山鉾の無い「祇園祭」

1998年11月21日 増補

 

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祇園祭について

日本三大祭りの一つ、京都の祇園祭は、千百年の伝統を有する八坂神社の祭礼です。
古くは、祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、貞観11年(869)に京の都をはじめ日本各地に疫病が流行したとき、「これは祇園牛頭天王の祟りである」として、平安京の広大な庭園であった神泉苑に、当時の国の数−66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を祭り、さらに神輿をも送って、災厄の除去を祈ったことにはじまります。
初期の頃から車が使われていた祇園祭ですが、現在のような山鉾巡行が行われるようになったのはもうすこし時代が下って、南北朝の末期といわれています。
その後も時代や社会の変化に応じて変遷を繰り返し、今のような形になりました。
祇園祭というとほとんどの人は勇壮華麗な山鉾巡行を想像することと思います。
でも、山鉾の陰に隠れたようになっていますが、祇園祭にもお神輿があります。
お神輿はその字のとおり神様の乗り物です。
祇園祭とは、八坂神社の神様がお神輿に乗って御旅所にいき、そこに1週間留まった後、再び八坂神社に帰って行くお祭りです。
御旅所に行くときが神幸祭(しんこうさい)、八坂神社に帰っていく時が還幸祭(かんこうさい)といいます。
山鉾はその神幸祭、還幸祭の前に行われる行事なのです。
ですから、昭和44年までは今と同じ7月17日だけでなく、7月24日にも行われていました。
このレポートは1998年に行われた祇園祭の神幸祭、還幸祭を中心としたお神輿の行事を追いかけたものです。
残念ながら、山鉾は登場しません。

1.7月10日 神輿洗い

感想は、「とてもよかった!!」
それに日本三大祭りのひとつ祇園祭でありながら、見物人が本当に少ない。
たぶん、ほとんどの人は山鉾巡行がすべてなんでしょう。
神輿を担ぐって言うのは本当にカッコがいい。みんなの息もぴったりで。
神輿が出るのは日が落ちてからで写真を撮るには悪い条件ですが、あまり写真に頼りすぎると大切なものを見落としてしまうので、要所以外では写さずに観るようにしました。

京都の町衆というと祇園祭のような「華麗」とか、「壮麗」というイメージですがなかなかどうして。
結構勢いあります。大きな鉾と山のイメージの「祇園祭」とはギャップがあります。
でも、これが祇園祭の中心行事です。

まず神輿蔵が開けられてお神輿が本殿の前にある舞殿に移されます。
ただ、3基もお神輿があるにもかかわらず東京の町人神輿のように競い合いません。
たった1基しか動かないの淋しいといえばそういう感じもします。(あとの2基は舞殿に鎮座しています)
しかし、もともとお神輿というものはその名の通り神様の乗り物ですから、競い合うようなものではないんです。だんじりとはちがって。(実は東京の神輿ももとは山車だったんです)
だら本来の神輿の形なんでしょうね、これが。
神幸祭に向けてお神輿を清める神輿洗いですが3基のうち清めるのはなぜかたった1基だけ。
お神輿は四条大橋の上で”洗う”のですが、神輿の前に松明が道を清めていきます。
松明だけが橋までいって帰ってくるのです。(写真参照)
大きな松明を橋までひっぱていく。ちょっとした火祭ですね。

2.7月17日 神幸祭

神輿洗いの1週間後、お神輿は神様を乗せて御旅所に向かいます。
またこの日は午前9時から山鉾巡行が行われます。
京都に着いたのは3時過ぎ、午前中の山鉾巡行がうそのようにいつもの人通り。
4時から八坂神社では鷺舞の奉納がありますが、お神輿が出るのは6時です。
お神輿はその名の通り神様の乗り物ですので、昼間は動きません。
(日本古来の神様の祭りは夜に行うものなのです)
お神輿は3つ(それと子供神輿がひとつ)が御旅所まで行きます。

鷺舞の前に山鉾巡行同様お稚児さんが登場するのですが、
多くのひとが長刀鉾のお稚児さんと勘違いしていました。
祇園祭は町衆が行う山鉾巡行と、神社が行う神輿渡御はきっちりと分けられています。
お稚児さんもしかり。
きっと町衆が神社を真似たのでしょうが、山鉾巡行のほうがメジャーですから仕方がありません。
お神輿を知ってるだけでも十分でしょう。
ここでも「祇園祭=山鉾巡行」の図式が一般的なようです。

3つのお神輿はそれぞれの3との氏子組が舁(か)くのですが、なかでも「錦」の氏子(錦市場の錦です)は最も小さいようで、松尾さんの舁き手さんが手伝いに来てました。
その松尾さんの舁き手さんがいうには、「お神輿は松尾が一番由緒がある。
大きさはお稲荷さんが一番」だそうです。
祇園さんのはそれほどではないようです。
その人たちが言うには「舁き手が多すぎる。東京と同じや」。
いやあ、神輿というと東京とイメージですが、そうでもないようです。
でも、祇園さんも十分カッコいいのですからいいと思います。

「ヨイトー、ヨイト!」の掛け声でお神輿は動き出します。
途中祇園さんの前(四条東大路)で持ち上げて回します。
迫力ある神幸祭最大の見せ場です。
お神輿を持ち上げて「まわせ、まわせ」の掛け声でゆっくりと回わします。(写真参照)
これも神輿振りというのでしょうか。
そのあとそれぞれの氏子の家をまわって四条通の御旅所を目指します。
もちろん、2時間以上の渡御でずっとこんなことしているわけではなく、ふつうは車輪をつけてしずしずと移動します。

そして四条寺町の御旅所に到着です。
さて、みなさんは祇園さんの御旅所をご存知でしょうか?
多分知っているはずです。とくに地方の方は。
四条通に面してちょうどお土産物屋さんが並ぶ新京極通りのアーケードのつきあたりに「四条センター」というお土産物屋さんの総元締めのようなものがありますよね。
そこが御旅所なんです!
そのあたりにあるのは知ってたんですが、まさか土産物屋とは・・・(もちろん、中はすっかりかたずけられてますが)
どうりでいくら探しても見つからないはずです。
伏見のお稲荷さんなんかは京都駅の南にりっぱな御旅所がありますし、お土産物屋の御旅所なんて見たことも聞いたこともありません。(日ごろはお土産物やさんに「貸してる」そうなんですが・・・)
出発順にお神輿は到着して御旅所の前でお祓いを受けて中に入ります。
1基めのお神輿は時間通りでしたが、残り2基は1時間近く遅れて結局、帰りは最終になってしまいました。

ぼくにとってはお祭りというとだんじりなんですが、お神輿のよさを再認識しました。
結局形じゃないんですね。お祭りそのものがいいんですね。

3.7月24日 還幸祭

さて、神幸祭の1週間後、御旅所(四条センター)に行っていた神様がお神輿に乗って神社に帰ってくる還幸祭です。
簡単に言えば先週の逆順でそれほど変ったことはないんですが、コースは若干ちがいます。
神事も2回目になると目が慣れてきていろんな事が見えてきます。
3基のお神輿はそれぞれの氏子さんが舁(か)くのですが、微妙にちがいます。
たとえば、お神輿を下に降ろしたときに3拍子で締めるんですが、中御座を舁(か)く三若(さんわか)は3拍子をやりっぱなしでちょっと締まりがありません。
東御座の四若(しわか)は小さくてを挙げ、なんかめどくさそうです。
これも締まりはありませんが、興奮してくるのか次第に大きくなってきます。
最後の西御座は大きくてを挙げます。こうでなくては締まりませんね。
3つの氏子の内、西御座の錦(錦市場の錦です)は、神幸祭のときも還幸祭のときも新京極にある錦天満宮にお参りします。
なんか、3つのちがうお祭りをひとつにしているようなほど、それぞれ個性があります。

その錦は氏子の数が十分でないようでよそから舁き手の助っ人を呼んでます。
助っ人は同じ京都の松尾さんところのようです。
同じお神輿を担いでも助っ人なので法被は無地で、氏子と区別されます。
2時間ほどの巡行ですが、神社から離れるとお神輿の中央に車輪をつけ、ほとんど山になってしまうので担がずに曳く形になります。
ただし、車輪は二つなのでそこを支点にして上下に振ることができます。
当然昔はすべて担いで回ったはずですから、すごいですね。
舁き手が多すぎると文句言っていた松尾さんも実は車輪は使っています。

といいつつも帰りは盛り上がります。
一番の見せ場、四条通の突き当たり、八坂さんの階段は観客席に変り、歩道には人垣ができます。
といっても、山鉾よりもマイナーなのかテレビ局は来てませんし、見物の人もちょうどいい数です。
9時半になると最初の中御座がやってきます。
交差点の中心ででお神輿は持ち上げられて3回まわります。
観客も拍手と「まわせ!まわせ!」の掛け声で神輿渡御最大の盛り上がりです。
そのあと急いで境内に走っていき、お神輿を待ちます。
朱色の門を抜けて境内に戻ってきたお神輿は(写真参照)舞殿の周りを3回まわって舞殿に納まります。
続いて東御座、西御座と神社に入ってきて同じように舞殿に納まります。
その後神様をお神輿から神社に移すのですが、終電に間に合わなくなるので見ることができませんでした。
今度くるときは宿を取るか、バイクでくる必要があります。
ちょっと、リサーチ不足でした。

京都という都会で行われる祭りを見て気になることがあります。
お神輿が商店街を行くときはいいのですが、四条通や河原町通りのような大通りを通るときは交通規制が敷かれ、ときには車が止められます。
もちろんこれは警察が行わなければならないのですが、ときどき氏子が警官を怒鳴っているところを目にしました。
祭りということで警官はおとなしく職務を遂行していましたが、氏子との間のコミュニケーションがうまくいってないようで、警官を氏子たちが仕切っているシーンを何度も見ました。
山鉾巡行も昭和44年までは24日にも行われていましたが、それが交通規制の問題で17日だけになったのです。
伝統のある日本の祭礼もこのような都市では行いにくくなっています。
今後もこのような祭礼を続けていくには伝統を捨てて形を変えていく必要がまちがいなくありますし、現に祇園祭は近年変質を遂げています。
今の日本は祭りを行いにくい社会に変っていっています。
おそらく祭礼の形骸化は今後も進んでいくでしょうね。
歴史も由緒も時間の流れには逆らうことは無理なようです。

4.7月28日 再び神輿洗い

さて、祇園祭も昨日が事実上の最後です。
正式には29日の神事済奉告祭で本当の終わりになるのですが。
28日の神輿洗いは10日にあった神輿洗いとほとんど同じ内容です。
そのためか素人(定年退職)カメラマンはほとんどいませんでした。
単に写真を撮ることだけが目的ならば必要はないでしょうね。
逆に私にとっては同じ物を2度見れるので前回チェックできなかったことをチェックできるので助かります。
1年待たなくてもいいのですから。

神輿洗いに出るお神輿は3基のうち中御座の1基だけです。
10日の神輿洗いと同じです。
3基のお神輿はそれぞれ舁く氏子が決まっています。
中御座のお神輿は三若(さんわか)の氏子が舁くのですが、この前後の神輿洗いはどういうわけか四若(しわか)が舁きます。
そのため、神輿に結び付ける担ぎ棒は「東御座」と
書かれているのものを使っていました。
なぜ神輿洗いは1基だけなのか、なぜ氏子が舁かないのか。疑問は山盛りです。
そのことを聞こうとしましたが、自分たちのお神輿でないからなのか四若の舁き手は愛想が悪くなります。
どうも、好きで舁いているのではないような気がします。

そのためかどうか、お神輿の見せ場は少なく見るならば神幸祭、還幸祭の方が見せ場が多くおもしろいですね。
でも、神輿洗いはお神輿の巡行の前に竹を束ねた大きな松明が道を清め、お神輿を洗う以上大橋の上に真っ直ぐに立てて、「まわせ!まわせ!」の掛け声に合わせて回します。(写真参照)
そのあと大きな松明は同じ道を戻りますが、お神輿が行くときもその前後を少し小さ目の(それでも十分大きいのですが)松明が清めていきます。
10日は、単に松明が移動するだけに見えていましたが、よく見ると松明から赤く燃えている炭がぽろぽろおちてきます。
それが松明の通り道に転々と残されていきます。
それを見ていると、本当に道が清められているのがわかります。
見た目の派手さはないかもしれませんが、祭りの形式美としては神幸祭・還幸祭よりは意味深いものを感じました。

この松明も不思議な物で、はじめに道を清めるときは氏子の人たちがお神輿の巡行のときのように松明を担いでいくのですが、お神輿の巡行のときは「宮本講」という法被を着た人が担ぎます。
「宮本講」の人たちは松明の管理もやってます。
「講」というのは一種の民俗的互助会のような物なのですが、このような形で祭りに参加することがあるとは知りませんでした。
ただ、松明を担ぐのは地味のわりに重く、かつ熱いのでお神輿を舁くのとちがい単なる重労働のようにしか思えません。
なにか民俗的な意味があるような気がします。

神幸祭・還幸祭のように派手さはないものの祭祀としての疑問が山ほどありました。
この祇園祭の歴史を考える上で重要なキーがいっぱいあるようです。
これも神輿渡御をすべてみたからわかることで、多くの人にとっての祇園祭である山鉾だけを追っかけていれば見えないことだとおもいます。
祇園祭で最も派手な山鉾巡行よりも意味深い神幸祭・還幸祭。
しかしそれよりも謎が多い神輿洗い。
祭りというものは単に目立つ所だけを見るのではなく、始まりから終わりまでを見なければわからないものだということを実感しました。


祇園祭フィールドワークもどき


    水龍〈shuilong〉