大橋菊太集

 

 

 

亀田小蛄の「菊太君の思い出(下)」より

 

 

 大正五年四月九日「カラタチ」の第三回例会を天王寺逢阪の安居天神社社務所で開催された。故人伏兎会況を記して曰。

 この日久しく句会へ出席せざりし月村、田庭君等の来れるあり、殊に当今花形の菊太君病気の為カラタチ句会の最初より一度も顔を見ざりしが気分追々にすぐれたると別段の快晴なれば迚も我慢の出来かねたものか遂に通し俥にゆられながら来る。

とあって、最高点であって

  熱の舌に春惜まるる蜜柑かな     菊太

  国の客に住吉見せつ春行く日     同

  干鯊に埃積むまま暮の春       同

は席上吟であったが、第二回競吟には中座の已む無きに到った。五月号の「カラタチ俳句」に

  春の燈に心残して中座かな      菊太

となったが、依然首位菊太、次位白花蛇(宋斤)、草狐亭、飛雨の順であった。それらと其のちの句

  野を見たきあまりに活けし花菜かな  菊太

  火燵ぬきしうれしさ何と句にすべき  同

  東風が吹けば又花迄と祈りけり    同

  あとで見れば我句は淋し草の蝶    同

  心ひろき人は尠なき袷かな      同

  四月には旅に出でまく思ひしが    同

  遠浅を舟迄渉る日傘かな       同

  干蚊帳の裾を掠めつ苜蓿       同

  生涯を疎まるる蜘蛛の子なれ     同

  若楓亦二三日降る雨か        同

  苺買ひに出しが寝てゐるどの店も   同

 四月には旅に出でまく思いしに、わずかに菜の花を活けて心を慰めつ、其の他いずれも病床の吟見るものの心を傷ましむるものではなかろうか。そうして春をおくり夏に入り、その夏もだんだん闌けて行くと、

  誰も来てくれずなり夜は蚊が居りぬ  菊太

  百合活けて描くべかりし日は経ちぬ  同

と「カラタチ俳句」にあるようになって一抹淋しさが現れて来たのである。それでもその最後を飾った課題選者となって七月号を飾った選者吟

  逢うた夜の嬉し羅小寒きが      菊太

  羅の膝も崩さぬもの足らぬ      同

  羅や女逢ふたびふくよかに      同

 (看劇)羅でよく来たことと思ひつつ  同

  羅や妬みの中に交りゐる       同

 よく作者が出ている。又選者推薦と其の出題、この薄幸な病詩人を哀れんだ主幹の思いやりでもあったろうか。句にある芝居好きで其の短文にも

 みんしは淋しい女形であった。ねちねちしていて生々しい娘に扮った正朝(おほはしや)、今生きていればと思う五七(かがや)の女房姿が眼に泛ぶ。福助、魁車、もっと女形が欲しい。新派では児島文衛が奇麗な本当のような女に見えたが夢のように死んで了った。

  春の燈に人を酔はして夭折す     菊太

  夕顔のやうな顔して女形かな     同

とあった。此趣味は『寶船』の故塚本虚明君と一致していた。玉七の追悼記や文衛を惜しむ記があり、共に義太夫好でもあり、両々多感な游士でもあった。

 さはれ

  箒木は暑さに堪えで枯れ見する     菊太

  夜の暑さ折々橋の響き聞く       同

  いつしかに朝も暑き今日となりぬ    同

などこの歳の暑さは余程こたえたらしい。又異常な俳句への精進などが病勢を進ましめたものらしく、ついに八月二十日眠るが如く逝かれたのである。当時痛惜された斗翁の追悼吟を今一寸思い出せないので、その菊太選に斗翁自ら出句被選の句を此処に掲げて、以て故人の冥福を祈る事にする。合掌。

  羅や二十四五にはなるまじき      月斗

  羅の古きを云ひぬ小さき紋       同

  羅や子あると誰も見ざるべく      同

 

因曰。菊太句集を編まんとせし備中の井上蘆仙君、大阪の久世車春君今や共に亡し。噫。殊に故人は車春を深く思っていた「罅」の一文さえある。

 (『春星』第五巻第三、四号より)