすぐに扉から追従する声。 それまでに増して春風のような爽やかな笑顔が満面に浮かんでいた。 思わずのけぞる茉莉花とナツ。  「わたし、日本についたら大神さんと仙台に行くことになったの。よろしくね」  「むぅ‥‥ついに押し倒したのカ?」  「お黙りっ!、大神さんが誘ってくれたのよっ、この私をっ!」  「‥‥‥‥」「仙台カァ」  「目的はよくわからないけど、二人で行くみたいだから‥‥ふふ、お生憎様」  「ナツもついていこうカ?」  「お黙りっ!、あなたは帝都で留守をよろしく頼むわっ!!」  「お、おっと‥‥ま、ここが勝負どこですかナ?」  「いいもん‥‥わたし、いいもん‥‥」 それまで石のように不動状態だった無明妃が目を覚ましたようだ。 す、っと立ち上がり、春香の前に歩み寄る。  「茉莉花殿が工作したいと申しております。手伝ってあげてもらえませんか?」 と歌声のような音色を奏でる無明妃の唇。 春香の形のいい眉が、ぴくりと動く。  「え、ええ、構いませんけど‥‥なんのこと?」  「この腕輪だゾ」 ナツ同様、知らない間に装着されている茉莉花の腕輪に見入る。  「何それ?、変わった手錠ね‥‥あなたの趣味なの?」  「むかっ」  「いやいや、これ機械らしいッスよ。これの本体が必要らしいんですナァ」  「本体ねぇ‥‥」 三人のさくらコピーは連れ立って船体下層にある作業室に向かった。 船室には無明妃だけが残る。 時代が変わっても変わらない美しさを誇示する日本人形。“それ”はまさに人形の如く、再び 椅子に腰掛けたまま微動だにしなくなった。  ▼ 夜明けの浅草は、夜半の霧雨が祟って酷く霧が濃い朝になっていた。 雷門から見た浅草寺が、靄に霞んでよく見えない。薄曇りの空を時折横切るカラスが象徴的だ った。普段であればこの時刻でも人影がちらほら動いて見えるものだったが、この日の早朝は そうではなかった。 花やしきの観覧車だけが動いていた。 傍目には動いているようには見えないが、非常にゆっくりと、30分ほどかけて一回転程度の 角速度で確実に動いていた。惰性ではなかった。 結局、銀弓と玲子は、その観覧車の中で一夜を過ごすことになってしまった。 監視が目的だった(対象は不明だが)が、何事も無し。 二人ともいつしか浅い眠りについていた。 いや、銀弓のほうは、玲子の膝枕で完全に熟睡していた。余程居心地がよかったのだろうが、 玲子は逆に銀弓の頭の重さで眠りが浅くなっていたようだ。 その玲子を目覚めさせたのは、かすかな気配のようなもの。  「‥‥ん?」 目を開ける。 膝の上に銀弓。  「いつのまに‥‥ま、いいか」 再び目を閉じる。 銀弓の頭を左手で支え、右手を頬に乗せる。  「‥‥ん?」 再び目を開けた。 俯いていた顔を上げ、風景に見入る。 薄曇の空。 暗くはないが明るくもない灰色にカラスが舞う。 観覧車が頂点に達すると見える水平線も、霧に隠れてぼやけた海が広がるだけ。 しかし、その海の向こう側に、海と空を結ぶ、もっと暗い灰色の帯びが見えた。  「‥‥台風?‥‥いや、竜巻だわ」 ゆらゆら揺れながら、玲子が竜巻と称した灰色の帯は、ゆっくりと少しずつではあるが大きく なっていた。太平洋から明らかに帝都方向に向かって接近している。 この距離にしてはっきりと目に映る。膨大な量の海水が混在した超大型トルネードだった。 暴風に水流が付加されたそれは、想像を絶する巨大な力学的エネルギーを持つことは容易に想 像できる。天まで延びる帯、その先端の雲海を引き寄せて雲の渦を形成させる程に。  「‥‥まずいわ」  「んが?」 振動が膝ごしに伝わった。  「起きて、銀弓くん」  「な、なにごと?」  「緊急事態よ。帝都全域に避難命令を‥‥」  「なんだよ、そんな大袈裟な‥‥げっ!?」 起きぬけの銀弓の目が捉えた映像は、帝都に上陸した場合の悲惨な光景を想像するに難くはな かった。シート裏に装備されていた非常用の警報を押し、銀弓と玲子はすぐに観覧車の外に出 た。回転が終わるのを待っていられる状況ではない。 観覧車のフレームを伝い、地上に降りる。 警報を発生してから約20秒ほど。 花やしき事務所のあたりに人影が見えた。常駐部隊の一人が出迎えにきたようだ。  「どうしたんですか?」 弥生だった。  「軍に出動要請を出すよう、大将に伝えてくれ。竜巻が接近してる」  「たつまき?」 後ろに立っていた冬湖が復唱した。 意外な人物に目を丸くする銀弓と玲子だったが、今は竜巻のほうが優先だ。  「朧と十六夜にも連絡してくれ。築地で合流しよう。雪組は花やしきの警備だ。ここ   は頼むぜ、玲子さん」  「わかったわ」「‥‥今回動くのは月組だけ、ということですね?」  「ああ‥‥なんだか嫌な予感がするからな。本体はここに残そう」  「銀座には?」  「大将から連絡させてくれ」 弥生はすぐに踵を返し、花やしきの中に消えていった。 同伴していた冬湖も、一瞬銀弓に奇妙な視線を投げたが、すぐに弥生の後に続いた。 あの事件以来だが美しさは相変わらずだ。四季龍として神凪に寄り添っていた頃の美しさに、 経過した時間に相応しい艶が付加されていた。 その所為か? 弥生にまでその効果が派生してしまったのだろうか、銀弓は慣れているはずの弥生の美貌が更 に顕著に見えたような気がした。  「‥‥変だな」  「冬湖さんのこと?」  「いや、弥生のほう」  「は?」  「なんか、あいつ、花組の‥‥いや、何でもない」  「どうでもいいけど、急いだほうがよくない?」  「‥‥そうだな。どうかしてるぜ、俺」 超大型トルネードが、もう肉眼ではっきりと見える位置にまで接近していた。 風が少し強くなってきている。 台風でもないのに、この遠距離の大気にまで影響を与えるとは、いよいよ危機感に囚われる。 銀弓が築地に到着した頃、米田の指示があったらしく、既に消防隊が配置され、避難誘導が始 まった時刻だった。住宅地ではないが、それでもかなりの人でごった返し、早朝にも関わらず 基幹道路は通常時刻なみに混雑していた。 人ごみを抜け、港に入る。 波が高い。台風でもないのに、何故これほど波が高くなるのか?  「自然現象ではありませんよ、あれ」 背後から声がした。朧だった。  「こっからじゃわかんね。またぞろ花組に登場願うしかねえか」  「それがまずいんですよ。辰型のエンジンが暴走してて、とても出動できる状態じゃ   ないみたいなんです。さっき李主任から連絡があって‥‥」  「‥‥弥生と十六夜は?」  「花やしきでもトラブルが発生してるんです。その対応です」  「トラブル?」  「第一工場近辺で火災が発生したらしくて。夢組と手分けして怪我人の救護にあたっ   てます。こちらには参加できませんよ」  「火災‥‥」  「氷室主任が巻込まれてしまったようで‥‥僕も本当は向こうに残りたかったんです   けど‥‥だから花やしきの警護は氷室主任抜きの雪組だけですよ」  「‥‥‥‥」 脅威の災害が接近している状況下で、何故か不幸が畳み掛けて起こっているらしい。 銀弓は何か妙な違和感を感じ始めていた。確かに焦る。しかし、何故これほど悪条件が重なっ てしまうのか。  「茉莉花ちゃん、まだ花やしきだよな?」  「いえ、確認できていませんが」  「むぅ‥‥」 ふと海に視線を戻す。海面が隆起している。  「目の錯覚か?」 その隆起がそのまま海面に伝播し、巨大な津波となって接近していた。  「‥‥やべぇぜ、高台に移るぞ、朧」  「は、はい」 まだ住民の避難は始まったばかりだった。 巨大な津波はもうそこまで接近している。10メートル以上の高波だ。 築地が丸呑みされるのが容易に想像できる。  「みんなっ、高台に避難しろっ、消防隊もだっ」 走りながら銀弓は叫んだ。 わああああああああああ‥‥ きゃあああ‥‥  「し、しう゛ぁ、何処っ!?‥‥ひっく‥‥」 悲痛な声も雑踏に消えていく。 茉莉花の髪型に似たおかっぱ少女が、怒涛の人並みの中で立ちすくんでいた。 まだ十二、三歳ぐらいに見える迷子の少女をすかさず掬い上げ、そのまま走る銀弓。  「きゃっ!?」  「ボサッとしてんなよっ、死にてぇのかっ!?」 コン 何かが落ちた。群青のお守り?‥‥いや、懐中時計だ。 それは宙に舞い、人並みに翻弄され‥‥そして、す、っと銀弓の手の中に着地した。 龍の紋様が刻印された上蓋。銀弓の指が留め金に触れる。蓋が開くと羅針が見えた。 とても時計には見えない紋様が、その針の下地に刻まれていた。 そして上蓋の中にはめ込まれたもの。 大神が持っていた銀時計と同じように、そこには写真がはめ込まれていた。 同じように三人。 ただし大神の家族ではなかった。写っていたのは三人の少女。  「‥‥お母さんはどうしたんだ、親父さんはっ!?」  「ひっく、我来日、乗船‥‥ひっく‥‥」  「ん?、中国人か?」 ゴゴゴ‥‥ 海鳴りが聞こえてきた。 悲鳴。雑踏。 それをも掻き消す、低音。 その巨大な顎が、目の前まで迫っていた。  「隊長っ、急いでっ」 50メートル先を先行する朧が叫ぶ。 もう背中まで迫っていた。  「く、くそっ‥‥お嬢ちゃん、名前はっ!?」  「李‥‥蘭‥‥」  「は?」 ゴゴゴゴ‥‥ ッッドドドド−−−−−−−−−−ンッ‥‥  「た、隊長ーーっ!」 銀弓の声が巨大な海鳴りに消えた。 胸に抱いた少女の悲鳴も。 二人を飲み込んだ津波が、朧の目には海獣の顎門そのものにしか見えなかった。 ▼ 帝都を襲った津波は意外にも一部の沿岸地域にのみ水害を齎しただけで、奇跡的にも死者は確 認されなかった。直後に襲った竜巻の進路も不幸中の幸いで、進路が非居住地域側にずれて上 陸、約100Kmほど直進した後に消滅。被害も軽微なものだった。ただ、その威力たるや凄 まじいの一言でしか表現出来ない。地面が幅100メートルあまり、深さ10メートルあまり の溝がほぼ数キロ続くという、強烈な傷跡を残すことになったのだ。 帝国議会、軍部首脳は、自然災害にしてはあまりにも不可解で不自然であったために対策に苦 慮したらしい。前駆現象がないため予知が不可能だった所為もある。 軍部は人為的な線からも調査を行ったが、材料となる要素を見出すことは出来なかった。無論 意図的に天災を発生させたことになれば問題は更に深刻化する。化学的・生物学的な残留効果 もない。実現すれば紛れもなく地上で最も清らかで強力な兵器だ。地球に害を為す“人間”の みを選択的に粛正できるのだから。 参謀格の一人でもある米田にしても頭を悩ませる以外なく、対応すらままならない状況に陥っ ていた。 銀弓が行方不明になっている事も心労の種だ。死者は出なかった。が、行方不明者が銀弓ただ 一人、というのがあまりにも不可解。朧の話では銀弓が救出しようとした少女も巻込まれたよ うだが、その少女の保護者も見つからない。 対策会議が終わり被災地に向かう。査察したところで解決策は見出せる訳でもないが。 追加の救援活動を指示し、米田は銀座に足を延ばした。紅蘭からの報告では、あの時に限って 辰型のエンジンに不調が生じたという。肝心要の時に花組が出動できなかった事で米田に対す る議会からの風当たりは更に強くなっていた。 帝撃の役割は帝都の霊的防衛だが、非常事態には当然だが救援活動も実施するし援護もする。 花組の霊子甲冑は被災前後処理にも有用だ。それが今回に限って全くの役立たずということに なってしまった。帝国華撃団の面目丸潰れ、と言っていい。 辰型は試作機体とは言え、テストを重ねて必要十分な動作保証はされていたはず。仕様を再検 討する必要があるのか?‥‥明日の軍事顧問会議では、この説明も求められている。勿論神崎 重工側の責任者も同席する。原因如何によっては、辰型の次期霊子甲冑採用は取消になるかも しれない。  「ええとこ来たな、米田はん。神崎に文句の一つも言ったってや」 銀座帝国劇場に到着した米田は、すぐに地下格納庫に足を向けた。 立ち並ぶ七色の霊子甲冑は、装甲及びエンジンのヘッド部分が外され、主要パーツの計測も既 に終了していたらしい。神凪と山崎が留守を預かっていた頃に匹敵する速度だった。勿論全て 紅蘭一人の手によるもの。  「試作機体の運用結果が反映されてへん。おまけに基盤の横に妙な箱が」  「箱?‥‥お前が見てもわからんのか?」 新型機体が手元に届くと、必ずと言っていいほど紅蘭は予備機を全解体する。それはバックア ップ用備品の不足を補うことに加え、機体の細部に至るまで仕様と合っているかの確認も兼ね てのことだが、今回の辰型量産機壱式はいつもと勝手が違った。 装甲とフレーム、それにエンジンユニットはジョイントが改善され、メンテナンスの手際が随 分と楽になっている。ただし、それ以外の電装系とメインフレームはシールされた領域が数多 くあり、特に霊子反応基盤に至っては得体の知れない金属の箱で完全に密封されており、マウ ントスリットだけが顔を覗かせているだけ。シールされた物品は仕様書すらない。  「これは‥‥シリスウス・MCスチールだ」 紅蘭の手にしたその箱の外観を一目見るなり、米田はそう断言した。 シリスウス鋼よりも黒みと光沢が強い金属の名称は、紅蘭の知識にはない。つまり極秘の新型 という事に他ならない。  「MCスチールって‥‥花やしきの技術情報部が騒いでた、あれ?」  「ああ。驚いた事にシリスウス鋼の構成元素であるはずの鉛が含まれてないんだよ」  「‥‥えっ!?」  「クロムとマグネシウムがその代替となってるようだが、わかっているのは組成を   変えた多層膜構造になっているらしい事ぐらいだ。霊子効果が格段に向上する上   に、それまでにない軽さと硬さを実現した最新装甲素材でな、製造方法は全くわ   からん。ただコンセプト自体は神凪が以前話していたものと似ているから、いず   れ氷室がなんとかしてくれるだろう。神凪から依頼されていたらしいからな」  「‥‥‥‥」  「欠点もある。粘りがないんだ。強度は桁違いに上がってるんだが、破断限界の応   力を加えると、歪んだり裂けたりせずにパキンと割れる。外部装甲の表面強化に   特化したもんだからな、当然それを支えるフレームには使えん」  「他には?」  「それだけが欠点で、あとは良いことずくめだ。酸アルカリに対する腐食耐性は完   璧。降魔の酸性体液では汚れを落とす程度にしかならん。断熱効果も高い。ただ   し低温、特に液体窒素温度辺りから金属特性が変化する事がわかってる。磁気を   帯びるらしい」  「‥‥‥‥‥‥」  「参型装甲‥‥神凪と山崎が神武を改造する際に流用した剛性の高い装甲板だが、   この技術が流用されているのは間違いねぇ。ただ氷室が個人的に開発したもんだ   からな、帝撃としてライセンスしてなかったのがイテェよ」  「‥‥なるほど。先行試作品の弐型は死守したんでっしゃろ?」  「無論だ。あれはそれこそ氷室の隠し種だからな。神崎でも知ってるのは会長と社   長だけだし、仕様書もない。仮にサンプルを入手出来たとしても、普通のシリス   ウス鋼と全く同じ構造だ。判別も出来んし、ましてや複製など不可能だ」 シリスウスMCスチール。この合金は拠点防衛用最新鋭霊子甲冑の指揮官機体に外殻装甲とし て採用されたもので、甲冑降魔の爪でも擦り傷一つ付けることは出来ない。出所はシリスウス 鋼発祥の地、米国。これを搭載する機体としては、新設されたばかりの紐育華撃団に一機だけ 現存するのみ、という殆ど眉唾もので裏付けすらない情報。組織形態の異なる日本の帝国華撃 団が詳細な情報を得る事は出来ない。  「この箱が問題なのか?」  「アクセル踏むと、この箱が余計な仕事してくれるんよ。回転数が上がり過ぎて、   エンジンもブロー寸前。それに物凄い頭痛と吐気で、運転でけへん」  「吐気‥‥」  「外したら動かへんし。なんですねん、あれ」  「まさか‥‥都市エネルギーコンバータでは‥‥」 基盤と思しき箱には“Mana Control/Boost Unit β-version”と刻印されている。 その横にある同じサイズの箱には内容を示唆する刻印もプレートもない。無数の配線と得体の 知れないチューブが接続しており、反対側からは八本のチューブが機関部と直結しているだけ で、正体は全く不明。 それも“都市エネルギーコンバータ”という米田の言葉で、紅蘭も合点がいったらしい。 詳細は不明だが、霊力を持たない人間に霊子甲冑を運用させるための秘密兵器がある、という 話を氷室経由で聞いたことがある。霊子核機関と併用することで、通常の人間であっても帝撃 花組がドライブする卯型の2倍以上、卯型改(神凪カスタム)と同等の出力を得ると言う。 更に霊力保有者がこれを運用した場合、卯型量産機体・神武壱式の5倍〜50倍という信じが たい理論値まで保証している。無論これはエンジン内壁材の破壊限界を超える上、パイロット が耐えられないため、基盤の設定でレブリミットを抑えるようにしているはずだが‥‥  「もしかして、霊子甲冑とは違うコンセプトの機体のため?」  「‥‥‥‥‥」  「スターとか言う可変甲冑の話、ハッタリやなかったん?」  「それは後回しだ。兎に角、運用出来る機体を何とかせんと‥‥神武をレストアする   しかねぇか。今後もこんなことがあったらシャレにならん」  「‥‥確かに。まともに動けるの、春香はんの天武だけやし。茉莉花はんの零式は数   にいれんほうがええでっしゃろ?」  「ああ。大神の機体はどうだ?」  「現状で7割程度。“彼”も乗れるようにするには、ちと大変」  「頼むぜ。物資が要るようなら花やしきに連絡して好きなだけ補充しろ。神崎に直接   依頼してもいい。俺が話をつけとく。山崎にも来てもらえ。卯型改はあいつの手が   相当入ってるからな」  「助かりますわ。流石に一人では身体が持ちましぇんもん」  「それと近日中に海外から荷物が届くはずだ。調整を頼む。非常に面倒な代物だが、   おめぇなら出来るだろ、紅蘭。“F3”のベースだからな。そいつの主も派遣する   から仲良くやれや」  「‥‥‥‥‥」  「もし茉莉花見つけたらな、暇そうなら適当な理由つけて零式を整備させとけ。心苦   しいが、茉莉花にも再度出撃してもらうかもしれんしな」  「‥‥はいな」 地下格納庫に再び静けさが戻った。 米田が出ていった後、紅蘭はしばらく考え事をする仕草で目の前の辰型を見つめていたが、そ のうちフロアの片隅に設置されているプレハブの中に消えていった。 同じ頃の浅草。 例の花やしき地下実験室は、事故の傷跡がまだ癒えていない状態のまま。紅蘭と茉莉花を巻込 んだ爆発の直後、その近隣に位置していた他の実験室から火の手が上がったらしく、地下通路 は瓦礫の山。実況見分の前に人が通れるようにするのが先という状態だった。 紅蘭の実験室周りは強固な壁で覆われ、その部屋を調査していた斯波と舞姫は危うく難を逃れ た。しかし同フロアの監視ルームで作業していた氷室が巻込まれてしまった。斯波が駆けつけ た時に見たのは、証拠品を回収するために瓦礫を漁る血達磨の大男の姿だった。  「その程度で済んでよかったな」  「犯人はぜってーブッ殺すっ!」  「一応耳に入れとく。沿岸地域で水害が発生してな」  「くそが‥‥ん?」  「銀弓が巻込まれた。行方不明だ」  「なにっ!?‥‥っ」 調査を終えて、記録を収めたメディアを手にし、部屋を出た直後に爆発事故が起きたらしい。 身体は丈夫なほうだが、流石に無事という訳にはいかなかった。包帯まみれの姿で保健治療室 に封じ込まれる羽目に至った。 しばらく眠っていた氷室だったが、痛みで目が覚めたらしい。  「そうだ、手に入れたネタなんだが、事故で使えなくなってしまった。すまねぇ」  「仕方ないさ。どうだった?」  「音声だけだったが、なかなか興味深い履歴が残っていた。女の声も混じってる」  「聞き覚えはあるか?」  「ない。癖も抑揚もない話し方だった。復元を朧に頼んである。断片的だが再生出来   るだろう。後は俺様特性デコーダを介して特定の波長帯を弄れば出来上がりだ。か   なり主観要素が入る復元作業だがね」  「目星がついてる、という訳か?」  「まあな。こっちこいよ、隊長」 包帯まみれの氷室が、斯波に耳打ちする。 壁の向こう、カウンセリングルームには、舞姫と専属医の春菜医師がいる。  「実行犯とどういう繋がりがあるのかは知らんが、気ぃつけろよ」  「‥‥俺と村雨で何とかする。お前には護衛をつけよう」  「ありがたいね。俺も口塞がれる可能性あるしな」 舞姫に言伝を頼み、春菜医師としばらく話しこむ斯波。 まだ三十代半ばと思しき春奈の首元に、その年齢に相応しからぬ数珠のような首飾りがかけら れていた。世話になっている、という斯波のプレゼントらしい。 すぐに可憐が見舞いにきた。それを待っていたかのように、斯波は可憐と一言二言話し込み、 保健室を出ていった。  「おっす」  「わりぃな。あてにしてるぜ、可憐さん」 可憐は氷室が遭遇した“事故”について詳細を糺そうとはしなかった。 氷室自身の口から言わない以上、余計な詮索は無意味だ。  「あのさ‥‥大佐のこと、何かわかった?」  「だめだ。あちこちから裏情報を得てるんだが、サッパリ。ここだけの話にしてほし   いんだが、賢人機関にも探りをいれてみた」  「大胆ね」  「結果は限りなく空振りに近い。横須賀で似たような風体の男性が確認されているよ   うだが、裏付けがない。それと‥‥遠いな、フランスだ」  「フランス?」  「これも確証がない。賢人機関の欧州諜報部員が送って来た情報をハッキングしたん   だが、対象が司令本人とは思えないんだよ。その、雰囲気というか‥‥」  「‥‥‥‥‥」  「後は銀弓の報告待ちだな‥‥あっ!」  「なに?」  「銀弓で思い出した。あいつ、行方不明になったらしいぞ」  「えっ!?」  「東部沿岸を竜巻が襲ったでしょ?、あれに巻き込まれたのよ」 声の主は病室の扉。 玲子だった。 浅灼けた肌に心なしか疲労の色が見える。 花やしきの事件がなければ自分も同伴したはずだ。爆発物処理の後、玲子は行方不明になった 銀弓の調査を単独で行っていたらしい。  「いくら銀弓くんでも‥‥」  「一緒にいた少女というのが気になるのよね」  「少女?」  「朧くんの話だと、あいつ、迷子の娘を助けようとしたらしいの。でもそこから先が   わからない。足取りが全く残ってないから」  「‥‥玲子さん、氷室くんのこと、お願い。夜には戻る」  「お、おい、可憐さん‥‥」「‥‥‥‥‥」 可憐はすぐに病室を後にした。 一年前の事件から可憐の銀弓に対する接し方に若干の変化が感じ取れるのだが、それは当時ペ アを組んでいた、というだけの理由からではないだろう。銀弓の表向きの軽薄さは勿論うわべ に過ぎないことは、一緒に仕事をした者ならだれでも理解できるはずだ。銀弓の“熱さ”は時 に氷室をも凌いだからだ。  「可憐さんほどの女性が‥‥ちっ、銀弓の野郎、戻ったらヤキ入れてやんぜ」  「あんたの不幸はわたしとペアだったってことね」  「は?」  「もうおしゃべりはお終い。怪我人は大人しく寝てな」  「‥‥なんかあったら起こせよな」 氷室は目を閉じると、再び深い眠りに入った。 薬が効いているのか、それとも安心できる仲間が傍にいるためか、そのまま陽が落ちるまで氷 室は目覚めることがなかった。 勿論玲子はその場を一瞬たりとも動くことはなかった。 かえでが見舞いに来た時も。 かえでが、代わりに看病する、と申し出た時ですらも。 <その1終わり>