2006.7.2

正氣句会挨拶より

二、

 

4.  子規忌挨拶より(録音筆記)昭和六十年九月

 

 子規居士がなくなったのは、明治三十五年。私が生まれたより二年早く亡くなられました。今年で八十四回忌になります。私が数えの八十二だから。ところが子規居士はね。この頃は満だから、年表なんかで見ますとね、慶応三年生まれだから三十六歳でなくなった。慶応三年を新暦で計算したら、亡くなった年も入れるでしょ。ところがあの人は生まれたのは新暦で十月に生まれた。だから満では三十四歳で亡くなったことになる。

 (選句に関しては略。師について。)

 この作者は、老大の吟行でどこかに行って、見たら一切季題がない。いかんというたら、季題がわからんという。歳時記買うたらわかるというたら、その帰りに早速駅前の本屋で歳時記買うて、今度から季題を入れるといった人です。素直にいうことを聞く。というていつまでも、非常に何もかも先生がこういうたからこうというのは、考えにゃいけん。その時期が大事なんです。あるところまでは、その先生の言うことを素直に聞くのがよろしい。今はそれがよろしい。しかしいつまでもは、それはいかん。始めのうちは鵜呑みでいいですよ。それで、最初の先生が非常に大事なんだ。これは前世のあれやな。宿命じゃな。もう最初の先生に、ええ先生に就くのは非常に幸福だ。初めからでないと、なかなか、それは抜け切るのは苦労しますよ。私らがもう六十何年前じゃが、青鼓とか里鵜とか丈義とか、文壇の福田清人とか、あの連中、こりや俳句作りいと作らしよった時分のことを思えば、抜け切るのは。

 始めは先生の言うことをよく聞く。素直に聞く。ある程度いったら、やっぱり疑問持たにゃいけない。そして先生と勝負するんや。勝負はね、理屈で言うては駄目なんだ。たとえば、日永が春じゃったら、一目は二十四時間から日永引いたら、夜は短くなろうが。というたら短夜の方が算数的に言うたら勝つんだ。そしたときは、どうしたらいいかというとね、そのときちょっと分からんときには、先生にディスカッションをする。ディスカッションとは、いつも言う通り、負けた方が儲かるんよ。討論は勝たにゃいけないが、負けた方が分かったときは、勝った人の高さまで行くでしょ。負けた方が儲かる。勝った人はプラスないんだ。ディスカッションはよい意味の水掛け論。それから一週間経ち、半年経ち、三年先になっても勝ってるときは、勝ったつもりでよろしい。十年先になったら、ありややっぱり先生の言うのがはんまやなあと思ったときは、それで成長するんや。

 そんなんはフロックでは駄目なんだ。それで持続せねばいけない。玉泉申す、今日不在明日不在という言葉がありますね。屁理屈言うのに、今日不在明日不在、お前の話に聞く耳は持たん。明日も来ても持たんよと。そういう時は、やっぱりね、自分で自分と戦うて、やっぱり真剣に戦うて、その上で、十年経ったり、二十年経ったりして、なるほどああ言うてたが、やっぱり先生が言うてたがほんまやなあと思う。思うことがある。

 (選句など略。用語について)

 写生は俳句の大道なりというてね、ホトトギスの原月舟が、私が俳句を始める少し前くらいだ。大正の中ごろ、池内たかしなんかは純客観写生の俳句いうてました。写生しますとね、どうも言葉がね、あらけるんだ。そういう時は造語ということになる。しかし造語というのは、よく考えませんとね、もう今まで何百年、何千年も、何百万という人がだから、よくよくのことでないと成功せんわけよ。その言葉使わんかったんだから。そないにえらい人は少ないよね。それが、造語作るような言葉はね、もう今ごろはすぐ真似るからね。造語が面白いからと、雑誌で巻頭に採ったりしています。読んだ人は、ああこの言葉がええのだと思う人が非常に多い。もってのほかですよ。

 (略)特選には短冊を出します。どうも私は字書くのが根気がちょっとなくなって。私の短冊欲しい方は、月斗忌と子規忌にぜひ出席して下さったら、そして特選に入つたら、何ぼしんどくても短冊を書きます。お約束しておきます。(略)

 

 

 

 

5.  月斗忌挨拶より(録音筆記)昭和六十一年三月

 

 立ってても話出来るんですがね。えらい辛どそうな恰好していて皆さん済みませんでした。何にしてもですね、まあ死ぬよりは歩けん方がましじゃろうと、これは私の精神的ですが、算数でやるとそういう風になるんです。冬は困ったもので、ほとんどベッドで二十時間、おこたで四時間、もう足腰がさっぱりなんです。温くなったら、もう泳ぎには行けんのははっきりして、時々歩いてみたいと思っています。ちょっと息せき切っていますが、動かんからで、心電図取ったら、これも全部が全部当てにはならんけど、まず心配ないので、息をふうふう言いながらでも心配しないで下さい。

 今年は先ほど司会者が言ったように三十八回忌、昭和二十四年三月十七日夜に亡くなられました。その時はこれの弟の男児を見舞に連れて行って、島春君は新制高校の二年生だったかな、葬式は島春君と。そうそう寒かった日だったな、密葬のときは一人で行って参りましたが、早いもんですね、もう三十八年。私が月斗先生の弟子になったのが大正九年、ざっと三十年ですが、こっちのほうが長いだけ、早く経ってしまっている気がします。

 私は前にも話したことがあるように月斗先生の旧門下、ごく僅かしかもう残っていませんね、季観君もそうじゃね、先生知ってるのもう少ないんです。大阪でも少ないね、私はしかし天才と言われた谷村凡水、あれは天才だ、正氣は天才でなく奇才の方で、奇才縦横と言われていましたから。凡水君はなかなか先生の言うことよく聞くし、先生が大阪にいる時分、寒の内でしたか、おい凡水水かぶってみい気持ちええで、そしたらハイといってかぶってあとから風邪引いてる。正氣はなかなかその手に乗らん。しかし私は不肖ですが「月斗忌や不肖の弟子の感多少」私は月斗先生を崇拝することは他人に負けんつもりです。先生は信用して下さって私だけはどんな俳句作ってもええ事になっていたんです。私は月斗先生をあくまで崇拝すると同時に、本当に崇拝するとは、前に蕪村の話で申しましたように。月斗先生よりも上の作家になることが一番月斗先生のため、私はそう思うとります。なかなかに道遠くして及びませんが私はそんな積もりで努力しております。先生もそれを喜んでくださると思います。三原は全国から言うと片田舎の小さな町ですが、先生は「同人」がいよいよ戦争が急になって、私も「桜鯛」というのを出してましたが、俳句雑誌はあかんということで大きな県で一冊に統合されてしまった。月斗先生は大阪で一応中心人物で推されていましたが、先生止めてしまってもう他の人に任せてしまった。そして同人の終刊。こんなに戦争に負けてこんな時勢になるとはみんな思っていなかった。日本人は皆百年戦争に突進してた。先生はその時にこの片田舎の正氣に、大阪はもう人がない、正氣、田舎でやってくれと葉書がきました。大阪の人が月斗は大阪のものと決めているのにと発表しなかったが、はとんど故人になったので。月斗忌も追悼句会以来三十八回続けている訳でございます。

 今日は岩国の方も見えているので、私の俳句観を申し上げたいと思いますが、「春星」の望むところ、目指すところを、今日は吉名からも来てるね、吉名の田谷小苑さん、去年はもう来てなかったね、おとどしまで来て居られたが、あの人は春星でご存じの通り、以前に腸にポリープ出来るしその上舌癌、これはまた辛い。引き続いての大病、これはもう肉体的には苦痛。小苑さんは僕より一つ上、明治三十六年生まれや、数え年八十四才。あの年でね、しかし春星作品見てびっくりしたでしょ。あれを頑張ってやられた。もう実際私はね、宗教の人達の悟りに負けない悟りだと思う。そしてあの精神的恐怖と肉体的苦痛のなかで色々のことやったが、俳句で助かったと私に礼状くださるくらいですから、有難いことでね。本当死ぬときにね、精神力でこっちなるか、あっちなるか、主治医がよく言うでしょ、手術やったらこれから先は患者さんの精神力だと。言うのは楽だけど実際なってみなさい。なかなか成れませんよ。私はあんな俳句を志しています。その為には、なかなかああなろうと思っても俄かになるものではない。精進して、ああいう風になりたいと私も思いますし皆さんも納得されるでしょう。

 序でにどうしたらそういうように成るかと云うと、俳句が上手にならなければ、上手とは語弊がありますが、上手、こう高いやつを。上手と世間で言いますね、いわゆる世間で言う上手でなく、高いやつの上手に成れば成るほど俳句がわかる、人生がわかる、そして造化の神の美がわかる。よう分かった積もりでも、なかなか何ぼでもあるんですよ。そしてから彼岸の問題色々言ってますけど、彼岸なんかだんだん精進して信仰が篤くなると、彼岸は近くなったら遠くなるんですよ。彼岸は近くなったら遠くなる。自然の美でもね、よく分かるようになるほど分からんようになる。というのは分からんことが分かって来るんですね。分からんことが分かってくるからだんだん遠くなるんだ。それで俳句が上手になる方法、俳句はなかなか分からんと思うけど、もっともっと分からんようにならねば駄目ですよ。そのため私は、俳句はだいたい作り物ですけどね、人間の。たとえば生まれつき視覚がなかったら分かるんでもなかなかだ。花の美しさはなかなか。造型派等ありますが、出来るかと思う、ものが見えなくて造型がね。それで何の花と何の花となら、こちらが奇麗だと思うが、それもだんだん年取ってくると、年取る言っても餅の数だけでは駄目ですよ、本当の年取ってくるとちょっと変わってくる。その変わり方も美の深さが分かるのと、何かのことで変わるんだ。たとえば値段が高いのが上等だとか、数が少いから上等だと思ったり、でしょ。たとえば金と赤銅とあった場合、金のほうが高い価値を持つ。良いものは良いんですよ。私は造化の神というものはね、何でも美しく作ってるような気がする。皆さんも俳句始めた時分と、季題など知ってもうすっかり違うでしょう、全然知らぬ時代と。私が経験したことは、「桐の花」という題出したときに桐の花知らんかったが、それまでにも見とるんですよ、桐の花。知らんじゃったんだ。ところが桐の花という題作ってから、今度桐の花が咲いていると何か身近かになる。そんなに何でもなって来る。そしてだんだん何でも知ってくる。皆さんは何でも見てる積もりだけど、も一つ自然は、自然の造化の神は美しく作ってるんだから、一つ美しく見ねばならぬと言うのでないが、つくづく見てみなさい、非常に美しくなる。花を見てその名を知るには図鑑を引いたり名前知ってる人に聞きなさい、名前をね。うち来る人でも植えてるもの奇麗ですねという人は、まだほんとに奇麗と思うとらんね。これ何という名ですか、ね。宴会でも芸者さんなんか奇麗と思ったときは、君何ていうのと聞くんで、名前も聞かんのは問題外や。

 名前を知る事は理解であって、味解ではない。しかし味解には過程として理解が要る。花の名をたくさん知っててこれは何と知ってる人でも知ってるだけで、知らん人よりはましだがぱっとせんのがいる。一つは今の教育がそうなっている。教育は算数的になってる。春星に毎月書いておられる富山先生ね。学生さん連れて芭蕉展に行った。注意された人は覚えていると思うけど、休憩室に入って、先生が皆に一番感動したものの感想をと求めると、それならもう一遍見てきます、とね。行く学生達はいわゆる学校の成績は優を貰う連中で理解してるだけ。本当に感動を受けていない。感動することが第一ですよ、たとえば酒を飲んでコク、香り、アルコール度がどう、これらは理解で、味解は味なんだね。味ですよ。それで俳句は、俳句を味解するためには、その前の理解が要るんだ。しかし今の学校、昔もそうだったが、理解のほうでだけ点数を付ける。味解は試験できる先生が居らん。また先生自身味解迄行く先生が少ない。

 中学時代に岡田という早稲田出の国語の先生がいたが、中学のとき好きな先生は少なく、その先生好きな先生の一人でしたが、俳句が出ると、おい、君が良かろうと僕に解釈させる。ところが試験で答案書くには先生のほうの理解の方がいい。味解では試験は駄目。その岡田先生には大分文学的に指導受けたが、味解は書かれんね、書こう思っても。奥の細道の「風流の始めや奥の田植歌」が試験に出たらどう書く。答案書くとき、風流はみやびらかのことで奥は現在の奥羽地方のこと、ではなく、風流なもの書くと困るんだ。非常に困る。外国語の翻訳でもそうですよ。俳句はだいたいそんな味解が要る。それでもっと極端なこと言うたら、嘘を上手に作る、嘘は自然の姿、上手は良き意味の上手に作ること、これをやることです。

 今日は岩国からもはるばる来てくれているので、僕はもう地方巡業出来んから、特にその人マークして話ししてるんだが。私割合経験して成功してるような気がするのはね。小動物をよく観察し、観入し、俳句にしなさい。動物のはうが植物よりも楽で、そしたら見方が深くなります。それからこの間もうちの土曜会でも話したが、春雨の題が出て、どうも五月雨の方がええんだけど今日の題が春雨だからと春雨の句にするのはいけない。句作るときは春雨の題でもこの句五月雨の方が良いなと思うときは、その句は副産物にしなさい。ルールとして句会では五月雨で出したらいけませんよ。それは句会のルールであって大事なことは良い句を作ること。私は田を作り、詩を作れと言うほうですが、そうなければいかんと思いますが、暇を作って成る可くなら句会に四回行った積もりで、数はまあ百句作る積もりで勉強しなさい。その位やらねばなかなか年取るだけで割合成長しませんよ。これは私の実際論であって、四回も行けぬ人はそんな積もりで句会やりなさい。自分一人でもええ、誰かと二人なら対座吟。句作ったらね、もう無茶苦茶俳句やな、そのときも推敲してるんだろうが、また日を置いて、翌日か翌々日。自分が作った句は自分のものでも、文学作品は一遍離して見て自分が他人になって、また友達に聞いてもいい。そしたら独り善がりか、あまりに当たり前事かがだんだん分かってくる。芭蕉は「舌頭に千転せよ」という。作り捨てが非常に多い。こんな事云うたちゃ空念仏で、なむあみだぶつを千べんいうより真心から言えという様に、自分でやっぱり練るんですよ。この頃独り善がりの句が多い。これは独り善がりのものは、個人的に楽しむには良いが、そんな小乗俳句では駄目だ。もっと大乗的にね、自分が楽しむと同時に良い句作ったら人が喜んでくれるんですよ。句会のとき、良い句あったら嬉しいでしょ。これが文学だ。人が喜ばんようないわゆる小乗の自分だけ楽しんでは駄目。そんな積もりで。余り時間とってもいけないので。一つよろしく。

ま、ちょっと二人はね、後からまだ話があるから。

 

 

 

 

6.  子規忌挨拶より(録音筆記)昭和六十一年九月

わたし、病人らしい? あ、そりや困るナ。病人は病人らしいのはいい。病人くさいのがいかんのや。ね、年寄りは年寄りらしいんはいい。年寄りくさいのがいかん。俳句も俳句らしいのがいい。ね、俳人らしいのがいい。で、俳句くさいのがいかんのや。俳人くさいのがいかんのです。

 今年は子規の何回忌? いいや、算数落第ぞ。明治三十五年九月十九日。私は明治三十七年だからね。二つ違いです。だから私今年数えの八十三歳だから八十五回忌じゃね。

 ハイ、皆さん、これ憶えがありますか。憶えのある人は手を挙げて。憶えがない? みんないかんぞ。正宗寺、去年行ったろうが。の庭のところに、今門を入るとすぐのところにあるでしょうが。埋髪塔。これは今日光雄君がわざわざ大阪から持ってきてくれたんです。これ、私が非常に思い出があるもので。この軸(拓本)はこの頃は大分変わりよる。ずっと明治以来、大阪では萩の寺でね。豊中東光院。萩が立派だから萩の寺で通っています。あそこで子規忌するときには、これ掛けてあった。三十年この道遠き子規忌哉ね。三十回忌はいつ?。八十五引きの三十、イクオール何ぼ、五十五年前。六十引くの五十五。六でしょう、昭和六年。に先生書いたんや、これね。摺ってきたのこれ、鉛筆で摺って来てるけど、今は私には汚のうなっとるね。表がこうつるつる。あれはたしか大正十二年かそこ頃よ、これ摺って来たのは。そしてあとからね、この三十回忌のときの、私はいつも提げて持って来るでしょ、あの、月斗先生が、雁来紅今も昔の色見せつというのね。あれ(拓本)は、摺って正宗寺から売り出したんですよ。ところがもう滅茶苦茶になるもんだから今もう止めてます。これはまだそれがない時代の鉛筆で、私にはなかなか思い出の深いものです。

 子規堂。行かれましたね。もう子規居士には会えられん。私が生まれたときはもう三回忌だから。子規居士には会えませんけどね。その次にまあ写真も親しいけど、その人の書いたものですね。書いたものには精魂が篭んでいるからね。その人に会えんけどね、非常に影響があるのです。俳句がうまくなるのは、ただ勉強して作った、とかだけではうまくならん。やっぱり子規なら子規に触れることがね、非常に大きな勉強になる。まあここから松山は日帰りできますから、俳句の勉強には、そういう勉強も要るという事を一つ皆さん知ってください。この頃の教育なんかには忘れられていることです。

 今日ちょっと子規の短冊もって来てます。これはたいてい子規の三十三年の、三十四歳の書と思う。なかなかうまいね。何ともうまい。三十四歳ですよ。そういう風な勉強が要る。(以下略)  

 

                                                                                  

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