正気先生子規忌挨拶より
昭和六十一年九月 神明会館にて
「わたし、病人らしい? あ、そりや困るナ。病人は病人らしいのはいい。病人くさいのがいかんのや。ね、年寄りは年寄りらしいんはいい。年寄りくさいのがいかん。俳句も俳句らしいのがいい。ね、俳人らしいのがいい。で、俳句くさいのがいかんのや。俳人くさいのがいかんのです。」(音声終わり)
今年は子規の何回忌? いいや、算数落第ぞ。明治三十五年九月十九日。私は明治三十七年だからね。二つ違いです。だから私今年数えの八十三歳だから八十五回忌じゃね。
ハイ、皆さん、これ憶えがありますか。憶えのある人は手を挙げて。憶えがない? みんないかんぞ。正宗寺、去年行ったろうが。の庭のところに、今門を入るとすぐのところにあるでしょうが。埋髪塔。これは今日光雄君がわざわざ大阪から持ってきてくれたんです。これ、私が非常に思い出があるもので。この軸(拓本)はこの頃は大分変わりよる。ずっと明治以来、大阪では萩の寺でね。豊中東光院。萩が立派だから萩の寺で通っています。あそこで子規忌するときには、これ掛けてあった。三十年この道遠き子規忌哉ね。三十回忌はいつ?。八十五引きの三十、イクオール何ぼ、五十五年前。六十引くの五十五。六でしょう、昭和六年。に先生書いたんや、これね。摺ってきたのこれ、鉛筆で摺って来てるけど、今は私には汚のうなっとるね。表がこうつるつる。あれはたしか大正十二年かそこ頃よ、これ摺って来たのは。そしてあとからね、この三十回忌のときの、私はいつも提げて持って来るでしょ、あの、月斗先生が、雁来紅今も昔の色見せつというのね。あれ(拓本)は、摺って正宗寺から売り出したんですよ。ところがもう滅茶苦茶になるもんだから今もう止めてます。これはまだそれがない時代の鉛筆で、私にはなかなか思い出の深いものです。
子規堂。行かれましたね。もう子規居士には会えられん。私が生まれたときはもう三回忌だから。子規居士には会えませんけどね。その次にまあ写真も親しいけど、その人の書いたものですね。書いたものには精魂が篭んでいるからね。その人に会えんけどね、非常に影響があるのです。俳句がうまくなるのは、ただ勉強して作った、とかだけではうまくならん。やっぱり子規なら子規に触れることがね、非常に大きな勉強になる。まあここから松山は日帰りできますから、俳句の勉強には、そういう勉強も要るという事を一つ皆さん知ってください。この頃の教育なんかには忘れられていることです。
今日ちょっと子規の短冊もって来てます。これはたいてい子規の三十三年の、三十四歳の書と思う。なかなかうまいね。何ともうまい。三十四歳ですよ。そういう風な勉強が要る。(以下略) (録音筆記より)