日本人と宗教


 日本人は無宗教である、と欧米人からよくいわれる。また日本人は無神論者である、と自ら公言したりする。しかし、日本人は無宗教でも無神論者でもないことは明らかである。欧米人とはちがう神とのかかわり方を持っているからそのように感じるだけである。欧米の宗教であるキリスト教などにおいて「God」は最高かつ唯一の存在である。しかし日本における「神」は至る所にいて、様々な役割を持っている。日本の「神」はどれもが等しく人々の信仰の対象になりうるのである。

 しかし、日本で信仰を集める存在はなにも神社や祠、神棚にに祭られている「神」だけではない。それ以外にも仏教の「仏」という存在もある。名称は違っているが、信仰の対象という点では「仏」も「神」も同様の存在ということができる。日本人の不思議なところは、同一の個人が「神」も「仏」も同時に信仰できることである。土着の信仰が仏教の信仰の下に完全に組み込まれてしまうという、仏教が伝来した地域でも他に例を見ない特異な習合が起こったことが日本の不思議なところである。
 この不思議な信仰は明治の神仏分離の以後も引き続き存在し、日本人は現在でもさまざまな人生儀礼などで無差別に各宗教施設に詣る。生まれたときや七五三などは神社に、そして死を迎え葬式は仏式である。また結婚式をキリスト教教会で行なうこともある。これが普通の日本人の姿である。この、一見無節操にも思える日本人の宗教観を理解することが日本人と宗教の関係を見ていく上でたいへん重要である。

 この浮気性の日本人の宗教観はどういうことであろうか。複数の神が存在している汎神論的な宗教観ならいざ知らず、その宗教の壁すらも存在していないのだから。日本人にとって信仰という行為そのものが存在しないかのようにも見える。しかし、その宗教の垣根がないというのが、日本人の宗教観である。あえていうなら、超汎神論である。
 日本人はあらゆる物に神を見いだしてきた。住んでいる土地、家、始祖、鍋、鎌、はてはトイレまで、何にでも神を見いだしてきた。さらに、国家が安定し、経済活動が活発になるにつれてひろく交流が行なわれるようになると、神もさまざまな能力を特化させるようになり、商売繁盛や病の治癒などひとびとの願いを聞き届けるようになる。そうなると、その神は村の神ではなくなり、神の力が及ぶ範囲も氏子を超えていってしまうのである。国家建国の神でもないのにやがて、日本全国に信者が出現するのである。もちろん、それには御師と呼ばれる神社の営業マンの存在があってのことである。日本の神社の中心である伊勢神宮にしたところで、御師によって信者を獲得していったのであるから、なによりも宣伝活動が大切だったのである。

 もちろん、新たな外部の神を信仰できるのも、超汎神論的な素地があったからにほかならないのではないか。したがって、日本人にとって後発の宗教であったキリスト教もかつての御師のような宣伝活動が効を奏し、その「ご利益」(キリスト教の場合はファッション性の方が大きかもしれないが)が認められた結果、宗教として認められるようになったとも考えることができるだろう。もちろん、長期間の政治的排斥政策も関係はしているだろうが。

 このように日本人にとって宗教というものは単一の深遠な体系よりも、自分たちの生活に深くかかわることが最優先なのである。言い換えれば、自分たちにとって望ましい「ご利益」を与えてくれれば、それはなんであれ信仰の対象になりうるのである。したがって、日本人の願いの数だけ神や仏が必要なのである。「鰯の頭も信心から」これが日本人と宗教のかかわり方をよく表している言葉といえるのではないだろうか。

●第1展示室 日本の人々のこころ
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  1999年 5月16日 出力


    水龍