<その4> 枕が違っても1週間も過ぎれば慣れてくるもので、茉莉花にとって帝劇での生活に馴染むため に時間は必要なかった。地下格納庫での作業開始から1週間、この場所は既に何年も過ごした 我が家も同然となっていた。 あやめの部屋も居心地がよかった。先住者がよかったのだろうか、乙女学園の寮よりも具合が いい。なにより隣に大神がいることが茉莉花を安心させた。最初は緊張するかと思ったが、床 につくとすぐに熟睡するのが常だったのだ。 コンコン。  『‥‥花くん、起きてる?』  「すぴー‥‥すかー‥‥」  『おーい、茉莉花くーん』  「くかー‥‥うぐっ‥‥ふげっ、ぐげっ‥‥げ‥‥はっ!?」  「おーい、起きてくれー」  「は、はいっ、た、ただいまっ」 おかっぱ頭に寝癖がつく様。 乙女学園に入学してから一度も切らず、前髪だけをさくらのように切りそろえただけの髪。 それもいつしか肩まで伸びていた。必死で櫛で整え、寝巻き姿にカーディガンを羽織る。何処 から見ても何処にでもいる少女だった。 扉を開けると大神が所在なさげに立っていた。  「お、おはようございましゅ」  「おはよう。朝早くごめんね。紅蘭が呼んでるんだ。シスターと山崎もいるよ」  「ふぁい‥‥」 大神の目に映る茉莉花の姿。 仲間が揃って同じことを言う。さくらに似ている、と。 大神は違った。一度たりとも茉莉花とさくらを近似的に見ることはなかった。 さくらに似ているのは春香のほうだ。 茉莉花は寧ろ‥‥  「あ‥‥その格好でいいからさ、一緒に行こう」  「は、はい」 最初は幼く見えた茉莉花も、今や16歳という年齢に相応しい身体のラインを持つようになっ た。カーディガン越しでもキッチリと女性のそれを示している。未だ顔立ちが幼いだけに、余 計に艶めかしく見えもする。花組女性群に囲まれた大神にとっても、それは十分過ぎるほど眩 しいはずだったが、男性としての感情がどういう訳か働かない。幼いと言う点ではアイリスの ほうが勝っているが、寧ろそのアイリスに対してのほうが女性としての意識が働いているよう にも思える。  『‥‥妹、か?』 と思えたほどだ。 サロンまでの短い道程を並んで歩く。 まだ眠いらしく、閉じている時間のほうが長い瞼。長い睫毛が印象的だ。 寝癖のついたセミロングのおかっぱ。 欠伸する仕草はさくらには似ていない。 さくらよりも、他の誰かに似ていた。 他の誰よりも長い時間を過ごした女性に。 ほのかに感じ取れる茉莉花の香り、夜来香の甘い香りが確信させる。 ドン。  「ぐはっ!?」「おわっ!?」 いつの間にかサロンの入り口を通過していたらしい。入り口に背を向けて立っていた紅蘭に衝 突してしまったようだ。  「な、なにすんのん、大神はん」  「ご、ごめん、脇見してた」 ソファには山崎とシスターがいた。 二人とも目をつぶっている。明らかに寝ている。二人とも叩き起こされたのが目に見えた。 シスターの住まいは帝劇から歩いて数分の所。紅蘭から手渡された通信機が目覚まし時計にな って、ここまで必死で歩いてきたものの、サロンについてまたぞろ爆睡してしまったようだ。  「さて、みんな揃ったところで‥‥あ、寝てるし」  「‥‥‥はっ!?、わ、私は寝てましぇんよ」「くかー‥‥」 入り口に立つ大神、紅蘭、茉莉花。 座っている山崎、シスター‥‥そしてもう一人いた。  「朝食後のほうがよかったかもしれませんね、紅蘭殿」 パチッ。 その声で寝ぼけ眼の茉莉花の目が一気に覚めた。  「無明妃さん!?」  「おはようございます。ご無沙汰しておりました、茉莉花殿」 にっこりと微笑む日本人形は、まさしく無明妃だった。  「みんなが起きると面倒やし。大神はんも座って。茉莉花はんも」 シスターの横に座る大神。カクッと首をもたげるシスター。大神の肩に頭を乗せる格好でシス ターは更に深い眠りについてしまった。 全員が着席したのを見計らって、控えめに、静かな声で紅蘭が話し始めた。 三週間後に迫った“作戦”に関する説明だった。関係者だけを人気のない早朝に集めるのは紅 蘭らしからぬ行為だが、当事者となる茉莉花にも知らされていない内容を察するに相当重要な 機密があるのかもしれない。  『‥‥ん?』 紅蘭の表情が変わった。少なくとも茉莉花にはそう見えた。 花やしきで初めて出会った時の、あの時の“紅蘭”が復活していた。  「朝早くお呼び立てし申し訳ありません。“雑音”が入らないようにするため、この   時間のこの場所に御集まり戴いた次第です」 サロンの扉を閉じると、外部の音は一切遮断されてしまった。特殊なフィールドに閉じこめら れる気配とほんのわずか動いた大神の視線に気づいたのは茉莉花だけ。視線の先は南側の天井 近くの梁部分。木彫りの置物が置かれてあった。  『‥‥朱雀だ』 鳳凰を象った姿はあたかも飾りのようにしか見えない。霊場を提供するでもない。だからその 場所にいる者たちですら四方に飾られた飾りに注意を払うことはなかった。茉莉花以外は。 茉莉花だけは、その飾りが飾りではないことを看破していた。そこから流れ出る強烈な運気に。  「一ヶ月後に予定されている極秘任務に関する周知事項です。本日は関係者のみに限   定しました。他言無用ということです」  「ごくん‥‥」  「総括責任者はわたくし、花組・李紅蘭。装置運用責任者及び副総括に夢組隊長・山   崎真也。万が一トラブルが発生した場合、わたしたち二人のいずれかに直接申告し   てください。また“現場”責任者及び任務執行まで関係者以外への対応は夢組の無   明妃さんにお願いしています」  「‥‥はっ!?、お、起きてますよっ」「よろしくお願いいたします」  「それと大神“さん”には山崎さんの装置運用を補佐してもらいます。同じくシスタ   ーにも。お二人は実験室の警備も兼任してください。人手が必要と判断される場合   にはこちらで用意しますので、決して他の隊員には洩らさないように」  「うん」「‥‥んが‥‥ぐへへへ‥‥」 いよいよシスターは熟睡の域に達していたようだ。 へらへら笑いながら、頭をあずけた大神の肩にまでよだれが達している。  「被験者は三名。夢組・神凪茉莉花、花組・野々村春香、そして、お二人の護衛とし   て夢組の無明妃さんにも同行してもらいます」  「うぅ‥‥不安だよー」  「本作戦はこの三名が揃って初めて成立します。申し訳ありませんが、お三方には当   日まで監視を兼ねた護衛を24時間体制で付けさせていただきます。予めご了承く   ださい」  「う‥‥」「わかっております」 春香の不在を懸念していた茉莉花だったが、よもや大神の実家にいるとは驚天動地だった。ど うゆう経緯か知る由もないが、無明妃の説明によれば世界一安全な場所とのこと。帝国劇場に いるよりも、五師団と共にいるよりも、らしい。 茉莉花については特段変化はなさそうだ。帝劇地下で霊子甲冑のメンテをしている以上、常に 山崎と紅蘭のいずれかが傍らに付添うことになるし、仕事がない時は花組の面子と行動を共に することになるからだ。 無明妃には雪組の斯波が付くことになった。斯波が不在時には山崎。山崎も都合がつかない場 合は大神が、更に大神が出撃等の任務が発生した場合は風組新隊長のかすみが付く。 無明妃ぐらいになれば隊長が直接付くものだろうと茉莉花も納得したのだが、当人の無明妃は かなり恐縮しきった表情をしていた。『隊長連からの申告でね、暑苦しいかもしれないけど我 慢して付きあって』と大神に言われれば、流石の無明妃も断るに忍びなかった。  「内容ですが、被験者には“長期出張”という触込みになってるはず」  「ごくり‥‥」  「目的地は帝都東京です。最初は違う場所に到着すると思いますが、東京に向かって   ください。集合場所は銀座。帝国劇場建設予定地。この土地の一画に茶屋があるは   ずですから、そこで待ちあわせてください」  「‥‥え?」  「連絡先等の事務連絡をしたら、後はそれぞれの単独行動になります。無明妃さんは   暫くの間‥‥2年ほどですが、茉莉花さん専属で護衛して下さい。茉莉花さんに関   する“目的”が達成された後は1年ほどその状態を維持、その後、春香さんに対象   を移していただきます。“年齢差”のタイムラグが丁度あってますからね」  「了解です」  「建設“予定地”って‥‥どういうことですか?」  「西暦1875年の銀座ですよ、茉莉花さん」  「え‥‥」  「三名の被験者には過去に遡ってもらいます。そして輸送先で10年経過した後、現   在時に強制帰還させます。勿論、現在時の10年後ではなく、被験者輸送直後に西   暦1885年における被験者を抽出します。即ち、この“時代”における被験者三   名の不在期間は数分間、ということになりますので、影響はありません」  「‥‥‥‥‥」  「ただし、これだけは忘れないでください。もし仮にあなたがたの身内、または知古   の方にご不幸や危険がふりかかり、それを目撃したり知り得たとしても、絶対に関   与してはいけません。また、現在あなた方が知り得ている情報または技術を如何な   る状況においても他人に漏らしたり施してはなりません。理由は説明するまでもな   いと思いますが」  「‥‥‥‥‥」「承知しております」 あの“夢”は夢ではなかったのか? 茉莉花は驚きを隠せなかった。しかし今それを蒸し返してもあまり意味はない。問題は過去に 行く目的だ。よもや過去を変えるためではあるまい。過去に隠された真実を把握するためとで も言うのだろうか? それにしても10年も‥‥ 自分は26歳だ。あこがれのあの人と殆ど変わらない年齢になってしまう。 いや、そのほうが都合がいいかもしれない。 それに自覚もしていた。 自分の未来が過去にある‥‥それは夢見る蛸を被った時に見た夢。雪景色の舞台は今でも鮮明 に覚えている。あれが自分なのかもしれない‥‥ それにしても、あの時、紅蘭は『現在の科学力では無理』と解答したはず。茉莉花には紅蘭の 正体が益々わからなくなってきていた。勿論、単なる興味本位でこのような恐ろしい実験をす るとは思えないが、それ以前に自分が選ばれた理由がわからない。  「原理を教えてくれないかな、紅蘭」 長期出張という名の時間旅行を、紅蘭は大神にだけは仄めかしていた。目的も聞いているが、 殆ど概要に近いものだ。手段や具体的な任務を打ち明けられた訳ではない。そんな状態で、行 ってらっしゃい、と送りだした先が天国では洒落にならない。 紅蘭が主導するミッションである以上、ある程度の危険は伴っていても遂行する腹積もりでは いたのだが‥‥万が一その紅蘭本人の目論見にバクチの要素があるなら作戦は中止せざるをえ ない。  「簡単に言うと‥‥」 理論的に正しいとしても、それを実現する装置類を創造できる訳がない。それは大神でもわか る。相対性理論(注:この時点では特殊相対論の事。重力を含めた一般相対論が出現するには 更に年月がかかる)を実践する技術力が今後生まれるとは到底思えない。“光速”という桁違 いの壁が立ちふさがっている。 そして“流れる時間が異なる”という相対論の基本事象を、いったいどのように制御出来るの かも謎だった。これは“時間旅行が可能である”という事に直結している訳ではない。  「‥‥で、光速近くまで加速した特異点霊子と反霊子を衝突、放出する重力波を保護   霊子場‥‥大神さんの遠隔防御に使われてる帯域の霊子力ですが、これで閉じ込め   た上で、その巨大な力場を利用し極微ワームホールを形成します。文字通り虫食い   穴ほどの大きさで十分です」  「ワームホールを形成‥‥?」 この時点で海軍学校首席卒業である大神の頭脳にも限界がきた。 相対論が導く結果の一つには、空間は歪むことはあっても裂くことは出来ない。 もしこの理論を補正する何か‥‥例えば量子論的にも符合する“統一”された理論があれば別 だろうが、それを棚上げしたとして、ワームホールを人工的に形成出来るとしても要するエネ ルギーは文字通り天文学的なレベルになるはず。 更に問題なのは‥‥  「霊子・反霊子対消滅は物理学上の対消滅とは設定次元が違います。それに発生する   熱量は我々の次元に変換した場合、空間座標にまで影響を及ぼすほど巨大です」  「‥‥事象の地平線の彼方に何があるかは俺でもわかる。まさかそこに飛び込めって   言うんじゃないだろうな?」  「これは宗教から解離されるべき議題ですが‥‥輪廻転生の対象となる人材を捕捉す   ることも兼ねています。同じ魂の系譜を追跡する、と言ってもいいですね」  「‥‥‥‥‥」  「人格まで上書きされますから、対象者のそれを前もって抽出しておく必要がありま   す。実験が終わったら元に戻さないと」  「‥‥そういうことか」  「ど、どーゆーことですか?」 髪の毛より遺伝子よりも電子線よりも細く細く引き伸ばされる重力の地獄に生身の肉体を置く 局面など想像できないが、仮に出来たとしても肉体を構成する細胞、原子まで変化‥‥いや、 それを構成する素粒子まで別の何かに変位するかもしれない。あるいは更にその素粒子を構成 する‥‥もっと微小単位の何かまでも。 大神自身、蒸気機関の次の世代、もっと先の、更に先‥‥遠い未来に於てすら、そんな夢のよ うな駆動機関の開発は不可能としか思えなかったし、違う方向からアタックするだろうとは考 えた。 そう、物質輸送をする必要はない。精神を輸送するのだ。 夢を見せればいいのだ。脳が生み出す幻ではなく、本当の夢を。 なるほど、言われてみれば妙に説得力はある。 ただ、この精神というものの正体が未だにわかっていない。もしこの三次元(時間軸を含めれ ば四次元だが)世界に存在する物質によって構成されている、あるいはそれらを介在するのが 必要条件となれば、当然だが時間の壁は超えられない。 それに時間という概念そのものに関する説明がなされた訳ではない。  「寝てればいい、ということですか?」  「‥‥え?、ああ、そうだね‥‥そうであればいいが‥‥」  「?」  「そうだな‥‥もし成功したとして‥‥“向こう”で借りしてる肉体は本物だから、   夢の中で万が一事故にあったりしたら戻って来れない可能性もあるな」  「うそっ!?」  「子供を生む予定だったとすれば、この時代に生きている子供も消える、かもしれな   いな。それとも、心が‥‥記憶が消えるのか。タイムパラドックスだな」 何気なく言う大神の言葉に、紅蘭と無明妃だけがぴくりと反応した。  「茉莉花くんたちオリジナルの肉体にも不安材料があるよ。“向こう側”に行ってる   間は心肺機能が低下するだろうし‥‥こっちは解決済みなんだろ、紅蘭」  「勿論。先程言ったように輸送終了後すぐに時間軸を変えて“巻き戻し”をします。   保険もかけます。抽出した対象者の人格を一時的に移植して、こちらの肉体を管理   してもらいます。心が入れ替わった、と考えてもらえればいいかと」  「?‥‥わ、わかんねぇっすよー」  「それだと“向こう”の人の人格と言うか意識は、その期間は空白になってる‥‥   つまり10年間眠った状態になるのかい?」  「いいえ。茉莉花さんたちが“こちらの時間”で不在になっている間ですから、精々   5〜6分といったところです。万が一制御機械になんらかのトラブルが発生した場   合でも、私と山崎さんが対応しますので、半日以上にはなりません」  「そうなると記憶量のギャップが発生する訳か‥‥」  「致し方ありません。それでも念のため、実験過程で“こちら側”に移っている間、   その方々には茉莉花さんと春香さんが実体験するであろう記憶を移植します。悪い   言い方をすると洗脳に限りなく近いものですが」  「ふむ‥‥原理はまだ納得出来ないが、可能性はあるんだね‥‥!」 訳もわからず寝ぼけ眼をパチパチさせる茉莉花と対照的な大神の表情。何かを悟ったような表 情に、何故か端正な“紅蘭”の顔に動揺の色が浮かぶ。服を脱いで身体を見せてみろ、とでも 言われたような表情だ。 爆睡するシスターにつられたのか、山崎も眠っていた。 無明妃も目を閉じている。ただし眠っている訳ではなかった。無明妃の白い表情には大神のそ れに似た驚愕の色が濃く浮き出ている。難問を解いた時のそれ。  「‥‥紅蘭」  「は、はい?」  「人格の入れ替え、経験あるんだろ?」  「あ、あの‥‥へ、変身願望ってヤツでして、“いれかえくん”って機械、前に造っ   たので、それを‥‥その、改造してる時に、その、いろいろと‥‥」  「いれかえくんは杏華さんの作品だぜ?」  「あ゛」  「君が不在だった頃に代役で舞台上がってさ、その緊張を改善するためにね。上書き   とか追加も出来るはずだったな。あの時はさくらくんの人格を追加した」  「あが‥‥」  「さしずめ、タコ足のほう、腕輪に相当するヤツは“あんどうくん”がベースか‥‥   ここで杏華さんが作った機械は全て司令が管理してる。設計図もね。山崎や俺です   ら触れない。なんで君が知ってるんだろうな?」  「あがが‥‥」  「まあ、いい。ひとつだけ確認したいんだが、意識を共有させる事は可能なんだね?   あるいは一人の肉体に複数の意識を同居させるとか。さっき引用した人格追加、多   重人格ではなくて。全く違う人間の意識と記憶を」  「か、可能、です‥‥可能‥‥です‥‥」  「ふむ‥‥紅蘭、後で俺の部屋に来てくれ。話がある。とても大事な話だ」  「‥‥ふぁい」  「是非わたくしも同席させてもらいたいですね、大神殿」 無明妃の“視線”が絡みつく。 紅蘭に対し大神がかねてより抱いていた“疑惑”は、無明妃にとってみれば既に認知されてい ることだが、由来や目的、動機が思い浮かばなかった。必然性もない。知る必要もないと言え ばないのだが、心残りは無くしておきたい。  「ごめん、話を中断したね。続けようか、紅蘭」  「そ、それで、肝心の目的ですが、茉莉花さんと春香さんには、それぞれに出会って   もらいたい男性がいます。その人と接触し‥‥その‥‥」 一瞬口ごもる“紅蘭”。 と同時に“紅蘭”の顔色がまたもや一変した。  「肉体的交渉をして欲しいの」  「‥‥はい?」  「男と女がやることって言ったら一つしかないでしょ?‥‥ちゃんと妊娠して元気な   赤ちゃんを産んで頂戴」  「‥‥‥‥‥」 目をパチパチさせていた茉莉花だったが、今度は口をパクパクさせる。  「子供たちの自立が憑依対象と接触してから10年後と見込んでいるの。結論を言う   とね、あなたたちの子を帝撃にスカウトすることになる訳よ。最重要人物だからね、   ちゃんと育ててよ?」  「‥‥‥‥‥」  「ああ、そうそう、相手の男性のこと、好きになってもいいけど、出来れば個人的感   情は持たないほうがいいわね。辛い想いをするかもしれないし」  「わ、わたしが、子供を産む、んですか?」  「正確にはあなたがたの意識と人格が刷り込まれた分身、ね。同じ魂を有する心の姉   妹かな‥‥まぁ、あまり深いこと考えないで。気楽に気持ちよく」  「ま、待って、待ってく、くだ‥‥」  「茉莉花殿‥‥女として産まれた以上、いつかは成さねばならない種としての生業で   す。恥ずかしがることはありません」 無明妃の助言もフォローにならなかった。 見ず知らずの人間に会い、その子を産めと言われて、『はい、そうですか』などと応えること のほうが無理だ。それよりも茉莉花には心に決めた人がいる。その人以外の子を産めと言うな ら死んだほうがましだった。  「そ、そんな‥‥イヤッ!、絶対にイヤッ!、わたしは、わたしは‥‥」  「あら‥‥貞操を捧げたい男性でもいるのかしら?‥‥子供のくせに生意気」  「わ、わたしは‥‥」 脳裏に浮かぶ、大神によく似た男性。 極寒の地で辿り着いた暖炉には、炎の温もり以上の何かがあった。 夢見る蛸が見せた、過去の映像?‥‥いや、あれは夢だ。夢なのだ。 頭で否定しても、あの男性の子を宿す自分が容易に目に浮かぶ。  「何事も経験よ。そうね、やり直しのきく人生だと思えばいいわ。過去に行って、女   としての喜びを存分に味わってきなさい。そして戻って来たら、もう一度可憐な少   女を演じればいいのよ。少なくともこの時代のあなたは処女のままだから」  「な‥‥何を‥‥何を言ってるんですかっ、紅蘭さんっ、わたしはそんな都合のいい   女じゃありませんっ!」 茉莉花の拒絶反応はその年頃の娘としては尤もで、それを見て露骨に嫌悪感を示す“紅蘭”の 態度こそ異常だった。薄く開いた唇のすき間から、ぬめぬめの光沢を放つ何かが見え隠れする 一方、半開きの瞼から覗く瞳には茉莉花に対する蔑みの冷気すら感じ取れる。  「実験は予定どおり行うから。任務だから命令拒否は出来ないわよ。あなたは帝国華   撃団の正規隊員なのよ。覚悟しておくことね」  「なんで‥‥なんで、そんな‥‥そんな‥‥」  「不安なら大神“くん”にレクチャーしてもらったらどう?」  「!」 す、と立ち上がる日本人形。 ともすれば暴走しがちなチューター仲間を抑制出来るのは、帝撃広しと言えど無明妃しかいな いだろう。同じ花組ならさくらが候補になるが、如何せん、この“紅蘭”だけは処置しようが ない。  「今日のところはこれでお開きにしませんか、紅蘭殿」  「あら、調子が出てきたのに‥‥残念」  「そうだね。焦らなくていいからね、茉莉花くん‥‥では紅蘭、行こうか?」  「は‥‥?」  「は、じゃない。話があるって言ったろ。無明妃さんもご一緒してくださるし‥‥な   んなら紅蘭、君が言ったこと、君に実践したろか?」  「え‥‥」  「え、じゃない。俺としてはまず君と十分に交渉したいと思ってるんだが?」  「では、わたくしが禁断の秘技を授けましょう。一撃にて懐妊すること間違いなし」  「わ、わ、わ‥‥」  「‥‥逃がさないよ、可愛い小鳥ちゃん」 紅蘭の細腕をがっちりとつかむ大神。 足の早い小鳥ゆえに、説教する場合には前もって捕獲しておかないと逃げられてしまう。 冷汗たらたらの紅蘭の顔立ちは、いつもの李紅蘭のそれだった。 ▼ 帝劇の敷地面積がそのまま地下まで反映された格納庫は、霊子甲冑を保管するのに十分な広さ を有している。メンテナンス作業に関しては花やしき支部のほうが設備が整っているが、簡単 な作業なら本部である銀座のほうが寧ろやりやすい。デッキを塞がないように作業するだけの 広さも確保しているのだ。 それが今や通勤ラッシュなみの混雑になっていた。 8レーンあるメインデッキには花組の神武改がマウントされ、三基の予備デッキにはシスター の機体と零式、そして春香の“銀世界”が眠っている。光武・神武・天武という世代の違う三 体の甲冑が実戦で配備される様は開発元の神崎が見れば感動モノかもしれないが、中には原形 を留めていないものもあるし、あるいは逆に溜息をもらすのかもしれない。 突貫工事の勢いで作業を続ける紅蘭・山崎・茉莉花の三人も流石に疲れた様子。それもそのは ず、神崎重工に安置されていた神武改は封印されていたにしては不自然な錆が浮いていたから だった。 神凪と山崎が仕上げた機体ゆえに、きちんと保管していればメンテナンスフリーで軽い調整で 済むはずだが、解体を要する状態にまで劣化している。それでも神武到着後の3日あまりで劣 化部分を取り去ってしまうのは流石に地下格納庫の主たちだが、組み上げに時間がかかってい た。意図的な外圧が長期間加わったとしか思えない、かなり異常な歪みがフレーム全体を覆っ ていたためだ。 組み上げてバラす。強度を失わないように削り、叩き、補強し、また組み上げる。 辛い作業の繰り返しだった。  「つ、疲れた‥‥」  「あかん、休憩しよ。こりゃ難儀やて」 紫色の神武改は表向きは奇麗だ。ワックスもかかり、新品同様の輝きを放っている。しかし中 身が別物だ。歪みを通り越してフレームには亀裂が入り、なによりエンジンが中まで錆ついて いる。しかもエンジンを成す三つのシリンダーのうち二つが一目でわかるほど再生不可能なダ メージを受けていた。これでは老朽化した人型蒸気を展示用に表面を繕ったと言われても否定 出来ない。 ワンオフで作り上げられた試作機体、しかも最強を誇る零式の後継として産まれただけあり、 量産機体をベースとした他の神武改よりポテンシャルはワンランク上。神崎重工の技術の粋を 結集したすみれのための機体で、亡き妹“七瀬”の名を与えたほど。故に神崎グループのトッ プである神崎忠義の思い入れも強く、この機体だけは会長自らの指示で厳重に保管されていた はずだ。エンジンが錆びるほど放置しておくなど到底考えられない。他の神武改も保存状態が 悪いが七瀬は特に酷い。  「厳しいな、七瀬は」  「そ、そんな、そんなことは‥‥」  「エンジンの再生は無理やね。三気筒のうち二気筒が棚堕ちしとるし。新規作成し   ようにもベースの神武がないしなぁ‥‥光武の予備シリンダーを流用する手もあ   るけど、時間かかるで」  「う‥‥」  「それにフレームも。腕と脚、特注品やし」  「あ!、そうだ、この粘り強い骨格でなきゃ七瀬の力は‥‥くそっ、時間が‥‥」  「しゃーない、取りあえずフレームだけでもうちが打ってくるわ。氷室はんが怪我   で動けんからには‥‥」  「おっしゃーっ!」 大声で拳を振り上げる茉莉花。  「な、なんや?‥‥出来たんか、茉莉花はん」 茉莉花の元へ行くと、何故かデッキの一部に垂れ幕が掛かっていた。勿論中身は零式だ。そう 言えば茉莉花はいつも零式を隠すように作業を続けていた。従って紅蘭も山崎も、零式がどう いう仕上がりになっているのか伺い知ることは出来なかった。 垂れ幕が結構大判サイズになっている。つまり以前の零式よりもサイズアップしていることを 示している。背丈も高い。それに横幅もある。  「なんで隠すん?」  「いやいや、デビュー前のお披露目はご遠慮させてもらいます、はい」  「ん?」 デッキの前に散らばる部品類。 それは言うまでもなく零式のそれだ。プラグ類やら蒸気パイプ、運用に不可欠の補助基盤まで ある。いささか青ざめる紅蘭と、それを通り越して冷汗を流す山崎。何気なく床に放置された 将棋盤ほどの大きさの基盤は、調整に携わった経験のある山崎には見覚えがあった。大神専用 機に搭載されているものと同等の機能を有し、しかも神崎重工ですら量産を見送った珠玉の逸 品。零式の零式たる所以を示す一品でもある。 足腰のレビテーション・ユニットは既にない。その上この基盤を失っては最早零式は零式では なくなってしまう。  「こ、これ、負霊波フィールド生成基盤ぢゃ‥‥な、なんで?」  「わたしには使えないんですもん。代わりを入れたからいいでしょ?」  「え‥‥」「何を?」  「ふっふっふっ‥‥合体攻撃用霊子波強制同期システムだす」  「は?」「‥‥‥‥」  「えへえへ‥‥対象はね、マリアさん、さくらさん、それにシスター。三人の霊子波   を状況に応じて零式が持ってる固有霊子振動に変えるの。他の花組の人達もサンプ   リングしたんだけど、なんでか三人以外は駄目だったんですよ。えと、どういう感   じかって言うと、零式の必殺霊力が増幅して、合体攻撃がわたしも出来ちゃうの」  「‥‥‥‥」「へぇ‥‥」  「ね、ね、すごいでしょ、すごいでしょ?」 花組の霊力はみな固有の波長を有しており、それがゆえに固有の技を持ち、霊子甲冑もそれぞ れに異なる仕様にしなければならなかった。勿論他のメンバーの甲冑を運用することも不可能 だ。大神だけは違う。大神が持つ広帯域の霊子波は隊員が発する異なる霊子波にチューニング することが可能で、緊急の場合は大神が他の隊員の機体を運用することも出来る。勿論かなり の制約は付くのだが。 もっと重要なのは相手の信頼度が増せば増すほど、その波形を自らに取り込むことが出来ると いう異能が大神にはある。それが必殺攻撃時の霊力をも凌駕する調和振動波として発すること が可能となる所以だ。装置としての量産化が無意味であることは紅蘭もわかっている。 茉莉花が施したのは逆だった。ペアを組む相手を霊力の持たない自分と同じ状態にする。どう やら茉莉花が持つ破格の幸運を相手にも齎す、ということらしい。然る後に相手の霊子甲冑の ステータスを零式と同化させ、零式の支配下に置くことで協調霊力を生み出す‥‥という、か なり破天荒で強引な仕掛けだ。 霊力が皆無な茉莉花だが、それを補って余りあるナンデモアリな幸運を導く力。言い換えれば 全能とも呼べる能力に紅蘭と山崎は最早疑問や懐疑心を呈する事はない。しかし今に至っての 問題は何故そんなモノを茉莉花に創れてしまうのか、だ。 零式の何かが関与しているのだろうか。  「‥‥はっ!?、あ、あのさ、足腰はどんな感じ?」  「やだ、山崎さんのエッチ」  「さぞかしバネが利いてるんやろな。飛ばなあかんし」  「えっ!?」「当たりっ!」  「茉莉花はんのことや、アイリスとシスターに嫉妬したんやろ?‥‥その脚線美を披   露すんの、楽しみにしとるで」  「へい」  「これならいけそうやな。二人とも、ここよろしゅうな」  「あ‥‥はい、お任せください」「?‥‥おでかけですか?」  「花やしき行ってくる。三日以内に戻るから」 かつて神凪が山崎に手渡した七瀬の右腕の仕様書。吟味しつつも、あえてその藁半紙を持たず に花やしきに向かうと言う。  「型取りならナッちゃんに頼んだらどーでしょ?」  「ナツ?‥‥あいつ、工作の才能あんのん?」  「零式のパーツもナッちゃんに削ってもらったんですよー。えとえと、氷室さんって   人に教えてもらったって‥‥」  「ええ事聞いた」 格納庫から飛び出し、そのまま単車に乗って浅草に向かう紅蘭。 それにしても、まともに動くのはシスターのジャンヌ・オブ・アークと大神の神武改、そして 春香の銀世界だけという現実に、山崎も不安の色を隠せない。唯一劣化を免れ、恐らくは永遠 に色褪せる事のない山吹色の輝きを示す“完全”人型蒸気、ハルシオン・ローレライは、肝心 のパイロットであるアイリスが不調。 他の神武改の調整が遅れでもしたら不測の事態に対処出来ない。  「零式の動作検証しようよ、茉莉花くん」  「実戦でデビュー。言ったじゃないっすかぁ」  「そーは言ってもさ、いくらなんでもテストもなしに‥‥」  「あー腹へったー‥‥山崎さん、メシだメシっ」 茉莉花の手で生まれ変わった零式がどの程度の戦力になるかがキーになりそうだが、今現在、 出撃できるのがシスターと茉莉花だけでは誰だって不安になるというものだ。 うっかりすれば溜息を漏らしそうになる山崎だったが、気を取り直して茉莉花とともに食堂に 向かった。確かに腹が減っては戦はできない。 朝もやの煙る街並み。窓にかかるレースのカーテン越しに見える目覚めの銀座は、いつもと変 わらないセピア色に呈する優しい色だ。 徹夜明けにも関わらず、茉莉花と山崎の顔色は明るい。 早朝の食堂には当然二人しかいなかった。一時間もすれば早起きのさくらが来るはずだ。山崎 も茉莉花も普段はそのさくらの起床に合わせて朝食を取り、そして仮眠を取るのが常だった。 それが今日に限って二人とも早い。メンテナンスに区切りをつけた時間が早かったのもあるし、 紅蘭が出ていくタイミングに合わせた所為もある。 茉莉花が作る朝餉はさくらの作るものより幾分質素だったが、山崎にとっては最も愛すべき懐 かしい味がした。普通の白米に少しだけ玄米を混ぜ、やや柔らかめに炊いたご飯。糠漬けの沢 庵と浅漬けの胡瓜は、どうやら東西の味が混在したものらしい。塩鮭は信じられないほどに塩 辛く、ご飯なしでは食べられない。その傍らに寄り添う炙った海苔だけが純然たる東京産。  「美味い」  「ども」 舞姫がいないので今日は彼女が苦手の納豆もアリだ。ネギと豆腐の味噌汁は母親秘伝の味に。 さくら以上に料理上手な無明妃ですら、この味噌汁だけは作れない。  「行くだけ行ってみない?」  「え?」 ものすごい勢いで飯を食らっていた茉莉花の、その箸が止まる。 考えないようにしていたこと。残る三週間という時間は茉莉花にとって判断を下すには短すぎ た。だから忘れるようにしていた。いっそ思い悩んでいる間に通り過ぎてしまえばいいのに。  「大神さんとも話したんだけど、2年で区切ったほうがいいと思うんだ。10年なん   て長すぎるしね。李主任には俺からも言っておくよ」  「‥‥‥‥‥」  「心の旅、か‥‥でも10年という年月は心を確実に疲弊させるからね。身体がその   ままでも、心は老いていくよ」  「やだもん。わたし、絶対に行かないもんっ」  「怖い?」  「‥‥‥‥‥」  「帝劇よりも居心地がよかったりしないか、と?」  「‥‥‥‥‥」  「それとも、好きな人のこと?」  「そ、そんなことじゃないのっ、ここを離れたくないだけなのっ」  「その人、言い残したことがあるんじゃない?」  「あ‥‥」 最期に逢った雨の日、彼は茉莉花に言った。 いろんな所に行って、いろんな人に出会うこと。学び、そして、与えよ。経験することで成長 する。停滞していては成しえない。進化に必要なのは異なる環境との併合だ。 帝劇に来たからみんなに出会えた。でも違う出会いもあるはずだ。もしかしたら知らない場所 で自分を待っている人がいるかもしれない。  「‥‥俺も一緒に行こうか?」  「え‥‥?」 箸をおき、茉莉花をじっと見つめる山崎。 乙女学園から乗り込んだ列車の中で優しく触れた大きな掌。それがもう一度茉莉花の小さな手 を包む。茉莉花の心を覆う暗雲が暖かい光で掻き消されていった。  「俺なら君の不安を解消できる。君に思い出を見せることも出来る。たとえ束の間の   幻であっても‥‥君の心を癒すことが出来る」  「山崎、さん‥‥」  「四人で暮らそう。無明妃と春香さんも一緒に」  「‥‥‥‥‥」  「舞台を創ろう。四人で出来る小さな歌劇団がいいね。みんなで裏方して、みんなで   舞台立つんだ。書割りなんて楽勝さ、任しとけ。舞台衣装は無明妃に頼もう。小道   具は春香さん、それに脚本は茉莉花くん、そして‥‥」  「‥‥ううん、やっぱり無理だよ」  「どうして?」  「だって、紅蘭さん言ってたもん、春香さんとは目的地が違うって‥‥それに、結婚   したら友達なんて忘れちゃう。山崎さんも、無明妃さんも‥‥わたしも」  「そんなことは‥‥」  「家族ってそういうものなのっ、親ってそーゆーものなのっ、自分よりも子供を家族   を一番にしちゃうから、自分の事なんて構ってられないのっ、でなきゃ家族を護っ   ていけないもんっ!‥‥友達のことだって、思い出に消えていく‥‥どっちも手に   入れるなんて、何の苦労もせずに生きていける人だけが許されるのよ」  「‥‥‥‥‥」  「やだよー‥‥行きたくないよー‥‥」 心の旅であるはずの時間旅行も、茉莉花にとっては片道切符にしかならない‥‥そんな予感が 心を締めつける。 2年? 10年? いや、もう二度とこの“同じ”場所に戻ることはない。 再びこの場所を訪れる時、仲間たちの記憶にある茉莉花はいない。観客としてこの劇場を訪問 するしかないのだ。一人の女として、一人の母親として‥‥花組の舞台を見て、そして劇場を 去っていくのだ。 茉莉花の持つ力強い幸運は未来に不安材料などないことを約束してくれるが、それと一緒に平 凡な女としての将来までも予知映像として脳裏に刻み込んでしまう。 夢をあきらめ、母親としての生涯を全うする‥‥それが自分の役割なのだ、と。 <その4終わり>