刀子(とうす)。石原初子。明治三十九年九月生れ、大阪北新地に生れ育つ。大正十五年より作句。靑木月斗門下の女流として若くより名あり。師の句座に侍して仕えた。師没後はひとり慎みながら暮らし、昭和四十二年九月二十六日、滋賀大津にて沒。享年六十二。「(悼刀子女史)身に入みてかなしきをみなとぞ思ふ 正氣」。
ここには、月斗関連のものだけを置くことにする。
師走対談へ
散華抄
燕來と佛に告ぐる朝かな
寂寞の天地を雁の歸る也
御魂を守りて雁の歸る也
行雁も魂もとどめんすべなかり
春寂々よみぢの旅を思ふ時
經よめぬ身の悲しさよ花の冷
人について唱ふる經や春寒く
花思ふいとまあらなく傷心に
悲しみの日々に深しや花咲くに
花遠近佛を守りて家にあり
胸中に師や在す也花滿開
黄泉の花に坐してや在す佛かな
朝念暮念花に佛をいのる哉
明暮を佛に侍しつ花思ふ
籠りゐて花に思ひや切々と
花をよそに佛とあるや思出に
花寒し二十四年の思出に
花寒く行路の難を思ひゐる
花や憂し深き嘆きにありつれば
愁深うして今年花を見ず
如何にして魂慰めむ花の晝
花の晝佛とありて思ひなし
思ひ空しく落花の庭に立ちにけり
落花紛々よみぢの花もかくあるや
花十日佛まつりに暮るる哉
行春や般若心經棒讀みに
佛まつりに暮れ行く春や慌し
春や今年佛に侍して餘念なし
忌明の句筵に春を惜みけり
忌明を出づれば山の殘花哉
(昭和二十四年『春星』緑陰号より)
漣艸紙
昭和二十七年より『春星』に連載した「漣艸紙」（一から十五）から。一部を省略し、青木月斗に関する回想部分の文章を抜書きした。（島春）
漣艸紙（一）
時鳥山移りして聲遠し 月斗
子規太ハナハダ遠くなりにけり 同
又、ほととぎすの鳴く季節となった。今月になってから二回聞いたが、私の今住んでゐる大津は、湖と山とを控えてゐるので、時鳥もきけるし、秋には雁などもよく鳴き、五位鷺や、その他私の知らぬ鳥も、その季節季節に鳴いて過ぎるし、鶯も近所の庭に春から來てゐるのが、未だによい聲を聞かせてくれてゐる。
時鳥も少し注意をしてゐれば、近くの逢坂山で、夕方などに鳴いてゐるのをきける事もあるのだが、町の騷音や、せまい道路に遊ぶ子供達の聲にかき消されて、私の耳に這入るのは、大てい夜になってからのものである。叡山の方から湖沿ひに東へ鳴き移って行く時もあり、逢坂山の方から山傳ひに石山の方へ飛び去る事もある。その時の天候の加減もあるだらうが、澄んだ聲や、濁った聲のもあり、時には低い調子で鳴いて行くのもある。
二十年程前、知人と南河内の地藏寺へ遊びに行って、夕方辭さうとしてゐると思ひがけなく頭上に子規の聲をきいた。それは庭にある五葉の松に來て止まってゐるので、枝移りしたりして、一頻り鳴いて飛去って行ったが、餘り閒近なので、聲が大きくて情趣が無かった。矢張、先生の句にあるやうに、遠くへ鳴き移って行くのが良いやうに思ふ。それも餘り多くは鳴かず、二聲三聲位で、未だ鳴きもやすらしと、暫くは思ひをひそめて聞き澄ましてゐる時の境地がよいのである。
初めて子規をきいた時については、苦しい目に會った思出がある。大正十五年の七月に、先生が初めてＢＫから「時鳥について」と云ふ題で、放送された時、當日朝、電話があり、「君は未だ時鳥を見た事も、きいた事も無いだらうが、僕の時閒の前に、時鳥を聞かせる放送があるさうだから同行したまへ」との事に、櫻宮に馳せつけて、圭史氏と三人で放送局へ向った。その頃、放送局は高麗橋の三越の八階にあり、防音裝置を施された廣からぬ放送室は、室ムロのやうであった。當日は油照のむし暑い日で、何本かの太い氷の柱が立ててあったが、それでも汗が滲み出て、息苦しい位であった。部屋の處々には、臺が置かれて時鳥が一羽づつ入れられた籠や箱がのせてあり、飼主であらう羽織袴の翁や、當時の動物園長であった林氏も見えてゐられた。時鳥は五六羽もゐたであらふか、覗いて見ると鷲を小さくしたやうな美しからぬ鳥で、鋭い眼をこちらに向けるのである。さて、いよいよ放送時閒になり、アナウンサーがスヰッチを入れたので、一同息をひそめて待つ。しばらくしたが一向に鳴き出しさうも無い。室内は水を打った樣に靜かである。私は、先生達と竝んで長椅子にかけてゐたが、その時締めてゐた博多の單帶が、ちょっと身動きをしても、ギュウギュウ鳴るので、汗を拭ふ事も出來ない。常は氣にもとめぬ音ではあるが、餘りに周圍が靜かすぎるので耳に立つのである。これはいけないと思って、身を固くしてゐるのにどうしても鳴る。時鳥は依然として沈默を守り、時は刻々と進む。たまり兼ねたか、園長さんや、翁がそっと立って箱をあけて、小さな蟲を與へたり、光線の具合を調べたり、一所懸命に世話をしられたが、遂にどの子規も鳴かず、豫定の三十分は過ぎてしまった。次の先生の放送中に鳴くかも知れぬと言ふので、子規はそのままにおかれ、先生は、マイクの方に立って行かれたが、その時に「君の帶が鳴るので、子規が鳴けへんのやで」とささやかれた。私は娘心にこれは大變な事になったと、責任を痛感したが、今更部屋を出る事も出來ず、心配で體中を火のやうにほてらせつつ、先生の大事な放送中に、たとへ一聲でも鳴いてくれます樣にと祈ってゐた。この時の先生の放送は、氣もそぞろに聞いてゐたので、餘り記憶にとどめてゐないが、話の中に、カッカカカカカと、時鳥の鳴き眞似をしられたのが、實に巧みであったと、今でも思ふのである。
やがて放送は終ったが、通じて一時閒を、いのちのちぢまる思ひをして待ったのに、時鳥はつひに鳴かなかった。三斗の汗が、一時にき出る思ひで外に出で、私は所用があって、他へ廻ったが、買物に寄った店のラヂオを、何氣なくきくと、先代の春團治が落語をやってゐるのであった。そして驚いた事には、春團治がいい調子でしゃべりまくると掛合ひのやうに、子規が鳴いてゐるのである。それも一羽ではないらしい樣子である。今の先迄、あんなに苦勞をさせられたものをと思ふと、馬鹿馬鹿しいやら、無念やらで、匆々にそこを離れてしまった。
あとで先生に、その時の苦しかった事を話すると、大笑ひをされて一句下さった。
時鳥待つや女の帶が鳴る 月斗
漣艸紙（二）
(前略)
玻璃丸は、昨春進水した、びわ湖上では最大の觀光船で、浴室、食堂、喫茶室などの設備があり、遊戲室には、流行のパチンコもある。午前十時發、夕方五時に歸港するのであるが、朝曇の湖に出帆の銅鑼が鳴りひびくと、何處か遠い所へ船出するやうで、淡い旅愁を感じる。
島めぐりは、これで五六回目であるが、此前行ったのは昭和十二年の九月であったから、丁度十五年ぶりである。此前の時は、松坂屋の倶樂部の催しで、汽船を一隻借り切り、竹生島で一泊、仲秋の月を觀賞して、倶樂部員の親睦を計らうとの企てであった。當日の參加會員は百數十名であったが、俳句部からは、月斗先生を擁して、十五六名が參加した。その日は、午後大坂を立ち、夕方乘船したが、九月と云っても、まだ殘暑の候であったので、夕日を避けて選ばれた船底の室に落着くなり、冷いビールが次々に拔かれた。當時は、未だ先生もよく飮まれた時分であり、蓼井、翠西、牛琴、雷可、寒牛、洛中と云った酒豪の諸氏が、ずらりと顏を揃へてゐられるので、見る見るうちに、空壜が座右に竝んで行った。談笑の裏に、船はいつしか比叡、比良の連峰の沖も過ぎ、窓の眺めはすっかり暮れて、湖畔の漁村の燈のまたたきが見えてゐた。
その時、誰か此酒座に加はらなかった人が戻って來て、「先生、もうぢき竹生島だっせ、折角船に乘り乍ら、よい景色を見はれへなんだのは、先生達と圍碁の部の人達だけだっせ」と言はれる。圍碁の部の人達は、展望のきく一番よい室を占領してゐながら、大津を出るなりから、盤面を睨み合ひで、景色などには目もくれなかった、との事に一同大笑ひをした。
船上に烏鷺鬪ひ、船底に酒中の天地あり、琵琶湖に來て琵琶湖を見ず俳人句を作る。面白いことだと私は心ひそかに思った。
竹生島には電燈がないので、一行のために棧橋から宿舍寶巖寺迄の路上に、蝋燭を立て竝べてあったが、澄んだ夜氣の中に、ゆらぐ裸火の美しさは印象的であった。小憩後、觀世音本堂や都久布須麻神社に參拜、湖に臨んだ拜殿に集合した。その夜は十七夜頃の月であったが、皓々として湖上に輝き、鳴き交しつつ島をめぐる雁の棹も明らかに見られた。拜殿は觀月堂とも呼ばれ、舞臺になってゐたが、その四圍に掛け連ねた岐阜提燈が、湖からの涼風にゆれるもとで、音曲部の奉納演奏が、深更迄催された。
俳句は、川柳、圍碁の班と客殿に合宿したが、かしましいばかりに鳴き競ふ蟲の音に、皆眠りも淺く、翌朝は未明に起き出て、淸らかな湖水で顏を洗ひ、本堂の法要に參じたり、句會を催したりして、午後歸路についた。船に乘る前、土産物など竝べた茶店で、紅雲氏であったかが、壺に入れた鈴蟲を買はれた。此島には、鈴蟲が澤山ゐて、土産に賣ってゐるのである。燒鮒で飼ふので良い聲なのだと、餌用の小鮒も串燒にして賣ってゐた。この時の先生の吟を二三覺えてゐる。
都久布須麻神社とぼりぬ月今宵
竹生島夜すがら月に雁のこえ
朝の湖に顏を洗ふや空に雁
鈴蟲を土産に買ひぬ竹生島
此樂しい行を倶にした方々も、先生その他或は沒しられ或は遠くへ轉任されたりして、今は二三氏と時折顏を合すのみとなった。玻璃丸船上に、孤影悄然と、往時を追想する自らを省みる時、にはかに秋風の吹きめぐるを覺える。
(後略)
漣艸紙（三）
録音ばやりの世の中。今回は下手な私の文章を休み、左の一文を再録して、皆様と共に心耳を傾けて、文中の意を深く味はひたいと存じます。
此文は、昭和十二年春、大阪の松坂屋に倶樂部が創設され、俳句講座を先生が担当された時、初心者への宣伝用のパンフレットにのせられたものですが、「同人」にも断片的に書かれた事もあり、句会などでも俳話として度々説かれ、自他共に戒めとされたものであります。
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一言挨拶 靑木月斗
良寬和尚が云ってゐるのに、
「貧道が好まぬものが三つある。詩人の詩。書家の書。料理人の料理」。
誠に、その通りである。歌よみの歌。俳句よみの俳句。これらは、一口に云ふと、上手に過ぎて眞實性に乏しいものが多い。書家の書もその通りである。良寬は詩もうまい。歌もうまい。書もうまい。その良寬が道破した言に閒違ひはない。
大雅堂は書畫共に俗流を拔いた人であるが、好んで、寺子屋にいろはを書き初めた子供の淸書を貰って來て眺めてゐた。その純眞さ、天眞爛漫を愛してゐたのである。
人が良寬に書を乞はれると「もっと手習ひをして進ぜませう」となかなか書かなかった。
平たくいふと、素人や子供は地金である。地金は刀でもなければ藝術品でもない。百練の後に名刀になり、習熟の上にその人々の天稟が發揮されて光りのある藝術品になるのである。
日本の風土に生を受けたものは皆句を解する。句を作る素質を稟けてゐる。それの案内者として一日先發した者がこれに當る迄である。
良寬ほどの書を書く人が、「もっと手習ひをしてから進ぜませう」と云ふ事を味ははねばならぬ。味噌の味噌臭きは上味噌でない。詩人の詩、書家の書、料理人の料理でない、我家の俳句。我自身の俳句。それは「手習ひをしてから」成るのである。
予は旗振役である。案内役である。走るのは、あなた方である。歩くのはあなた方である。予は東西はわかってゐる積りである。
漣艸紙（四）
大阪の同人本會の初句會では、吉例によりお屠蘇が出るが、會者の顔が一應揃った頃を見計って、幹事の諸氏が、モーニングの膝をまげて、昆布や、するめを配ったり、或は袴を鳴らしつつ瓶子や、酒杯を、うやうやしく捧げて一同にすすめて下さる。杯が一巡廻った頃には、芳醇の香は座に満ち、各陶然として長閑な顔になる。
此行事は、月斗先生亡き後も、続けられてゐるが、上座に先生が居られぬ淋しさはあっても、和やかな雰囲気に変りはない。
お酒はよいものである。お茶や、水では、新年句會のめでたさは味へない。
私は、元来好きで飲んでゐたのではないが、若い頃にはすすめられるまま杯を重ねた。近年健康をそこねてからは禁酒同様の上、酒座にも縁が無くなったので、今は別に戀しいとも思はない。
それでも折にふれて読む、李白や、杜甫の酒禮讃の詩には、深く共鳴をしたり、酔中の天地を窺ひ得た喜びを感じたりする。そして、もうその様な天地に、自分は這入れぬと思ふと、淡い郷愁のやうなものが湧き、淋しくなる。（中略）
月斗先生も、お酒を愛されたが、酒仙と云ふ方ではなかった。日夜、酒客となられる機會が多くて、時には大醉もされたが、一人の時は、自らの限度を超えるやうな飮み方はされなかった。
月村老は、酒座は好きで、長時閒堪へられるが、ほとんど飮まれない。二三杯で眞赤になられる。時には、人に強ひられて泥鰌掬ひを踊られるが、我流乍らなかなか輕妙であ る。
(以下數氏については中略)
故人で、私の知る限りでは、朝冷、夜臼、秋海棠、艸加、古川、青雉、閒去、露舐、南冬、心月女の諸氏が強かった。
圓満居士の朝冷氏は、酔ふと口をゆがめて、良い聲で、博多節など唄はれた。
古川、青雉、南冬の三氏は、男盛り年を、お酒が因でか死を早められたのは惜しい。艸加老の酔ひぶりは長閑であった。江戸っ子露舐老は、酒樓にのぼると、部屋の隅か、控ゑの閒で、懷から新しい足袋を出して、はき替へてから座につくと云ふ通人ぶりであった。
好々爺夜臼老は、怒り上戸で、先生は、酗(さかがり)の翁と呼んでゐられた。いつかも、酒座に茄子が出てゐるのを見て｢市場で茄子が一個一錢で賣られてゐるのは安過ぎる｣と云って怒り出された。夜臼老は、丹波出身で農家の勞をよく知ってゐられるので、平素の感謝の念が、酗となって現れたのである。
閒去氏は、泣き上戸であった。晩年、酒精中毒で、口が思ふやうにきけなくなってからは、餘計涙もろかった。
先生は、親しい人と飮んでゐられる時には、よくその人の短所をとらへて、からかはれる事があったが、閒去氏が醉うて、金時の樣に赤くなり、片時もはなさぬ愛用のパイプを、少し斜に銜へて、首を微かに上下に振り出すと、先生は、汐時よしとばかりに、「閒去泣くな」と云はれる。閒去氏は、「ハイ、先生」と答へるなり、もうその大きな眼は時雨空である。ひそかに先生の袖を引いて「泣かしなさんな」と、私が止めると、先生は面白がって、もう一押しとばかり、「寒雷（閒去氏の長男）は、どないしてんねん」と云はれる。とたんに、閒去氏の眼からはらはらと、大粒の雨が降り、「機嫌ようしとります」といふ返事も、涙にかすれてしまふのである。そんな時傍から誰彼が慰めると、雨はいよいよ本降となる。それで、白けた座の中に沈默を守るか、さりげない話をするかして、他の者は、雨の晴るるのを待つのである。理由も何もないのに、いとも簡單に泣かれるので、先生は、女の子が、いちま人形のお腹を押へて泣かすやうに、時々、この問答を繰返された。
心月女史は、大酒家であった。長醉を願うてやまぬ、といふ飮みぶりであった。
由來、閨秀畫家や、女流作家には、大酒家が多いときくが、女流俳人では、心月女史以外は、寡聞にして知らぬ。
俳句は短詩型だから、お酒を飮んでまで制作意欲を燃やす必要が無いと云ふのだらうか。それとも、女流俳人は、皆つつましやかに、乙に澄まして、ゐなければならないのだらうか。
稀には、綠酒の杯を干して、醉中に、雛百吟を得たとか、春愁五十句をものした、とか云ふやうな女傑が現れて、男子をして、顏色無からしめても、よささうなものだと思ふ。
漣艸紙（五）
（前略）
廿一日午後、二月堂氏を帶同して、凡水兄事、凡ちゃん、颯爽と現はる。「二月堂君に、此閒貴女を訪問した話をきいて、急になつかしくなり來ました」とのこと、昨夕速達が來て「明日訪問、酒、肴持參、決してお構ひなきやう云々」とあったので、酢莖と、瀨田の蜆の味噌汁だけを用意してお待ちしてゐた。
凡水氏、散髮したての頭に、新しい服、新しい靴、皮の提カバン、レインコートといふいでたちで、大いに若返ってゐられる。凡水氏には戰後は二年目か三年目に一度位しかお會ひせぬが、今度は丁度まる二年ぶりの對面である。
先生の寫眞に燒香せられた後、直ちに提カバンから、サントリーウヰスキーの角甁を二つ出される。但し、中味は美しい山吹色の水である。早速カンビンを取り出して、火鉢に掛ける。二月堂氏は、大きな風呂敷包をけて、重箱に詰めた、ちらし鮓、煮〆、その他色々の山海の珍味を取り出される。お鮓と煮〆は、二月堂夫人が心をこめてつくられたものださうで、どれも先生の好物だったので、とりあへず佛前にお供へする。卓の上も、座右も御馳走で、全でお花見のやうだ。
一昨日、井耳氏や翠西氏と、金福寺詣をした話をしながら、私も小杯を傾けるうちに、陶然として來た。なつかしい昔話は、泉の如くつきぬが、二つの甁の春酒は、見る見るうちに減って行く。
この日、客への眼のもてなしにと、床に先生の初鮒の繪を掛けておいたが、その繪が、いたく御兩人の氣に入り、鮒のさしみが食べたいと言はれるので、早速買ひに走らうとすると、押しとどめて、先刻から降り出した雨の中を、相合傘の二人が、酒屋と川魚屋へ出向かれる。うれしさに何やら落ち着かぬ心のうちに、春の日も暮れて、追加のお酒もなくなった。
凡水氏がしきりに「歸ろうやないか、二月堂君、汽車の時閒は何時だ」ときかれる。二月堂氏曰く「凡水君はお酒がきれたら、あきまへんね。直ぐ歸ろう、歸ろうと言ふので」と、昔のやうに、夜と共に語り明かし度いが、凡ちゃんには、お酒の代りにお茶を煮て、といふわけにはゆかぬので、殘念乍ら幕を閉ぢる事にした。
二月堂氏から頂いたお便りに、歌が二首しるしてある。
そのかみの樂しきつどひ語り給ふ
君が頬にさす色美しき
思出は美しきかな春の夜の
この語らひもやがては斯くに
まこと、思出は美しく、たのしい。多難な人生に、思出を語り合へる友を持つ事は、大きな幸せである。先生が、道の友は、親身も及ばぬ有難いものだ、と言はれた事がつくづくと思ひ返される。
（『春星』昭和二十八年四月号）
漣艸紙（六）
近頃はすっかり筆不精、出不精となつてしまつた。枯木も山の賑ひにと思ひつゝ、句會へもご無沙汰勝になり、諸兄姉に申譯ない事と、陰乍らお詫を申上げてゐろ次第である。
戦前は、月のうちに二十日以上も、晝夜の句會に出歩いてゐた事を思ふと、我乍らまるで別人のやうな氣がする。當時の會も、同人本會の他は復活せず、淋しい限りである。
月斗先生は、多い時は、月に三十回以上もの會に出席されてゐたが、時には日取りが、かち合つて、午前中松坂屋、午後南句會、夜は京都句會と云ふやうに、一日に三座をつとめられた事も度々あり、暑い頃などお供をしてゐる連中が先に疲れてしまひ、二座だけでぬけて去ぬ人やら、先生にはげまされて辛うじて最後迄踏み止る人もあり、なかなか難行苦行の事もあった。
ざつと数へても、本句會、初歩句會、東西南北の四つの会、北郊、蘆屋、神戸、京都などの同人句會や、學校、銀行、会社 倶楽部等の會、個人の宅で催される會などで、ほとんど一ヶ月は埋めつくされ、その他臨時の會や講演などにも行かれた。
句會には、それぞれに異つた楽しい雰囲気があり、面白いものだと思ふ。本會や東西南北の會などは、その大半が、同じ顔触れでありながら、會場や幹事役が違ふだけで、各別な雰囲気をかもし出すのは不思議と云へば不思議である。
先生は、どこの會へ出られても、我家へ戻つた様に、親しく自由に振舞はれた。｢やあ、どうも遅くなりました｣と入口で挨拶をされると、参會者の面が一瞬安堵と緊張の色が走る。設けの席に通つて、座右の人達と、その時の寒暑の挨拶を交はされ乍ら、手提袋から、句帖、ペン、鉛筆、眼鏡、時計、煙草など取出して机上に竝べられ、皆が、すでに作句をしてゐられる時には、直ぐ幹事に題をきいて、そのまゝ黙つて作句にかかられるが、時間にゆとりのある時は、先づ煙草を一ぷく吸つけられてから、一座をずつと見廻され、｢さあ、もつと廣くなり給へ、そんなにかたまつてゐては窮屈ではないか｣｢○○君、そこの窗を開け給へ、莨の煙がこもつてゐるやないか｣又、暑い時分には｢さあ、みんな上衣を脱ぎ玉へ脱ぎ玉へ｣とすヽめられる。そして、誰彼と暫時和やかに話され、時到ると、幹事が、句集や歳時記を差出して「先生、題を何卒」と云なれるのへ、「困るなあ、出題は」と言ひつヽその場の顔ぶれによつて、作り易さうな題や、或ひは、ひねつた題を探された。
作句中は、雑談や私語をきびしく禁じられ、親しい人が饒舌をやめられぬ時は、小短冊に「無言會御連中」と書いて渡されたりして、口を封じられた。
いつかも、座に出てゐる煎餅を食べてゐる人に、「音をさせぬ様に食べる事、静かに作句してゐる隣人が迷惑をするやないか」とたしなめられた事もある。
清記の前には、「幹事君、清記は字をきれいに書く人に頼むやうに。清記をする人は、字の上手、下手は兎も角、文字を分り易く、丁寧に書く事、分らぬ文字があつたら、先輩にきいて、まちがった字や、ぬけてゐる假名づかひは親切に正しく直しておくこと、清記のあとで必ず誰それ清記と名を記して、責任を明らかにして置くこと、小短冊は捨てたり、丸めたりせずに、披講がすむ迄各自が、保存をして置く事」などヽこまごま注意をされた。
選の最中にも絶えず気を配られ、選紙を溜めたりしてゐると、早く廻すやうに促された。披講の時は「讀む方も、選に入つて名乗りをあげる方も、聲を大きく、みんなに聞こえるやうに明瞭にやつて下さい」と言われた。
履物の脱ぎ方にも注意を拂はれた先生を、若い人や、婦人の中には、恐れたり、窮屈がつたりされる方もあつたが、誰でも他人の事はよく眼について、心に思うてゐても、先生のやうには、なかなか言へぬものである。
先生が云はれた事は、只一片の老婆心からではなく、若い人を珠と磨かんために、又、よりよき雰圍氣のもとに、自他共に佳き句を作らんがために、努力をされたものであると思ふ。（「春星」昭和二十八年六月号）
漣艸紙（七）
子規忌が近づいた。大阪同人によって年々修される萩の寺の子規忌には、折柄盛りの萩を見られる楽しみがあるが、今年からは、月斗先生の句碑にお会いする喜びが加はった。去年の忌日には、私は病余を推して参会したが、句会の後の恒例の小宴には失礼して先に帰った。その席上で、月斗先生は天才の人か、努力の人か、といふ事が論じられたそうであるが、結論は両方を兼ねられた人であったという事でケリがついたらしい。
まこと、先生はその通りの人で、天分も持っておられたが、並ならぬ記憶のよさに加へて、非常な努力型の人であった。
凡そ文芸に携わるものが、誤った文字や、仮名遣いを用いて居ては不可ぬと、雑誌の上でも、句会の席でも、随分やかましく言われた。それで一人でおられる時には、句集、歳時記、禅林句集等色々書を坐右に積まれ、絶えず勉強をして居られた。又、自習だと言われて、五體字類や、漢字詳解などをよく見ておられたが、気に入った崩し方の文字があると、そこらの紙片に何度も書いて、手習いをされた。又、記憶だけに頼っていたのでは直ぐ忘れるからと、面白い字句や、その他日常の事物で、耳新しいものがあると、必ず手帳につけて居られた。凡そ何事によらず深く注意を払われ、古今の事にもよく通じておられたが、何か不審を抱かれることがあると、労を惜しまず自らも調べ、人にも調べさせられた。「世俗の人はよく誤った呼び方をする。僕が幼年の時に、番頭の政七老が、むかで（百足）のことを、むかぜと教え、月村が来た時に、あかざ（藜）のことを、あかだと教えた。一度覚え込むと、それが誤りであると分かってからも、時々錯覚が起きて迷うことがある」と言われて、物の正しい呼び方なども納得の行くまで調べて、坐右の人に教えられた。
ある時、二三の人と句会の前の一盞を傾けて居られたが、先生がお刺身のツマの大根を、しきりに食べて居られるので、「先生、ケンばかり上がらないで、お刺身もお食べやす」と言った所、「ふーん、これをケンとも言うのか」と不思議そうに聞かれるので、「家の者はそれを皆、ケンと言っています。出入のお魚屋も、料理屋もそう呼んでゐます」と答えると、「それは初耳だ。僕は、ツマと言うだけかと思っていた。どういふ意味でケンと言うのか、調べてくれ」それで念の為、料理屋へ問い合わせるとツマとは言いますが、主にケンと言っています。とのこと、早速、大辞典を取出してきて、ケンの部にさっと眼を通したが、それらしいものが見当たらぬ。先生は、ケンのつくところを全部見よといわれるところが、試みにケンの音数を先ず繰って見ると十八頁もある。これを詳細に見るにはとても三十分や一時間では、私には読めないのでその旨答えると「ふん、そうか、そんなら君は今夜は句会に行かずに僕達が帰ってくるまでにそれを調べておき給え」とうとう句会には行けず頚が痛くなる程調べたが、何の手掛かりも得られず先生の報告に「ケンは大根を細長くきざんで水に晒してあるのですが、丁度見た眼が剣の様だから、ケンと言うのと遠いますか」と言ったところ、「それは君の解釈だろう、そんな曖昧な事ではいかぬ」と一蹴された。それ以来、少々シャクだが私もツマと讀んでゐる。
同人の雑誌や組みなどについても、編集の任に当たってゐられる人に随分やかましく言われるので、「先生は、むつかしおますな」と言うと、「当り前だよ、俳句のような短い詩は一字違っても変なものになる。誤植があったり、又間違った事を書いていては、何千かの同人諸氏に済まぬではないか」と言われた。
そういふ先生に日夜師事して、長く勉強をされたのは往年の麝香会の連中であった。句会の清記など皆きれいで気持ちが良かった。中でも、千燈、凡水、涼舟の三氏は、文字や仮名使い等も正確で、辞書の如き存在であった。
先生は、かねてより、エヂソン翁の功を称えておられたが、戦前の或年に、壷中会の吟行で、先生のお供をして、八幡の石清水八幡宮へお詣りしたところ、そこの山上の展望所に、エヂソン翁の記念碑があった。エヂソンが電球を発明した時に、八幡の藪の竹を用いたと言うゆかりから、その徳を称えて建てられたもので、エヂソンの胸像が浮刻されておりその下の方にエヂソンの言葉が彫られていた。私達一行は先生にならって、その像に一寸お辞儀をし、そして碑文やエヂソンの言葉にも一応は眼を通したのだが、眼下に展けた三川合流の眺望の方に気を奪われて、直ぐに碑の前を離れてしまった。しばらくして気がついて、先生はと見ると未だ碑の前に立っておられる。声を掛けると漸く皆の方へ来られたが、何故そこに一人で長く立って居られたのか不思議に思いつつその場は過ぎてしまった。
それから数ヶ月後、ある句会の席で、先生が「君はエヂソンの記念碑に刻まれていた翁の言葉を覚えているか」と問われたので、「さあ、読むことは読みましたが、はっきりと覚えていません」と答えると、「僕は、大体覚えているが、同人にあれを載せたいから君すまぬが明日の朝行って、一字一句も間違わぬ様に、書写して来てくれ給へ」「はい」と引受けたものの、夜更かしに馴れた眼には眠ってしまへば、早朝に起きる自信がない。と言って、先生は何でも言出されたら性急である。致し方なく、その夜は一睡もせず、朝、一番電車で出掛け、写して帰ったが、後日同人にそれと共に先生の短文が載せられてゐた。
折角、書写したその文も今は又、うろ覚えとなったが「如何なる発明も九十九パーセントの努力と、あとの一パーセントの霊感によって成し遂げられるのである」と言うような文意であった。
先生はエヂソンの様な大発明家ですらも、且つ九十九パーセントの努力を傾けられると言うことに対して、いたく感動をされたので、その事を書かれたのであった。 さきの吟行の時に、長く立って居られたのはその感動のためであったと言うことが、その時になって私には分ったが、そういう大切な教えを心に止めず、うかうかと読み流してしまった不明と努力の足りなさを、私は恥ぢ、且つ悔いた次第であった。
（昭和31年9月号）