日本の宗教−神道と仏教の歴史的関係−

神仏習合(しんぶつしゅうごう)

 日本固有の神祇信仰と仏教が混ざり合い、独特の行法・儀礼・教義を生み出した宗教現象。他文化と交流のある世界では一般的な現象のこと。たとえば、中国でも仏教と道教が習合し、寺院に神がまつられ、道観に仏が祭られることがある。

 日本では千年以上のものあいだ複雑な混淆・折衷が続けられてきた結果、神仏両宗教と日本の歴史的風土に最も適合した形へと変化し、独自の習合文化を生み出した。
 神仏習合のはじまりは神宮寺の出現である。霊亀年間(715〜17)の越前国気比神宮寺や、養老年間(717〜24)の若狭国若狭彦神宮寺の建立はその先駆けをなす。

 神を仏の鎮守としてまつったのは政治支配側の政策的なものであるのに対し、仏に対して神を低く位置づけるのは、一般民衆を含めた地域社会に僧侶が仏教を弘める方便として考えだしたものである。後発の仏教にとってすでに日本で広く信仰されている異教の神の祟りを抑えると同時に、髪に対する信仰をそのまま仏に対する信仰へと変化させることができた。

 承平五年(935)のころ、筑前国筥崎宮の神を権現と呼び、寛弘元年(1004)ころ、尾張国熱田神社は権現とよぶ称するにいたった。
 権現とは権(か)りに仏が化して神と現われるの意で、習合の理論となる本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)の先駆を示すものである。→本地垂迹説

 奈良時代より御霊信仰が高まり、貞観五年(863)京都神泉苑の御霊会では仏教色が強く加わるようになった。以後、洛中・洛外にあらわれた多数の御霊社は、多くの旧来の疫神祭祀に密教徒が関与したものである。
 中世には祭神に本地の仏尊を設定することが一般化し、本地垂迹思想が徹底するところとなった。

 明治元年(1868)、神仏判然令が出されて神社付属の社僧は復飾させられ、宮寺制は解体して習合体制は終わりをつげた。

本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)

 仏・菩薩が人々を救うために、さまざまな神の姿を借りて現われるという教説。このように形而上の存在であるはずの仏が現実の世界に姿形をとって現われるという思想は、大乗仏教の教論に広くみられるものであった。

 日本における本地垂迹説は、聖武天皇の時代にまでさかのぼる。朝廷は、高度な外来文化としての仏教を重んじたので、神仏同体の思想を打ち出して土着の信仰を宥和しようとしたが、神仏習合の思想としての本地垂迹説が、一般に広まるのは平安時代も中期以降のことと考えられる。

 仏教が伝えられた後、神祇は衆生と同じく煩悩の苦しみに沈んでおり、神は仏になるための修行の過程にあるものと説明され、そのような思想を背景に、奈良時代から平安時代の前期に多くの神社に、神宮寺が建てられた。
 神仏習合はさまざまな面で進んだが、平安時代の中期になると、多くの神社で祭神の本地仏を特定するようになった。

 本地垂迹説が広まり、日本人の多くに受け入れられるようになると、日本においては、仏法は、垂迹の神々なくしてはありえないという考えが広まり、垂迹の神こそ本体であるとする反本地垂迹説(神本仏迹説)が芽生え、室町時代に入って次第に広まっていった。

 江戸時代以降、本地垂迹説に集約される神仏習合の信仰は、庶民の間に広く受け入られるようになったが、しかし、国学者による復古神道の思想が広まると、本地垂迹説に基づく神道説は俗神道として排斥されることになり、明治時代の神仏分離政策によって否定されることになった。→神仏分離令神仏習合

神仏分離令(しんぶつぶんりれい)

 明治政府が発布した法令で、明治元年(1868)3月17日「神祇事務局ヨリ諸社ヘ達」を所見とする一連の布達を総称していう。

 明治政府は江戸時代の仏教国教化政策を否定し、神道国教化政策をすすめた。その過程で神社の中から仏教的色彩を排除しようとしたのが、神仏分離政策である。
 このように神社から仏教色を取り去っていく政策が着々ととられていった。この波にのり、これまでの僧侶の風下におかれていた神官たちは、この時とばかり明治政府の威をかりて、神仏分離にとどまらず、廃仏毀釈運動を展開し、全国各地で廃仏が行なわれた。
 明治政府は、神仏分離が廃仏毀釈でないことをしばしば力説している。→廃仏棄釈

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

 仏教寺院や僧侶を排斥する思想や行動。
 江戸時代にも小規模ながら各地で行なわれている。

 江戸時代、寺請制度により檀家を寺院の経営基盤とした僧侶たちは、自宗の信仰はもとより、教学や修行に対する厳しさをなくし、信仰抜きの民衆収奪に専念した。
 寺院僧侶の生活の華美に対する批判、堂塔伽藍の寄付の制限、戒名料の制限、宗祖の遠忌の寄付の制限、葬祭への出費の制限などがみられ、おびただしい統制がくりかえされている。僧侶は民衆がキリシタンでないと保障する寺請証文を書くこととひきかえに、さまざまな要求を民衆に課しているが、これが逆に民衆の廃仏毀釈思想をますます強めることにつながっていった。

 幕末には、これまで際限なく収奪していた寺院僧侶に対して徹底的に批判がなされることになった。

 明治元年(1868)の神仏分離令の施行後、江戸時代の仏教国教が神道国教に急旋回し、伊勢神宮を頂点とする神道国教化政策が着々と推進されていった。
 一方寺院僧侶から収奪の限りをつくされていた民衆も廃仏毀釈運動にはこぞって参加し、堂塔・伽藍や、仏像・仏画・絵巻物・経典・汁物などの破却・焼却に手を貸した。全国で破却され廃寺になった寺院数は、当時存在した寺院のほぼ半数といわれているが、現在までの調査・研究ではその総数はまだ把握できない。→神仏分離令

 明治6年にキリスト教禁止令が解かれると、寺院が握っていた寺請の権限はなくなり、檀家への支配の法的根拠はなくなった。
 さらに江戸時代に民衆の熱狂的信仰に支えられた各地の霊場信仰・山岳信仰の中心であった山伏やその寺、また禅宗の一派として大勢力を誇った普化宗はこの時期すべて姿を消されてしまった。民衆信仰に対する大弾圧が廃仏毀釈の名のもとに行なわれている。
 廃仏毀釈運動は江戸時代の信仰をくつがえすとともに、国家神道推進の強力な思想として展開していったのである。


日本 神道仏教関係史概略


先史時代  アニミズム・原始的信仰

古墳時代  原始的信仰の統一・統合化

飛鳥時代  仏教伝来
      貴族−仏教と統一統合神道の融合化(神仏習合のはじまり)
      民衆−統一神道+民間神社信仰

奈良時代  仏教が次第に広がっていく
      仏教と民間山岳信仰の習合→修験道

平安時代  民間の間にも本地垂迹説が浸透し、神仏習合化が進んでいく

室町時代  吉田兼倶により、神本仏迹説が解かれるようになる
      (垂迹の神こそ本体であるという考え方・反本地垂迹説)

江戸時代  神仏習合は庶民の間にも広く浸透

江戸後期  国学者による復古神道の思想広がる
      寺院の民衆からの搾取により廃仏毀釈の思想が芽生える

明治時代  神道を国教化するために神仏分離令が発布される
      知事によって寺院の統廃合が行なわれる
      神仏習合の寺社は神社か寺院かを選択しなければならなくなった
      神仏分離令により廃仏毀釈の運動が盛んになる
      寺院から搾取されていた民衆と、寺院に虐げられてきた神職たちが
      寺院の破壊におよび、当時の約半数もの寺院が廃寺と化した


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2003年8月25日 変更

    水龍〈shuilong〉