<その3> 茉莉花が帝国劇場に到着してから4時間あまりが過ぎようとしていた。 帝国劇場で開演されていた夜の舞台も、既に余韻すら残っていない。 熱気が冷めたステージ。人々の気配が消えた観客席。 ロビーにも人の気配はない。売店もとっくに閉店。 人の気配が薄れた帝国劇場に、二ヶ所だけ人気が確認できる場所があった。 一つは地下格納庫。ここには三人いた。 もう一つは囁き声の発生元。二階サロン。 先程まで地下にいたシスターは、サロンで待機する花組の面々に紹介された後、そのままサロ ンで大神の帰還を待つことになった。地下にいても暇を持て余すだろうから舞台の終えた花組 に後をよろしく、ということだ。 大神から何か指示があるらしいことは舞台が始まる前に聞いていた。公演時間中に劇場を留守 にしモギリを紅蘭に依頼するなど滅多にないことだったから、何か余程切羽詰まった状況が発 生したのかもしれない。 尤も、その大神が何処へ行くかは誰も聞いてはいなかった。春香を迎えに乙女学園に来た、と 茉莉花から聞いても、その後のことは全くわからない。春香も既に花組の一員(連帯行動を取 ったことはまだないが)だし、彼女を迎えに行ったということは彼女自身がキーとなるような 作戦形態が発生するのかもしれない。 憶測する要素は多々あったが、いずれにしても大神の帰還待ちだった。 ただ、この赤いシスターの存在だけが今一つよくわからない。 紅蘭から“フランスからの派遣”と紹介されただけだ。詳細も大神を待ってのことらしい。 「また北海道に遠征するとか言うんじゃねえだろうなぁ」 「もうちょっと我慢して。そろそろ戻るはずだから」 「隊長の行き先、知ってんのか?、マリア」 「さっき連絡があったの。わたしの部屋の通信機に。発信源は上野だから‥‥」 「む?‥‥聞き捨てなりませんわね。何故マリアさんにだけ連絡するんですの?」 「よくわからないけど‥‥わたし、まだ副司令みたいなのよ」 「?‥‥アリアさん、免除されたんじゃありませんの?」 マリアは一年ほど前に勃発した“事変”に先立ち、当時不在だった副司令職に任命された。 米田の後を継いで着任した新司令長官を補佐するためでもあったが、事件の一応の解決を経て マリアは副司令職を免除されることになった。 その時現れた一人の女性。 帝国陸軍の特殊工作部隊に所属しており、それまでの経歴や情報などは一切極秘扱い。身元す ら不明だったが、それは米田にとっては全く必要なかった。 最も信頼し、最も大事だった教え子と、その女性は全く同じ顔をしていたからだ。 血の繋がらない妹の存在は知っていた。一年前の事変では、その義理の妹の力によって世界が 救われた。その彼女も司令の神凪同様、事件が解決すると行方不明になってしまう。あの事変 の際に加わった重要人物は、現在殆ど姿を眩ましているというのも不可解ではあるが‥‥ まさか本当の妹がいるとは夢にも思わなかった。ましてや陸軍に在籍していたなどと、大将た る米田の耳にも届いていない。些か胡散臭さを感じてはいたものの、その顔を見ると不信感も ふっとんでしまった。 仕草も言葉づかいも勿論違う。だが隠しきれない共通の雰囲気が彼女にはあった。 藤枝かえで、と名乗る女性は、紛れもなくあやめの妹だったのだ。 米田はかえでの帝撃副司令着任に戸惑いを感じつつも容認せざるを得なかった。陸軍の総意で もあったし、マリアへの負担を回避する必要もあった。何より、かえでの管理職としての能力 はあやめのそれに匹敵する上、霊的能力に至っては全盛期のあやめをも凌駕している。これ以 上適当な人材は何処を探してもいないだろう。 司令長官が不在という状況下で、当面はかえでが副司令として帝撃を牽引する、ということに なった。顔はあやめと同じだが、年齢は大神と同じ。階級は少尉。故に臨戦態勢時には大神が 司令代行として統括命令を下し、かえでが各部隊に指示を出す、という体勢に落ち着いた。 「かえでさんはどうなるんだろ‥‥」 「あら、結構じゃありませんこと?‥‥あやめさんと同じ顔でも中身が別物ですもの。 タチバナ副司令が復職されるのは喜ばしいことですわ」 心配そうなさくらと投げやりなすみれ。 何処か違和感のある霊的波動を纏うかえでに対し、花組のさくらと月組の弥生だけは何ら懐疑 を持つことなく受け入れた。露骨に嫌悪感を示したのは紅蘭とすみれ。全く相手にしないのが 夢組一同で、上層部とは異なり部下からの信頼を得ているとは言い難かった。 それがマリアの再登場を促すことに繋がったのだろうか? 「それも隊長からさっき聞かされてね。かえでさんと二人で、ってことになってるら しいのよ。辞退したんだけど隊長の一存では受理できないって‥‥」 舞台がはねた後の脱力感とは違う、何か芯の抜けた状態。 今の花組からは覇気が感じられなかった。 個性の強い人材は、その波長を強めあうこともあれば相殺してしまう場合もある。 大戦以前の花組はまさに後者であり、そのために大神が隊長として赴任してきた。大戦以降は いわば残留効果か学習効果が働いていたのか、大神がいなくとも花組はお互いの利点を強化し あい、欠点をフォローしあうというスタイルが自然と身についていた。それは普段の生活であ っても同様だ。 今は違う。 逆にモチベーションを見出すのに苦労するばかりで、テンションも下がり気味だ。アイリスの 不調もそれを助長している。現に彼女はこのサロンにはいない。舞台があがると早々に部屋に 引きこもってしまったのだ。 心がすっぽり抜けてしまったような症状を示したのは、ごく最近。心配したさくらとカンナが 春菜医師の精神鑑定を受けさせてはみたものの、特段異常は見られず、単なるストレスと診断 されただけ。春菜医師自身も不審に思うところがあったらしくアイリスを花やしきに置くこと を勧めたが、かえでの指示もあり、とりあえず銀座で様子を見る、ということに落ち着いた。 確かに普通の生活は送れる。舞台もこなしている。ただ、さくらの目には、アイリスが人形に なってしまったかのように思えて仕方なかった。時折訪れる茉莉花も、どういう訳かアイリス のことを聞いてくる。茉莉花が言う『アイリスさんはお元気ですか』という台詞が妙に気にな る。まるで何処か遠い場所に行ってしまって便りを待つ者の言葉のようにも聞こえたからだ。 「あにょー‥‥」 「ん?」 「わたし、歌いますね」 「は?」「‥‥え?」 唐突に申し出る赤いシスター。サロンの入り口に移動した後、アカペラの上演となった。 胸に左手をあて、右手は花組のために。迷った視線をその輝く掌に導き、道標を示す。 赤い聖母の唇が震えた。 心に染みる歌声だった。さくらの声とは全く違うし、マリアの歌い方ともかけ離れている。花 組のだれにも似ていない、聖職者の聖なる声。乾いた心を潤し、澱んだ空気を清める。花組の 女性陣はいつしかその歌声にじっと耳を傾けていた。 数分か、それとも数時間か。 時間の経過を感じさせない調和の時が過ぎていった。 「爽やかな森の精霊を演出してみました」 「‥‥‥‥‥」「‥‥‥‥‥」「‥‥‥‥‥」「‥‥‥‥‥」 「みなさん、あんまし元気がなかったので‥‥下手っぴでごめんなさいっ」 「‥‥素晴らしいわ」 暫し呆然とする花組を代表して、マリアが拍手で応えた。 満面の笑みはその名に相応しい聖母のものだったに違いない。シスターもマリアの笑顔を見て 赤面して俯いてしまったほどだ。 「アイリスにも聞かせてあげたかった」 「ど、どーもぉ」 「ほんと、たいしたもんだぜ。フランスでも歌ってたんだっけ?」 「へいっ」 「すごい‥‥わたし、感動しました‥‥」 「な、なんのこれしき‥‥たはは‥‥」 「ま、まあ、よろしいんじゃなくて?‥‥えーと、シスター、お名前はなんと‥‥」 「おいおい、さっき言ったじゃねーか。えーと‥‥あ、あれ?」 「シスターでいいですよー、わたしのことは」 そうこうしているうちに大神が帰還したらしい。 会話を停止し、サロンの入り口方向、シスターの背後に視線を移す。 音はしなくとも大神の気配だけは察知できるようで、赤いシスターは心底驚いてしまった。 あわてて元の居場所に戻る。殆ど同時に扉は開いた。 「ただいま‥‥ん?‥‥どしたの?」 「大尉をお待ちしてましたのよ」 「あ、そうだったね。ちょっと待ってね」 疲れた表情だった。 顔色は決して悪くはないものの、精を吸われたような感じ。 棚に移動し、茶道具を出す。 緑茶を煎れる湯気が大神のまわりに滞在し、まるで蜃気楼のようにその姿をぼやけさせる。 同じように茶を煎れる人が以前ここにはいた。しかし仕草はまるで違う。 ゆっくりと飲み干すと、大神は空いているソファに浅く腰掛けた。 一連の動作をじっと見つめる花組。 同じように見つめながら、驚愕の表情を隠しきれない女性。赤いシスターは大神の姿に目が釘 付けとなっていた。 「隊長、お話の前に紹介していただきたい女性が‥‥」 「ん?」 そこで大神は初めて気がついた。“初対面”の女性が自分の真横に座っていることを。 口をあんぐりと開けたまま、自分を見つめる赤いドレスの女性。ドレスというよりも修道者が 着用するような服だった。 そのうちシスターは目を潤ませ‥‥ 「大神さぁんっ!」 と、大神に縋り付いて泣き出し始めた。 面食らう大神が素性を問い質すこと自体、その女性にとってはショックだったらしい。 「わたしを忘れたんですか?、結婚しようって言ったのは嘘だったんですかっ!?」 ということが背景にあるらしい。 「なにィーっ!?」「なんですってっ!?」「ば、ばば‥‥」「そ、そんな‥‥」 「ちょ、ちょっと、待って、は、話が見えないんですけど」 「フランスにいた時、わたしを妻にしてくれるって約束したじゃないですかぁ」 「フランス‥‥あ!‥‥もしかして巴里歌劇団の方では?」 「ぐしゅっ‥‥そんな、他人行儀な‥‥」 「私は大神一郎です。あなたの“大神さん”の弟です」 「え‥‥えーーーっ!?」 「は、はははは、び、びっくりしたな、もう‥‥随分早い到着でしたね、それも兄が 結婚の約束をした女性だったとは驚き‥‥はっ!?」 そこまで言って大神はひきつった。 マリアとさくらのこめかみに血管が浮いている。二人ともそのテのお言葉はまだ戴いていない らしい。銀座に赴任する以前の神凪の女性関係など知る由もない。ただ五師団の女性軍の反応 は知っていたし、女性側からアクションをかけられるようなタイプであったことも事実だ。 恐らく、このシスターが神凪から半ば強引にそういう言葉を導き出したのであろう。 「えーっと‥‥ほ、ほんとに結婚するって言ったんでしょうか、シスター?」 と、さくら。 「ほんとですっ、わたしに子供を産んで欲しいと‥‥そうですよねっ、大神さん!」 「い、いや、お、俺に聞かれても‥‥」 「せ、正確に思い出して貰えるかしら?」 と、マリア。 「う‥‥近似的にはそういう意味だったんですっ‥‥そうですよねっ、大神さん!」 「あ、あの、俺に聞かれても‥‥ま、まぁ、いいじゃないか、そんなことは‥‥」 「いいわけありませんっ!」「そーゆー訳にはいかないんですっ!」 「そ、そうだよね、全くけしからんな、司令は‥‥‥‥な、なんで俺が‥‥」 「ちなみに弟様‥‥えと、大神一郎様は、こちらでどのようなお仕事を?」 「え?‥‥普段はモギリですけど‥‥」 「素晴らしい仕事ですっ!‥‥あの、一郎ちゃんと呼んでもいいですか?」 「は?」 「だって大神さんはわたしの旦那様になる人ですし、その弟様を大神さんと呼ぶのは どーかと。ね、いいですよね?、一郎ちゃんで」 「い、いいかも‥‥」 「そーはいきませんっっ!!!」 唖然とする花組だったが、流石にマリアが我に返った。 「シスター、あなたはゲストでこちらに来ていただいているのですよっ!、それを隊 長に向かって、一郎ちゃん、などと‥‥一郎ちゃんなどと‥‥くっ‥‥」 「そ、そだね、マ、マリアの言うとおりだね、あのね、兄は、こちらでは“神凪”と 名乗ってたんですよ。神凪龍一。そのほうがみんなにも通じるし、ね?」 「それはできませんっ!、わたしにとって大神さんは大神さんなんですっ!‥‥ああ、 名前で呼べばいいのか‥‥そだそだ、そーしよ。オッケー、オッケー、弟様は大神 さんって呼ばせてもらいます」 「ぴくっ」 今度はさくらが我に返った。 名前で呼ぶことを本人から認められたのは自分だ。流石に我慢できない。 とは言うものの、ここで自分がそれを公表するのは憚りがあった。あれは二人だけの秘密でも あった訳だし、神凪との関係をここで暴露することにもなりかねない。 さくらは頭をかかえて唸った。 一段落?したのを見計らって大神は改めて状況の説明に入った。 赤いシスターはフランスで展開する首都防衛師団“巴里華撃団”に所属している。同師団は神 凪が銀座に赴任する以前に、大陸で進めていた霊的首都防衛の一環としてフランスに設置され たもので、帝撃の海外支部のような支援活動ではなく防衛戦術を含む霊的作戦行動を単独で実 施できる部隊‥‥簡単に言うと帝撃花組のフランス版ということらしかった。彼女はここで言 えばアイリスの役割を担い、またポジション的にはマリアの位置を占めていた、とのこと。 後方支援的な存在だが、エースパイロットを標榜することからも他に何か特殊な位置付けにあ ったのかもしれない。 巴里の首都防衛機能がほぼ完成に近づいたため、彼女は修業の一環ということで海外に派遣さ れることになった。大戦終了時、大神にそういう話があったのと同じ。そこで彼女はかつてか らの希望でもあった日本に渡った。暫くは教会のシスターとして待機していたが、アイリスの 不調という申告を受けて、米田が銀座への派遣に踏み切った‥‥という次第らしい。 地下格納庫には既に彼女の専用機体が到着し、調整段階に入っている。早ければ明日にも試験 運用が可能になるだろう。 「アイリスを逆にフランスに派遣しようと思うんだ。彼女の今の状態はここでは改善 されない。邪魔が入らないよう向こうで治療する」 「邪魔?‥‥それに治療って、アイリスは‥‥」 さくらの脳裏に茉莉花が抱いていた不安が伝染してしまったらしい。 「そんなに悪いのか?」「‥‥‥‥」「確かに様子がおかしいですけど‥‥」 「心配しなくていい。俺も一緒に行くから」 さりげなく言う大神。 「それなら安心ですわね‥‥って、大尉が一緒にっ!?」 「そ、それはいったい‥‥隊長までいなくなってしまったら、花組は‥‥」 「近いうちに新隊長が赴任するからね、仲良くやってくれよ。シスターがアイリスの 代わりを勤めるし、山崎を再度花組兼務にした。彼には悪いけど雑用も任せられる し、戦力は今よりも確実に強化されるはずだ」 「新隊長って‥‥そんなあっさり‥‥」 「納得できませんわ。理解できませんわ。何故大尉が‥‥わたくしっ、何処の馬の骨 とも知らない人間を新隊長になど認めませんわよっ!」 あまりに突然の申し出に面食らう花組。 普段クールなマリアとすみれですら目に見えて動揺しているのがわかる。 「急ですまない。今はアイリスの傍にいたいんだ。出発は1ヶ月後。マリアを副司令 に復帰させたのはそれが理由でもあるんだ。それと、かえでさんと二人で、って事 になってるけど、帝撃五師団はマリアの管轄になる。信頼と実績だね‥‥かえでさ んが何か指示を出したとしても、マリアの指令が優先される」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「本当にすまない。みんなを頼む、マリア」 「すいません、まだわたしにはよく‥‥考えさせてください‥‥」 花組にとってはあまりに急な話だった。何がなんだかわからないうちに何かが進められようと している。ただ、それも大戦終了後に大神が自らの昇進を断ってまで花組に残留したことを考 えると、今回大神が動くということは相当重要な意味を持つであろうこともマリアには何とな く理解できた。無論アイリスの件はそれにも増して大事なことだろう。大神に選択肢はなかっ たのだ。それを考えるとマリアの心は酷く鬱になっていった。 「もっと重要な案件もある。春香くんだ。彼女には別件の任務を命じてある。それと 夢組の茉莉花くんも。二人の任務は全てに優先する。たとえ特級指令が発動された としても、この二名と関係者は除外される。だからこの1ヶ月、彼女たちのために 帝撃は稼働することになるな。配慮をよろしく頼む」 「‥‥人材がそれほど動く理由をお聞かせ願いますか、隊長」 「このミッションの主幹は紅蘭と夢組の無明妃さんだ。近いうちに説明がある。ただ し帝国華撃団に課せられた公式任務ではない。帝撃五師団以外の人間に情報を漏洩 する事のないように。米田大将及び藤枝副司令も例外ではない。隊長連が全責任を 負うから心配しなくていい」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「あ、さくらくん」 「は、はい」 「明日、部屋の掃除手伝ってくれないかな?、山崎は格納庫で寝泊まりするって言っ てるけど、それじゃ身体壊しちまうからね。宿直室を彼に使わせて、茉莉花くんを 俺の隣に。あやめさんの部屋‥‥かえでさん、殆ど使ってないし。杏華さんの荷物 が少しあるけど、押し入れにしまっておけば彼女が戻ってきた時も大丈夫だろう」 「杏華、さん‥‥信じてるんですね、大神さん‥‥」 「勿論」 大神が席を立った。 「‥‥以上だ。最後に本日づけで新たに帝撃の仲間になった隊員を紹介する。いいよ、 入ってきて」 大神が合図すると、それまで気配すらなかったサロンの外側から足音が聞こえた。 二人いた。 最初に入ってきたのは、雪組隊長。黒眼鏡の奥にどんな瞳が隠されているのか興味があるが、 それ以上に今は花組のこれからの不安?のほうが大きい。神凪と何処か共通する雰囲気に気づ くこともなかった。 「久しぶりだね、斯波の旦那」 「こんばんは。今夜の自分は単なる護衛でね。本命はこちら」 斯波の後ろから姿を現したのは、見覚えのある少女だった。 春香、茉莉花と“さくら似三人娘”を成す片割れ。 「ナツ、帝国華撃団・風組に任命されましたんです。まだまだ小娘ですけど、よろし くお願いします」 「彼女はまだ若いが、有望な人材であるのはみんなも知ってると思う。実戦では期待 に応えてくれるはずだ。それと空席だった隊長職にはかすみくんが充てられる。彼 女ならみんなのこともわかってくれると思うしね」 「賛成‥‥」「‥‥‥‥」「かすみさんなら‥‥」「はい‥‥」 花組の意気消沈ぶりはシスターの歌を聞く以前に戻ってしまった。 司令長官が消え、今度は最も信頼する隊長がいなくなってしまう。 決定的だった。二人きりならすぐにでもすがりついて『行かないで』と叫びたい。それができ ないほど大人になってしまったのだろうか。冷静を装うカンナとマリアに至って尚、先のこと を考えると憂鬱になってしまう。 『まいったな‥‥』 劇場到着時には既に疲労困憊状態の大神だったが、この状態は更に堪えた。 淡々と話したつもりが、それが逆効果だったのだろうか。ただ今までの花組は大神に頼りきり という感が否めず、それが先の事変でも多大に影響を与えたのも事実だ。成長が止まったので はなく、主体性が薄れていくのが問題だった。シスターの投入がそんな花組を活性化してくれ ればいいのだが‥‥ 「自分の役割を忘れないで欲しいものだな」 自分のことは自分で処理するがモットーの斯波も、流石に見かねたのだろうか。 「あ‥‥なんか情けねぇとこ見せちまって‥‥」 カンナだけはなんとか自分を取り戻せたようだが、それでも動揺を隠しきれるまでには至らな い。当然と言えば当然だった。家を支える大黒柱が消えるという事実を受け止めるほど、彼女 達は強くはなかった。顔を見合わせ、困った顔の大神に苦笑する斯波。 「気持ちはわからんでもない。ただ緊張感は無くさんでくれよ。花組が崩れたら全て が終わる。君らは主力なんだからな」 「そ、そうね‥‥隊長がいないからって無様な真似は‥‥う‥‥」 思わず顔を手で覆う。 信じられない光景だった。 両手で顔を覆い嗚咽する姿など、最も縁遠いマリアが演じてしまったのだ。 不安が一気に込み上げてくる。もう頼る人もいない。真っ暗闇を自分が先頭で突き進む恐怖。 強くなったと思っていたのに、それは錯覚だったのだ。あまりの弱さに自己嫌悪、余計に涙が 止まらない。 「すいません。ごめんなさい。す、すぐに収まりますから、すぐに‥‥」 「マリア‥‥」 「俺らは退散したほうがいいな」 「は、はい‥‥そんでは、失礼しまス」 じっと事の成り行きを見つめていた赤いシスターも、今一度歌を歌う気分にはなれなかった。 ただ祈るしかない。いつも茉莉花に説教するように。 孤独との戦いは今に始まったことではない。シスターのみならず、ここに集う全ての仲間たち は孤独から立ち上がって、ここに集まってきた。 今が辛い状態なら、これ以上苦しくなることはないはずだ。 唇から零れる祈りの言霊は、シスターの意志とは裏腹にいつしか歌声となって嘆きのサロンを 鎮魂していくのだ。 地下格納庫の雰囲気はサロンとは対照的だった。 プレハブに記載されたメンバー<神凪・山崎・藤枝>の三名が従事していた頃の活気が蘇る。 その中で残っているのは山崎だけだが、かろうじて戦力になりつつある茉莉花を加え、当時の 生産パワーが復活しつつあるかのようだ。 カタパルトデッキにマウントされていた零式、コンテナから出されたシスターの機体はほどな くそのプレハブ内部に移動、そしてその中では一機だけが二人の同胞を待っていたかのように 鎮座していた。大神の機体だった。 紅蘭が調整する白い機体は、外装こそ傷だらけのままだったが、駆動系を含む内装は殆どレス トアされ、すぐにでも発進できそうな気配だ。遅くとも明後日には残る花組の神武改が到着す るはず。それまでにこの機体は完成させておかなければならない。 鬼のような速度で仕上げにかかる紅蘭の横で、あたふたしながらも黒い鬼神と赤い天使を往復 するのは茉莉花。シスターの機体は山崎が主幹となってメンテナンスするものの、茉莉花の手 を加えることに意味があるらしく、山崎はかなりきめ細かい指示を彼女に与えた。 “ジャンヌ・オブ・アーク”の霊子反応基盤とフレームとの整合性、及びその検証。それを終 えたら零式に移動、零式の反応系を同様に変更、検証する。そして赤い天使に戻り、操作系と フレームとの応答性能を改善、再び零式に戻り同じことをする。 つまり茉莉花はジャンヌ・オブ・アークに施したチューンをそのまま零式にも適用する、とい うメンテ方法を取っていた訳だ。勿論山崎や紅蘭が指示した訳ではない。茉莉花の乏しいエン ジニアとしての技術力を活用するためには、優れた指導者が与えた課題をクリアし、そのクリ アした内容を自らの愛機に応用するしかないのだ。ある意味、それは見事に功を奏したとも言 える。 「大神さん、来月にも海外へ渡るんですよね?、この機体も搬送するんですか?」 「ううん。これ、実は大神はんのためやないねん。大神はんにも使えて、尚且つ違う 人にもハンドリングできるように。せやから苦労しとるんやけどな」 「‥‥なるほど」 「そっちはどう?」 「明日にでも終わりそうです。まあ、もともと司令が造ったものですから軽めの調整 だけで済むんですけどね」 「流石やね。ほんま助かったで、山崎はん。零式のほうもフォローしてあげてな」 「‥‥それなんですが、茉莉花くん一人に任せたらどうかと」 休憩を取った紅蘭と山崎を尻目に、茉莉花は黙々と零式のメンテに邁進していた。 黒い鬼神にも内面的な変化が見られる。かつての主を模倣した闇の気配は相変わらず、しかし 何処か明るい温もりを感じさせる霊場を形成しているような雰囲気だ。主が変われば従者はこ れほどまでに変わるものなのか。改良に着手してまだ数時間しか経っていないものの、山崎を 絶句させるほどに零式はその雰囲気を変えつつあった。 山崎としては茉莉花に合わせたライトチューニングと考えていたのだが、気がつくと既に零式 は殆ど解体状態にまで達していた。骨と内蔵が剥き出しになった機体の周りにパーツの海が広 がり、茉莉花はその中で一心不乱に泳いでいたのだ。目的地が何処なのか、傍目からは見えな い。唖然とする紅蘭と苦笑する山崎も対照的だ。 「バ、バラバラやん‥‥」 「司令以外で零式をあそこまでバラせる人間はいませんよ。私でも無理です」 「リボンつけたりはせんやろな?」 「?」 「娘が可愛いけりゃ着飾ってみたいやろ?‥‥ハイヒール履かせて、ドレス着せて」 「やだなぁ、李主任、だってフレーム形状はベースの神武と同じ‥‥あ、あれ?」 零式のエンジンは山崎をして不明な部分があり、製作者の神凪以外は触ることすらできない。 勿論設計図などない。試作型ということもあったが、卯型の直列二基型とは違う形態になって いるのだ。製作時に書き上げた神凪直筆の仕様書は神崎忠義預かりの極秘資料になっており、 帝撃メンバーどころか米田すら閲覧できない。その正体不明のエンジンを茉莉花は何の躊躇い もなくバラす。 暫く眺めていると、今度はクレーンを動かす。零式にフックをかけ、宙吊りになる格好で足を 浮かせる。そしてその足を解体し始めたのだ。無論零式の脚部も他の神武と異なり、腰部の慣 性動力部と連結したレビテーションユニットがある。正体不明の足腰は零式の重量を漸近的に 零にし、重力の束縛どころか慣性の戒めからも解放、如何なる新型の霊子甲冑も到達すること のない、さしずめ仙人のような運動能力を提供する。神凪がワンオフで製作したもので、これ は設計図どころか仕様書すら存在しない。腰部のコピーユニットがカンナの神武改に搭載され ているが、脚部に関してはカンナのバトルスタイルに鑑みて移植されていない。 零式は素っ裸にされた上に、駆動に要する心臓と足を奪われた状態になっていた。最早、造っ た人間でしか再生はできないだろう。山崎の額と背中に冷たい汗が流れた。 「後はよろしく、山崎はん」 「‥‥汗」 「明日はシスター呼んで最終チェックしよ。今日は徹夜せなあかんな‥‥どれ、夜食 でも作ってこよかな」 「い、いやぁ、徹夜は久しぶりですよ、司令がいた頃を思い出しますよ、はは‥‥」 「じとー‥‥」 「て、手伝ってきますっ」 零式へダッシュする山崎。 とりあえず茉莉花の真意を確かめないことには‥‥とは言っても、既に手遅れだった。茉莉花 は山崎には目もくれず、バラした筐体越しに、 『零式の足ってガチガチなんですよ、ふぇいろんさんの好みなのかなぁ?‥‥わたし、 足がツリそうになるから、もうちょっとふわふわにしようと思って。それにもっと 細く。山崎さんも細い足首が好きでしょ?』 『おうっ、そうだそうだ、タコだ、タコ頭を忘れていたっ!、よし、顔を造るぞっ! シスターの天使様よりも可愛い顔にしてやるぜぃ』 『腰がイマイチ‥‥うん、パレオ着せよっと。えとえと、腰についてた部品を‥‥あ れれ?、どっか消えてしまった‥‥ま、いっか‥‥リボンも欲しいしなぁ‥‥ナッ ちゃんのリボン、可愛いかったなぁ、カチューシャも似合ってて‥‥そう言えば、 ナッちゃん、浅草に行ってるんだよなぁ‥‥!‥‥うひゃひゃ、いいこと考えた。 通信機、通信機‥‥』 などと恐ろしい言葉を吐き出すだけだ。 がっくりと肩を落とし、山崎はシスターの機体に戻っていく。 今度はそれを見ていた紅蘭が苦笑した。 まあ、なんとかなるか。 銀座から人の気配が消えた。 街灯だけの世界がやけに薄暗く見えるのは人の暖かさが失われたためだろう。冷静なナツだが 人の温もりこそ現実を照らす光だと知っている。 暗闇の中で自分が乗る蒸気自動車のヘッドライトだけが酷く眩しく見えた。 花組があれほど落ち込んだ姿を見たのは勿論初めてだ。流石のナツも言葉を失ってしまった。 もっと明るく自己紹介するつもりだったが、とても介入できる雰囲気ではなかったのだ。 大神が転任することはつい先程斯波から聞いた。ナツ自身ショックだったが、花組の状態は予 想以上だ。こんなこと茉莉花や春香が知ったらどうなってしまうか‥‥明るい話題なんてない のだろうか。 「君まで暗くなってどうする?」 運転する斯波が振り向きもせずに呟く。 「そ、そーですナ、ナツがしっかりしないと‥‥」 「二人を送るのは君の役目だからな」 送る、という言葉が何を意味するのかは、今のナツは知らない。長期出張になる、ということ ぐらいで、当事者である茉莉花と春香ですら詳細を知らされていないのだ。1ヶ月後に予定さ れている何かを知っているのは隊長連と送り主である紅蘭だけ。大神や斯波にも真意はわから なかった。茉莉花のみならず帝撃全体に関わることだ、と説明されてもピンとこないが、無明 妃までも了承しているとなると無視する訳にはいかない。ただ、無明妃以外の夢組メンバーに は極秘だ。ばれたら一大事どころの話ではない。山崎ですら抑えられないだろう。 「ところで、例の件、なんかわかったかい?」 「なんか内偵みたいで気が進まなんのですけど‥‥弥生サンにいろいろ指示してるみ たいですゾ。銀弓サンがいないのをいいことに」 「弥生くん?、月組の?‥‥わからんな、何故彼女を‥‥」 「さぁ?‥‥それとえらい別嬪サンと三人でお茶してましたン。プラチナブロンドに ブルーアイズ。ナイスバディなお姉さまデシタけど、なんか年齢不詳、職業不明っ て感じ。それにしてもあんだけの美人が三人揃うと圧巻ですわナ」 金髪美女の存在は理解できる。 が、弥生が一緒というのが謎だった。 弥生の素行自体謎が多いのも確かだが、副司令と仲良くお茶するような類いの人種ではない。 月組共通というのもおかしいが、孤独癖が強い少女だ。群れを成すのを好まず、時間があれば 読書とか一人で旅行するような子だ。仮に何か指令を与えられたとしても、それ以上の関わり あい(お茶を飲みながら、とか、食事をしながら、とか)は極力避けるような気質だ。 「白いスーツ着た色男がいなかったかい?」 「うん、いた。姿は見えなかったけど‥‥陰形に長けた人でしたナァ」 「‥‥‥‥‥」 「可愛い子を抱いてたナァ。10歳超えたぐらいの、アイリスさんに似た金髪」 「アイリス‥‥?」 「ものすごく大事にされてるのがわかったヨ。一時も手を離さずに‥‥出る時はおん ぶして。美女三人のうちのブロンド様がお母さんかも。心配そうにしてたシ‥‥」 「‥‥ありがとう。後は俺がやる。この件は忘れてくれ」 帝都から灯が消えていく。 夜更かしの街を潤す雑踏も、漆黒の静けさに包まれていった。 街灯も消えた。強制的に眠りにつかせる束の間の闇に覆われていく銀座。 帝国劇場だけが淡い光を放つ。眠りの遅い銀座の最後に消える灯がそこにある。 それもゆっくりと一つ一つ消えていく。 帝国劇場も眠りにつく時間がやってきたのだ。 <その3終わり>