大阪府富田林市錦織神社秋祭についての報告と考察


  

1.祭の概要

 大阪府南河内地方の富田林市にある錦織神社の秋祭りは、数基の地車(だんじり)が町中を移動するこの地域最大のイベントである。
錦織神社の氏子地域は富田林市を東西に分ける石川西岸にあり、その3分の1ほどは丘陵を拓いた住宅地である。しかしそれらには祭祀組織はなく直接祭に参加することはできない。祭りはこの地域を除き旧村部を中心として行なわれている。
  

2.錦織神社と富田林市の概略

 錦織神社は石川西岸の旧錦織郡の北端にあり、社殿は南面を一望できる要所にある。今では木々も参道の左右に並んで生えているだけだが、以前は周囲一帯が鎮守の杜だった。「にしごり」など様々な呼称があったが、現在では「にしこおり」と呼ばれている。この石川一帯で渡来系の一族が機織りをしていたため錦織という地名が発生したとも伝えられている。
 現在の本殿は正平18(1363)年に創建されたものであるが、社殿の創建年代は定かではない。昭和10年の本殿の修理の際、地中から発見された丸瓦・平瓦の中に平安時代中期のものがあったので、少なくともその時代には建っていたと推定される。御神体はあるがどのようなものかは不明である。
 江戸時代には観心寺派の金輪寺の神宮寺として僧侶が祭祀をおこなていたが、明治期の廃仏毀釈以後、神主が祭祀を行うようになった。廃仏毀釈時の破壊のために仏像・文書ともほとんどが失われた。そのため江戸時代以前の祭祀についてはまったくわからない。
  

3.氏子組織と神社の関係

 氏子地域は富田林市内石川の西岸の丘陵地帯である川西・錦織の全域の旧村部。北部や石川東岸は別の神社で同様の祭りを行う。氏子地域の中央部を占める団地には多くの人が住んでいるが、祭りには参加しない。
 祭は氏子該当地域の青年団が行ない、地車を曳く中心となるのは主に中学生から高校生であり、20歳から30位の大人がそれをサポートしている。それ以上の年令の者は境内での人員整理やゴミ回収という裏方が主な役割である。
  

4.祭の進行

 祭りは以下の順に進行する。1)9時30分:地車宮入2)11時00分:祭典斎行3)12時30分:にわか4)13時30分:地車曳出5)14時30分:神幸祭。

 1)地車宮入。地車を持つ9地区が次々と進入してくる。境内には各集落の名前を彫り込んだ石が埋めてあり、地車の位置(宮入の順)
が決められている。地車は境内でさまざまなパフォーマンスを見せるが、どの地車もかならず拝殿の直前まで行き、数度後部を浮かせ斜めになる。まるで地車が氏神にあいさつしているようである。そのあと境内の所定の位置で、宮入りは終了する。
 宮入は宮司の話では周辺に水を供給している石川の水系の上流からの順で100年前から変わっていないらしいが、文書が残されていないのでそれ以前のことはわからない。
 2)祭典斎行。すべての地車の宮入りが終了すると、本殿の前でそれを神前に報告する祭典が斎行される。本殿は拝殿より1mほど高くなったところにあり、塀で囲まれている。中には神主と各地区の代表者以外は入れないが、周囲の塀は格子状になっていて祭礼の一部始終を観察することができる。宮司はまず本殿の左右にある摂社、神輿、稚児神輿、そして地車と順に祝詞を上げた後、本殿の中に供物を供えていく。供え物は12の膳に分けられその内容は1)御神酒・塩・米、2)御神酒・塩・米、3)餅、4)塩水、5)タイ、6)ハマチ、
7)野菜、8)野菜、9)果物、10)果物 、11)乾物、12)乾物である。その後地区代表が宮入の順に榊を神前に供え終了し、直礼のために全員社務所に向かう。
 3)にわか。祭礼終了後、1時間ほどしてから宮入と同じ順番で俄がはじまる。地車に舞台を持っているものはその上で、ないものは曳き棒の上に板を渡して舞台とする。
 はじめに太鼓が打たれ拍子木を鳴らしながら古典的な口上が始まる。それがおわると寄席のように太鼓囃しに合わせて高校生位の青年団員が二人ないし三人でてきて漫才を始める。これが俄である。ネタはテレビなどで見られる若手漫才師や、高校の文化祭などでみられるようなもので、独特の発声法等の技術は伝承されておらず、古典的な要素はいっさいない。内容も卑猥なものは少なく、あってもテレビなどで目にする程度のものである。そして漫才同様のサゲがつくと同時に次に俄を行う地車の囃子が始まる。
 4)地車曳出。最後の地区の俄終了と同時に宮入りの逆順で地車の曳き出しがはじまる。掛け声などは入ってきたときと同じで、入るときと同じように必ず拝殿へ向けて頭を突っ込み、一度以上後ろを上げて頭を地面につかせる。まるであいさつをしているようである。
 5)神幸祭。地車曳出後、神輿を御旅所(神社敷地内)まで移動させる。担ぐのは毎年きまった地区の青年団員が受け持つ。行列は総勢36人である。よくあるような掛け声はなく、神輿はただ御旅所までかついで移動するだけである。御旅所では神社で行った祭典と同じ事を繰り返す。神主・宮司以下参加者は全員は厳粛にしているが、神輿をかついだ青年団は参加せずてんでばらばらに座っている。
最後に簡単にお祓いをして一礼後、神幸祭は唐突におわる。全員自分の荷物を持って列を組まずに神社に戻って行く。青年団は来たときと同じように神輿をかつぐが掛け声も勢いよく動かすこともせず、その様子は祭りの神輿ではなく単に重たいものを運んでいるにすぎない。
 以上のように御旅所に神輿がとどまることはない。神社の伝承によると御旅所の祠には女性の神様が祭られていて、七夕のように年に一度だけ逢いにいくためなので、とどまることはしないということだ。本来の故事とは関係無さそうだが明治以前の祭祀の記録が一切無いためにくわしいことはわからない。
  

5.祭の今日的意義(まとめにかえて)

 地車のような飾り立てた巨大な車を祭りに曳くようになったのは京都の祇園祭の山鉾の影響といわれている。祇園祭は疫病を超自然的存在とし、それを町から追い出すことを目的にはじめられたが、日本のすべての山車が疫神退散目的の祭りに使われるわけではない。
大阪に数多くある地車が使われるのは秋祭りである。これは明らかに収穫祭である。ほかに巨大に飾り立てた山車が曳かれる事以外京都の祇園祭との共通点はみられない。
 これは祇園祭とは関係なく独自に存在していた地方の祭りが祇園祭同様祭礼と化したときに、氏子が他の者に自らを誇示するために祇園祭の山鉾を参考として巨大な山車を造りはじめたことが始まりではないだろうか。地車とは氏子が独自に作り上げたもので、「ハレ」の舞台のために「お祭騒ぎ」を行なうことが目的であろう。大阪の地車同様巨大な山車が使われる祭りは全国各地にあるが、それらの山車は祭の本義はまったく別系統をたどって各地で融合したということが言えるだろう。


参考文献

藤田規一編集『富田林市誌』富田林市役所,1995
『富田林の文化財』富田林市教育委員会,1990
岡本寅一『富田林市廿山村五軒家の歴史』〈個人出版〉,1986
井上正雄『大阪府全志 巻ノ四』清文堂出版,1976
谷川健一編『日本の神々―神社と聖地 第三巻 摂津・河内・和泉・淡路』白水社,1984
西角井正大『民俗民芸双書99 祭礼と風流』岩崎美術社,1985
福原敏男『祭礼文化史の研究』法政大学出版局,1995

山車のいろいろ


    1999年 7月28日 出力


    水龍〈shuilong〉